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04-30, 2004 不機嫌な現場
というわけでメイキングの入った特典ディスクを1〜3まで(「4」はどうにも見る気になれん)見ましたが、なんなんでしょう、これ。幸せな現場というのがシリーズ中ひとつもないというすさまじい状況。エイリアン、すさんでます。すさみきってます。
「演出のためだったらあらゆる手段を使う」などとのたまい、ヤフェット・コットーに「シガーニーにつっかかれ」とけしかけ、よく言えばアドリブほんとのところマジギレな口論を演出するリドリー・スコット。オッケーが出ているノストロモ号のモデルを、撮影当日に「やっぱこの辺は丸くしたほうがいいな」などと言いだし、おもむろにハンマーを持つやガンガン破壊したあげく、「昼食後に撮影だからそれまでに夜露死苦」などと造形家に言って去るリドリー・スコット。「なんだあの演技は!」などとシガーニーに怒鳴ったあと、「あ、ごめん、今のはジョン・ハートに言うつもりだったんだ。ごめん」などというリドリー・スコット。
人でなしとはこいつのことである。
英国の習慣であるティータイムの存在に激怒し、お茶のトレイを破壊するイントレランスの権化ジェームズ・キャメロン。対立していた助監をクビにしたらスタッフにストライキを起こされるジェームズ・キャメロン。APCが燃えるシーンで「うぐぅ」などというバスケス役ジェネット・ゴールドスタインを隣で見て「迫真の演技だ」と思っていた1秒後に、自分が有毒ガスに窒息し始めていることに気がつき、ジェネットのあれが演技ではないことを悟るビル・パクストン。
「3」の悲惨さはほとんど伝説と化しているので、説明の必要もないくらいだけど、とにかく無惨である。鬼のように交代する脚本家。脚本が存在しないうちから組まれ始められるセット。撮影に突入したとたんパーキンソン病で交代する撮影監督。「3」はほとんど「ロスト・イン・ラ・マンチャ」といっても過言ではない。なまじ予算とブランドがあったために中止されずに走りきってしまった「ロスト・イン・ラ・マンチャ」。これを見てフィンチャーを非難できる人がいるとは思えない。それほどまでに悲惨であり、ここにおける20世紀フォックスは当の「エイリアン」中の「会社」、ウェイランド湯谷のようでもある。
なんちゅーか、凄いシリーズだ。どの現場もすさんでいる。どの現場も不幸である。というわけで、このドキュメンタリーを見ているとだんだん上質なブラックコメディーを見ている気分になってくる。
いやー、買ってよかった。久々に爆笑度の高いメイキング。
04-27, 2004 てめえのあたまでかんがえろ
■てめえがやらないから、キャシャーンがやらなきゃならんのだ
先日までこの映画について、いろいろネガティブともとられる(いや、実際あまりいい評価ではなかったのだけど)ことを書いてきましたが、
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/cinema/roadshow/20040423ub03.htm
これを引用やリンクして、さらにそのあとに「自分も赦すことにしました」などとつけくわえてしたり顔になっている「だけ」の人間を、はてなやそのほか10箇所以上で見かけ、あまりに腹がたったので、前言は撤回して、キャシャーンはいい映画だ、ということでこれからはいこうと決心する。
この映画はへたっぴいだ、と確かに自分は書いた。いまそれを猛烈に後悔している。この映画は、少なくともあなたたちよりは高潔で誠実で上等だ、とほとんど義憤に近いものをおぼえた。ウェブ、インターネットというのは、こんなにも他人の言葉をひいて考えること、世界に向き合うことを停止する引金に、たやすく堕落するものだったのだろうか。これじゃ、政府やメディアとどっこいどっこいだ。いや、それ以下だ。
けなすなら、てめえの言葉でやれ。引用なら、イノセンスくらいぶっとんだことをやれ。何も書いていない読売の文章も相当駄目だけど。柳下評や粉川評ぐらいの文章としての面白さは確保しやがれ。ネガティブポジティブは関係ねえ。こいつはいかに世界と向き合うかという誠実さの問題だ。それができないんなら黙ってろ。
