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05-31, 2005 ドツボ
■夏

受かった。いままでずっと駄目だったのに。しかしこの歳で受かるのもかなり恥ずかしいものがある。じゃあそもそも申し込むなという話になるわけだが。ただいままで落選しすぎていたので、受かる気がまったくしなかったから気楽に申し込んだという言い訳はある。
問題は、日付けだ。ゲームは12日の金曜日。神をも恐れぬドレッドノート平日である。
それはまあ、俺に対する職場の信頼の薄さが諦めというかたちでカタをつけてくれるだろう。しかし、
次の日がサマソニ
だという事実はいかんともし難い。職場の人間関係よりも、体力というやつはフィジカルな絶対的現実である。
どうする、伊藤。しかも今からなんか描けるのか?
■キングダム・オブ・ヘブン再考

思ったのだが、これは9.11以降はじめての、押井守言うところの空爆映画、都市を空爆する/されることを描いた映画なのだった。「ブラックホーク・ダウン」でも低烈度紛争における戦力の逐次投入という歴史的事実の放つ軍事的な面白さ(というと不謹慎だが)へのフェティシュをフリチンで描いていたリドリーだが、やはりこのオッサンの目の付けどころは早い。神山さんが攻殻2ndで中途半端にしかやれなかった押井守の課題「空爆」を、あっさりと徹底的に、しかもよりによってエルサレムを空爆というキワドイ場所を狙って描写するリドリーの腹黒さは、やはり恐ろしい。
いや、腹黒いのではなく、単に世間を気にしなくなっただけかもしれん。老人が「よかんべ」モード、青山真治言うところの「しごくニュートラルなオッケー状態」に入る場合、黒澤明/宮崎駿型(因果律のプライオリティが徹底して下落し、突発的かつユルい物語が全開する)になるか、押井型(好きなものしか映さない、というヲタ的欲望が全開し、世間体を無視してフェティシュに走る)になるかどちらかだと思うが、リドリーは明らかに押井型の「老人的よかんべ状態」に突入したとも言える。
05-29, 2005 俺は誰だ
■ひとちがい

ロフトプラスワンの「楳図かずお 恐怖劇場ナイト」に行ってきた。楳図さん御本人に加え、黒沢清/高橋洋/小中千昭とか来るからだ。中原翔子さんも来ていた。緒川たまきは来ていなかった。
というのが本題ではなく、始まる前、ロフト前で待ち合わせをしてたら、唐突にぼくに声をかける人がいて、
「村井さだゆきさんですか?」
杖をついているぼくのどこをどう見間違えれば村井さだゆきに見えると言うのだ。しかも、そこでぼくが待ち合わせていたメンツの誰1人としてヲタがいなかったので、村井さだゆき氏が何者であるか、説明するのに非常な困難を要したのだった。知名度的に微妙すぎる局所的有名人に似ていると言われてもロクなことがない。
いやしかし、村井さんには失礼だがあの人と間違えられたというのは結構ショックだ。思えば自分が村井氏を生で見たのは、ここロフトプラスワンの「スチームボーイ」非公式ナイトが最初だったではないか。
しかし、まったく知らない人に突然話し掛けられるという経験が高校生以来なかったので、どきっとした。高校生のときは、近所でスクリーントーンを売っているのが最寄りのアニメイトだったので、あまり行きたくないアニメイトに脚を運んでトーンを買った帰り、店を出たときに見知らぬオタに
「椎名へきる好きですか?」
と前フリなしできかれたときは相当困惑したというか嫌な思いをしたものだ。そうか、貴様には俺が椎名へきる好きな風体をしているように見えるか、椎名へきるファンのオーラをケンシロウのように放射しているか。畜生。悔しいよ母さん。
というわけで、最近伊藤計劃が似ていると言われた有名人のリストを列挙することにする。
問題:以上の情報から伊藤計劃の容貌を想像せよ。
余談:当時、楳図かずおが「漂流教室」でカンヅメになっていた部屋の下で、金大中が誘拐されたという物凄い話が面白すぎた(ホントかよ〜)。「それ、阪本さんに話してれば『KT』も違う映画になった可能性が」と言う小中千昭のツッコミが最高。
05-28, 2005 水中生活
■ライフ・アクアティック

