「久しぶりね、ペンペン。元気してた?」
「クエ…、クエ…。」
アスカは蒼い瞳に虚ろな光を称えながら、抱き上げた温泉ペンギンに向かって問いかえる。
「……………………………………。」
ヒカリは思慮深い顔でペンペンと戯れるアスカの様子を見つめている。
「ペンペン。おいで〜!」
扉の外からペンペンを呼ぶ声がする。
「クエェェ……!!」
ペンペンは一鳴きすると、アスカの膝の上から飛び降りて、部屋の外へ消えていった。
「ペンペン。一緒に御風呂に入りましょうね。」
「クエ…、クエ…。」
部屋の外から聞こえてくる会話に、ヒカリは軽く微笑みながら
「今はあの娘がペンペンの一番の飼い主なのよ。ほら、動物ってよく一緒に住む人間を順位付けするじゃない?ペンペンの中では下の妹はペンペンより上で、あたしはペンペンより下みたいなのよ。本当に失礼しちゃうわよね。」
そのヒカリの言葉にアスカは微かに笑ったような気がした。
「そうね、きっとミサトに飼われていた時もあたしはペンペンより下だったんだろうね。何時もペンペンの世話をしていたのはシンジだったからね。」
ここへ来てようやく笑顔を見せたアスカにヒカリは心の中で安堵の溜息を漏らす。
だが、アスカはすぐに憂鬱そうな顔をすると
「ヒカリ、寝よっか…。」
「う…うん。」
ヒカリは一瞬残念そうな顔をしたが、逆らわずに床に就く準備をはじめた。
電気の消えた天井のライト。
シングルベッドの上で添い寝しているアスカとヒカリ。
長い間。
やがて唐突にアスカが声をかける。
「ごめんね。ヒカリ。あたし、邪魔じゃない?」
ヒカリは精一杯の暖かい笑顔で微笑みながら
「そ…そんなことないわよ。あたしはアスカがあたしを頼ってくれて嬉しかったんだ。アスカがまだあたしを親友だと思ってくれていたことが…。」
「ありがと…。ヒカリ。」
そう言うとアスカはヒカリに抱き着きはじめた。
「ちょ…ちょっと、アスカ!?」
アスカの行動に戸惑うヒカリに
「このままでいさせて、ヒカリ。あたし一人で寝るのが恐いの…。一人で寝ると何時も恐い夢を見てしまうから…。」
アスカは縋るようにヒカリのパジャマの裾を強く掴んだ。
『恐い?あのアスカが?』
ヒカリは三年前の経緯からアスカの心が見かけほど強くないことを知っていたが、その一言には驚いた。
「けど、一人で寝るのが恐いって今まではどうして…。」
「先月まではシンジがあたしの隣にいてくれたんだ…。」
「えっ、それって?」
「そっ。そういう意味…。」
「…………………………………………………。」
「ふしだらな女だって軽蔑した?」
「べ…別に……!」
自嘲するような口振りのアスカにヒカリは内心の葛藤を抑えながら慌てて否定する。
「…………………………………………。」
アスカは再び辛そうに顔を背ける。
『一連の事件の事情を聞き出すには今しかないわね。』
ヒカリはアスカの心のガードが弱まっていることを確信すると、誠意のこもった瞳でアスカを見つめながら
「ねぇ、アスカ。アスカと碇君の間に何があったか話してくれないかな?」
「…………………………………………………………。」
シンジの名前を聞いてアスカの蒼い瞳が暗く濁った。
ヒカリは一瞬、アスカの態度に怯んだが、すぐに気を取り直すと
「あたしね…、三年前アスカがものすごく落ち込んであたしを頼ってくれた時に、結局何も云ってあげられなかったのをすごく後悔しているんだ。だから、話してみてよ。今度こそ何か役に立てるかもしれないから。」
ヒカリの暖かい笑顔を見て、アスカの心が少しずつ氷解していったようだ。
アスカはやや辛そうに顔を伏せると
「…………………話してもいいけど、三年前あたしとシンジの間に何があったか知ったら、きっとヒカリはあたしのこと軽蔑するよ。」
「そんなことしない。絶対にアスカを軽蔑したりしない。約束する。」
ヒカリは黒い瞳に真摯な光を称えて、アスカを正面から見つめる。
そのヒカリの真剣な表情を見てアスカはぽつりぽつりと、三年前の事件から今に至る事情を話しはじめた…。
「……というわけで、三年前あたしはシンジを心の底から憎んで、自殺未遂まで追いつめた挙げ句、ドイツに強制送還されたんだ…。」
「………………………………………………。」
さすがに常軌を逸した身の上話に驚いたのだろう。ヒカリはしばらくの間無言だった。
「どう、あたしのこと軽蔑した?」
自嘲するように尋ねるアスカに
「ご…ごめん。さすがに今は何も言えない…。もうちょっと気持ちを落ち着かせないと…。」
「……………………………………………。」
ヒカリは例の写真のことを思い出しながら
「ね…ねぇ、アスカ。それじゃアスカはまだ碇君のことを憎んで……」
「ううん、違うの。日本に来た動機はその逆なの…。もしかしたらシンジともう一度やり直せるかもしれない…って思い込んでいたの…。」
何時の間にかアスカの蒼い瞳に涙が溜まっている。
「勝手な女よね、あたしって?一度シンジにあんな酷いことをしておいてさ…。」
「………………………………………。」
ヒカリの肌のぬくもりの中でアスカは堰を切ったように泣きじゃくった。
「あたしが馬鹿だったのよ。やり直せるはずなんかなかったのに…。一度シンジを不幸にしたあたしがシンジの隣にいられるはずなんかなかったのに…。う…うぅ…ひくっ…うううぅ………。」
第二十二話 「涙」
「ねぇ、何とかならないかしら?」
昼休みの時間、学校の屋上にトウジを呼び出したヒカリはアスカのことで相談を持ち掛けたが
「う〜む。ワイには惣流がそうなったのは身から出た錆って気がするがな…。どう考えても自殺未遂ちゅうのは穏やかでないで…。」
「…………………………………………………。」
トウジはヒカリの相談に対して歯切れが悪い。三年前の事件の真相を聞かされれば当然であろうが…。
むしろ、ヒカリの方がかなり身贔屓が入っているのかも知れなかった。
「け…けど、碇君はアスカを抱いたのよ。それなのに…。」
「そりゃ、シンジが惣流を犯したとかいうんなら問題やけど、同意の上やろ?ましてや、形はどうあれ最終的には惣流のほうからシンジを拒絶したわけやろ?だったら、そこから先は二人の問題であってワシらの出る幕やないで…。」
