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AMI19板からの移転。- 1 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/05/29(木) 03:24
- ここは、AMI19板にあった、
『スッドレ!ゾーニング最強論は本当かっ?!』
で書くとまずそうな内容を扱うスレッドです。
- 2 名前: 173 投稿日: 2003/05/29(木) 03:40
- >>1
>鳥山さん
向こうから引っ越して来ました。
しかし、この板の管理人様に迷惑が
掛からなければ言いのですが……
>管理人様
問題でしたら私の発言を削除してください。
- 3 名前: たろいち 投稿日: 2003/05/29(木) 14:15
- >>鳥山先生
あれから10時間ばかり考えてみて、(やっと)鳥山先生の言われる問題点がなんとなく解りました。
結局、現在のゾーニング(成コミマーク)が『松文館事件での噂』『宝島裁判』みたいな『業者間の足の引っ張り合い』に成っているという理解で宜しいのでしょうか。
そういう状態であれば確かにゾーニングの信頼性自体が揺らぎますね。
また、確かに『第三者』である私が『ゾーニングをしない事は業界の存続に関わる』から『作家さんは我慢しろ』と言うのは『アンチポルノ主義者』と大同小異の『大きなお世話』ですね。
それでも尚『理想的な形であればゾーニングは必要だ』とは未だに思っていますが。
ただ、どちらにしても業界の事情が無いとお話になりませんので、しばらく成り行きを見させて頂きたく思います。
>>松代様
もし固有の事件名を挙げたことが問題でしたら発言を削除して下さい。
消しゴムみたいな使い方をして済みません。
- 4 名前: СТАЛКЕР 投稿日: 2003/05/29(木) 14:21
- 鳥山さん
>で書くとまずそうな内容を扱うスレッドです。
公開することによって、何かプラスに働く内容ですか?
どこの板に書いてもWEB上なので公開情報となりますよ。
大丈夫ですか?
- 5 名前: СТАЛКЕР 投稿日: 2003/05/29(木) 18:17
- 確か松代さんは、過去の事はともかく今は連携していく事が大事だと考えておられたと思うのですが。
内輪もめをする暇なんて無いと言うのが松代氏の意見だったと思います。
確か、このサイトの何処かにもそう書いていたと思いますよ。
- 6 名前: СТАЛКЕР 投稿日: 2003/05/29(木) 19:05
- 単に野次馬君の心を満たすだけにおわるなら意味ないですよ。
- 7 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/05/30(金) 03:24
- 情報を公開することによって発生する、
メリットとデメリットに関しては、
情報の受け手次第の部分がある。
ただ、表現規制反対というスタンスで活動している人間が、
情報の公開を拒む姿勢を見せるのは体面的に問題がある。
そもそも、表現規制反対というスタンスで参加していない俺が、
表現規制反対派のネタバレを書いているって事そのものが、
酷い矛盾だと思わないか?
政治活動に関わる情報には、
自己の活動を優位に進めるという意味において質の優劣があるから、
質の低い情報は排除した方が良いという考え方故に、
俺はトンデモ系の論旨は遠慮無く叩くが、
「表現の自由」をアトミックに解釈している人間にとって、
重要なのは情報の質ではなくて量だから、
「どんな意見でも平等に扱うべきだ」という、
主義主張と対立せざるを得ない。
後者の主義主張に出てくる「表現の自由」とは、
消費活動を支える「表現の自由」を、事実上意味している。
(続く)
- 8 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/05/30(金) 03:31
- たとえば、エロ本の購買層=消費者にとって、
多様な選択肢=表現の自由が保障されている方が、
自分の好みの情報を「消費」出来るわけだから、
よりよい環境であることは間違いない。
要するに、
巨乳もののエロ本しか出ていない社会よりも、
貧乳あり、熟女あり、ロリあり、ふたなりありって感じの社会の方が、
巨乳ものしか出せない社会よりも、消費行動がやりやすいって事だ。
また、生産者側=この場合は漫画家から見ても、
消費における「表現の自由」があった方が、
ビジネスチャンスが増えるわけだから、
これを積極的に推し進めて行こうと考えるのは理に叶っている。
ここまでの意見に関して、異論がある人は少ないだろう。
(続く)
- 9 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/05/30(金) 03:43
- ところが、この消費活動としての「表現の自由」を獲得する目的を、
手段であると誤解した段階で、酷い矛盾が発生する。
先述のように、政治活動に関わる情報には、
自己の運動を有利にする情報と不利にする情報があるわけで、
不利な情報は可能な限りださない方が良いに決まっている。
しかし、消費活動としての「表現の自由」を大上段に振りかざしていると、
情報の多様性がある状況がイデア(理想)として生じてしまうために、
自分たちに不利な情報を隠そうとすると、理想と現実に乖離が生じてしまう。
論理的に考えるのであれば、
消費活動としての「表現の自由」を獲得するのに、
何もわざわざ「表現の自由」を表看板としてだす必要はない。
「表現の自由」を獲得することは、あくまでも政治目標なのだから、
この運動を推進する団体が、必ずしもそれを理念として掲げる必要はないわけだ。
政治的に有利であると判断できるのであれば、
表看板から「表現の自由」を外しても、
(政治目標に到達しさえすれば)
結果オーライで何の問題も生じない。
(続く)
- 10 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/07(土) 05:09
- その好例が出版倫理懇談会だ。
エロ本業界の自主規制団体というタテマエはついているが、
現実にはゾーニング委員会のような、
「健全育成」を名目に表現規制を迫るようなトンデモ団体に、
消極的ではあるが抵抗を試みている。
ところが、商業的な「表現の自由」を大上段に振りかぶっていると、
この団体すら「自主規制という形で表現規制を行っている」ように見えるので、
表現規制の動きに対して、同団体と共闘しようという発想すら浮かんでこない。
これは、他の自主規制団体も同様で、
安易な「表現の自由」を振りかざすことで、
それらの団体の協力を得られないのであれば、
情報やマンパワーを含む資本をかなり制限された状態で、
活動をせざるを得ない事になる。
- 11 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/07(土) 05:23
- その反対に、名目上は「表現の自由」を唄っておきながら、
実質的には表現規制に荷担している団体もある。
その代表的な存在が新聞社だ。
俺が書いた児ポ法に関する文章にもちらっと載せたけど、
最初の児ポ法が発表された時に、
出版業界で唯一反対意見を表明しなかったのが新聞業界だった。
その理由は実に単純で、
新聞業界は児ポ法が出る前から、
論説委員などを有害図書選定の委員に送り込んでいるから、
表現規制に反対する理由がない、というものだ。
有害図書問題の一つに、
委員会の名簿が原則非公開であることが挙げられるが、
これは同委員会に新聞社とPTAが面子を送り込んでいることが、
大きな理由の一つとして考えられている。
どちらも実体がばれたら、
世間から厳しい指弾を免れない。
特に新聞社の被るダメージは想像以上だろう。
何しろ「言論の自由」や「表現の自由」
のリーダー格を自認するメディアが、
裏で表現規制に関わっているわけだから、
イメージダウンも甚だしいって事になる。
彼らが児ポ法の問題を大きく取り上げないのも同様の理由で、
反対派が世間から自然と孤立するように動いている。
もちろん、個々のジャーナリストの中には、
反対派に同情的な奴もいないわけじゃないが、
会社の総意としては「反対派には消えてくれ」
というのが本音だろう。
俺みたいに、この辺の事情を嗅ぎつける奴が出てくるからな。
- 12 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/07(土) 08:10
- それじゃ、AMIはどうだったか?