悪口を見るのが不快なわけじゃない。てか、楽しいことも多い。けどそれは、上のような思考停止状態の悪口じゃない。なにか語ることが少なからずある人間の悪口だ。「つまらなかった」でもぜんぜんいい。てか俺はそれに近い。けれど、上のやりくちは「つまらなかった」「寝てしまった」という正直さに比べて、遥かに程度が低い。
大体、「赦す」って全然赦してないじゃんか。皮肉言って全否定じゃんか。俺は赦した。すでに試写で見た後、木戸銭払って初日に行ったからな。それが「映画を赦す」ということだ。今日はあまりに腹がたったので、この映画のためにもう一度くらいは劇場の窓口で金払ってもいい、という気になってきた。
少なくともこの映画は、この人間たちより誠実で一所懸命だ。それがどんなにへたっぴいであろうとも。考えることを、自分の言葉で語ることを忘れたらおしまいだ。
■スピの新作「The Terminal」
http://www.apple.com/trailers/dreamworks/the_terminal/
やべえ。何が。
いや、まさかね、キャサリン・ゼタ=ジョーンズが可愛く見えるとは思わなかった。なんだか気持ち悪いんだが、それは私の感性が自分自身で気持ち悪いのか、それともゼタ=ジョーンズを可愛く撮ってしまうスピルバーグが気持ち悪いのかわかりません。
しかし、スピルバーグ、なんか変わりつつある、と思います。この予告見ると。
空港の中で暮らす羽目になる、という物語を聞いて、「ハイ=ライズ」「クラッシュ」「コンクリート・アイランド」みたいなJ・G・バラード的空間を想像して、ペットの肉を焼くトム・ハンクスや、飛行機の不時着に性的興奮をおぼえるトム・ハンクスを想像してしまったのですが、そういう荒廃した話ではないようです。というか、これはコメディなのかしら。
04-26, 2004 サイボーグな俺
■ギアが壊れた
「最高度のメンテナンスなしには生存できなくなったとしても、文句を言う筋合いじゃないわ」
とサイボーグなメイジャー草薙素子様はボートの上でおっしゃられておりましたが、私の足首を固定するギアが壊れました。
柔軟性に富むプラスティックの外装なのですが、応力集中と素材疲労の限界か、バキっっ、と逝かれてしまわれました。うが、これ3.5万もすんのに。うががが。今月も貧乏か。
と思ってコンビニに行こうと思ったのだが、家から出られない。
ピンチである。家の中くらいならまだ問題ない。しかし、外へ出るとなると大問題である。50メートル歩くのに余裕で10分かかる。最高度とはいわんでもメンテくらいしておくべきだったのか。しかしたかがプラスティックの外骨格。どうメンテしろと。やばい。AVの延滞が。昼飯が。買い物の予定が。しかしやはりAVの延滞が。小倉ありすが。何を言ってるんだ俺は。
しかし、「こんなこともあろうかと」と岸和田博士もおっしゃられておりますように、サブのギアを作っておいてよかった。というわけで長い間放置していた予備の外装を付けておでかけ。しかし、なんだかしっくりこない。歩きにくい。まあ新しい靴みたいなもの、付け始めはなじまないのだろう、と帰宅したら。靴下に赤いシミが。
痛覚がないとこういうとき困る。
実際、痛みのない部分は扱いがズサンになる。脚の小指を角にぶつけると、普通の人間はそりゃ苦痛にひいひいいうものだろうが、こと私の右足に関してはぶつくまくりなのだ。痛くないのでそんなことが気にならなくなり、向こうずねから小指からトゥーハートといってもマルチではなくToo Hurtな部分をぶっつけまくりなのだ。トレント・レズナー様いわく、「I hurt myself today(今日、自分を傷つけてみた)」。俺も傷つけてみたんだがぜんぜん痛くない。
それはともかく、靴擦れの親玉みたいなズル向けだ。まいった。とりあえず消毒してバンドエイドを貼っておくが、皮膚がなく肉が露出するほどのズル向けにこんなんでいいのだろうか。ダークマンも日常生活はズサンに違いない。
■amazon:ファミコン 20th アニバーサリー オリジナルサウンド・トラックス VOL.3ASIN: B0001N1KZU
ダババで決定。
