池田信夫氏は、『シリコンバレーの「核の冬」』のなかで、次のように述べた。

したがってインフラが効率化するとエントロピーが極大化し――新古典派経済学の想定するように――すべてが静止する熱死状態がやってくる。
これは言うまでもないが比喩的表現であって、コメントのなかでは、次のようにも述べておられる。

経済は熱的な閉鎖系ではないので、「熱死」に至るというのは厳密にはおかしい。たとえ成長率がゼロになっても、毎年おなじだけの生産物が生み出されているので、これは熱的な平衡というより持続的な非平衡といったほうがいいでしょう。しかし新古典派はそう考えるのです。まぁ経済学なんて寓話にすぎないということです。

この点は、経済学の本質(的な間違い)に関わるので、少し説明させていただきたい。安冨歩『貨幣の複雑性』(創文社、2000年)で詳細に論じたのだが、物理学の「平衡」と、経済学の「均衡」は、意味がまったく違う。英語は両方とも<equilibrium>だが、その否定形は前者が<non-equilibrium>(非平衡)であるのに対して、後者が<dis-equilibrium>(不均衡)と、形も違っている。

物理学の平衡は大雑把に言うと、「マクロに運動が見られない」という意味だと言ってよかろう。たとえば化学反応に関する平衡は、可逆反応で双方向の反応速度がつりあっており、反応物と生成物との比率がマクロに変化しない場合であり、熱平衡は二つの接する系の間に見かけ上、熱の移動がなくなった場合である。

大切なことは、物理学の平衡は物質やエネルギーの出入りのない閉鎖系に関するもので、開放系には想定できない、という点である。たとえば生命は開放系であるから、一般に平衡状態を想定した議論は成り立たない。

非平衡開放系で何らかの量が止まっているように見える場合には「定常」状態という。言うまでもないが、経済社会は生命と同じく非平衡開放系なので、そこで「価格」が止まっているとしたら、それは「平衡」ではなく「定常」である。

新古典派経済学の根本的な問題は、この定常状態に関して、閉鎖系の平衡統計力学風の議論を持ち込んでしまったことである。これはちょうど、人間の体温が一定であるのを見て「平衡」だと思い込み、平衡統計力学の手法を用いて身体の理論を作るのと同じ倒錯した行為である。

以上のような理由から、経済に関して「均衡」を用いた議論を展開するのは、基本的に間違っている。間違っていないにしても、非常に間違いやすいので、使わないほうが安全である。「均衡価格」などといわずに、「定常価格」と言ったほうがよい。「イノベーションは、均衡を打ち破って不均衡をもたらす」といわず、「イノベーションは、定常を揺り動かして非定常状態をもたらす」と言ったほうがよい。「インフラが効率化するとエントロピーが極大化し」という表現も、「エントロピー」がこの場合に何を意味するのかを定義しないで使うのは、誤解を招くので、避けたほうが安全である。