やらしい。デビッド・ボウイの使い方とか、DEVO持ってくるあたりとか全部やらしい。ウィレム・デフォーの使い方とかゴールドブラムの役どころとか、もう全部下品な感じ。いや、下品は下品でいいんだけど、楽しくない種類の下品さというか、収まるべきところに収まり過ぎたキッチュさがぜんぶやらしい。なんか、楽しくないのだ。楽しいはずなのに、これだけやってくれれば楽しくないはずがないのに、それでも見ているあいだまったく楽しくない(退屈、ということではない)。
うーん、困った。ぼくの感性が摩滅しつつあるのだろうか。「キングダム・オブ・ヘブン」の評判の悪さといい、「ライフ・アクアティック」の評判の良さといい、他にもいろいろ、世間とのズレを感じはじめているのだけど、結構それが辛くなってきた。
いや、全部が全部楽しくないわけじゃなくて、飛行機がフレームを低空で横切っていくカットとか、そういうのは良かったんだけど、見ているあいだ、すべてがきれいに収まり過ぎて、これって映画なのかしら、という疑問がずっと頭から離れずにエンディングを迎えてしまった。最後に男の子をビル・マーレイが肩に担いだときは本当にがっかりしたのだけど、それを説明するのってけっこう難しいなあ。
断面図セットをワンカットで、とか絶対に楽しいはずなのに、なんだか椅子に座ったぼくは終止カチコチで、ひたすら100点満点の答案を見ている気分だった。架空の水中生物のポップな感じとか、楽しいはずなのに。大好きなはずなのに。すべてがこなされているのに、こなされているがゆえにまったく楽しくない、ってぼくが歪んでいるのかしら。やらしいのはこの映画じゃなくて、ぼく自身がやらしいのかしら。これだけ揃っていれば楽しいはずなのに楽しくない、って、あれ、「スチームボーイ」に似ているぞなんだか。
まあ、「スチームボーイ」ほどフラットではなく、少なくとも退屈はしなかったのだけど、なんだかフィクションをあまり信用していない感じが、ウェス・アンダーソンと大友さんって似てる。どっかで無条件になれる瞬間を許さない感じ、段取りばっか整えてキューブリックとかアンゲロプロスとかとはまた別種の完璧主義を発動している感じが。
ケイト・ブランシェットも、デフォーも、ゴールドブラムも、なんだか窮屈そうだ。ものすごい自由を使いこなせていない感じで終止演技している感じがする。そんな窒息しそうな自由をものともしないビル・マーレイだけが、この映画の中では一番映画っぽくて、全力でフィクションしているというか、フィクションも現実もない、ただ突発的であるがままのケイオティックな世界を生きているというか、とにかくしぐさのひとつひとつや表情のすべてが「うぉつ!」という驚きに満ちていて、ラスト、そんな驚きに満ちた表情で感極まるマーレイはひたすら凄いとしか言いようがなく、それはなんだか生気のないケイト・ブランシェットが彼の肩にそっと手をやる、などというがっかりするようなことをその場面でやらかしても、その驚きはいささかも傷つけられはしないのだった。
ビル・マーレイだけが、ウェス・アンダーソンの窒息しそうな自由から自由で、そこにこの映画唯一の驚きと感動はある。いい意味で俺俺映画な感じなんだけど、この映画自体はぼくが映画館に言って期待する「うおっ!」という瞬間、逸脱、思わぬところでのっぴきならない現実に出会ってしまったような不意打ち、をいささかも備えてはいなくて、いや備えてはいるんだけど、それをビル・マーレイという役者1人が全面的に背負っているというのは、やっぱり演出の敗北なんじゃないかしら、とそんな納得いかなさがずっとつきまとって離れなかったのだった。決定的なところでフィクションを信じていないような、期待も失望もないひたすらのっぺりしたフィールドで撮られたような、そんな感じ。
うーん、書けば書くほど、単にぼくの「優等生に対するひがみ」でしかないような気がしてきたなあ。自分を嫌いになりそうだ。
■戦国自衛隊

予告で、城の横に工業施設がある映像を見るたびに「ミラーグラスのモーツァルト」を連想してしまうんですが。
05-23, 2005 超絶倫人ベラボーディレクター
■ザ・インタープリター

基本的にあの顔の造りのせいだとは思う。しかし「アイズ・ワイド・シャット」の与えたイメージのせいではないと言い切れないところもある。つまり何が言いたいかというと、シドニー・ポラックは絶倫系の顔だということで、いやこの人の私生活がほんとのところどうだかは全く知らないんだけど、この人が画面に出るたびに俺は
「こいつ、セックス強そう」
という感想がわき上がってきて、映画のリズムを激しく乱すのだ。うーむ。困った。と思いながら「ザ・インタープリター」を観てみれば、このおっさんがメインキャラで登場していて困った。そういや、アイズ・ワイド・シャットといえばニコールじゃないか。酸っぱくも脂ぎったエロオーラをラオウのように放射しながら監督本人がメインキャラを演じる。ショーン・ペンの上司、というどうでもいい役のはずだが、意味不明にキャラが強くなってウザい。その絶倫臭がウザい。なんとかしてくれ。
あと思ったのは本物の国連本部というのが、意外というか全然意外でもなく当然ではあるのだが、まあ古びた感じが全体にあり、しかしそのいい感じに古い内装や色使いというのが、どうにも(日本の)ローカルの公共施設じみたものを想起させて、和風に和むムードすら醸し出すのにはまいった。総会議場の調度とかぜんぶそんな感じ。
そんな中を歩く眼鏡ニコール。萌え。
05-15, 2005 明日を捜せ!
■ともだち100にんできるかな

