+ C amp 4 +

2009-03-14

[]村上春樹氏のいう正論原理主義っていうのは 村上春樹氏のいう正論原理主義っていうのは - + C amp 4 +  を含むブックマーク

活字中毒R。

経由で

先日の朝日新聞が伝えた村上春樹氏の発言を読むことが出来た。

ネット上にはびこる正論原理主義ってどういう意味だったのか。

【ネット上では、僕が英語で行ったスピーチを、いろんな人が自分なりの日本語に訳してくれたようです。翻訳という作業を通じて、みんな僕の伝えたかったことを引き取って考えてくれたのは、嬉しいことでした。

 一方で、ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思うのは、ひとつには僕が1960年代の学生運動を知っているからです。おおまかに言えば、純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残り、自分の言葉で誠実に語ろうとする人々が、日和見主義と糾弾されて排除されていった。その結果学生運動はどんどん痩せ細って教条的になり、それが連合赤軍事件に行き着いてしまったのです。そういうのを二度と繰り返してはならない。

 ベトナム反戦運動や学生運動は、もともと強い理想主義から発したものでした。それが世界的な規模で広まり、盛り上がった。それはほんの短い間だけど、世界を大きく変えてしまいそうに見えました。でも僕らの世代の大多数は、運動に挫折したとたんわりにあっさり理想を捨て、生き方を転換して企業戦士として働き、日本経済の発展に力強く貢献した。そしてその結果、バブルをつくって弾けさせ、喪われた十年をもたらしました。そういう意味では日本の戦後史に対して、我々はいわば集合的な責任を負っているとも言える。】

これに対して、引用した上記ブログ主はまず次のように理解しました。

 ここで村上さんが語られている「正論原理主義」というのは、【純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす】ことのようです。

 そして、その「正論原理主義者」たちは、「反対派」だけではなく、言葉を慎重に選んだり、いろんな立場の人々のことを慮ったりしてなかなか口を開けない人たちを「日和見主義者」だと強く批判して押しつぶしたり、追い出してしまう。

 そして、「正しさ」はどんどん先鋭化して、「異端を排除する」ことにばかり向かっていくのです。

 結果的には、社会を変革することよりも、内部での「正しさ比べ」になってしまい、それについていけない人たちは脱落していくばかり。

 それでは、どんなに「正論」を主張していたとしても、世界を変えるにはあまりに少ない人々の力しか集められません。

ああ、なるほど、こういうふうに理解する人は多いんだろうなと私は思いました。

でも、ぼくはこれだけが正解だとは思わないんですね。このブログ主がつづけて結語部分でいうように

 「正論」って、ある種の人々にとっては、流行の服みたいなものなんだよ、たぶん。

という部分に対する反省が大切なのかと思います。

先鋭化した人たちが社会改革のリーダーになり損ねたという問題だけじゃないんですね。むしろ問題は先鋭化しかなった人たちなんです。

運動のマジョリティは必ずしも先鋭化していません。異なる意見をそれほど排除もしていません。しかし先鋭化した正しさに寄り添おうとする態度だけはもっています。しかし、もしかすると99.99%誰も先鋭化などしてすらいないかもしれないのです。つまり極端に言えば、正論原理主義には実体がない、神みたいなものです。

その神に対するコミットメントが非常に不誠実で、欺瞞に満ちている、そこにこそ問題があるのではないでしょうか。

かつての学生運動では、わずかに実体化された存在は膿となって、殺人事件を引き起こした。

しかし、今日、ネットの正論原理主義には、それに寄り添おうとするマジョリティの空気だけが漂うのみです。

幸か不幸か先鋭化してしまった例外的な人たちがいるとすれば、今すぐパレスチナに行ってくればいいんです。自分の主張の根拠を拾いに。それがおのれの実存と一致する最善の方法です。

問題は何の根拠もなく、パレスチナの人たちとの現実の接点をもたずに、パレスチナだ、ガザだ、人権だと漠然と騒いでいる、ごく普通のひとたち(私たち)の”寄り添い”こそが問題なのです。

直接体験が大切だとか、直接の利害関係がなければ何も語るべきではないという意味ではありません。

そうではなくて、間接的な利害関係しか持ち得ない自分たちの弱さ、そして自らの主張の根拠を壮大な理想(原理主義)に置きながらもつかず離れず、正義が何かまがまがしさをみせつけたときに、決して自分たちが原理主義者と共犯関係にあることを認めようとしない卑劣さ、こうしたことを反省することによって、あふれる正義をなだめすかすべきじゃないのか?といいたいのです。

