租借地と租界
 
 租借地  租界  租界一覧  商埠地&公共通商場
 返還後の特別区  返還されなかった租借地  中国以外の租借地  中国以外の租界

戦前の中国には、主な都市に欧米列強や日本の租借地や租界がありましたが、この2つは一体どう違うのでしょう?

租借地

租借地とはその名の通り「ある国が条約で他国に貸し与えた土地」のこと。租借期間中は、貸した国には潜在的な主権があるだけで、統治権は借りた国が持ち、行政・立法・司法などの権限も借りた国にある。借りた国は総督や行政長官を派遣して、植民地のように扱った。

ただ細かな条約内容は租借地ごとに異なっていて、膠州湾と関東州では中国は税関の設置と関税徴収権を持っていたし、関東州ではロシアが租借した当初は、中国人が犯罪を犯した場合は中国へ引き渡し裁判を受けることになっていた(ただし実行されず)。また膠州湾と関東州、威海衛では、租借地のまわりに中立地帯 が設定され、関東州では金州城 の行政権は引き続き中国側に残され、威海衛では威海衛城、北九龍(新界)では九龍城砦 が租借地から除外されて中国領の飛び地として残った。

ちなみに香港島と九龍半島、マカオは租借地ではない。香港島と九龍半島は中国からイギリスへ割譲されたもの。マカオは16世紀からポルトガルが支配していたので事情はもっと複雑だが、当初は租界に近い存在。19世紀末以降は主権は中国、統治権はポルトガルにあるということになった。

中国から最初に租借地を得たのはイギリスだ。イギリスは1842年に香港島を領有していたが、60年の第二次アヘン戦争(アロー戦争)の時に「香港が脅かされるので防衛上必要」を理由にして、広東省から毎年銀500両で九龍半島を租借した。しかし半年後に、イギリスは清朝と北京条約を結び、九龍半島は割譲に改めさせたので、租借したのは半年だけということになる。「租借料を払う」契約をしたのはこの時だけで、それ以後の租借地はいずれも租借料は不要となった。

1897年に山東省でドイツ人の宣教師が殺される事件が起きると、ドイツ軍が青島一帯を占領して翌年租借を認めさせたのを皮切りに、イギリス、フランス、ロシアが次々と中国から租借地を獲得した(表を参照)。
 

中国にかつて存在した租借地
租借地 現在の名称 租借国 租借期間 租借開始 変遷
膠州湾 山東省の青島 ドイツ 99年間 1898年3月 1914年日本軍が占領。22年中国へ返還
関東州 遼寧省の旅順、大連 ロシア→日本 25→99年間 1898年3月 1905年ロシアに代わり日本が租借。15年租借期間を延長。45年中国が接収
広州湾 広東省の湛江 フランス 99年間 1898年4月 1943年日本軍が占領。45年中国が接収
北九龍 香港の新界 イギリス 99年間 1898年6月 1941〜45年日本軍が占領。1997年中国へ返還
威海衛 山東省の威海 イギリス 25年間 1898年7月 1930年中国へ返還
膠州湾、広州湾、関東州は租借国が戦争に負けたので期限前に中国へ返還されたが、イギリスの租借地だけは期限満了まで租借している。威海衛は期限を控えた1921年にイギリスが返還の意向を伝えたが、返還条件をめぐってゴタゴタし、結局返したのは7年オーバーした後。香港の新界(New Territory)は戦後も租借し続け、きっちり99年間借り続けた。

なんともイギリスは抜け目がない・・・と思いきや、イギリスは新界の租借期限が切れたために、本来は返す必要がなかった香港島や九龍半島まで1997年に中国へ返還するはめになった。なにしろ、九龍半島と新界の境目は現在では市街地のど真ん中になっているから、そこに国境線を引きなおして新界だけを返すというのは不可能。空港も下水処理場も発電所も新界にあるし、ただでさえ狭い香港島と九龍半島に香港人700万人がみんな詰め掛けて暮らすのは非現実的。ま、それに香港は経済的にも中国との中継貿易で潤っているわけで、中国が「断固とした制裁措置」を採れば干上がってしまうわけですね。干上がると言えば、香港の飲料水も中国から輸入しているし。時代は変わって、中国とイギリスの力関係も変わったということでしょう。