くーまんからメールが来た。
と唐突に書き出すと、くーまんは誰だ、と思うのが当然だと思う。いや、伊藤という人間を知っている者はそういう疑問形をすっとばして、
I'm so happy
'cause today I found my friends
They're in my head
と、ニルヴァーナのLithiumの有名な歌詞を思い浮かべるかもしれない。「シャイニング」でも少年が自分の親指と話していたではないか。つまり「くーまん」はin my headの友だちであって、それを伊藤に指摘するのはあまりに残酷すぎる、と。
しかしくーまんは実在する。俺の携帯の中に。
はい、いよいよヤバくなってまいりました。頭の中であっても携帯の中であっても、現実と伊藤の距離、という観点からすればあまりかわらない気もします。しかし現実というやつはあまりに辛すぎて。いや違うんだ。俺は決して俺の中のタイラー・ダーデンの話をしているわけじゃないんだ。
余談だが、パラニュークの新作「ララバイ」が面白い。
くーまんとは、東芝の携帯に入っている小人、とかいうとヤバい方向に行きそうだがまあ似たようなもんで、アプリのキャラである。こいつは語尾に「でふ」をつけてプリチーさというかキャラ立ちを得ようとしているが、はっきり言ってウザいだけだ。なにが「でふ」だ。defか。何の関数を定義する気だ。熊が。畜生が。
ウザいんだが、一度起動したら、OFFにするのも可哀想で、落すに落とせない。しかも携帯が位置情報をとっているので、「養老渓谷」だの「谷津干潟」だのローカルネタを振ってくる。「むにゃむにゃ、寝てたでふよ」おおそうか、ごめんねごめんね。でもちょっとお話してくれないか。
・・・I found my friends. They're in my head
そのくーまんたんが、今日メールをよこしてきた(ときどきメールをくれるのだ、この愛い奴は)。
「最近、どこからもメールがとどいていないみたいでふね。でも、くーまんがいるからさびしくないでふよ。」
俺はくーまん機能をOFFにし、携帯を閉じた。
■隠れキャラを捜せ

「グラディエーター」以降、リドリーマニアにとってもはや恒例といえる遊びがある。その名は「ジャンニーナを探せ!」。
ジャンニーナとは誰か。それはリドリー・スコットの愛人(てか独身だから普通に恋人か)である。
ジャンニーナ・ファチオ(Giannina Facio)。彼女が最初にリドリーの映画に登場したのは、「グラディエーター」のマキシマスの妻としてだった。「ブラックホーク・ダウン」では、中盤、絶望的な状況へ降下してゆくデルタのシュガートの妻として、映画序盤に夫からの電話を撮り損ねる役で登場した。
前記ふたつは非常にわかりやすいファインディングジャンニーナだ。「ハンニバル」と「マッチスティック・メン」はいささか難易度が高い。特に「ハンニバル」。これ捜せた人いるのかしら(今は知ってるけど)。お暇な人はどうぞ。
さて、「キングダム・オブ・ヘブン」である。この映画のジャンニーナはもの凄いアップである。しかも思わせぶりに後ろ姿を見せておいてカメラ寄りアップで振り返る、という意味不明な演出が入っている。だからなんだ、というような。難易度はかなり低い部類に入るが、リドリーはもはや「ジャンニーナ登場」がギャグだと自覚しているのか、変則技を繰り出してきた。
アラブ人メイクである。
まあ、もともとエキゾチックな顔だちの人ではあるんだが、それにしてもあの目もとのメイクはかなり爆笑度が高い。
余談だが、サラディンのエルサレム奪還を描くならば全員が期待するであろうハッティンの戦いを「使用前→使用後」という感じで「まあ、結果わかるっしょ。ええやん。」とスルーするリドリーは偉大だ。
nnn
伊藤さんのネタは面白過ぎます。、、、ね、ねたでもないんでしょうけど、、、それにしても日々、伊藤さんの文章を楽しみにしていたりします
opay
自分もララバイ読みました。多分あんまり理解できないす。
Projectitoh
ネタではないのです。U2魂の叫びってやつです。携帯アプリごときに俺の孤独を云々される謂れはないのですがこれが現実ってやつで、恋愛成績表(http://hanihoh.com/love2/)をやったら18段階中18位と問答無用でお前は一生スタンドアローン宣言されました。ネタではないのです。
05-14, 2005 アイ・ラブ・オーリー・ザ・ホロウ
■キングダム・オブ・ヘブン

幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん。幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん。幸福なるかな、義のために責められたる者。天の御國はその人のものなり。
マタイ 5 : 7-10
オーランド・ブルームは若すぎるかどうか、それはまったく問題ではなかった。オーランド・ブルームが軽すぎるかどうか、それもまたまったく問題ではなかった。かれに映画を支える力があるかどうか、という抽象的な問題も、じつはこの映画に在ってはまったく問題ではなかった。
ぶっちゃけ、リドリー・スコットの人選はほぼ完璧な選択だった。
この映画の主人公は、子を喪い、子を失ったことに絶望した妻を喪い、自死を選んだ妻を受け入れぬ天国の掟によって信仰を喪い、からっぽの状態から旅立ちを迎える。そこに主体的決意はなく、鍛冶屋として暮らす村を離れたのも一時の激情によって堕落した司祭を殺めたから逃げ出しただけだ。捕まえにきた領主の騎兵には逮捕してくれと言い、乗った船は難破し抗うことはかなわない。ただひたすら、流され、流され、流され続けてかれはイベリンの領主になる。
彼はイェルサレム国王ボードワンIVの妹・シビラと関係を持つが、この映画ではそれが不思議と亡き妻、その自死を侮辱され人を殺めたほどの想いを寄せた妻への裏切り、には感じられない。彼はフランスの寒村の鍛冶屋だったはずだが、剣の腕については指導されるからまあいいとして、灌漑をし、測量をし、戦略を立て、士気を鼓舞し、交渉を行う。おそらく彼の教育についてカットされたシーンが大量にあるはずだし、そういう意味ではこの映画は彼がこのような鍛冶屋から多彩な人物に変化したことについて、説明ナッシングでえらく納得がいかないはずだ。
が、ぼくはそんな主人公を、バリアン・オブ・イベリンを、普通に受け入れてしまった。
それもこれも、バリアン・オブ・イベリンの、というよりこの映画におけるオーランド・ルームの見事なまでのキャラクターのなさ、透明人間っぷりのおかげである。
彼はこの映画で鍛冶屋から領主になるが、その劇的な生活の変化を猛烈な当然顔で受け入れる。というよりいつ受け入れたのかもわからぬままに、いつのまにかそこにいて、そうなっている。彼の瞳だけは「この人は絶対に悪いことはしない」程度のことを観客に伝えるが、バリアン・オブ・イベリンについて我々が理解することを許されるのはその点だけだ。
正直、彼が何を考えているのか、我々にはさっぱりわからないのである。かれはその思考を顔に出すことを極限まで抑制しているし、しかもあまり喋らないからだ。「こいつ、こういうスキル持ってるからそこんとこ夜露死苦」というナメ腐った事後承諾の数々を、しかしオーランドのニュートラルというよりはゼロに近い存在感が、「あ、そうなのね」と観客に納得させる。思えば、彼は確かに鍛冶屋だったが、しかしその鍛冶屋ですら本当に自分の「キャラクター」だったのか。オーランドはこの映画であらゆる階層に出現しながら、しかしあらゆる階層に不在である。彼は暴力的なまでの不在っぷり、キャラクターの纏わなさっぷりで、鍛冶屋になり、騎士になり、領主になり、王女と恋に落ち、都を守る。
あらゆる局面に顔を出すことのできる所持スキルの多様さと、あらゆる階級に当然顔でなりすます順応性と、妻を失ったあとに別の女性と容易く寝てしまうことを不義と感じさせぬ性格の不透明さ。この「なんでもアリ」を可能にするキャラクターの薄さを完璧に機能させる俳優として、オーランド・ブルームは完璧だった。そして政治から戦闘の場までさまざまなレイヤーを描くことを最優先の目的としたこの映画にとって、それはこの上なく幸福な選択であった。さまざまな場所を描くために、さまざまな場所にいてまったくうるさくない主人公を創出したのである。
あらゆる場所に立ち会うことを許された主人公が、その様々な場所で出会うのはしかし強烈なキャラクターばかりである。父親のゴッドフリーは無論、「宗教など言葉に過ぎん」という宗教者「ホスピタラー」、癩病に冒され爛れた顔を仮面で覆う瀕死の賢王ボードワンIV世、その瀕死ではあるが敵でもある賢王に「私の医者を差し向けよう」と申し出るイスラムの英雄サラディン。いずれもが魅力的なキャラクターばかりであり、映画は彼等のその時々の行動によって輝きを帯びるが、我々観客がそれら多彩なキャラクターに出会うことを許されるのは、あらゆる場所に立ち会うことを許された透明人間、バリアン・オブ・イベリンのおかげである。