私たちがコミットしている正義がまがまがしさを発揮したときだけ、正義を拒絶し、美しくみえたときだけコミットメントを表明する、といった欺瞞を反省する必要があるのではないのかというのが本エントリの趣旨です。きれいに正義と付き合え、という意味ではありません。ダーティに扱わざるを得ない現実があっても率直に認めていこうよということです。



自分自身の不在〜傲慢さ

村上氏に授賞式辞退をリクエストしたネット上の運動についてひとつだけ振り返らせてください。

私の結論としては、村上氏がネットの正論原理主義に言及した時点で、効果的なお願いの仕方とはいえなかったと思います。

私の知るところでは、最初に大きなインパクトをあたえたリーディングケースは以下の記事でした。これに対する反響は大きく、レターの翻訳が次々にだされました。

P-navi info : 拝啓 村上春樹さま ――エルサレム賞の受賞について

私はこの記事が述べているイスラエルとパレスチナの状況(事実)について、その9割くらいは、非常に共感的に読んでいました。南アフリカのアンチアパルトヘイト運動について言及された部分についても、実際に運動に微力ながら携わった身としては、異論がないわけではありませんが、おおむねよしとしています。

ところが、村上氏に当てたレターのなかにおいて、たった一点だけ、私には到底受け入れられない主張がありました。

それは、

エルサレム賞スーザン・ソンタグが取った対応をあなたも取ることは可能です。

という主張とともに、

しかし、賞を辞退するのも、あなたが共犯者とならないですむひとつの方法です。

と述べているくだりでした。

つまり、これ以外の対応をとると、村上氏は共犯者になるのだというわけです。

この失礼さ、あるいは傲慢さを理解できないような人間とは、私はそりが全く合わないと思います。

判らないという方は、このエントリが何をいわんとしているかこの先読み進めても全くつかめないと思います。価値観の違いといってしまえばそれまでですが。

慇懃なレターなだけに、始末に悪く、あまりにひどいと思いました。

第一に、その共犯理論はあまりに恣意的です。何にでも都合よく適用されかねません。同じ理屈がどれくらい他のケースに当てはまるか想像してみてほしいものです。村上春樹を共犯者だというなら、私たちも共犯者だというべきです。

第二に、そこに書き手自身のポジションがみえないということです。

もし、この手紙を村上氏の目に留める前に校正するべき点があるとすれば、それは

自分自身ももちろん共犯者だというコミットメントを付け加えることです。

もちろん匿名ではなく社会的に通用している名前(実名)で。

あるいは、自分の無力さ非力さを謙譲の念をもって伝えることです。

自分たちは、平穏な日本で暮らしており、ネットで何を書こうとイスラエルの政治的リーダーの目に留まることはないだろうし、何のプレッシャーもありません、ですからそんな立場にいながら、責任の重い事柄を村上氏にお願いするには大変失礼かもしれませんが、と。

イスラエルの政治リーダーの面前で一席ぶってこいとか、授賞式拒否しろだとか、そういったことを本当に真摯にお願いしようと思ったら、日本の将来を憂う幕末の志士と同じくらい、自分自身もまた何かを賭してお互いに盃でも交わすくらいの気持ちがなければとても伝わるとは思えません。ちょっと大げさですが。


もちろん、書き手には当然、そういう抑制された意識があるはずだ、ということがある種の人たちの間で共通了解と期待されているのかもしれませんよ。

しかし、私にはそういう謙譲や誠意があったとしても村上氏に伝わったかどうかははなはだ疑問でした。書き言葉は抑制したつもりでもすぐに大暴走するものですし、えてして明確に伝えないとわからないものです。私が村上氏の立場だったら、こんな二者択一をつきつけられたら、むっとしてしまいます。


ちょうど2月初旬、私はこの記事をスーダンという国で読んでいて、かの国の置かれている状況と重ね合わせながら、次のようなことを書き残しました。

ところで、最近、はてなサヨク?界隈では、村上春樹氏のエルサレム文学賞授賞式をめぐって、人間万事政治的だよな、みたいな論調がやたらと目に付くが、私自身はちょっと不快感を覚える。

