「ヘロォ〜、ミサト。元気してた?」
クリーム色のワンピースを着た赤い髪をした女の子が、蒼い瞳に勝ち気そうな色を浮かべてシンジ達を見下ろしている。
『なんか、気の強そうな女の子だな。それにすごく自己顕示欲が強そうだな。僕とは正反対のタイプかな?』
シンジがそう感じていると
「ま、ね。あなたも背、伸びたんじゃない」
ミサトの言葉に少女は満足そうに頷いて
「そ、他のところもちゃんと女らしくなっているわよ。」
勝ち気そうに少女は答える。
ミサトはややあきれた面持ちで
「紹介するわ。エヴァンゲリオン弐号機の専属パイロット。セカンドチルドレン。惣流・アスカ・ラングレーよ。」
その時、強風が吹いて少女のスカートがめくれあがった。
パンッ!!
その瞬間、シンジは目を覚ましてふとんから起き上がった。
一瞬、呆然とした後、右の頬をさすってみる。
やがてシンジは右頬を思い切り引っぱたかれたのが現実での出来事でないと悟ると、フゥッ…とため息をついて
「夢か。それにしても今更アスカとはじめて出会った時の夢を見るなんて…。やっぱり僕は今でもアスカに未練があるのかな?」
同時刻、シンジの夢に出てきた少女が同じ日本の地でシンジと同じ夢を見ていたことをシンジは知らなかった。
第十四話 「悲しい再会」
「ふああぁぁ…、良く寝た……。何時の間にか日本に着いちゃったのね」
アスカは大きなあくびをして起き上がると、もたれていたシートを元に戻して起き上がった。
アスカは洗面所へ行って顔を洗うと、さっきまで見ていた夢を思い出し、
「それにしても、はじめて出会った時からシンジって冴えない顔をしていたのね。けど、いきなりの挨拶がビンタっていうのはちょっとまずいわよね…。」
アスカは大きくため息をついたが、すぐに気を取り直して
「まあ、そんな事気にしていてもしょうがないか…。シンジにビンタをかますのなんて日常茶飯事だったわけだし…。けど一体あたしは何回ぐらいシンジを叩いてきたのかしら?」
アスカは抜群の記憶力を駆使してシンジに対する暴力の履歴を検証していたが、暴力回数が3桁に達した所で回想を停止した。
「やっぱりまずいわね。サードインパクト前の普通の精神状態の時ですら、これだったんだから…。シンジはきっとあたしのことを暴力的な女だと思い込んでいるわ。あたしだってドイツに帰ってから、ずいぶん大人しくなったんだけどなあ…」
再びアスカはため息をついた。
特別機から降り立ったアスカは、両手を広げて思いっきり深呼吸した。
「う〜ん。三年ぶりの日本の空気ね……って、あんまり美味しいわけじゃないけど」
と散文的なことを考えながらも
「とうとうもう一度この地に戻ってこれたんだ…。強制送還された時はもう二度と帰ってこれないと思い込んでいたんだけど…。そしてもう一度会えるんだ。シンジに…」
アスカはしばらく感慨に浸っていたが、すぐに気を取り直して
「さて、誰か知らないけど委員会から迎えが来るって言ってたから早いところ入国手続きを済ませないと…」
アスカは慌ててスーツケースを転がしながら入国カウンターの方へ向かっていった。
10分ほど待たされて、アスカは係りの者にパスポートを見せると、簡単な荷物検査と身体検査を受けた後、入国手続きを終了させた。
その時には朝の8時30分を過ぎていた。
アスカは腕時計を日本の時刻に合わせると空港のロビーで迎えが来るのを待っていた。
ほどなくして誰かが後ろから声を掛けた。
「お久しぶりね、アスカ。」
その声に後ろを振り向いたアスカの蒼い瞳が曇った。
そこにいたのは正直アスカが日本に来て一番会いたくない人物だった。
とはいえ会わずに済ませるのは絶対に不可能だった。
その人物はアスカ達、次世代MAGI管理責任者候補生達の講師なのだから。
アスカは渋々ながらその人物に声を掛けた。
「本当に久しぶりね。あなたがあたしを迎えにきてくれたの、マヤ?」
マヤは黙って肯いた。
アスカはマヤの顔を見る。
マヤは表情を消していたので何を考えているかは不明分だったが、少なくともこの女性から自分が好意を持たれていないことだけはアスカは知っていた。
マヤは表面上は無表情を取り繕いながらも
『まさか本当にのこのことやってくるとはね…。あれだけ脅かしておいたのに意外に図々しい娘ね。』
と内心穏やかならざる心境で一週間前の出来事を思い出していた。
「冬月さん。これはどういう事ですか?」
冬月の執務室でマヤが声を上げる。
冬月は落ち着いた声で
「何って…、今度のMAGIのバージョンアップに伴って、その技術の継承も含めて、世界各地から集めた次世代MAGI管理者候補生達の研修会の講師を君に依頼しておいたはずだが…」
マヤはイライラした声で
「それは分かっています。私が言いたいのは、何でドイツ支部から来た候補生がこの娘なんですか?」
マヤは候補生の資料をめくって冬月の前に突きつける。
そこには「ドイツ支部代表:惣流・アスカ・ラングレー」と書かれており、アスカの履歴データと金髪に映え変わったアスカの顔写真が貼られていた。
冬月は資料に目を通した後、
「候補生の選抜は各支部の現MAGI管理者に一任してある。データによるとアスカ君は大学の方でMAGIの処理能力向上に関する博士号を取得していると書かれている。確かに十代の候補生は彼女だけだが十分に今回の候補生に選ばれる基準は満たしていると思うがね…」
「しかし…」
マヤが更に何かを言いかけた時、冬月は機先を制して
「まあ君がいきり立つ気持ちも分からんでもない。アスカ君とは三年前に色々あったからな…。」
「色々どころじゃありません。シンジ君は彼女に殺されかけたのですよ。とにかく彼女の存在は絶対にシンジ君に悪影響が…」
冬月はマヤの剣幕にやや躊躇った後
「それは大丈夫だろう。サエコ君の話によるとアスカ君は以前とは見違えるほど精神的に持ち直しているそうだ。だから以前のようなことはないと思うがね」
マヤは怪訝そうな目で
「そのサエコさんって人は誰なんですか?」
その言葉に冬月は昔を懐かしむ顔で
「ゲヒルン時代に面識を持っていた古い友人だよ。現在のMAGIドイツタイプの管理責任者でもあり、今ではアスカ君の法的な保護者も努めているんだよ。」
「………………………………………………………。」
「……………まあ、色々あったが、そろそろシンジ君とアスカ君も復縁してもいい頃かと私は思っているがね。シンジ君もあれから見違えるほど逞しくなったし、アスカ君もずいぶん素直になったそうだから、今度こそうまくいくと私は思うのだが…」
その冬月の言葉にマヤは大声を上げて
「冗談じゃありません。シンジ君の保護者として私はアスカだけは認めたくありません。だいたいあの娘は…」
マヤの声にややヒスが入ってきたので、冬月は急に厳しい顔をして
「いずれにしてもこれはすでに委員会の決定事項だ。伊吹君。くれぐれも仕事に私情を挟むことのないようにしてくれたまえ!」
「……………………………………。」
「返事は?」
「……………分かりました。」
マヤは不本意そうに頭を下げると冬月の執務室から出ていった。
それを見て冬月は軽くため息をついた後
「これはまたどうやら一波乱ありそうだな…。」
と穏やかでない予言をし、この冬月の予言は後日完全に的中することになる。
マヤは不愉快そうな顔でドスドスと音を立てて廊下を歩いている。
周りにいる職員はマヤの剣幕に思わず道をつくる。
マヤは心の中で本当に不機嫌そうに
『まったく、よりによってドイツ支部の代表があの娘なんてね。どうせ、そっちの方はただの口実で、シンジ君に会うのが目当てなんでしょう?』
マヤの予測は完全に正鵠を得ていた。
マヤは自分の被保護者の少年の顔を思い浮かべる。
やさしさと強さの両方を兼ねそろえた暖かい瞳。
女心をくすぐる透明感溢れる繊細な笑顔。
そして依然の脆弱さを微塵も感じさせない逞しい男の顔。
マヤの目から見ても今のシンジは、女性の一種の理想の男性像が具現化した姿だと思った。
もしマヤがあと5歳若ければ、迷わずマヤはシンジに手を付けていただろう。
だが、シンジの方ではかつてのミサト同様、どうしてもマヤのことを年の離れた姉ぐらいにしか見てくれないので、仕方なくマヤは理解力のある保護者を自らに課してきたのだ。
『それを手に入れるの?あの娘が?』