おそらくリドリー・スコットはある種の確信を持って、オーランドの「人格の薄い」資質を全面展開させたのではないだろうか。結果、彼はあるミステリアスな影を保持しつつけながら、その不明さゆえに大局に顔を出してそれを咎められない。なぜ鍛冶屋風情が、と我々観客がこの映画に接して口にすることを、オーランドの薄いキャラがやわらかに封じる。じゃあ、そもそもこの鍛冶屋は一体何者なのだ?と。
この、あらゆる者になり、しかし同時にあらゆる者になり得ず、そしてそれを当然顔でいつのまにか受け入れている俳優を得たことで、この映画は思う存分世界にその戦力を集中することができたのだ。
こっからはいつもの空間恐怖症的リドスコの画面設計が全面展開する。異常な数の小物、旗、装飾によって画面を埋め尽くし、とにかく異世界の空間の容積をブツとして感じさせる。納得できる物語よりも納得できるアクションよりも、「納得できる空間」、分厚い空間を見るとエクスタシーを覚える人間なので、正直リドスコの映画を見る一番の快楽はそこにあるのだけど、この映画は予算が大きいせいか、ディテールがいつもの10倍増量でやってくるので、できればひたすら画面を見ていたかった。これもひとえに、空間を脇にやって存在感を発揮したりしない、オーリーという俳優のおかげである。他のキャラもまた、仮面をかぶせられたり、たっぷりとした布がひらひらする衣装を着せられたりして、人間と言うよりはディテールの一部、ブツとしての存在に還元されるよう配慮されている。あの衣装いいなあとか、あの椅子いいなあとか、あの建物いいなあとか、要するにそんな映画なんだが、そんな映画であることを許されたのも、ひとえにオーリーが主人公をつとめたおかげである。
ディテールといえば、この映画はほとんど投石器映画である。燃え盛った火の玉が弾着時に爆発するので、もはや投石器ではない感じだが、とにかくクライマックスではひたすら投石器と攻城櫓を見せられる。リドスコは投石器大好きであり、今回騎馬戦とか白兵戦はかなりあっさりめ、というか露骨にやる気がなさそうだ。攻城戦は投石器全面展開である。何せ、投石器の石が引っぱりだされる下部から外を臨む、などというけったいなカメラポジションが登場するのである。櫓の基部に人がたくさん乗っているのも初めて見た。思えば「指輪」ではただ人がぶつかりあって主人公達がアクション映画の如くアクロバットを繰り広げているだけで、こういう戦争のディテール描写は皆無だった(だから「指輪」の戦争シーンってあんまおもろくないのよね)。しかし、この映画はドンパチそのものを単純に映すよりも、画面を埋め尽くす旗と旗と旗とか、下品に輝くキリストの聖十字架とか、そういうもののを見ていたい人間にとっては最高の一本だ。
帰りにこの映画の公式ガイドなる本を本屋で立ち読んだが、リドスコは序文で「自分でも認めるが、私は重いものを遠くに投げ飛ばす巨大な装置にも愛着が強い。」などとのたまわっている。職権乱用である。実物大のを作って実際に投石したそうだが、こうなるともうリドスコ好きなもの大会である。
いろいろ文句はあるだろう(俺はないけど)。あまりにのっぺりしている映画だし、あまりに説明不足な映画だ。それでも、癩病の若き賢王が、サラディンをはじめて打ち破った16歳の夏(すごい青春だ)を語る今際のときに「あなたは美しかった」と言うエヴァ・グリーンにぼくは不覚にも泣いてしまったし、サラディンはひたすらかっこ良かったし(黒いターガっていいよなあ)、なにげに(主人公以外の)キャラ立ちが激しいので、人が言うほどのっぺりもしていないし、説明も不足していないようにも思えるんだが。
そして、個人的にはこういう話に弱いというのはある。「天の王国」という題名がいい。そんな場所はないが、そんな状態はある。つかのま、人類の歴史にあらわれて泡のように消えてゆくそんな時間。愚か者たちが支配する歴史のはざまに一瞬だけ出現する、賢明さにあふれた、しかしはかなすぎる一瞬。しかし人々はそれを求めながらも得られていない。そんな「はかない時間」の失われていく物語。
この映画、俺は好きだ。なので、出来不出来はもうわからん。
余談:
ラストに一瞬だけ登場する獅子心王リチャードを、ゾルゲの中の人がやってました。
■ニッ!