知っての通り、AMIはマンガ防衛同盟の流れを汲んだ、
表現規制反対のための団体だったはずなんだが、
主要メンバーの一部は違った考え方を持っていた。
彼らは活動の看板に「表現の自由」を掲げる一方、
マンガ関係のゾーニングや自主規制を請け負うことで、
ゾーニング利権を手に入れようとしていたのさ。
俺が聞いた範囲では、
主要な提唱者は編集者の伊藤剛で、
賛同者は漫画家の山本夜羽ってことになってるが、
他にも何人かこのアイデアに噛もうとした連中がいるらしい。
カマヤン氏の話によると、
「伊藤氏は政治イコール利権だと思っている」
そうなんだが、
これは利権かそうじゃないかの問題以前に、
立派な詐欺だろ。
「表現の自由」を看板に掲げて賛同者を集めておいて、
挙げ句の果てに方針転換をして、
団体をゾーニングの下請けにシフトするつもりなんだから、
羊頭狗肉もいいところだよ。
仮にこの計画が上手くいっていたとしたら、
AMIは「児童の人権団体」を名乗りながら実体は宗教団体の、
エクパット東京といい勝負になったと思うよ。
- 13 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/08(日) 03:11
- でも、実際にはそうならなかった。
表現規制に反対するにせよ、
ゾーニングの下請けをするにせよ、
出版社=資本との関係を持つことは必須なのは、
中学生にだって分かる話だ。
にもかかわらず、AMIが結成されてから、
ただの一度も各出版社に対して挨拶回りをしたという話を、
俺は聞いたことがない。
もちろん、出版倫理懇談会に対しても、
「よろしくお願いします」の一言もない。
数少ない例外が松文館だったみたいだけど、
これは八的さんが個人的に動いたと言うのが、
どうやら真相のようだ。
この体たらくで、
一体どうやって「表現規制」に抵抗するのか?
あるいは、
ゾーニングの下請けを担うのか?
全く不思議としか言いようがない。
AMIに関する最大の謎がここにある。
同人誌以外の出版物の大部分は、
出版社が出版権を獲得して発行しているのに、
出版社に対して根回しをしない団体が、
「表現規制反対」を主張するという、
珍妙な現象が発生していたわけだ。
そういうわけで、エロ本業界では、
AMIという存在はほとんど認知されていなかった。
エロ業界全体も含めると、
全く認知されていなかったと言っても過言ではない。
- 14 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/08(日) 04:00
- 以上の理由から、
俺が他のメンバーと語らって、
ROSFを結成した当初は、
児ポ法のことは全く念頭になかったし、
マンガ防衛同盟もAMIも、
名前しか知らないという感じだった。
そりゃそうだよ。
出版社巡りをやってない団体が、
出版社に認知されるわけないじゃん。
同人や漫画に興味があれば、
話はまた変わってくるだろうけど、
俺も周囲の生活基盤も、
同人業界にはなかったからね。
なんか別の世界の話って感じだった。
そういう状況から、
一転して児ポ法の問題に
深くコミットするようになったのは、
AMIが『AMI連絡帳VOL.1』って
同人誌を作成したのがきっかけになっている。
- 15 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/08(日) 04:08
- あの本を作った時に、
AMIの主要なメンバーが、
色んな漫画家に声をかけたんだけど、
その参加を要請された漫画家や、
その漫画家の知り合いの何人かが、
俺と昔からの付き合いがあったんで、
「AMIって知ってる?」って話を、
複数のラインからされたんだ。
そのときは、もうコミケにも行ってなかったし、
児ポ法って言われても何のことやらさっぱりだったんで、
「知らない」としか答えようがなかったんだけど、
児童虐待の問題に関しては、
12、3年前ぐらいに
アンドリュー・H・ヴァクスの小説を読んだ時に、
多少なりとも関心を持って資料だけは集めていたんで、
http://member.nifty.ne.jp/hagu3/v/vachss/vachss.htm
「じゃあ、調べておくよ」ってのがきっかけになって、
AMIの内情調査を始めたってわけ。
- 16 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/09(月) 02:09
- ところが、調査開始当初に飛び込んできたのは、
山本夜羽氏とカマヤン氏の悪口ばかりだった。
まず山本氏に関してだけれども、
マイナー系の漫画家の間では、
「夜羽ネタ」っていうジャンル(?)のギャグがあって、
夜羽氏がイベントや飲み会の席で吐いた暴言を、
そのままトレースするって内容なんだけど、
これは再現したら確実に名誉毀損モノなので、
具体例に関しては割愛させてもらう。
ただし、夜羽氏の奥方であるほしのえみこ氏まで、
この虐めの対象になっているのはいただけなくて、
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」じゃないけど、
本人はともかく奥方まで攻撃することはあるまいに、
って感想を当時は持っていたし、
この時の感想がROSFをAMIにぶつけていった、
引き金の一つになってるのは間違いない。
でも、国会議員会館でほしのさん本人と会ってからは、
自分の感じた義憤をかなり後悔したけどね。
感情的なふりをして行動するのはいいけど、
本当に感情的になるとろくな事がないってのは、
あの一件でよーく分かったよ。
- 17 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/09(月) 03:38
- 次にカマヤン氏だけど、
こっちの方は当時から『電波のカマヤン』という二つ名で呼ばれていて、
「言っていることがわけが分からない」とか、
「やってる事が急にころっと変わる」なんて風評だった。
どっちにしろ、二人とも活動に従事している理念や、
理屈の部分が全く分からなくて、
ものすごく往生したのをよく覚えてるよ。
聞き取り調査の対象が漫画家だったから、
理屈の説明に関してはあまり期待していなかったんだけど、
これほど貧弱なデータしか入手できないと鬱が入るよな。
それと、AMIという『くりぃむレモン』というアダルトアニメシリーズに出てきた、
