インターネットの普及に伴い、世界中の研究者が書く学術論文の公開方法に大きな変化が起きている。出版社から学術雑誌を購入して論文を読むというスタイルに代わり、ネット上で電子化された論文を読むことが主流となった。同時にネット上の論文を無料で閲覧、検索、配布などができるようにする「オープンアクセス(OA)」の試みが進んでいる。日本で昨年、本格始動した一つのOA活動を切り口に、すべての市民の手に学術情報を共有しようとするOA化の取り組みを探った。【奥野敦史】
◆眠れる成果公開
昨年5月「マイ・オープン・アーカイブ」(MOA、http://www.myopenarchive.org/)というウェブサイトが一般公開された。「眠っている学術論文や研究成果を投稿・共有するサイト」と称し、誰でも自分の論文を投稿、公開できる場を提供した。学生や趣味の研究者も利用でき、内容も基本的に制限はない。利用者は19日現在154人、論文はメディア、社会学など76本に達した。
開発・設立者は名古屋市の大学職員、坂東慶太さん(38)。研究者や学術情報の専門家ではないが、勤務先の大学で知人の大学院生に論文をもらおうとして、「印刷しないと渡せない」と言われたことが開発の契機になった。3人の仲間とボランティアで運営している。
坂東さんは「研究成果は有名な学術雑誌の掲載論文だけじゃない。院生の博士論文や大学の紀要、企業の報告書、授業で使うレジュメも公開すれば価値が出るはず」と言う。多くの学術雑誌の論文は同分野の研究者が内容を審査する「査読」を経ている。しかし、MOAは査読なしで研究者自身が公開する。「査読なしの情報も学問の情報交換の中では重要だと思う」と説明する。逆に、読者が論文にコメントを付けたり、星印をつけて評価するなどネットならではのブログ風の機能を設けた。
「まだ投稿が少なく理想にはほど遠い。でも多くの研究者が手持ちの情報をオープンにすれば、互いの研究は加速するはす。その足がかりにしたい」。坂東さんは語る。
◆大手出版の寡占
OAの動きは00年ごろ、学術雑誌の電子化と共に生まれた。
倉田敬子・慶応大教授(図書館情報学)によると、学術雑誌業界は世界で10社程度の大手専門出版社が、大半の雑誌を販売する寡占状態にある。その結果、雑誌価格が高騰した。電子化後も改善せず、購読料が払えない研究機関の研究者は論文を読めないという事態が起きた。
研究者から反対の声が上がると同時に、特に医学分野では税金を使った研究成果が市民に公開されないことへの批判も出て、OAの流れへとつながった。
先導役は米国だ。00年には、研究者がPLoS(プロス)という団体を設立。03年からは論文を公開する著者が料金を支払う仕組みでオンライン雑誌を発行し、特に医学、生命科学系では近年、高い信頼性を得ている。04年には、米国立衛生研究所(NIH)が、資金援助した研究成果の無料公開を要求し、OA化を推進した。
大学や研究機関が所属研究者の成果を公開する機関リポジトリという制度もある。研究機関ごとの限定されたOAといえ、日本でも約100機関が取り入れ、徐々に浸透しつつある。
◆収益確保が課題
OA化最大の壁は収益の仕組みが確立していないことだ。そのため大手出版社は導入に慎重だが、倉田教授は「PLoSのような著者課金、発表から一定期間後の無料化などさまざまな方法が模索されている。NIHの強力な後押しもあり、徐々に着地点が見えてくるのでは」と説明する。
しかし、日本国内の状況はやや異なる。大手出版社がなく小さな学会が自前で雑誌を出している日本では「電子化すら数段階遅れている」(倉田教授)状態だ。科学技術振興機構(埼玉県川口市)が無料で電子化、OA化システムを提供し、約550誌が利用しているが、補助金依存で独自の収益基盤がなく、世界との競争力を持つには至っていない。
日本化学会学術情報部の林和弘課長(科学技術政策研究所客員研究官)は「このままでは日本の学術情報発信力が低下し、情報を集める力も弱まる。あらゆる研究で損失が生じる」と指摘。「国内の学会出版部門を統合するなどして、組織的なOA化を進めるべきではないか」と提案する。
一方、「草の根型」とも言えるMOAはまだ始まったばかりだが、将来への期待は大きい。
林課長は「個人の問題意識から生まれた従来の日本になかった試みだ。発展を願っている」。倉田教授は「欧米では同様のサイトが多数でき、競争と淘汰(とうた)の中で特定分野に特化したサイトが生まれてきている。日本でも後続の取り組みが登場してほしい」と話す。
毎日新聞 2009年3月22日 東京朝刊