租界

さてこんどは租界だが、租借地と一体どこが違うのでしょう?
とりあえず大雑把な違いを表にしてみると・・・。

中国における租借地と租界の違い
  租借地 租界
租借期間 決まっている 決まっていない
租借料 払う必要なし 土地の永代借地契約を結び、地代を中国政府または地主に払う
面積 数10km四方で、都市のほかにも山あり谷あり ほとんどが数100m四方で、都市の中の一角
水域 海に面している場合は水域も含む 海に面していても水域は含まない
主権 潜在主権は中国、統治権は租借国 主権は中国、租界設定国には治外法権や行政権
最高責任者 租借国から派遣された総督や行政長官 租界がある都市に駐在する領事
行政機関 植民地と同様に政庁を設置 工部局(日本は租界局や居留民団)を設置するか、領事館が担当
議決機関 総督が任命する評議会など 外国人居留民が選出する納税人大会や参事会、居留民会など
司法機関 外国人も中国人も租借国が設置した裁判所が担当 外国人犯罪は領事裁判所、中国人犯罪は中国側の裁判所が担当
警察権 租借国の警察署 租界設定国の警察署、または領事館警察
徴税権 租借国が有する 地税、関税は中国。租界設定国は住民税、営業許可税など
法定通貨 租借国(の銀行)が発行する通貨(※) 中国系銀行や外国系銀行が発行する中国通貨
中国軍の通行 認められない 本来は認められる
戦時 租借国の領土と同様に軍事使用できる 原則として中立
住民 大多数が中国人 外国人居留地のはずだったが、租界の拡張により中国人が多数に
※膠州湾=独亜銀行発行の青島ドル、関東州=朝鮮銀行発行の円、広州湾=インドシナ銀行発行のピアストル、北九龍=香港上海銀行やチャータード銀行発行の香港ドル、威海衛=通貨発行はなし
天津についで租界が多かった漢口(武漢)の地図(クリックすると拡大します)
租借地は期限が限られているとはいえ租借国の領土と変わらないのに対して、租界は治外法権や行政権がある外人居留地ということ。例えば司法に関しては、租借地だと租借国が植民地並みにほぼ全面的な裁判権を持つが、租界の場合は租界内に住む中国人に対する裁判権は原則として中国側が持ち、自国民に対する裁判権だけが治外法権として租界設定国にあった。もっとも租界を設置していた列強各国は、いずれも中国と不平等条約を結んでいたから、租界の中であろうと外であろうと中国全土での自国民への裁判権を持っていたのだが。

租界設定国にとってのメリットは、自国による警察などの設置や主要都市での自治権・行政運営権が獲得できること。自国や自国居留民のニーズに合わせたインフラ整備(主に道路、水道など)を行い、そのための土地収用や徴税ができることや、衛生や事業認可などを自国民に都合良く行えるようになったことだった。

租界には租借国が単独で運営する専管租界と、複数の国が共同で運営する共同租界 (中国語では公共租界)があった。中国政府(清朝)と条約を結んで開設された租界は下記の通りだが、この他にも当時は特定の国の外国人が集中して住んでいる一角を、勝手に「租界」と称したケースもいくつかあった。戦前の日本人が上海の虹口地区を「日本租界」と呼んでいたのは、その典型的な例。

租界の行政を行う市役所に相当するものが工部局。租界開設当初はもっぱら道路建設ばかり行っていたので、中国語でこういう名称がついたらしい。ただし日本租界では租界局のちに居留民団事務所)、上海のフランス租界では公董局と称していた。天津や漢口(現在の武漢)のようにいくつもの国の租界がある都市では、イギリス租界工部局、フランス租界工部局、ロシア租界工部局、日本租界租界局・・・などの役所が並び、もちろん租界以外の地区を担当する中国側の天津市政府(市役所)もあった。もっとも居留民が少ない都市の租界では工部局は設置されず、その国の領事館が直接担当していたようだ。

また警察も、イギリス租界警察署、フランス租界警察署、ロシア租界警察署、日本租界警察署・・・のように租界ごとに警察署が設置され、中国側の警察は租界に入れず、租界の警察も他国の租界へは入ることができなかった。条約では中国人の犯罪者は中国側の裁判所が裁くことになっていたが、犯人引渡しなどは行われないことも多く、法律も租界ごとに異なったため(イギリス租界でアヘンを禁止しても、フランス租界ではOKなど)、租界は法の抜け穴のような存在だった。一方で、租界は中国内外の政治犯にとって絶好の隠れ場所となり、中国のさまざまな革命勢力は租界を活動拠点にしていた。辛亥革命の後、国民党などの革命軍が代表者会議を開いて中華民国臨時組織大綱を決定した(1911年11月)のは漢口のイギリス租界だったし、中国共産党が結成された(1921年7月)のも上海のフランス租界だった。

このほか租界には各国の郵便局が設置され、外国切手が使用されていた。また各地の租界を中心に、中国政府の金融政策とは無関係に外国系銀行が紙幣を発行し、1921年には中国系銀行の通貨発行高9595万元に対して外国系銀行の発行高は2億1238万元に達していた。これらの銀行は1920〜30年代にかけて経営破綻するものが相次ぎ、紙幣は紙くずと化してしまった。1935年に国民党政府は中央、中国、交通、中国農民銀行の発行した紙幣を法定通貨と定め、中国本土では外国銀行による紙幣発行は停止された。