超有名な美少女キャラクターと一緒のふざけた団体名が重なって、
http://plaza9.mbn.or.jp/~cocotree/kuriimu/ami.html#amiichi
(これも夜羽氏の発案らしいんだけどね)
出版業界に根回しもしていないことだし、
この団体は「左翼ごっこの集まり」という、
誤った判断を当初は俺がしていたんだよな。
だから、調査の途中で松代氏の名前が出てくるまで、
AMIのメンバーと会おうという気は全くしなかった。
周囲にも「あれは夜羽氏のパフォーマンスを愉しむ団体じゃないの?」
って答えていたし、真面目に相手をする気はなかったんだよね。
- 18 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/09(月) 04:11
- 松代さんはゲーム業界のライターとしては俺より格上で、
かつ活動領域が俺と重なるって事もあって、
以前から意識していた業界人のひとりだった。
ぶっちゃけた話、俺は彼のことをヘッドハンティングしたかったんだよ。
彼の活動領域の広さは典型的なジェネラリストのそれだから、
少しでも一緒に仕事をすると色んなコネが手にはいることが、
初めから解っていたからね。
でも、以前に何度か仕事の話を振っても袖にされていたんで、
「なんか良い口実はないかな?」と思っていたところに、
ご本人がAMIを含めて表現規制反対の政治活動に従事しているという情報を、
ネットで得られたからさあ大変。
http://www.kyoshin.net/aide/a37/03.html
「何でこの人はこんな遊びに参加しているのか?」
って疑問から、
「松代に漫画家の相手をさせるのは勿体ないから、
俺がいただいちまおう」
って考えに変わるまでに、それほど時間はかからなかった。
漫画家はあくまでもスペシャリスト、いわゆる職人だから、
ジェネラリストとの付き合い方は解らない。
彼がAMI内部で疎外されていることぐらい、
内部調査なんかしなくても推測はついた。
そこで、俺は松代氏をAMIから引っこ抜く方法を色々と考えて、
最終的にAMIを攻撃することにしたわけ。
- 19 名前: СТАЛКЕР 投稿日: 2003/06/09(月) 10:17
- >つきましては、八的さんと山本さん、鳥山さん、kageさん、一休さん(もしくは代理人)、そして自分の6人による「情報と意見交換を目的とした公開掲示板」の設置を提案します。
と松代さんがまじめに仰ってるときに>>18の発言はなんだろうねー
おいおい。
- 20 名前: СТАЛКЕР 投稿日: 2003/06/09(月) 12:36
- >>19
まだ「過去の経緯」を語ってる段階だろ。
茶々を入れるのは語りが「今現在の段階」まで移行するのを待った方が
いいと個人的には思うんだがどうか?
- 21 名前: СТАЛКЕР 投稿日: 2003/06/09(月) 23:33
- 鳥山氏の文章は煽り口調で読む者をふるいにかけているので、
それらの言葉使いにいちいち反応せずに一歩引いて見るべき。
多数の無能者よりも少数の有能者と活動すると言う戦略を鳥山氏は取っているから
そのような書きかたになるんだろう。
児ポ法問題に関する鳥山氏の文章は、それを踏まえて読んだほうがいいと思うよ。
相手の言っている事、言いたい事を理解するために。
- 22 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/10(火) 00:40
- 21>
本当は政治的に有能な人間が多数いれば良いんですけどね。
選民思想的な運動は目指していないし、
それをやったら最初にパージされるのは私だと思います。
もっとも、政治的に才覚があるなら、
児ポ法反対運動には荷担しないでしょうから、
私も含めてこの運動に不向きな人材が投入されているのは、
まず間違いのない事実なんですよ。
枠組みを変えない限り、
この状況が変わらないのは確定しているんで、
改正問題が一段落したら、
この点はもっと考えた方がいいと思います。
つーわけで、文体を元に戻しますわ。
- 23 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/10(火) 00:51
- でも、この攻撃はあくまで限定的なものであって、
実際にやったような内容になる予定じゃなかった。
松代氏を引っこ抜くためだけに、
あそこまでやる必要が皆無なのは、
ここで改めて検証する必要もないと思う。
じゃあ、何で初期の攻撃が一種の深刻さを帯びてしまったかというと、
これもやっぱり原因を『AMI連絡帳VOL.1』に求めることが出来る。
俺はあの同人誌をある漫画家から入手したんだけど、
まず一読して驚いたのは、
AMIには極めて真面目な側面がある、という事実だった。
特に情報収集能力に関しては、
この手の運動としては非常に優良な部類に入るレベルで、
当初のAMIに対する認識を改めなければならないと思ったわけだ。
実際に、AMIの参加者には、
表現規制に関して優秀な情報スカウターが、
何人か存在していると思うし、
この傾向は現段階でも変わっていないと思う。
- 24 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/10(火) 01:09
- 次に参加者を見て受けた印象は、
AMIの主要な構成員は、
正統なサブカルチャーの継承者が多いんじゃないか、
というものだった。
この感想には、業界人以外の人にはちょっとした解説がいると思うので、
蛇足を承知で基礎情報を出しておく。
まず、ここで語られているサブ(従属的)カルチャー(文化)とは、
エロ本というメインに従属(サブ)する穴埋め的な記事全般の総称であって、
欧米風のメインVSサブという文化構造とは、
本質的に無関係なモノだ。
日本におけるサブカルチャーは、
あくまでもエロ本出版と公安警察という対立構造の中で、
妥協の産物として発生したものであると解釈する方が、
より事実を正確に捉える事が可能になる。
これはどういう事かというと、
エロ本を作る際に、前ページをズリネタで埋めることは、
倫理的にまかりならんという、
お上のお達しがあるために、
エロ本、特にエロ雑誌では、必ず白黒ページなどに、
「文化的な」記事=抜けない内容を挿入するという、
お約束があることを意味している。
古手のエロ雑誌やAV雑誌には、
必ず書評や映画批評のコーナーがあるでしょ?
