午前零時。
深夜の学校に忍び込む影三つ。
「ねぇ、サユリ。本当にやるのぉ〜?」
「今更何言ってるのよ!?」
「だって、これって明らかに学校への不法侵入じゃ…。」
「うるさいわね。ただ碇先輩の下駄箱にこの手紙を放り込むだけじゃない。問題ないわよ!」
「だったら、夜中にこんな泥棒じみた真似しなくても、早朝にすればよかったんじゃないの?」
「早朝だと、部活の朝練に来ている奴とかに見られる可能性があるじゃない。今の時間がベストなのよ。」
「………………………………………。」
ただ単にサユリが朝に弱いだけの癖に…と二人は思ったが言語化して指摘したりはしなかった。
「えっと、碇先輩の下駄箱は…。」
「ここよ。」
少女の一人が躊躇うことなく下駄箱の一つを指差した。
「とはいえ、あたしも碇先輩の下駄箱を開けるのは初めてなのよね…。ちょっとドキドキするわね。」
そう言いながら少女は下駄箱を開けて手紙を放り込むと、すぐに扉を閉める。
目的を果たした三人の侵入者は、宿直の先生が見回りにこない内に学校から抜け出していった。
「アレを見て碇先輩はどんな顔をするのかしら?明日がとっても楽しみね。」
月明かりにポニーテールのシルエットを地面に映し出した少女はそう言って邪笑みを零した。
第二十一話 「破局U −罪と罰−」
「……………………………………。」
「どう、シンジ?」
アスカは不安そうな顔でシンジを見る。
「けっこう、いけると思うよ。」
軽く微笑みながらシンジは答える。
そのシンジの顔を見てアスカは安堵のため息を漏らす。
白いご飯に味噌汁に焼き魚にサラダの盛り合わせ。
シンジの前には一人分の朝食が並べられていた。
全てアスカがシンジの助けを借りずに作り上げたものである。
料理はアスカの最も苦手な分野だが、やらねばいつまでも出来るはずはないと思い立って自ら志願したのだ。
「よかった、シンジの口にあったみたいで。」
嬉しそうなアスカの顔を見て、シンジはこの先に紡ごうと思った言葉を飲み込んだ。
今、食べたアスカ御手製の朝食は決して不味くはなかったが、セミプロクラスの料理の腕を持つシンジから見れば、ご飯の水加減、味噌汁の味噌の割合と煮込み加減、魚の焼き加減、野菜の上手な切り方等いくらでも改善する余地は見当たった。
だが、あえて今のアスカに指摘することはないだろう。
今回アスカが一人で料理したことは多分気紛れであり、これからも料理に精を出すとはシンジには思えなかったからである。
だったら、あんなに喜んでいるのだから、あえて気まずくすることはない。
これから先もさらに料理に興味を持ち続けたら、それから追々厳しくしていけばいいだろう。
そう考えてシンジは笑顔で場を取り繕った。
『よかった。シンジに頼み込んで特訓したのは無駄じゃなかったわ。』
最近のアスカは低血圧の体で無理してまで、早起きを自らに課していた。
表向きの目的は朝食と弁当作りを手伝って料理を覚えることだが、朝起きた時、隣にいないシンジに脅えたくないという個人的な事情もあった。
その為、最近はシンジに無理いって早朝に叩き起こしてもらっている。
ここ数日、目覚めた時最初にシンジの笑顔を見れるためか、アスカが今まで感じていた不安は若干ながら和らぎはじめていた。
さらに今日はじめて一人でシンジを満足させる料理を作れた(と信じこんでいる)アスカは、その事に浮かれて、ささやかな幸福に浸っていた。
制服に着替えたシンジはチラリと時計を見て
「それじゃ、アスカそろそろ行ってくるね。」
「うん。行ってらっしゃい、シンジ。」
アスカも玄関までついてきて満面の笑顔でシンジを見送った。
シンジも軽く微笑むとバタンと扉を閉じて外へ出ていった。
「さとて、朝食はうまくいったし、今度は夕食にでもチャレンジしてみようかな…。」
アスカは幸福感溢れる満たされた笑顔で台所へ戻ると、フンフンと鼻歌を歌いながら、お皿を洗いはじめる。
アスカは知らなかった。
今のアスカの心理状態は、三年前アスカの笑顔を取り戻したと信じて浮かれていた頃のシンジとまったく同じだったということを…。
そして、その時のシンジは自分の幸福を確信した瞬間、アスカの復讐によって全てを失ったということを……。
「おはよう、トウジ、ケンスケ、洞木さん。」
駐輪場にバイクを置いたシンジは級友達に挨拶する。
「お…おはよう、マナ」
「おはよう、シンジ。」
シンジは何となく後ろめたそうな表情でマナに挨拶する。
マナは一瞬何か言いたげな表情でシンジを見上げたが、結局、軽く挨拶するだけに留めた。
五人は連れ添って歩いていくが、ほとんど会話はない。
ヒカリはアスカが転校してくる以前に比べて、グループの友好関係が破綻しつつあることを肌で感じざるえない。
結局、全員無言のまま、正面玄関に到着した。
「サユリ、碇先輩が来たわよ。」
「言われなくても、分かっているわよ。」
正面玄関の死角になる位置からシンジ達を覗き込んでいる三人の女生徒が会話を交している。
「けど、サユリ。今ここで碇先輩を見てたって何も起こらないんじゃないの?普通もらったその場で手紙を読んだりはしないと思うけど。」
そのトモヨの言葉にサユリはニヤリと笑うと
「ふふっ、あの手紙にはちょっとした細工がしてあるのよ。たぶん、碇先輩はその場で読み始めると思うわよ。」
「細工!?」
「そうよ。これで碇先輩の心の内がハッキリと分かるわよ。もしその細工を無視出来たら、忌々しいけど、碇先輩は金髪女を心から信じているということになる。けど、その細工に引っかかったとしたら、碇先輩は心のどこかであの女を疑っていたということになるわね。ククッ…。」
「……………………………………………。」
明らかに他人の破滅を願う負の感情に囚われているサユリに対して二人は何も言えなかった。
「!?」
シンジが下駄箱を開けると一通の手紙が置いてあった。
「なんや、ラブレターかいな?そういや最近ではシンジがラブレターもらうのも久々やないか?一昔前なら、いつも下駄箱一杯もらっとったのにな…。」
「そ…そうだね……。」
トウジのからかいの声に興味なさそうな声でシンジは答えると、そのまま手紙を鞄の中に放り込もうとした。だが…
「!!」
手紙の裏面に書かれた一文が目に入った途端、シンジはその動きを止めた。
“惣流さんはあなたを騙しています。この手紙の中にはその証拠が収まっています。”
『………………………………………………………………。』
動悸が微かに乱れ始める。
シンジは手紙を見詰めたまま呆然と固まった。
「おい、シンジ。どないしたんや?そんなにラブレターをもらったんが嬉しいんか!?」
トウジは呆れた目でシンジを見つめるがシンジは何も答えない。
シンジはチラリと下駄箱の横に設けられたごみ箱を見る。
二回軽く頭を捻った後、シンジは手紙をごみ箱に投げ入れようとしたが、途中で思い直したように、そのモーションを停止した。
再び裏面の文章に目を走らせる。
心臓の鼓動が先程より早く脈打っていく。
トウジが呆れ顔でシンジの行動を見据えていたが、すでに彼はシンジの視界の住人ではなくなっていた。
結局何を思ったのか、シンジはそれから数瞬程考え込んだ後、乱暴に封筒を破いて中に入っていた便箋を取り出すと、その場で手紙を読み始めた。
「はじめまして、碇シンジ様。
差出名さえ記さない礼儀知らずな手紙をお送りして申し訳ありません。
信じて欲しいのですが私はあなたの味方です。
そしてあなたのことを心から尊敬しています。
だからあなたが質の悪い女に騙されて、このまま不幸になるのを傍観していられなくて、この手紙を書きました。
無礼な内容の手紙であることは重々承知していますが、必ず最後まで御読み下さい。
そうすれば私の気持ちとあなたの側にいる惣流さんの真意を御理解戴けるかと思います。
私は三年前のあなたと惣流さんの事情を全て知っています。
あなたが、惣流さんに自殺未遂まで追い込まれたことも…。
そして今あなたが再び惣流さんと復縁して一緒に暮らしていることも…。
けど、騙されてはいけません。
惣流さんは再びあなたに復讐する為だけにあなたの側にいるのです。
偽りの笑顔であなたを騙しているだけなのです。
そう、三年前のあの時と同じように…。」
『……………………………………………………………。』
シンジは一枚目の便箋をクシャリと握り潰したが、破り捨てようとはしなかった。
食い入るような目で二枚目の便箋を読み始める。
「惣流さんは未だにあなたを憎んでいます。
あれほどのことがあったというのに、たった三年であなたは彼女があなたにした仕打ちをお忘れになったのですか?