ガザのパレスチナ人と同じ立場にたって、そういうことをいうならいいよ。しかし、よその国の、中立的な政治的立場の恩恵を十分に享受している、きわめて安全な国や地域に暮らしていながら、「イデオロギーを自覚せよ、授賞式にでてみろ お前を共犯者とみなす」チックなことをいわないでもらいたい。自らのイデオロギーを自覚したうえで、あえて適宜に中和剤を自ら取り込みながらバランスをとり、手探りで紛争の解決の糸口を探すという戦略も文脈によってはきわめて重要なことなのだ。たとえば、それが仲裁者に求められる資質であるし、政治的中立性それ自体の価値を否定してまで、関係者に政治的エフェクトを利かせまくれ、みたいなおせっかいな一言をいいたい人たちには、もう少し冷静になりなさい、といいたい。(ま、大きな声ではいわんけど。)

http://d.hatena.ne.jp/mescalito/20090205/p1:ハルツームにて 2009.2.5

読み返してみると、村上氏のいう

その「正論原理主義者」たちは、「反対派」だけではなく、言葉を慎重に選んだり、いろんな立場の人々のことを慮ったりしてなかなか口を開けない人たちを「日和見主義者」だと強く批判して押しつぶしたり、追い出してしまう。

と共鳴するところがあるように思えますが、いかがでしょう。

また、村上氏は、講演中の出来事として、

「スピーチの途中から最前列に座っている大統領の表情がこわばってきました」

と語っています。これが村上氏にとって何を意味するかまともな想像力のあるひとならば説明を要さないでしょう。

村上春樹氏に何かをしてもらおうとお願いしていた人たちは「共犯者にならないために」村上氏が取りうる選択肢は二つだ、というお願いの仕方を率直に反省する必要があるように思います。常識的に考えて、もう少し別の誠意ある、というか気分を害さない言い方があったのでは?


主婦のブルース(1968年 中川五郎

さて、正論原理主義について、話を戻しましょう。

村上氏はかつての学生運動を念頭に正論原理主義を説明しています。

私も60年代の学生運動は多くのヒントを与えると考えています。

フォークブームの全盛期に、中川五郎というフォークシンガーがある三拍子のアイルランド民謡のテーマをヒントにして、「主婦のブルース」という名曲を世に出しました。そのなかに以下のような歌詞があります。中川五郎はアドリブで歌詞を変えて歌うので、必ずしもレコーディング・バージョンではないかもしれません。

学生と機動隊の衝突が テレビのニュースで映される

息子は今夜も帰らない わたしは心配でねむれない

息子はわたしに議論をふっかけて ”沈黙は共犯だ”と責め立てる

だけどわたしには家庭が一番 まじめに生きるのには疲れたわ

おお 人生は悩みよ ちっとも楽しくない 恋なんてしない間にふけちゃった

わびしい夢に はかない楽しみ 思い通りには何もならない

私は、あの時代の学生運動の大多数の蹉跌の本質は、これじゃないかと思うんですよね。

要するに、ヒマをもてあます学生同士以外は、結局、どの社会階層とも連帯できなかった。

この息子も母親ひとり説得できなかった。そして、なにより機動隊と衝突する自分という存在は、家庭が一番と考える母親によって支えられていた。この矛盾こそが、学生運動の先鋭化ときれいに足を洗って就職してゆくマジョリティとを分けた決定的な因子だった。

連合赤軍事件は運動のマジョリティの行く末を物語っているものではなく、自分あるいは社会の存立基盤を認めることを拒み、理想に奉じた集団の行く末の物語でした。つまり、その運動の膿を象徴していたにすぎません。本当の問題はマジョリティの挙動だったのです。

荒井由美の「イチゴ白書をもう一度」で歌われたように、まともな社会人になろうとしたら、運動から離れていかざるをえなかった。言い換えれば、オトナの運動ではなかった。

さらに橋本治氏が当時の全共闘運動を述懐して、次のように述べているのが印象深い。というか、これがファイナルアンサーじゃないかと私は最近思う。

 あれは「大人は判ってくれない」ですよね。それだけなんですよね。「大人は判ってくれない」で、なんか二年くらいドタバタやってた。で、「大人は判ってくれない」と言ってた彼らは、何を判ってもらいたかったんだろうか、ってこともあんですよね。で、何を判ってもらいたかったんだろうかっていうと「“大人は判ってくれない”と言って僕達がドタドタ叫んでいる、そのことを判ってほしい!」って風に言ってたから、ある意味でその“目的”は、自分自身の中に返ってっちゃうのね。

ぼくたちの近代史 (河出文庫)

ぼくたちの近代史 (河出文庫)

