■なぜ100年後?
ぼくには、ゲームを芸術の一分野にしたいという夢があります。
ゲームはその起源と性質から「エンタテイメント」として認知され、発展してきました。
ですが、説明の必要もないほど、ゲームデザインという営みとその結晶であるゲーム作品は、様々なかたちの美と感動を内包した
「芸術品」と呼ぶに相応しいものです。
また、ゲームを構成している要素……設計、シナリオ、システム、サウンド、イラスト……はどれをとっても芸術分野として認知されています。
(あ。システムは唯一芸術とは言われていませんね。本当に惚れ惚れするほど「芸術的な営み」なんですが、これは数学的な美しさの部類ですね)
では、それらの集合体であるゲームが、なぜ芸術と認知されないのか?
それは端的に、社会的背景と、コンピュータゲーム業界がまだ過渡期にあるからという歴史的な問題で、うまくすれば50年後には一つの文化として成熟し
、芸術としての地位を確立している可能性は高いです。
が、万が一そうなっていない可能性もあるでしょう。
ゲームが芸術視されていない未来というのは、ぼく的にとてもつまらないので、じぶんで取り組むことにした次第です。
文化は放っておいても勝手に育つものなので、ゲーム文化が自然発生的に芸術と認知されていく社会的側面はあるでしょうし、そうなった暁には「ゲーム芸術活動」も流行になるでしょう。
だから、今くらいから創めておけばちょうど良いかな、と思いました。
芸術そのものの存在は普遍ですが、そこに明確なひとの意図が介在しない限り、
社会的な意味合いでの芸術文化には発展しません。
売る為に創られたゲームは、何か奇跡でも起こらない限り、どこまでいっても「売る為に創られたゲーム」という社会的な認識の枠組みを超えることはありません。
日本人が普通にゲームを芸術ととらえているような未来をぼくは好きだなぁ。と思うわけです。
だから、100年ほどかけて、日本の中で「ゲーム芸術文化」を育てていきたいと考えています。
まったくもって抽象的な話です。
ぼく自身、この活動の行く先はまったく見えていません。
もちろん、ぼくひとりの力はとてもとても小さなものですが、社会に一陣の風を起こすには、ひと一人の人間の力は充分かとも思うのです。
その風が大きな風になって社会を動かすには、多くのひとの力が必要です。
でも、ぼくが死ぬまでのあと50年ほど。これだけの時間があれば、何かしら実現できるだろうと夢想しています。
そういうわけで。
100年後のゲーム芸術文化をビジョンとして、今日も活動します。