3枚全部買う金はなかったので、どれにすんべか、とラインナップを見たら、迷う余地はなかった。ダババ、ザナック、ドラキュラ、のラインナップですでに最強に近い。それに加えてソロモンの鍵とマイティボンジャックがあるとなれば、オールオッケーだ。
懐かしい、という言葉はしかし、なんだかこの曲たちを貶める気もする。いま聴いてみて、なんでファミコンの音楽は、あんなに突っ走っているのだろう、と思った。何が、というと、メロディーが、だ。
立ち止まったら死んでしまう、そんな切迫した想いとともに、PSGのメロディーが繰り出されてゆく。メロディー、メロディー、メロディー。そこにあるのは、メロディーのたえまない連なりたちだ。間を作ることはできない、それはファミコンの音楽にとって死を意味する、そんな声が聞こえてきそうなほどに、このCDにおさめられた曲たちはひたすら音符のつらなりとして走り続ける。それが、PSGのひたすら重い低音とともに、このCDに異様な迫力を与えている。
もちろん、PSGという音源の貧弱さで、豊かな間をつくるような曲はできなかった、という見方もあるだろうし、おそらくそれは正しいのだろう。けれど、その制約がもたらしたメロディーへの貪欲さ、この迫力を、いまのゲーム音楽は持ち得ているだろうか。「ふつうのおんがく」になってしまった今のゲーム音楽は。
止まるな、鳴らせ、鳴らし続けろ。
ファミコンは、そしてPSGは今も叫び続ける。
04-25, 2004 ニッポニア・ニッポン
■昨日も帰ってない
昨日は飲み会のあと、某氏の家にお邪魔して、彼が原稿でテンパッテいるという情報は聞いていたですが、そんなことは無視してどかどかとあがりこみ、彼のケーブルでひたすらアニメを見ていたのですが、
なんじゃこりゃ。
「美鳥の日々」にのっけからド肝抜かれる。右手が少女になってしまった(いや、意味がわからんでしょうが、実際わからんのですわ)ヤンキー少年のおはなし。これすげえ。一緒にいた某氏いわく
「見ていてこの話の着地点がまったくわからん」
確かにスリリングではある。
続いてみたのが「光と水のダフネ」。これもっとすげえ。死ぬほどアホな衣装のねーちゃんたちがアクションをひたすら繰り広げる。このバカ衣装にくらべればテレビ攻殻の少佐の意味不明レオタード日常風景なんぞ、ぜんぜん常識の範囲内っす。なんだあの局部にシール貼ったみたいな全裸状態は。
とまあ、すげえ格好なのだが、そんなことにはちっともふれず画面では女の子が物凄い勢いで敵をやっつけており、「ほぼ全裸で敵を倒す」というその異様な画面は、どうにもSODの「全裸雪中行軍」や「全裸オーケストラ」を連想してしまう。知っている人は知っているのだが、これらはAVなのだけど、見てみるとセックス場面は一度もなく(いや、「裏オーケストラ」と称して別にあるらしいが)、そのビデオではなにをやっているかっちゅうと、女の子が全裸でオーケストラをやるだけであり、しかも全裸のまま「できるようになるまで」の、いわばドーバー海峡横断部や社交ダンス部のようなウリナリ的ビルドゥングスが描かれ、しかしやはりその感動の場面にあっても全裸である、という死ぬほどアホなコンセプトを堂々とやったAVなのでありんす。「ダフネ」を見ているあいだ、私が考えていたのはその「全裸オーケストラ」でした。
あと、恋風のCM。こんなものが地上波で。連載が「イブニング」というのもコンテクストが奇妙にズレている感じがして悪夢感倍増。
というわけで、アニメを産業政策にするっていうお役人さんは、日本アニメがこういう欲望に忠実な愛すべき99パーセントのなんとやらの1パーの上澄みであることを知っているのだろうか。大量のエロ同人誌とエロゲーの上に一部の「見栄えのいい」部分が成立していることを知っているのだろうか。
基本的に猥雑で下劣な裾野なのである、アニメにかぎらない、サブカルチャーというものの活力というやつは。それに公的資金を注入することで、そうした活気が削がれるとは考えないのだろうか、官僚は。それともエログロ込みで引き受ける覚悟を固めているのだろうか。
「お役人にはわかるめえ」とまでは思いませんが、そんな無駄金使うんだったら、昨今のアホな著作権取締をやめたほうが、知の共有を法的に保護したほうが、ずっとずっとそういう産業の育成になると思うぞ。
■わたしたちは繁殖している
