J.LEAGUE PRO-FOOTBALLERS ASSOCIATION-有限責任中間法人 Jリーグ選手協会-

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PROFILE

PROFILE

佐々木勇人選手

生年月日:
1982/11/29
身長/体重:
167/58
ポジション:
MF
経歴:
塩竃FC-大阪学院大

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PROFILE
08.03.01 UPDATE

― 小学生時代(塩竃FCジュニア)
 父が塩竃FCジュニアユースの監督をしていたんです。僕も幼稚園の頃から試合に連れて行ってもらっていて、それでいつの間にか僕もサッカーをするようになっていました。この頃から、父やジュニアユースの選手とサッカーボールで遊んでもらっていたので、技術は知らない間に習得したと思います。父はけっこうスパルタ系で、朝起こされた時にはすでに家の前にコーンが並べてあったりして。(笑)家の前のアスファルトの上でドリブルの練習をしていました。試合に絡み始めたのは、4年生からです。当時からずっとトップ下でプレーしていました。塩竃FCは個人を伸ばす指導が主体で、ミニゲームとかも多く、最終的には個人の突破で…というような指導をするチームでした。だからプレーするのは面白かったですね。塩竃市にはクラブチームがひとつしかなかったので、試合をするのであれば市大会というよりは、県大会という試合の流れになっていました。ブランメル(ベガルタの前身)がライバルで、宮城県でも、東北地区でも、塩竃かブランメルの争いになっていました。でも小学校時代には全国大会までは行けませんでした。塩竃市のトレセンと宮城県のトレセンには小学校5年生くらいから入っていました。宮城県のトレセンはけっこうレベルが高かったですよ。芳賀(札幌)がいましたからね。

― 中学生時代(塩竃FCジュニアユース)
 僕らの頃はみんな上がりたい人は上がれました。中学のサッカー部に行こうとはまったく思いませんでした。ジュニアユースから監督が代わって、フィジカルもやるようになって。ジュニアまでは地元の人が中心だったんですけど、ジュニアユースからは他の地域からも人が入ってくるようになってきたんです。だから、けっこう強くて。ジュニアユースでもやっぱり塩竃かブランメルでした。僕の代には行けませんでしたが、ひとつ上の代は、クラブ選手権も高円宮杯も全国に行きました。それには僕も出場して、鹿島かどこかと試合をした記憶があるんですけど、まったく敵いませんでした。2年生から宮城県のトレセンも入りました。また芳賀がいて。(笑)すでにU-16日本代表候補になっていた芳賀はキングで、すごく上手かったんですよ。

― 高校への進学
 選手権がある高校サッカーにも憧れていたんです。それで、話をしてくれた東北高校とユースとどちらに進もうかすごく迷ったんです。でも、練習を見に行ったら坊主だし、Tシャツに名前が入っているし。ちょっとこれは厳しいな…と思って。(笑)やめました。

― 高校生時代(塩竃FCユース)
 ユースからは厳しくなりました。フィジカルもきつかったです。走りこみも多かったですし。ジュニアの頃から一緒にあがっていった選手も、最後の方にはいなくなっていました。この頃にはブランメルがベガルタになっていましたが、相変わらず県内の勢力はベガルタか塩竃でした。高円宮杯は出られませんでしたが、Jヴィレッジで開催されたクラブ選手権は東北から2チーム出られたので、塩竃とベガルタが出ました。マリノスが一番強くって。坂田や田中隼磨、小原章吾とか。トップに上がった選手が7人くらいいる頃でした。僕らはヴェルディと札幌と対戦しました。ヴェルディには清水康也(鳥栖)とか富沢清太郎(東京V)がいて。康也が上手かったことと、黒かったことが(笑)印象に残っています。宮城選抜ではまた芳賀がキングで。(笑)この頃から今野も入ってきましたが、当時はセンターバックをやっていたと思います。あまり印象は強くありません。国体で全国大会に出ました。1回戦は山梨でそれには勝って。2回戦は宮崎に負けてしまいました。

3年生の頃にベガルタとベルマーレの練習に参加しました。その時、ベルマーレは加藤久さんが監督をしていて、塩竃のアドバイザーもしてくださっていたので、その関係で練習に参加させてもらったんです。プロは全然フィジカルもスピードあって、ちょっとやばいな、ついていけないなって感じて。これは大学に行って少し鍛えた方がいいなって思って。東北よりは関東や関西のリーグの方がレベルが高いんですよね。そんな中、大阪学院大が声をかけてくれたので、一人暮らしもしたことなかったし、関西の言葉や風習もちょっと心配でしたが、お世話になることにしました。

― 大学生時代(大阪学院大)
 1年目は寮に入りました。そんなにきれいではありませんでしたが、とにかく一人部屋でよかったです。僕が入った頃に監督が代わって、コーチも高間さん(現京都TD)になって。グラウンドも芝生でしたし、指導も専門的でした。試合には1年生から絡めました。大阪学院大は関西学生サッカーリーグ2部だったんですが、1部と2部を行き来しつつ、僕が3年の時にはしっかり基盤も出来て、1部に残れるようになりました。大学に入ると、やはりフィジカルがあがるので、1年生から遊ばずにしっかり筋トレをして、負けない体を作りました。ここで僕自身が伸びました。フィジカルとともにスピードもあがったんです。施設や環境もよかったですしね。サッカーに集中できる、大阪に行ってしまったのは正解だったと思います。

4年生の時にベガルタとモンテディオの練習に参加しました。高校の時と違って、それなりに通用したんですよね。でもベガルタはダメでした。横浜FCのセレクションも受けました。絶好調で、キレキレだったんですけど、ここもダメでした。最後にモンテディオが行った埼玉スタジアムでのセレクションに参加しました。12月のトライアウトが終わった後の時期で、来ているほとんどが元Jの選手で、大学生は僕と前田和哉(C大阪)くらいだったんです。のセレクションで合格して、入って欲しい、という話をいただきました。本当に嬉しかったし、安心しました。親も喜んでくれました。

― プロになれた一番のポイントは?
 高校卒業してプロになりたいと思っていたんですけど、ベガルタとベルマーレで非常に悔しい思いをしたんですね。これじゃあだめだ。課題を克服しよう。そう思って、バイトもせずに、遊ばずに、本当にサッカーだけに集中して、フィジカルとスピードを上げることを重点に4年間頑張ったんです。それがよかったんじゃないかなって思います。

【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫
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