あれが真性の「サブカルチャー」なんだよ。
- 25 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/10(火) 01:10
- ×前ページ
○全ページ
推敲してないから、誤字は許してね。
- 26 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/10(火) 01:24
- ところが、この習慣がエロ本出版社に定着していく過程で、
このサブの部分だけを肥大化させるような、
本作りをやろうとするエロ本編集者が現れた。
具体名を挙げるなら、
白夜書房の末井昭氏で、
雑誌のタイトルは『月刊ニューセルフ』が、
その代表的なモノだ。
この本は70年代の後半に出版されたんだけど、
当時のビニ本ブームや自販機本ブームで資本を蓄積した、
新興のエロ本出版社であれば、
必ずと言っていいほど狙ってくる方向性だった。
彼らは一種の成り上がりだったから、
文化的な権威付けみたいなものが、
自社に必要だと思ったんじゃないかと、
俺自身は推測しているんだけど、
これはまだ調査中だから推測の域を出ないし、
当時の業界人が本音を語るとは思えないので、
多分、真相は闇の中のままだろう。
もちろん、読者はズリネタ比率の少ないエロ本なんか求めていないから、
『月刊ニューセルフ』は早々に廃刊に追い込まれた。
でも、この雑誌が業界に与えた影響っていうのはかなり大きくて、
エロ本出版社が一般誌に食い込んでいく際の、
あるいはエロ関係者をさも文化人のように偽装する手段の、
一つとして徐々に方法論が確立されていく。
- 27 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/12(木) 09:57
- そうは言っても、この方法論は極めて原始的なモノで、
ケース1
1:エロ本の埋め草記事として、
抜けない内容の原稿が書かれて蓄積される。
2:この原稿をエロ本出版社以外の、
「文化的な」出版社に、
作者自身か編集者が持っていって出版する。
か、
ケース2
1:エロ本に埋め草記事を書いていたライターが、
2:別の仕事で有名になって、過去の仕事がサブカル化する。
か、
ケース3
1:エロ本出版社が通常の出版社と裏で手を結んで、
2:生身の広告媒体として、
エロ業界の人間を文化人に偽装させる。
ぐらいがせいぜいで、
おそらく今でもそれほど大きな違いは無いはずなんだけど、
この方法でドミナント・カルチャーに進出するライター、
作家が80年代に大量発生すると、
彼らを使っていたエロ本編集者は、
生きた広告媒体を大量に獲得することで、
自分でも予想外の資本力を手にすることができるようになる。
- 28 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/12(木) 10:12
- 白夜書房の末井さんなんかは、
まさにこの典型で、
若手の原稿料が安いライターに、
埋め草記事を大量に書かせていると、
彼らの何割かが出世することで、
広告媒体の役割を果たしてくれるようになるから、
本人が意識するかしないかなんて関係無しに、
絶大な権力が向こうから転がり込んでくるようになった。
『ニューセルフ』によって出た赤字は、
決して無駄じゃなかったわけだ。
これがエロ本業界に限らず、
日本のポルノ業界の規範となった「末井モデル」ってやつだ。
ポルノというお世辞にも上品とは言えない業界にいるにもかかわらず、
下手をするとドミナント・カルチャーの人間よりも、
遙かに強い権力を持つ業界人は、
AV業界も含めれば10人前後いるけれど、
ほぼ全員が同じ方法で成功している。
ただし、末井さんのように本人まで「文化人」扱いされるケースは希で、
たいていはフィクサー役に徹するから、
末井さんだけは「特別」という感情が、
この辺の事情を知る業界人にはある。
一時期は大塚英志がマンガの業界で
末井さんの域にまで近づいたけど、
彼は資本との折り合いが悪かったから、
(というか今でも悪いんだけど)
結局ずっこけて文化人化せざるを得なかったのは、
個人的に凄く印象に残ってるね。
大塚氏の失敗は、彼が「きちんとした意味での」
サブカルチャーの出自だったことと、
無関係じゃないだろう。
- 29 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/13(金) 07:21
- 諸説はあるけど、
サブカルチャーは1950〜60年代に、
西欧で始まったユース・カルチャーを起源としている。
経済的な裕福さと、それが可能にした国民総高学歴化が、
それ以前よりも知識のある青少年層を作り出し、
そうした階層が既存のより通俗的なポップ・カルチャーを、
「革命的手段と見なした」時から意味性が変化して、
一つの独特な文化形式を作り上げていく。
その亜種がサブカルチャーだから、
マンガは確かに「きちんとした意味での」
サブカルチャーにカテゴライズされるジャンルと言える。
また、そうした出自から、
ユース・カルチャーの流れを汲む文化では、
「若さ」というものが重視される傾向があり、
これが既存の文化とは一線を画す特徴になっている。
それでは、ポルノはどうかというと、
SM等の特殊なジャンルを除けば、
主要な購買層は20代後半以降のブルーカラー層だから、
それらを支える社会層は、
「若くもなければ賢くもない」のが実像で、
確かにサブカルチャーの母胎となり得る資格はあっても、
それそのものが「サブ」カルチャーではない。
- 30 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/13(金) 08:02
- そのポルノが警察の圧力に屈する形で、
半ば強制的にサブカルチャーの発信源になっていったのが、
日本に独特の経緯であったことは先述の通りだ。
この辺の事情は、サブカル文化人の一典型であり、
既に自殺した青山正明氏が上手い表現をしている。
俺自身が直接聞いたわけではないけど、
彼は自分の仕事を「僕はオシンコしか作れません」
と言っていたそうだ。
要するに、ゴハン(ドミナント・カルチャー)でもなければ、
オカズ(ポルノ)でもないってことだ。
この「〜ではない」というのが、
サブカルチャーの本質を言い表しているような気がするけど、
その辺は本職の評論家の方がよく解ってることだろう。
で、以上の理由から、
エロマンガ及びにその周辺の表現物を、
サブカルチャーと称する時には、
マンガというカテゴリそのものを「サブカルチャー」とするのか、
それとも、ポルノをドミナント・カルチャーと見なして、
そこに掲載されているオカズじゃない=抜けないエロマンガや、
マンガ批評を「サブカルチャー」とするのかで、
前提条件が全く異なってくるから注意が必要だ。
- 31 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/13(金) 10:32
- ここで話を元に戻そう。
『AMI連絡帳VOL.1』を読んで、
俺が「AMIの主要な構成員は、
正統なサブカルチャーの継承者が多いんじゃないか?」
と思ったのは、もちろん後者としての意味解釈を
したからだった。
その理由も極めて単純で、
AMIに名を連ねている主要なメンバーは、
いわゆるオカズにならないマンガの描き手やライター、
