オバマが大統領に就任して、ブッシュ政権がこの間進めてきた「テロとの戦争」路線が見直されるのではないかという期待が拡がっている。しかし、ぼくは、本質的なところで米国の安全保障政策は変わらないだろうと思っている。むしろ、オバマ政権への期待が平和運動内部にあることの結果として、平和運動そのものが本来もつべき政権への冷静な批判的スタンスが揺らいで、政権の振る舞いを静観してしまう結果を招きはしないか。イラクであれアフガンであれ、パレスチナであれ、米軍の軍事行動を過小評価しかねないことになるのではないか。日本との関係でいえば、米軍基地問題はオバマ政権下にあっても基本的な解決は何一つ論じられていない。
◆経済ナショナリズムと移住労働者排斥
グアンタナモ基地の閉鎖が米国の国内世論を背景としてオバマが選挙期間中から公約として掲げていたこととの比較でいえば、日本国内の反米軍基地運動が米国の政治を動かすほどには強くないということでいえば、私たち日本の民衆の力量の問題であるということになるのかもしれない。しかし、そうであったとしても、米国が外国に軍隊を置く一方で、米国内に同盟諸国の軍事基地を置くことを認めるはずもないということを考えたとき、米国は、いかなる政権であれ軍事的にも政治的にも強い米国を体現しつづけられる限りにおいて、外国における米軍の存在を否定することはできようもない。
米国に限らず、ナショナリズムの求心力は国家の強さにあり、国家の弱さにはない。強いとか弱いとかの尺度は経済力と軍事力であり、これらを背景とした政治力(合意形成のイニシアチブをとることのできる交渉上の影響力)だろう。国家は国家としてみずからの存在を維持再生産しようとする。国家の中核を担っていると自負する政治家や官僚、そしてかれらを支えていると信じている資本家たちにとって国家に要求されているのは右のような意味での国家の「強さ」であって、それこそが資本蓄積を維持できる最大の条件なのであって、新自由主義かケインズ主義かという選択肢は、二義的なことでしかない。危機に際して資本と国家は、ナショナリストとして危機克服のために、お互いが持てる力を補完しあおうとするのは当然の成り行きであって、新自由主義の破綻は資本主義の破綻とは意味が違う。
今現在の危機に対して資本も国家も、確実にナショナリズムの心情を動員しはじめている。戦前のナショナリズムが天皇制イデオロギーとして露出したのに対して、戦後日本のナショナリズムは経済ナショナリズムを経由して「日本人」に経済的な豊かさを担保することを通じて達成されてきたが、危機にあっては、「日本人」を危機から防衛する方向で、この経済ナショナリズムが動員されている。非正規の外国人労働者や移民の排斥にこのことが端的に示されている。同時に、たとえば、会員数5000名近くになるといわれている「在日特権を許さない会」(在特会)のように、右翼市民運動ともいうべき排外主義的な運動が急速な広がりをみせている。日刊ベリタで村上力は次のように書いている。
「日本社会の在日コリアンに対する差別・嫌悪は、戦前‐戦後一貫している。それは朝鮮学校の『非合法』化、無年金問題などの国家的、制度的な次元のものから、民衆の間において、『チマ・チョゴリ事件』やそのほか多様な形でのいやがらせは存在していた。その根強い差別意識に拍車をかけたのが『拉致』キャンペーンであり、『嫌韓流』やその類の出版物の流行がその証左である。
そういった流行の中で、『在特会』は2007年に正式に発足した。それはこれまで散発的に発生していた『事件』や、インターネットにおける書き込みなど、民衆の間でアングラ的に生産されていた差別・嫌悪が『市民団体』という形をとって集束したものといえよう。
一般的に、人は特定の集団や個人に対して嫌悪感を持ち、差別をすることがある。しかしそれは理不尽なものであって、筆者を含めて人々はそれを是正するように努力をする。実際に学校や職場などのコミュニティーで様々な人に接して、克服されていくはずである。
ところが『在特会』の在日コリアンおよび在日外国人一般に対する嫌悪は、「在日特権」などの政治的イシューでもって、市民運動として主張される。つまり彼らは、彼らなりの理論のようなものをこしらえているのだ。 」(2009年2月29日、http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200902231138491 )
◆在日米軍の特権と闘わない戦後右翼