ただ、戦争シーンじゃない場面、たとえば暗殺者の場面とか、テンプル騎士団があの兜かぶって単体で出てくると、どうしてもホーリーグレイルじみてくるのにはまいったです。いや、この映画の責任じゃないんだけどさ、いつココナッツ鳴らすテリー・ギリアムが出てくるかと思うとヒヤヒヤするぜ。まさかの時のスパニッシュインクイシションだぜ(これは違う)。
■EP3予告編

SLJというかメイス・ウィンドゥがライトセーバーちらつかせて、パルパティーンに「あなたを逮捕します」っていった時最高に燃えた。正義であれ悪であれ、法的に何かが執行される場面ってのが俺は大好きなんだが、それをジェダイがやるってのがたまらん。
05-08, 2005 時空の支配者
■交渉人 真下正義

「ローレライ」がいまひとつだった理由、それは役所広司演じる艦長、絹見が腕時計をつけていたという理由による。
潜水艦の艦長が「戦闘を支配する」ことができるのは、彼の明晰な頭脳のためでも悪魔的な戦略のためでも、ましてや船員からの篤い人望のためでもない。それは彼に与えられたあるマジックアイテムのためである。彼はそれによって戦闘を支配する権限を与えられる。それはほぼ万能の権限である。彼がそのアイテムを使用するあいだ、すべての映画的な行為が現実から切り離され、恐るべき力を帯びる。掌のなかに収まった、映画の神から万権を付与された円形の小さな皿。その一点、艦長の親指の下にあるボタンが押されたとき、時空は艦長のものとなる。世界は彼の理論で動き始め、その制圧力は静かではあるが圧倒的であり、なんびともその王権を侵すことは叶わない。
その恐るべきアイテムを、人はストップウォッチと呼ぶ。
ボタンが押された瞬間、彼は全知の存在となる。映画は眼に見えるものしか映さない。彼の頭脳の明晰さも、恐るべき決断力も、それは画面に映ることはない。物語で語られるものは、そのような映画という視覚メディアにあっては単なる「説明」でしかない。明晰さを映すことと明晰さを説明することのあいだには、絶望的な深淵が存在する。しかし、ストップウォッチはそんな「視覚でしかない」映画というメディアにあって、登場人物を明晰ならしめる恐るべきアイテムである。登場人物の明晰さを保証するのではない。事態はむしろ逆であり、彼はストップウォッチで時を刻むがゆえに明晰なのだ。
ボタンが押された瞬間、それ以降の時間は艦長のものとなる。そのあいだ、まるで魔法にかかったシンデレラのように、彼はすべてを知っているしどうなるかをわかっている。かれはその時空で、悪魔的な策を発動させる。ストップウォッチによって与えられた王権がなければ、とうてい実現しえなかったような奇策を。しかしそれは成功する。なぜなら彼はストップウォッチのボタンを押しているから、ストップウォッチによって時を刻んでいるからだ。
時空が解放される。通常の映画的時間が戻ってくる。しかし敵はすでに敗北している。
ここまでくれば、絹見艦長の敗因は明らかだ。腕時計などという、はじまりも終りも宣言することかなわぬ、ただひたすら怠惰に時が流れ続けるだけのシロモノに、戦闘を支配することなどできないのだ。彼は潜水艦の艦長という神に等しい役を与えられながら、その王権の発動を一度も宣言することなく映画から曖昧に消えた。
そんなストップウォッチの王権は、たとえそれを授けられたものがユースケ・サンタマリアであろうとも、揺るぐことはない。ストップウォッチの映画的聖性は絶対である。
ストップウォッチが「交渉人 真下正義」の物語になんら貢献しない、という事実はまったく問題ではない。むしろ、説話的な義務から解放されたことによって、ストップウォッチは純粋な映画的暴力を、破廉恥なまでに画面に放出するからだ。物語から解放されたストップウォッチは、純粋に王権を発動するアイテムと化す。その禍々しいまでの力はほとんど麻薬のようで、権力欲のような世俗的な欲望すら生み出すかもしれない。我々はストップウォッチを持つ真下に嫉妬する。かれがストップウォッチに愛されているがゆえに。彼が王権を独占しているがゆえに。
犯人から電話が入る。彼は通話を開始し、同時にストップウォッチのボタンを押す。こうなればもう、すべては主人公のものだ。その判断がたとえカンであろうとも、幸運であろうとも、それがストップウォッチによって刻まれた聖なる時間の中で行われたことである限り、それは明らかな明晰さと悪魔的判断によってなされたことである。犯人がトリッキーなキャラクターを持ち出そうと、かれはすべて見すかしている。なぜなら、かれはストップウォッチによって刻まれ計測された時間の中にいるからだ。
かれはだから、王座から出る必要はなかったのだ。彼が地下鉄管制室から出ると同時に、ストップウォッチが画面から退場するのは実に象徴的な展開である。彼は映画を支配する力を失った。彼のいかなる奇策も明晰さも、もう以前のような映画的説得力を得ることはない。なぜなら、彼はストップウォッチを手放したから。彼の王権は何ものによっても保証されていないから。ストップウォッチを手放した瞬間、彼は戦闘を支配する力を失ったのだ。
というわけで、俺の中ではこの映画、潜水艦映画として「ローレライ」より数段優れている、ということになりましたが、よろしいか。
■魚CD

実物大スコープドッグ(よりもむしろ、あのミシン台MacやノートPCに憧れる。ああいう部屋に住みたいなあ)を見に行った帰りに、ひさびさのアキバ。
ヤマギワにMGS3のDVDを買いに行く(ええ、まだ買ってなかったんです。すみませんすみません)と、
ダライアスシリーズのCD-box??
http://www.taito.co.jp/ztt/darius/topmenu.html
あー、みんな知ってるんですか。俺だけウカツですか。すみませんでしたねえ。ダラ1はもうカセットテープでしか持ってなくて、聴けなくなってたんでそれだけでも買いますよはい。ゲームミュージックで育った子供だったんでねえ。ダラ2もダラ外も、ナイストも忍ウォリもレイシリーズもギャラクティックストームもCD持ってますよはい。今思い返すと、けっこうZUNTATAっ子だったのね、俺。でもやっぱORGさんのダライアスが最強かなあ。レイクライシスのミニマルな感じも好きなんだけど。
05-07, 2005 ニコレット
■ニコラ

基本的にジャームッシュ時空ではあるのだが、映画も半ばまで来て、あのリズムに慣らされたところで、唐突にテスラコイルを導入する、というある意味卑怯な反則ぶりはジャームッシュっぽくない気もする。コーヒー&シガレッツあんま関係ないし。ほかのエピソードに流れるユルい時間にくらべ、このテスラ・コイル話だけ明確にコントを目指し、またかなりの純度でそれを達成しているので、まあ一番わかりやすく笑えはしたのだけど、それにしてもちょっと、どうかと。あと、トム・ウェイツとロン・パールマンって似てる。
しかし、ケイト・ブランシェットって聖女モードか、はすっぱモードしかないような気がするんですが、気のせいですか。
■ワンダフルデイズ