それはマヤには絶対に許容できないことだった。
『冗談じゃないわ。あの娘がシンジ君に一体何をしてあげたっていうのよ?あれほどあの娘に縋っていたシンジ君を苛め抜いて、自殺未遂にまで追い込んだだけじゃない。そうよ。シンジ君はあの娘の助けなんか借りないで自力で立ち直ったのよ。今更あの娘のことなんか必要としていないのよ。まったくずうずうしいにもほどがあるわ。そんなこと神様が許しても、この私が絶対に許さないわ!』
マヤ自身は特に意識しなかったが、マヤのアスカに対する感情には多分に女の嫉妬心が入り混じっていた。
マヤはアスカについて書かれた資料をくしゃくしゃに丸めて、ポイッ…とごみ箱に放り投げると
「そうよ、この私の目の黒いうちは、私のかわいいシンジ君には指一本触れさせはしないわよ、アスカ。邪魔してやる、邪魔してやる、邪魔してやる。」
とマヤはいっちゃった目で術呪のように同じ言葉を呟き続けた。
扉の影から、そのマヤの様子を覗いていた日向と青葉の二人は
「なあ、最近マヤちゃんが不機嫌かと思ったら、どうやらアスカちゃんが日本に帰ってくるみたいだな?」
青葉のその言葉に日向は
「だとするとこいつは間違いなく血の雨が降ることになりそうだな。マヤちゃんがシンジ君のことを恋愛対象として見ているかは微妙なところだけど、弟のようにかわいがっているのは間違いないわけだし…」
「いわゆる、嫁と鬼姑の関係ですか…」
「けど、本当にマヤちゃんはシンジ君のことをどう思っているんだろうか?」
「わからん。ただ、どっちにしてもシンジ君がはやく両想いのガールフレンドでも作ってくれればマヤちゃんもあきらめがつくだろうにな…。マヤちゃんはともかく、シンジ君がマヤちゃんのことを年の離れた姉ぐらいに思っていて、恋愛対象として見ていないことだけは間違いないんだからな…」
「そうだよな。そうなればマヤちゃんも少しは俺達のことを見てくれるかもしれないのにな…」
二人は顔を見合わせてお互いにため息をついた。
そして、マヤは日向と青葉の二人のことなどまったく眼中になく…さて、どうやってアスカをシンジから引き離そうか…と密かに策略を練っていた。
マヤはアスカを連れて空港の駐車場へ向かっていった。
そして自分の愛車であるMS−6のトランクを開けてアスカの荷物を積めると、アスカを助手席に座らせて車を発進させる。
そしてマヤは眼鏡をかけると車を運転し空港から離れていった。
しばらくは、車内に沈黙が流れていた。
マヤもアスカも一言も喋らずにお互いの出方を伺って様子を見ている。
ピリピリとした緊張感が車内に漂っている。
だが、それからしばらくして、ようやくマヤが最初に口火を切った。
「髪の毛が金色になっているけど、染めたの?」
アスカは自慢のブロンドの髪を軽くかき上げながら
「ううん、自然に変わっちゃったの。ハーフやクォーターにはまれにある現象なんだって…」
マヤの質問に答えた。
「ふ〜ん。そうなの」
マヤはアスカの横顔をちらりと見ながら
「3年前と比べても随分奇麗になったわね、アスカ」
やはり感情を抑制した声でマヤがアスカに尋ねる。
「そ…そう?」
アスカはマヤと目線を合わせないようにしてそっけなく答える。
奇麗と誉められてもアスカはあまり嬉しくなかった。マヤの発言には何か裏があるような気がしてならなかったからだ…。
「本当よ、アスカ。それになんていうのかしら…。ずいぶんと表情が柔らかくなった気がするわ。昔の険のような印象がなくなって、まるくなったというか…」
それはマヤの正直な感想だった。
そしてその事はマヤには少々意外だった。
正直、ドイツへ送還したアスカが、これほどの精神的再建を果たしているとはマヤは思っていなかったからだ。
無論、遠いドイツの地でアスカが幸せになっていたとしても、マヤとしては一向に差し支えがなかったが、仮にアスカがあの後立ち直れず堕ちる所まで堕ちていたとしても、それは自業自得であって同情に値するものではないとマヤは考えていたからだ。
どうやら、シンジに対する入れ込み具合に比べると、マヤのアスカに対する涙腺は完全に渇き切ってしまったみたいだ。
無論、マヤはそんな考えはおくびにも出さずに
「それだけ奇麗になったら、きっと周りにいる男の子はあなたのことを放っておかないでしょうね、アスカ?」
「…………………………………………………。」
アスカは俯いたまま、何も答えない。
「どうしたの、それともドイツでは全然もてなかったの?」
「そ…そんなことはないけど……」
アスカは言いづらそうに答える。
何やら先ほどからマヤに誘導されているような気がしてならなかった。
「そう、だったら3年前に終わってしまった関係にこだわることもないはずよね、アスカ?」
「…………………………………………………。」
アスカは何も答えなかったが、マヤの真意がどこにあるのかは正確に理解していた。
『やっぱり、マヤはあたしがシンジに近づくことを好ましく思っていないんだ。』
3年前の経緯を考えれば、それは無理もないことだった。
マヤはさりげなく今の自分の立場をアスカに説明した。
「私は今ではシンジ君の法的な保護者を努めているの。とはいっても一緒に暮らしているわけではないんだけどね。」
「そうなんだ…。」
MAGIの管理責任者であり、元チルドレンの法的な保護者。立場だけ見ればマヤの立場はサエコと酷似していた。
アスカは一緒に住んでいないというマヤの言葉に安堵しながらも
『法的な保護者か…。かつてのミサトと同じ立場なわけね。…という事は当然シンジのマヤに対する信頼度は高いわけよね。』
アスカはマヤを隔てたことによって、シンジとの距離がさらに遠くなったような気がした。
だが、マヤからシンジの名前が出たことはアスカにとって幸いだった。
自分からシンジのことを尋ねにくかったアスカはその話題に乗る形を取ることにして、
「……で、マヤ………。そのシンジなんだけど…。今、シンジはどうしてるの?」
さり気なさを装いながらアスカはマヤに尋ねる。
信号が赤に変わったので、マヤは車を止めて、じっとアスカの顔を見る。
アスカは顔を背けたが、アスカの頬がやや紅潮しているのをマヤは見逃さなかった。
『やっぱり、そっちが主目的なわけね。』
マヤは自分の予測が正しかったことを確信すると瞳に嫌悪感を顕わしてアスカを睨み付けた。そして
「どうして今更そういうことを聞くの、アスカ?もしかして3年前にあなたが壊したオモチャが復活したと知って今度こそ止めでも刺しにきたわけ?」
言い終わらないうちにマヤはこんな言い方をした自分自身に嫌悪感を感じた。
『まったく、どうしておとなしくドイツで新しい幸せを見つけてくれなかったのよ。そうすればお互いこんなに不愉快な思いをしないですんだのに…』
マヤはさすがに今の言い方はきつすぎたかと反省したが、その分、アスカには効果があったようだ。
アスカはその言葉にビクッと体を震わせると、やや脅えた目をして、
「ち……違うの。そんなんじゃないの。あたしはただ3年前にあたしがしたコトをシンジに謝りたいだけなの。本当にそれだけなの。それ以上は望んでいない…。」
そう言ってアスカは再び俯いてしまった。
『当たり前じゃない。それ以上何を望もうというのよ。本当に図々しい娘ね。』
とマヤは思ったが、その事は口に出さなかった。その代わり
「謝ってすむようなことだと本気で思っているの?」
シンジ君を殺しかけといて…という言葉はすんでの所で飲み込んだ。
本当はアスカがあの事件の被害者だということはマヤも十分理性では分かっていた。
無論だからといって、アスカのことを許せないという感情を抑えることは出来なかったが…。
「……………………………………………………。」
アスカはマヤのその言葉には答えられずに、さらに暗く俯いてしまった。
そして、一時消えかけたシンジに対する不安感が再びマヤによって増幅されていくのを感じた。
その時のアスカの蒼い瞳から希望の光は完全に消えていた。
マヤは信号が変わったので、再び車を発進させると、ちらりと俯いたアスカの様子を見て思案した。
『さてと、ここからが問題よね。この様子じゃ私が止めたってアスカはきっとシンジ君に会いにいこうとするはずよね。それを止める権限は私は持っていないし…。だったら、好き勝手動かれるより、私の監視下で二人を会わせた方がやり易いかもしれないわね。』