つまり、本当に主張したいことは自分たちの運動の価値を認めてほしいということだった。

だからこそ、ベトナムに行かずともベトナム反戦を容易に唱えることができたし、イデオロギーの打倒を叫ぶことが出来た。パレスチナに対するコミットメントもそう。

つねに現実の自分の問題意識と建前として掲げている理想とのギャップに常に引き裂かれていた。「イチゴ白書をもう一度」のなかで歌われた「就職」とは、そのうちどちらか一方を選べという選択に他ならなかった。

一部の人間が建前の理想に奉じる道を選択した。後者は自分の弱さを認める必要がなくなり、無敵になる。自分自身の批判の矢に対して抑制しようという動機付けを失う。なにしろ、「絶対に正しい道を俺たちは歩んでいるのだから」

そして、大多数は自分自身の弱さ(コミットメントの弱さ)を発見する道を選んだ。

おお 人生は悩みよ ちっとも楽しくない 恋なんてしない間にふけちゃった

わびしい夢に はかない楽しみ 思い通りには何もならない

しかし、日本を支えた企業戦士は、完全に転向してしまってバブルへとまい進した。振り返りもしなかった。

正論原理主義と私たちとの共犯関係

ほんとうは、正義・正論といいかげんでも矛盾を含んでいていいからつきあっていればよかったのに。

自分自身の消費者としての振る舞い政治的な意思とのギャップが大きく、矛盾していてもよかったのに。

エアコンをがんがん利かせた会議室で温暖化やエネルギー問題を議論してもよかったのに。

ただ、その人間の弱ささえみとめてさえいれば。

それを忘れた瞬間に、正義は我々を離れ、一人歩きし、悪鬼のごとくふるまうようになる。

他方、悪鬼が猛威を振るうようになると、マジョリティの側は、悪鬼とは一切関わりがありません、という態度に出たがる。


人権の理想論?

大いに振りかざしましょうよ。村上氏にあれこれ注文つけるのもひとつでしょう。

しかし、問題は、自分たちがコミットした正義が悪鬼となって暴れたときに、きちんと共犯関係をみとめていけるかどうか、そこなんじゃないかと私は思います。

redpinkredpink 2009/03/15 06:35 突然ですが。
とても共鳴しながら感動を持って読ませていただきました。
>ほんとうは、正義・正論といいかげんでも矛盾を含んでいていいからつきあっていればよかったのに。
この一文。涙が出るほど心に染み入りました。
私も心の底からそう思います。

mochizukishikoumochizukishikou 2009/03/15 10:26 文学的表現で前半はよく解らない。60年代の学生運動と学生の軌跡については、そういうクラッシックな左翼的総括は参りました。第一、学生だけで運動したから学生運動であるし、卒業して生活過程に入るのは市民社会にある限り当たり前だし、そもそもそういう過程を「転向」だという思想はおかしいと言ったわけだし、あなたは党派=前衛神話だけが運動の全てだったようなものいいですが、むしろそれを根底では信じていなかった普通の学生が<生き方の中で心地よい生き方>を模索したというふうに思っていますね。だから、反米的メンタリティーを持ちながら、もっともアメリカニズムを受け入れた。村上春樹もその一例でしよう。また、卒業後企業戦士になりつつも他の世代より多くの社会改造活動にコミットメントした活動家、労組活動家も多いことを忘れてはいけません。つまり、自分の体験や見える範囲だけでもを考えることはダメで、<思想>にしなければダメではないですか?

swan_slabswan_slab 2009/03/15 17:05 redpinkさん こんにちは。
何事にも原体験というのがあるもので、あまりにピュアな考えに傾いているひとは恐ろしいというのは、人生のなかで繰り返し経験してきました。私の友人に、戦場カメラマンを志した若者がいました。彼は当時、キャラクターの全く異なる二人の師匠と懇意にしていました。一人は華々しく活動し、帰国すれば講演会などで忙しく飛び回るタイプ。不正義に対する怒りのオーラを強く発しているタイプです。もう一人の師匠は対照的に、かっこたる思想も表明したこともなく、いいかげんで、きまぐれ。ときには仲間の失態までネタになると思えば、なんでも売り物にしてしまおうとする貪欲さを持っているタイプ。いつか私は彼に、ピュアな師匠とダーティな師匠、最終的にどちらの師匠についていきたいかと聞いたんですね。彼はもちろんダーティな師匠だと答えました。なぜなら、いいかげんだから信頼できる、というんです。ピュアな人間についていくとどこに連れて行かれるかわからないから怖いと。そうだねぇと相槌を打つばかりでした。



