2005年03月14日
命なるかな・その五
皇太子妃・雅子さんの完全復調はいまだならずのようだ。このままいけば、湯浅長官が望んだ秋篠宮家の第三子も無理なようだし、早晩愛子さんをめぐって「女性天皇」実現に向けての動きが具体化するだろう。やはり雅子さんは男子を産めなかったことに負い目をもっているのだろうか。一組の夫婦に、子どもが確実に生まれる確率そのものが不確かなのに、そのうえに男女の確率は半分である。「絶対男子出生」じたいが、しょせん無謀な話なのである。
そもそも明治天皇も、大正天皇も「本妻腹」の生まれではない。戦前は側室が認められていたので、おふた方ともわき腹の出自である。ちなみに大正天皇の生母は柳原愛子(やなぎはらなるこ)といって、読み方はちがうが愛子さんと同じ字を書く。今の天皇陛下も女ばかり何人も続いた挙句の待望の男子であった。本妻腹で多数の男子を産むことは稀有なことなのである。
そもそも明治天皇も、大正天皇も「本妻腹」の生まれではない。戦前は側室が認められていたので、おふた方ともわき腹の出自である。ちなみに大正天皇の生母は柳原愛子(やなぎはらなるこ)といって、読み方はちがうが愛子さんと同じ字を書く。今の天皇陛下も女ばかり何人も続いた挙句の待望の男子であった。本妻腹で多数の男子を産むことは稀有なことなのである。
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ところが、この稀有なことをなし遂げた妃がいる。それが大正天皇の妻、節子(さだこ)妃(後に貞明皇后)である。お子さまは4人の男子で、ご長男が昭和天皇である。前後の状況を考えれば天晴れとしかいいようがない。神代の時代から数えて、皇后(定員は1)との間に4人の男子をもうけたのは大正天皇ただ一人という記録を打ち立てている。まさに「お世継ぎ産みマシーン」としては、申し分のない働きをされた方だ。
子産みマシーンなどというと頑健な安産型のイメージが先立つが、人柄のすぐれた女性でもあったようだ。夫である大正天皇が亡くなるときには、存命であった生母・柳原愛子を枕辺に呼ばれて母子の今生の別れができるように配慮した。母としての立場がとれず、陰からしか見守れなかった柳原愛子の、愛惜の情を酌まれた判断といえるだろう。
この節子妃が大正天皇に入内されたのは明治33年のことである。そして、姑にあたる明治天皇妃の美子(はるこ)皇后(後に昭憲皇太后)から、らいを病む人々の話を聞かされる。美子皇后は京都の出身で、京都には聖武天皇の妃、光明皇后が設立した施薬院がある。その見聞にもとづいてらい救済の話をされたという。
姑君の話にいたく感じいった若き皇太子妃は、そののち救らいの事業に生涯、心を尽くされた。らい病院に何度も御下賜金を送られ、誰もがやりたがらぬ仕事に励む医師・光田健輔をねぎらうために宮城(皇居のこと)に呼ばれた。そして、光田に深々と礼をのべたのである。父親がらい病患者の治療にあたっていることで、子どもがいじめられはしないかとそんな心配までしてくれたのである。事実、光田の子どもはいじめられていた。
救らい事業に心をくだいていた貞明皇后は、光田が推進した療養施設のためにずいぶん援助をしている。皇后は全面的に光田の行為を尊いものとして賛辞された。それが、結局は体制側の医師として、国家犯罪に加担したかのようにあつかわれる所以だ。
昭和26年に貞明皇后は崩御されるが、光田は大喪の儀にも参列し、その年の11月には文化勲章を受章している。つけ加えれば、朝日新聞は昭和39年に「天声人語」で光田を「日本のシュバイツァー」と評価し、昭和50年には「救らい事業への貢献」によって朝日賞も贈っている。マスコミも讃えていたのである。そのマスコミが今、手のひらを返して光田を叩いている。
なぜ、貞明皇后がこのように光田をねぎらい、賛辞したのか。それは誰もが、つまり医療関係者ですらやりたがらぬことを、光田が熱心に取り組んだからにほかならない。明治末年、まだ伝染性が強く疑われていた時代には、この病気に取り組もうとする医師は皆無であった。そんななかでハンセン病を専攻しようとする医師は、物好きかご奇特な人物であったのだ。