「け…けど…。」
そこでヒカリは言葉を飲み込んだ。
屋上の入り口の方からガヤガヤと人の声が聞こえてきたのに気がついたからだ。
『誰か来た…?』
トウジと二人で逢い引きしていると思われるのが嫌だったヒカリは、慌ててトウジを連れて給水塔の影に身を隠した。
「あ〜あ。ファンクラブ最後の活動が、他人の恋路の妨害工作ってのもなんか虚しいわよね、そう思わない、サユリ?」
「………………………………………………。」
入り口から姿を現したのはサユリ達三人組みだった。
『あの三人は確か碇君のファンクラブの娘だったわよね。そういえば相田君が停学になったのも、彼女たちとのトラブルが原因みたいだったし…。』
「ねぇ、サユリ。あのメガネオタクの件はやっぱりやりすぎたんじゃないの?」
「そうそう。サユリが教師達の前で「もうお嫁にいけない〜!」なんて嘘泣きするから、あやうくあいつ退学になるところだったじゃない。」
「うっさいわね。別にあんなメガネオタクがどうなろうと、どうだっていいじゃない。本来なら例の写真を大々的に公開しなかったことを感謝すべきなのに、何をトチ狂ったのかあたしの襟首を締め上げたんだから…。」
『写真?』
ヒカリはサユリの言葉を心の中で反芻する。
数瞬ほど考え込んだ後、ようやくある結論に思い当たった。
「そう、あの写真と手紙を碇君の下駄箱に置いたのはあなた達だったのね!?」
「!?」
ヒカリが黒い瞳に静かな怒りを称えながら、給水塔の影から姿を現した。
「おい、おい、ヒカリ…。」
おなご同士の喧嘩を快く思わないトウジがヒカリを窘めようとしたが、ヒカリはトウジを無視してさらに前へ一歩踏み出した。
「ゲッ!洞木先輩だ。」
「今の話全部聞かれていたとか?やべ…。」
トモヨとヒロコの二人は泣く子も黙る委員長の剣幕にびびって、無意識に後ずさりしたが、サユリは無表情に一歩踏み出して正面からヒカリを睨むと
「これは、これは洞木先輩じゃないですか?あたし達に何か用ですか?」
「あの写真と手紙を碇君の下駄箱に置いたのはあなたなのね?」
「そうですよ。けど、それがどうかしましたか?」
サユリは完全に開き直っていた。
「あ…あなたね。自分がどれほど酷いことをしたか分かっているの?やって良いコトと悪いコトの区別も付かないの?」
「あ〜ら。これは意外ですわね。洞木先輩は惣流さんを弁護なさるのですか?それじゃ、洞木さんの価値観では人一人自殺未遂にまで追い込むのはやっても良いコトで、白昼堂々と行われていたことを写真で撮るにはやってはいけないコトなわけですね?」
質辣な口調でサユリはヒカリに尋ねる。
「…………………あ…あの二人の間には、平々凡々と過ごしてきたあなたの物差しでは図れない、只ならぬ因縁があったのよ。上っ面の事情しか知らない、第三者のあなたなんかが口出ししていいことじゃないわ。」
『そうよ。苦労知らずに生きてきたあなたに何が分かるの?かつて14歳の年齢で、世界の命運を無理矢理背負わされたアスカや碇君の苦しみが…。……ってあたしもこの娘と同じか…。三年前、二人が心の底から憎み合うほど辛いことがあったのに、あたしは何もしてあげられなかったのだから…。』
そう考えてヒカリはやや自嘲する。
「……………………………………………。」
二人が元エヴァのパイロットのチルドレンであることを知らないサユリには、ヒカリの言葉の重みを理解出来なかった。
だが、アスカとシンジの尋常ならざる絆めいたものを示唆されたことが、サユリの癪に障った。
サユリは論旨を入れ替えると
「そうですか…。それじゃ、惣流さんが碇先輩以外の男性とラブホテルに入ったのも、第三者には及びもつかない只ならぬ因縁の仕業なわけですか?」
相手を嘲笑するような皮肉な笑みを浮かべながらサユリは尋ねる。
「!!」
「あたしは潔癖症の洞木先輩なら『不潔よう〜!』とか叫ぶと思っていたんですけどね。」
「……………………………………………。」
そのサユリの言葉に、ヒカリは俯いたまま押し黙ってしまった。
三年前の事件はともかく、さすがにあの写真のことを言及されると、いくらヒカリでもアスカを弁護するのは困難だった。
サユリは勝ち誇った表情で
「まあ、ふしだらな惣流先輩には、あのメガネオタクあたりがお似合いかも知れませんけどね。」
『……………………………………………。』
「もっとも、あたしだったら、あんな女から見て最低クラスの男性はお断りですけどね。」
その言葉を聞いてヒカリは俯いていた顔を上げると、正面からサユリを見つめながら
「……………あたしは相田君があなたが言うほど酷い男性だとは思わないわよ。」
「へぇ、今度はあのカメラオタクを弁護するんですか?」
意外そうな顔でサユリはヒカリに尋ねる。
「……………そうよ。少なくともあなたよりは数段マシだと思うわ。」
「はん。何を根拠にそんな戯言を……」
「岩瀬さん。あなた確か碇君のファンクラブの会員だったわよね?」
「そうよ。ファンクラブはもう解散したけどね。けど、それが何だって…」
「ということは、あなたは碇君のことが好きなわけよね?」
「そうよ!だから碇先輩を傷つけたあの女が許せなかったのよ!」
「立派な心がけね……と言いたいところだけど、あなたはアスカの立場に嫉妬していただけなんじゃないの?」
「な…なんですってぇ!?」
「違うの?では聞くけど、あなたは一度でも碇君にあなたの想いを伝えたことはあるの?」
「…………!?」
その言葉にサユリの顔から余裕の色が消えた。
そのヒカリの一言はサユリの最も痛いところを突いたからだ。
サユリの顔色をみるみると青ざめていく。
実はサユリは生来の明るさや気の強さとは裏腹に、恋愛に関しては極端に臆病だった。
ファンクラブを運営し、『いつかは碇先輩をゲットしてみせる。』とトモヨやヒロコ達に公言しながらも、実はサユリは告白はおろかラブレターを出したこさえなかった。
それどころか、サユリは音楽部に在籍していながら、シンジとまともに話したことさえ一度もなかったのだ。