だとすれば、殺すか。やっぱり、殺しちまうか。あのユウユウを、サバイバルナイフで滅多刺しにして、真っ白な羽根を血だらけにして赤く染めてやるか。そうやって俺の手で、全部おしまいにしてやるか。
阿部和重「ニッポニア・ニッポン」
いや、ユウユウ殺してもどうしようもないみたいですよ、今は。
http://www4.ocn.ne.jp/~ibis/toki-syoukai.htm
39匹もいるなんて、知らなんだ。日本産は絶滅したみたいですけど。
「シンセミア」はあんな馬鹿な話ひさしぶりに読んだ。すげえ面白いっす。
04-24, 2004 あさがえり
■体が臭い
タナボタでもらった「ロスト・メモリーズ」を観た後に、チケットを頂いた方と合流して酒を飲んでいたら帰れなくなり、そのままその方の家にお邪魔して寝ておそらく大きないびきをかき、その方には多大な御迷惑をかけたであろう昨日の日記の空白。
つーわけで今から風呂に入ります。
■とはいえ
その方に(お世辞とはいえ)「なんか書くとか、やったほうがいいですよ」とか言われると、その方のすさまじいアクティブさを前に(ほんとうに行動力のある方なのだ)自分のなかの臆病なうじうじした部分がちくちく痛められ、感覚のないはずの右足までもが幻肢に痛みだし(いや、脚はあるんだけど、神経は断裂しているから痛みは感じないダークマン脚なのだ。だから脚はあるんだけど症状自体の原理は幻肢といっしょ。「ほんものの」痛みではない。なんとも因果なことよ)、自分のふがいなさに身悶えしながら今これを書いているのだった。
■で、ロスト・メモリーズですが
なんで日本警察ことJBI(ジャパン・ビューロー・オヴ・インベスティゲーション)の持っている小銃がM4系なのだろうか。いや、そもそも「伊藤博文が暗殺されず、二次大戦に勝利した世界」で、なんでJBIみたいな英語の略称が使われているのだろうか。
いや、べつにこれは設定のアラではないですよ。現実の世界だって、映画でお馴染みのヘッケラー&コッホはドイツだし、SIGはスイスだ。別の国の銃を制式すること自体は珍しくはない。
しかし、ここにはなにかある気がする。「人狼」の架空世界ではドイツの銃、ドイツの車が使われていた。ここにはそれがない。「ロスト・メモリーズ」の「二次大戦に勝って」朝鮮半島を支配しているはずの日本は、しかしどうみても「二次大戦に負け、アメリカに占領され、アメリカ文化を色濃く受け継いだ」現在の日本だ。どこかで分岐した「もうひとつの日本」ではなく、あくまで「現在の日本」みたいな国が「ロスト・メモリーズ」の中の抑圧者となっている。
そんな、「もしも世界」設定の欠落、あるいは意図的な無視。そこに、ぼくはアメリカ文化の他国への発信における、奇妙な中継地点としての日本、という立ち位置を見てしまう。奇妙に偏向した他国の文化フィルタとしての日本。それが、この映画の中に(たぶん意図せずして)表れてしまっているのではないかしら。
とはいえ、M4みたいな下品な銃はやめてほしかった・・・。
04-22, 2004 言語ネタ
■いま、唐突に気がついたのですが
「イノセンス」の原作は、攻殻1巻の「ROBOT RONDO」ではなく、
「獣たちの夜」
ではないですか。対象は「人形」ではなく「獣」ですが、はっきり言って内容同じだぞ。人間の側から見ているから違う物語に見えるだけじゃん。人間に似ている、人間に潜んできた、けものの物語。獣と人のボーダーを規定しようとあがく人間の歴史。これはかなり「イノセンス」とかぶっているような。
まあ、誰の賛同も得られそうにありませんが。
■ロジャー・コーマンとエロマンガ島
報道の人間から聞いたという上司の社員からさらに聞いた話ですが、ETA、いわゆるバスク祖国と自由、というやつです。列車テロですっかり有名になってしまいましたが、このETA、実は
エタ
と発音するのが正しいのだそうです。
というわけで報道の原稿はどうすんべかモードに突入。結果、当初はやはりただしく情報を伝えねば、と「えた」読みしていたのですが、他局はみごとにイーティーエーで真実と社会的モラルの境界については最初からネグっておりました。予想通り視聴者からはクレームがつき、結局はウチもイーティーエーになったのですが。
セカイというやつには、ときどきこういう困ってしまう真実が転がっているものなのである。
