経済学は科学でなければならない。私が新古典派経済学を無価値だと考えるのは、それが非平衡開放系に、閉鎖系の平衡統計力学を持ち込むような、あるいは計算不可能な問題を計算可能と仮定するような、数々の非科学的な基盤の上に成り立つ砂上の楼閣だからである。経済学は複雑で柔軟なシステムを扱う、最先端の科学でなければ存在する意味がない。
この場合の科学性は、物理学のそれとは異なっている。物理学は、「見下ろす神」のような視線の科学を目指してきた。しかし、このようなアプローチは、非平衡統計力学でも実現困難になっており、科学性の担保は、この分野の重大な問題である。
経済のような対象を取り扱う場合に、無神経に「見下ろす神」を導入することは、非科学的である。非科学的であるばかりか、非情な暴力装置に転化することは、マルクス経済学や新自由主義経済学が繰り返し自ら「立証」してきた。
また、ケインズのパンフレット論は、私には無責任な言い訳に聞こえる。ケインズには、複数の相互に矛盾する「見下ろす神」を、状況に合わせて導入するような、無責任さを感じてしまう。
このような分野の科学は、「お地蔵さん」の視点を持たねばならない。お地蔵さんは、状況のなかに自ら身をおき、困難に直面する人々を見上げる視線で、励まし、勇気付ける。そういう科学でなければ、存在する意味がない。
この意味ような視点の科学性を担保するのが、私が『生きるために経済学』で主張した、「創発を阻害するもの」という概念である。創発(=人間(生命)が持つ意味を把握し、自らを作り変える力)そのものを科学的に解明することは、現時点ではまったく不可能であるが、それを阻害し、破壊するものは、十分に科学的に分析可能である。それを解明し、阻害要因を適切に取り除く科学的手法の解明が、経済学の取り組むべきテーマであると私は考える。
私が伝統的医学に惹かれるのは、そういった科学になりうる可能性を持つ有力な知識の体系だと思うからである。
(※池田氏は「ですます」調で書かれているが、「である」調で書き始めたので、途中で変更するのも一貫性を欠くので、「である」でかいているのでありますです。)
経済のような対象を取り扱う場合に、無神経に「見下ろす神」を導入することは、非科学的である。非科学的であるばかりか、非情な暴力装置に転化することは、マルクス経済学や新自由主義経済学が繰り返し自ら「立証」してきた。
また、ケインズのパンフレット論は、私には無責任な言い訳に聞こえる。ケインズには、複数の相互に矛盾する「見下ろす神」を、状況に合わせて導入するような、無責任さを感じてしまう。
このような分野の科学は、「お地蔵さん」の視点を持たねばならない。お地蔵さんは、状況のなかに自ら身をおき、困難に直面する人々を見上げる視線で、励まし、勇気付ける。そういう科学でなければ、存在する意味がない。
この意味ような視点の科学性を担保するのが、私が『生きるために経済学』で主張した、「創発を阻害するもの」という概念である。創発(=人間(生命)が持つ意味を把握し、自らを作り変える力)そのものを科学的に解明することは、現時点ではまったく不可能であるが、それを阻害し、破壊するものは、十分に科学的に分析可能である。それを解明し、阻害要因を適切に取り除く科学的手法の解明が、経済学の取り組むべきテーマであると私は考える。
私が伝統的医学に惹かれるのは、そういった科学になりうる可能性を持つ有力な知識の体系だと思うからである。
(※池田氏は「ですます」調で書かれているが、「である」調で書き始めたので、途中で変更するのも一貫性を欠くので、「である」でかいているのでありますです。)