そう決意するとマヤは
「そう、そんなにシンジ君に会いたいの、アスカ?」
「………………………………………………。」
やはり、アスカは何も答えない。
「会いたいのなら会わせてあげるわよ。何なら私がセッティングしてあげてもいいわよ。」
「えっ!?」
アスカは意外そうな顔でマヤを見る。
マヤは相変わらずポーカーフェイスを保ちながら
「私はあくまであなたの公的な用件の講師にすぎないのだから、あなたのプライベートにまでかかわれる権限は持っていないわ。それにいくら私がシンジ君の保護者だからって、シンジ君の交友関係に私が口を出せるわけじゃないしね…。けど、3年前にあんなことがあったんだから、あなた一人じゃ、シンジ君に会いづらいんじゃない?もし、よければ私が仲介役になってあげてもいいわよ。」
と善意を装ってマヤはアスカに尋ねる。
「…………………………………………………。」
アスカは再び無言のまま考えこんだ。
どう考えてもマヤが好意からアスカに仲介役を申し出ているとは思えない。
マヤの発言には何か裏があるのではないか…。
けど、マヤのいう通り、いきなり一人でシンジに会いづらいのも確かだった。
悩んでいるアスカにマヤが追い討ちをかける。
「どうするの、アスカ?私は別にどっちでもいいのよ。一人でシンジ君に会える勇気があるのならむしろそっちをお勧めするわ。」
アスカはしばらく悩んだが結局マヤに屈することにした。
一人で動くには正直、今のアスカはシンジのことを知らなすぎたからだ。
不本意だがマヤに仲介を頼むほうが確実だと思われた。
「そ……それじゃ、お願いできるかしら、マヤ?」
仕方なくアスカはマヤに尋ねる。
マヤは『かかったわね。』と内心ほそく笑みながらも、そのことはおくびにも表情に出さずに
「OK。それじゃ今夜さっそくシンジ君に会わせてあげるわ。ただし、その間私の指示に従うこと…。これだけは守ってもらうわよ。いいわね、アスカ?」
アスカにそれを断る選択肢はなかったので、アスカは黙ってコクッと肯いた。
アスカは急にシンジとの再会の仲介役を買ってでたマヤの態度を不審に思ったが、心の奥から湧き起こった別種の感情がその不安を打ち消した。
『もうすぐ、会えるんだ…。シンジに…』
俯いたアスカの頬がやや赤みを帯びはじめた。
その様子をちらりと見たマヤがクスリと笑っていたのをその時のアスカは気がつかなかった。
その日の正午、第3新東京都市立第壱高校の昼休みの時間、シンジ達5人はいつものように机を並べて昼飯を食べていた。
弁当を食べ終わった後、マナがシンジに声を掛ける。
「ねぇ、シンジ。今週の日曜日、暇ある?」
マナは期待のこもった目でシンジを見つめる。
シンジはしばらく考えた後
「日曜日?今週なら空いてるけど、でもなんで?」
その朴念仁なシンジの返答にケンスケは天を仰いで
「あいかわらずお子様だな、シンジは。デートのお誘いに決まってるだろ」
とマナの気持ちを代弁した。
「デート?」
マナはやや赤くなって俯いて
「う…うん。実はたまたま遊園地のチケットが2枚、手に入ったんで、久しぶりにシンジと行きたいな…なんて思ったの。駄目かな?」
マナは上目遣いにシンジを見上げる。
シンジは腕を組んで再び考えはじめた。
そして、今朝見た夢の内容を思い出した。
『僕はやっぱり今でもアスカの事を引きずっているのかもしれない…。それなのに、こうしてマナとも付かず離れずの関係を続けている。これってやっぱり二股をかけていることになるのかな?』
根が純真で真面目なシンジは、そう考えるとやや自分自身に自己険悪を感じていた。
昔と違い内罰傾向から脱した今のシンジが悩む時は、大抵アスカの事がからんでいる時だった。
とはいえそれがマナの誘いを断る理由にはならないな…とシンジは思ったので
「別にいいけど…。今週は特に予定はないから…」
とにっこりと笑って、マナの頼みを承諾した。
その言葉にマナはパッと明るい笑顔で微笑んで
「嬉しい!、いつもシンジって日曜日も忙しそうにしていたから、もしかして駄目かなって思ってたんだ。それじゃ日曜日の10時に遊園地の前で待ち合わせでいいわね。お弁当はあたしが作ってくるから。」
とマナは嬉そうにスケジュールを立て始めた。
ケンスケはやややっかみの混じった声で
「まったく、こういうものはもっと男の方からリードするものだろうに。シンジみたいな奴が相手だと苦労するよな、霧島も…」
トウジもケンスケの言葉に同調して
「そやで…。霧島の気持ちははっきりしとるのやから、そろそろシンジの方もはっきり答えたったらどうや。そうすりゃ、一年の女子にも付きまとわれなくてすむやろが。」
と怪しげな大阪弁でシンジに説教しはじめた。
ヒカリと付き合いはじめてからトウジは前より、この手の話題に敏感に反応するようになっていた。
ヒカリも何か言いたげな目でじっとシンジを見ている。
そしてマナも鳶色の瞳に一段と期待をこめてシンジを見つめている。
シンジは場の雰囲気が、好ましくなくなってきたのを感じ取って
「あっ…、そういえば今日が返却期限の本を返すのすっかり忘れていた。それじゃ僕は昼休みが終わらないうちに、ちょっと図書室へ行ってくるから…」
と言って、バックから本を何冊か取り出すと、そのまま教室を出ていった。
「逃げたな。あいつ、こういう間の外し方はずいぶんうまくなったよな。」
あきれた口調でケンスケが呟いた。
マナは残念そうにため息をついたが、とりあえず半年ぶりにデートの約束を取り付けたことに満足したらしく、嬉しそうな表情でシンジの後を追うように教室から出ていった。
トウジはマナが教室から出ていったのを確認するとヒカリに耳打ちする。
「なあ、ヒカリ。もしかして、シンジの奴、未だに惣流に未練があるんじゃないやろか?」
その言葉にヒカリは考えこんで
「う〜ん。どうかしらね。ちょっと男の子の気持ちはあたしには分からないわ。」
「それじゃ、おなごの気持ちなら分かるんか?」
「えぇ、わかるわよ、トウジ。霧島さんは間違いなく碇君に惚れてるわ。もっとも3年前ならともかく、今更碇君にぞっこんな女の子なんてこの学校じゃ全然めずらしくないけどね…」
「そりゃま、そうやろ。…で、惣流の方は?」
「アスカも碇君のことが好きだったと思う。そんなこと見ていればわかりそうなものじゃない?まあ、本人が意識していたかどうかは怪しいとこだけどね。」
「あれでかいな?ワイにはシンジを苛めているようにしか見えんかったけどな」
その言葉にヒカリは可笑しそうにクスリと笑って
「あれは、あれでアスカの不器用な愛情表現なのよ、トウジ。ほら、よくあるじゃない。好きな子をつい苛めてみたくなるっていう…。アスカって本当に素直じゃないから…」
その言葉にトウジはけったくそ悪そうな顔をして
「まあ、どっちにしろワイは惣流のような凶暴なおなごは好かん。ワイがシンジの立場やったら迷わず霧島を選ぶけどな」
「トウジ!」
ヒカリがやや恐い顔をしてトウジを睨んだので、トウジは慌てて
「あ…あくまでワイならシンジにそう勧める…って話や。それよりもしそうなったらヒカリはどっちの味方なんや?」
と強引に話題を転換すると、ヒカリはやや真面目に考え込んで
「そうね。3年前なら迷わずアスカを応援するんだけど…、今は霧島さんとも仲の良い親友だしね。それに、アスカが碇君を好きだっていったのはあくまで3年前の話だから、今でもアスカが碇君のことを好きなのか分からないしね。」
「まあ、どっちにしろ惣流はドイツに帰ってしまったんやから、霧島の不戦勝だろう。まあ、その方がよけいな修羅場が増えんでいいかもしれんしな。」
トウジはアスカがすでに来日していることを知らずに勝手なことを言っている。
ヒカリはやや憂鬱そうな表情で
「本当にアスカは今頃どうしているのかしら。結局あれ以来まったく音沙汰無しなのよね。委員会の伊吹さんに聞いてもまったく要領を得ないし…。」
「なんや、ヒカリ。そんなに惣流に会いたいんか?」
「うん、あたし三年前にアスカが落ち込んでいた時に結局何もしてあげられなかったから…。だからあれからアスカが精神的に立ち直れたか心配なの。碇君がついてればきっとアスカは大丈夫だと思っていたんだけど…」