それも白夜と関係のある奴が多いように思われたからだ。
これが、仮に「抜ける」マンガを描いている漫画家の集まりだったら、
全く違った印象を持っていたのは間違いない。
また、俺がマンガ業界やサブカル業界に疎いという事情も、
この解釈を悪い意味で固定化してしまう一助になった。
正直言って、俺はポルノかドミナント・カルチャーにしか興味がない。
その理由もやっぱり単純で、
俺が「若さ」にほとんど価値を見いだしていないからだ。
サブカル(?)に触れたのは、ロリコンブームの時期に創刊された、
幾つかのエロ漫画誌を通してのみだから、
これで批評家面して何かを語ったら犯罪だよな。
そういう理由から、この文章もわざと
批評家風の文体を避ける形で書いているし、
仕事でこの文章を書いている訳でもないから、
この辺の事情をぱっと気づかない読み手は想定していない。
ライターならどんな時にも最大公約数の消費者を想定した文章を書く、
という前提でこれを読んでいるとしたら大間違いで、
裏事情なんてものは解る奴だけ解ればいいんだよ。
さあ、そろそろ前置きが長くなったから本題にはいるとしよう。
- 32 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/14(土) 02:18
- 『AMI連絡帳VOL.1』を読んだ俺が3つ目に思ったことは、
「何でサブカル系の漫画家やライターが、
表現規制に反対するのか全く理解できない」
というものだった。
その理由は、これまでも繰り返してきたことだが、
「エロ本を出自とするサブカルは、
警察の表現規制がなければ存在しないはず」
だからというものだ。
エロ本の作り手が売り上げを伸ばそうと思ったら、
全てのページを可能な限り「抜ける」内容にしようとする。
エロ本の買い手が望んでいる内容が、
少しでもマスターベーションの役に立つ、
いわゆる「抜けるネタ」なのだから、
これは職業人として当然の行為である。
従って、警察が倫理を振りかざしてエロ出版に介入し、
「抜けない」内容のページを作成するように強要しない限り、
あるいは流通が同様の表現規制を強要しない限り、
エロ本の作り手は1ページでも「抜けるネタ」を
増やそうと努力する。
つまり、埋め草記事、サブカル的な要素の記事は、
可能な限り排除しようとするわけだ。
そうなると、仮に「表現の自由」なるものが、
日本の社会に完璧に浸透したとすれば、
少なくともエロ本からはサブカル的な内容が、
ほとんど無くなってしまうことになる。
- 33 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/14(土) 02:27
- その反対に、
表現規制の締め付けが厳しくなればなるほど、
エロ本の埋め草記事として、
サブカル的な内容が必要とされるようになる。
たとえば、コンビニにエロ本を流通させようと思ったら、
ポルノの内容をソフト化するだけは駄目で、
一定以上のページ数を非ポルノ的=抜けない内容に
しなければならない。
そうなると、エロ本の作り手は望むか望まざるかに関わらず、
サブカル系の漫画家やライターに、
原稿を発注しなければならなくなる。
この状況を快く思っていない業界人が多いのは当たり前で、
「サブカルチャー」と聞いただけで、
眉根をしかめる編集者の数は少なくない。
その一方で、警察の方でも、
サブカル系のライターが原稿料を貰えるのは、
「警察のご指導、ご鞭撻」によるものだってことは、
よーく解っているもんだから、
そういう埋め草記事が反権力絡みの内容になることに対して、
非寛容な傾向が強い。
- 34 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/14(土) 02:44
- だから、サブカル系の漫画家やライターは、
権力による取り締まりが、
エロ本出版社を潰さない程度に厳しい状況であれば、
(そして、ほとんどの場合は過度に厳しくなることはない)
自分の食い扶持が増えるから大歓迎って事になる。
また、この辺の事情に目ざとい漫画家やライターは、
反権力的な動きをすれば、
編集と警察の双方から叩かれるのが最初から解っているから、
滅多なことじゃ反権力的な言説を口にしない。
ポルノ業界におけるサブカルの位置づけは、
どこまで行っても「おしんこ」以上のモノじゃない。
もちろん、末井さんのように、
そういう警察の規制を逆手にとって、
成功する編集者もいないわけじゃないが、
彼は例外中の例外であって、
大部分の編集者からすれば、
サブカルは警察の押しつけた鬼っ子でしかない。
出来ればいなくなって欲しいというのが、
偽らざる心境なんだ。
- 35 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/15(日) 05:44
- ところが、こういうホンネの部分を、
主要な編集者がオープンにすることは滅多に無い。
ライターや末端の編集者には「お上がうるさいから」
という単純な説明がなされるだけだ。
この説明は必ずしも虚偽ではないが、
「出版社は権力からの弾圧を恐れて弱腰になっている」
という誤った認識を持たれる恐れがあるし、
実際にそういう認識をもっている『関係者』は多い。
その代表的な人物が、ライターの松沢呉一氏で、
http://freespeech.tripod.co.jp/publicity/p277.txt
のフリースピーチを読むと、彼の頓珍漢ぶりがよーく解る。
セックスワーク関連の資料を大量に持っていることから、
エロ業界外では専門家的な扱いを受けている松沢氏だけど、
業界内でのあだ名は「素人」で、
彼のシンパにつけられたあだ名が「公務員」っていうのが、
日本におけるポルノとサブカルの関係をよく表している。
AMIの主要なメンバーの発言も、
松沢氏の主張とそっくりだったから、
漠然と「似てるなあ」と思っていたんだけど、
後で判ったことなんだが、
両者にはポット出版つながりで深い関係があったそうだ。
そういう意味では、山本氏の「僕たちは素人」って発言は、
正確な自己申告だったんだなと思うけど、
素人だからという理由で免責になる事柄にも、
限界ってものがある。
- 36 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/15(日) 06:16
- AMIの主要なメンバーが決定的にまずかったのは、
漫画という表現形式をサブカルチャーと位置付けながら、
実際にはドミナント・カルチャーと同等の扱いをしていた事だった。
もっと解りやすい言い方をするなら、
「漫画は世間から偏見の目で見られているが、
実はもっと高い評価を受けても良い、
優れた表現形式である」ということだ。
この主張そのものは、必ずしも悪いわけではない。
むしろ、漫画という表現形式に係わる職業人であれば、
持っていて当然のプライドを表明しただけであって、
AMIの中でも自明の理として受け止められていたものだと思う。
ところが、この主張がポルノや性表現と組み合わさった途端に、
あらゆる方面に限りない誤解を生む毒ガスに変わり果てる。
どこかの洗剤じゃないけど、「混ぜるな危険」ってやつだ。
- 37 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/17(火) 03:51
- それじゃ、一体なにが危険なのか?