自分からシンジに話し掛けたことは一度もないし、たまにシンジから話しかけてきた時も、真っ赤になって口篭もって会話にならなかった。
「どうやら、ないみたいね。」
サユリの顔色を見て、ヒカリは無表情に尋ねると
「だ…だって、仕方ないじゃない。あたしは頭も悪いし、美人でもないし、何の取り柄もないあたしなんかを碇先輩が相手にしてくれるわけが………」
「だから、諦めてしまったというわけね。戦いもしなうちから、結果を恐れて…。」
先程とは打って変わって弱々しいサユリに、ヒカリは追い討ちをかける。
そのヒカリの言葉はズキリとサユリの胸に突き刺さった。
いつだって、そうだった…。
好きな男性を見つけてもサユリはただ遠くから見ているだけだった。
決して手に触れられる距離まで近づくことも、話をすることさえ出来なかった。
拒絶されることが恐かったから…。
傷つくことが恐かったから……。
だから、拒絶されて傷つくぐらいなら、遠くから見ているだけでいい…。
サユリはそう自分を偽りながら、あの写真に囲まれた空間で自分を慰めてきたのだ。
「相田君は逃げずに自分の想いをアスカに伝えたわよ。あなたのように分相応な恋に限定したりしないで、正直に自分の本当の想いを勇気を出して伝えたのよ。そりゃ確かに結果はあなたが恐れていた通りだったけどね。」
「……………………………………。」
「けど、あなたはどうなの?ただ逃げていただけでしょう?自分が傷つくのが嫌だから、戦いもしないで自分の想いから目を背けていただけでしょう?あなたに、相田君のことを悪く言う資格はないわ!」
サユリはキッとヒカリを睨んだ。
その両目には涙が溜まっている。
「あ…あなたに…何が分かるのよ。相思相愛の恋人がいる洞木先輩にあたしの気持ちな…ん……て……ううぅう……うわぁ〜ん。」
サユリはその場にしゃがみ込むと幼児のようにワンワン泣き出した。
「サ…サユリ……。」
トモヨとヒロコの二人が慌ててサユリに声を掛けるがサユリは泣き止まない。
『子供なのね。この娘は…。』
ヒカリは目の前のポニーテールの少女の姿を呆れた目で見ながら、そう確信した。
この娘にはどこか現実と空想の区別がつかない子供じみたところがある。
だから、自分のしたことがどれほど深く他人の心を傷付けていたかなど理解できないから、あんな酷いことが平気で出来てしまう。
きっと、あの手紙も、この娘にとってはちょっとした悪戯程度のつもりだったのだろう。
だが、子供の悪戯でも、時には災害にまで発展することもある。
今回あの手紙が、アスカとシンジの関係を破局に導いたのは、まさにそのケースであろう。
逆の言い方をするなら、シンジとアスカの関係は、未だに子供の悪戯で壊される程度の脆い結び付きでしかなかったのだ。
この分だと今回の事件がなかったとしても、二人の関係が長続きしたとはヒカリには到底思えなかった。
「いくで、ヒカリ。」
もう決着は着いたと見たトウジが軽くヒカリの肩を叩いたのでヒカリはコクリと肯いた。
ヒカリも目の前の少女の姿を見て、これ以上サユリを責める気は失せてしまった。
二人は、泣き続けるポニーテールの少女を尻目に校舎へ戻っていった。
この日を境にシンジのファンクラブが活動することはなくなった。
ヒカリとトウジの二人は階段を降りながら
「ヒカリ。もう一度言うがワシらはこの件に関してはノータッチでいくで。」
「で…でも、トウジ。」
「そりゃ、ヒカリの気持ちは分からんでもない。だが、霧島のことはどないするんや?」
「!!」
マナの名前を聞いてヒカリは押し黙った。確かにヒカリの立場を考えればアスカに一方的に肩入れするのは不自然だった。
「………………そ…それは分かってるわ。けど、このままだと一生碇君はアスカの気持ちを誤解したままなのよ。アスカは本当に碇君のことが好きなのに……。」
「それは惣流が自分でシンジに伝えねばならんことやないのか?三年前、惣流がシンジにしたことを考えれば尚更やろう?」
「…………………………………………………………。」
トウジは真剣な表情でヒカリを見ながら
「いずれにしても、ワイもヒカリも、この件に関しては完全に部外者なんや。口を差し挟む資格はないで。口を挟む権利があるのは当事者である霧島ぐらいやろな…。」
ヒカリは何か言いたげな視線でトウジを見つめたが、結局何も言わなかった。
ヒカリとしてもトウジの主張の正しさを認めざるえなかったからだ。無論、心から納得したわけではなかったが。
「そういや…。」
トウジが何か思い出したように
「もう一人、この件に口を挟む権利がある当事者がいたな…。」
トウジは今謹慎中の友人のことを思い浮かべながら、そう付け加えた。
「最低の成績ね。」
「…………………………………………………。」
委員会の本部。自分の研究室へアスカを呼び出したマヤはいきなりそう告げた。
「いつもトップクラスをキープしていたあなたがビリになるなんてね。約束通り学校の方は辞めてもらうわよ…って、その必要もないわね。あなたはもう学校へは通っていないみたいだし。」
「………………………………………………。」
アスカは黙ってマヤの話を聞いている。この時のアスカの蒼い瞳は暗く沈んでいた。
「その事を学校に問い合わせたら、すでに除籍済みという話だったわ。それと委員会に対して苦情を言われちゃったわ。二度と遊び半分な学生を送ってくるなってね。」
「………………………………………………。」
忌々しそうな顔でマヤはアスカに愚痴をこぼすが、アスカは落ち込んだ顔でまったくマヤの小言に反応を見せなかった。
「シンジ君との関係が破綻したのがそんなにショックなの、アスカ?」
そのマヤの言葉にはじめてアスカは反応した。
肩が微かに震えている。
マヤは嫌悪感を篭めた瞳でアスカを睨むと
「うまくいくとでも本気で思っていたの!?あなた、自分が三年前シンジ君に何をしたかすっかり忘れたわけ!?本当に図々しい娘ね!」
そのマヤの言葉にアスカは悔しそうに唇を噛む。
「そのショックで今度は研修が手につかないとでもいうの?あなた日本に一体何しに来たのよ?MAGIの管理責任者を舐めるのも程々に…………!?」
バンッ!!
