「ちょっと、マヤ。これはどういうことよ?」
研修が終了した後、廊下でアスカがマヤに食ってかかる。
「どうもこうも先程説明した通りよ。今までより、ちょっとだけ学習ペースが上がっただけの話しよ。」
「これのどこがちょっとだけなのよ!?カリキュラムが以前の倍近くあるじゃない!」
「私に怒鳴ってもしょうがないでしょう?これは委員会の正式な決定事項なんだから今更変更はきかないわよ。まあ一部の候補生にはいい刺激になったんじゃない?随分と研修内容に退屈していたみたいだからね。」
やや刺のある口調でマヤは答える。
「とにかく、あたしは今高校にも通っているんだし、こんな無茶苦茶なペースにはついていけないわよ!」
「じゃあ、学校を辞めたら?」
「!!」
マヤはアスカを冷ややかな目で見ながら
「もともと、あなたは委員会の研修候補生としてここにいるのだから、今更学校へ通っているほうがおかしいのよ。どうするの?辞めるんだったら私の方から学校へ連絡してあげてもいいわよ。」
マヤは暖かみに欠けた絶対零度の声色でアスカに提案するが
「……………や……辞めない……。」
あたしはまだ何もシンジに伝えていない…。今、学園から離されるのはイヤ…。
「そう。なら仕方ないわね。あなたの好きにすればいいわ。けど、約束の方はちゃんと守ってもらうわよ。次回のテストでも分かっているでしょうね?」
「……………………………………。」
「いっとくけど、学習ペースが上がったからなんて言い訳は通用しないわよ。プライベートな時間に何をしようとあなたの自由だけど、あなたもMAGIの管理責任者の候補生として研修に参加している以上はきちんと結果を出してもらうわよ。」
「わ…分かってるわよ。ちゃんとした成績を残せばいいんでしょう!?」
マヤはいきり立つアスカを揶揄するような瞳で見つめながら
「そういうこと…。それじゃ次回のテスト結果を楽しみにしてるわよ、アスカ。」
マヤはそれだけ告げるとクルリと踵を返してアスカの側から離れていった。
アスカはワナワナと拳を強く握り締めて、激しい敵意の篭った視線でマヤの後ろ姿を睨みながら、一言呟いた。
「ま…負けるもんか!」
第十七話 「魔女達の宴」
午前四時。
宿舎の一部屋に未だに明かりがついている
アスカは鉢巻きをしめて、教本を片手に、研修の勉強をしている。
ヒュプノスの誘惑がアスカを襲う都度、コーヒーをがぶ飲みして、頬をパン、パンと叩きながら必死に眠気を堪えてカタカタとキーボードを叩き続ける。
「マヤなんかに絶対に負けるものか!」
と何度も呟きながら…。
翌朝、窓から射し込んできた眩しい日の光にアスカの視界がくすぐられる。
アスカは机に伏していた顔を上げる。どうやら何時の間にか眠りこんでしまったみたいだ。
「う〜ん。お…は…よ…う、ママ…。」
やや寝ぼけているらしい。アスカの蒼い瞳は淀んでいた。
そして、机の上に立てかけてあった目覚まし時計を持ち上げて覗き込んでみる。
徐々にアスカの蒼い瞳が鮮明になっていく。
やがて、完全に理性が戻った時、アスカの顔色はサーッと青ざめた。
「まずい、完全に遅刻だわ。」
アスカは取るものも取らずに急いでセーラー服に着替えると慌てて宿舎を飛び出していった。
「鈴木。」
「はい。」
「鈴原。」
「ウィッ〜ス!!」
「惣流。」
「……………………………………………………。」
「惣流!?」
返事はない。
「惣流はどうした?今日は水曜日だったけ。」
教師は黒板を見る。日付は木曜日と書かれていた。
「惣流は遅刻か?」
「は〜い。は〜い。は〜い。は〜い!!!」
突然扉が開くとアスカがゼイゼイと息咳ながら教室に入ってきた。
「ぜはっ!ぜはっ!す…すいませ〜ん!遅れちゃいました。」
アスカはさして悪びれた様子も見せずに軽く舌を出す。
教師は軽くため息をつくと「以後気を付けるんだぞ。」と注意して特に小言も言わずにアスカを解放した。
「それじゃ次の問題をそうだな、惣流にやってもらおうか。」
二時限目の数学の時間、教師がアスカを指名したが返事はない。
「惣流…。どうした?返事をし…………!?」
教師がアスカの机を見るとアスカは教科書を立てかけたまま机の上に伏して熟睡していた。
zzz…、zzz…と軽い鼾をかきながら、机の上に涎の染みが流れていた。
そのアスカのだらしない寝顔に、100年の恋が覚めてしまった男子生徒が若干数存在していたようだ。
恋は盲目というべきか、むろんケンスケは例外のようで、アスカのご尊顔をカメラに収めようと誰にも気づかれないようにシンジの着替えを隠し撮りする要領で例の小型カメラでアスカの寝顔を撮りはじめる。
「ちょっと、アスカ!指名されたわよ!」
ヒカリが親友としての義務感と委員長としての責任感に挟まれながらアスカの肩を揺すったが、アスカは起きる気配はない。
「放っておけ、洞木。」
教師はやや呆れた目をしてヒカリに声を掛ける。
「えっ!?」
「どうせ惣流の学園への在籍に学業的な意味はないんだからな。居眠りしたければさせておけばいいさ。授業の邪魔にならなければ問題ない。碇!それじゃ惣流の代わりに答えてくれ。」
「あ…はい!」
新たに指名を受けたシンジは黒板の前へ出て方程式を解き始める。
『まったく委員会の研修生だか14歳で大学を卒業した博士号取得者だか知らないが好き勝手やりやがって、エリートという奴は秩序というものを知らんのか!好きな時だけ学校へ来て、授業中もこれとは学生を舐めるにもほどがある。自分をアイドルかなんかと勘違いしてるんじゃないのか、この娘は…。』
苦学の末、去年教員になったばかりの新米教師は、アスカの肩書きに若干嫉妬しながら、心の中でアスカの不真面目な就業態度を罵り続ける。
シンジは立腹した教師の顔を尻目にチラリと机にうつ伏せたアスカの方を見て
『本当にアスカは何しに学校に来ているのだろう?』
と自問する。
ヒカリはアスカと教師を見比べて大きくため息をつく。
とにかくこの日以来アスカの教師間の評判が著しく下がることになった。
それ以来アスカはかなりのハードスケジュールで一日をこなす事になる。
学業と両立させたまま、委員会の研修についていくために、宿舎へ帰宅後は徹夜に近いペースで勉強する。
一日の睡眠時間は1〜2時間。
これほどアスカが必死に勉強に取り組んだのは、シンジと出会う以前に大学に在籍していた時以来だった。
ただ、当然そのしわ寄せは学園生活の方へまわされることになり、それ以来アスカは眠い目を擦りながら、あくびをかみ殺して、いつもうつらうつらしながら授業を受けることになる。
アスカがこれほど無茶な真似をしてまで学園生活に拘ったのは、学校にはシンジがいるからであり、その場所以外に今のアスカにはシンジに近づく術を知らなかったからである。
だが、そのアスカの涙ぐましい努力も、教師達から見て美徳とは写らないらしく、学生という立場を舐めているとしか思えないアスカの授業態度を忌々しく思っていた。
どうやら、性格が丸くなった今でも敵を作り易いというアスカの持って生まれた体質はさほど変わっていないみたいだ。
教師達はそんなアスカの授業態度を見て見ぬ振りをしていたが、正直大学卒業というアスカの肩書きと委員会からの紹介がなければとうに放校されていたことだろう。
とはいえこのような就業態度では、もともと学業的な意味を持っていないアスカが何か問題を起こせば即退学となるのは疑いようがない所である。
そのような事情で、マヤの思惑通り今のアスカの学園生活は薄氷を踏む思いで成り立っていた。
「ねえ、どうしたの、アスカ?最近ずいぶん眠そうだけど…。」
放課後、アスカの授業態度を見かねたヒカリがアスカに声をかけた。
「ちょ…ちょっと…ね。委員会の研修内容が厳しくなってきたんで、夜遅くまで勉強していたから…。」
アスカは大きく欠伸をして目やにを擦りながら答える。
「そ…そうなの…。だったらしばらくは研修の方に専念したほうがいいんじゃない?アスカの場合は無理して学校くる必要性もないわけだし…。」
ヒカリは親切心からそう忠告したが、
「い…今はまだやめたくないんだ。だってあたしは…。」
アスカはそこで口を噤んだがその先紡いだであろう言葉を理解したヒカリは軽くため息を吐くと
「分かったわ。けど、授業はまじめに受けたほうがいいと思うわよ。教師の一部は明らかにアスカのことを快く思っていないみたいだから。それとあたしも一応委員長としての立場もあるからあまり目にあまるようだったら…。」
「う…うん。分かった。色々心配かけてごめんね。」
そう言った後アスカは腕時計を見て
「それじゃ、委員会の疑似シミュレーションルームが使える時間は限られているから…。」
それだけ告げるとアスカはヒカリから離れて学校を出ていった。
「……………………………………………。」
ヒカリはアスカの後ろ姿を見つめながら
『アスカってあんな簡単に自分の非を認められるような素直な性格だったかしら…。』
妙にしおらしいアスカの態度はヒカリでさえも違和感を感じてしまう。
それに……。
恐らくシンジの側にいたいが故にアスカは無理して、さらに教師達を敵にまわしてまで学校へ通うことに拘っているのだろう。
そのアスカの態度はヒカリから見れば健気ではあったが、なぜそんな遠回りをする必要があるのだろうか?