不況を追い風にして、右翼は外国人労働者排斥というかれらの主張を前面に押し出している。かれらが主としてターゲットにしているのは、日本で暮らす底辺層としての外国人労働者たちだ。かれらは、近代化のなかで貧しい「日本人」がアジアや南北アメリカや太平洋州に移民として出て行った歴史をどのように理解しているのだろうか。移民は、国家による侵略の尖兵になることもあれば、国家の棄民であることもあり、また、受け入れ国の人々に歓待され、出身国の文化を尊重されることもあれば、逆に同化を強いられることもある。移民の歴史は決して一つの色ではないが、仕事を求めて国境を超える人々の思いを国家の思惑で計り、ナショナリズムの物差しで切り捨てることは明らかに間違っている。人々が地上を移動する動機は、国家や資本の思惑に還元できないし、移動の歴史は国家と資本の歴史よりもはるかに長く、人類200万年の歴史そのものだからだ。
右翼の外国人排斥運動はもちろんこうした歴史など顧慮することはないだろうが、しかしかれらのナショナリズムがナショナリズムの名に値しないであろうこともまた指摘してかねばならない。というのは、戦後右翼は、日本の主権を侵し続けてきた戦後最大の「外国人」勢力である在日米軍の特権と闘おうとしてきたことは一度もないし、米軍をこの国に受け入れ続けることをむしろ積極的に容認してきたからだ。ここにかれらの欺瞞のすべてがある。また、かれらが、日本資本による国外侵出を否定することはない。日本の資本も「日本人」も国外に移動する自由があっていいが、その逆は許さないという発想は、米国が軍事基地に対してとっている態度と発想はまったく同じだ。
◆貧困化する社会と右翼市民運動
村上は上記の文章のなかで在特会などの右翼市民運動が地方行政への運動で一定の成果をあげている事例を紹介しているが、こうした右翼市民運動が「下から」政府を動かすだけの力を持ち始めているとすれば、この不合理な大衆感情が法や制度の体裁をとって一定の正当性をもった政治的な力の形成へと結びつく危険性があるということを示している。好き嫌いといった感情や根拠のない差別意識を「論理的」に正当化する道筋が制度のなかでできてしまうと、いかなる荒唐無稽な主張も正論の位置を与えられてしまう。とりわけこの日本という国家には、建国の理念がなく、八紘一宇であれ米国流民主主義であれ、なんであっても「天皇」=国体を前提とした国家が存続しさえすれば、味方を裏切ることも敵に寝返ることも厭わない無節操さの歴史を振りかえったとき、右翼の差別と排外主義の心情が制度の形をとって権力のなかに物質化される危険を軽く見てはいけないだろう。
外国人の移住労働者たちへの排斥感情をどのような階層の人々がとくに強く抱いているのか、客観的なデータがあるわけではないが、非正規の底辺労働者たちの中にも少なからずこうした心情がありうるだろうことは想像に難くない。しかし、こうした排斥感情ほどぼくを辛い気分にさせるものはない。この間の毎年3万人を超える自殺者や、貧困のなかで追い詰められて衝動的に殺傷事件を引き起こす人々同様、かれらは、潜在的に資本と国家への懐疑を抱きながら、しかし、ターゲットにすべき相手を間違っているからだ。資本と国家こそが底辺層の労働者たちをお互いに競争に追い込み、敵意を醸成し、かれらの労働を搾取してきたのであり、もしかれらが刃を向けるとすれば、自分たちを使い捨ててきた資本家や政治家たちに対してであって、自らの命や同じ境遇にある(国籍は何であれ)隣人に向けられるべきものではない。
欧米でも経済危機が移民の排斥運動を激化させ、ネオナチを台頭させる社会的な要因となっていることは繰り返し指摘されてきたことだから、とくに日本に固有の現象だというわけではなく、危機にある国家がナショナリズムを動員するときに普遍的に見出せる現象であるとみるべきだとすれば、このことのなかに近代国家の限界を見出す必要がある。米国流のナショナリズムは、人種の多様性を「自由と民主主義」の価値観によってフィルターにかけて「国民」として統合した上で、国籍をめぐる厳しい差別を設ける。
移民を受け入れてきた国民国家は何らかの普遍的な理念を媒介にして、移民の「国民」化のためのイデオロギー装置を備えてきた。人種差別はなくなることはなく、排除と差別の構造が普遍的な価値観に裏打ちされた制度の背後で作動するように隠される。日本はそうした装置を持たない。いや、天皇制をイデオロギー装置の一角に維持する以上持ち得ない。その分日本の民族差別や移民排除は露骨になる。
この違いはあるにしても、近代国家が国籍や国民という概念を不可避的に伴わざるをえない限り、国家による民衆の分断と相互敵対の構造は、国家の本質とならざるをえない。ひとびとが直感的に感じ取っている国家と資本への潜在的な懐疑を、移民への排斥によってその矛先を逸らせるような大衆感情は、ナショナリズム幻想にしか「夢」を見出せないのに対して、移民を歓待し、国籍や民族にとらわれない社会(天皇制なき国家ではなく、天皇制も国家もない社会)をたとえ「夢」や「ユートピア」であると思われようも描き出すことが必要なのだと思う。
(初出『反天皇制運動あにまる』27号、反天皇制運動連絡会、2009年3月)
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