中国で紙幣を発行していた主な外国系銀行 

銀行名 写真 資本 発行地域 備考
横浜正金銀行 日系 上海、北京、天津、漢口、青島、済南、大連、営口、ハルピン 現:東京三菱銀行
台湾銀行   日系 上海、漢口、九江、福州、アモイ、汕頭 1927年に一時休業。現:日貿信
朝鮮銀行   日系 大連、長春、青島 現:あおぞら銀行
中華匯業銀行   日中合弁 北京、天津 1928年閉鎖
北洋保商銀行   日独中合弁 天津 1921年閉鎖
匯豊銀行(HSBC=香港上海銀行)   イギリス系 上海、北京、天津、漢口、煙台、福州、アモイ、香港 現存。香港ドル紙幣を発行
麦加利銀行(チャータード銀行)   イギリス系 上海、北京、天津、漢口、香港 現:渣打銀行。香港ドル紙幣を発行
有利銀行(インド・マーカンタイル銀行)   イギリス系 上海、香港 74年まで香港ドル紙幣を発行。82年にHSBCが吸収
広東銀行   イギリス系 上海、漢口  
花旗銀行(インターナショナル銀行)   アメリカ系 上海、北京、天津、漢口、広州 現:シティバンク
美国友華銀行(アジア銀行)   アメリカ系 北京、長沙 1924年にシティバンクと合併
中華懋業銀行(チャイナ・アメリカン商業銀行)   米中合弁 北京、漢口、青島 1930年閉鎖
美豊銀行(アメリカン・オリエンタル銀行)   米中合弁 上海、天津、福州、アモイ、四川 1934年ごろ閉鎖
東方匯理銀行(インドシナ銀行)   フランス系 上海、広州、広州湾、広西、昆明 現:カリヨン銀行
中法振業銀行   仏中合弁 上海、北京、天津、漢口  
中法実業銀行   仏中合弁 北京、天津、漢口、済南、汕頭、広州、奉天 1921年閉鎖。中法工商銀行として再建し49年閉鎖
徳華銀行(ドイツ・アジア銀行=独亜銀行)   ドイツ系 上海、北京、天津、漢口、青島 1917年中国政府が接収
華比銀行(シノ・ベルギアン銀行)   ベルギー系 上海、北京、天津、漢口 2005年に中国工商銀行が吸収合併
和蘭銀行(オランダ貿易協会)   オランダ系 上海 現:ABNアムロ銀行(荷蘭銀行)
震義銀行(チャイニーズ・イタリアン銀行)   伊中合弁 上海、北京、天津、漢口 1927年閉鎖
華威銀行(シノ・スカンジナビア銀行)   ノルウェー、中国合弁 北京、天津、秦皇島、昌黎、緩遠、永遵、広州 1926年閉鎖
華俄道勝銀行(ルソ・アジア銀行=露清銀行) 露仏合弁 上海、北京、天津、漢口、営口、ハルピン、新疆各地 1926年閉鎖
大西洋銀行(ナショナル・ウルトラマリノ銀行)   ポルトガル系 マカオ 現存。マカオパタカ紙幣を発行
 


中国にかつて存在した租界

●共同租界
上海 : 1863年英米共同租界として発足、93年拡張、1899年国際共同租界と改称して拡張、1943年中国(汪兆銘政権)が接収
鼓浪嶼: 1902年開設、1941年日本軍が占領、1943年中国(汪兆銘政権)が接収

●イギリス(英国租界)
上海 : 1843年土地を租借、1848年拡張、1854年米仏と行政を統一して租界に、1863年共同租界に
アモイ: 1844年土地を租借、1852年移転、1862年租界として開設、1925年地元政府が接収、1930年中国へ返還
広州 : 1861年開設、1941年日本軍が占領、1942年中国(汪兆銘政権)が接収
天津 : 1860年開設、1897年拡張、1902年アメリカ租界を併合、1903年拡張 1941年日本軍が占領、1942年中国(汪兆銘政権)が接収
鎮江 : 1861年開設、1927年地元政府が接収、1929年中国へ返還
漢口 : 1861年開設、1898年拡張、1927年中国へ返還
九江 : 1861年開設、1898年拡張、1927年中国へ返還
営口 : 1861年開設に調印。予定地の大部分が水没したため実際には設置されず
温州 : 1877年開設に調印。実際には設置されず

●フランス(法国租界)
上海 : 1849年土地を租借、1854年英米と行政を統一し租界に、1861年拡張、1862年単独租界に、1900年拡張、1914年拡張、1943年中国(汪兆銘政権)が接収
天津 : 1861年開設、1900年拡張、1914年拡張、1943年中国(汪兆銘政権)が接収
広州 : 1861年開設、1942年中国(汪兆銘政権)が接収
漢口 : 1863年清朝が開設を承認、1896年開設、1902年拡張、1943年中国(汪兆銘政権)が接収

●アメリカ(美国租界)
上海 : 1848年土地を租借、1854年英仏と行政を統一し租界に、1863年共同租界に
天津 : 1862年開設、1880年中国へ返還、1902年イギリス租界に編入
温州 : 1877年開設に調印。実際には設置されず

●ドイツ(徳国租界)
漢口 : 1895年開設、1898年拡張、1917年中国が接収
天津 : 1895年開設、1901年拡張、1917年中国が接収

●ロシア(俄国租界)
漢口 : 1896年開設、1920年中国が管理、1924年中国へ返還
天津 : 1900年開設、1920年中国が管理、1924年中国へ返還

●ベルギー(比国租界)
天津 : 1902年開設、1931年中国へ返還

●イタリア(意国租界)
天津 : 1902年開設、1943年中国(汪兆銘政権)が接収

●オーストリア(墺国租界)
天津 : 1902年開設、1917年中国が接収

●日本(日本租界)
杭州 : 1897年開設、1943年中国(汪兆銘政権)へ返還
蘇州 : 1897年開設、1943年中国(汪兆銘政権)へ返還
漢口 : 1898年開設、1907年拡張、1943年中国(汪兆銘政権)へ返還
天津 : 1898年開設、1900年拡張、1903年拡張、1943年中国(汪兆銘政権)へ返還
沙市 : 1898年開設に調印。実際には設置されず、1943年中国(汪兆銘政権)へ返還
福州 : 1899年開設に調印。実際には設置されず、1943年中国(汪兆銘政権)へ返還
アモイ: 1900年開設に調印。実際には設置されず、1943年中国(汪兆銘政権)へ返還
重慶 : 1901年開設、1937年中国が接収

他にも租界の周囲には工部局が実効支配するさまざまな怪しい一角 が存在したり、租界のない都市にも租界もどきの怪しい特殊地帯 が設定されていました。

 