なんだ、この既視感は? しかも恥ずかしい既視感だぞこれ。
いや知っている。これはかつて俺達が通り過ぎてきた道に似ている。80年代後半〜90年前半のOVAの匂いだ。リアル系の作画で「世界脱出系」の話を延々とやっていた頃の。話も懐かしいし、作画も懐かしい。その懐かしさがたまらなく醜悪で、ときどき画面から眼を反らしたくなることもしばしば。お前の忘れたかった過去がここにある、みたいな。ゴジラのキース・エマーソン聴いたときも「80年代との和解は不可能である」と思ったものですが、それに近いツラさ。
そんな作画のタッチではあるのだけど、そんなデザインのキャラがフルアニメで動くと妙に気持ちが悪いのは私が日本人だからなんでしょうかね。ディズニーキャラが1Kで動いても気持ち悪くないんだけどなあ。いや、やっぱ作画がこなれてないんじゃないか。動きがやけにもっさりしている。ディズニーの力感も、日本アニメの省略の快感もなく、慣性の関数の設定をミスったゲームのモーションを見ている感じ。そこはスカっと突き抜けるだろフツー、みたいなモーションで、妙な書き込みをしてベクトルを殺す、みたいな。
とまあ、そんな違和感とか恥ずかしさとかをむしろ楽しんでしまいました。ラグナのキム・ヒョンテの画集とか、Yogurting(ヨーグルティング)の洗練されたキャラとか見てると、むこうのキャラデザ感覚もけっこう日本の美的感覚に近づいてきてるのかな、とか思ってたんですけど。やっぱり別の国、別の美的選択ラインがある、というしごく当たり前のことなのかなあ。
これなら日本のアニメ、まだまだいけるかも。
new
ワンダフルデイズに関しては、表面上の作画の綿密さは日本と同等レベルにまでたどりついたものの、アニメート技術がまだ80年代程度のものにしか発達できていないのではないか?と想像しています。
爆発の作画エフェクト等、あれれ?と思う点が多々ありましたので……。
Projectitoh
うーん、正直わかんないのです。ディズニーとも日本アニメとも違う「韓国風」のモーションというのがあれなのかもしれないし・・・。「日本風」と言っても作監によってずいぶん違うわけですし。ただ、なんちゅうかダイナミズムのない作画(お話もグダグダだったというのは内緒だ)に思えてしまったんで。どうなんだろう。
05-05, 2005 ベン・スティラーがなんといおうと
■ファットマン

きょう撮影した証明書の写真をいま見て、光学器機というやつの冷酷無情な客観性に痛めつけられた。鏡で見るより100倍醜い脂肪の付き方だ。きのう見に行った「ドッジボール」のエンディングで、ヴィンス・ボーンが言っていた「あなたはそのままで完璧です、でも健康にちょっと痩せてみたいな、と思うなら当ジムへ」これはオープニングで悪役がやるビデオの裏返しであり、この映画は基本的にダメ人間およびボンクラ賛歌であるため、このエンディングで流れるこのひとことには正直ぐっと涙ぐみかけた。「ドッジボール」みて泣きそうになった人間は全国でも俺ぐらいかと思うが、よくかんがえれば、いや考えなくともこんな怠惰な現状肯定はないわけで、「いまのままの君でいいんだよ」なんてまるで花咲く乙女たちのキンピラゴボウ(C)橋本治でわないか。俺は乙女だったのか。関係ないが、「暴力的なスポーツの起源は中国でよかんべ」という男塾的ギャグ感覚がアメリカにもあることがわかっただけでも「ドッジボール」は満足である。
つまり、俺は先週同僚の女性に「伊藤君最近、エルトン・ジョンに似てきた」とものすごい暴力的な言葉を言われ、そのダメージからまだ立ち直れていないわけだ。その上きょうの証明写真の惨状である。これはヤバすぎる。いや、確かにウォシャ弟やPJやギレルモ・デル・トロを引き合いに出して「これからはデブオタの時代だ」などとほざいていた記憶もある。だがこれはマズい。
しかし、俺にできる有酸素運動ってなにがあるのだろう。それが問題だ。
余談だが、フンドシ日本人の登場に怒っている真面目な人もいるようだが、この映画の場合、カナダ人チームにしても「ランバージャック」というあんまりな扱いであり、そうでなくとも様々な人種ネタがテンコなので日本人だけがネタにされているわけではないことを分かってやってください。
■ヘルシング

原作バージョンでアニメ化。よかったよかった。
問題は、あの不自然な台詞を不自然なまま読んでくれるかどうか、というところにあると思います。「ヘルシング」の魅力の8割って、あの「音読して気持ちいい」台詞の音の連なりにあるので。
sto-zwei
「アニメダイエット」なぞどうでしょう?
http://picnic.to/~ohp/diary/diet.htm
青竹
水中ウォーキングが脚部にかかる負担が小さくていいですよ。
Projectitoh
水中ウォーキングは実際にやってみたんですが、この内臓脂肪で餓鬼みたいに膨れ上がった腹をプールサイドに曝すのはなかなか勇気がいるものです。「アニメダイエット」ってどんなダイエットかと思ったら踏み台昇降ですか〜。ウォーキングはギリギリできるんですが、私の場合、階段系は身体構造上アウトです。
ヨガは会社の人にも勧められましたが、どうなんでしょう。そんなに脂肪燃焼系の運動なんでしょうか。
storon
水中ウォーキングがいいですよ。プールでは誰も自分のことに懸命で、他の人の姿形などまったく頓着しませんので。ウォーキング最中は下半身は水に隠れるので、見えませんし! それよりも30代以下の男女でウォーキングするほうが勇気が要ると思います。圧倒的に50代以上の女性&男性が多いので…。
05-03, 2005 徹夜でタルコ
■ローレライでできればみたかったもの

