先祖代々暮らしている国から自国民と認められず、労働や教育、移動、婚姻などの自由を奪われている人々がいる。ミャンマー西部ヤカイン州のイスラム系少数民族「ロヒンギャ」だ。ロヒンギャの避難民が今年1月、タイで軍に拘束され、わずかな食料で海上に放置された問題は、国際的な注目を集めた。生存者は軍から暴行を受け、インドネシアに漂着するまでに20人以上が死亡したと証言したのだった。日本に暮らすロヒンギャの人たちを訪ね、難民に対する厳しい現実や祖国で受けた迫害などを聞いた。
「難民申請をして4年になる。申請の結果が早く出るよう、政府にお願いしてもらえませんか? 仕事も在留資格もなく、生活ができません」。特定非営利活動法人「難民支援協会」(東京都新宿区)が2月23日、ロヒンギャを対象に群馬県館林市で開いた生活相談会をのぞいた。約20人が集まり、男性(31)は声を詰まらせて訴えた。昨年12月、勤務先の工場から、同胞15人と共に解雇された。家賃4万円のアパートに4人で暮らすが、貯金10万円ももうすぐなくなる。
館林市には、先住者を頼ってロヒンギャが集まるようになり、現在約160人が暮らす。だが雇用情勢の悪化で、うち9割が昨年末から失業した。約半数が難民申請中で、就労が認められない「仮滞在」などの身分のため、再就職先を探すのは難しい。
男性はヤカイン州出身。88年ごろ、軍の兵士が村に来て、税を納められない村人を拷問した。10代の少女たちはレイプされた。94年8月、15歳の少女を連れて行こうとする兵士を、少女の父親が止めようとした。仲介に入った男性の兄は、銃で撃たれ殺された。
兄を助けようとしたこの男性は、刑務所で棒で殴られるなどの拷問を受けた。1カ月後、家族が軍にわいろを渡し、解放された。バングラデシュ、タイ、マレーシアと約10年間、転々とした。しかしどの国でも、同胞たちが不法滞在を理由に拘束された。マレーシアでは、国連から交付された難民の登録カードを持っていたのに、警察に捕まった。
05年12月、友人からお金を借り、ブローカーに8000ドルを払って日本へ入国した。難民申請をし、塗装工として館林市で働いた。難民審査のための入管の面談は8回受けたが、4年たっても返事はない。
難民認定されるには、民族、宗教や政治的意見などによって迫害を受ける恐れがあると証明しなくてはならない。すでに、申請中のロヒンギャ約90人のうち30人は「ミャンマーで少数民族であることのみを理由に、迫害を受ける恐れがあるとは認められない」などとして申請を却下された。
30人は、国に却下の取り消しを求め、東京地裁や大阪地裁などで集団訴訟を起こしている。在日ビルマ人難民申請弁護団は、国連などのリポートを基に、原告が難民であると訴える。
訴状などによると、ロヒンギャは15世紀ごろからヤカイン州に住み着き始めた、インド・ベンガル地方の商人などの子孫とされる。軍政は60年代から、ロヒンギャが分離独立闘争を画策しているとして武力鎮圧を開始し、82年の国籍法で国民から排除した。強制労働や財産没収の迫害を受け、国内の移動や教育も制限されている。
90年代には隣国バングラデシュに数十万人のロヒンギャが流出した。数万人がタイやマレーシアへ小舟で渡ったが、拘束されたり強制送還され、05年ごろから多くが日本へも来るようになった。07年9月、弁護団はバングラデシュを視察し、ロヒンギャが日常的に国境を越えて逃れてくる様子を目の当たりにした。
国は08年12月、東京地裁での訴訟で、一定の迫害は認めた。しかし、生命の危険を及ぼすほどのものではないこと、ロヒンギャだけを対象にしているものではないことなどを挙げ、難民ではないと主張した。
弁護団の渡辺彰悟弁護士は「欧米では、基本的人権の侵害が続けば『迫害』と認められる。申請者が『ロヒンギャ』に属するだけで難民認定が出ている」と強調する。ロヒンギャをミャンマーへ送り返すことは、あまりにも非人道的だ。
弁護団によると、これまで11人のロヒンギャが日本政府の難民認定を受けたが、申請者の政治的活動が理由で、ロヒンギャだからではない。そもそも、年間数千人規模の難民を受け入れる欧米諸国と比べ、日本は数十人と極端に少ない。「難民鎖国」と皮肉られるゆえんだ。
タイ軍による海上放置の問題を受け、2月末、東南アジア諸国連合首脳会議で、ロヒンギャ問題が初めて協議されたが、具体策はまとまらなかった。渡辺弁護士は「日本がロヒンギャを難民として受け入れれば、この問題で国際社会で主導的役割を担うことができる」と期待を寄せる。
原告の1人は私の取材に、実名で話せないことを悔やんだ。難民申請が認められず帰国しなければならなくなった場合、危険が及ぶ可能性があるからだ。「本当なら顔を出して訴えたい。世界から忘れられた存在にだけはなりたくない」と私のカメラを見つめた。「どこに行っても私の存在自体が法律違反になってしまう。どうすれば、一市民として堂々と道を歩けるようになるのか教えてほしい」。私に問いかけた悲しそうな顔が忘れられない。
毎日新聞 2009年3月25日 大阪朝刊