そこまで言いかけてマヤは押し黙った。
アスカが両手で思いっきりマヤのデスクを叩いたからだ。
「ア…アスカ……?」
「そうよね…。確かにあんたの言う通りだわ、マヤ。うまくいくはずなかったのよね……。」
そう言ってはじめてアスカは俯いていた顔を上げた。
アスカは無表情にマヤを見下ろしながら
「おかげで目が覚めたわ。あたしはまだ日本でやらなきゃいけない事が残っていたんだものね。」
アスカはそれだけ言うとクルリと踵を返してマヤの研究室から出ていた。
「一体どうしたのよ、あの娘?」
後には呆然とした表情のマヤが残された。
アスカは廊下を歩きながら、サエコのことを思い浮かべ
『そうだ…。シンジを失ったけど、あたしにはまだママがいるんだ。いつまでも挫けてなんかいられない…。』
アスカの蒼い瞳に先程までなかった、悲壮な決意のようなものが宿りはじめる。
『ママはあたしに本当に大切なコトをたくさん教えてくれた。ごめんね、ママ。せっかくママが与えてくれたシンジと復縁するチャンスはあたしが自分で壊しちゃった…。けど、もう大丈夫だよ。ママがいる限り、あたし絶対に三年前みたいに自分を投げ出したりしないから…。』
アスカはその足で疑似シミュレーションルームに顔を出すと、すぐに学習に取り掛かった。
『今度はあたしがママに親孝行する番なんだ。ドイツへ帰ったら、すぐにママの仕事を引き継いで、ママを引退させて楽にしてあげるんだ。その為にも、これから頑張らないと…。』
この日を境に半死人のようだったアスカの生活は再び変化した。
新しい目標を見つけたアスカは、日曜日も含めて毎日、夜遅くまで委員会の本部に顔を出し、本気で研修に打ち込んでいた。
多忙になることで、シンジへの想いを振り切ろうとしている…という一面も確かにあっただろうが…。
とにかく、シンジを失った今のアスカを支えているのは、サエコへの想いだけだった。
サエコの寿命のことはあえて考えないように思考停止していた。
相変わらず自分自身に対する肯定力に欠けているアスカには、サエコが死んだ後、自分で自分を支えて生きていけるか自信がなかったからだ。
いずれにしても、アスカは再び動き始めた。
研修に全てを懸け、シンジへの想いを封印することによって…。
「………というわけで、苛めが激しくって、はじめてあのレストランでバイトした時は苦労したんだ。」
皆が爆笑する。
シンジの周りにはマナをはじめ、数人の級友が集まっていた。
ヒカリとトウジは遠目からその様子を見ている。
アスカが新たな目標を見つけ、自分を取り戻しはじめた頃、シンジもようやく今までの自分のプロパティを回復しつつあった。
“アスカ”という、彼の理解を超える“想い”を切り捨てることによって…。
早起きし、朝食と弁当を作る自制した毎朝の作業。
分からないことを積極的に質問し、授業をリードするいつもの授業スタイル。
昼休みや放課後、級友から受ける悩み相談。
自分の生活を支えるレストランでのバイト。
帰宅後の彼のライフワークであるカウンセリングの勉強。
全てシンジがこの三年間の努力で築き上げた、ライルスタイルである。
シンジは、三年前の自分自身すら肯定出来なかった弱い自分に比べて、自分で自分を肯定し、他人の存在まで肯定出来るようになった今の自分自身を誇りにしていた。
アスカを失って、一時期自分を見失いかけたが、ようやく今現在の自分を取り戻すことが出来た。
『そうだ、これでいいはずなんだ…。』
シンジは自分自身に向かって言い聞かせる。
シンジはこの三年間、一生懸命努力して、自分自身を良い方向に改革してきたのだ。
他人に肯定してもらうことなく、自分で自分を肯定できるようになった。
内罰的だった癖も直した。
他人を怖がらずに積極的に他人と触れ合うように生活してきた。
何よりサードインパクトを起こして、十億の人間を失ったという、常人なら発狂しそうになるようなトラウマさえシンジは乗り越えることが出来た。
勿論、完全に割り切れたわけじゃない。
今でもたまに悪夢となってシンジを苦しめる時もある。
ただ、その事を悩んで自分を傷つけても何にもならないのだ。それどころか、かえって自分の親しい人達を傷つけるだけだということに気づいてから、シンジは自分を罰することを止めた。
それより、どんなことでも償いに身を投じた方がはるかに前向きで有益な生き方であると気づいて以来、シンジは人の心を癒すカウンセリングという職種にその希望を見出し、“罰よりも償い”を指標にして今日まで前向きな生き方を自らに課してきたのだ。
そんなシンジにとって、アスカはこの三年間でただ一つ克服出来なかった壁だった。
『そうだ。もう、忘れるんだ。アスカのことは…。
アスカと一緒にいると僕は普通ではいられなくなるんだ。
アスカと関わると、僕は三年前の弱かった自分に逆戻りしてしまう。
アスカさえいなければ僕は強いままでいられる。』
シンジは、アスカと関わることで、自分が弱くなることに耐えられかった。
だから、シンジは自分を弱くしてしまう、アスカという不可解な想いを切り捨てることによって、強い自分を維持しようとしていた。
三年前、シンジが「アスカを支えられるような強い男になるんだ。」という決意から自分を磨きはじめた動機を考えれば、このシンジの発想は本末転倒というべきものであった。
だが今のシンジには自分でその事に気づくことは出来なかった。
シンジはチラリとマナを見る。
シンジの視線に気づいたマナは明るく微笑んだ。
そう、マナでいいはずだった。
明るさと優しさに満ちたマナは誰の目から見ても理想のガールフレンドだ。
何よりマナはシンジを好きでいてくれている。
そのマナを振り捨ててまで、自分を裏切り、憎んでいるアスカを選ぶ理由なんてないはずだった。
だが、それでも後ろ髪を引かれるような想いを感じるのは何故だろうか…。
こうしてシンジとアスカは先の破局を乗り越えて、表面上は自分自身を回復した。
お互いへの想いを忘れようとすることによって。