惣流さんは、一生懸命彼女を看護したあなたを精神崩壊まで追いつめた挙げ句、『壊れたオモチャに用はない。』等という暴言を吐いてあなたを見捨てたのですよ。
そんな恩知らずな彼女がなぜ今になって碇さんの前に現れたとお思いですか?
それはあなたに再び復讐するためです。
偽りの笑顔であなたに近づいて、あなたを骨抜きにするつもりなのです。
そしてあなたが惣流さんなしでは生きていけないところまで彼女の存在を浸透させた後、最後には再びあなたを見捨てて嘲笑するつもりなのです。
それが彼女のあなたに対する二度目の復讐です。
彼女の偽りの笑顔に騙されてはいけません。
惣流さんのあなたに対する感情は、愛ではなく、憎しみだけしか存在しないのですから。」
便箋を持つシンジの手が微かに震えている。
シンジがこの手紙を読んで何を思ったかは不明分だが、この手紙の送り主があまりに三年前の事件の事を知りすぎていることを疑問に思うより、手紙が指摘している内容そのものの方にシンジの心は囚われているみたいだ。
「シンジ。何こんな所で手紙を読んどるんや!?せっかちな奴やな。そういうもんは後でゆっくり読むもんやろが。そんなに手紙に飢えとったんか?」
再びトウジが呆れた顔でシンジに声をかけるが、シンジの耳には入らなかった。
靴を上履きに履き替えたヒカリ・マナ・ケンスケもシンジの側に近寄ってくる。
三枚目の最後の便箋を取り出した時、その隙間に挟まっていた一枚の写真が零れ落ちたが、シンジは気がつかなかった。
「碇さんにとっては信じられない、また信じたくないことだと思いますが、今まで私が言ったことには明確な証拠があります。
惣流さんがあなたを裏切っている、そして彼女のあなたに対する想いがどれほどいい加減かということを証明する確かな証拠が。
この封筒に同封されている写真を見てください。
誓っていいますが、この写真は本物です。
偶然この写真を得ることが出来たのは、あなたが彼女に騙されていることを不憫に思った神様が彼女の正体を暴く機会を与えてくれたものと私は信じています。
惣流さんは美人で頭の良い方ですが、貞操に関する考え方は普通の女子とは異なっているみたいですね。私などは貞操は女にとって最も大切なモノだと信じていますが、彼女の価値観では、どうやらあなたを騙すための道具としか考えていないみたいですから。
この手紙の内容を信じる・信じないは碇さんの自由です。
ただ、この写真を惣流さんに突きつけてみることをお勧めします。
この写真が合成写真のようなイカサマなら彼女は鼻で笑うだけでしょうし、何か後ろめたいことがあればそれなりの反応を得られるかと思います。
色々書きましたがこれで終わりにします。
手遅れにならないうちに、あなたが惣流さんとの関係を清算できることを心から祈っております。」
手紙はそこで終わっていた。
「碇君。何か落ちたわよ。」
ヒカリが手紙から零れ落ちた写真を拾い上げて、シンジに手渡そうとした時、
「な…なによ、これぇ〜!?」
ヒカリが大声を上げる。
その声に釣られたトウジ・マナ・ケンスケが一斉に写真を覗き込んで息を呑んだ。
「な…なんで、アスカが相田君と……。」
写真の中には、アスカとケンスケの姿が写っている。
二人のバックにはラブホテルと呼ばれる建物が写っており、今まさに手を繋いで二人がその建物の中へ入ろうとしている構図だった。
『な…なんでこんなものが存在するんだよ!?』
ケンスケの顔が青ざめる。
次の瞬間、ヒカリ・トウジ・マナの視線が一斉にケンスケに集中したのは仕方がないことだっただろう。
ケンスケはそのプレッシャーに耐えられずに思わず顔を背けた。
「!?」
その時ケンスケと、正面玄関の死角にいたサユリ達の視線が交差した。
サユリはニヤニヤした表情でシンジの様子を見ていたが、ケンスケの視線に気がつくと、慌てて他の二人を促してその場を離れていった。
『あ…あいつらか!?』
相変わらず鋭い観察眼に長けている少年は、あの手紙と写真の送り主が誰なのか、サユリ達の一瞬の態度で悟ってしまった。
「い…碇君…。」
シンジはヒカリから写真を奪い取ると、食い入るような目で写真を見続けた。
その間シンジは無言だったが、肩が微かに震えているのが分かった。
一瞬、シンジはケンスケを睨んだが、結局何も言わず、写真と手紙を鞄の中へ放り込むと、そのまま駆け出していった。
「い…碇君。ちょっと……。」
ヒカリがシンジに声を掛けたがシンジは振り返らなかった。
後には4人の間に気まずい雰囲気だけが残された。
「……………………というわけでこの方程式は……。」
数学の時間。教師は今日の授業で感じる違和感を抑えることが出来なかった。
『今日はなんでこんなに静かなんだ?』
半瞬考え込んだ後、教師はその原因に思い当たった。
「そうか。今日は碇が何時ものように質問しないからなのか…。」
何時も積極的に手を挙げて質問し、授業をリードしていたシンジだが、今日は何故か暗く押し黙ったままだった。
『たまに授業妨害すれすれになって、碇の質問を煙たがっていた時もあったが、こうして大人しくされると、かえって寂しいものがあるな…。』
結局、この日シンジが手を挙げて質問することは一度もなかった。
昼休みの時間。
シンジ・マナ・ヒカリ・トウジは何時ものように机を並べて弁当を食べながらも、お互いに一言も口を開かずに暗い雰囲気に陥っていた。
ケンスケはパンを買いにいったまま、なぜか戻ってこない。
『さっきの写真は一体何だったのかしら?どうしてアスカと相田君が…。それに碇君が読んだ手紙には一体何が書かれていたんだろう?』
ヒカリはその事を疑問に思ったがシンジに直接聞くことは躊躇われた。
アスカを触媒に自分達のグループに何かとんでもない事が起きているらしいことにヒカリは気づいていたが、この件に関してヒカリは完全に部外者を余儀無くされていたからである。
「ごっそさん!相変わらずヒカリの作った飯は最高やわ!」
トウジが努めて明るい声であたしに礼をいったけど、前と違って場の気まずさを減少させようという魂胆が見え見えだった。
やっと、にぶいトウジにもあたし達の状況が理解出来たみたい。
霧島さんも何か言いたげな目でじっと碇君を見ている。
碇君の方は完全に自分の殻に閉じこもっていて、周りがまったく見えていないみたい。
それにしてもあの手紙と写真は何の目的で碇君の下駄箱に置かれていたのかしら?
普通に解釈すれば、碇君とアスカの関係をぶち壊すためよね。
………っていうことはあたし達が知らない間にアスカは碇君と復縁を果たしていたということなのかしら?
だとしたら今アスカがいる場所は……。
それにしても本当に分からないことだらけだわ…。
もしアスカが碇君と復縁出来ていたとしたらあの写真は何?
アスカが相田君とそういう関係になるなんてどうしてもピンとこない。
もしかして合成写真?
それにあの手紙の送り主は誰?
これもまともに解釈すればアスカのことを快く思わない人間…、つまりは碇君に想いを寄せている女の子ということになるわよね。
いずれにしても正解を導き出すには情報量が少なすぎる…。
結局、部外者のあたしにはこの件に首を突っ込む資格はないのだろうか?
この先何が起きようと、ただ指をくわえて見ているしかないのかしら?