まずはこの論文を読んで欲しい。
http://www.lib.yamagata-u.ac.jp/DOC/kiyou/kiyouh/kiyouh-15-1/image/kiyouh-15-1-w161to178.pdf
これは山形大学助教授の中村唯史氏によって書かれた漫画のデフォルメに対する考察だが、
注目すべき論旨を要約すると、以下のようになる。
1:戦後の漫画には、同一作品内に異なる度合いのデフォルメで
描かれた絵が共存している。
2:デフォルメの度合いが強い絵は読者の共感を得やすく=主観性が強く、
デフォルメの度合いが弱い=リアルな絵は、
読者の共感を得にくい=他者性、あるいは客観性が強い。
3:また、デフォルメの度合いが強い絵は共時性が強く、
(時間が止まっているような感覚を起こさせる)
デフォルメの度合いが弱い絵は通事性が強い。
(時間が流れており、変化を予感させる)
4:漫画はデフォルメの度合いの異なる絵を組み合わせることによって、
様々な表現を可能にしてきた。
5:漫画の絵は、デフォルメを施されていることによって、
現実との断絶を読者に強く意識させる。
- 38 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/17(火) 04:19
- 上記の要約を頭に入れ上で、
次の質問を考えてみよう。
「それでは、何故に強いデフォルメは読者の共感を得やすく、
共時性を強く感じさせるのだろうか?」
日本の漫画における典型的な強いデフォルマシオンでは、
目が口や鼻よりも巨大化するという、
現実の人間の顔の造形を
完全に無視した誇張(デフォルメ)が絵に施されている。
仮に類似性が共感の源泉であるとするならば、
これらの現実とほど遠い描写は、
読者の強い拒絶感を得ることはあっても、
共感を得ることは不可能なはずである。
つまり、リアルな絵は読者の共感を得やすく、
デフォルメの強い絵は他者性、客観性が強くなって
しかるべきであるはずなのだ。
中村氏も考察の中で、
5:漫画の絵は、デフォルメを施されていることによって、
現実との断絶を読者に強く意識させる。
と語っているが、
漫画という表現形式に否定的な人間は、
この「現実との断絶」を否定的な意味合いに
捉えている事は、ほぼ疑いようがない。
- 39 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/17(火) 04:45
- ということは、その反対に、
漫画という表現形式に肯定的な人間は、
「現実との断絶」を肯定的な意味合いに解釈しているか、
あるいは最低でも否定的には捉えていないということになる。
つまり、漫画の熱心な読者や描き手は、
現実が嫌い、あるいは現実に興味がないってことになる。
従って、漫画の記号で描かれた作品は、
現実が嫌いか興味のない作家によって描かれ、
かつ同様の嗜好を持つ読者によって消費されるわけだから、
「現実とは断絶している」=フィクションということになる。
これが、AMIの主要なメンバーの主張する、
漫画記号で描かれた作品=フィクション論の骨子であることは、
やはり疑いようがないだろう。
- 40 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/17(火) 05:13
- ところが、エロ漫画作品を幾つか通覧すると、
漫画記号で描かれた作品=フィクション論が、
決定的に破綻する箇所があることに、
誰もが気づくはずである。
それは、性器と下着や衣類などの、
フェティシズムを想起させる物品の描写である。
エロ漫画、それも売れ線のエロ漫画に限って、
これらの描写には極端なデフォルメは施されていない。
要するに、リアルに描かれている。
仮に、漫画記号で描かれた作品=フィクション論
が正しいとすれば、
性器や下着の描写に極端なデフォルメが施されていればいるほど、
読者は現実が嫌いか現実に興味がないわけだから、
人気が出てしかるべきなのだが、
現実には精密な性器描写、
下着に出来た皺の一本一本を描いている作品の方が、
強い人気を得られやすい傾向がある。
中村氏の考察によると、
1:戦後の漫画には、同一作品内に異なる度合いのデフォルメで
描かれた絵が共存している。
そうなのだが、
エロ漫画に用いられる記号は、
まさにこのパターンの王道を行っており、
顔の造形には強いデフォルメが施される一方で、
性器や下着には弱いデフォルメしか施されない=リアルなのが、
比較的共通した特徴なのだ。
- 41 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/17(火) 05:26
- 繰り返しになるが、
もしもエロ漫画の読者が、
現実が嫌いで現実に興味がないのであれば、
性器やフェティシズムを想起させる物品に、
強いデフォルメが施されている方が、
売り上げ的に優位になるはずだし、
作家もそうした記号を好んで用いるはずである。
たとえば、漫画家の横山まさみち氏のように、
男性器をオットセイにデフォルメし、
更にこのキャラクターを擬人化した作品の方が、
売り上げも良いし、人気も出るはずなんだが………
http://www.nihonmangakakyokai.or.jp/sakuhin/m_yokoyama.htm
現実はほぼ反対の傾向を示している。
この矛盾を、
漫画記号で描かれた作品=フィクション論
が解消することは不可能だ。
だから、漫画のデフォルメには、
漫画記号=現実との断絶
とは異なった力学が働いていると想定するのが論理的だ。
それじゃ、一体それは何なのか?
その秘密はデフォルメの過程で排除されたモノの中に、
潜んでいるはずである。
- 42 名前: СТАЛКЕР 投稿日: 2003/06/22(日) 03:58
- デフォルメ(deformer)は、
日本語に訳すと変形とか誇張という、
過剰を意味しがちな単語になるが、
本来はde(離れる・隔離する)と、
former(形作る)が合わさったもので、
「本来の形から離れる」というのが、
より正しい言い方になる。
従って「元の形」から欠損部分を作り出すことでも、
デフォルメは可能だし、
人間だろうが機械だろうが、
現実に溢れている情報を全て処理できるわけではないので、
実際にはほとんど全てのデフォルメは、
ある情報を過剰に処理するのと同時に、
別の情報に欠損を作り出すことによって、
誇張を作り出している。
漫画の記号で説明をするのであれば、
目を表す記号は過剰に処理し、
鼻や口を表す記号は欠損処理させる事で、
目の大きさがより強調される効果が出るって事だ。
これが仮に、
目だけ過剰に処理されて、
鼻や口はそのままリアルに描かれていたら、
その記号の組み合わせはギャグとして
読者に受け入れられる事はあっても、
シリアスな記号の組み合わせだとは思われないだろう。
- 43 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/22(日) 04:34
- もちろん、この組み合わせによる効果は、
性器やフェチ描写にも適応される。
漫画記号を用いたポルノにおいて、
これらの記号に対して、
顔に施されるデフォルメよりも、
相対的に弱いデフォルメが施されるのは、
より強いデフォルメをかければかけるだけ、
バランスをとるために欠損部分を増やさないと、
読者にギャグとして扱われてしまうからだ。
言い換えるのであれば、
性器やフェチ描写で欠損によって生じる、
差異効果を利用した誇張という技術を、
意識的、あるいは無意識的に利用したくないために、
デフォルメのかけ方を弱くするって事になる。
こうすることで、
今度は顔と性器やフェチに施されるデフォルメに差異が生じるから、
キャラクターの全体像の中で性器やフェチが強調されることになり、
結果として『わいせつ性』が誇張されるようになる。
- 44 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/22(日) 04:46
- 長々と以前にも書いた事を繰り返してきたが、
要するにエロ漫画の記号は、わいせつ性を強調するために、
身体部分の各パーツを表現する記号に施されている
デフォルメの強弱をコントロールすることによって、
性器やフェチに対する表現を誇張しているって事になる。
エロ系の売れない漫画家が起こす、
人気や売り上げにおける失敗のほとんどは、
実はこの差異効果を利用しない絵の設計が原因で、
たいていは身体を表現する記号のパーツに、
ほぼ均一のデフォルメを施してしまっているわけ。
また、そのせいで絵柄が古くさく見えるという、
二重のハンデを背負い込んじゃっていたりもするんだよね。
で、ここから今度は児ポ法規制推進派の話に入るんだが、
彼らが漫画記号で描かれたポルノをやり玉に挙げたがるのは、
ポルノに利用される漫画記号の組み合わせが、
顔→強いデフォルメが施されている。
性器やフェチ→弱いデフォルメが施されている。
というのが主流になっているから、
二つの異なるデフォルメが一つの絵に内在している結果として、
相対的に性器やフェチの描写が「リアルに見える」のが、
主な原因だってことになる。
だから、規制推進派がエロ漫画を持ってきて、
「こんなにリアルな児童ポルノが!」と批判をする時の、
「リアル」って単語は、実は「児童」の部分にかかっているわけじゃなくて、
「ポルノ」=性器やフェチの描写にかかっているって事になるわけ。
- 45 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/22(日) 05:06
- 以上のような言動から導き出される結論は実に単純で、
規制推進派はエロ漫画を「わいせつか否か」の視点でしか、