いまある本を読んでいたら、2次大戦中の米艦のCICの写真があった。
たぶん艦長以下のえらい人たちが「当時の」でっかいコミュニケーションツールに囲まれて、でっかいヘッドホンを頭につけ、円形のテーブルをぐるっと囲み、顔突き合わせて座っている。
CICというシステムの黎明期。艦長がブリッジに常駐せず、窓のない部屋で戦闘指揮を組み上げてゆくことになる、そんな未来の予感が見える写真だった。
「あの時代」をファンタジーとして扱うことに決めたあの映画だから、というのにたぶん密接に関係しているのだけど、映画では原作にあったCZ探知のくだりがざっくりなくなっている(というか、最初からなかったのかも)。樋口さんの画コンテ集に載っている、かなり原作にそった中島かずき初期稿にもCZのくだりはないから、最初からこのテクノロジーに関する部分は末節だったのだろう。
実は、自分は福井作品では「終戦のローレライ」が一番好きなのだ。それはこの作品がいちばんSFっぽいからだ。というと超能力美少女が、と勘違いするひとがいそうだから念のために言っておくと、福井作品ではこの作品が唯一、テクノロジーというものに(どのようなスタンスであれ)作者がコンシャスになった小説だからだ。
ローレライにCZを併置する思考、そういう眼の付けどころがちょっとSFっぽいのだ。「当時の」最先端の技術を登場させる、とはそういうことだ。いまわれわれの「現実」となっている技術の、その萌芽を「フィクションとして」描くこと。世の中のシステムが変わっていくのそ初期段階を、技術に託して触れること。
今日、このCICの写真を見て・・・これが映画で描けていれば、この窓ひとつない部屋での戦闘指揮が映像化されていれば、「たたかい」の在り方が、そして「時代」がこれからテクノロジーによって変化するという、その「予感」を映画にとりこめたんじゃないか、と想像してしまう。
というわけで、これから「ドッジボール」観てきます。
■夜見るな、寝るぞ

http://www.shin-bungeiza.com/allnight.html
- 5/14に樽子(ノスタルジア、ソラリス、ぼくの村〜)
- 5/21に簀巻き(過去のない男、コンタクトキラー、マッチ工場、カウボーイのゴーメリカ)
- 5/28に即(エルミタージュ、日々発酵、マザサン、一頁)
実においしい3連週ではあるのだけれど、しかし、というか絶対寝る。徹夜でタルコとか起きてられるはずがない。ソクーロフも同様で、明け方に「静かなる一頁」なんて起きていられる人間がいるとは思えない。昼間に見たって寝るぞあれ(好きだけど)。
5/14からスプレマシーかかるし、喜八さん特集あるし、なんだか5月から新文芸坐にはほとんどはりつきになりそうだ。問題は仕事が空くかどうかだけど。
05-02, 2005 デスクトップ・ムービー
■ついに予告編はここまできた

1830時に会社を抜けて、同僚といっしょに銀座apple storeの3Fで行われるFinal Cut Studioのプレゼンテーションに行った。
進行をつとめるアングロサクソンの方が、いきなり滑らかな日本語というよりは、オタク臭いほどの早口でベラベラ話すのでド肝抜かれる。ときどき形容動詞の「〜な」が「〜の」になってしまう以外はほとんど完璧な日本語であり、しかも「すっごい」とか「ぜーんぶ」とかいうような、いわゆる「喋りが立つ」日本人アクセントを使いこなすので、感心すると言うよりもむしろドン引き気味。しかも早口。なんなんだこれわ。
というのが割と面白すぎたので、肝心のファイナルカットの新作については、おぼろげにしか理解できなかったが、要するにリアルタイムに、ほとんどDVと同じぐらいの感覚でHDVを編集できるというのがウリらしい。
というわけでわりとあっさりしたプレゼンテーションのあと、1FのショールームでG5ほしーなーとか端末をいじりながら、おなじみMovie Trailersをひさしぶりに覗いてみたわけだが、
http://www.apple.com/trailers/
左メニューに「High Difinition」の文字。いつのまにかHD画質のトレイラーというものがあるではないか(要QT7)。
いまのところあるのは、720pで「バットマン・ビギンズ」と「ファンタスティック・フォー」、そして「キングダム・オブ・ヘブン」。そして1080pで「Serenity」。いずれも100M以上という凶悪なデータサイズである。
いちおう解説しておくと、HDの720pというのは1280×720、1080pというのは1920×1080のこと。立ての解像度を数字に使っているのである。
これがどれほどの数字か。「イノセンス」は実はHDより低い解像度で制作された。あれは1212×655なのだ。早速、「キングダム・オブ・ヘブン」をダウンロードして見る。HD用オリジナルっぽい予告で、めちゃくちゃかっちょいいのだが、チェインメイルのテクスチャとか見ると感動する。「イノセンス」は、いまこのデスクトップに映っているイメージより低い解像度で製作されたのだ。
つまり、劇場映画クオリティの画質を(理論的には)デスクトップでも作成できる時代がやってきた、ということなのだろうか。まあ単純化しすぎではあるけれど、少なくともDV撮りをキネコして映すのとはまったく異なる高画質の映像を、WEBで扱うことが一般化されたわけだ。
なんだか自分がジジイになった気分だ。
>好きなものしか映さない、というヲタ的欲望が全開し、世間体を無視してフェティシュに走る
これ、本来宮崎駿の資質だと思うんですけど。あの人はフェティッシュに走っても好意的に解釈される人だし。
個人的には「イノセンス」は押井版「千と千尋」、「KOH」はリドリー版「もののけ姫」もしくは「ナウシカ」原作版と思っております。ご丁寧にクシャナ殿下までいるではないですか。「わが嫁(妹)となる者はさらにおぞましきものを見るだろう。」なんつって。
というのはまったくその通りで、黒沢/宮崎型と押井型はまったく同居しうるものです。相反するものではありません。