本当にあたしはどうしたらいいんだろう…。
分からない……。
「あ〜ら。一体何のことかしら?」
「とぼけるなよ!あの手紙をシンジの下駄箱に置いたのはお前らだろう!」
2年C組の教室前の廊下でケンスケとサユリ達三人が何やら揉めている。
「知らないわよ。何かあたし達がやったという証拠でもあるのかしら?」
サユリはあくまで白を切る。
「あの写真を見てシンジがショックを受ける様を楽しそうに見ていたじゃないかよ。なにより、シンジと惣流の関係を壊したがっている奴はお前達以外考えられないじゃないか。」
「……………………………………………………。」
「コソコソと陰険な真似しやがって……。惣流が気に入らないんだったら堂々とぶつかればいいじゃないか。」
その一言にさすがにサユリはカチンときたようだ。
ガサガサとポーチの中から一枚の写真を取り出してケンスケの前に突きつけた。
「カメラオタクの分際で随分と偉そうなこと言ってるじゃない?けど、あんたにそんな事言える資格があるの?」
サユリが突きつけた写真はシンジの着替え中の姿を写したものであり、それは以前ケンスケがサユリに売った写真の一つだった。
「級友の着替えを隠し撮りして、その写真を売りさばいて小金を儲けるなんて、それこそ陰険じゃないのかしら?それに比べたらあの写真は白昼堂々と行われていたことをただ写しただけじゃない。今まで影でコソコソと他人の写真を撮り続けてきた奴が、今度は自分が撮られる側になったら偉そうに被害者面するつもりなわけ?」
そう言いながらサユリは軽蔑の眼差しでケンスケを見る。
「そ…そうだよ。お前の言う通り、俺はチンケな野郎だよ…。確かに俺は何されたって文句は言えないよ。けど、だからってその事と惣流は関係ないだろう!?」
「はっ!、馬鹿じゃないの!?何カッコ着けているんだか…。あんたなんか最初からどうだっていいのよ。目的はあの金髪女を貶めることだけなんだから…。」
「!!」
サユリはケンスケを嘲笑しながら
「感謝しなさいよ。本当は掲示板にでも張り出して学校中に宣伝するつもりだったんだけど、別にあんたに怨みはないから、碇先輩に教えるだけに留めてあげたんだからね。それよりあんた身の程知らずにもあの金髪女が好きなんでしょう?だったら、ちょうどいいじゃない。あの写真を既成事実にしてあの女と一緒になればさ。御望みなら今から宣伝してあげても……………!!」
サユリはその先を告げることが出来なかった。
「こ…このアマァ!!」
サユリの言葉にぶち切れたケンスケがサユリの襟首を締め上げたからだ。
「きゃあぁぁ!!?な…何するのよ!?離してよ、この変態!!」
サユリが青ざめた顔で悲鳴を上げる。
トモヨとヒロコの二人が慌ててサユリからケンスケを引き離しにかかる。
サユリの悲鳴に釣られるようにどんどん人が集まってくる。
ようやくケンスケがサユリから引き離された時は大騒ぎになっていた。
「えぇっ、!?相田君が二年の女子に暴力を振るって職員室で質問を受けているって!?」
放課後の3年A組の教室。昼休み以後教室に戻ってこなかったケンスケのことを不審に思ったヒカリが、昼休みの事件の一部始終を見ていた級友から事情を伺った。
「ええ、そうなのよ。何でも職員会議が開かれているらしくて、軽目に見ても2週間の停学は間違いないって話よ。」
「……………………………………………………。」
『一体何がどうなっているのよ!?』
何か自分の周りに存在する全ての人間が加速度的に破滅に向かっているように、ヒカリには感じられてならなかった。
「ねぇ、トウジ…。」
ヒカリがトウジの方を見ると
「そうやな。ケンスケに事情を聞いてみるかいな。今朝の写真の件といい、色々聞きたいことがあるさかいな…。」
「そうよね。んっ?、あれ碇君と霧島さんは!?」
「霧島は知らんが、シンジは終業のベルと同時に教室から出ていったで。なんかえらく放心した顔しとったな、シンジの奴。」
「まいどありがとうございます。こちら、イタリア料理店「GEORGE&RAY」です。何だ碇か。どうしたんだ?」
「す…すいません、徳永さん。今日は具合が悪いので、バイトをお休みしたいんですが、よろしいでしょうか?」
「風邪か?」
「は…はい。ちょっと頭痛が……。」
「そうか。そういうことなら仕方がないが…。碇がバイトを休むのはこれが初めてだな。まあ、ゆっくり休んで、また明日には出てくれよ。碇がいないと客足に響くからな…。」
「は…はい。すいませんでした…。」
携帯のスイッチを切ったシンジは軽く溜息を吐いた。
「はじめてバイトをずる休みしてしまった…。」
嘘をついたことに対する後ろめたさから、シンジの胸がチクリと痛む。
「せっかく今まで学校もバイトもずっと皆勤賞を続けていたのにな。けど、しょうがないか…。こんな精神状態じゃ仕事になりそうにないし……。とにかく一刻も早く…………。」
シンジはその先の言葉を飲み込むとバイクを駆ってマンションへ戻っていった。
「ただいま……。」
シンジはマンションへ帰ってきたが、返事はない。
まだ昼間の4時であり、平日、シンジがこのぐらいの時間に帰宅したのは、今日がはじめてだった。
シンジは手紙と写真をダイニングルームのテーブルの上に放り投げる。
「アスカはまだ帰ってないのか…。」
私服に着替えたシンジは椅子に腰を落としてアスカを待つことにした。
「遅いな、アスカ…。」
時計は午後の5時半をまわったが、アスカが戻ってくる気配はない。
再びシンジはテーブルの上に置かれた写真に目を走らせる。
『…………………………………………………………………。』
脳裏に嫌な妄想でも浮かんだのかシンジはブンブンと頭を振ると
「ははっ…。そんなことあるわけないじゃないか…。とにかくアスカが帰ってくれば全てハッキリするんだ……。」
とはいえ、こうしてただじっと待っていても、嫌な考えが頭の中にこびりついて離れないらしく
「少し酒でも飲んで落ち着かせるか…。」
そう考えたシンジはリビングの戸棚に飾ってあった小瓶を持ち出した。
最初はワイングラスに入れてチビチビとやっていたシンジだが、そのうち瓶を直接口に当ててラッパ飲みをはじめる。
一本、二本と次々にワインの小瓶が空になっていく。
何時もは自分の酒量を弁えているシンジだが、この時は明らかに酒量をオーバーしていた。
三本目の瓶が空になった後、シンジはテーブルに伏すとzzz…、zzz…と軽い鼾をかいて浅い眠りに落ちこんだ。
午後7時。ようやくアスカがシンジの部屋の扉の前に姿を現した。
アスカの左手にはスーパーの買い物袋がかかっており、袋の中にはカレー粉、玉ねぎ、にんじん、じゃがいも等アスカが買い込んだ料理の材料が入っている。
「さてと、朝食はうまく出来たことだし、今度は夕食にチャレンジしてみるか…。カレーだけは他人に出しても恥ずかしくないってママからお墨付きをもらっているしね。シンジが帰ってくるまでに、夕食を作り上げてあいつを驚かせてやろっと…。」
帰宅したシンジの驚きと喜びの表情を想像してアスカは幸福そうな笑みを漏らした。
「ただいま……。あれ鍵が掛かってない?変ねえ。あたし掛け忘れたかしら?」
扉を開けたアスカはその事を不審に思ったが、チラリと玄関を見てシンジの靴が置いてあるのを確認すると
『あれ、シンジはもう戻っていてるの?随分早いじゃない…。バイトの方はどうしたのかしら?』
シンジを驚かせようと思っていたアスカはその事に少し落胆しながらも
『まっ…いいか…。シンジと一緒に作った方が確実に良いものが出来るしね…。』
とプラス思考に切り替えながら廊下を歩いていく。
「シンジ。今日は一体どうしたのよ?バイトの方はお休みしたわけ?」
ダイニングルームのテーブルに伏したシンジの姿を発見したアスカは、買い物袋を床に置いた後、軽くシンジに声を掛けたが返事はない。
「本当にどうしたの、シンジ……!?」
シンジの周りに空になったワインの小瓶が数本転がっているのを確認して、アスカはやや呆れた目をして
「あらあら、もしかしてこんな時間から酔いつぶれちゃっているわけ…。あんた一体どうしちゃったのよ?こんな所で寝ていたら風邪引くわよ。」
そう言いながらワインの小瓶を片付けようとしたアスカは途中でその動作を停止した。