「…………………………。まあそないなこと気にしたって、しゃあないで。生きてさえいればきっとまた会えるさ。惣流はちゃんと生きとるんやからな。」
「そうよね。またきっと会えるよね。」
しんみりしていたヒカリが笑顔を見せた。
二人はアスカと再会できる日が意外に近かったことをこの時知らなかった。
シンジは図書室に顔を出すと、受付で本を読んでいる図書委員の女の子に声をかけた。
「山岸さん。これお願いできるかな?」
シンジは返却棚に数冊の本を置いた。
「わかったわ、碇君。それにしても碇君が借りる本って心理学に関するモノばかりね。いつからそっち方面に興味をもったの?」
図書委員の女の子が控えめにはにかんでシンジに尋ねた。
少女は黒髪の眼鏡をかけたおとなしそうな娘で、口元に小さな黒子があるのが特徴だった。
彼女の名前は山岸マユミといい、3年前に一時期この町に転校してきて中学時代のシンジ達のクラスメートとなったことがあった。その後マユミは別の場所へ転校してしまったが、1年前シンジ達の高校に再び転校してきたのだ。
無論これは偶然ではなく、日本のほとんどの地域はサードインパクトの影響で混乱していたため、わずかでも第三新東京都市にツテがある者は皆争うように日本で一番復興の進んでいるこの町へ帰ってきているからだ。
マユミの家族もその例外ではなく、1年前この町へ家族ぐるみで戻ってきたのだ。
もっとも今ではマユミ自身はシンジとクラスが違っていたので、あまりシンジ達のグループと関わることは少なかったが。
シンジはマユミの質問に照れくさそうに笑って
「まあ、色々あってね…。将来そっちの道へ進んでみたいと思ってるんだ。」
「ふ〜ん。それにしても…」
「えっ」
「碇君って本当に変わったよね。」
「変わったって?」
シンジが意外そうに尋ねる。
マユミは言いにくそうに
「失礼な言い方だけど、昔、碇君って私にすごく似てるって思っていたの。なんていうか、雰囲気とか考え方とか…。けど、2年ぶりに会ってみて驚いたわ。なんか昔に比べてすごく前向きに生きてる。そんな感じがするの…。人間ってたった数年でこんなに変われるものなのかって本当に感心しているの…。」
マユミのその言葉にシンジは本当に照れ臭そうに
「そ…そうかな?」
と頭を掻いた。
マユミはやや赤くなって
「ねぇ、碇君。私も碇君みたいに少しは変われるかな?」
マユミのその言葉にシンジはにっこりと笑って
「山岸さんは3年前に比べて随分と変わったと思うけど。」
「えっ?」
「ほら、そうやって委員の仕事とかして人の為に貢献してるじゃないか。それに比べれば僕は我が侭なほうだよ。学校では結局自分のための努力しかしていないんだから。」
「そ…そんなことないと思…」
マユミがややムキになって否定しようとした時
「シンジ〜!」
図書室の外からマナがシンジに声をかけた。
「マナ、どうかしたの?」
シンジが振り返って声をかける。
「うん。今度の日曜のことで話したいことがあるんだけど…」
「分かった、用事は終わったから今いくよ。」
そう言ってシンジはマユミに
「それじゃ、山岸さん。またね。」
マユミは一瞬残念そうな表情を浮かべたがすぐににっこり微笑んで
「あ、そうだ、碇君。来週には新書が入る予定だからまた来てね。きっと碇君のお好みの本も入ると思うから」
その言葉にシンジは笑って
「うん、そうさせてもらうよ。山岸さん。わざわざありがとう。」
そうマユミに礼を言うとシンジは図書室から出ていった。
マユミは並んで歩くシンジとマナを見て
『やっぱり、お似合いよね…。』
と内心密かにため息をついた。
そして放課後、シンジは今日は吹奏楽部の教室には顔を出さずに、バイクに乗ってすぐに下校した。
目当てのものが見られないとあって、部活に出る気力をなくしたサユリ達3人組みが正面玄関のところでシンジについて話している。
「ねぇ、碇先輩ってどうして水曜日はいつも部活に出ないのかしら?」
「そうよね。おかげで水曜日はいつも吹奏楽部の教室って閑古鳥が鳴いているものね。きっと部室の中で桂部長がヒステリーを起こしてるわよ。「もう少し真面目に音楽に取り組もうっていう人材はいないのか〜!!」とか叫んでね。」
その言葉にサユリが
「ふっふっふっ…。二人とも本当に知らないわけ?あたしは知ってるわよ。どうして碇先輩が水曜日だけ部活に出ないかね。」
「本当なのサユリ?」
「えぇ、本当よ。実は碇先輩ってイタリア料理の高級レストランでバイトしてるのよ。そして水曜日にはそこでチェロの演奏を担当してるからなのよ」
「嘘〜!?」
「本当よ。あたしも見た時は驚いちゃったわ。それにウエータ姿の碇先輩って大人ぽくってすっごく素敵なのよ。特にチェロなんか弾いている時はもう本当に神秘的でなんともいえないわ。」
サユリは夢見る乙女の表情でうっとりとしている。
「いいなぁ…。あたしも見てみたいなぁ。」
その言葉にサユリは渋い顔をして
「それはちょっと難しいわよ。あの店雰囲気はいいんだけど、その分値段もむちゃくちゃ高いのよ。あたしも誕生日にパパとママに頼んでようやく連れてってもらったんだから。」
「そっか…。それは残念ね。けど、サユリ。何であんたそんな事知ってるわけ?」
「今更なに言ってるのよ。サユリの中学時代の趣味を忘れたわけ?」
「あっ…、そうか、気に入った男の子をストーカーするのがサユリの趣味だったんだよね。」
そう言って二人が可笑しそうに笑い転げると、サユリは不機嫌そうに
「ふん。好きな人のことを少しでも知りたいって思うことのどこがいけないのよ?」
とプリプリと怒って、校舎から離れていった。
それを見て二人もあわててサユリの後を追いかけた。
その夜の8時近くに、高級イタリア料理店「GEORE&RAY」の駐車場に黒のスポーツカーが止められた。そして2ドアの運転席から30歳近くのショートカットの女性が姿を現した。
そしてすぐに助手席側のドアが開いた。
そこから現れたのは紺のスーツとスカートを華麗に着こなした金髪の少女だった。
少女は黒のサングラスをかけていたので瞳の色は分からなかったが、一見して芸能人と見間違うほどのルックスとプロポーションを誇っていた。
金髪の少女がショートカットの女性に声をかける。
「ねぇ、マヤ。本当にこんな所でシンジがバイトしているわけ?」
少女が疑わしそうに尋ねた。
マヤはクスリと笑って
「えぇ、本当よ。アスカ。まあ入ってみれば分かるけど…」
アスカはサングラスをかけていたため表情は読みづらかったが、それでも首をかしげている様子だった。
二人は扉を開けて中に入った。
するとすぐに支配人の徳永が現れて
「これは、伊吹様。いつもご贔屓していただき恐縮です。」
と揉み手をしながら、マヤを歓迎した。
どうやらマヤはこの店のお得意さんの一人みたいね…とアスカは思った。
マヤはにっこりと微笑んで
「それじゃいつもの席に案内していただけるかしら?」
「はい、かしこまりました。それにしても今日は珍しくお連れ様と一緒なのですね。」
徳永はちらりとアスカの方を見て意外そうに答えた。
マヤはその質問には答えなかったので、徳永は内心の興味を押し殺してウエイトレスに二人を窓際の席に案内させた。
席につくと、ウエイトレスの少女が「しばらくお待ちください」と頭を下げて二人から離れていった。
マヤと向かい合わせの席に腰を下ろしたアスカはあらためて店の中を見回してみる。
入り口の所には西洋の鎧が飾られており、内装はすべて煉瓦造りで、中世風のクラシックな雰囲気を出している。そして天井の中央に張られたステンドグラスが一段と高級感を醸し出していた。
アスカにはどう考えてもこの店の雰囲気とアスカの知るシンジとのイメージが結びつかなかった。
『もしかして、マヤにかつがれているのかしら』
アスカがそう考えた時、マヤがアスカに声をかける。
「いい、アスカ。さっきも言ったけど、くれぐれも私が良いというまではあなたからシンジ君に話し掛けちゃ駄目よ。分かってるわね、アスカ?」
「……………………………。」
アスカは何も言わずに無言で頷いた。
正直、マヤのやろうとしている事はアスカには不可解だった。
あの後、デパートに足を伸ばしたと思うと、アスカの服をコーディネートしてくれたりして、一見アスカとシンジの出会いを演出しているように見えた。
