生物学は経済学の範たりうるのであろうか。私はそれに対して否定的である。経済学が模範とすべきものがあるとすれば、いわゆるオルタナティブな医学ではないだろうか。手術や投薬に依存する現代医学の真似事を経済に対して展開することの危険性は、すでに明らかであるが、かといって、具合の悪い患者をほったらかしにするわけにはいかない。そうすると、按摩をしたり、鍼を打ったり、食事療法を薦めたり、カウンセリングをしたり、といったやり方で、健康回復の手助けをする以外にない。経済学はそういう方向を目指すべきであり、その手本は経済学・経営学のなかにも既にあるように思う。
「コーディネーションの科学」で池田氏は、
と書かれた。私はそのように申し上げた記憶がなく、書き方が悪かったと、反省している。
経済現象の複雑さは生易しいものではないので、現在の非平衡統計力学ではまったく歯が立たない。熱力学の知識は非常に重要であるが、それは熱力学の諸法則を無視した議論をすると、非科学的な議論になってしまうからであり、熱力学に範をとっても、経済現象は論じられないように思う。
では生物学はどうだろうか。私の考えでは、現在の生物学はそれほど頼りになるものではない。たとえばメイナード・スミスを始祖とする数理的な進化生物学は、驚くほど新古典派経済学に似ている。この類似は19世紀後半に全世界を風靡したハーバート・スペンサーの社会進化論に基づく自由主義が、政治的に正しくないとして隠蔽されたため、アメリカではそれが新古典派経済学に、イギリスでは進化生物学に変形し、後者が前者を参考にしつつ形成されたためではなかろうか、と感じている。
それ以外の生物学も、非生物的な(サイバネティックでない)取り扱いを好む、という傾向が強い。10年ほど前になるが、京大で生物学者と物理学者とが対話するための比較的大きな研究会が開かれた。そのとき物理学者が生命の生命らしさについて熱っぽく語るのに対して、生物学者が強い不快感を示していた。そこで司会者が「生命にはいわゆる物理現象を超える何かがある、と思う人は挙手してください」というと、手を挙げた人はほとんどが物理学者であった。
どうも、生物学が物理帝国主義の植民地化しているような雰囲気である。もちろん生物学者が全員そういう人ではなく、生命の生命らしさに肉薄するすばらしい人々も存じ上げているのだが、学問全体がそういう方向に向いているように思う。そういうわけで私は、熱力学も生物学も範とするほど頼りにはならないと思う。
経済学が進むべき方向は、医学だと思う。かといって、いわゆる現代医学を真似するのは危険極まりない。アメリカがイラクに仕掛けた戦争は、社会に対する大手術アプローチの典型だが、患者は見事に死んでしまった。その前にIMFが世界各地で新興諸国に仕掛けた治療行為も、同様の結果に終わった。
医学はそもそも患者を健康にするものではない。伝統的医学は患者の自己治癒力を前提として、その発揮の手助けをしたり、あるいはその発揮を阻害するものを取り除く手法を開発してきた。経済も同様であり、経済を構成する人々の持つ秩序維持能力を前提とし、その発揮を促進し、阻害要因を取り除くことが必要なのではなかろうか。阻害要因の除去は、時には規制撤廃でもあるが、時には適切な規制の実施でもある。
私がオーストリア学派、スウェーデン学派、それからピーター・ドラッカーの経営学などを学ぶのは、こういった傾向を持っていると感じるからである。その意味で経済学のモデルは、経済学・経営学のなかに<も>ある。ほかにも、物理学・生物学・情報科学・人類学・医学・心理学・歴史学・哲学・軍事学などなど、いろいろな所に学ぶべきことがある。それを広く学び、自分の問題意識に従って、実際に役立つ方法を探究することが、経済学者のすべきことだと私は思っている。
「コーディネーションの科学」で池田氏は、
安冨さんのおっしゃる通り、経済学がモデルにすべきなのは熱力学や生物学でしょう。
と書かれた。私はそのように申し上げた記憶がなく、書き方が悪かったと、反省している。
経済現象の複雑さは生易しいものではないので、現在の非平衡統計力学ではまったく歯が立たない。熱力学の知識は非常に重要であるが、それは熱力学の諸法則を無視した議論をすると、非科学的な議論になってしまうからであり、熱力学に範をとっても、経済現象は論じられないように思う。
では生物学はどうだろうか。私の考えでは、現在の生物学はそれほど頼りになるものではない。たとえばメイナード・スミスを始祖とする数理的な進化生物学は、驚くほど新古典派経済学に似ている。この類似は19世紀後半に全世界を風靡したハーバート・スペンサーの社会進化論に基づく自由主義が、政治的に正しくないとして隠蔽されたため、アメリカではそれが新古典派経済学に、イギリスでは進化生物学に変形し、後者が前者を参考にしつつ形成されたためではなかろうか、と感じている。
それ以外の生物学も、非生物的な(サイバネティックでない)取り扱いを好む、という傾向が強い。10年ほど前になるが、京大で生物学者と物理学者とが対話するための比較的大きな研究会が開かれた。そのとき物理学者が生命の生命らしさについて熱っぽく語るのに対して、生物学者が強い不快感を示していた。そこで司会者が「生命にはいわゆる物理現象を超える何かがある、と思う人は挙手してください」というと、手を挙げた人はほとんどが物理学者であった。
どうも、生物学が物理帝国主義の植民地化しているような雰囲気である。もちろん生物学者が全員そういう人ではなく、生命の生命らしさに肉薄するすばらしい人々も存じ上げているのだが、学問全体がそういう方向に向いているように思う。そういうわけで私は、熱力学も生物学も範とするほど頼りにはならないと思う。
経済学が進むべき方向は、医学だと思う。かといって、いわゆる現代医学を真似するのは危険極まりない。アメリカがイラクに仕掛けた戦争は、社会に対する大手術アプローチの典型だが、患者は見事に死んでしまった。その前にIMFが世界各地で新興諸国に仕掛けた治療行為も、同様の結果に終わった。
医学はそもそも患者を健康にするものではない。伝統的医学は患者の自己治癒力を前提として、その発揮の手助けをしたり、あるいはその発揮を阻害するものを取り除く手法を開発してきた。経済も同様であり、経済を構成する人々の持つ秩序維持能力を前提とし、その発揮を促進し、阻害要因を取り除くことが必要なのではなかろうか。阻害要因の除去は、時には規制撤廃でもあるが、時には適切な規制の実施でもある。
私がオーストリア学派、スウェーデン学派、それからピーター・ドラッカーの経営学などを学ぶのは、こういった傾向を持っていると感じるからである。その意味で経済学のモデルは、経済学・経営学のなかに<も>ある。ほかにも、物理学・生物学・情報科学・人類学・医学・心理学・歴史学・哲学・軍事学などなど、いろいろな所に学ぶべきことがある。それを広く学び、自分の問題意識に従って、実際に役立つ方法を探究することが、経済学者のすべきことだと私は思っている。