うつ伏したシンジに半分下敷きになっている写真と手紙の存在に気がついたからだ。
「何かしら、コレ?」
軽い好奇心からアスカは写真を取り上げたが、途中でその表情が凍り付いた。
『な……何よ、これ!?誰かあの時の光景を見ていた奴がいたの!?それにどうしてシンジがこんなものを持っているのよ!?』
先程まで幸福感に満ち溢れていたアスカの顔がみるみる青ざめていく。
何かが音を立てて崩れていくような…そんな嫌な予感がして仕方がない…。
アスカはチラリとシンジの下敷きになっている手紙に目をやる。
『もしかしてこの写真はあの手紙の中に入っていたとか…。だとしたらあの手紙には何が書かれているのよ。』
アスカの心臓の鼓動がどんどん早くなっていく。
一瞬躊躇った後、アスカは意を決して強引に手紙をシンジの下から引っこ抜いた。
その結果、おでこを軽くテーブルにぶつけたシンジは、そのショックで目を覚ますことになる。
『ア…ス……カ……?』
寝ぼけたまなこに少女の姿を捉えたシンジの意識が少しずつ覚醒しつつあったが、アスカはまだその事に気づかずに、食い入るような目で、よれよれになった便箋を読み続ける。
『な…なによ、この手紙の内容は?一体誰がこんなものを……。』
手紙の内容はマヤがかつて霧島マナに与えた濡れ衣の疑惑を、さらに数段誇張したものだった。
そして何より三年前の事件の事情をあまりに詳しく知りすぎている。
だがアスカは、その事を疑問に思うより、手紙に書かれている内容がシンジに与える影響の方に目を囚われた。
まるで砂上の楼閣のように、この一月の間、積み重ねてきたモノがボロボロと崩れ落ちるような錯覚を感じてならなかった。
「アスカ……。」
その時自分を呼ぶ声がして、アスカはビクリとする。
恐る恐るアスカは振り返ると、ユラリとシンジが椅子から立ち上がったところだった。
「シ……シンジ……。」
アスカは脅えた目でシンジを見る。シンジはまだ酔いが体に残っているらしく、少しふらふらしている。
シンジはチラリとテーブルの上に置かれた写真に目を走らせる。
「あ…あのシンジ。これは……。」
アスカは何か言おうとしたが、言葉が出てこない…。
「嘘だよね……。」
「えっ!?」
「こんなの嘘だよね、アスカ?」
そう言ってシンジは躍り掛かるようにアスカの前にくると両手でアスカの両肩を掴んだ。
「シ…シンジ?」
酒量を超えたアルコールが理性の箍を外したのだろうか。それとも必死に抑え込んでいた潜在意識化の不安が顕在化したのだろうか。シンジは今まで心の奥底にため込んでいた感情を爆発させ、全てを吐き出した。
「こんなの嘘だよね、アスカ!?この写真だってきっと合成写真か何かなんだろう!?アスカが僕を裏切るはずがないよね、そうだよね、アスカ!?」
「シ……シンジ、痛い…。」
アスカの顔が苦痛に歪む。
シンジは細身の身体からは信じられない強い膂力でアスカの両肩を締め上げているので、アスカの両肩が悲鳴をあげる。
アスカは必死に両肩の痛みに耐えながら、自分を見つめるシンジの顔を見上げて呆然とする。
アスカの蒼い瞳の中には、三年前のシンジの顔が写っていた。
穏やかな強さと優しさを称えた黒い瞳も、余裕と逞しさに満ち溢れた男の表情もそこにはない。
弱いシンジ…。
何かに脅えるような縋るような黒い瞳と、余裕のない追いつめられた表情。
それはアスカの心の中に住んでいた、弱くて情けない三年前の碇シンジの顔だった。
「ねぇ、アスカ。嘘だよね?こんなの全部嘘だよね!?」
「シ…シンジィ…。」
シンジはアスカの両肩を掴みながらガクガクとアスカを揺らし始める。
「嘘だよね?嘘だよね、アスカ!?」
アスカは涙目になりながら、シンジを見つめる。
「嘘だと言ってよ!お願いだよ!!」
「!?」
シンジは呆然とした表情でアスカを見る。
「アスカ……?」
アスカは強引に自分の両肩に掛けられたシンジの手を振り払いて、シンジから離れた。
「ア…アスカ……。」
再びシンジがアスカに声を掛ける。縋る目でアスカを見つめながら…。
「シン……………………………………………………。」
アスカは一瞬何かを言いかけたが、すぐに言葉を飲み込むと、辛そうに顔を背ける。
そして泣きそうな顔でシンジを見上げる。
次の瞬間、クルリと踵を返すと、結局無言のまま、駆け出していく。
「アスカ!!待ってよ!ねぇ、アスカァ!!」
自分を呼ぶシンジの声が聞こえたがアスカは振り返らなかった。
しばらくしてバタンと玄関のドアが閉まる音が聞こえた。外へ出ていったらしい…。
その音が合図となったようにシンジはガックリと肩を落とした。
「嘘じゃなかったの、アスカ?あの手紙も写真も全部本当のことだったの…。」
そう呟いたシンジの黒い瞳には、深い絶望が宿っていた…。
アスカが逃げ出した後には、一人ダイニングに取り残されたシンジと、買い物袋から零れて床の上に四散した料理の材料だけが残された。
「アスカ……。」
午前零時。シンジはダイニングの壁にもたれ掛かったまま座り込んでいた。
「やっぱり、マヤさんの言っていたことは正しかったのだろうか。アスカは僕に復讐するためだけに今日までずっと僕の側に………。」
『さっきはああ言ったけど、アスカがどうして日本に戻ってきたのかアスカの真意は不明分なのよ。もしかしたらアスカは3年前の続きをしにきたのかもしれないわね。』
三年前アスカがシンジにしたことそれは…。
『だから復讐の続きよ』
それは復讐という名の宴。シンジが味わった地獄の共同生活。
『ほら、アスカってシンジ君のことを心底憎んでいたじゃない。だからシンジ君が幸せそうに暮らしているのが許せなくてそれを壊しにはるばるドイツから来たのかもしれないわね。』
今でもアスカの中の時間は、サードインパクトの時からずっと止ったままなのだろうか?
『もちろん本当のところは私にはわからないわ。私はエスパーじゃないから、あの娘の心の中を読むなんて出来ないからね。ただ、にっこり笑って油断させておいて、突然寝首を掻くのがあの娘のやり方みたいだから、一見しおらしく見えても油断しない方がいいと思うわよ。』
アスカの笑顔。明るさとやわらかさに満ち溢れた最高の笑顔。三年前の笑顔は偽りの笑顔だった。そして今回は…………………。
「シンジィ…、愛してる。」
はじめて二人が一つになった時にアスカが囁いた言葉。
『まあ、それは3年前に十分身に沁みてわかっていると思うけどね。とにかくあの娘があなたに何を言ったとしても、鵜呑みしないでしばらくは様子を見たほうがいいと思うわよ。話はそれだけよ。それじゃおやすみなさい、シンジ君。』
ダンッ!!
シンジが壁を強く叩く。
ミシミシと音が鳴り、壁の一部に亀裂が入る。
「そこまで憎まれていたのか、僕は……。」
シンジの身体がわなわなと震え出す。
「そこまでアスカは僕のことを憎んでいたのか…。僕に復讐する為なら、嫌いな僕に抱かれることさえ厭わない…、そう思い込むほど僕はアスカに憎まれていたのか!?」
シンジの黒い瞳の中に、深い絶望と悲しみが宿る。
「ははっ…。考えてみればアスカにとっては貞操なんてそんな価値のあるものじゃなかったのかもしれないな…。アスカは三年前から自分のことをすでに汚されているって信じ込んでいたみたいだからな…。偽りの笑顔で僕を骨抜きにして、いつか僕を裏切って見捨てるつもりだったんだ…。三年前の時と同じように……。」
シンジの黒い瞳からポタポタと透明な液体が零れ落ちた。
「ちくしょう…!、ちくしょう…!」
シンジは泣いた。
それは高校に入学して以来、はじめてシンジが見せた涙だった。
「結局ここへ戻ってきたのね…。」
その夜、一月ぶりに宿舎へ戻ったアスカは、ふとんの上で横になりながら、ボソリと呟いた。
あの時のシンジの顔を思い出してアスカは辛そうに顔を背ける。
耐えられかった。
自分に縋る弱いシンジの瞳に……。
だから逃げ出した…。
シンジの言葉を否定もせずに、何の弁解もしないまま……。
実際、弁解のしようがなかった…。
手紙の内容はともかく、あの写真自体は嘘ではなく真実を写し出したものだからだ…。
若い男と女がラブホテルに入って何もなかった…なんて言って誰が信用する?
ましてや、シンジを忘れるためだけに好きでもない男に抱かれようとした…なんてどうしてシンジに言える?