ただ、どうしてもアスカにはマヤが好意から世話を焼いてくれているとは思えなかった。
とはいえマヤから出された条件は、サングラスを外さない事と、自分からは声をかけない事の二つだけだったので、もっときつい条件を突きつけられるのでは…と覚悟していたアスカはとりあえず安堵していた。
しばらくして、誰かがマヤ達のテーブルに声をかけた。
「こんばんわ、マヤさん。来てくれんですか。」
アスカはどきりとした。やや聞き覚えのある男の声…。もしかして…。
アスカの正面にいるマヤは、アスカには絶対に見せなかった明るい笑顔で微笑んで
「えぇ、今日ちょっとわけありで寄らせてもらったわよ、シンジ君」
『やっぱり…。』
今、あたしの後ろにシンジがいる。
そう考えたらアスカは自分の心臓の鼓動が高まっていくのを感じた。
アスカはゆっくりと後ろを振り向いた。そして
「う…嘘?これがシンジなの…?」
メニューを抱えて立っているウエイターの姿を見てアスカは放心していた。
アスカが想像していた内罰的な暗い少年のイメージはそこにはなかった。長身で、中性的な雰囲気を持つハンサムな青年。
黒のウエイタースーツをビシッと着こなして、髪をオールバックにまとめたシンジの姿はとても大人びて見え、かつての子供っぽい雰囲気は微塵も感じられなかった。
そして一番変わったのはその目だろうか。
以前のシンジの目には他者に脅えるような…そして縋るような色が濃く存在しており、それがつねにアスカの癇に障っていたのだが、今のシンジの黒い瞳には穏やかな強さとやさしさに満ち溢れていた。
アスカは3年前とは比べようもないほど見違えたシンジの雰囲気にただただ飲み込まれて声も出せなかった。
シンジはアスカを見てにっこりと透明感のある笑顔で微笑んだ。
それを見てアスカは頬を染めて俯いてしまった。
胸の芯から熱くなってくる…。
だが、次にシンジから放たれた一言がグサッっとアスカの胸に突き刺さった。
「マヤさん。こちらの女性(ヒト)はマヤさんのお知り合いの方ですか?」
『シンジ!?』
その一言にアスカの熱くなった想いは急速に冷えていった。
アスカを見つめるシンジの瞳は初対面のヒトを見るソレだった。
そう、シンジはアスカに気が付かなかったのだ。
とはいえ、それは無理のないコトだった。
シンジは今日アスカと再会することはおろか、アスカの髪が金髪に映え変わった事などまったく知らされておらず、さらにアスカの特徴ある宝石のような蒼い瞳は黒のサングラスによって完全に隠されていたからだ。
そしてこれこそ、マヤによって仕組まれた再会のシチュエーションなのだが、アスカの心にショックを与えるのには十分だった。
普段のアスカなら、まず間違いなくマヤの企みに気づいたはずだが、3年ぶりに再会した大人びたシンジの姿と、シンジから放たれた不用意な一言が、冷静なアスカの思考を妨げていた。
『やっぱり、もうシンジはあたしのことを忘れているんだ。』
アスカはがっくりと落ち込んだ。
マヤは想定通りに事が運んだのに内心満足しながら
「えぇ、そうよ、シンジ君。彼女は私の古い知り合いなのよ。後で紹介するわね。」
と言ってシンジにウインクした。
その時、シンジの後ろから中沢が来て
「碇、今日はこれから演奏するんだろ。注文は俺がやっとくから、お前は早く準備しろよ。」
とシンジを促したので、シンジは
「あっ、それじゃお願いします。マヤさん。それじゃまた後で…」
と挨拶してマヤ達のテーブルから離れていった。
アスカは呆然とした表情でシンジの後ろ姿を見詰めている。
中沢が熱心に話しかけたがアスカは完全に上の空だった。
やがて、注文を取り終わった中沢が席から離れていったので、マヤがアスカに悦に入った声をかけた。
「残念だったわね、アスカ。シンジ君はあなたが分からなかったみたいだわ。まあ、無理もないわよね。きっとアスカが3年前に比べて奇麗なったからかしらね。」
口ではそう言っていたが、アスカを小馬鹿にしているようなマヤの瞳が
しょせんはシンジ君にとってあなたはその程度の存在なのよ…と真摯に語っていた。
そのマヤの目を見てアスカは悔しそうに下を向いた。
やがて料理が運ばれてきたが、アスカは味のことなどまったく覚えていなかった。
ただただシンジの態度だけが気になっていた。
『やっぱり、もうシンジの心の中にはあたしの居場所はなかったんだ。マヤの言う通りだった…。あたしはもうシンジにとって本当に必要のない存在だったんだ。けど、無視されるのがこんなにつらいだなんて思わなかった。これならまだ憎まれてでもシンジの心にあたしが存在しているほうがはるかにましだった…。もしマヤからシンジにあたしの事を告げられたとき、シンジに「惣流さん」なんて他人行儀で言われたらどうしよう…』
シンジに対して強い負い目を感じていたアスカはひたすら悪いほうへと想像が進みかけた。
マヤは予想通りうちしがれているアスカの姿を無表情に眺めている。
しばらくして、他のテーブルの客達がざわめきはじめた。
「はじまるわね。」
そのマヤの言葉に、しばらく自分の世界に閉じこもっていたアスカが
「はじまるって何がよ。」
マヤはアスカの言葉に、
「いいから黙ってなさい。これが楽しみで私はここによく来るのだから…」
すでにマヤの興味はアスカから完全に離れていた。
そしてざわめいていた客がシンと静まり返った。
『何がはじまるのかしら?』
アスカが少し好奇心を出して、じっと事の推移を見守っていると、奥の方からシンジがチェロのケースを抱えて姿を現した。
そしてシンジは隅に置かれている椅子に腰を下ろすと、ケースからチェロを取り出した。
客席の、特に女性客の視線がシンジに集中する。
自分に注がれる多数の視線を感じて、シンジの頬が赤く染まった。
アスカはそれを見て、今のシンジに未だに自分の良く知るシンジらしさが残っていたのを知ってわずかに安堵した。
『さてと、今日は何を弾こうかな?』
シンジは曲目に悩んでいたが、今朝見た夢のコトを思い出して
『そうだ。ひさしぶりにアレを弾いてみよう』
と決意すると、左手でチェロを支えながら、右手で弓を構えた。
そして演奏を開始した。
その時のシンジの表情から照れは完全に消えていた。
『この曲は!?』
アスカは心の奥底から懐かしい古い思い出の一つを堀り起こされた。
今、シンジが弾いている曲はバッハの「無伴奏チェロ組曲」で、かつてアスカがミサトのマンションのダイニングで聞いたはじめてのシンジの演奏曲だった。
すでにお客のほとんどが、食事を中断して静かにシンジの演奏に耳を傾けている。
マヤもその例外ではなく、うっとりとシンジの演奏に聞き惚れている。
アスカは懐かしさに胸をときめかせながら
『やっぱり、あの時のあの曲だ。それに…』
かつて3年前、偶然シンジのチェロの演奏を聞いた時、本当にうまいと思った。
弾いているのがシンジだとは信じられなかった。
だから演奏が終わった時、思わず拍手してしまった。
だが今聞いているこの曲は…
特に音楽に造詣のないアスカから聞いても本当に心に響くモノがあった。
もの悲しく…そして聞くものの魂に訴えかけるような…
聞けば聞くほどにアスカは胸のあたりがキュンと痛くなってくる自分自身を感じていた。
無論アスカは知らなかった。
シンジがいつかもう一度アスカに聞かせたいその一心だけで毎日のように継続してチェロを弾き続け、そのたゆまぬ継続の効果が確かな形として今、聞く者の心を潤しているということを…。
そしてシンジがチェロを弾く時は、常にアスカのことを想いながら弾いていて、その演奏に込められたつたない想いが、聞く者の魂に訴えかけるような、せつないもの悲しさを醸し出しているということを…。
今、シンジとアスカの心のイメージは完全にシンクロしている。
夕暮れ時のマンションのダイニングルーム。
退屈なデートを切り上げて帰ってきた赤毛の少女は、そこから漏れる音楽に好奇心をそそられ顔を出してみる。
そこで見たものはイスに腰を下ろしてチェロを弾き続ける繊細そうな少年。
少女は、少年の意外な才能に驚きつつ、心地よい音楽の調べに声を掛けることなく、ただ黙ってじっと少年の演奏を聞いている。