租界はアヘン戦争(1840年)を契機に開設され、第2次アヘン戦争(アロー号事件=1856年)や日清戦争(1894年)で、清朝が敗北するたびに増えていきました。

辛亥革命(1911年)で清朝が倒れ、中華民国が成立すると新たな租界の設置はなくなり、不平等条約の撤廃に向けて租界の回収が始まります。まず第一次世界大戦で中国は連合国側として参戦したことでドイツとオーストリアの租界を接収し、次いでロシア革命で帝政ロシアが倒れると、新たに成立したソ連政府は租界の返還を申し出たためロシア租界も接収。そして1920年代には全国的な反英運動の高まりを背景にイギリス租界の接収が進みました。

真珠湾攻撃で日本が米英に宣戦を布告すると、残っていた共同租界やイギリス租界は日本軍が占領し、フランス租界はビジー政権(ドイツのフランス占領後に成立した親ナチス政権)の管轄下にあったため占領は免れたものの、実質的には日本軍の支配下に置かれました。そして1943年1月、イギリスやアメリカが蒋介石政権と治外法権の撤廃や租界返還についての条約を結ぶと、日本も大東亜共栄圏の発揚を狙って2月から3月にかけて汪兆銘政権(日本軍占領地域で発足した中国の親日政権)へ租界を返還することを決定。続いてビジー政権下のフランス租界もこれに従わせ、8月末にイタリアが連合国に降伏したことで天津のイタリア租界も接収。こうして上海に最初の租界が誕生してから100年目にして中国の租界は姿を消すことになりました。
 

  
左:1928年の広州の地図。沙面にイギリスとフランスの租界。 中:1940年の鎮江の地図。 右:1928年の九江の地図。城壁の左下が埠頭の並ぶ旧イギリス租界
 
上海市内地図(1933年) 「共同租界」と「佛租界」があります
上海市内地図(1940年)  
上海租界の拡張 上の年表とは少し「ズレ」があります 
上海共同租界工部局年報(1939年版)  共同租界工部局が発行した年度報告書。その年の施政報告や納税人年会(最高議決機関)の議事録など
最新上海市街地図(1940年) PDFファイル
天津市内地図(1919年)  租界の数が一番多かった都市です
アモイ市内地図(1919年)  左側の島が鼓浪嶼共同租界、右側の台湾銀行のあたりが元イギリス租界です
蘇州市内地図(1919年)  川の南岸の日本租界と並んでいる「外国公共租界」は、実は公共通商場(下述)です
杭州市内地図(1940年)  市街から北へ外れた拱宸橋あたりに日本租界がありました
 
左:上海共同租界の中心地・外灘(バンド)、右:上海共同租界の日本人街にあった虹口(ホンキュウ)マーケット

  
左:天津イギリス租界工部局(ゴードン・ホール)、中:天津ロシア租界工部局、右:天津のアメリカ軍兵舎

  
左:漢口のドイツ租界、中:漢口の日本租界、右:広州のイギリス租界


杭州の日本租界

 



商埠地&公共通商場

商埠地とは、中国政府が外国人の居住や企業活動のために指定した地区のことで、現在の中国でいう「対外経済開発区」等のたぐい。

19世紀末期になると、清朝もさすがに租界によって中国の主権が脅かされる危険性を憂慮して、租界をこれ以上増やさないために、自ら進んで外国人のための居留地や商業地区を設置することにした。特に外国人に道路建設やインフラ整備を任せると、「道路建設費用の調達のため」と称して住民から税金を集めたり、「交通整理のため」と称して警官を派遣したりし始め、行政権や警察権さらには司法権まで奪われてしまうので、清朝は地方政府にあらかじめ道路やインフラ整備を行わせ、中国側が行政権を確保した上で外国人を住まわせるようにした。

このような商埠地(または公共通商場、公共居留地)は、杭州、蘇州(江蘇省)、重慶(四川省)、三都澳(福建省)、長沙、岳州、常徳(湖南省)、蕪湖(安徽省)、奉天(遼寧省)、長春、間島(吉林省)、南寧(広西省)、済南、周村(山東省)など各地に開設され、新たな租界の形成を未然に防止する役割を果たした。


1940年発行の地図。日本軍の占領で大学は閉鎖されたので、「旧××大学」。

奉天の地図(1933年頃)  満鉄付属地の周りに商埠地があります
長春の地図(1933年頃)  満鉄付属地の周りに商埠地があります




返還後の特別区 
天津の市内地図(1940年)。クリックすると全体図に拡大します
租界や租借地は中国に返還されたらタダの中国領に戻るかと思いきや、特別区と称する「中国の特別地域」に移行するケースも多かった。

何が特別かというと、それまで外国人や外国企業が擁していた権利(特権)の一部を認める、従来の工部局などの行政機構を残す、行政機関に外国人職員を置く、公文書は中国語のほか外国語も併記する、裁判所に通訳官を置き外国人の元裁判官を顧問として雇う、従来の税制などをそのまま維持する、外国人の選挙権を認め外国人の議員や委員を行政に参与させる、財政的独立を認め特別区からの税収は特別区で使う・・・などの例があったが、それらのうちどれを実施したかは時代背景や返還の経緯などで特別区ごとに違った。