またかりに、本人が強い使命感をもって取り組もうとしても、家族の強い反対にあって志を遂げられないものが大勢いた。独身ならば縁談がなくなる。親兄弟にも迷惑がかかる。貞明皇后が心配されたように、家族持ちなら妻や子どもが世間からつまはじきにされたのである。本人と家族によほどの覚悟がなければとうてい勤め上げることのできない、苛酷な選択だったのである。
同じことは神谷美恵子も体験している。ここで少し彼女の半生について触れたいと思う。神谷美恵子は1914年の生まれで、決して富裕な家庭ではないが、明治のキリスト者として向上心の強い両親のもとで、その当時にしてはめずらしく高等な教育を受ける機会にめぐまれた。
父親である前田多門が旧5000円札でおなじみの、新渡戸稲造に私淑していた縁で、子ども時代をスイスのジュネーヴで過ごすという帰国子女のはしりでもある。その彼女は19歳のときに初めて「らい」と出会うのである。母方の叔父が牧師をしており、療養施設の多磨全生園で講話をするときに、彼女はオルガン奏者として同行したのである。
このとき初めてらい患者に接して大きな衝撃を受け、医師を志すようになるのである。ところが父親の強い反対にあい、ずっとその夢は叶えられずにいた。美恵子はその後も辛抱強く努力をつづけ、なんとか医師になることだけは認められるが、その交換条件が「らい医療には進まない」ということであったのだ。
彼女は21歳〜22歳のときに肺結核を患っている。この病気もまた感染するためにひどく差別された病気である。このときの彼女の体験はむろんその後の人生に大きく影響をおよぼしているが、詳しくは別の機会にゆずりたいと思う。
この結核が奇跡的に治癒したからこそ、あらたな医師としての道を志願することもできたのであるが、病気と父の反対のために彼女が医学生となったのは20代も後半になってからである。その医学生時代に、美恵子は夏期休暇を利用して長島愛生園(岡山県の療養所)で実習を願い出る。期間はわずかに12日間である。これが精一杯であったのだろう。
この時に出会ったのが愛生園園長の光田健輔なのである。患者とともに歩む献身的な光田の姿勢に美恵子の魂はらい医療へと大きく動くのであるが、進むことができない。偏見と差別が親の反対となって、らいの世界へ飛び込みたいとする美恵子の足をつかんでいたのである。
美恵子は次善の策として、興味のあった精神科医の道を選ぶ。その後遅い結婚と2児の出産・育児、そのうえに病児の世話に追われて、彼女は長い沈潜の日々を余儀なくされるのである。「患者が私を呼んでいる」と、家庭と仕事の両立に悩み続けるのであった。
そんな彼女に転機が訪れる。41歳で初期の子宮ガンが見つかったのだ。さいわい治療が功を奏して進行をくいとめることができるのだが、このとき彼女は「自分の余命」を真剣に考える。そして、もう今しかないという思いでらいの精神医学的研究を目的に、らい医療の道に進むのである。初めてらい患者と出会ってから、じつに23年の年月がたっていた。
ところが、この稀有なことをなし遂げた妃がいる。それが大正天皇の妻、節子(さだこ)妃(後に貞明皇后)である。お子さまは4人の男子で、ご長男が昭和天皇である。前後の状況を考えれば天晴れとしかいいようがない。神代の時代から数えて、皇后(定員は1)との間に4人の男子をもうけたのは大正天皇ただ一人という記録を打ち立てている。まさに「お世継ぎ産みマシーン」としては、申し分のない働きをされた方だ。
子産みマシーンなどというと頑健な安産型のイメージが先立つが、人柄のすぐれた女性でもあったようだ。夫である大正天皇が亡くなるときには、存命であった生母・柳原愛子を枕辺に呼ばれて母子の今生の別れができるように配慮した。母としての立場がとれず、陰からしか見守れなかった柳原愛子の、愛惜の情を酌まれた判断といえるだろう。
この節子妃が大正天皇に入内されたのは明治33年のことである。そして、姑にあたる明治天皇妃の美子(はるこ)皇后(後に昭憲皇太后)から、らいを病む人々の話を聞かされる。美子皇后は京都の出身で、京都には聖武天皇の妃、光明皇后が設立した施薬院がある。その見聞にもとづいてらい救済の話をされたという。
姑君の話にいたく感じいった若き皇太子妃は、そののち救らいの事業に生涯、心を尽くされた。らい病院に何度も御下賜金を送られ、誰もがやりたがらぬ仕事に励む医師・光田健輔をねぎらうために宮城(皇居のこと)に呼ばれた。そして、光田に深々と礼をのべたのである。父親がらい病患者の治療にあたっていることで、子どもがいじめられはしないかとそんな心配までしてくれたのである。事実、光田の子どもはいじめられていた。