その結果、アスカは再びシンジを失ってしまった。
「ははっ…。結局こうなるのね…。あたしもおかしいと思っていたんだ…。自棄になって相田の奴とあんなことをしようとした後で、シンジと一緒になれるなんて絶対におかしいと思っていたんだ…。」
アスカは自嘲するような口振りで
「それにしても本当に世の中って良く出来ているものね。まさかあの時の光景を見ていた奴がいて、それをあんな最悪の形でシンジに伝えるなんてね…。本当に身から出た錆ってやつか…。」
アスカは軽く溜息を吐くと、電気を切る。
久しく忘れていた夜の恐怖が襲いかかってくる。
「シンジィ……。」
シンジの温もりを失った悲しみと、再び一人になった寂しさから、アスカの蒼い瞳から涙が零れ落ちる。
この夜を境に、再びアスカの悪夢に脅える日々が始まった。
その日以後、アスカがシンジのマンションに戻ってくることはなく、二人は離れ離れになった。
シンジは学校にもバイトにも通っていたが、いつも暗く落ち込んだ表情をしていた。
学校では授業中今までのように積極的に質問することはなく、以前のように級友から悩み相談を受けることもなくなってしまった。バイト中もミスこそしなかったが、営業スマイルすら作ることが出来ずに支配人の徳永を悩ませていた。
「なあ、シンジ。一体どないしたんや?ワシら親友やろ?一人で悩んでないで、心の内を語ってみいや!」
「そうよ、碇君。」
「………………………………………………。」
高校に入学して以来、こんなに塞ぎ込んだシンジの様子を見たのははじめてのことだったので、トウジもヒカリもシンジを心配して色々話し掛けたがシンジは何も答えない。
「ねぇ、碇君。あたしは碇君もそうだけど、アスカの事が心配なのよ。だからね…。」
アスカという単語にシンジはビクリとする。
「そや、それにワシはケンスケのことも心配なんや。なんで、二年の女子と暴力事件を起こしたか聞いてもあいつは何も話さへんのや。聞けば相手はシンジのファンクラブみたいやないか…。何かシンジが知っていることがあれば………。」
「ケンスケの事なんか僕が知るわけないだろう!?もういいから放っておいてくれよ!」
シンジは大声でそう宣言して椅子から立ち上がると、ヒカリとトウジの側から離れていった。
その時シンジの黒い瞳には露骨な嫌悪感が宿っていた。
トウジは軽く溜息を吐きながら
「あかんわ。ケンスケの名前を出したのは失敗だったな。どうやらあの写真のことをかなり根に持っているみたいやな…。今ケンスケが謹慎期間中で、シンジと顔を会わせんで済むのは不幸中の幸いだったかもしれんな…。」
「……………………………………………。」
ヒカリは何とも言えず言葉を濁したが、シンジからアスカの事を聞き出せなかったのを残念がっていた。
「ねぇ、シンジ…。」
「……………………………………………。」
屋上で手摺に両肘をついて、ぼんやりとグランドを見下ろしているシンジに、後ろからマナが躊躇いながらも声を掛ける。
「シンジ…。」
「…………なんだい、マナ…。」
シンジは振り返ると放心した表情でマナを見つめる。
そのシンジの様にマナの鳶色の瞳が曇り出す。
『こんなに弱々しいシンジの姿は、はじめて見たわ。原因はやっぱりアスカさんなの?あんなに強くて前向きだったシンジを、アスカさんはここまで弱く出来るの?』
そのシンジの変化が何を意味するのかを考えると、マナの胸がチクリと痛む。
それでもマナは健気に微笑むと
「ねぇ、シンジ。何かあたしに出来ることがあったら遠慮なく言ってよ。あたしはいつだってシンジの味方だから…。本当にシンジのことが好きだから…。絶対にシンジのことを裏切ったりしないから…。」
マナは軽くシンジの腕を取りながら、鳶色の瞳に真摯な光を称えてシンジを見つめる。
「うん、ありがとう、マナ…。ごめんね、色々心配かけて…。」
そのマナの言葉にシンジは感謝の言葉を口にし、軽く微笑んだ。
ぎこちない笑顔だったが、学校でシンジが笑ったのはあの事件以後はじめてだったので、マナは心の中で安堵の溜息を漏らした。
学校ではマナだけが今のシンジと人並みの会話を交すことが出来たいた。
いずれにしてもシンジがこれほど自分を見失ったのは、サードインパクトの罪の意識に悩んだ時以来だった。
「ただいま…。」
研修から帰ったアスカは宿舎のドアを開けたがむろん返事はなく、軽く溜息を吐く。
アスカはシンジとの生活を失い再び一人になってしまった。
辺りにはコンビニの袋が散乱しており、ごみ箱にはレトルトのパック大量に捨てられている。
どうやら何もかも一月前のアスカに逆戻りしてしまったようだ。
「シンジィ…。」
アスカは弱々しくシンジの名前を呟く。
今となってはシンジと一緒にいられた生活の全てが愛しかった。
朝、起きたときシンジの笑顔を見れたこと…。
シンジと一緒に一生懸命食事を作ったこと…。
シンジが自分の為だけにチェロを演奏してくれたこと…。
何かシンジの為に尽くして、シンジに喜んでもらえたこと…。
シンジと初めてデートしたこと。
シンジと一緒に美味しい食事を食べれたこと…。
夜、シンジと一緒に寝て、悪夢に脅えることがなくなったこと…。
『やっぱり一人は寂しい…。シンジが欲しい…。』
だが、それはもう二度と叶わない夢だった。
軽くシャワーを浴びて床に就いたアスカは、シンジと一緒にいられた幸福な記憶を追憶して、失って帰らない日々を懐かしむしかなかった。
「本当に楽しかった…。たった一ヶ月だけどシンジと一緒にいられて夢のように幸福だった。」
だが、結局アスカは全てを失ってしまった。
こうなる覚悟は出来ていたはずだった。
アスカは誰よりも自分の幸福を疑っていたのだから…。
「けど…。」
アスカの蒼い瞳が悲しみに彩られる。
「一度手に入れた幸福を失うことが、これほど辛いだなんて思わなかった…。こんな辛い思いをするぐらいなら最初からシンジに近づけないで終われた方がはるかにマシだった。でも、これって……。」
アスカは三年前の出来事を思い出す。
「これってあたしが三年前シンジにしたこととまったく同じだったんだ。」
三年前、アスカはシンジを裏切った。
それも、あの時のシンジにはアスカ以外に縋る者がないとことを理解した上で、一旦シンジを受け入れる振りをしてみせておいて、シンジが幸福の絶頂に達したのを見計らって、シンジを地獄へ突き落としたのだ。
シンジを失った悲しみと同時に強い罪悪感がアスカの胸に芽生え始める。
「自分自身が幸福を失う立場に立ってみてはじめて良く分かった。あたしは三年前こんなに酷いことをシンジにしたんだ…。」
あの時の幸福を失ったシンジの絶望は一体どれほどのものだったのだろう…。
「あたし本当に馬鹿だ。一度あんな酷いことをシンジにしておいて、もう一度やり直せるかもしれないなんて思い込んでいたなんて…。」
アスカの蒼い瞳からボロボロと涙が零れ落ちた。
シンジと別れて以後、アスカはまるでかつてのシンジが乗り移ったかのように内罰的に自信の罪を嘆き、自分で自分を傷つけ続けた。
それゆえ、夜は悪夢に脅え、昼間は内罰的に自分を傷つけるのが、今のアスカの日課になってしまった。
二人が別れてから一週間が過ぎた。
シンジは相変わらず半死人のような生活を送っている。
アスカの方は悩み苦しみながらも何とか研修の方には顔を出していた。
研修期間も残り一ヶ月を切り大詰めを迎えている。
「ただいま……。」
シンジはバイトを終えてマンションに帰宅したが返事はない。
強い喪失感を感じて軽く溜息を吐く。
幸福を失ったのは決してアスカ一人ではなかった。
アスカを失うことによってシンジが受けた衝撃もアスカに劣らず大きなものだった。
シンジはライフワークと定めた、カウンセリングの勉強をはじめたが、なぜか一向に捗らない。
学校の授業中もそうだが、アスカの事が頭から離れずに、勉強に集中することが出来なかった。
「ははっ…。何が将来カウンセラーになって多くの心を壊した人の役に立ちたいだ…。自分一人の悩みさえも解決出来ない奴が、どうして他人の悩みを解決出来るんだ!?」
そう考えてシンジは自嘲する。
「それにしても…。」
ダンッ!!