■というわけでいま「ドッペルゲンガー」の
スタッフコメンタリーを聴いているのですが、永作さんの起用は黒沢清本人の希望だそうだ。黒沢さんは永作さんファンであり、衣装合わせではニコニコしていたとか。なにげにミーハーである。
まあ、私も好きですが、永作博美。
■キャシャーン
なんか、昨日とか散々書いてますが、いや、好きなんですよ。今日サントラ買っちゃったし。それで映画としての評価が覆るわけではありませんが、でもなんだかいい映画のような気もしてきた。どっちなんだ。
とりあえず、エヴァでおなじみ鷺巣詩郎さんのスコアはいいです。特に新造人間たちが誕生するあたりとキャシャーン誕生のあたり。私はスコア派なので、もっぱら二枚目だけ聴いて、1枚目の歌モノはさらっと流し聴きという状態ですが。
予告編でも流れているギターの曲、あれBACK HORNだったのか。とはいえ、この曲にかぎっては(歌抜きの劇中&予告編と違って)山田将司さんのボーカルが入ると、B'zあたりの数曲が激しくカブってくるんですが(B'zはエアロがかぶってるだろが、というツッコミはナシだ)・・・わたしがオヤジなだけなのだろうか。
あと、劇中での林檎の使い方は激しく恥ずかしいです。あの画に林檎、というのがもうどうしようもないくらい最悪のタイミングです。林檎、というだけでけっこうヤバげな香ばしさが漂っているのですが(個人的には林檎は好きですが)、それはまあ置いといて、ともあれ歌の流れる場面としては、自分の映画的記憶内ではワーストに近いっす。あそこだけ80年代の日本映画みたい。
余談ですが、
http://home9.highway.ne.jp/syolog/ringo.html
みなさん知っていると思いますが、これときどきやって暇つぶしてます。面白いです。今やったら、「週間 ダッチワイフ」がツボにきた。おのれはデアゴスティーニか。
「キャシャーン」劇中に登場する「現実の戦場の映像」が、どうして「シンドラー」ラストの、現実の生存者とその子孫を映し出す唐突な場面の「ええ?これでオッケーなんすかスピルバーグ???」な居心地の悪さと(スピルバーグの)切羽詰まった感じ、あるいは「戦争のはらわた」のクレジットにかぶるベトナムの写真のような息苦しさと哀しさを、ついにまとえなかったのか、ということについていろいろ考えた。もしかしたら「キャシャーン」のこの部分は、これは「殺人の追憶」で主人公が最後に「観客に正対する」あの瞬間の感動と対になる映像なんじゃないかしら、どちらがいい、というのではなく、自分達が映画とどう向き合っているか、という「真剣さ」に関わる問題なのかしら、と思ったのだけど、やっぱりこれはガッツリしたそれなりにボリュームのある話になりそうだし、今ドッペルを見ているので、明日書くことにする、と書いたところで、明日の夜はある方と「ロストメモリーズ」を観に行く予定が入っていることに気がつく。
04-21, 2004 スポーツハスミン
■amazon:スポーツ批評宣言あるいは運動の擁護
蓮實重彦曰く、
草野球は醜い。
さらには
その凡庸さはほとんど井ノ頭線の域に達している。
本屋でたまたま開いたページがここだったので、即買い(ISBN: 479176109X)。
というわけで、元総長の暴走ぶりはとどまるところをしらず、これがどうやら自分の草野球チームについて語ったものである(チーム枯木灘だろうか)というのもすごいことでありんす。
全編爆笑の嵐。キャッチャーの境界侵犯とかそういう話がアホすぎて電車の中で吹き出しそうになったので、自宅に持ち帰って笑うことにしました。
思えば、元総長@現映画狂人はつねにエンターテイナーだったのだなあ。私はといえばそういう読み方しかしてこなかったし、本人も「表層批評宣言」で「言葉の運動として書かれたのだから、それがいささか暴力的な印象をもたらすとしても、その責任は内面として背負われるべきものじゃない」とか言ってたし(うろおぼえ)。やっぱり「言語芸者」としてハスミンは最強なのであり、そこがポモ嫌いの方々にも例外的に扱われることがあるゆえんなのではないでせうか(その点、「シネマの煽動装置」とか「凡庸さについてお話させていただきます」とか、最強)。