救らい事業に心をくだいていた貞明皇后は、光田が推進した療養施設のためにずいぶん援助をしている。皇后は全面的に光田の行為を尊いものとして賛辞された。それが、結局は体制側の医師として、国家犯罪に加担したかのようにあつかわれる所以だ。
昭和26年に貞明皇后は崩御されるが、光田は大喪の儀にも参列し、その年の11月には文化勲章を受章している。つけ加えれば、朝日新聞は昭和39年に「天声人語」で光田を「日本のシュバイツァー」と評価し、昭和50年には「救らい事業への貢献」によって朝日賞も贈っている。マスコミも讃えていたのである。そのマスコミが今、手のひらを返して光田を叩いている。
なぜ、貞明皇后がこのように光田をねぎらい、賛辞したのか。それは誰もが、つまり医療関係者ですらやりたがらぬことを、光田が熱心に取り組んだからにほかならない。明治末年、まだ伝染性が強く疑われていた時代には、この病気に取り組もうとする医師は皆無であった。そんななかでハンセン病を専攻しようとする医師は、物好きかご奇特な人物であったのだ。
またかりに、本人が強い使命感をもって取り組もうとしても、家族の強い反対にあって志を遂げられないものが大勢いた。独身ならば縁談がなくなる。親兄弟にも迷惑がかかる。貞明皇后が心配されたように、家族持ちなら妻や子どもが世間からつまはじきにされたのである。本人と家族によほどの覚悟がなければとうてい勤め上げることのできない、苛酷な選択だったのである。
同じことは神谷美恵子も体験している。ここで少し彼女の半生について触れたいと思う。神谷美恵子は1914年の生まれで、決して富裕な家庭ではないが、明治のキリスト者として向上心の強い両親のもとで、その当時にしてはめずらしく高等な教育を受ける機会にめぐまれた。
父親である前田多門が旧5000円札でおなじみの、新渡戸稲造に私淑していた縁で、子ども時代をスイスのジュネーヴで過ごすという帰国子女のはしりでもある。その彼女は19歳のときに初めて「らい」と出会うのである。母方の叔父が牧師をしており、療養施設の多磨全生園で講話をするときに、彼女はオルガン奏者として同行したのである。
このとき初めてらい患者に接して大きな衝撃を受け、医師を志すようになるのである。ところが父親の強い反対にあい、ずっとその夢は叶えられずにいた。美恵子はその後も辛抱強く努力をつづけ、なんとか医師になることだけは認められるが、その交換条件が「らい医療には進まない」ということであったのだ。
彼女は21歳〜22歳のときに肺結核を患っている。この病気もまた感染するためにひどく差別された病気である。このときの彼女の体験はむろんその後の人生に大きく影響をおよぼしているが、詳しくは別の機会にゆずりたいと思う。
この結核が奇跡的に治癒したからこそ、あらたな医師としての道を志願することもできたのであるが、病気と父の反対のために彼女が医学生となったのは20代も後半になってからである。その医学生時代に、美恵子は夏期休暇を利用して長島愛生園(岡山県の療養所)で実習を願い出る。期間はわずかに12日間である。これが精一杯であったのだろう。
この時に出会ったのが愛生園園長の光田健輔なのである。患者とともに歩む献身的な光田の姿勢に美恵子の魂はらい医療へと大きく動くのであるが、進むことができない。偏見と差別が親の反対となって、らいの世界へ飛び込みたいとする美恵子の足をつかんでいたのである。
美恵子は次善の策として、興味のあった精神科医の道を選ぶ。その後遅い結婚と2児の出産・育児、そのうえに病児の世話に追われて、彼女は長い沈潜の日々を余儀なくされるのである。「患者が私を呼んでいる」と、家庭と仕事の両立に悩み続けるのであった。
そんな彼女に転機が訪れる。41歳で初期の子宮ガンが見つかったのだ。さいわい治療が功を奏して進行をくいとめることができるのだが、このとき彼女は「自分の余命」を真剣に考える。そして、もう今しかないという思いでらいの精神医学的研究を目的に、らい医療の道に進むのである。初めてらい患者と出会ってから、じつに23年の年月がたっていた。