もともと一緒にいることが当たり前のようだった二人が今では、近づきたくて近づけない見えない壁に阻まれているような錯覚さえ覚える。
『一体三年前アスカと碇君の間に何があったのかしら?』
マナやケンスケと同じくヒカリもまたその疑問にぶち当たった一人だった。
『本当にアスカは何しに学校へ来ているのだろう?』
アスカがヒカリと問答していた頃、シンジは駐輪場へ向かいながら再び自問する。
最近のアスカの授業態度を見て、当人の言っていたように学園生活を満喫しているようにはシンジには感じられなかったからである。
このシンジの疑問は一種罪ですらあったが、今のシンジにアスカの本心を見抜くことは出来なかった。
駐輪場にたどり着いてバイクに跨ろうとした時、突然背中に人の重みを感じた。
「!?」
誰かがシンジに乗りかかってきたのだ。
シンジの首に手が回されると同時に背中にやわらかな二つの膨らみを感じる…。どうやら相手は女性のようだ。
人の重みに一瞬ふらつくシンジ。突然シンジにおぶさった人物はそのまま首に回した手をシンジの両目にあててシンジの視界を塞いだ。
「だ〜れだ!?」
視界を完全に封じられ慌てていたシンジはその声に安堵して緊張感を解いた。
聞き覚えのある少女の声。シンジはクスリと微笑んで
「サキちゃんだろ?」
「あったりぃ〜!!」
シンジにおぶさっていた少女はそう答えると手を離してピョンとシンジから飛び降りた。
シンジが振り返ると、そこには懐かしの第三中学の制服を着た赤茶色の髪をした美少女が満面の笑顔を浮かべてシンジに向かって微笑んでいる。
彼女の名前は伊藤サキといい、三春学園と呼ばれる孤児院の児童で三年前ちょっとした縁でシンジと関わって以来シンジのことを実の兄のように慕っていた。
もちろんシンジの方もサキを実の妹のように可愛がっている。
シンジは三年たった今でも三春学園との交流を断っていなかった。
夏休みや春休みのような長い休みになると積極的に顔を出すようにしていたし、バイトと勉強で忙しい学期中でも月に最低1〜2回は学園を訪ねるようにしていた。
「今日はどうしたんだい、サキちゃん?学校でこういう悪戯しちゃ駄目だろう。」
シンジが妹をあやすような優しい瞳でサキを見下ろして尋ねると、サキはややブスッとした顔で
「むぅ!お兄ちゃんったら何時までも子供扱いしないでよね。もうガキだった3年前とは違うんだからさ…。あたしだってもう十分大人なんだからね、心も体もさあ!さっきだってあたしのふくよかな胸の感触を味わったでしょう?あたしは大人よ。お・と・な!」
そう言ってサキはシンジの前でスカートの裾を掴んで軽快なワルツでクルリと一回転する。
確かにその通りだった。
3年前はミニスカートを履いていてもそのボーイッシュさから男の子と間違えられがちだったサキは今では見違えるほど魅力的な少女として成長していた。
身長は150cmくらいだろうか…。
ショートカットだった髪は今では肩より下がってセミロングと呼んでいいほど伸びている。
真っ平らで男の子とまったく変わらなかった胸も二次的成長に差し掛かってふくよかに膨らみ始めた。
そして、かつてのアスカと共通していた勝ち気そうな瞳の色は少なくともシンジの前で現れることはなくサキの笑顔はいつも太陽のような明るさに満ち溢れている。
こうして第三中学の制服に身を包んだサキの姿は3年前のアスカと比べてもおさおさ劣らない美少女に成長していた。
そのサキの背伸びした態度にシンジは可笑しくなってしまいクックックッと笑いを噛み殺した。
どうしてこの娘はこんなにアスカに似ているのだろう?
妙に大人ぶったサキの態度に、シンジは三年前にタイムスリップしたような錯覚を覚えた。
特に最近のアスカからシンジの知っているアスカらしさが若干欠けていたためにサキの態度はシンジには新鮮だった。
「あっ!!お兄ちゃん!またあたしのこと馬鹿にしたでしょう?」
立腹したサキの様子にシンジは幼い子供をあやすように軽くサキの頭を撫でながら
「ごめん、ごめん。」
と謝ったが目が完全に笑っていた。
「むぅ〜!、また子供扱いしてぇ…!」
「サキちゃぁ〜ん。勝手に高校に忍び込んじゃ駄目じゃないか!!」
突然黒髪の第三中学の制服を見た少年がサキとシンジに声を掛けてきた。
シンジが声のした方向を振り替える。
「やあ、マナブ君。」
黒髪の少年をシンジはそう呼んだ。
少年の名前は西村マナブといい今年14歳でかつてシンジ達が通っていた第3新東京市立第壱中学に在学しているサキと同じ三春学園の児童だ。
少年もまたサキと同じくシンジにとっては実の弟のようなものだった。
背はサキと同じくらいで、黒髪で後髪を尻尾のように束ねている。童顔で、ショタ好きのお姉さんから見れば可愛いといえないこともないだろう。かつては眼鏡をかけていたが、今ではコンタクトにかえたらしくやや臆病そうだが優しそうな瞳をしていた。
一時期極度の自閉症に陥っていたが、シンジの努力もあり、今では学園では下の子供の面倒を見たり、学校でも苛められないで何人か友達を作れるほど社交性を出せるようになっていた。
ただ、現在ではサキの下僕と化しているらしい。
サキのほうをオドオドと見ながら二人分の鞄を重そうに抱えているマナブの姿に既視感(デジャブー)を感じたシンジは悪いと思いながらもつい懐かしくてクスリと微笑んでしまう。
サキは邪魔物でも見るような目でマナブを見つめて
「マナブ。あんた外で待ってない…っていったでしょう!あたしとシンジお兄ちゃんのランデブーな一時を邪魔しないでよね!」
「だ…だって…。」
少年がいじけはじめたので、シンジは慌てて
「まあ、まあ、それよりサキちゃん。今日はどうしたわざわざ高校に顔をだしたの?」
と尋ねるとサキはすぐにマナブを無視してシンジの方に振り替えり、ややもじもじしはじめると
「と…とりあえず視察に来ただけよ。あたし達も三年に進級したし、来年はこちらの高校に通う予定だしね。入れ替わりにシンジお兄ちゃんが卒業しちゃうのが残念なんだけどね。あ〜あ。どうして3年も歳が離れているんだろう…。これが2年だったら一緒の学校に通えたのにね。けど大学だったら4年制だから一緒に通えるよね?」
サキが瞳を輝かせながらシンジを見たのでシンジは苦笑した。
『本当にこの子達と話していると退屈しないよな。』
そう考えていたが、ふと気がついてシンジはチラリと時計を見る。
その後シンジは慌ててバイクに跨ると
「いけない!すっかり忘れていた。それじゃサキちゃん。悪いけど僕はバイトがあるから、これで…。」
そう言ってシンジはエンジンをかけると
「あ…ちょっとシンジお兄ちゃん!まだ話したいことが…」
「今週の日曜日はたぶん三春学園に顔を出せると思うからその時にでも聞くよ。それじゃカスミ先生にもよろしく伝えておいてね。」
シンジはヘルメットを被って最後にそう伝えると、バイクを発進させて軽く手を振って二人の前から消えていった。
「シンジお兄ちゃん……。」
サキはやや呆然とした態度でシンジの後ろ姿を見送る。
「ねぇ、マナブ。やっぱり、シンジお兄ちゃんから見たらあたしはただの妹でしかないのかな?」
「………………………………………………………。」
少年は何も答えなかったが、憂鬱そうな少女の態度を見て心の中で深くため息をついた。
次の瞬間サキはハッとすると、マナブに相談を持ち掛けた自分自身に赤面して
「ああ、もう、止め止め!うじうじするなんてあたしらしくない。さてと、いつまでもここにいるとお兄ちゃんのファンクラブとかがウルサイだろうからさっさと戻るわよ。」
サキはそう告げるとマナブの了解も取らずに駆け出した。
「あっ…、まっ…待ってよ。サキちゃん。」
それを見て、少年はあわてて少女を追いかけていった。
その週の土曜日、再び委員会の本部。
今日、三回目の研修生のテストが行われた。
「今回も良く出来ました。」
今回のアスカの成績は上位から五番目だった。前回より若干順位は落ちたがそれでもまだ研修生の中ではトップクラスだ。
「……………………………………………。」
アスカは無言のままマヤから自分のデータを受け取った。
アスカがそのまま立ち去ろうとした時、
「目が赤いわよ、アスカ。ここのところあまり寝ていないんでしょう?」
その言葉にアスカの足がピタリと止った。
マヤは目の下に隅が出来たアスカの顔を呆れた顔をして覗きこみながら
「余計なお世話だと思うけど、あまり無理しないほうがいいんじゃない?体を壊したら元も子もないし、寝不足は美容とお肌に悪いわよ。それじゃせっかく奇麗になったのに台無しになっちゃうわよ。」
『誰のせいでこんな苦労をしてると思っているのよ!?誰のせいで!!』
アスカは暖かみのこもらない声で忠告するマヤを激しい敵意が篭った瞳で睨み付けたが、マヤは無表情のままアスカの視線を正面から受け流した。
アスカは忌々しそうにマヤを一睨みすると、結局無言のままマヤの前から消えていった。