租界では外国人は自由に土地を売買したり、企業を設立できたが、租界以外では土地を自由に所有できないし、事業の許認可にも外国人には制限がある。そこで租界ではなくなっても、特別区にして「外国人は引き続き土地を買って住んだり、これまで通り商売をしてよろしい」と保障したということ。例えば、第一次世界大戦でドイツが負けて租界を接収された時、ドイツ人が資産を没収されるのは、まぁ仕方がないにしても、ドイツ租界に住んでいる外国人はドイツ人とは限らず、イギリス人や日本人もドイツ租界に住んでいた。そこで当然イギリスや日本は「ドイツ租界に住んでいた他の外国人の権利は保障しろ」と要求するし、中国側もせっかく取り戻した旧租界から外国企業が撤退して寂れてしまっては困るということで、双方の思惑が一致してそれに応じたというわけ。

ただし、租界時代に外国人が持っていた選挙権や行政参与権をどうするかについては、外国人と中国政府との間で大いに揉めた。外国人は「租界が返還されても税金は引き続き払うわけだから、税の使われ方をチェックするためにも行政に参与できて当然」と主張し、中国側は「租界でなくなったのに行政にあれこれ口を挟み続けるのは列強の横暴だ」と主張。それに、そもそも戦前の中国では国会でも市議会でも国民による選挙は行われておらず、議員は体制に協力的な有力者の中から任命されていた。「中国の国情を考えず、いきなり西洋式民主主義を持ち込まれては困る」と、中国側は猛反発した。漢口の租界返還では、返還当時の北洋政府は外国人の参政権を認めたが、北伐軍が漢口を占領し国民政府の統治下に入ると「旧租界では相変わらず外国人に実権を握られている」とこれを取り消して、特別区を廃止してしまった。

さて、時代は下って20世紀末。香港返還で中国政府は「特別行政区」を設置した。従来の外国人の権利はそのまま認め、香港政庁などの植民地時代の行政機構はそのまま残し、中国語と並んで英語も公用語にし、外国人裁判官や弁護士はそのまま認め、従来の税制は変えず、外国人の選挙権を認め、香港の財政的独立を認めて香港特別行政区からの税収は香港特別行政区だけで使う・・・など、中国共産党が世界に誇る一国両制(一国二制度)はトウ小平の偉大な発明!だなんて自画自賛してますが、基本的な発想は何十年も前に北洋政府が実施してたんですね。そういえば、選挙制度の問題だけは中国とイギリスが返還直前に大もめして、「中国の国情を考えず、いきなり西洋式民主主義を持ち込まれては困る」と中国側が頑な姿勢を取り続け、中国は返還時に香港の議会を強制解散したものです。

ちなみに、外国に支配されていた領土の返還にあたって「特別区」のような柔軟な発想ができなかったのが日本政府。具体的にはこちら


租界や租借地等が返還されて設置された特別区

返還前の名称 返還前の統治国 返還年 返還後の名称 外国人の行政参与権 変遷
天津ドイツ租界 ドイツ 1917年 天津市第一特別区 なし 1943年天津市の一般の区になって消滅
天津オーストリア租界 オーストリア 1917年 天津市第二特別区 なし 1943年天津市の一般の区になって消滅
天津ロシア租界 ロシア 1924年 天津市第三特別区 なし 1943年天津市の一般の区になって消滅
天津ベルギー租界 ベルギー 1931年 天津市第四特別区 なし 1938年天津市特別第三区に編入され消滅
漢口ドイツ租界 ドイツ 1917年 漢口第一特別区 行政委員7人中3人が外国人。一定額納税者が選挙で選出 湖北省直轄。1929年武漢市に編入され消滅
漢口ロシア租界 ロシア 1924年 漢口第二特別区 行政委員7人中3人が外国人。一定額納税者が選挙で選出 湖北省直轄。1929年武漢市に編入され消滅
漢口イギリス租界 イギリス 1927年 漢口第三特別区 参事7人中3人がイギリス人。一定額納税者が選挙で選出 外交部直轄。現存せず
九江イギリス租界 イギリス 1927年 九江特別区 「漢口第三特別区と同様」と規定されるが実施されず 外交部直轄。1930年九江県に編入され消滅
膠州湾 ドイツ→日本が占領 1922年 膠澳商埠 財政顧問会、移行公共工程委員会に外国人委員を任命 中央政府直轄。29年青島特別市、30年青島市となり一般の市に
威海衛 イギリス 1930年 威海衛行政区 なし(返還条約で「行政運営に外国人の意見徴収」の項目) 中央政府直轄。1945年威海衛市となり一般の市に
中東鉄道附属地 中東鉄道(ロシア) 1924年 東省特別区 市自治会(議会)や参事会に外国人議員枠あり 1933年満州国北満特別区、36年消滅
廬山避暑地 避暑協会 1936年 廬山管理局 諮問委員会7人中3人が外国人。土地所有者から任命 廬山管理局は現存するが、諮問委員会は1930年代末に消滅

香港

イギリス

1997年

香港特別行政区

7年以上居住した永住権取得者には選挙権あり

現存
マカオ ポルトガル 1999年 マカオ特別行政区 7年以上居住した永住権取得者には選挙権あり 現存
武漢市内地図(1933年)  第一特別区、第二特別区があります。ホントはこの時点では英国租界も返還され、特別区は廃止済み




返還されなかった租借地

ミャンマーへ割譲された租借地:瑞麗江三角地帯 

雲南省の地図(1928年)  
中華民国行政区画及領土糾紛(2000年代) 緑の部分が瑞麗江三角地帯。台湾政府は現在も領有権を主張

これら沿海部の租借地とはかなり異なるケースが、雲南省とビルマ(ミャンマー)との国境の町・南坎(ナンカン)を中心とした瑞麗江三角地帯だ。ビルマはかつて清の属国だったが、1885年にイギリスの植民地となり、国境線が問題となった。1897年にイギリスと清は条約を結び、イギリスは瑞麗江三角地帯が中国領だと承認する代わりに、清はイギリスによる瑞麗江三角地帯の永代借地権を認め、イギリスは全面的な行政権を獲得。つまり、中国が名を取り、イギリスが実を取るような格好となった。