少年は自分の後ろにいる少女の存在に気がつくことなく、一心にチェロを弾き続けている。
やがてシンジは演奏を終了させ、ピタリと弓の動きを止めた。そして、ようやくシンジは心を3年前から現実へと引き戻した。そして…
その時、突然店内に軽い拍手の音が響き渡った。
『えっ!?』
そのシチュエーションに強い既視感(デジャブー)を感じたシンジは音の発信源を振り替える。
拍手の音はマヤのいるテーブルからだった。
そしてそれはシンジと違い未だに3年前から心が脱していない金髪の少女の無意識の行為だった。
周りにいる客達も興味深そうにアスカの方を見ている。
妙な注目を浴びて恥ずかしくなったマヤが
「ちょっと、アスカ」
と言ってアスカの肩を揺すった。
「えっ…何よ、マヤ?」
そのマヤの行為でアスカはようやく心を3年前から現実へ引き戻した。
そして皆が自分に注目していることに気がついた。
すでに演奏は終了して無意識に一人拍手をしている自分の姿に気がついた。
周りの客席からドッっと笑い声が漏れている。
マヤもあきれたような目でアスカを見ている。
ようやくアスカは自分の行為に気がついて赤面した。
そしてアスカは恐る恐るシンジの方を見てみる。
シンジは最初、きつねにつままれたような顔をしていたが、アスカの視線に気がついて、クスリと透明感のある笑顔で微笑んだ。
それを見てますますアスカは赤くなって俯いてしまった。
それからマヤとアスカは食事を再開して、15分後にはフルコースのディナーを終了させた。
そして、再びシンジがワインの盆を持ってマヤ達のテーブルに姿を現した。
マヤは意外そうな顔で
「あら、シンジ君。今日はワインは頼んでいないはずだけど。」
その言葉にシンジはにっこりと笑って
「サービスですよ。マヤさん。そちらのお嬢さんの拍手のお礼です。」
と言って二人の前にワイングラスを置くとワインの小瓶を取り出した。
「あら、悪いわよ。シンジ君。ここのワインってすごく高いんでしょう?」
するとシンジはちょっとはにかむような顔をして
「いいんですよ。マヤさん。是非、受け取って下さい。
いつも色々個人的にお世話になってるマヤさんへのささやかなお礼のつもりでもあるのですから。」
「そうはいっても・・・」
「大丈夫です。
高いと言っても、これはハーフボトルです。そんなにしませんから。」
「そ、そう。そうまでシンジ君が言うのなら・・・」
真剣な表情でマヤの目を真っ直ぐ見つめるシンジの瞳の前に、マヤは頷かざるを得なかった。
それを承諾と受け取ったシンジが、蓋を開けてマヤのグラスにワインを注ごうとするのマヤの手が遮った。
「私は今日は車で来たから、せっかくだけど遠慮させてもらうわ。今度シンジ君の家に遊びにいった時にでも飲ませてもらうから…。それじゃこの娘にだけ注いであげてちょうだい。」
その言葉にシンジも残念そうな顔をして
「はい、わかりました。マヤさん。」
と言ってはじめてアスカの方に向き直った。
アスカはただ黙ってシンジの方を見ていた。
喋らないのはマヤとの約束を覚えていたからではなく、先ほどから見せられているシンジの見違えるような成長の姿に、ただただ圧倒されて声を掛けられないからだ。
シンジはアスカのワイングラスにワインを注ぎながら
「ところで、マヤさん。こちらの女性はモデルさんか何かですか?」
とマヤに尋ねる。
「どうして、そう思ったの、シンジ君?」
「いや、ずいぶん奇麗な女性(ヒト)だと思ったから…」
それはリップサービスではない、嘘偽りのないシンジの印象だった。
その言葉にアスカは真っ赤に頬を染めて俯いてしまった。
マヤはそのシンジの言葉に本当に可笑しそうに笑うと、突然席を立ってアスカの隣にきて
「本当にわからないの、シンジ君?」
「何がですか?」
朴念仁にシンジが尋ねる。
「だからこの娘のことよ。」
と言った瞬間マヤは素早い動作でアスカのサングラスを奪い取った。
アスカが『えっ!?』と思う間もなく、アスカの蒼い瞳がシンジの視界に晒された。
そしてシンジはアスカの素顔を見たまま呆然と固まった。
シンジの黒い瞳の瞳孔が極限まで見開いている。
そしてシンジはポツリと呟いた。
「ア…スカ…なの?」
しばらく続く沈黙。
やがてマヤが声を掛ける。
「シンジ君…。」
「……………………………………………。」
返事はない。
「シンジ君。」
ようやくシンジは現実に帰った。
「あ…はい。なんですか、マヤさん?」
「ワイン、漏れてるわよ。」
マヤの指差した先では、とくとくと注がれ続けたワインがワイングラスから溢れ出ていて、白いテーブルクロスの上に赤い池をつくっていた。
「あっ!!」
シンジは大声をあげて、あわててハンカチを取り出すとテーブルの上を拭き始めた。
閉店後、アスカとマヤが駐車場の車の前で待っているとほどなくしてシンジが姿を現した。
この時のシンジの姿は学生服で、オールバックにまとめたていた髪も普通に梳かして、まっすぐにおろしているだけだったが
『さっきの大人びたシンジより、やぱりこの方がシンジらしい…』
とアスカは密かに安堵した。
だが、シンジの方は完全に戸惑っていた。
先ほどの中沢との会話を思い出す。
「あの先輩。今日はちょっと人を待たせているので…」
申し訳なさそうにシンジが尋ねると、中沢は快く
「ああ、いいよ。後片付けは全部俺がやっておくから今日はもうあがっていいぜ。」
「すいません。」
「なあに、いいって。持ちつ、持たれつ…て奴さ。それにしても…」
中沢は興味津々という顔で
「あの金髪美少女はいったい誰なんだよ?店に入ってきた時はモデルか芸能人かって思ったぜ。いいよな、碇は美人の知り合いが多くてさ」
「……………………………………。」
「まあ、野暮なことは言わないから、今度来たら俺のことも紹介してくれよ。」
「はあ、まあ……」
シンジは曖昧に言葉を濁すと中沢に挨拶して店を出ていった。
『どうして、アスカがここにいるんだろう?アスカはドイツにいるんじゃなかったのか。それに何で金髪なんだろう。本当に分からないことだらけだ…。』
シンジはアスカと向かいあったが、何も喋れなかった。
アスカに言いたいこと・伝えたいことは山ほどあったはずだったのだが、再会が急すぎて、まったく心の準備が出来ていなかったからだ。
アスカの方もシンジに対して何も言えなかった。
明らかに戸惑いを含んだシンジの黒い瞳を見ると、恐くなってつい俯いてしまう。
マヤはほぼ自分の想定通りに進んでいる二人の再会劇を満足して見守っていたが、
「ごめんなさいね、シンジ君。アスカが日本に戻ってくることを黙っていて…。突然会った時のシンジ君の対応を見てみたくて、つい黙っていたの。」
悪戯ぽい目でマヤはシンジに謝ってみせた。
その言葉にシンジは
「べ…別にいいですよ、マヤさん。それよりどうしてアスカが日本に戻ってきてるのですか?理由を聞かせてくれるとありがたいんですけど…。」
マヤはその言葉に頷いて、表向きのアスカの来日の理由について説明した。
「研修ですか…。」
その時のシンジの黒い瞳はやや沈んでいた。
そしてほんの一瞬だが、アスカは僕に会いにきてくれたのでは…と考えていた自分自身に赤面した。
『そうだよな…。やっぱり、僕にわざわざ会いにきてくれたなのて考えるのは己惚れだよな。僕は3年前にアスカに愛想を尽かされて見捨てられたのだから…』
やや自嘲するようなシンジの表情からはバイト中に無意識にアスカに見せていた明るい色は完全に消えていた。
その事を敏感に感じ取ってアスカの表情も暗く沈んだ。
『あたしだと知ってからシンジの表情が暗い。やっぱり、シンジはあたしに会いたくなんてなかったのかも。』
マヤは二人の雰囲気がマヤの望む方向に向かっているのを感じ取ると、そのまま一気に場を支配しようと考えて
「でね、シンジ君。今日わざわざアスカを連れてきたのは、アスカがシンジ君に謝りたいっていうからなのよ。」
「謝る?、僕に?」
シンジが意外そうな顔でマヤに尋ねる。
マヤはアスカの方も見ると
「そうよ。アスカ。ほらシンジ君に謝りたかったんでしょう?だったら早くしなさい!」
と有無を言わせない強引な表情でアスカを急かした。
アスカは、まだ、まったく気持ちの整理が出来ていなかったが、こう事態が推移しては黙っているわけにはいかなかったので…