「思ったより、しぶといわねぇ…。さっさと諦めてしまえば、楽になれるものを…。どうせ何をやっても無駄なのにね。この私がシンジ君のバックについている限りはね。」
マヤは呆れとも感心ともつなかい態度でアスカの頑張りを評した。
正直な所、今回のテストでのアスカの頑張りはマヤの予測の範疇をやや超えていたからだ。
どうせ、すぐに根をあげて放りだしてしまうか、もしくは潰れてしまうか…のどちらかだと思って楽観していたのだが、この様子だと所定の成績が出せたら学園へ在籍してもいいという当初の約束が裏目にでてしまいそうだ。
「他の上位の候補生は手の平返したように研修に集中しはじめたというのに、アスカは学園生活を続けたまま乗り切ってしまうとはね…。どうやら、ちょっとばかりあの娘の根性と潜在能力を過小評価していたみたいね。」
マヤは改めて14歳で大学を卒業して博士号まで取得したアスカの社会適応能力の高さを再確認したが、それとアスカを認めることとはまったく別の話だった。
「この様子じゃ、多少無理してでも、学園生活を続けたまま最後まで研修に食らいついてきそうな感じよね。さて、どうしたものやら…。」
マヤは顎に手を当てて何かを思案しはじめた。
再び陰謀の虫が蠢きはじめたようだ。
「この手が駄目となると何か別な手を考える必要があるわよね。今度は仕事じゃなく、プライベートの分野で攻めてみるのもいいかもしれないわね。」
あくまでマヤはアスカを否定する心構えのようらしい。
しばらく悩んでいたが、何か思い付いたらしく突然ポンッと手を叩くと
「次はあの娘に動いてもらおうかしら…。」
マヤは霧島マナの顔を思い浮かべながら軽くそう呟いた。
翌、日曜日。
アスカは道を歩きながら大きく伸びをする。
「ふああぁぁぁ…!!昨日は良く寝たわ〜!結局研修から帰ったらぶっ倒れてしまって目が覚めたらお昼すぎだもんね。それにしてもせっかくの日曜日だっていうのに花の乙女が再び委員会の本部に顔を出して勉強三昧なんて空しい限りよね。」
アスカは軽くため息をつく。
「日曜日ぐらい自由に使いたいわよね。シンジとデートでもできたら最高なんだけどな……って誘ってくれるはずもないか、あの鈍感バカシンジが…。相田から聞いた話じゃ霧島さんもシンジをデートに誘うには随分苦労していたっていうし……………んっ!?」
アスカはふと前方の曲がり角を見る。
噂をすれば影が指す…とはよく言ったものである。
そこにはアスカの良く知る長身の黒髪の少年が黒い大き目のケースを背中に背負って歩いている。
「あ……あれはシンジ!?」
今では毎日のように見ているはずなのに、シンジの中性的な横顔を見てアスカの頬が赤く染まる。胸がドキドキ騒ぎはじめる。
アスカは慌てて電柱の影に隠れながら、彼女の想い人の姿を見詰める。
「……………………って何で隠れなきゃいけないのよ!?」
次の瞬間自分らしくない臆病な行動をアスカは自嘲する。
「………駄目だな、あたしは…。恐くて一対一でシンジと話せる自信がないんだ…。ほんと何やってるんだろう…。」
再びアスカはため息をつく。
アスカが自問している間にシンジの姿が小さくなりはじめたので、アスカは慌ててシンジの後を追いかけた。どうやら研修のことはすっかり頭から消えてしまったようだ。
「シンジは休日はバイトはしていなかったよね?わざわざチェロのケースを抱えてシンジの奴どこいくんだろう?」
強い好奇心に駆られたアスカは着かず離れずの距離を保ってシンジを追い続ける。
「……………………これって、もしかしてストーカーって奴!?本当にあたし何やってるんだろう…。」
なんとなく自分の行動に後ろめたさを感じたアスカだったが、結局最後までシンジを追い続けることになった。
それから10分ほど歩いた後、突然シンジは駆け足で目の前の角を曲がった。
それを見て慌ててアスカも後を追う。
だが角を曲がった瞬間、
「きゃん!」
角の向こう側で待ち構えていたシンジにぶつかってアスカは派手に尻餅をついた。
「あたたたた………。」
アスカが鼻を抑えて唸っていると、シンジは意外そうな目で尻餅ついたアスカを見下ろして
「あ……あれ?、アスカだったの?」
その言葉にさすがにアスカもムッときて手を振り上げながら
「だったの…とは何よ!?だったの…とは!?いきなり立ち止らないでよね!」
シンジは軽く頭を掻きながら
「ごめん、ごめん。後ろに人の気配がしたから、なぜかよく僕の後をつけてくる音楽部の女の子かな…と思って…。」
「………………………………………。」
「それよりさ、アスカ…………。」
突然シンジは真面目な顔をすると、やや頬を赤く染めながらアスカを見る。
「な…何よ!?」
突然のシンジの変化にアスカの頬も赤く染まる。再び胸がドキドキしはじめる。
「早く立ち上がったほうがいいんじゃないかな?パンツ見えてるよ。」
シンジは言いにくそうに、大股開きで座り込んでいるアスカのスカートの中を指差す。
そのシンジの言葉にアスカの胸の高波が止った。
そして先程とは違った羞恥心に顔を真っ赤にすると、慌てて立ち上がって
パンッ!!
「エッチ!そ…そういうことは早くいいなさいよね。あ………!」
次の瞬間アスカは自分の行動を後悔した。
『やっちゃった…。せっかく少しは女らしくなったと思ったのに、また昔に逆戻りだわ…。』
シュンとなるアスカとは対照的に、頬を叩かれて一瞬呆然としていたシンジだったが
『ようやくアスカらしさがでてきたような気がするな。いつもこんな感じだったらよけいなことを考えずに済むんだけどな。』
一瞬だけど自分の良く知るアスカらしさを垣間見たシンジはやや安堵する。
そしてふとこの場所を見回して、懐かしさを感じて軽い感慨に耽る。
『そういえば、この場所だったけな。僕がマナブ君とぶつかってサキちゃん達と知り合いになったのは…。まさか今度はアスカとぶつかるなんてな…。』
やや遠い目をしはじめたシンジに
「あ…あの、シンジ……。」
シンジはハッ…として
「な…何だい、アスカ?」
「そ……その、ゴメンネ…。いきなり叩いたりして……。」
「………………………………………………。」
俯きながら謝罪するアスカにシンジはどうしても違和感を感じてしまう。
だが、シンジはすぐに無理矢理その違和感を振り払うかのように、話題を転換して
「き…気にしないでいいよ。それよりアスカこそこんな所で何してるの?」
そのシンジの言葉にアスカは慌ててやや頬を赤らめながら
「あ…あたしはたまたまそこでシンジを見かけたから、何してるのかな〜なんて思って角を曲がったらシンジとぶつかっただけよ。か…勘違いしないでよ。別にシンジのことストーカーしてたわけじゃな………いん…だか……ら………。」
だんだん語調が弱くなりながら、それでも自分に対する興味を否定するアスカを見てシンジは『やっぱりアスカは素直じゃない方がアスカらしいよな。』なとど不届きなことを考えながらも、軽く微笑んで
「一緒にくる?」
と誘ってみる。
「えっ!?」
予想外のシンジの言葉にアスカは驚く。
「これから行く先に是非一度アスカに会ってみたいって言っていた娘がいるんだ。良い機会だから紹介したいんだけど…。」
「あ…あたしに!?」
「うん。」
『あたしに会いたい娘……。もしかして霧島さん以外にも他にシンジにガールフレンドがいるのかしら…。』
アスカは強く好奇心を刺激される。
「まあ、よかったらだけど……。」
「…………………………………………………。」
結局アスカはシンジについていくことにした。
アスカは並んで歩くシンジの横顔を見上げながら
『それにしても本当にシンジって背が伸びたのね。昔はあたしより小さかったのにね。けど、これだとキス一つするのも一苦労よね。でも、ハイヒールで爪先立ち…っていうシチュエーションも悪くないわよね………ってヤダ…。何考えているんだろう、あたし……。』
アスカは自分の妄想に再び顔を赤らめる。
『けど、何時かはシンジとちゃんとした恋人のキスをしてみたいわよね。最初のキスは加持さんに当てつけた暇つぶし…。照れ隠しにうがいまでして傷つけちゃったし…。二度目のキスは復讐の狼煙。思いっきり口の中に噛み付いちゃったし…。そして三度目は………。ああ、もうやだなあ、生涯三度しかキスしてないのにロクなのがないじゃない。本当にあたしってとんでもない女よね。けどシンジとしかキスしたことがないのがせめてもの救いか…。』
アスカは再び心の中で大きくため息をつく。
シンジはアスカの内心の葛藤には気づかずに
『きっとアスカもあの二人を見たら驚くだろうな…。』
と近い未来のアスカの驚く顔を想像して心楽しませる。
この時、一時的にだが、マヤから与えられた疑惑はシンジの心の中から消えていた。
しばらく歩いた後、ようやくシンジは立ち止まった。そして
「着いたよ。アスカ…。」
と言って目の前の建物を指差す。
アスカは表札を見ると『三春学園』と書かれている。
「シンジ、ここは?」
「三春学園。分かりやすく言えば孤児院かな。」
「孤児院!?」