その後、中国政府はこの条約を不平等条約だとして瑞麗江三角地帯の返還を求めていたが、1948年にビルマが独立し、60年に中国の共産党政権と国交を樹立すると、中国政府は「両国の友好関係のため」と称して、同年10月に瑞麗江三角地帯の領有権を放棄し、正式にビルマへ割譲した。

瑞麗江三角地帯をはじめ中国国境沿いのビルマ・シャン州には、国共内戦に敗れた中国国民党軍が大量に逃げ込み、1950年代にはCIAの支援を受けて雲南反共救国軍を組織。雲南省へたびたび反攻作戦を続けていた。少数民族を巻き込んでアヘンを栽培し「独立王国」を築いた国民党軍に業を煮やしたビルマ政府は、「台湾政府による主権侵害だ」と国連へ提訴するとともに、中国政府と国交を樹立した1960年11月には人民解放軍と共同で国民党軍の掃討作戦を実施。1万人以上の国民党軍を台湾へ強制送還させた。中国政府による瑞麗江三角地帯の割譲は、ビルマ政府の国民党ゲリラ追放に対する見返りという意味があった。
ビルマにいた国民党軍の一部は、台湾への送還を拒んでタイ領へ逃げ込み、現在でもタイ北部の山岳地帯に落人村を作って定住しています。

ベトナムへ割譲された租借地?:白龍尾島
 

トンキン湾の「キ」の字の上の小さな島が白龍尾島
中国とベトナムといえば、南シナ海では南沙諸島(スプラトリー諸島)や中沙諸島(パラセル諸島)の領有権を争っているが、もう1つ領有権で揉めていたのがトンキン湾の白龍尾島だ。

白龍尾(バック・ロン・ヴィー)はベトナム語の島名で、中国語では浮水洲だったが、現在では中国語でも白龍尾(バイ・ロン・メイ)。ハイフォン沖合にある島だが、住民はほぼ全て海南島出身の中国人漁民だった。ベトナムが中国の属国だった時代には、島には中国軍(清軍)が駐屯していたが、フランスがベトナムを支配し、1887年に清朝と結んだ条約で島はフランス領とされた。しかし清朝が倒れた後、中国政府はこの条約を不平等条約だとして白龍尾島の返還を求めていた。島では相変わらず約500人の中国人が暮らし、半農半漁の生活をしていたほか、新たにスイカの栽培も始めていた。

戦時中は1943年に日本軍が占領したが、戦後ベトナムはホー・チミンが率いる社会主義国の北ベトナムと、フランスが後押しした親仏政権の南ベトナムに分裂し、白龍尾島はフランスから南ベトナムへ引き渡されていた。49年秋の中華人民共和国の成立に続いて、50年春に人民解放軍が海南島を占領すると、中国国民党軍約40人が白龍尾島へ逃げ込み、南シナ海でのでの大陸反攻ゲリラ活動の拠点になった。

しかし54年のジュネーブ協定で北緯17度線を南北ベトナムの境界線とすることが決まり、南ベトナム軍とフランス軍は島から撤退。55年7月に人民解放軍が占領した。この時、少なからぬ住民が南ベトナムへ逃げ、島に残っていたのは250人ほど。間もなくアメリカが南ベトナムを支援してベトナム戦争が激化すると、中国政府は北ベトナム支援の一環として、北ベトナムの求めに応じて白龍尾島の租借を認め、島は57年3月に北ベトナムへ引き渡された。

白龍尾島には北ベトナムの防空司令部が置かれたが、白龍尾島も米軍の爆撃を受けるようになり、住民は「ベトナム華僑」として北ベトナムへ移された。1975年にベトナム戦争が終結し、翌年南北ベトナムが統一したことで、白龍尾島の租借の意味はなくなったが、79年に中越紛争が勃発したことで白龍尾島の返還は行われず、そのままベトナムが支配し続けた。

さてその後、中国では改革開放政策、ベトナムではドイモイ(刷新)政策が進み、政治的対立よりも経済的協力が優先されるに及んで、中越両国は国境画定交渉を本格化。南沙諸島はとりあえず置いといて、石油や天然ガスが眠るといわれるトンキン湾で経済水域や大陸棚の分割で合意し、2004年6月から漁業協定とあわせて実施された。これにより白龍尾島は正式にベトナム帰属が決まり、中国政府も「島はベトナム領」だと認めた。では一体、「租借だっだ」という話はどうなったのか・・・?両国政府ともこの問題についてはウヤムヤにしている。白龍尾島の租借はベトナム戦争中の軍事支援によるもので、当時もほとんど公にされていなかったし、中国政府としては小さな島といえども領土を割譲したことで、国民の反発を恐れているようだ。

 
2001年に中国とベトナムで画定された経済水域の分割図。網の部分は共同漁業水域。白龍尾島はベトナム側へ




中国以外の租借地や租界

租借地

●キプロス島

1878年にイギリスとオスマン・トルコが軍事同盟を締結。ロシアがトルコを攻撃した場合、イギリスがトルコを軍事支援することと引き換えに、イギリスはトルコからキプロス島をエジプト防衛の拠点として租借した。租借にあたってイギリスはキプロス島内のイスラム教徒(トルコ人)の保護などを約束した。