見ていないってものになる。
つまり、彼らが常日頃から主張している『児童の人権』とは、
全く無関係な「わいせつ性の有無」って視点から批判が行われてるってこった。
だから、仮にエロ漫画のほとんどが、
男性器にオットセイのデフォルメを施して、
女性器に貝のデフォルメを施したものだったら、
規制推進派は不快感を表明できたかもしれないけど、
それを「リアル」だって強弁できたかどうかは、
もの凄く怪しいというか無理だったんじゃないかな。
もっとも、そんな記号の組み合わせの漫画が、
果たしてどれだけの売り上げや人気を得たかって事に関しては、
全く自信が無いというか、
全然売れなかったろうなあとしか思えないけどね。
- 46 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/22(日) 05:28
- と、言うことはだよ。
漫画記号論を上手く使えば、
※ 規制推進派が漫画における性描写を「リアルである」と批判するのは、
「わいせつ性の有無」という観点からであって、
彼らが主張する『児童の人権』とは本質的に無関係である。
従って、規制推進派の主張には矛盾があるとしか思えず、
作者としてはそれらの批判に応じることは出来ない。
なんて上手い切り返し方が十分に出来たはずなんだ。
ところが、『AMI連絡帳VOL.1』で書かれていた、
漫画記号論(当時は「漫画の読み方」って言っていたんだけど)では、
記号の組み合わせによるわいせつ性の有無よりも、
キャラクターは創作物だから実年齢は存在しないって部分に、
議論のウェイトが置かれていた。
俺が『AMI連絡帳VOL.1』を読んで、
首が曲がりそうになった部分は先ずここだった。
登場人物の年齢をぼかすって手法は、
自主規制団体がよく使う手口で、
ソフ倫なんかはこれを究極まで推し進めちゃったから、
ゲーム内部で『学校』とか『学生』という、
本来なら成人も含む意味性のある単語まで、
排除するって馬鹿馬鹿しい事態が生じている。
漫画だったら、そういう言い訳をする必要はないんだから、
キャラクターの実年齢を設定として出しておいて、
巻頭か巻末に「これはフィクションです」って一文を
入れときゃいいのに、
何でAMIがキャラクターの年齢問題を持ち出すのか、
全くの謎だったし、今だって実は謎なんだよね。
- 47 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/22(日) 05:37
- こういう謎の事態が発生した可能性として想定できる原因は、
1:規制推進派の主張している「リアルな児童ポルノ」という主張の、
「リアル」という部分が「児童」にかかっていると誤認した。
2:議論の対象を漫画全体に拡大してしまっていたために、
エロ漫画という枠組みで論旨を組み立てることが難しかった。
ぐらいしか思いつかないし、
どちらであっても問題のある原因なんだよね。
- 48 名前: СТАЛКЕР 投稿日: 2003/06/25(水) 11:39
- 「リアル系の作家さん」は実はリアルないことだ。
実写同等じゃないならリアル言えない。
- 49 名前: 48 投稿日: 2003/06/25(水) 12:48
- >>47
「人類の児童」を書くわけではないこと
- 50 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/26(木) 02:48
- まず1番目の理由による可能性だが、
理屈屋の観点からすると、
これは絶対にあり得ない話だし、
仮にあったとしたら、
AMIの理論的バックボーンの一つだったはずの、
オタクをアカデミズムで啓蒙する集団(?)、
TINAMIXの存在意義は何だったのかって事になるよな。
簡単なところから説明するけど、
普通、「少年サッカーをテーマに描かれたリアルな漫画」
って解説が、とある漫画作品に付いていたとしたら、
リアルって単語がサッカーにかかると思うのが普通で、
まさか「少年」にかかるとは思わないだろう。
そもそも、「リアルな少年って何だよ?」って話になるじゃん。
仮に、だよ。
リアルって単語が「少年」にかかるって誤認が生じるとするなら、
作者は「少年」をリアルに描こうって意識している事になるし、
読者はリアルな「少年」が見たいって前提条件があるって事になるじゃん。
これを児童ポルノに置き換えるなら、
作者はリアルな「児童」を描こうって意識していることになるし、
読者はリアルな「児童」が見たいって欲求している事になっちゃうわけで、
これじゃ、「エロ漫画は児童ポルノの代用物です」って、
本人達が言ってるのと全く変わりがないって事になる。
- 51 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/26(木) 03:25
- 間の悪いことに、『AMI連絡帳VOL.1』には、
後で俺と大喧嘩することになる、
山田一人氏が『ギルティ君』ってマンガを描いていて、
モロに「エロ漫画が児童への性犯罪を抑止する役割を果たしている」
って内容で、しかもご丁寧に『実話』とまで書かれている代物だったから、
見てるこっちの首は180度回転しそうになった。
いやさあ、山田君は子どもとセックスしたいのかもしれないし、
児童に性的虐待を加えたいのかもしれないけどさ。
エロ漫画を買ってる読者の大半は「リアルな児童」なんて望んでないし、
実在する子どもに性的な虐待なんか加えたいとは思ってないはずだぜ。
少なくとも、描き手が「やりたい」なんて書いちゃ駄目だろう。
自分で自分の首を絞めているようなもんだよな。
余談になるけど、
山田氏は後から何度も俺に噛みついてきて、
その度に俺のポジションを有利にするって言う、
信じられないような間の悪さを発揮し続けた挙げ句、
この問題の隠れキーパーソンになっちまった。
本人が意識していたかどうかは定かじゃないけど、
実は山本氏やカマヤン氏よりも、
AMIの立場を不利にするという意味で、
彼にはもの凄く強い影響力があったんだ。
こういう跳ね板みたいな役割を背負っちゃう、
不幸な人って時々いるよね。
俺は噛みつかれた立場だから、
可哀想だとも何とも思わないけどさ。
- 52 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/26(木) 04:11
- 話が脱線したから元に戻すけど、
「リアルな少年(児童)って何だよ?」という、
極めて根本的な議論がなされなかった点が、
漫画の読み方論を唱えていた、
あるいはそれをストップできなかった人間の、
抱えていた共通の論理的な弱点だったし、
実は今も弱点なんだよね。
じゃあ、この場合のリアルとは何なのかと言えば、
それは通事的なものの見方って事になる。
実在する児童の年齢が幾つなのかはさておいて、
とにかく児童が産まれてから何年って時間を、
生きているのはまず間違いない。
この、産まれてから今までという、
不可逆を前提とした時間の流れを前提にしたものの見方を、
仮に『通事的概念』だと思ってくんねえ。
要するに、ものの見方の中に時間というファクターが
入ってるってことやね。
で、この点から漫画のキャラクターを見た場合、
あったりまえの話だけど、
これらのキャラクターそのものには、
通事的なファクターは存在しないわけだから、
(実在していないんだから、
産まれてから今までの時間の経過が無いって事ね)
これらのキャラクターは実在しない=フィクション
って事になる。
これが当時のAMIの主要な面子が唱えていた、
「漫画のキャラクターは実在しない」
って意見の根幹にあたるロジックだ。
実は、この意見そのものは間違ってない。
というか、正しい。
問題は、このロジックが、
他の視覚情報にも適応されちまうって事にある。
要するに、写真やCGにも同じ理屈が使えるってこった。
- 53 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/26(木) 04:29
- じゃあ、何で全ての視覚情報がフィクションになっちまうのかと言えば、
それは視覚情報そのものが共時的な要素で構成されているからなんだよね。
この場合の共時的って言うのは、
空間的な概念は含まれるけど、時間的な概念はほとんど含まれないって意味ね。
視覚情報ってのは、絵だろうが漫画だろうが写真だろうが、
時間の経過が前提としてある世界から、
特定の空間を、短いタイムスパンの中で切り取ることで、
初めて成立するものなんだ。
要するに、誰かを絵として書きたいと思ったら、
その人物を、ある角度からある瞬間でスケッチする必要があるってこった。
別の角度から別の瞬間をスケッチしたものを、
同じ一枚の絵で表現したら混乱が生じるし、
それを狙ったキュビニズムみたいな表現形式もないわけじゃないが、
あれは例外中の例外だろう。
また、こうして作られた情報は、
目を通してほぼ一瞬で理解できるもんだから、
受け手にとっても視覚情報は共時的なんだよね。
そこが、文章情報や音声情報と決定的に違う点だ。
文章も音声も並べられた序列が違うと、
意味性まで変化しちまうもんだから、
視覚情報と違って瞬時に読むとか瞬時に聴くって行為が、
論理的には非常に難しい。
つまり、情報を受容する段階で、
好む好まないに関わらず、
通時的なファクターが生じてしまうってわけ。
- 54 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/26(木) 04:31
- ×→通事
○→通時
- 55 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/29(日) 03:42
- では、共時的な情報は、どのようにしてフィクションになってしまうのか?