驚きの声をあげるアスカにシンジは「まあ、ちょっとした縁があってね。」とアスカにウインクした後、「ごめんください。」と叫んで扉を開ける。
そして扉が開けられたその先には……
3年前のあたし達がいた。
「「いらっしゃい、シンジお兄ちゃん!」」
黒髪の男の子と赤茶髪の女の子がユニゾンで挨拶して、シンジを出迎えた。
「こんにちわ、サキちゃん。マナブ君。」
シンジは優しい笑顔で微笑んで、二人の頭を軽く撫でながら挨拶する。
サキはシンジの腕を取りながら上目遣いでシンジを見上げて
「待ってたわよ、お兄ちゃん。今日は是非お兄ちゃんに頼みたいことがあったんだ、あたし…。」
「はは…、まあそれは後でゆっくり聞かせてもらうよ。とりあえず皆に挨拶しないとね。」
「もう、相変わらず連れないんだから…。けど、そこがシンジお兄ちゃんの良いところなんだけどね(はぁと)」
「サ…サキちゃん。(汗)」
シンジに甘えるサキの姿をマナブはやや面白くない顔をして
「サキちゃん、離しなよ。お兄ちゃん迷惑がってるよ。」
「うっさいわねぇ!マナブ!あんたは引っ込んでいなさい!」
「で…でも……。」
サキの剣幕にイジケ始めるマナブと、シンジに甘えるサキの姿をアスカはやや呆然とした表情で見詰めている。
「でさぁ、シンジお兄ちゃん……………………んっ!?」
ようやくサキはシンジの後ろにいるアスカの存在に気がついたようだ。
「ねぇ、お兄ちゃん。後ろにいる女(ヒト)お兄ちゃんの知り合い?」
シンジはそのサキの言葉に悪戯っぽい瞳で
「そうだ。紹介がまだだったね。サキちゃんが是非一度会ってみたいって言っていた人だよ。何度か話したことがあっただろう。彼女がアスカだよ。惣流・アスカ・ラングレー。」
「ええっ〜!!?」
サキは驚きの声を上げる。
そしてシンジの手を離してアスカの前まで来るとアスカを吟味するような目でアスカをジロジロと見回しながら
「確かに写真で見せてもらった女(ヒト)にそっくりよね。けど、髪の毛の色が違うような…。」
「サ…サキちゃん。初対面の人に向かって失礼だよ。」
マナブがサキの肩を掴んでサキの態度を窘めたが
「本当にうるさいわね!一々突っかかってくるんじゃないわよ!」
サキの剣幕に再びシュンとなるマナブ。
どうあってもサキには頭が上がらないみたいだ。
シンジは苦笑して今度はアスカの方を向き直ると、軽く二人の頭に手を置いて
「アスカ。とりあえず、この二人を紹介しておくよ。左手にいる子がマナブ君。そして右手にいる娘がサキちゃんっていうんだ。」
「あ…あの…、に…西村マナブ…っていいます。よ…よろしくお願いします。」
初対面のアスカにマナブは真っ赤になって丁寧に頭を下げる。
「あ……こちらこそよろしくね、マナブ君。」
アスカも慌てて返事を返す。
「…………………………………………………。」
サキは無言のままやや敵意にも似た視線でじっとアスカを見詰めている。
「サキちゃん…。」
シンジがやや恐い目をしてサキを睨んだのでサキは慌てて
「伊藤サキよ。よろしくね、アスカさん。」
とぶっきらぼうに挨拶したが、その後プイと顔を背けてしまった。
『どうやらこのサキって女の子もシンジに気があるみたいね。それにしてもこの子達って、何となく3年前のあたし達に似ている気がするわね。』
アスカも初対面のこの二人にシンジと同じ印象を持ったみたいだ。
その後、アスカはシンジに連れられて建物の中に入っていった。
廊下を並んで歩くシンジとアスカをサキは後ろから眺めながら
「ふ〜ん。あの人がアスカさんか…。あたしに似ているっていうからどんな人かと思ったけど……。確かに奇麗な女性よね。………ま…まあ、あたしよりほんのちょっとだけどね。」
サキがやや強がっているとマナブが首を傾げながら
「そ……そうかなぁ。本当にサキちゃんとアスカさんて似ているのかな?」
「マナブ!それはどういう意味よ?」
「だって、アスカさんて、サキちゃんに比べたらよっぽど素直で女らしく見えるんだけどな。」
「あんた一言多いのよ!」
サキが思いっきりマナブの足を踏みつけたのでマナブは悲鳴を上げる。
「ひ…酷いよ。サキちゃぁ〜ん。」
「ふんっ!」
後ろにいる二人のやり取りを見ていたアスカの蒼い瞳が懐かしさに和みはじめる。
『いいなぁ、あたしとシンジも昔はあの二人みたいに気兼ねなく振る舞えたんだよね。けど、今ではもう……。』
横にいるシンジをチラリと見てアスカは再び心の中で大きくため息を吐いた。
「あっ!、シンジお兄ちゃんだ!」
「シンジお兄ちゃん!」
共用室に顔を出した途端シンジは大勢の子供たちに囲まれはじめる。
シンジにまとわりつく子供たちの邪気のない笑顔を見て
『本当にシンジってここの子供たちに好かれているのね。本当にこいつは、あたしの知っているあの内罰的だったバカシンジなのかしら?』
この種の前向きなシンジの変化はすでに学園で何度も見慣れているはずだったが、こうして別の場所で改めて自分の知らないシンジを見せ付けられると、どうしてもアスカは3年前のシンジと比べて違和感を感じてしまうのだ。
「いらっしゃい、シンジ君。」
奥の方から髪を後ろに束ねたエプロンをつけた28歳くらいの母性的な女性が姿を現した。
彼女の腕の中には赤ん坊が抱かれていて、気持ち良さそうな寝顔でスヤスヤと眠っている。
「こんにちは、カスミさん。それとユウジくん。」
シンジはペコリと挨拶した後、軽く微笑んで赤ん坊の手を取った。
彼女は大友カスミといい、三春学園の園長を務めている。
旧姓を三宅といい、昨年、委員会に努めているマヤの同僚の一人と結婚して今では一児の母親である。
「ところで、シンジ君。隣にいる女性はシンジ君のガールフレンドかしら?」
カスミが瞳に悪戯っぽい光を称えてシンジに問い掛けると、シンジは真っ赤になりながら、慌てて
「ち……違います。か……彼女は僕のクラスメートで、アスカって言うんです。来る途中でたまたま一緒になったもので……。そ…そうだ、ア…アスカ。紹介するよ。こちらはこの三春学園の園長を務めているミヤ…いや、大友カスミさん…って言うんだ。」
「あ…あの、はじめまして、惣流・アスカ・ラングレーです。」
アスカは慌てて頭を下げながら
『シンジの奴。何もあんなにハッキリと大声で否定しなくてもいいじゃない…。』
と内心で再びため息を漏らす。
「お兄ちゃん。ちょっと頼みたいことがあるんだけど…。」
「なんだい?サキちゃん。」
サキは上目遣いでシンジを見つめながら
「あたしもシンジお兄ちゃんがバイトしているレストランで雇ってもらえないかな?」
「えっ!?」
「お兄ちゃんのツテで何とか頼めないかな?、お願い、お兄ちゃん!」
サキは真剣な表情で手を合せる。
シンジはやや困惑しながら
「けど、どうしていきなりバイトなんか…。」
サキはアスカと話しているカスミをチラリと見ながら
「あたしだって、もう十四歳なんだから、オシャレとか色々興味があるんだけど、そうなると先立つ物が必要なのよね。最近その手のクラスメートの会話にもついていけなくなりがちだしさ…。三春学園の運営が厳しいのは今日に始まったことじゃないから、カスミ先生にお小遣いをアップして…なんて頼めないしさぁ…。」
サキは軽くため息を吐く。
『そうか…。普段は学園の子供たちの世話に追われているけど、サキちゃんだって年頃の普通の女の子なんだから、人並みにそういう願望を持っても不思議じゃないよな。』
「ねぇ、お兄ちゃん。駄目かな?」
シンジはやや考え込んだ後、申し訳なさそうな表情で
「う〜ん。うちは中学生のバイトは禁止してるから今年はちょっと無理だと思う。けど、高校生になったらサキちゃんならたぶん雇ってくれると思うけど…。サキちゃんは可愛いし、しっかりしてるからね。」
サキはパッと瞳を輝かせて
「本当!?それじゃ、高校に進学したら話してくれる?」
「うん。約束する。」
「わ〜い。嬉しい……………って、もしかしてその時にはシンジお兄ちゃんはあそこの店辞めているんじゃない?」
「そ……それは分からないけど……。たぶん、そうなるのかな…。」
サキはがっくりしたように再びため息を吐き出して
「な〜んだ。それじゃ意味ないじゃん。シンジお兄ちゃんと一緒に働けたらいいな…って思っていたのにな…。」
「サキちゃん?」
「………………………………あ…な…何でもない。それより、お兄ちゃん。そろそろ何時ものチェロを聞かせてよ。皆も楽しみにしているしさ。」
「あ……そうだね。」
それからシンジは何時ものように共用室で演奏を開始した。
ここでの演奏はすでに慣れたはずだったが、今日は観客の中にアスカが混じっていたため、シンジは普段より若干緊張することになった。
その後二人は夕食をご馳走になることになる。
ただ、積極的に夕食の手伝いをしているシンジやサキに対して何も出来なかったアスカはその事に少しばかりコンプレックスを感じることになった。
そして夕食後、共用室でシンジはマナブと、そしてアスカはサキと一対一で話をすることになる。
「ねぇ、お兄ちゃん。ちょっと相談したいことがあるんだけど…。」