第一次世界大戦でのトルコ敗戦を経て、キプロス島は1925年にイギリスの直轄植民地となり、租借地ではなくなりました。しかしイギリスによるキプロス島のトルコ人優遇策はその後も続いて、現在ではこういう結果になっています。

●コンゴ東部

19世紀末からコンゴは「コンゴ自由国」という名のベルギー国王による私有植民地だったが、イギリスは1894年5月にコンゴ自由国と相互的租借条約を結び、コンゴ最東部のタンガニーカ湖からエドワード湖にかけての幅25kmにわたる細長い土地の租借権を得た。イギリスがコンゴ奥地を租借したのは、カイロとケープタウンを結ぶアフリカ大陸縦断鉄道の用地とするためで、タンガニーカ湖は英領北ローデシア(現在のザンビア)に接し、エドワード湖は英領東アフリカ(現在のウガンダ、ケニア)に接していたので、イギリスが2つの湖を結ぶ土地を獲得すれば、アフリカ南端から北端までイギリス領が繋がることになる。

しかし当時タンガニーカを植民地にしていたドイツが「コンゴとの国境が分断される」と猛反発したため、イギリスは租借権を放棄せざるを得なくなりました。

1908年発行のアフリカの地図。赤丸の部分がラド(クリックすると全体図に拡大します)
●ラド

1905年時点でのベルギー領コンゴの地図 「15」が租借地のラド州です

一方でコンゴ自由国(=ベルギー)は、1894年5月の相互的租借条約で、イギリスからスーダン南部のバール・エル・ガザル地方の一部の租借権を得た。具体的には南はアルバート湖、東はナイル川、北は北緯10度、西は西経25度に囲まれた地域で、これによってベルギーはコンゴからナイル川への出口を確保できることになった。これらの地域は実際にはイギリスはまだ実効支配を行っておらず、ベルギー軍が占領を開始したが、スーダンへの利権を主張するフランスやオスマン・トルコが猛反発したため、租借地の大半を放棄。北緯5度30分以南と西経30度以東のラド地区だけを支配した。

ラド地区の租借地は1910年にイギリスへ返還され、イギリスは南側の一部をウガンダに編入(西ナイル州)し、残りはエジプトと共同統治領のスーダンに編入しました。

●グアンダナモ湾とオンダ湾

今でこそキューバはアメリカと犬猿の仲だが、かつてのキューバはアメリカの属国。1903年の米玖恒久条約によって、アメリカは海軍基地としてグアンダナモ湾を、石炭補給基地としてオンダ湾をキューバから年間2000ドルで租借した。このうちオンダ湾は1934年に返還したが、グアンダナモ湾は永久租借とされ、カストロ反米政権が誕生しても、アメリカ軍は現在に至るまで堂々と居座り続けています。詳しくはこちらこちらをご覧ください。

●パナマ運河地帯

1903年にアメリカがパナマから永久租借権を獲得し、1999年末に返還。詳しくはこちらをご覧ください。

●大小コーン島

ニカラグアの地図 
大コーン島の地図 PDFファイル

ISLAS DEL MAIZというのがコーン諸島。フォンカセ湾は左側のホンジュラス国境にあります
ニカラグアの大西洋沖に浮かぶ島々。1914年にパナマ運河を開通させたアメリカは、パナマ運河は幅が狭く、大型船の通行に支障をきたすことから、当初かニカラグアにもう1本運河を建設することを計画していた。

そこでアメリカはニカラグアの反乱軍を支援して、内戦を起こしたうえ介入。1910年と12年から25年まで米海兵隊がニカラグアを占領して、通貨や関税の管理権や鉄道の支配権などを握り属国にしたうえで、1914年にニカラグアとブライアン・チャモロ条約を結び、(1)運河建設の独占権、(2)大西洋側出口にあたる大小コーン島の99年間租借権、(3)太平洋側出口にあたるフォンセカ湾での海軍基地設置・・・などを獲得した。この条約にはホンジェラス、コスタリカ、サンサルバドルなどの中米諸国が「アメリカの介入によって自国の安全が脅かされる」と猛反発し、ニカラグア国内でも反米ゲリラ闘争が盛んになったが、条約は16年に批准され、コーン諸島はアメリカの租借地になった。

しかし第二運河の建設は一向に進まず、アメリカもコーン諸島をほとんど放置。実際の島の地方行政はアメリカの黙認の下でニカラグア政府が続けていた。1970年にはブライアン・チャモロ条約は破棄され、島は翌71年にニカラグアへ正式に返還。現在では秘かにダイビング・スポットとして注目されているようだが、特に小コーン島はいまだに電気も水道もロクにない状態だとか。

島の人口は大コーン島が2500人で、小コーン島は250人。住民のほとんどはインディオと黒人の混血だが、主に英語を話している。これはアメリカの租借地だったからではなくて、かつてイギリス人が島を支配していたことがあったから。17世紀から18世紀にかけてのカリブ海では、中米大陸を支配するスペインに対抗しいて、イギリス人やフランス人、オランダ人の海賊たちが暴れまわったが、コーン諸島は一時期イギリスの海賊が根拠地にしていたのだ。そういうわけで、島の周囲には海賊の犠牲になった沈没船が眠っていて、これもダイビングスポットの1つ。