それからは二人は同じ町へ住んでいながらも、お互いに干渉することなく時は緩やかに過ぎていく。
研修も終わりに近づきアスカがドイツへ戻る日が刻一刻と近づいていた。
「ねぇ、お兄ちゃん、どうしたの?ボーっとしちゃってさ…。何か悩みでもあるの?」
「あ、な…何でもないよ、サキちゃん。」
シンジは慌てて曖昧に返事を返す。
休日の三春学園の共用室。
何時ものように子供たちの悩み相談を受けていたシンジだが、なぜか捗らない。
サキは胡散臭そうな目でシンジを見ながら
「嘘ね。」
「えっ!?」
「あたし、お兄ちゃんの事なら何でも知っているんだよ。お兄ちゃん、嘘つく時、眉毛を眉間に寄せる癖があるの自分で気づいていなかった?」
「ほ…本当に、サキちゃん?」
驚いたシンジは慌てて指で眉間に触れたが、サキは軽く舌を出すと
「勿論、嘘。」
「……………………………………。」
「けど、これでお兄ちゃんが今自分が嘘をついているって自分で認めたことになるわよね。」
シンジは一瞬呆然とした後、頭を掻きながら軽く微笑んで
「かなわないな、サキちゃんには…。」
サキも軽く微笑んだ後、すぐに真剣な表情をすると
「ねぇ、お兄ちゃん。何か本当に悩みがあるのなら、話してみてよ。いつもあたし達だけ相談に乗ってもらっていたんじゃ悪いからさ…。」
「け…けど…。」
「お兄ちゃん。いつもあたし達に言っていたじゃない。何か悩みがあったら自分の中に溜め込まないで他の人に相談してみるべきだって。自分が守れないことを他人に勧めるなんて言語不一致ってやつじゃないかな?」
「…………………………………………………。」
「どうせ、お兄ちゃんの悩みはアスカさん絡みなんでしょう?この三年間でお兄ちゃんが悩んでいた事ってアスカさんのことだけだったからね。」
そのサキの言葉にシンジは軽く肯いた。
「だったら、あたしに話してみなよ。たぶんその分野はあたしの方がずっとお兄ちゃんより役に立つと思うよ。だって、お兄ちゃん、女の子の気持ちには極端に鈍いところがあるからね。」
「そ…そうかな?」
『そうよ。三年間ずっとお兄ちゃんのことを想っていた女の子が目の前にいるのに、全然気づいてくれないじゃない。』
サキは心の中で軽くシンジを詰った。
『そうだな。考えてみれば、三年前もこうしてサキちゃんにアスカのことで相談を持ち掛けたわけだし、今更拒む理由もないか…。』
そう考えたシンジは今自分が抱えている悩みの一部をサキに話しはじめた。
「…………………………………………………。」
「……………というわけで僕には何もかも分からなくなっちゃたんだ。自分の気持ちも…。アスカのことも…。」
サキは一通りシンジの話を聞いた後、やや落ち込んだ表情で
「羨ましいな。アスカさんが…。」
「えっ!?」
「な…何でもない。けど、あたしは大体お兄ちゃんの気持ちは理解できたよ。」
「ほ…本当に、サキちゃん。」
シンジが驚きの声を上げると
「ねぇ、お兄ちゃん。前、お兄ちゃんがギリシア神話について色々話してくれたことがあったよね?」
「そ…そうだね。」
「その中で確か不死身の英雄アキレウスっていうのがいたでしょう?」
「うん。ペレウスと海の女神テティスの息子の、トロイア戦争で活躍した勇者で、生まれた時、黄泉の川ステュクスに浸された為に不死身になったんだけど、その時、かかとだけが水に浸されてなかった為に、アキレス腱が不死身の勇者のたった一つのウィークポイントになったんだ。それが世に言う“アキレス腱”ってやつだね。けど、それがどうしたの?」
「だからね。きっと、アスカさんはお兄ちゃんのアキレス腱なんだと思うよ。」
『アスカが僕のアキレス腱。つまり弱点!?』
シンジは一瞬考え込んだ後
「ねぇ、サキちゃん。それはどういう意味かな?」
「それだけは教えてあげない…。悔しいから…。」
そう言ってサキはソッポを向いてしまった。
「…………………………………………。」
サキは再びシンジの方を振り返ると、努めて明るい笑顔で微笑んで
「けど、何となく安心したな…。お兄ちゃんにまだそういう人間らしい弱さが残っていたことが…。」
「えっ!?」
「あたしね、少し恐かったんだ。お兄ちゃん、はじめて出会った頃に比べて、どんどんすごくなっていくから、そのうちあたし達とは別の世界の人間になっちゃうんじゃないかと心配してたんだ。」
「そ…そんなことはないと思うよ。僕は今でも自分自身の悩みすら解決できない未熟な人間だから…。」
「けど、本当に不思議よね。」
「えっ!?」
「お兄ちゃんって確かに女の子の気持ちには疎いところがあるけど、どん底に近い人間の心をケアする時は魔法じみた力を持っているのにさ。三宅先生が言っていた「心の病める者に共感する才能」って奴だっけ。」
「そ…そうかな?」
「そうだよ。あたしやマナブも、ううん、三春学園の子供たちはみんな、一度どん底まで落ち込んだけど、お兄ちゃんがいたから、今は人並みに笑って生活できているんだよ。それだけは本当だよ、お兄ちゃん。」
「サキちゃん。」
「けど、お兄ちゃんのその力もアスカさんには全然通じない…というより使えないみたいだから可笑しいよね。まあ、それだけアスカさんがお兄ちゃんにとって特別ということなのかな…。」
『特別…。一体どういう意味で特別なんだろう?』
サキは急に真剣な表情をすると、チラリと部屋の隅で赤ん坊をあやしているマナブを見て
「実はさ。この間マナブに好きだって告白されたんだ、あたし…。」
「えっ!?」
シンジは驚いてサキの顔を見る。ほんの少しだがサキの頬は赤く染まっていた。
「お兄ちゃん、何か心当たりあるでしょう?」
シンジは以前来た時のマナブとの会話を思い出しながら、
「う…うん。」
と正直に答えた。
『あの時の何気ないアドバイスをもう実践したのか…。三年前、遭難した時にも感じていたけど、マナブ君って思い立ったら意外に行動力があるんだよな。』
シンジが妙なところに感心していると
「やっぱりね。そうじゃないかと思っていた。」