シンジが再び壁を叩く。
ダイニングの壁に続いて自室の壁にも亀裂が走った。
「こんなに弱かったのか、僕は!?」
シンジはわなわなと身体を震わせながら
「強くなったと信じていた。自分を支え、他人を支えられるような強い人間になれたと信じていた…。サキちゃんやマナブ君達三春学園の子供たちとの交流は僕に自分自身を肯定して、自分の強さを信じられるだけの自信を与えてくれた。なのに……。」
再びシンジが壁を叩く。
「今の僕は一体なんだ!?アスカに裏切られただけで、ここまで自分を見失って崩れてしまうなんて…。僕は強くなれたんじゃなかったのか!?僕は今でもこんなに弱いままだったのか!?一体僕の三年間の努力は何だったんだ!?」
シンジは強くなったと信じていた自分の中に、未だに弱い自分が存在していたことに耐えられなかった。
だからこの時のシンジは、手に入れたと信じていた強さにしがみ付くあまり、最も大事なことを忘れていた。
“強くなりたい”という願いは、“大切な何かを守る”ための手段であって、本来の目的ではなかったということを…。
だから『どうして自分は強くなりたいと願ったのか?』という当初の目的を完全に忘れていた。
そう、突き詰めれば今のシンジは“誰のために強くなろう”と決意したのかという目的を忘れて、手段と目的が完全に入れ替わっていたのだ。
「駄目だ…。一人でいると頭がおかしくなりそうだ……。」
シンジの脳裏に一瞬、霧島マナの笑顔が浮かんだが、頭を振ってその妄想を振り払った。
「ははっ…。僕ってこんなに節操のない奴だったのか?今度はマナに縋ろうなんて…。」
だがその想いをシンジは自らの意志で封じ込めた。
シンジは自分にはもうマナのことを想う資格はない…と信じこんでいたからである。
「結局僕の心はどこにあるんだろう?」
高校に入学してマナと再会して以来、シンジは完全に自分の気持ちを持て余していた…。
結局シンジは、効率の上がらない勉強を手早く切り上げて、早めに床に就くことになった。
午前一時。
喉の渇きを覚えて目を覚ましたシンジは、台所へ言って冷蔵庫の中に入っている缶ジュースを一口に飲み干した。
シンジは空缶をごみ箱へ放り投げる。
だが、缶はごみ箱の縁に当たって、コロコロとダイニングの方へ転がっていった。
シンジは軽く舌打ちすると、空缶を追ってダイニングに顔を出す。
テーブルの下に潜り込んで、空缶を拾ったシンジは、テーブルから抜け出ようとした時、
「!?」
右手に何か角張った感触がする。
不審を感じたシンジはソレを拾い上げてみる。
「これは…!?」
シンジが拾いあげたのは小さな文庫本だった。
表題には『初心者の為のクッキング講座』とラベルが張ってあった。
「なんだろうこれは?僕が買った本じゃないよな?もしかしてあの時、アスカが置いていった買い物袋の中に入っていたのだろうか?」
ちょうどテーブルの下の死角にある位置に隠れていたので、気づかなかったのだろう。
「……………………………………………………………………。」
シンジは本の表題を見ながらじっと考え込む…。
そして今まで一緒に生活していたアスカの笑顔やさり気ない仕種を思い浮かべる。
「アスカは料理を一人で作れた時、本当に嬉しそうな顔していたよな…。あの笑顔は絶対に演技には見えなかったよな…。何より本当に一生懸命だった気がする。それさえも僕を騙す為の演技なのだろうか?」
微かだがシンジの中で何かが変わりはじめる。
シンジはもう一度チラリと本の表題を見つめながら
「この本は何だろう?これもただのポーズなのか…。けど、そうでなければアスカは……。やっぱり、分からない……。」
三年前に一度アスカの笑顔に騙されたトラウマは思いのほか強かった。
再びシンジは疑心暗鬼の状態に陥りだす。
「そうだよな。まだ、僕はアスカの口から何も聞いたわけじゃない…。あの手紙と写真の内容が嘘である可能性もあるんだ…。」
シンジはチラリと時計を見る。
夜中の一時半を指していた。
「女の子を尋ねる時間としてはあまり好ましくないけど、しょうがない…。とにかく一刻も早く確かめるんだ。今度こそアスカの口から確かな真実を聞き出すんだ…。」
シンジはそう決意すると、私服に着替え始める。
この時のシンジの瞳に迷いはなかった。
その結果、疑惑が真実だと分かっとしても、今度こそアスカのことを振り切れるはずだ…。
シンジはそう信じてもう一度、アスカと話しをする決意を固めた。
「い…いや…。」
アスカはシーツを強く掴みながら、うなされている。
シンジがふとした切っ掛けからもう一度アスカを信じようと決意した頃、アスカは何時ものように悪夢の世界をさ迷っていた
この夜、アスカは自分で自分を断罪した。
底知れぬ深い闇。
辺り一面は焼け野原であちこちに死体の山が転がっており、阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていた。
いつも見る夢。
アスカにとっての永遠の悪夢。
アスカは金髪の髪を振り乱して、放心した表情で立ち尽くしている。
だが、この夜の悪夢はこれからが本番だった。
誰!?
目の前に誰かいる…。
アスカは蒼い瞳を凝らして前方を見据える。
闇の中から姿を現したのはアスカと同じ蒼い瞳を持つ、赤い髪の14歳くらいの少女だった。
あたし…!?
金色の髪のアスカは目の前の赤い髪の少女の存在に驚きを禁じ得ない。
その時、目の前の少女が笑った。氷のような冷たい笑みで…。
その少女の様子にアスカは寒気を覚える。
「あ…あんた誰よ!?」
アスカの声が上擦っている。
「はじめまして…というべきかしらね。私の名は惣流・アスカ・ラングレー。」
「ち…違うわよ。惣流・アスカ・ラングレーはあたしよ。」
そのアスカの問いに赤い髪の少女は可笑しそうに笑うと
「私はあなたよ。人は自分の中にもう一人の自分を持っているのよ。自分というのは常に二人で出来ているものなのよ。」
「二人?」
「実際に見られている自分とそれを見つめている自分よ。そして私はもう一人のあなたよ…。そう、あなたが捨てたと信じていた私…。そして碇シンジの心の中にいる惣流・アスカ・ラングレーでもあるわね。」
『シンジの中のあたし?』
アスカはその意味を考えながら目の前の少女を観察する。
目の前にいたのは確かに三年前の14歳の時のアスカだ。
金髪に映え変わる前の燃えるような赤い髪。
他人を見下す勝ち気な色と険のある表情。
氷のよう笑みを漏らす醜く歪められた口元。
そして血走った蒼い瞳の中には、歪んだプライドと狂気の色がほどよくブレンドされている。
目の前の少女の顔には、かつてのアスカの持っていた悪しき負の属性の全てが存在していた。
『これがシンジの中に住んでいるあたしのイメージだというの?』
「どう、分かったでしょう?あなたはプライド、意地、狂気、憎悪、その他、三年前あなたが備えていたあらゆる醜い感情を捨てて素直な自分に生まれ変われたと信じているみたいだけど、その感情は全て私に受け継がれていただけなのよ。そう、もう一人の私にね…。」
そう言って目の前の赤い髪のアスカは金髪のアスカを嘲笑する。
アスカはかつての己の罪を具現化したような目の前の少女の存在に耐えられずに、思わず顔を背けた。
「だからね、あなたが今味わっている悪夢は私からのささやかな復讐なのよ。」
「復讐!?」
少女はチラリと周りにある死体の山を見ながら、嫌悪感を込めてアスカを睨むと
「そう、復讐よ。あれだけのことをしでかしておいて、その原因の全ての醜い感情を私に押し付けて、何もなかったような顔をして、のうのうと生きているあなたを許せなかっのよ。だから毎晩のように悪夢を演出してあげたのよ。あなたが決して自分の犯した罪を忘れないようにね。さすがに誰かが隣であなたを守ってくれた時には効果がなかったようだけどね。」
「な…なにが罪を忘れないようによ!?た…確かにあたしは多くの人間を殺したわよ!けど、あれは正当防衛だったのよ。ああしなければあたしが死んでいたのよ!」
アスカは必死に自分自身を相手に自己弁護をはじめる。
それはある意味相当滑稽な光景だったかもしれなかった。
「そうね、確かに正当防衛といえばそうよね、けど……。」
アスカはアスカを嘲笑するように口元を歪めながら
「けど、あなたにそれだけの価値があったの?」
「えっ!?」
「たかがエヴァとシンクロ出来なくなったぐらいで、自分の価値を見失って心を壊してしまう程度の価値しか自分に認めていなかったあなたに、数千人の人間を殺してまで生き延びるだけの価値が本当にあったのかしら?」
「そ…それは…………。」
その質問はアスカの最も痛いところを突いた。
アスカは口篭もったまま何も言えなくなってしまった。
「それに、本当にただの正当防衛だったのかしら?弐号機の中に母親を見つけたあなたは戦うことに喜びを感じていなかった?自分の力に酔っていたんでしょう?戦自の部隊を虫けらのように捻り潰した時も、そして白いエヴァと戦っていた時も殺戮に酔っていたんじゃないの?」
「ち…違う!」
「違わないわよ、それにシンジの時もそうだったでしょう?」
「!?」
次の瞬間、アスカの隣に14歳ぐらいの黒髪の少年が現れた。
「シ…シンジ!?」
線の細い弱々しい顔。
何かに脅えるような縋るような黒い瞳。
そこにいたのは三年前の弱いシンジの姿だった。
「これがあなたの心の中に住む碇シンジよ。あなたにとっての碇シンジは今でも三年前の内罰的だった弱いシンジを指している…てことね。よかったわね、あなたのシンジに対する想いは本物よ。シンジがカッコ良くなったから憧れ出した…という凡百の女とは一線を違えていることがこれで証明されたわけよね。」
「………………………………………………………………………。」
アスカは押し黙ったまま目の前のアスカの話を聞いている。
シンジに対する想いを肯定されても嬉しくなかった。
なぜか目の前のアスカはそのことさえも、自分を嘲笑する種にしているように思えてならなかったからだ。
「けど、その想い人たるシンジに、あなたは一体何をしたのかしら?」
「えっ!?」
アスカの周りの景色が歪み始める。
次の瞬間、戦自殺戮の焼け野原から、宿舎の二度目の共同生活の場面に舞台が入れ替わった。
それはまるで立体映画のようだった。
その当時の陰惨な復讐劇をアスカはリアルタイムで見せられることになった。
場面に三年前のシンジとアスカが現れる。
シンジを殴るアスカ。
シンジを罵るアスカ。
サードインパクトのトラウマを穿ってシンジを苦しめるアスカ。
心も身体もボロボロに傷つくシンジを見て明らかに喜ぶアスカ…。
アスカは自身の罪を正面から突きつけられて顔を青ざめさせる。
「どう、楽しかったでしょう?、シンジを苛めるのは…。シンジが傷つく姿を見るのは快感だったわよねぇ?」
「や…やめて…!!」
「分かっていたはずよね?
