権力の館を歩く

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吉田茂の「目黒公邸」=御厨貴

 ワンマン宰相吉田茂は永田町の首相官邸には目もくれず、「目黒公邸」で政務の一切を取り仕切った。旧朝香宮邸を転じた絢爛(けんらん)たる館から占領当局と対決した意気に比べれば、支持率の急落に右往左往する昨今の政治家など何ほどのこともない。今は東京都庭園美術館へと変わった、「大磯御殿」とも趣の異なる旧公邸の空間に身を置いて、御厨貴・東大教授が吉田政治を再考する。

 ◇ワンマン好みの宮様建築 非制度の神通力消え、大磯へ去った日

 絶大なる権力者が、最後には「側近」にまで見放されて、四面楚歌(そか)の中で権力の座を追われる。「なぜだ!」と言ったか否か、権力の崩壊は古今東西、人々が最も好んで見たがるドラマだ。劇的であればあるほど、人々の留飲が下がるというものだ。しかも権力の館が同時に権力者(、)の館でもあった場合、ビジュアル的にも権力の崩壊状況がぐっと見る者の身に迫ってくる。戦後アジアや中近東の国における独裁政権の崩壊の歴史をふり返る時、我々は容易にそれを想起できよう。あのマラカニアン宮殿を追われたフィリピンのマルコス大統領夫妻の姿を思い出すまでもなく……。

 実は戦後日本にも同様のドラマがあった。えっと驚くなかれ、今まさに四面楚歌の中にある麻生太郎首相の祖父、かの宰相吉田茂の追放劇がそれだ。しかも吉田は「首相官邸」から追放されたのではないのだ。おっと先を急いではならない。追放劇を語る前に、吉田政治に潜む建築と政治に即した“動線の力学”を考察する必要がある。そこに連載第一回の「大磯御殿」と双璧(そうへき)をなす「目黒公邸」(注1)の姿が、鮮やかに我々の視野の中に立ち上がってくるのだ。

    □     ■

 「目黒公邸」は旧朝香宮(注2)邸であり、現在は東京都庭園美術館となっている。戦後すぐの朝香宮の窮状を見かねた昭和天皇の示唆もあり、幣原内閣外相時代の吉田が借り上げを決定し、新憲法下の第二次吉田内閣以来六年間、「外相官邸」「外相公邸」「首相公邸」といくつもの名称を持つ吉田の権力の館であり権力者(、)の館となった。もっとも旧憲法下の第一次吉田内閣時代は、これまでの首相と同じく永田町の首相官邸が吉田にとっての権力の館に他ならなかった。だがここで吉田は、鳩山派など党人派が牛耳る自由党の面々や、必ずしも吉田の意に従わぬ閣僚たち、それにあれこれ押しかけてくる人たちでごったがえす、ワイガヤの首相官邸にほとほと手を焼いたらしい。しかも、ほこりっぽくて、ベトベトして非衛生的で、とても住めるようなところではないと考えられた。

 だからその後野党時代の一年半、亡き近衛文麿元首相の荻外荘(てきがいそう)を借りて、近衛が自裁した寝室で寝とまりした吉田には、次の宰相像を戦略的に編み出す時間的余裕があった。吉田は一九四八年十月首相に返り咲くや、間髪をおかず「目黒公邸」を、兼任する外相の「外相官邸」として権力の館とするのみならず、「首相公邸」として自らの権力者(、)の館と定めた。そして翌年の総選挙での大勝を追い風としながら、吉田は「目黒公邸」を中心とする“動線の力学”を構築していく。吉田は「目黒公邸」にあって、新憲法で実現した数を背景とする“強い首相”と、旧憲法以来の宮中を背景とする“臣茂としての首相”を両立させることをねらった。そのためにこそ、「国会」「民自党」そして「首相官邸」すらも相対化する新たな“場”の設定が必要だった。

 「目黒公邸」における「外相官邸連絡会議」、通称「朝飯会」こそが、“動線の力学”の核に他ならない。官房長官、官房副長官、民自党幹事長をコアとし、池田勇人、佐藤栄作ら「側近」をアドホックに、白洲次郎や麻生和子が「身内」として参加した。ここで毎日すべての重要政策を決定し、閣議、次官会議、民自党に伝達するという“動線の力学”が成立する。