俯いたサキの顔を見てシンジはやや言いづらそうに
「ねぇ、サキちゃん。サキちゃんはマナブ君のことをどう思っているの?」
「……………三年前のマナブはすごく嫌いだった。それこそ何度か殺意を抱いたぐらい…。」
「はははっ…。」
なんとなく既視感(デジャブー)を感じてシンジは渇いた笑いを浮かべた。
「けど、今はそれほど嫌いじゃない。好きかと言われたら分からないけど。マナブの奴、あいつなりにいつも一生懸命頑張っているから…。」
「…………………………………………。」
サキは再び真剣な表情でシンジを見つめると
「何でマナブがそんなに変われたと思う?お兄ちゃんがいたからだよ。あいつがいつも辛いことに直面した時、呟いている口癖は何だと思う?『逃げちゃ駄目だ!』なんだよ。お兄ちゃんから教わった直伝のおまじないだってあいつ本当に誇らしそうに言っていたよ。」
「サキちゃん。」
「マナブは本当にお兄ちゃんのこと尊敬しているよ。だから、お兄ちゃんにはマナブの信頼を裏切らないで欲しいんだ。あいつ、かつてお兄ちゃんが言っていた『逃げないで、ほんの少しの勇気を出すことが出来ればどんな困難も乗り越えられる。』という言葉を本気で信じているみたいだから。」
「………………………………。」
サキはやや顔を伏せると
「ごめん。あたしなんかすごく偉そうなこと言ってたよね。お兄ちゃんだって超人じゃなく、普通の人間なんだから一つぐらいうまくいかないことがあってもいいのにね。けど、それでもあたしはお兄ちゃんにはいつもの明るいお兄ちゃんでいて欲しいんだ。生意気だよね、あたし?」
シンジはクスリと笑った後、軽くサキの頭を撫でながら
「いや、色々と参考になったよ。ありがとうサキちゃん。」
そのシンジの言葉を聞いてサキも明るく微笑んだ。
『ほんの少しの勇気か…。やっぱり、僕はただアスカから逃げているだけなのだろうか?だとしたらあんな偉そうなことをマナブ君に言っておきながら、本当に僕は口先だけの男だよな。けど、一体どうしろというんだ。アスカは僕を必要としていないどころか、世界中の誰よりも僕のことを憎んでいるというのに…。』
サキとの会話から、シンジの中に切り捨てたはずのアスカへの想いが浮かび上がってきたが、シンジが今一度、本気でアスカへの想いを見詰め直すには、もう一押し何かが足りなかった。
「ねぇ、お兄ちゃん。生意気ついでにもう一つだけ言っていい?」
「なんだい、サキちゃん?」
「お兄ちゃんは本当に女心に疎いから言うけど、その場しのぎの中途半端な優しさなんて最終的にはその女(ヒト)を最も傷つけるだけでしかないんだよ、分かる?」
「えっ!?」
「アスカさんもそうだけど、今のままじゃ霧島さんもすごく可哀相だよ。早めにケジメを付けた方がいいと思うよ。」
「…………………………………………。」
「それが今あたしに言える最後の忠告。」
サキはそれだけ告げると、俯いて何も喋らなくなってしまった。
その後マナブと一緒にシンジを玄関まで見送ったサキは、軽く伸びをしながら
『あ〜あ。振られちゃったみたいね。三年前からずっと分かっていたことなんだけど…。やっぱり初恋って実らないものなのかな…。』
そう心の中で呟いて軽く溜息を吐く。
次にサキはチラリと隣にいるマナブを吟味するような視線で見つめる。
サキの視線に気づいたマナブは真っ赤になりながら
「ど…どうしたの、サキちゃん?」
「なんでもない!」
サキはぶっきらぼうにそれだけ告げると早足で自分の部屋へ戻っていき、後には頭に?マークを浮かべたマナブが残された。
その時のサキの頬が軽く染まっていたのにマナブは気づかなかった。
『まっ、見てくれはそんなに悪くないけど、まだ恋人って感じじゃないわよね。もうしばらく様子を見てからにするか…。』
二人がトモダチの距離を縮めるにはまだ幾ばくかの時間が必要みたいだった。
「では本日を以って、MAGI管理者候補生の研修会を終了します。皆さんお疲れ様でした。」
マヤの挨拶で五ヶ月に及んだ研修は終わりを告げた。
その後、アスカはマヤに呼ばれて研究室に顔を出した。
「とりあえず、おめでとう…と言っておきましょうかしら、アスカ。最終テストではあなたがトップだったわよ。」
マヤは無表情にアスカの成績を褒め上げた。
「…………………あんたが本当に言いたいことはそんなことじゃなくて、シンジの事でしょう、マヤ?」
「!?」
アスカはあえて感情の篭らない声で
「あんたにも随分手間かけさせたみたいだけど、心配しないでいいわよ、マヤ。ドイツへ帰ったらもう二度とシンジには近づかないから、あんたに苦労をかけることはないと思うわ。」
マヤは怪訝そうな顔で
「アスカ。あなた、それ本気で言ってるの?」
「うん。それがあたしに与えられた罰だから…。」
「罰?」
「なんでもないわよ。それじゃもう会うこともないと思うけど、さよなら、マヤ。」
アスカはそれだけ告げるとマヤの研究室から出ていった。
マヤにはその時のアスカの背中が酷く小さく見えた…。
「…………………………………………………。」
『なにかしら…。このモヤモヤした気持ちは…。』
アスカの弱々しい姿を見てほんの少しだがマヤの中に戸惑いに似た感情が生まれはじめた。
「私は間違ってないはずよ。アスカは三年前、シンジ君にあんな酷いことをしたんだから、ああなるのは当然の末路なのよ。なのになぜかしら…。ようやくアスカを完全にシンジ君から引き離せたというのにちっとも感慨が湧いてこないなんて…。」
マヤは再び三年前の出来事を思い浮かべる。
マヤは自分の行動の正しさを確信していたが、たった一つ思考停止して目を背け続けていた事実があった。
確かに最終的にシンジに止めを刺したのはアスカだが、マヤ自身も三年前の破局に対して少なからず責任があったというコトを…。
そして何よりもそのアスカ自身が、大人達の都合で投じられた戦いで心身ともにズタズタに壊されてしまった一番の被害者であったコトを…。
「わ…私は間違って…い…な……い…………。」