別にサードインパクトはシンジ一人の責任ではなかったということは…。
けど、あなたは自分一人が罪を背負うのが嫌だから、シンジを道連れにしたのよね?
十億人虐殺という常人なら発狂しそうになるような罪を無理矢理シンジに背負わせて…。
そんな業を正面から突きつけられたんだから、シンジが一度壊れたのも無理はないわよね…。」
「お願い、もう、やめて!!」
アスカは耐えられずに耳を塞いでしゃがみ込んだ。
「ちゃんと見なさいよ。あなたが自分でやったことでしょうが?」
「違う!違う!」
「違わないわよ。そして本来のシナリオを良く見てみることね。」
「本来のシナリオ!?」
目の前で再現された復讐劇も最後を迎えた。
逆上してアスカの首を締め上げるシンジ。
電話の音に正気を取り戻し、慌ててアスカの首から手を放したシンジと、再びシンジを断罪するアスカ…。
そして、全てに絶望して宿舎から飛び出していくシンジ。
「いよいよ、次がクライマックスよ…。三年前の事件のね。」
アスカはクスクスと笑いながら、そうアスカに問い掛ける。
シンジはキョロキョロと車道を見渡して、トラックが来る瞬間を見計らってトラックの前に飛び出した。
『シンジ…!?』
次の瞬間、トラックに跳ねられたシンジは木の葉のように舞い上がると、一回転して地面に激突した。
シンジはその場に赤い血溜りを作り上げると、壊れた人形のように動かなくなった。
アスカは目の前で起きた惨劇を放心した表情で見ていたが、
「い…いやあぁぁぁ……………!!!」
頭を抱えて悲鳴を上げる。
「何が嫌よ?
あなたが自分でやったことでしょう?
シンジを壊してやろうという明確な悪意を抱いてシンジを追いつめ続けた癖に…。これがその本来の結果よ。碇シンジの人生はこの地点で終わっていたはずなのよ。
こうならなかったのはたまたま運が良かっただけの話であって、一度シンジから全てを奪ったあなたが、シンジと一緒になろうなんて笑わせてくれるわよね。」
「違う!違う!違う!あたしがやったんじゃない。あなたがやったのよ!そう、狂ったあたしがやったのよ!あたしは…、あたしは……。」
アスカは蒼い瞳に軽蔑の眼差しを浮かべて、頭を抱え込んだアスカを見下ろすと
「都合の悪いことはみんな私の所為だと言いたいわけ?あなたって本当に良い性格してるわね。」
「………………………………………………。」
「まあ、そう思いたければそういうことにしておいてあげてもいいわよ。
どちらにしても私はもう消えることにするわ。どのみちあなたはこれから先、生きていく上でもう私を必要とはしないでしょうからね。
サエコというあなたを無条件に愛してくれる母親を手に入れた今、安っぽいプライドを振りかざすことも意地を張る必要もなくなったわけだしね。」
「…………………………………………………………。」
「あなたがこの先、私を必要としない限り、私は二度とあなたの前の現れないことを約束するわ。ただし、これだけは覚えておくことね。」
そう言って赤い髪のアスカは金髪のアスカの手と掴むと正面からアスカを見据える。
「私が消えてもあなたの罪は消えないのよ。
たとえ全て私が犯した罪だとしても、外の世界の惣流・アスカ・ラングレーはあなた一人だけなんだからね。
数千人の人間を殺した罪も、そして碇シンジから全てを奪った罪さえも全てあなたが引き継ぐことになるのよ。
かつてあなたがシンジに言った言葉をあなたにも捧げるわ。
この血塗られた手で、あなたはどんな幸福を掴むつもりなの!?」
赤い髪のアスカはそれだけ告げると、闇に吸い込まれるようにアスカの前から消えていった。
そして後には放心した表情の金髪のアスカと、真っ赤な血溜まりの上に壊れた人形のように横たわっている、アスカの罪を具現化したシンジの死体だけが残されていた。
……………………………………………!?
アスカは目を覚ました。
時刻はまだ夜中の午前二時を指していた。
先程見た夢の内容を思い出してアスカの蒼い瞳に深い絶望が宿った。
「そっか…。分かった…。あたしには、はじめから何もなかったんだ。幸せになる権利も…シンジの隣にいる資格も………。」
アスカの蒼い瞳からポロポロと涙が零れ落ちる。
「きっと、あのシンジとの束の間の幸福な生活さえ、あたしに与えられた罰だったんだ…。最初からシンジに近づけないで諦めるより、シンジと一緒にいられることがどれほど幸せか、幸福か味わった後にそれを失うほうがはるかに辛いことだから……。」
ピンポーン♪
その時、突然チャイムが鳴り出した。
その後も二回・三回連続で鳴らされる。
『こんな時間に誰よ?しかも人が落ち込んでいる時に…。』
アスカは涙を拭いて、寝間着の上からサエコの手作りのカーディガンを羽織ると、インターンに出て
「あんた今何時だと思っているのよ!?少しは近所迷惑…。」
「夜分遅くごめんよ、アスカ。僕だよ。シンジだよ。」
「シンジ!?」
インターンから聞こえてきたシンジの声に、アスカは驚きの声を上げる。
「アスカ。話しがあるんだ。だから扉を開けて欲しいんだ。」
「シンジ…。」
「この間は取り乱して見苦しい所を見せてごめんね。とにかく今度はじっくりと話しがしたいんだ。中に入れてくれないかな?」
「………………………………………。」
アスカは無言でインターンを切ると、ドアの方へ向かって駆け出していく。
『シンジがあたしを迎えにきてくれたんだ…。』
一瞬アスカの胸がときめいたが、それは本当に一瞬のことだった。
先程見た夢の中の内容がアスカのシンジに対する想いを許されざる幻想として打ち砕いた。
『何、浮かれていたんだろう…。あたしにはもうシンジの隣にいられる資格なんてないのに…。』
アスカの蒼い瞳がどんどん暗く濁っていく。
「ねぇ、どうしたの、アスカ?そこにいるんだろう?開けてよ、アスカ。」
扉の向こうからシンジの声がする。
『シンジィ…。』
扉の向こうにシンジがいる。
今、アスカとシンジは扉一枚を隔てて、ほんの数センチの距離にいる。
だがアスカにはこのほんの数センチの距離は、永遠に縮まらない無限の壁に思えてならなかった。
『もしかしたら、正直に全てを話せばシンジはあたしを許してくれるかもしれない…。けど、それで全てが許されるの!?シンジにあれだけ酷いことをしておいて、一度シンジから全てを奪っておきながら、またシンジと一緒になれるつもりなの!?そんな事、絶対に許されるはずないんだ…。』
シンジと一緒にいたいというアスカの切ない願いを、自分は許されてはならないという内罰的な罪の意識が完全に塗りつぶした。
そう、罪と罰という三年前の業が、アスカの心を縛ってしまい、ささやかな幸福を願う想いさえも粉々に打ち砕いてしまった。
その結果、アスカはシンジの方から差し伸べてきた手を、自分の意志で振り払った。
『シンジ、ごめん…。』
アスカは心の中で、少年に謝罪すると、
「今更何しにきたのよ、バカシンジ?もしかして、あたしの身体が恋しくなったわけ!?」
あえてふてぶてしい声でアスカはシンジに尋ねる。
今にも泣き出しそうな顔をしながら…。
心に鋭い痛みを感じながら…。
だが、扉の向こうにいるシンジは、今の声色とは裏腹な、弱々しいアスカの本当の姿を知ることは出来なかった。
「ち…違うんだ。アスカ。僕はただアスカと話しがしたくて……。」
「あたしの方では今更あんたと話すことなんか何もないわよ。さっさと帰ってよ。あんたなんか目障りなのよ。」
『シンジィ…。お願いだから、早く帰ってよ。これ以上はあたし耐えられないよ……。』
シンジは先のアスカの対応にショックを受けたようだが、何とか気持ちを落ち着かせると
「………………アスカ、別に扉を開けなくてもいいから、このまま聞かせてよ。アスカの本当の気持ちはどこにあるの?あの手紙と写真は何なの?僕には僕と一緒にいた時のアスカの笑顔が嘘だなんて思えないんだ。だから、アスカの本当の想いを聞かせてよ。アスカにもきっと色々事情があったんだろう?何を言われても絶対に驚いたりしないから……。」