 一九三三年にパリ文化に親しんだ朝香宮夫妻が建築にも深く関与した白金台の宮邸が完成。フランスのアール・デコ建築を模し日本的要素も入れた一九三〇年代東京の代表的建築の一つである。後に宮内省庁舎建築にあたった宮内省内匠(たくみ)寮(りょう)の技師権藤要吉(ごんどうようきち)(注3)も関(かか)わっている。奇(く)しくも権藤は一九二五年の欧米建築視察でアール・デコ建築に接したばかりか、朝香宮夫妻とも会い、途中からは晩年の吉田茂の大磯御殿の改築にあたったあの吉田五十八(いそや)とも合流する。

 「目黒公邸」へと運命の糸がまるで吉田茂を呼びこんでいるようではないか。この館はすべてが吉田好みであった。とりわけ吉田が好んで使った二階の書斎と居室、一階の次室・小客室・大広間・大客室・大食堂は、すべてフランス人の内装によるものである。吉田の二階書斎からは二つの窓から広大な庭と玄関、そこに至る道をはっきりと見渡せる。誰が来るのかがすぐわかる。首相官邸ではこうはいかない。首相執務室は裏二階の奥まった一角にあり、そこからはわずかに玄関と反対側の庭を見ることができるだけだ。いくらライト風とはいえ、暗いレンガの採光の悪い建築である。

 対する「目黒公邸」は宮様建築。正面玄関で来訪者を迎え入れるレリーフの女神、美しい曲線を描く天井からこぼれ落ちる間接照明の暖かさ、こだわりの限りを尽くす照明器具によって生み出される多様な光、天井の高い階段に燦々(さんさん)と降り注ぐ陽光、広大な庭を見渡せる日向(ひなた)でポカポカの南側ベランダ、夏でも涼しくすごせる北側ベランダ……何とこれは「光の館」なのだ。しかも広く美しい庭を自在に歩きもの思いにふけることができる。まさにわがまま放題で「普請道楽」「政治道楽」にふける吉田に、これ以上の館はない。

    □     ■

 非制度的な主体を吉田は好んだ。閣議や各種会議で制度的役割を果たすことが何よりも嫌いだった。だから閣議では各大臣に皮肉やシャレを飛ばしてのユーモア三昧(ざんまい)をわざとやる。非制度的な「朝飯会」ですべてを決め、非制度の極みたる「目黒公邸」から“動線の力学”を機能させる。翻って非制度の「目黒公邸」では、ここをわがものとした吉田のわがままがすべてを支配する。首相官邸と異なり正面玄関以外の通用口の番小屋に記者が押し込まれているのは愉快この上もない。訪れる者すべてを吉田が差配するのだから。

 しかしやがて「目黒公邸」の“動線の力学”も機能不全に陥る。六年を経た後、非制度の主体たる吉田は、一九五四年師走、制度中の制度たる閣議を「目黒公邸」に呼び寄せる。しかし一階の大広間、大客間、大食堂に陣取った閣僚や自由党長老など、すべて反吉田の言辞を弄(ろう)し、吉田の言うことを聞こうともしない。遂(つい)に「目黒公邸」でも吉田の神通力は失(う)せた。無礼者のワイガヤの世界が何とここをも占拠した。こう悟った時、吉田は「閣議」に戻らず、「首相官邸」「国会」は言うに及ばず、わがもの「目黒公邸」をも自らの意思で捨て去り、「大磯御殿」に疾走していったのである。(みくりや・たかし=東京大教授、日本政治史、建築と政治)=毎月第3水曜に掲載します

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 (注1)目黒公邸

 東京都港区白金台5の21の9に所在。鉄筋コンクリート造り地上2階(一部3階)、地下1階。建築面積約1048平方メートル。第1次吉田内閣の1947年から外相官邸となり、第2次から第5次の48~54年、「目黒公邸」として本格的に機能した。83年、美術館に。来年1月12日まで「1930年代・東京--アール・デコの館(朝香宮邸)が生まれた時代」展を開催している。

 (注2)朝香宮家

 久邇宮(くにのみや)家第8王子鳩彦(やすひこ)王が1906年に創設した宮家。パリ郊外で事故に遭い、看病のため急きょ渡欧した妃殿下と25年に開催されたアール・デコ博覧会を訪れたことが、邸宅建設につながった。

 (注3)権藤要吉

 1895~1970年。名古屋高等工業学校卒。住友総本家を経て宮内省内匠寮へ。李王邸、学習院校舎などを設計した。

毎日新聞 2008年12月17日 東京朝刊

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