にからぐぇんせ 小コーン島の観光情報

●セント・デビッド島とバミューダ島の一部 

1976年のバミューダ諸島の地図 

バミューダ諸島は大西洋に浮かぶイギリス植民地。最近では企業が税金を逃れるために事務所を置くタックスヘブンの場所として注目され、住民1人あたりのGDPでは日本をはるかに凌いでいる。1995年には独立の賛否を問う住民投票が行われたが、「イギリス領じゃなくなったら企業が来なくなる」と独立反対派が多数を占めて、今も現役植民地だ。

さて、そのバミューダ諸島には2002年までアメリカの租借地が存在していた。時は第二次世界大戦さなかの1941年、当時ドイツのUボートが大西洋の船を脅かしていたが、本土防衛で手一杯のイギリスには大西洋を守る余裕などなかった。そこでアメリカはニューヨークやワシントンの正面に位置し、大西洋防衛の要となるバミューダ諸島の一部を、軍事基地を建設するために99年間租借したいとイギリスに申し入れた。租借料を払う代わりに余っている駆逐艦50隻をイギリスへ提供するというのが条件だった。

こうしてバミューダ島の西にはアメリカの海軍基地が作られ、セント・デビッド島は埋め立てで拡張されて空軍基地が建設された。基地の面積は5・8平方kmで、バミューダ諸島の1割以上に及んだ。

戦後、バミューダ諸島の軍事基地は東西冷戦の中で引き続き重要視され、イギリス軍やカナダ軍も駐屯した。78年には基地として使われていなかった租借地がバミューダ政府へ返還されたが、東西冷戦が終わるとアメリカは95年に基地閉鎖と租借地返還を発表。これに驚いたのがバミューダ側で、基地が閉鎖されれば経済的損失が大きいと反発し、さらに返還される空港や港、スポーツ施設などを観光のために再利用しようにも、半世紀以上も潮風に晒されてボロボロなため、バミューダ側は租借契約を途中で打ち切るなら補償をしてくてと要求。結局これらの問題が決着して租借地が返還されたのは2002年だった。

●ハンコ半島&ポルカラ港 

ハンコ半島の租借地の地図 
ポルカラ港の租借地の地図 

19世紀初めからロシアに支配されていたフィンランドは、ロシア革命に乗じて1918年に独立したが、39年に第二次世界大戦が勃発するとソ連はフィンランドに侵攻(冬戦争)。翌40年3月にフィンランドはカレリア地方など国土の10%をソ連に割譲したほか、5月にはバルト海に突き出したハンコ半島の115平方kmと周辺の約400の小島を、ソ連が30年間租借することになり、8000人の住民が立ち退かされた。ところが1941年6月にナチスドイツがソ連へ侵攻すると、フィンランドはそれに乗じてソ連に奪われた領土の奪還を開始(継続戦争)。ハンコ半島も同年12月に奪い返した。

しかし独ソ戦でソ連が反攻に転じると、フィンランド軍は1940年に決めた国境線まで後退。またハンコ半島に代わってポルカラ港の周囲380・5平方kmを44年9月から50年間、ソ連が海軍基地として租借することになり、約1万人の住民が立ち退かされた。しかし戦後、東西冷戦が激化する中で、フィンランドはアメリカ主導の欧州経済復興計画(マーシャル・プラン)に加わらず、中立政策を採ったのでソ連が評価。ポルカラ港の基地は1955年に閉鎖され、租借地は翌年フィンランドへ返還された。

frontmuseum ハンコ半島の戦争博物館(英語)

●マリービソッキー島

フィンランドがロシアから租借している島。フィンランドのサイマー湖とフィンランド湾を結ぶ運河は、その出口に当たる部分が「冬戦争」によって1940年にソ連領となったため、フィンランドは1963年にソ連(後にロシア)から運河の管理と出口に位置するマリービソッキー島を租借して現在に至っています。詳しくはこちらをご覧ください。



租界

●朝鮮(韓国)の租界

19世紀後半から20世紀初めにかけて、朝鮮の仁川、釜山、元山、馬山などにも日本や中国(清朝)、そして各国共同の租界が設置されていました。詳しくはこちらをご覧ください。

●日本の外人居留地

幕末から明治にかけて、日本の開港場に存在した外人居留地も実は共同租界と同じで、英語ではどちらもSettlementです。特に外国人が行政権や警察権を握った大阪や神戸の外人居留地は、制度的には上海の共同租界とかなり似た状況でした。詳しくはこちらをご覧ください。

●タンジール国際管理地域

ジブラルタル海峡に臨む港町・タンジールやその周辺は、1925年から56年まで、モロッコのスルタンの主権の下で列強各国の代表で構成される国際立法会議が行政権を持つ国際管理地域になっていました。共同租界と似たような感じですが、外国人の居留地域だけでなくタンジールの町をまるごと包括していたことや、モロッコ人に対する行政は引き続きスルタンが行っていた点が異なります。詳しくはこちらをご覧ください。

●インドのフランス商館区

インドはかつてイギリスの植民地でしたが、ポルトガルやフランスの飛び地のような植民地もあり、さらにフランスはベンガル地方で6ヵ所、インド南岸・西岸で3ヵ所、商館区という治外法権エリアを持っていました。租界と言うより長崎の出島、正確に言うなら戦国時代にあった平戸の商館みたいな一角らしいです。しかしイギリスにたびたび占領され、ベンガル地方の商館区は1816年に放棄、インド南岸・西岸の商館区はインド独立とともに1947年にインドへ返還しました。詳しくはこちらこちらの一番下をご覧ください。
 
 

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