「なんだい、マナブ君?」
マナブから相談を持ち掛けられるのはシンジが三春学園を訪ねた時の通例行事といえた。
シンジの学園の子供たちに対する信頼度の高さは相当なもので、マナブだけでなくサキや他の子供たちも普段学園で言えない悩み事などを積極的にシンジに持ち掛けている。
勿論、シンジは喜んで学園内の子供たちの悩み相談を受けている。
将来カウンセラーを目指すシンジにとっては、孤児院という閉塞した社会で子供たちが抱えている問題に直に触れ合うことはこれ以上ない貴重なOJTになるからだ。
マナブは頬を赤く染めながら
「じ…実はね………。この前、学校ではじめて付き合って欲しいって女の子から告白されたんだけど………。」
そう言ってマナブはもじもじしながら俯いてしまった。
「へぇ〜!?やるじゃないか、マナブ君。そうだよね。あれからマナブ君も随分、自分を良いほうに改革していったからね。で、相手はかわいい娘だった?」
シンジがまるで自分のことのように喜びながらマナブに尋ねると
「う……うん。」
真っ赤になるマナブをシンジは悪戯っぽい瞳で見下ろしながら
「よかったじゃないか。…………ってあんまり嬉しそうじゃないのは気のせいかな?」
「……………………………………………………。」
「マナブ君。もしかして他に好きな娘がいるのかな?」
「う…うん。」
マナブはシンジにだけは嘘をつけないみたいだ。
「相手はもしかして、サキちゃんかい?」
「ど……どうして分かったの?」
マナブは驚いた表情をしたが、それ以上に驚いていたのはシンジの方だった。
サキの名前を出したのはほとんど当てずっぽだったからである。
『そうか。マナブ君がサキちゃんをね…。3年前はマナブ君は異性がどうとかいう状態じゃなかったけど、今はそれだけ精神的にも余裕が出てきたってことだよな。』
シンジが感慨に耽けっていると、マナブはチラリとサキの方を見た後、軽くため息をついて
「けど、やっぱり無理だよね。僕なんか全然サキちゃんと釣り合わないし…。」
「そ…そんなことはないんじゃないかな…」
「ううん。自分で分かるんだ。サキちゃんは勉強もスポーツで出来るし、いつも下駄箱一杯のラブレターをもらうぐらいもてるし…。それに何よりサキちゃんには好きな人がいるから…。」
「へぇ、それは誰なんだい?やっぱり同じクラスメートかな?」
マナブは今度こそ本当に驚いた顔をして
「お…お兄ちゃん。それ本気で言ってるの!?」
「うん。」
シンジ自身はサキの自分に対する気持ちは、妹が兄を慕うような…憧憬だと思っている。そう、かつてのアスカが加持に対して抱いていた憧れのような…。
マナブはやや呆れた顔をして
『お兄ちゃん。絶対にカウンセラーには向いていないと思う。』
と心の中で呟いた。
その頃、シンジとマナブの反対側の部屋の隅でサキとアスカが話し合っていた。
「ねぇ、アスカさん。」
サキは真剣な表情でアスカを見る。
「な…なあに、サキちゃん?」
「アスカさんはどうして今になって戻ってきたんですか?」
「えっ!?」
アスカはサキの言っている意味が分からずに考え込む。
「サ…サキちゃん。それはどういう意味かな?」
サキはやや敵意をこめた目でアスカを見つめて
「なんで一度お兄ちゃんを見捨てておいて、今になってお兄ちゃんに会いにきたのか聞いてるのよ。もしかしてお兄ちゃんがかっこよくなったから?」
「!?」
サキは寂しそうに瞳を伏せると
「あたしはお兄ちゃんとアスカさんの間に何があったのかは知らない…。お兄ちゃんはそれだけは話してくれなかったから…。けど、お兄ちゃんはいつもそのことは自分が悪かったからって自分を責めていた。何時も優しかったお兄ちゃんが悩んでいるのは大抵お姉ちゃんに関することだったから…。」
「サ…サキちゃん。」
「お兄ちゃんは本当に頑張っていたよ。あたしはそんな一生懸命生きているお兄ちゃんの姿を3年間ずっと見ていたんだ。もし、本当にお姉ちゃんがお兄ちゃんのことを好きなら、今の姿でなく3年前の努力しているお兄ちゃんの姿を見てあげて欲しかったな…。」
「……………………………………………。」
「………あたし、お姉ちゃんにだけは負けたくないな……。」
サキはそれだけ告げると完全に押し黙ってしまった。
そしてアスカもサキに掛ける言葉は見つからなかった。
それから9時過ぎになり三春学園を後にした二人はそのまま帰宅の徒についた。
一応、シンジがアスカを宿舎まで送っていく形を取ることになったが、二人は並んで歩いたまま一言も喋らずに各々の思考に耽っていた。
シンジは先のマナブとの会話を思い出す。
『じゃあ、マナブ君。その告白してくれた女の子の方はどうするつもりなの?』
『やっぱり、断らなきゃいけないと思う。けど………。』
『けど?』
『そしたら傷つけてしまうんだよね。どうしよう……。』
マナブ君のこういう所は本当に僕にそっくりだよな……とシンジは考えながら
『マナブ君らしい優しい考え方だね。けど、傷つくことを怖がっていたら何も出来ないと思うよ。』
『……………………………………………。』
『サキちゃんのことだってそうさ。まずは怖がらずに自分の気持ちを打ち明けてみるのがいいんじゃないかな。少なくともサキちゃんはマナブ君のことを嫌ってはいないと思うよ。』
『そ…そうかな?』
『けど、僕が今言ったのはあくまで他人の意見だから、最終的にはマナブ君が自分で決めることだよ。もう一度じっくりと考えてみたらいいんじゃないかな。』
シンジは思考を過去から現実へ引き戻した後、軽く自嘲する。
『はは…。何を偉そうなことを言っているんだろうな、僕は…。自分自身の問題すら解決出来ていないのに、他人の恋愛に口を突っ込むなんてな…。怖がらずに…か…。僕ってもしかしたらアスカが言っていたみたいに本当に偽善者なのかもしれないな。僕自身が自分で実践できてもいないことを偉そうにマナブ君に勧めているわけだし。』
隣にいるアスカの方をチラリと見てシンジは内心で軽くため息を吐いた。
アスカはアスカでサキの言っていた言葉が頭にこびりついて離れなかった。
『シンジがカッコ良くなったから会いにきたか…。端から見ればそう見れないこともないんだ。…っていうかそうとしか写らないんだろうな…。確かにあたしは3年前シンジを見捨てておいて、その時には何もしないで、シンジが立ち直ってからのこのこと会いにきたんだから…。』
アスカも内心で大きくため息を吐いた。
そしてその時ふとアスカの中で一つの疑問が湧き上がった。
『あたしは本当にシンジにふさわしい女なのだろうか?』
3年前ならこのような疑問は決して思い付きさえもしなかっただろう。
だが、今のアスカにとっては重大な問題だった。
『性格は3年前に比べて少しは素直になれたと思う。暴力的なところも解消して、少しは女らしくなったと思う。けど、それだけ………。相変わらず料理は苦手で、家事は全然出来ないし、本当にこの3年間あたしは何やっていたんだろう。』
サキやマナに比べて料理が苦手ということに、どうしてもアスカはコンプレックスを感じざるえなかった。
ルックスの良さや大学卒業という肩書きも今では対して価値のある物とも思えなかった。もともとそんなものに本当にアスカが価値を見出していたとしたら、3年前エヴァとシンクロ出来なくなったぐらいで、自分の価値を見失って心を壊したりはしなかっただろう。
『それに……』
二人は何時の間にか宿舎についていた。
この宿舎を外から見上げるたびにアスカは、そして恐らくシンジも、心の底に巣食っている3年前のトラウマを掘り起こされることになる。
恐らくアスカにとってはこれが一番の問題だろう。
『あたしは3年前一度シンジを不幸にしたんだ。確かに端から見れば、本当に馬鹿げた話なのかもしれない。一度シンジを自殺未遂にまで追いつめたあたしがシンジと復縁しようなんてことは…。そう考えてみればマヤのあたしに対する態度も当然のことなのかもしれない…。』
アスカの思考がどんどん暗いものになる。それに伴い宝石のように輝いていたアスカの蒼い瞳も暗く沈みはじめる。
『やっぱり、あたしはシンジにはふさわしくないんだ。ううん、それ以前にその資格さえないのかもしれない……。けど…………。』
アスカは再びシンジの方をチラリと見て
『相手がシンジでなければあたしはきっとあきらめていたと思う。けど、あきらめたくない。この想いを取ったらあたしはきっと昔みたいに空っぽになってしまうから…。たとえ、ふさわしくなくても、その資格がなかったとしても、あたしはシンジの側にいたい。』
「それじゃ、アスカ。また明日学校でね。」
そのシンジの挨拶にアスカはハッと気がついて思考を現実に引き戻した。
後ろを振り向いたシンジに慌ててアスカは声を掛ける。
「ま…待って!シンジ!」
そのアスカの声にシンジは振り替える。
「な…なんだい、アスカ?」
だが、アスカは蒼い瞳を潤ませて俯いたまま何も喋らない。
『あたしはシンジのことが好き。愛している。』