スポーツ、というものに関していえば、わたしは体力的にほぼイソップ同位体と言っても過言ではなかったわけで、しかも政治的理由によりテレビが1台しかなかった伊藤家にあって、北斗の拳やドラゴンボールは常にベースボール中継の父権的抑圧に敗れ去る運命にあったのです。スポーツそのものは憎んでいるといってもよろしい。だから、私はこの本にあるスポーツの話題はほとんど知らないしついていけないのだけれども、渡部直己とのサッカー対談中で、中田をあいつは動物だ、と断言したりするハスミンはやっぱり面白すぎて、内容が解らなくてもとりあえず一冊のあいだ笑い抜けてしまったという現実を前にすると、やはりハスミンは「言語芸者」なのだと、それゆえハスミンの言うことは正論なのだと思うのでありました。
それぞれのスポーツ(野球とサッカー)を好きな人が読んだら怒るかもしれないけど、どうだろう。こんなギャグの応酬にまじめに怒る人、いるんだろうか。
■クオカード
貯金が絶望的な状態になりつつあって、どこにどう使ったかさっぱり覚えていないのだけど、とにかく人生設計感が限りなく低い残高を見るに、ここは一発節約モードと決意したそばから、明日22日には
を購入予定だったりして、さらに追い打ちをかけるように月末にはエイリアンのアニバーサリーボックスがあるじゃありませんか。これ高けえよ。
そこに、赤坂からクオカードが支給されたのである。外注と派遣全員に5000円×2=1万円。
というわけで私の食生活は、このクオカードが尽きるまで全面的にセブンイレブン=ローソンというコンビニザイバツ(ギブスン風)に牛耳られることとなったのである。押井的には夢のような生活といえるかもしれんが、何を隠そう、私はコンビニのメシが嫌いである。何が気に食わないかといって、奴らは世界を牛耳る10億人委員会の先兵だからだ。セブンとイレブンを足せば18であり、18はすなわち6たす6たす6であり、それはつまり獣の数字であり、リチャード・ドナーもサム・ニールもびっくりだ。ローソンはと言えばロー(法)の息子(ソン)、すなわち律法の息子である。つまりユダヤだ。ローのスペルが違うかもしれないが気にするな。ともあれ俺たちはとんでもない勘違いをしていたようであり、ノストラダムスは(以下略)
■キャシャーン(昨日の続き)
は、気が向いたら今日帰ってから書く。というか、これからが本文で昨日のは前座だったりする。とはいえ、先週からひたすらタク送が続いているのはどういうわけだ。26時以前に帰れた記憶がないぞ。
■キャシャーン
http://www.eiga.com/review/casshern.shtml
本音を隠さず嘘はつかず、読んだまんま受け取れるけど、上手い具合に波風たてない柳下さんの文章。すげえなあ。エディプス云々の「見ればわかる」部分は抜きにしても、「みたまんま」を書いているだけで「だから?」な感じの、同サイトのイノセンス評(http://www.eiga.com/review/innocence.shtml)にくらべれば文章としての面白さは歴然。
それはともかく、この柳下評の
というのは、一言でこの映画の枠組みを言い当てていると思う。それは
このアクションなきSFアクションで語られるのは
という部分に呼応している。
澁澤龍彦は三島由紀夫の戯曲、ルノー/バロー劇団『サド公爵夫人』について、「役者達がほとんどアクションということを示さず、多くの場合、直立不動のままで台詞を語っていた」と書いているそうな。その文を引用した養老孟司は「これが視覚の特徴である」と書いている。運動/演劇的行為とは静止した一枚絵ではありえない。それはとりもなおさず「行為」であり、連続した動作が構成する「機能」だからだ。映画が絵画とその性質を異にするのはまさにこの「運動性」による。
勝手な読みを許してもらえるなら、「このアクションなきSFアクションで語られるのは」という文章の最初の「アクション」と、「SF」の後に続く「アクション」は違う意味を担っているような気がする。言うならば、最初の「アクション」ということばは「運動」に置き換えられてもいいのかもしれない。運動なきアクション、そしてそれは「映画的時間の希薄な映画」という意味に他ならない。そして、そんな「動作の不在」を指摘した後に「語られるのは」という言葉が来るあたり、まさに前述の「サド公爵夫人」の話にぴったり符合してしまう。柳下さんの文章はかなり正確に「キャシャーン」という映画のもつ問題や「あるものの」映画的希薄さを露にするツールになると思うのだ。