だが、そのマヤの声は前より弱々しく、頼りなげだった。
五ヶ月に及んだ研修スケジュールは全て終了し、アスカがドイツへ帰国するまであと一週間余りを残すところとなった。
アスカはヒカリの家へ居候しながらも、着々と帰国の準備を進めている。
シンジの日常は見かけ上変化することはなかった。
「でさぁ、マナ。あの時、海賊船でデートした時のこと覚えている?」
「ねぇ、シンジ…。」
「な…なんだい、マナ?」
「どうしてシンジは三年前のことばかり話すの?」
「えっ!?」
マナは訴えるような目でシンジを見つめて
「どうしてシンジの方から話をするといつも三年前に話題が飛ぶの?あたしと一緒にいた2年間は何だったの!?」
「ご…ごめん、マナ…。僕はそんなつもりじゃ…。」
シンジは後ろめたそうに顔を背けながらマナに謝罪した。
そのシンジの態度にマナな鳶色の瞳が暗く沈む。
『やっぱり、シンジはアスカさんしか見ていない…。シンジのあたしに対する想いはきっと三年前で途切れていたんだ…。ただ、シンジが自分で自分の想いに気づいていないだけで…。』
時には自分で分からない想いを他人が見当てる場合もある。
サキと同様、マナにも当のシンジよりはるかにシンジの心がどちらの方向を向いているのか感じ取ることが出来た。
マナは、マヤに扇動されてアスカと対決した時のことを思い出す。
『あの時あたしはたった一つだけ卑怯なことをしてしまった。本当は分かっていた。三年前の事情は今一つよく見えなかったけど、それでもアスカさんが本当はシンジを好きだってことは…。』
最初は半信半疑だったが、あのアスカとの問答の中、マナはアスカのさりげない仕種から、あらためてアスカのシンジへの想いを確信することが出来た。
そう、あの時マナは実はアスカのシンジに対する気持ちを知った上で、「アスカさんはシンジが好きなのですか?」とアスカに問い掛けたのだ。
『そう言えば、きっとアスカさんは否定するだろうと思った。そうでもしないとあたしはアスカさんに勝てないと思ったから…。だから三年前の負い目を利用してアスカさんの方からシンジを諦めさせるように仕向けたんだ。』
マナは例の写真の光景を思い出す。
『もし、その結果アスカさんが自棄になって相田君とあんなコトをしようとしたんだとしたら……。最低だ、あたしって…。』
マナのした事は、マナの気持ちを考えれば、決して非難されるほどのモノではなかったが、根が純真なマナは自分を偽ったことが許せなかった。
「ねぇ、どうしたの、マナ?」
いきなり固まり出したマナにシンジが心配そうに声を掛ける。
「な…なんでもないわ、シンジ。」
マナは軽く微笑んだ後、再び思案する。
シンジには自分の気持ちもアスカの気持ちも分からないらしい…。
けど、自分はどちらの気持ちも知っている。
そのことをシンジに伝えないのは卑怯なことなのだろうか?
そんなことはないだろう。
マナとて本当にシンジが好きなのだ。
その気持ちに偽りはない。
さすがにマナも、積極的にアスカを貶めるつもりはないにしても、あえてわざわざ自分に不利な情報をシンジに伝えて、紳士的な敗者になりたいとは思わなかった。
『やっぱり、あたしはシンジが好き…。だから自分からシンジを諦めるなんて出来ない…。けど、シンジが自分の気持ちに自分で気づいた、その時には…。』
その時には、マナも覚悟を決められるはずだった。
マナはシンジに満面の笑顔で微笑みながらも、心の片隅で着々とその準備を進めていた。
平日の午前10時。
町中にあるゲームセンターでメガネを掛けた平凡な顔立ちをした少年が、パズルゲームに興じていた。
学生服を着ているところをみるとまだ高校生のようである。
少年はしばらくゲームに熱中していたが、補導の警察官が立ち寄ったのを見て慌ててゲームセンターから逃げ出した。
その後、少年は当てもなくブラブラと町中をうろついていたが、軽く溜息を吐き出した。
少年は先週まで謹慎期間中の身で、今週に入ってようやくそれが解かれたが、昼間は町中をうろつくだけで学校には顔を出していなかった。
「学校へ出てもクラスメートになんて言われるやら。きっと女生徒に乱暴した変質者扱いされるんだろうな…。」
そう呟いて再び少年は溜息を吐き出した。
「んっ!?」
その時前方から見覚えのある少女が歩いてくるのが見えた。
蒼い瞳に金色の髪。遠目からでも目立つことこの上ない飛びっきりの美少女だった。
『そ…惣流!?』
一瞬、少年は隠れようかと考えたが、足が震えて動かなかった。
そうしているうちに少女は少年の側まで近づいてきて、少年の存在に気づき始めた。
「相田なの?」
アスカは蒼い瞳に軽い驚きをこめて少年を見下ろす。
「や…やぁ、惣流。」
ケンスケはアスカに引きつった笑みを返す。
「やぁ…ってあんた学校はどうしたのよ?」
アスカは呆れた声で問い掛けたがケンスケは無言だった。
「そっか。そういえば停学になったってヒカリが言っていたっけ…。」
「ま…まあな。それより惣流は今、委員長のところにいるのか?」
アスカはその質問には答えずに、やや申し訳なさそうな顔をすると
「そういや、相田。あんたにも色々迷惑をかけたわよね…。」
「!?」
そのアスカの言葉にケンスケは意外そうな顔をすると
「お…怒らないのか?俺のせいでシンジとの関係が駄目になっちまったんだろう?」
アスカは蒼い瞳に思慮深い光を称えながらケンスケを見下ろすと
「そうね、三年前のあたしならきっとあんたの所為にしてあんたを詰っていたと思う。あの時のあたしはうまくいかなったことを全て他人の所為にしながら生きてきたから…。だから、あたしが全てを失ったのをみんなシンジの責任にして、シンジを憎んだんだ。馬鹿みたい…。何もかもあたしの弱さが招いたことだというのにね…。」
アスカは自嘲するような口振りでそう答えた。
「そ…惣流。」
少年には三年前に比べて、目の前の少女のしおらしく、内省的な変化が信じられなかった。