心の中で何度もそう呟いたが、その言葉が言語化され声として外に出ることはなかった。
それから5分近く無言のままのアスカにしびれを切らしたシンジが
「ねぇ、どうしたの、アスカ?」
「…………………ううん、何でもないの。ごめんね、呼び止めたりして…。」
「そ…そう?」
シンジはやや拍子抜けした顔をした後、「それじゃ…・」と軽く挨拶して帰っていった。
そのシンジの後ろ姿を切ない瞳で見つめながらアスカは大きくため息を吐いた。
『やっぱり言えなかった。』
もしかしたら、告白してしまった瞬間全てが終わってしまうかもしれない。
その恐怖がアスカを縛りつけた。
『やっぱり今はこのままでいい。とにかく学校に通ってシンジを見ていよう。もう少し勇気が出せるようになるまで…。』
アスカはかろうじてそうやって自身の矜持を保ちながら宿舎へ戻っていった。
結局この日も千載一遇のチャンスを得ながらアスカはシンジに近づくことは出来なかった。
そして翌日から再びアスカの研修と学園生活を両立させた何時もの日常が始まることになる。
それはアスカにとってさらなる苦行のはじまりだと言えたかもしれなかった。
睡眠時間を大幅に削った無茶な生活の連続に、サエコという温床を失ってやや不安定になっていたアスカの精神はこれより加速度的に追いつめられていくことになるからだ。
その今のアスカの不安定な精神を支えているのは、シンジの側にいたいというシンジに対する想いだけだった。
皮肉にも今のアスカの精神状態は、形は違えど3年前心を閉ざしたアスカの看病をしていて、精神的に追いつられていたシンジの状態に酷似していた。
だが結局その時のシンジの涙ぐましい努力は正しく報われることはなかったが…。
そしてさらに悪いことに、アスカの知らないところで、さらにアスカを追いつめるべく事態は大きく動き出そうとしていた。
場所は変わってベルリンにある人類支援委員会のドイツ支部。
そこでサエコがドイツ支部長のドールマンと話をしていた。
「長期出張ですか?」
「ああ、そうだ。今度、新しくMAGIを導入することになった、エジプト、南アフリカそしてインドの方に出向いて、現地に新しく構築されたMAGIの環境を視察してもらいたいのだが。」
「………………………………………………。」
ドールマンは本当に申し訳なさそうな顔をして
「すまないな。君の体のことはよく分かっているはずなのに、こんな任務を押し付けたりして…。だが、分かって欲しい。サードインパクトのせいで旧ネルフの優秀な技術者が大幅に減少して、今度の任が果たせそうなのは、委員会の人間では日本の本部にいる伊吹博士か、ブッフバルト君の二人しかおらんのだ。伊吹博士のほうは例の研修も含めて多数のプロジェクトを抱えているから……。」
そこで言いづらそうにドールマンが口篭もったので
「それで私に白羽の矢が立ったのですね。」
「………………………………………………。」
サエコの病気のことはドイツ支部内では公然の秘密とされていた。
サエコは自分の職務の重さを十二分に理解していたからだ。
「本当にすまない。今のドイツ支部に君の代わりになる人材はおらんのだ。本来なら今すぐ余生を過ごしてもらいたいところなのに、さらにこんな任務を押し付けてしまって。」
そう言ってドールマンが頭を下げる。
サエコは自分の後継者に関しては心配してはいなかった。
アスカが研修を終了してドイツに戻ってきたら、大過なく引き継いでくれるものと信じていたからである。
アスカを日本の研修へ送り出したのは、シンジに対するアスカの心の問題を解決させるためだけでなく、自分の死後のポストについても考えた結果だった。
「分かりました。それでは今週中に出発しますので、現地で必要になる資料を整えておいていただけますか?」
「本当にいいのかね、サエコ君?」
「はい。私の体のことはあくまでプライベートに属する分野ですから。私もこの世界に身を投じた時から覚悟は出来ています。最後まで科学者としての職務を全うさせてもらいます。」
この時のサエコの顔は母性的な母親ではなく完全にプロの科学者の顔になっていた。
アスカがサエコやマヤに比べて科学者として足りないところがあるとすれば、技術的なことよりも、こうした仕事に対する徹底した覚悟かもしれなかった。
「ところで期間はどのくらいになるのでしょうか?」
「だいたい2ヶ月というところかな…。」
再び申し訳なさそうにドールマンは口篭もった。
「………………………………………………。」
そのドールマンの言葉にサエコは再び無言で考え込んだ。
『2ヶ月か…。私のことは別にかまわない。今更思い残すこともないし、私の人生を最後まで仕事に捧げることに悔いはない。けど一つだけ気になるのは、やっぱりあの娘のことね。』
サエコは自分の最愛の娘の姿を思い浮かべる。
この時ほんのわずかだが、一流の科学者としてのサエコの仮面の隙間から母親としての情が零れ落ちた。
『アスカ。あの娘は本当に日本で一人でうまく生活出来ているのだろうか…。』
サエコにとっての悩みの種はむしろ自分より、アスカのことだった。
この3年間、アスカと一緒に生活してきて、アスカのことはだいたい理解しているつもりだ。
特にサエコが気になるのは、アスカの精神は良い時と悪い時の差が激しく極めて不安定であり、また、他人に弱みを見せることを極端に嫌うため、何でも自分の中に溜めがちなので、一見何もないような顔をして突っ走れるだけ突っ走った後、限界が来たら突然壊れてしまう…そんな危ういイメージが常に頭の中に付きまっていることだった。
アスカはサエコにだけは完全に心を開いていたので、サエコがアスカの側にいてあげられた時には、その心配はなかった。
けど、サエコの元を離れた今はどうなのか?
未だ自身に対する決定的な肯定力を欠いているアスカを支えてくれる人間がアスカの側にいるのだろうか?
本来ならシンジにその役割を期待してもいいはずだった。
だが、電話で話した限りの印象では、まだアスカはシンジに自分の気持ちを打ち明けてはいないみたいだ。
アスカとシンジの3年前の確執を全て知っているサエコは、アスカがシンジに対して臆病になる気持ちも十分に理解できたので、無理にアスカを急かすことはできずにいた。
いずれにしても、日本でアスカは未だに孤独な戦いを強いられていることは確かだった。
そして今度の長期出張である。
サエコはアスカが電話で話す時のほっとしたような、そしてやや縋るような声を思い出す。
己惚れでなく、自分とのわずかな会話が日本でのアスカの不安定な精神状態を支えていたことは間違いないところだろう。
とくに今月に入ってからアスカが自分に電話してくる間隔が少しづつ短くなっているところからも、そのことを確信できた。
『出張に出たらこれからしばらくはアスカと話をすることは出来なくなるわね。その間にアスカが追いつめられるようなことがなければいいけど…。』
サエコは自分のその不安が、親馬鹿な母親にありがちな、たんなる杞憂であることを心から祈らずにはいられなかった。
所変わって再び日本。
シンジとアスカが近づきたくても近づけないお互いの存在に心悩ましていた頃、それぞれシンジとアスカを見つめている一組の男女がいた。
ある夜、黒のカーテンで敷きられた密室で眼鏡をかけた一人の少年が作業をしていた。
ケンスケである。
どうやら自室で写真を現像出来る環境が整っているみたいだ。
ケンスケは出来あがったばかりの写真をフォルダに貼りつけて軽くため息を吐く。
フォルダの中はすべてアスカの写真だけだった。
登校途中の写真。
下駄箱から零れ落ちたラブレターを拾い上げている写真。
体育の時間、バレーをしている時の、体操着姿の写真。
調理実習の時間のエプロン姿の写真。
机の上に伏して涎を垂らして寝ている寝顔の写真。
町で撮った私服姿の写真。
『本当に奇麗だ…。けど、どうして微笑んでいる顔が少ないのだろう…。』
これらの写真を見て少年がいつも感じていることだ。
あと、一つ足りない写真があるとすれば、少女が心から微笑んでいる姿だろう…。
それこそが少女のベストショットになるはずである。
少年は心からそう思った。
けど仮にその笑顔を写せたとしても、その笑顔が少年に向けられることは決してないだろう。
そしてその笑顔を引き出せるのはたぶん自分ではなく……。
それは確信に近かった。
なぜなら今の少女がわずかな笑みを見せる時は、たいてい彼の級友である黒髪の少年を見つめている時と相場が決まっていたからだ。
少年は再びため息をついた後、明かりを消してふとんに潜り込んだ。
「…………………………………………………。」
目が冴えて眠れない…。
頭の中に思い浮かんでくるのは未だ見ぬ空想上の金髪の少女の笑顔だった。
突然少年は跳ね起きた。
「駄目だ。頭がおかしくなりそうだ……。」
少年は少女に完全に心奪われた自分自身に戸惑わざるえない…。
「ははっ…。俺ってこんなキャラクターだったけか?ここまで一人の女に熱をあげちまうなんてな…。もっとシニカルな性格をしていると思っていたんだけどな。」