おお、個人的には面白い問題に突入しはじめたのだけれども、こういう重い文章は書いていて疲れるので、この続きは明日にする。
04-20, 2004 映画のかたち
■というわけで
こちらには「キネマトリクス」のフォーマットには入らなかったりする、だらだらした感じの文章を書きつけていこうと思っております。気合い入れて書いているのはウェブサイト「スプークテール」のほうの文章なので、まとまりのあるものを読みたいというかたは、私のウェブサイト「スプークテール(http://www33.ocn.ne.jp/~projectitoh/)」のほうをどうぞ。
■で、キャシャーンですが
好きか嫌いか、という話だったら「好きだ」というだろうし、実際好きな作品ではあるのだけれど、いい映画か、といわれるとはっきり「よくない」と答えるだろうな、と思う。好きな理由はわかり過ぎるくらいにわかっているし、それがあまり「映画」という表現の可能性とは関係ない部分であることもわかっている。
身も蓋もない言葉にすると、その箱庭的世界造型が好きだ、というなんとも情けない欲望でしか肯定できない。もちろん、それはぼくがこの映画をもう一回見に行ったりDVDを買ったりする(間違いなくそうする)分には充分な要素なのだけれど、多分、それ以外の要素でこの映画を肯定しろ、と言われたら、無理だろうと思う。
それはつまり、この映画は映画としては愛せない、ということだ。
■で、この映画のどこが好きか
ということをまず書いてしまうと、それはなんといっても、デザインということになる。ぶっちゃけ、庄野晴彦の仕事だけ。
庄野晴彦という名前は、「GADGET」で強烈に記憶に遺っていた。「メルチメディア」という言葉がまだ現役だった時代の、バブリーな表現形式としてのCD-ROM。いまではこんなメディアで表現しようとする人は誰もいない。けれど、「GADGET」それ自体はぼくに強烈な印象を残していた。当時、ぼくはおませな大学生で、出たばかりの「重力の虹」とかがんばって読んでいたせいもある(今にして思えば、実にのどかであったことよ。「競売ナンバー」は文句なく面白いんだけどなあ)。「スロースロップ」とかいう名前が出てきただけで、「ピンチョンネタかよ!すげえ!」とかアホみたいに(いや、アホなんだけど)興奮していたものだ。
この映画はそんな、庄野的デザインが「映画として」パッケージングされた、そんな快楽を与えてくれた。大正デカダンスとロシア・アヴァンギャルドの出会い、というのはやっぱり面白い。ここ数年、ソ連ブームだったという個人的なツボはあるのだけれど、やはりこうやってくどいほどの指向性を持ったデザインが全編にわたってなされている映像というのは、観ていて気持ちのいいものではある。
とくに、異世界を創造するにあたって「文字」に対してコンシャスなのが嬉しい点だった。前からキリル文字というのはインパクトのある文字だと思っていたのだけれど、こうやって(あたかも、現在の日本で英語が出てくるような位置に)キリル文字が出てくると、すっごく異様で気持ちがいい。漢字の、フォントの選び方も適確だと思う。
SFだろうと、ファンタジーだろうと、文字に対するビジョンを持っていないデザインは、根本的に駄目だと思う。その意味で、この映画のプロダクションデザインは大成功、ぼくにとっては万歳三唱な出来だった。
あと、日本というSFに向いていない場所で異世界を構築することができているのも凄いなあ、と思う。もちろん、この映画の舞台は日本ではなく「大亜細亜連邦共和国」なんだけど、ぼくが言いたいのはそういうことじゃなくて、「日本人の顔」という根本的な問題を解決している、ということだ。
日本人の顔はSFに向いていない。そこのところをわかっている映画制作者というのはあまりいない。こんなことを書くといろんな人から怒られそうなのだけれど、やっぱりそれは事実なのだ。SFと言わず、スペースシャトルに乗る日本人のEESSの似合わなさはどうしようもない。宇宙服というのは白人が着るものなのだ。なぜアニメではSFが可能かと言うと、キャラがアニメ絵であることによって、日本人という臭いが画面から脱臭されているからだ。