『シンジィ……。』
シンジの真剣な想いにアスカの決心が揺らぎかけたが、シンジが純粋(ピュア)に自分を求めてくれればくれただけ、尚更アスカは自分が許せなかった。かつて、悪意の限りを尽くしてシンジを不幸にした自分が…。
「そんなに知りたければ教えてあげるわよ、バカシンジ。あの写真は本物よ。あたしが相田の奴を誘ったのよ。理由は言わなくても分かるわよね…。」
「…………………………………。」
そのアスカの言葉にシンジは無言だった。内心ショックを受けているのかもしれなかった。…というよりもきっとアスカに否定してもらいたかったのだろう。
「ねぇ…、アスカどうして…………」
「はん!どうしても何もないでしょう!?あんた自分があたしに好かれているとでも本気で思っていたの!?三年たって外面は少しはマシになったみたいだけど、あたしはあんたがどういう男か知ってるのよ。あたしを何度も見捨てて、動けないあたしをおかずにして、二度もあたしの首を締めて殺そうとした最低の人間のクズじゃない。あたしにあれだけ酷いことをしたあんたが、あたしに好かれるとでも本気で信じていたわけ?」
アスカはシンジを嘲笑するような口振りでシンジに尋ねる。
「ア…アスカ。」
『もうイヤ…。こんな酷いことシンジに言いたくないのに…。シンジィ。お願いだから早く帰ってよ。もう、これ以上あたしにシンジを傷つけさせないでよ。』
何時の間にかアスカの頬に一筋の滴が伝わっている。
「………………アスカ。もう一度聞くけど、アスカの心の中には僕に対する憎しみしかないの?もう、アスカの心の中には僕の居場所はないの?」
『……………………………………………。』
これで全て終わりに出来るはずだ…。
そう思ったアスカは、必死に最後の気力を振り絞ると
「あんたってつくづくおめでたい男よね。本当にバカシンジだわ。あんた三年前あたしに何をされたかすっかり忘れたわけ?あれだけ悲惨な目に会わされながら、二度も同じ手に引っ掛かるなんて本当に救いようがない馬鹿ね。」
「……………………………………………………。」
しばらくの間シンジは無言だった。
この間シンジが何を考えていたか不明分だが、気持ちの整理を付けているのだろうか…。
やがて決心がついたらしく、
「………………そうなんだ。マヤさんが言った通り、アスカは未だに僕を憎んでいたんだね……。」
「……………………………………………………。」
アスカはその言葉を肯定も否定もしなかった。
『そうよ。酷い女だって罵りなさいよ。あたしを軽蔑してよ…。そうすればあたしも諦めがつくんだから……。』
アスカは、自分を罵るシンジの言葉を待ちうけていたが、次にシンジから放たれた言葉は意外にも、その逆だった。
「………アスカ。僕はアスカと一緒にいられて楽しかったよ。三年前の失った大切な日々を取り戻せたと思っていたんだ…。あの頃のアスカはいつも僕のことを馬鹿にしていたけど、僕のチェロだけは心から誉めてくれたよね?だから僕はチェロを弾くことがアスカとの絆になると信じて、この三年間毎日のように練習してきたんだ。いつかもう一度アスカに聞かせてあげたい…。それだけを願ってさ…。」
『シ…シンジィ…。』
シンジの言葉にアスカの瞳が潤みはじめる。
胸のうちに熱いものが込み上がってくる。
だが、次にシンジから放たれたのは決裂の言葉だった。
「僕はアスカと一緒にいられて本当に楽しかったよ。けど、アスカにとってはそうじゃなかったんだよね?ごめんね、アスカ。正直ここまでアスカに憎まれていたなんて思わなかったんだ。けど、そろそろ終わりにしようよ。僕と一緒にいることがアスカにとって苦痛でしかないのなら、もう僕のことなんか忘れて幸せになってよ。もう二度とアスカに近づかないことを…、絶対にアスカを傷つけたり、苦しめたりしないことを約束するからさ…。」
『シンジ………。』
心の奥底から無理に抑え込んでいた感情がみるみる溢れてくる。
「…………さよなら、アスカ。」
それが扉の向こう側から聞こえてきたシンジの最後の言葉だった。
それ以後シーンと静まりかえった。
「シンジィ〜!!」
とうとう限界を超え、アスカは大声でシンジの名前を叫んでしまった。
アスカにはもうこれ以上自分を偽ることが出来なかった。
慌ててドアの鍵とチェーンロックを外して、扉を開ける。
もし、今の泣き濡れたアスカの顔をシンジが見れば、また状況は変わったかもしれなかった。
だが、アスカが扉を開けた時、そこにはもう誰もいなかった。
シンジは既に立ち去った後で、一陣の北風がアスカの頬を撫でた。
「シンジ………。」
アスカはガックリと膝を落とした。
またシンジを傷つけてしまった…。それもシンジの方から差し伸べてくれた手を自ら拒絶して…。
もう二人の関係を修復する術は何も残されていなかった。
アスカの蒼い瞳から滝のように涙が零れ落ちる。
「シンジィ…。ごめんね…。最後の最後までシンジを傷つけてばかりいる酷い女でごめんね…。」
アスカは激しく泣きじゃくりながら
「許して、シンジィ…。もう二度とシンジを傷つけたりしないから…。もう絶対にシンジに近づいたりしないから……。」
つづく…。
けびんです。
何やら前章が「シンジ断罪編」だとするなら、後章は「アスカ断罪編」の色を濃くしてきました。
すでに作品の趣旨に関しては十九話の後書きで明確に宣言したばかりですので、今回の展開だけを捕らえて作品の方向性を誤解する読者はいないものと信じて話を進めさせてもらいます。
今回のお話しの中でようやく二人にとっての本当の敵が姿を現しました。
それは“過去の自分自身”です。
EOEのラストで多くの人が感じていたシンジとアスカの間に出来た絶望的な溝は、前章「AIR」編によって解消出来たものと信じておりますが、その溝を消す為に、今度は僕自信がまったく別な新しい溝を作ってしまいました。
そんなわけで後章「まごころを君に」編ではその溝を取り除くことを目的に話を進めてきたのですが、これは一筋縄ではいきません。
シンジとアスカが抱えているお互いに対する負い目は最後まで付いてまわるものだと僕個人は思っています。
そうでなくても、男女間の想いは極めて曖昧ですれ違いやすいものです。
ましてや、前章であれだけのトラウマを抱えてすれ違ったアスカとシンジの二人ならそれは尚更のことだと思います。
だから、そういう意味では、今までのマヤの暗躍も、そしてジョーカのカードさえも、二人が抱えていた深層心理のトラウマを顕在化させただけの、ただの切っ掛けであり、今回の破局は早いか遅いかの差であって、外的な要因(マヤやサユリなど)がその時期を多少促進しただけの話であって、二人がお互いの負い目を解消できない以上は、いつかは必ず訪れていた不可避の試練であるものと僕は信じています。
この先二人がもう一度やり直せるか否か、それは二人が自分達自身の辛い過去に打ち勝てるかに懸かっています。
以上、補足になったか分かりませんが、後書きで本編の補足をするという話でしたので、自分なりの解釈をこの先の展開のねたばらしにならない程度に書き込んでみました。
本編完結まで、ラスト5話。
次回、第二十二話「涙」でお会いしましょう。
では。
けびんさんの『二人の補完』第二十一話、公開です。
あぁ すれ違い。
くぅ 掛け違い。
ほんの一言二言心を伝えることが出来たなら、
ほんの1.2分、言葉を交わすことが出来たなら、
ほんの、ほんの少し−−。
それで、修復できるだろうに。
それが出来ない。
1歩遅れる、
裏腹な態度になってしまう。
背負った物が重すぎますね・・・・
目を逸らしてきたツケ、
過去の出来事。
ほんの、ほんの、ほんの少し−−。
芯の部分は同じなのですから、
きっと、きっと。
きっと通じ合えると信じています。
さあ、訪問者の皆さん。
あとがきも力入っているけびんさんに感想メールを送りましょう!