「あ……あの…、シンジ…。本当にごめんなさい。そ…その、3年前に色々酷いコトして…。謝ってすむようなコトじゃないのはわかってるの。けど、あたしには謝ることしか出来ないの。本当にごめんなさい。」
とやや脅えた表情でシンジに頭を下げた。
シンジはアスカの態度に呆然としている。
シンジの知っている蒼い瞳の少女はプライド高く意地っぱりで何よりも人に頭を下げるのは苦手じゃなかったのか…。
サードインパクト前ですら、シンジはアスカから色々意地悪されていたが、その時ですら、アスカがシンジに頭を下げた記憶は一度もなかった。
そのシンジの戸惑いに付け入るようにマヤがシンジに声をかける。
「ねぇ、シンジ君。怒っているあなたの気持ちも分かるけど、アスカを許してあげなさいよ。アスカもドイツに戻ってから、新しい恋人が出来て人並みに幸福を味あうことが出来てようやく自分がシンジ君にしたことを反省できるようになったのよ。」
「マ…マヤ!?」
アスカが非難の声を上げたが、マヤはそれを無視した。
シンジはマヤのその言葉にちくりと胸が痛んだが、アスカが素直になった理由については何となく納得することが出来た。
そしてようやく気持ちが落ち着いてきたシンジは再びアスカに向き直る。
アスカはシンジの黒い瞳に射抜かれてビクッと体を震わせる。
そして、シンジはようやくアスカに声を掛けた。
「アスカ、3年前のことなら気にしなくていいよ。」
「えっ?」
アスカの意外そうな顔にシンジはかえって申し訳なさそうな顔をして
「だって、僕の方がアスカによっぽど酷いことをしてきたから…。だから本当に謝らなきゃいけないのは僕の方なんだ。だから、アスカが僕を憎んだのも、僕に愛想をつかして離れたのも今なら本当に納得できるよ。だから気にしないでいいよ。」
「シンジ…。」
「それより、アスカ。一つだけ聞きたいことがあるんだ。」
「えっ?、何を?」
シンジはいつになく真剣な表情でアスカを見つめている。
そのシンジの凛々しい表情に再びアスカは自分の鼓動が早くなるのを感じた。
「アスカは今本当に幸せなの?」
「えっ?」
シンジはやや哀愁を漂わせて俯くと
「3年前からいつも、そのことがずっと気になっていたんだ。僕のせいで、アスカの人生を無茶苦茶に壊してしまったんじゃないかって…。マヤさんの言葉を疑っているわけじゃないんだけど、アスカと二度目の共同生活を営んだ時のアスカの表情が目に焼き付いていて離れなかったから…。」
その言葉にアスカの胸がズキリと痛んだ。
恐らく自分がもっとも醜い表情と感情をシンジに見せ続けていた時期が最も強くシンジの印象に残っているという事実がアスカにはつらかった…。
無論シンジはそんなアスカの心の葛藤には気づかずに
「だから、アスカの口からどうしても聞きたかったんだ?アスカは本当に今幸せなの?」
再びシンジは真摯な目でアスカに尋ねる。
「あ…あたしは……………」
しばらく続く沈黙。やがて…
「幸せよ。」
アスカはそう答えるしかなかった。
自分が今、不幸だと言うのは、サエコの自分に対する愛情を侮辱することになるからだ。
「そう。」
シンジはやや安堵したような表情をしていたが、内心密かに落胆していた。
『幸せか…。結局、僕なんかいなくてもアスカは幸せになれたんだな。アスカを支えられるような強い男になろうと努力してきたけど、全部無駄だったのかな。いや、始めっから僕にはアスカの隣にいる資格なんてなかったのかもしれないな…。だって、結局僕は最後までアスカを傷つけることしか出来なかったのだから。』
シンジはマヤの巧みな誘導により、アスカの幸福が母から与えられたものではなく、新しい恋人から与えられたモノだと錯覚していた。
『それに僕が3年間引きずっていた想いは、あくまであの後アスカが幸せになれたかという負い目を恋だと勘違いしていただけなのかもしれない。だったら、アスカが今幸せだというのなら、きっと潔く身を引くべきなんだ。ミサトさん達には申し訳ないけど、アスカが幸せだったらきっと許してくれるよね。』
シンジはそう決意すると、やや無理した笑顔でアスカに微笑んで
「そう、本当によかった。アスカが幸せそうで…。3年間そのことがずっと気になっていたんだ。これでやっと僕の肩の荷も降りたよ。」
「シンジ…」
シンジは恐らくアスカも自分に負い目を感じているのだろうと察して、にっこりと微笑むと
「アスカ、僕も今は幸せだよ。つらいこともいっぱいあったけど、今は元気でやってるよ。だからさ、お互い、もうこれ以上3年前の事は引きずらないで、これからはもっと前向きに生きていこうよ。」
シンジはむしろ自分自身に言い聞かせるように、そうアスカに自分の気持ちを伝えた。
「シンジ…」
シンジの繊細な笑顔を見ていると、アスカはどんどん自分の胸の鼓動が高まっていくのを感じた。
自分自身を抑えられなくなってくる。
アスカはドイツを発つ前のサエコの言葉を思い出す。
『言わなきゃ…。今、言わなきゃ…。あたしの本当の想いをシンジに伝えなくちゃ…』
「あ…あのシンジ…」
やや、赤くなってアスカがシンジに声をかける。
「な…何?」
「あ…あたしね…。もう一つシンジにどうしても伝えたいことがあるの…」
そう言ってアスカは俯いた。
「あ…あたしね。シンジのことが…」
その時、無粋な邪魔が入った。
「さてと、それじゃそろそろ遅くなってきたから戻りましょうか、アスカ」
アスカの行為を敏感に察したマヤが絶妙なタイミングで横やりを入れた。
「マ…マヤ!?」
アスカが訴えるような目でマヤを見る。だがマヤはそれを無視して
「とりあえず、シンジ君に謝るのが今回の目的だったはずよね、アスカ?それ以上のことは望んでいなかったはずじゃなかったっけ?」
嫌みっぽい口調でマヤがアスカに尋ねる。
そう言われるとアスカは押し黙るしかなかった。
シンジは呆然と二人を見ている。
マヤはシンジに微笑みながら、
「それじゃシンジ君。遅くまで引き止めて悪かったわね。私はこれからアスカを宿舎へ送っていかなきゃいけないから、これで失礼するわ。それじゃいきましょう、アスカ」
と言ってマヤはMS−6のドアを開けた。
アスカは名残惜しそうにシンジを見つめたが、
「それじゃ、シンジ。またね…」
と寂しそうに挨拶して、助手席に乗り込んだ。
しばらくして、シンジはヘルメットを被って自分のバイクにまたがると
『さっき、アスカは一体何を言うつもりだったのだろう?』
と、自問した後、バイクを走らせて帰宅した。
マヤの運転するMS−6は渋滞にも巻き込まれずに快調なペースで宿舎への道を走っている。
車内でアスカはずっと俯いたまま押し黙ったままだった。
マヤはちらりとアスカを見て声をかける。
「3年ぶりに会ったシンジ君の印象はどうだった、アスカ?」
「……………………………………………。」
アスカは何も答えない。
「随分カッコ良くなったと思わない?」
「そ…そうね。」
アスカがようやくポツリと答えた。
マヤはさり気なさを装いながら爆弾を投下させる。
「今ではシンジ君は学校ですごいもてるみたいよ。もっとも今のシンジ君には迷惑以外の何者でもないでしょうね。霧島マナちゃんというれっきとしたガールフレンドがいる今ではね…」
「えっ!?」
アスカが驚きの声を上げる。
「き…霧島マナ!?」
「えぇ、そうよ。」
「そ…そんな霧島さんって確かあの事件で死んだはずじゃ…」
「実は生きていたのよ。そして2年前に姿を現したのよ。それはもう感動の再会だったらしいわ。それはそうよね。死んだと思い込んでいたかつての恋人に再会できたのだから…。」
「………………………………………………。」
「私もシンジ君の保護者として、シンジ君の隣にいるのがマナちゃんなら安心して見ていられるわ。マナちゃんは素直だし、一通りの家事は出来るみたいだし、そして何より絶対にシンジ君を傷つけたりしないでしょうからね。」
そのマヤの最後の一言がずきりとアスカの胸に突き刺さった。
アスカの蒼い瞳は完全に暗く沈んでいた。
やがて宿舎の前に着いたのでマヤは車を止めると
「着いたわよ、アスカ」
と言ってアスカを降ろした。
「それじゃ、アスカ。研修の詳しいことは委員会の本部で話すからまた後でね…」
と言うとマヤは車を発進させて宿舎から離れていった。
アスカは宿舎を見上げる。