そのことを意識せずにSFを作るかぎり、どんなものをつくったところで北京原人とどっこいどっこいになってしまう。映画の底が抜けてしまうのだ。そのことに自覚的な人間は、そうした「日本人の顔」によるSFが成立可能な舞台をきっちり用意する。平成ガメラの賢明さというのはまさにそこにあるのだし、押井守が「アヴァロン」をポーランドで撮った理由もまさにそこにある。
現代日本を舞台にしながらも、怪獣映画というフォーマット(と自衛隊という現実に武器を持った組織のリアリティ)を援用することで「日本人の顔」によるSFを成立させたガメラ、ポーランドの街でポーランドの役者を使うことで、はなっからそうした問題を回避した「アヴァロン」。
この「CASSHERN」は「日本人の顔による異世界の構築」に新たな方法を提示してみせた。それは「異世界としてとらえうる日本の過去の意匠をデフォルメする」ことで異世界を構築する、という方法だ。そう、実相寺の「帝都物語」の明治大正が「異空間」だったように。「人狼」の昭和が異世界だったように。その「過去」を未来に代入して、異世界をつくりあげるという方法だ。
■それこそが問題だったのです
ところが、ここまで書いてきたことは、この映画が映画としてどうか、という評価にはまったく繋がらない。
映画としてのキャシャーン、それは、破綻することも空回りすることも許されなかった、単に「下手な映画」という問題に落ち着いてしまうのだ、なんともショボくもなさけないことに。「リローデッド」のように破綻することも、「イノセンス」のように「映画」にとって忌わしい「映画の人形」になることもできなかった、いびつさが切実さに結晶することを許されなかった「単なる下手」な映画として、この「キャシャーン」はある。
それはそれでいろいろな問題をはらんでいるのだけれど、眠いのでその話はまた明日(明日に続く)
04-19, 2004 というわけで
■はてなを導入してみる。
日記、というものからぼくはいかにも縁の遠い人生だった。3年前に癌を患って、あんたいちおー死ぬかもしれんよ、わたしが助けるからんなこたならないけどね、と恩人である先生に言われたときは、自分が結婚もしておらず子供もなく、この世に自分が生きてきたなにかしらのかたちや想いが遺らないことの恐怖、というやつに心底怯えてヤバげなサイコスパイラルに捕われたりもしたのだが、多くは覚悟でなく愚鈍と慣れによってなんとやら、とイノセンスで押井大人も申しておりますように、死の恐怖すら人はあっというまに日常に回収してしまうものなのでございます。5年生存率、という厄介な言葉もありますように、いまだって転移の可能性がないわけじゃございません。というのに、それにすら慣れてしまう。人間の鈍感さ(というか俺の鈍感さだけど)というのは、人間を発狂から救う重要なセーフティなのだと思う訳ですよ。
そういうわけで、明日をも知れぬ身(文字どおり)に立たされてもなお、日記をつけるという境地には至らなかったわけです(おそろしいことに)。怠惰さが切実さを圧倒した、というほとんどギャグのようなオブローモフ状態。
で、私はといえば障害者になって映画が1000円で観ることができる!と喜んでいるありさま。愚かさというのはこういう精神的に便利な特典もついてくるので、そう悪いことじゃないとも思うのでありんす。
日記。
なんだろう。多分明日はこれを書かないという自信はある。みんな、あんなにたくさん書くことがある日常がうらやましいなあ、とも思う。けれど、ぼくにだって書きたいことが無いわけじゃないし、けれどそれが、なんつーか、「はてな臨界量」ともいえるボリュームに到達していない、という感じだ。はてなに毎日書きたいほど自分のなかに何かがあるわけじゃない。けれど、ときどき思い付いたそれを取りこぼすのももったいないかなあ、と思って、はてなに書きたいほどなにかがあるわけではないけれど、それでもときどきはあるそれを回収するために、はてなには申し訳ないけれど、はてなを使わせてもらうことにした。
ごめんなさいね、はてなさん。
ずぼらなユーザでしょうけど。