kajougenron : hiroki azuma blog
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ここは、批評家・東浩紀が運営するブログです。東浩紀の経歴や業績については、hiroki azuma portalをご覧ください。
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シンポに向けてのメモ
投稿日時:2008年01月20日18:27
自分用のメモ。いろいろあって、自分の政治的立場について考えてみた。
右翼も左翼もなんらかの物語を信じている。しかし、そういう立場は、ちょっと考えるとなかなか取れなくなる。というのも、だいたい人間の思想なんて歴史的に反復されているし、どの時代をとってもいろいろな立場があって、似たような論争が繰り返されていることがすぐわかるからだ。
したがって、あるていど頭のいいひとは、特定の物語を信じず、諸物語の「均衡」を目指すことになる。これは保守の立場に近づく(ちなみに右翼と保守は違う)。ぼくが「ポストモダン」とか呼んでいるのもこの立場だ。ぼくのポストモダン観はそういう意味ではきわめて保守主義的だ。
ところで、そういう「均衡」を目指す立場は、原理的に伝統を尊重することになる。なぜかといえば、なにも特定の物語を信じなくても、とりあえず「この社会」がいままで続いてきたという事実性だけは脱イデオロギー的に確保できるからだ。というか、なにも物語を信じないのであれば、それぐらいしか最終的によりどころがない。
しかし、ぼくは——おそらく根がオタクで、しかも1980年代的なポストモダニストだというのがここらへんで響いているのだが——、諸物語の均衡こそ大事だと思っているくせに、伝統を尊重する気があまりない。いままで政治だ文化だと呼ばれてきたものへの尊敬の念が、どうも足りない。少なくともよくそう言われる(『新潮』今月号を見ればおわかりのように)。
ここで、いささか立場が捻れてくる。おそらく、ぼくが採りたいのは、イデオロギーなき革新というか、物語なき進歩主義の立場なのだ。つまり、世の中は変わっていると考え、その変化を基本的に肯定するが、しかし特定の物語は信じず、「諸物語の均衡」にこそ支点を見出すという立場だ。
しかし、そんな立場は可能なのか。どうも難しい。そこで考えられたのが、ニヒルな唯物論というか、技術決定主義というか、つまり、革新や進歩は下部構造によって勝手に強いられているのだから、もうあと人間はやることないんじゃないか、みたいな話なんだろう。どうも、ここ数年、ぼくがリバタリアニズムがどうとか、ポストモダンの二層構造がどうとか言っていたことの根源は、そういうことにあるような気がする。
というわけで、このエントリの結論はなし。ぼくがどうしてこう、イデオロギー的に曖昧、というか普通に見て非常に「ノンポリ」なように見えるのか、ということについて、自分自身で考えてみたというだけの話。
【追記】
家族と買い物に行って、帰ってきて読み直したらなんじゃこりゃと思ったので、続きを書きました。
また長いエントリーを書いてしまった!
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