「だからさ。こうなったのは本当に自業自得なんだ。今まで他人を省みずに好き勝手生きてきた過去のツケをまとめて支払わされただけの話なんだから…。」
少女は憂いを帯びた表情でそう呟いた。
『惣流……。』
少女の至高の芸術品のような憂いの表情を見ているだけで少年の胸がドキドキ高鳴っていく。
少年は本当に今自分が少女に惹かれていることを確信した。
少年は再び心の奥底からなけなしの勇気を絞り出すと、微かな望みをこめて少女に再び自分の気持ちを訴えた。
「な…なぁ、惣流。お…俺じゃ駄目なのか?俺じゃシンジの代わりにはなれないのか?そ…そりゃ、俺はシンジほどカッコ良くはないけど…。」
「…………………………………………。」
アスカは二回ほど瞬きして少年を見つめた後、軽く首を横に振った。
「やっぱり、そうだよな…。」
自嘲するようにそう呟く少年を前に、アスカは真剣な表情で少年を見下ろすと
「ごめん、相田。そんなんじゃないの…。あたし本当にシンジが好きなの。三年前からバカシンジが大好きだったの。だから、あんたでなくてもシンジの代わりになる男性なんてどこにもいないんだ。」
「惣流……。」
アスカはやや自嘲する表情で
「それにあんた、あたしのこと知らなすぎだよ。あたしはあんたが思っているような女神のような女じゃないよ。三年前あたしは鬼のような形相でシンジをいたぶって、シンジが自殺未遂を図るまでシンジを追いつめ続けた酷い女なんだから…。」
「………………………………………………。」
「そう、あたしは本当にそんな酷いことをシンジにしたんだ…。」
何時の間にかアスカの蒼い瞳に涙が溜まっている。
「相田…。あんたは自分で思っているよりは良い男だから、いつかきっとあんたの良さを分かってくれる娘が現れると思うよ。だからあたしは止めておいた方がいいよ。それに…。」
ケンスケはハッしてアスカの顔を見詰める。
「………それにあたしにはシンジしかいないの…。もう二度とシンジに会うことが出来ないとしても、それでもあたしはシンジが好きだから…。」
アスカはそれだけ告げると駆け出してケンスケの側から離れていった。
その時のアスカの蒼い瞳から涙が零れていたのをケンスケは見逃さなかった。
「惣流……。」
アスカの泣き顔を見て、ケンスケの中に何かが芽生え始める。
『違う…。俺が見たかったのはあの顔じゃない。俺が見たかったのは…。』
少年が見たかったのは少女の心からの最高の笑顔のはずだった。
そしてその笑顔を少女に与えられる人間は、少年の知る限り一人しかいなかった。
『シンジ!!』
少年の心の中で、かつての級友に対する嫉妬と怒りが増幅されていく。
『あいつは一体何をやっているんだ!?俺は惣流の不幸な姿を見るために、あの時自制したんじゃない…。俺は…、俺は……。』
気づくと何時の間にかケンスケは校門の前まで歩いてきていた。
「許せねぇ!」
少年は何かを決意したようにそう一言呟くと、そのまま校舎の中に入っていた。
昼休みの三年A組の教室。
昼飯を食べ終わった学生達はそれぞれのグループに分かれて談笑している。
その時、突然後方の扉が開くと、先週まで謹慎中だった少年が姿を現した。
「おい、相田の奴がきたぜ…。」
「なんでも二年の女子に襲い掛かったって話だぜ。」
級友達がヒソヒソと噂話をするがケンスケの耳には入らなかった。
「おい、ケンスケ。一体今週に入ってから学校にも顔を出さずに何をやっていたんや?」
ケンスケの様子を心配したトウジが軽くケンスケの肩を掴んだが、ケンスケはトウジを振り切って真っ直ぐシンジの方へ向かっていった。
シンジはマナと談笑している最中だった。
マナと楽しそうに話しているシンジの姿がケンスケの癪に障る。
「あ…相田君?」
マナが軽く問い掛けたが、ケンスケはマナを無視してシンジの前に立ち塞がった。
マナと楽しそうに話していたシンジだったが、ケンスケの姿が視界に入った途端、シンジの黒い瞳に露骨な嫌悪感が宿った。
ケンスケはメガネを光りて照らし返しながら、シンジを睨み続ける。
シンジは軽く舌打ちするとケンスケから目を逸らした。
その瞬間メガネの奥の少年の瞳に激しい怒りの災が宿った。そして…、
バキッ!!
鈍い音がした瞬間、ケンスケの拳でシンジは椅子ごと派手にぶっ飛ばされた。
マナや他の女生徒が悲鳴を上げる。
シンジはのろのろと立ち上がると、殴られた頬を抑えながら、『何で…』と言いたげな表情でケンスケを睨んだ。
ケンスケは仁王立ちしたまま正面からシンジの視線を受け止めた。
ざわめいていた教室が睨み合う二人の少年を中心に沈静化していく。
何時の間にかシーンと静まり返った教室に、昼休みの終了を告げるチャイムの音だけが鳴り響いていた。
つづく…。
けびんです。
今回は破局後のシンジとアスカ。そしてその周りにいるキャラクターの終局へ向けての人間模様を、静かな時の流れの中で淡々と進行させた感じですね。
だから、今回は特に後書きで言及する事は何もないです。
強いてあげれば一部でカルトな人気を誇っている(本当か?)サキちゃんとマナブ君、再登場(笑)。
もちろん、例のイメージイラストの雰囲気に触発された結果です。
本編が終わったら是非とも二人をメインにした外伝を書いてみたいです。
さて、次回の主役はエヴァキャラ中、最も報われない男(?)と評判のケンスケ君。
第二十三話「男の戦い」でお会いしましょう。
では。
けびんさんの『二人の補完』第二十二話、公開です。
支えろヒカリはん!
あ、支えている(^^)
動けケンスケ!
あ、動き出した(^^)
さあさあさあ! シンジどん、次はアンタの番でっせ。
きっと。
トウジもトウジなりに、
みんながみんななりに、
ちーっとずつ、回っているかな? ぐーな方向に?!
行っているいるでしょう。きっと。希望。
そうに違いない。
そうであって欲しい。
そうなっていると思い込む。
さあ、訪問者の皆さん。
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