そこはかつてシンジとアスカがほんの一月ほどだが二度目の共同生活を営んだ場所だった。
そしてアスカは
「霧島マナか…」
と呟くと宿舎に入っていった。
自分のマンションに着いたマヤは、シャワーを浴びてバスローブを纏うと髪をドライヤーで乾かしながら、今日の出来事を思い浮かべた。
『色々、脅かしてあげたけど、あの程度であきらめるようなタマじゃなかったはずよね、あの娘は。けど、よく覚えておきなさいよ、アスカ。例えシンジ君があなたを許したとしても私は絶対にあなたを許さないわよ。かつて私のかわいい弟を殺しかけたあなただけはね…。』
マヤはシンジが精神崩壊を起こした時の絶望と悲哀を思い浮かべる。
そうすると改めてアスカに対する憎悪がふつふつと沸き上がるのを感じた。
『さてと…、念には念を入れておきましょうかしら』
マヤはそう決意するとシンジのマンションに電話を掛けた。
「はい、碇ですけど。」
「もしもし、シンジ君、私よ。」
「ああ、マヤさんですか。どうしたんですか?」
「さっきはちょっとアスカの前では話せないことがあったのよ、聞いてくれる?」
「別にいいですけど、何をでしょうか?」
「いい、シンジ君。アスカのこれからの行動には注意してね。」
「注意するって何をですか?」
「さっきはああ言ったけど、アスカがどうして日本に戻ってきたのかアスカの真意は不明分なのよ。もしかしたらアスカは3年前の続きをしにきたのかもしれないわね。」
「続きって?」
「だから復讐の続きよ」
さり気なくマヤはシンジに毒を吹き込んだ。
「………………………………!?」
マヤの一言にシンジは驚いているのだろう。しばらくは無言のままだった。
「ほら、アスカってシンジ君のことを心底憎んでいたじゃない。だからシンジ君が幸せそうに暮らしているのが許せなくてそれを壊しにはるばるドイツから来たのかもしれないわね。」
「そ…そんな、まさか………。」
「もちろん本当のところは私にはわからないわ。私はエスパーじゃないから、あの娘の心の中を読むなんて出来ないからね。ただ、にっこり笑って油断させておいて、突然寝首を掻くのがあの娘のやり方みたいだから、一見しおらしく見えても油断しない方がいいと思うわよ。」
「…………………………………………。」
「まあ、それは3年前に十分身に沁みてわかっていると思うけどね。とにかくあの娘があなたに何を言ったとしても、鵜呑みしないでしばらくは様子を見たほうがいいと思うわよ。話はそれだけよ。それじゃおやすみなさい、シンジ君。」
マヤはさんざんシンジの心に疑惑の種を放り投げると、そのまま電話を切った。
そして、シンジは受話器を握り締めたまま、やや呆然としていた。
「アスカがまだ、僕のことを憎んでいる?」
しばらくシンジの心からその疑問が消えることはなかった…。
その頃アスカは宿舎の自分に割り当てられた部屋で、簡単に荷物を整理しながら今日の出来事を思い浮かべていた。
ようやくアスカはシンジとの再会を果たした。
だが、それは悲しい再会だった。
アスカはシンジと再会して改めて自分の本当の想いを確認することが出来た。
自分がどうしようもないくらいシンジのことを好きだという事実を…。
だが、3年前に出来た溝は果てしなく深かった。
アスカは先ほど会ったばかりのシンジの透明感のある笑顔を思い出す。
アスカの胸がキュンと痛む。
そしてアスカは自問する。
どうしてよ? シンジ?
昔のままでよかったのに…
冴えない顔して、なよなよした頼りないあんたでよかったのに…
そのままだったらあたしだけがあんたを見ていられたのに…
どうしてこんなにかっこよくなっちゃたのよ…
これじゃみんながあんたのことを見ちゃうじゃないの…
あたしもあんたから目をそらすことができない…
日本に来てシンジに明確に拒絶されればシンジのこと諦められると思ってた…
けど、もう駄目!
シンジのことを考えるだけでドキドキして夜も眠れない
あたしもうシンジから離れられない
もうシンジなしじゃ生きていけない
もうあたしにはシンジの恋人になる資格なんてないのに…
どうして日本に来てしまったんだろう…
もう一度シンジに会わなければこんなつらい思いをしないですんだのに…
ねえ、ママあたしどうすればいいの?
どうすればシンジに許してもらえるの?
ママ…。
それからアスカはサエコに国際電話を掛けた。
「もしもし?」
「ママ、あたし…」
「アスカなの?」
「うん、今、宿舎から掛けてるの。国際電話だからあまり長電話は出来ないけど…」
「そう、それじゃ、手短に聞くわね。シンジ君には会えたの?」
「うん。会えたよ。シンジはあたしのことを怨んでいないって言っていた…。」
「そう、よかったわね、アスカ。……………ってその割にはあまり嬉しそうじゃないのは気のせいかしら?」
「………………………………………………………。」
「………………まあいいわ。それよりどうだったの?」
「えっ?、何が?」
「だから、シンジ君よ。3年ぶりに会ってみた感想はいかがなものかしら?人はだいたい長い間会っていないとついつい理想を重ねちゃうものだから、アスカの中でのシンジ君像はきっと思いっきり美化されていたと思うから、実物に会ってみて幻滅しちゃったんじゃない?さっきから元気がないのはそのせいかしら?」
「ううん、そんな事ないよ。それに会ってみてはっきりと確信したの。やっぱりあたしはシンジの事が好きだって…」
「そう、それじゃ精一杯頑張りなさいね。私は何も手助けできないけど…」
「うん、ありがとう、ママ。それじゃそろそろ切るね。」
「ええ、アスカ。辛いことがあったら何時でもあたしに電話してね。コレクトコールでもかまわないから…」
「うん、分かった…。おやすみ、ママ」
「………………………………、そうね、日本はもうそんな時間なのね…。おやすみ、アスカ」
アスカは電話を切ると、そのまま寝間着に着替えて、ふとんを敷きはじめた。
そしてそのままゴロリと横になる。
そして電気を切ると、久しく忘れていた闇の恐怖がアスカに襲いかかってきた。
『やっぱり、一人で寝るのは恐い…』
アスカはふとんの中で縮こまって脅えている。
「そうだ、ママのことを考えてればいいんだ…。そうすればきっとママがあたしを守ってくれる。」
ママ、あたしを守ってね…。
ママ…………。
ママ…………。
ママ…………。
ママ…………。
ママ……。
ママ。
:
:
:
マ…
:
:
:
………………ジ。
:
:
:
:
:
………ンジ。
:
:
:
:
:
………シンジ。
:
:
:
シンジ。
:
:
:
:
……………………………………………。
その夜、アスカはかろうじて悪夢を回避することが出来た。
つづく…。
けびんです。
今回はシンジとアスカの感動の再会編のはずだったのですが、何やらマヤちゃんに食われてしまった印象が強いですね(^^;
さて、すでに一部のアスカ人からマヤに対する怒りのメールが届き始めていますが、今回で恐らくマヤちゃんに対するアスカ人の怒りは臨界点に達したことと思われます。
ただ、別に弁護するつもりもないのですが、僕自身はマヤのアスカに対する行動は良識ある大人の対応だと思っています。(どこが!?…と突っ込まれても困りますけど)
まあ、いずれにしてもマヤちゃんは霧島マナちゃん以上の強敵として最後までアスカの前に立ち塞がるのは確実です。(笑)
さて、これで何とか二人も再会を果たせたのでこれから学園エヴァをベースにして(いつまで続くか分からないけど)お話を進めていきたいと思っています。
ようやく後章の舞台配置が全て完了したような気がします。
あと、近いうちに外伝とかも書いてみたいと思ってます。
では次は第十五話でお会いしましょう。
ではであ。(^^;
けびんさんの『二人の補完』第十四話、公開です。
タイトル。
”再会”
お、やった〜 やっっとだよー
”悲しい”
げ、そんな〜 まだかいなー
タイトルを見たときの私のコ・コ・ロ(^^;
マヤさん、あぶねぇ・・・そんなふう
一時期のアスカを見ているような感じすらしました(^^;
どうなっちゃんでしょうね。
さあ、訪問者の皆さん。
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