少年は、利己的だと信じていた自分の中に、今まで知らなかったもう一人の純粋(ピュア)な自分を見つけて自嘲する。
「アスカ……。」
少年は決して少女の前では呼べなかった少女のファーストネームを呟きながら再び床に就いた。
少年が少女に対して何らかの積極的な行動に出るのはそう遠い日ではないかもしれなかった。
アスカを見ている少年が自身の思いに戸惑っていた頃、シンジを見ているもう一人の少女は憂いを帯びた表情で町を歩いていた。
この時間に未だに制服を着ているところを見ると、どうやら部活で遅くなった帰り道のようだった。
『シンジ…。』
マナはシンジの事を考えながら心の中で軽く吐息を漏らす。
『2年前この町に帰ってきた時はきっとシンジとうまくやり直せると信じていた。いつもあたしとシンジの間に割り込んでいたアスカさんはなぜかシンジの隣にいなかったから…。けど、この2年間シンジはあたしの気持ちを知っていながら、あたしの気持ちに応えてくれなかった。』
マナはちらりと鞄についているキーホルダーを見る。
それはシンジと二度目のデートをした時にシンジから買ってもらった想い出の品である。
『結局あたしから誘わなきゃシンジはあたしに何もしてくれなかった…。どうしてだろう…。3年前はあんなにシンジの方から積極的にあたしに接してくれたのに…。やっぱりアスカさんが絡んでいるのだろうか…。けど、だとすると今のシンジとアスカさんの関係も変だわ…。だって昔と雰囲気が全然違うんだから…。本当にあたしのいなかった一年の間にあの二人の一体何があったのだろう?』
この時後ろからマナのその疑問に答えてくれる人物が近づいていたことにマナは気がつかなかった。
「マナちゃん…。」
誰かが後ろから声を掛ける。
だが、自分の思考に閉じこもっていたマナは気がつかない。
「マナちゃん!」
再び呼びかけられる。今度は前よりやや大きな声だ。
ようやくマナは振り返った。
そこには28歳くらいのマナと同じショートカットの私服姿の女性が佇んでいた。
「あ…、伊吹さん。こんばんわ…。」
マナは慌てて挨拶を返す。
「マヤでいいわよ。マナちゃん。」
マヤはにっこりと笑ってそう呟いた後
「ちょっと話があるんだけど、付き合ってくれるかな?」
「わ…私にですか?」
「ええっ…。マナちゃんじゃないと駄目なことなのよ。」
「分かりました。いぶ…いえ、マヤさん。」
「それじゃ、ここじゃ何だからあそこの喫茶店で」
そう言ってマヤは近くにあった喫茶店「BIG CAT」を指差した。
「はい、分かりました。」
『本当はこの娘にシンジ君をあげるのもちょっとばかり癪だけど、まあ仕方ないわね。残念だけどシンジ君は私のことは姉としてしか見てくれないみたいだし…。とにかくあの爆弾娘がシンジ君と復縁するなんていう馬鹿げた事態に比べたら数段マシだわ。シンジ君の保護者としてかわいい弟が不幸になるのをみすみす見過ごすわけにはいかないからね。』
マヤはそう心の中で呟きながらマナと並んで店の中に入っていった。
「ねぇ、サユリ。また3人ほどファンクラブを辞めたわよ。これで今月に入って10人目よ。」
「………………………………………。」
喫茶店「BIG CAT」の中で3人の女子高生が会話を交していた。
彼女たちは岩瀬サユリを中心としたシンジのファンクラブのメンバーのおなじみの3人組みである。
「やっぱり、皆分かってきたのよね。憧れは只の憧れでしかないことに…。」
「どういう意味よ。」
サユリがメロンフロートを頬張りながら口を尖らせる。
「つまりさ…。祭りは終わったってことじゃないの。」
「そうそう。皆、現実の恋を探しはじめたってことでしょう。一時期は50近くまで増えた会員数も今では20人を切ったからね。この様子だと後2.3ヶ月もしたらあたし達3人だけってことになるかもね。」
「ふん、それならそれでかまわしないわよ!ライバルはなるべく少ないほうがいいし…。」
その時、マヤとマナの二人が店の中に入ってきて、サユリ達とは背中合わせになる席に腰を下ろした。
この時はお互いの存在に気がつかなかった。
マヤは二人分のコーヒーを注文すると手早く話を切り出した。
「ねぇ、マナちゃん。マナちゃんはシンジ君のことが好き?」
そのマヤの質問にマナは頬を真っ赤に染めながら
「は…はい。」
と一言うなずいた。
『初々しくていいわね。まあこの娘だったらとりあえずはシンジ君を任せても安心して見ていられるわね。本当は私がシンジ君の隣に来るのがベストなんだけどね。それにしても影でコソコソとこんな少女マンガの悪役じみた真似をしているなんてシンジ君にだけは知られたくないわね…。』
少しはその自覚があるようだ。
マヤはやや自嘲しながらそう考えた後、
「ねぇ、マナちゃん。今からとっても大事なことをマナちゃんに話すんだけど、マナちゃんは約束は守れるほうかな?」
「は…はい。守れと言われれば守れますけど。」
「それじゃ、これから言うことは絶対に他言無用でお願いするわよ。いいわね?」
「あ…はい。」
マヤはやや声を潜めて何かをマナに話しはじめた。
「えぇ〜!?シンジが一度アスカさんに壊されたぁ〜!?」
『シンジ』という単語に背中合わせの席にいた、シンジに極度に入れ込んでいるポニーテールの少女が反応する。
突然大声を上げたマナにマヤは慌てて
「ちょっと、マナちゃん。声が大きい。」
と窘めるとマナは頬を赤らめて「すいません。」と呟いて俯いた。
『あれは碇先輩の彼女を気取っている茶髪女に、碇先輩の姉面したショタ女じゃない。こんな所で何やってるのかしら?』
シンジに関する個人情報のデータベースはサユリの頭の中に完全にインプットされていた。
「サユリ。何やってるの?」
「ちょっと、黙っててよ。何か碇先輩のことで話しているみたいだから…。」
「………………………………………。」
二人はメニューをメガホン代わりにして聞き耳を立て始めたサユリを呆れた目で見つめている。
「さっきはすいませんでした、マヤさん。けどアスカさんがシンジを壊したって一体どういうことなんですか?」
やや困惑した表情でマナはマヤに尋ねる。
その言葉に応じてマヤは3年前に起きたシンジとアスカに纏わる事件について一部始終を話しはじめた。
「そ……そんなことが本当にシンジとアスカさんの間に……。」
驚いた顔のマナに
「ええ、本当の話よ、マナちゃん。アスカは復讐と称してシンジ君のことを逆恨みして、一度シンジ君を精神崩壊まで追いつめたのよ。それはもう陰険なやり口だったわ。開いた口が塞がらないくらいね。」
マヤはコーヒーを啜りながら無表情に話を進める。
マヤが話したことは確かに事実ではあったが、一部都合の良いように脚色されていたことも確かだった。とにかくマヤの話の中ではアスカは、途中の細かい経緯は全て差し引かれて、結果だけを捕らえて一方的な悪者にされていた。
「……で、ここから先は私の推測でしかないんだけど、アスカはシンジ君が立ち直って幸せそうに暮らしているのが許せなくて、再びシンジ君に復讐するためにはるばる日本へ戻ってきたみたいなのよ。」
「……………………………………………。」
さすがにそのマヤの推測については半信半疑の様子だった。
マナはやや躊躇った後、
「やっぱりとても信じられません。私はアスカさんはシンジのことを好きだと思っていたから…。」
マヤはクスリと笑った後
「マナちゃんがそう思い込むのも無理はないわよね。3年前アスカは一見ジェラシー全開でマナちゃんとシンジ君の間に割り込んでいたからね。けど、あの時のアスカの感情は嫉妬じゃなくて、ただの女の矜持の問題だったのよ。」
「女の矜持?」
「アスカはシンジ君のことを自分の下僕かなんかと勘違いしていたみたいだからね。それに任務とはいえ、二人は一緒に住んでいたでしょう?それなのにシンジ君は一緒に住んでいる異性であるアスカには見向きもしないでマナちゃんにぞっこんだったから、その事が悔しくって二人の邪魔をしていた…それだけの話なのよ。」
「……………………………………………………。」
「結局アスカにとってはシンジ君は自分の引き立て役でしかなかったのよ。その証拠にシンジ君にエヴァのエースパイロットの座を奪われたら、その事を逆恨みしてシンジ君が壊れるまでシンジ君を追いつめ続けたのだから。」
今、マヤが話した感情は確かにアスカの中に存在していたが、アスカのシンジに対する感情は決してそれだけではなかった。
無論マヤもその事を知っていたが故意に伏せていた。
まだ信じられない…という表情をしているマナに
「ねぇ、マナちゃん。マナちゃんはシンジ君が好きなんでしょう?」
「は…はい。」
「それでマナちゃんはシンジ君を傷つけたい…って思ったことはある?」
「そんなこと一度もありません。」
キッパリそう答えるマナにマヤは満足した表情で
「だったら、アスカのこともわかるはずでしょう?あの娘がシンジ君に対して抱いてる感情は憎悪だけなのよ。それも飛びっきりのね。」