その代表的な例を写真で解説してみよー。
たとえば、亜美って女の子が10歳の時に、
彼女のヌード写真を撮ったとしよう。
この撮影から10年が経過すると、
亜美ちゃんは成長して20歳になっているわけだ。
そうなると、だよ。
もう亜美ちゃんは大人になっているわけだから、
子どもの亜美ちゃん、10歳の時の亜美ちゃんは、
この世に存在しなくなっている。
だから、仮に現実の亜美ちゃんの年齢が問題であれば、
今の亜美ちゃんは20歳なんだから、
彼女の写真は児童ヌードではなくなるし、
10歳の時の亜美ちゃんが実在するかどうかが重要だとするなら、
もう10歳の亜美ちゃんは存在していないわけだから、
その写真はフィクションって事になる。
ROSFの最初にも書いたけど、
写真はあくまで写真であって本物じゃない、
通時的な概念がリアルの証明であるとするなら、
共時的な情報はどこまで行ってもフィクションなんだ。
- 56 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/29(日) 03:47
- これで解らないなら、
もっとドラスティックな例を出そう。
さっきと同じように、
亜美ちゃんが10歳の時に児童ヌードを撮影したとする。
今度は、この亜美ちゃんを撮影直後に殺してしまい、
死体を誰にも解らないように処分してしまったとしよう。
亜美ちゃんに身よりながなければ、
もう彼女はこの世に存在しないわけだから、
写真が実在する女の子を撮ったかどうかは、
彼女を殺害した人間が自白するまで絶対に解らない。
と、いうことはだ。
亜美ちゃんの写真をフィクションだと強弁することが可能になるし、
最低でも、その写真がCGかそうじゃないかは、
別の証拠でもない限り判別不能って事になる。
- 57 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/29(日) 04:11
- この問題は、同時に児童ポルノの定義と密接な関係がある。
一部の小児性愛者の間では、児童ポルノが問題なのは、
肖像権の侵害に当たるからだという意見があるが、
仮にこれが正しいとすると、
肖像権の侵害は親告罪といって、
本人が訴えない限り罪にならないものだから、
児童ポルノに撮影されている少女が既に殺されていると、
誰も訴えないからその作品は問題ないという事になってしまう。
つまり、児童ポルノの問題が肖像権の侵害「のみ」だと、
撮影された被写体さえくたばってれば、
それは児童ポルノじゃないとか、
身元さえ特定できないように、
手書きでトレースしたりデジタル加工さえしておけば、
それは児童ポルノじゃないって言う、
トンデモな意見が通用するようになっちまうわけ。
もちろん、こんな意見が通用するのは、
児童ポルノを見たい人間の間だけだから、
こうしたロジックに世間を納得させるだけのパワーは無い。
にもかかわらず、児童ポルノの定義には、
相変わらず肖像権の侵害って項目があるように見えるんで、
後で述べるように規制推進派のわいせつ概念が、
放置されるという現状を作り出す遠因になってるんだ。
- 58 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/29(日) 14:27
- こっから先はちょいとややこしい話になるから、
わかんない奴は読み飛ばしてくれて結構。
さっきから俺は『リアル』の定義を、
通時的な概念だとしているんだが、
こいつを共時的に処理しようとすると、
実体の有無って問題にすり替わっちまう。
これが、どういうことなのか説明するために、
もう一回子どもの例を出してみよう。
俺は以前に、
実在する児童の年齢が幾つなのかはさておいて、
とにかく児童が産まれてから何年って時間を、
生きているのはまず間違いない。
この、産まれてから今までという、
不可逆を前提とした時間の流れを前提にしたものの見方を、
仮に『通事的概念』だと思ってくんねえ。
って事を書いた。
これを共時的な概念に置き換えると、
一体どういうものになるのかってのが、
今回のキモだ。
- 59 名前: 鳥山仁 投稿日: 2003/06/29(日) 14:36
- 産まれてから今まで生きてきたって事はだよ。
当然、その子どもは物質的な意味で実体を備えているって事になる。
写真というメディアが典型的なものだけど、
実体を共時的な情報に置き換えることは難しい事じゃない。
写真はその子どもの人生=時間の流れを、
全て伝えてくれる訳じゃないが、
その子どもの実体が存在したって言う、
間接的な証拠にはなるからね。
だから、通事的な概念を共時的な概念に置き換えちまうと、
実体の有無が『リアル』さを決定する要素になるし、
実体に似ていれば似ているほど『リアル』に「見える」
って価値観が発生するわけ。
要するに、誰かが「これはリアルだ」と言ったら、
通時的な意味でリアルと言っているのか、
共時的な意味でリアルと言っているのか、
前後の文脈を良く読んで判断する必要があるってこったな。
これは「現実」って単語でも一緒だろうし、
「実在」って単語でも一緒だろう。
- 60 名前: СТАЛКЕР 投稿日: 2005/06/16(木) 07:31:22
- テスト
- 61 名前: СТАЛКЕР 投稿日: 2005/09/08(木) 15:02:31
- と捨て
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