「…………………………………………………。」
そう言われるとマナはマヤの言葉を肯定せざる得なかった。
いずれにしても、あの時の追いつめられたアスカの異常な心理状態は今の平穏な世界を生きてきたマナには到底理解できない世界であったことだけは確かだ。
マナは真剣な表情でマヤを見上げて
「マヤさん。もう一度だけ聞きます。アスカさんがシンジを精神崩壊まで追いつめた…という話は本当なんですか?」
「本当よ。」
マヤはマナの目を正面から見詰めながら簡素に答えた。
この事自体は嘘ではなかったので、マヤとしても後ろめたさを感じる必要はなかった。
その言葉を聞いてマナの顔が少しづつ変化していく。
最初は戸惑いと驚きに満ちていたマナの鳶色の瞳が何時の間にか静かな怒りに満ち溢れていた。
『どうやらシンジ君を傷つけられたことに素朴な怒りを感じているみたいね。この件を利用してアスカを追い落としてやろう…とかいう邪心は少しも感じられないわね。本当に純粋(ピュア)な娘よね。まあ、そういう娘でなければとてもシンジ君をまかせる気にはならなかったけど。』
マヤはマナの反応に内心満足しながら
「……いよいよ本題に入るわね。シンジ君の保護者としてマナちゃんにお願いがあるんだけど、マナちゃんにアスカからシンジ君を守ってもらいたいのよ。」
「守る…ですか?」
マナが意外そうな顔でそう尋ねると
「そう。本来ならシンジ君がしっかりしていれば何の問題もないんだけど…。ほら、マナちゃんも知っている通りシンジ君ってとっても優しい子でしょう?だからアスカが自分に憎悪を抱いたことさえ『僕がしっかりしていなかったせいだ…。』って具合に却って責任を感じちゃっているみたいなのよね。」
「…………………………………………………。」
その事はマヤにとっても本当に歯痒いことだった。
仮に先にアスカを傷つけたのがシンジだったとしても、あの一件でもう十分お釣がくると思っていたからだ。
マヤは軽くマナの手を握りながら
「そんなわけでシンジ君は、アスカに負い目を感じているみたいだから、アスカが何をしようと手は出せないみたいなのよ。だからね、マナちゃんがシンジ君をアスカから守ってくれると嬉しいんだけどな。」
そう言ってやや縋るような目でマヤはマナを見つめる。
「…………………………………………………。」
マナはしばらく無言で考え込んでいたが、真剣は表情でマヤを見詰めると
「分かりました、マヤさん。もし本当にアスカさんがシンジを再び壊そうとしているのなら、私絶対にアスカさんを許しません!」
と力強く宣言した。
『これで近いうちマナちゃんとアスカがぶつかるのは間違いないわね。そしてこれは何よりもあの娘には堪えるでしょうね。いずれにしてもこれであの娘もおしまいね。』
マヤはマナに対する扇動がうまく成功したことに内心満足して、にっこりとマナに微笑みながら
「そう。本当に嬉しいわ。それじゃこれからもよろしくね、マナちゃん。」
と言ってマナと握手を交した後、喫茶店から出ていった。
「……………………………………………………。」
「ねぇ、サユリ。一体あの二人は何を話していたの?」
その声にサユリは振り替えると
「……何か訳わかんないことほざいていたのよね。何回か例の金髪女の名前が出てきたんだけど、碇先輩があの金髪女に壊されただとか復讐を目ろんでいるだとか…変なこと言っちゃってさ…。」
「復讐!?何よ、それ?なんか物騒な単語ね。」
「あたしにもわかんないわよ。小声で話していたから詳細は全然聞き取れなかったし…。あ〜あ。なんかつまんないことに時間潰しちゃったな。いこいこ。」
そう言ってサユリは伝票を掴むと席を立ち上がった。
この地点ではサユリはこの事をまったく気にも留めていなかったが、この時、サユリがマヤとマナの会話を盗み聞きしたことによって後日、マヤさえも予測がつかなかった大きな波紋を学園に呼び起こすことになるが、それは少し遠い未来の話だった。
マヤはペコリと頭を下げて別れの挨拶をしたマナを笑顔で見送り続けていたが、マナの姿が視界から消えた途端、やや憂いを帯びた表情をすると
『悪く思わないでね、シンジ君。』
と心の中で自分が保護者となっている少年に謝罪する。
『シンジ君。私はシンジ君の保護者として、シンジ君が誰と付き合おうとかまわないと思っている。シンジ君が自分で選んだ相手だったら別にマナちゃんでなくてもいいと思う。けど、アスカだけは絶対に止めて欲しいの。』
マヤははじめて、シンジとアスカに出会った時のことを思い出す。
第七使徒を倒した後、火口に飛び込んでしまい、その後痴話喧嘩をはじめた二人の姿を見た時、あまりに微笑ましくてつい笑ってしまった。戦いで緊張していた発令所が一瞬にして和やかな雰囲気に包まれたのを肌で感じ取ることが出来た。その時はああいう意地っ張りな女の子と鈍感な男の子のカップルもいいものなんだな…と本気で思っていた。
けど…
マヤの瞳に悲しみが宿る。
その微笑ましかったカップルの二人は最終的にどうなったのか…。
夫婦喧嘩と級友にからかわれて頬を染めあって否定した微笑ましい少年少女の末路は哀れなものだった。
やがて二人は本気で憎しみあい、傷付け合い、壊しあってお互いの醜い感情を余すことなく見せ合って、最後には本当に行き着くところまで行きついてしまった。
『そうよ。あの二人は一緒になってはいけないのよ。たとえ愛しているとお互いが思っていたとしても、最終的には傷付け合うことしか出来ないのだから。そう、あの二人が一緒になっても最期には飛びっきりの不幸が待っているだけなのだから…。』
だったら傷口が浅いうちに二人を別れさせたほうがいい。
たとえ自分が一方的な憎まれ役を買うことになったとしても…。
マヤは3年前シンジが壊れた時の姿を思い浮かべた。
その時の絶望と悲哀を思い出しマヤの胸がチクリと痛んだ。
『とにかく私はもう二度と見たくないのよ。あんな不幸なシンジ君の姿は…。
シンジ君。
3年前シンジ君があれほどアスカに拘っていたのは、もうシンジ君の周りにはアスカしかいなかったからなんでしょう?
アスカしか縋る相手がいなかったからなんでしょう?
だったら、今はもう3年前とは状況が違うはずよ。
マナちゃんのほかにも本気でシンジ君を想ってくれる女の子はたくさんいるのだから…。
そう、今更アスカを選ばなければならない理由はないはずよ。』
そう、アスカでなければいけない理由は…。
つづく…。
けびんです(^^;
何やらまたぞろ怪しい雰囲気になってきましたね。
もはや学園エヴァの面影もないような……。
最近ギリシャ神話のネタが多いですが、本編にちょこっと出てきたヒュプノスとは眠りを司る神様のことで、死を司る神様であるタナトス(EOEの曲名の一つ)とは双子の兄弟です。
(昔の人は眠ることと死ぬことは紙一重だと思っていたんですかね。死は永遠の眠りともいいますししね。)
とりあえず、外伝に出てきたサキちゃんとマナブ君の小学生コンビが、中学生コンビになって再登場(笑)
最近、ストーリーの展開上シンジとアスカの性格が原作と若干変化してきたので(これを人は成長というのだろうか(爆))、サキとマナブの二人こそが、学園エヴァの等身大のシンジとアスカに成りうるかな…などと思っています(^^;
何時か(後章が終了したら)この二人がメインの外伝でも書いてみたいものです。(この先の出番は未定なもので…)
とはいってもオリキャラメインの話なんて誰も読みたがらないだろうな(しみじみ…)
さて、オリキャラといえば、シンジのファンクラブのメンバー達ですがサユリを除いた他の二人にはまだ名前がついていません。(笑)
(今のところは自分の中ではサユリの友人Aと友人Bとなっているのですが(爆)一応ファンクラブでの肩書きはサユリが会長でもう一人が副会長そして残りの一人が書記ということになっています(超爆))
誰か名前を付けてもらえるとありがたいんですけど(笑)
う〜む。後書きで漫才じみたことをしてしまったな…(反省)
では、気を取り直して真面目に締めてみますか。
次回、急展開。(もう…なんていわないでね)
早くも学園エヴァ崩壊の予感が…。(けど、また外伝が入るかも)
やっぱりダーク作家に学園エヴァは無理だったのか…な十八話でお会いしましょう。(全然真面目にならなかった…)
ではであ(^^;
けびんさんの『二人の補完』第十七話、公開です。
四面楚歌・・・・いやぁつらいなぁ アスカちゃん・・(^^;
ちょっとしたきっかけでこうもガクガクになるとは、、
たまりません・・がんばれっす。
明るい未来はきっとある。と信じたいけど、
なんだか暗い材料ばかりが出てくる・・(^^;
所詮この世は悪意の固まりなのよ。
なんて。
重くなっちゃう・・
3歩進んで10歩下がる
そんな風。
下手したら1歩も進んでいないかも(爆)
さあ、訪問者の皆さん。
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