mochizukishikouさん はじめまして。
私も書きながら、わら人形を相手に批判を書いているんじゃないかと思いもありました。あやしい文章にかぎって、大注目をあびるというのはつらいものです。
ご指摘の点については、もう少し考えつづけていきます。今後ともよろしくお願いします。

matebumatebu 2009/03/16 01:16 こんにちは。
村上氏のいう正論原理主義には二つの方向があると思っています。

ひとつは、パレスチナに対するイスラエルの対応は過剰であり、パレスチナ人の人権を抑圧している、したがって受賞を辞退しないのは「共犯者だ」という考えを「正論・正義」とする考え方。カルデロン一家の問題でも「児童の人権最優先」を主張する考え方。「人権保護」こそがなにものにも優先される正義だという正論。

もう一つは、法律遵守と秩序の維持こそ正義である、という「正論」。イスラエルの対応は、これまでの執拗なパレスチナによる攻撃に対しては行われてしかるべきものだ、とか、カルデロン一家は強制退去されるのは今の日本の入管法と入管行政を考えれば当然の対応で、児童の最善の権利よりも優先される、それは日本の立場であるから正当である、という考え方。

僕はどちらにしても、その二つの立場や考え方の間で揺れ動く日和見的な市民として、三方一両損的な、優柔不断でも柔軟な対応がされることを望むのですが。

swan_slabswan_slab 2009/03/16 03:49 matebuさん こんにちは。
おっしゃる二つの正義をどう扱うかは、国内法的に言えば、法学とりわけ憲法学が扱う最も基本的なテーマですね。プライバシーと表現の自由とか、表現の自由と公共の福祉といった構図です。異なる利益が衝突しあうというのは、はじめから社会に内在しているわけです。そのときに、市民が一方の側に寄り添って(あるいは当事者本人が)たとえば児童の人権最優先なりを主張するとします。それを正論原理主義の怖さだといえるかというと、少し疑問があります。別の例を出します。04年にイラクで人質にとられた3人の家族が家族の命を救うために自衛隊の撤退といった高度に政治的な決断を政府に迫るといったシーンがあり、各方面から非難されましたが、この家族の主張が正論原理主義で怖いのかというと、怖くはなかったと思います。直接の利害を有する家族が切羽詰って主張していることがたとえ、総論的に受け入れられないとしても、怖いとは思わなかった。しかし彼らの対応を批判する野次馬の意見はときに激烈でものすごく怖いものもあった。その辺かなぁと私は思うのですが、どうでしょう。

kurahitokurahito 2009/03/16 12:15 藁人形といえば、P-naviの人が共犯者でないかのようなポジションをとっているという理解はどこから来るんでしょうか?
春樹は(受賞する/しない、背伸びする/しないも含めて←これ自体正論化してますよね)好きなことを喋って帰ってきたんだから、今以て遠慮することなんてないのでは?

>自分たちは、平穏な日本で暮らしており、ネットで何を書こうとイスラエルの政治的リーダーの目に留まることはないだろうし、何のプレッシャーもありません、ですからそんな立場にいながら、責任の重い事柄を村上氏にお願いするには大変失礼かもしれませんが、と。
ネットで何を書こうが小説を書こうが対等な人間でしょう。責任が重いのは状況によるものであって、お願いの質によるものではないでしょう。事実?村上は亜ソンタグ的な対応を割合気軽に?引受けたんですから。

後、<正論原理主義>という言葉に籠絡された人々の面倒は誰が見るんでしょうか?(小説家?とは限らないでしょう)

NakanishiBNakanishiB 2009/03/16 17:06  どうもすいません、お久しぶりです。最近ネットを巡回するのがきつくて(^_^;)。「文藝春秋」は読んでいませんが、議論の材料の提供ということで少しコメントします。私は村上春樹の長編小説をひとつも読んでいませんのでなるべくなら意見を書きたくはなかったのですが、以下のような批判が村上春樹氏に対してあることは書いておきます。斉藤美奈子「物はいいよう」286p〜9pです。以下の抜粋引用は全てここからです。

>全国の女性の正当な権利の確保にとって有効なことは、ほかにいくらで見つけられるはずだ、と。(「海辺のカフカ」(上)だそうですがページ数の記載なし)

 本筋とは関係のない(それゆえに強烈な)一エピソードですが
>主人公の少年が住み着く高松の図書館に<私たちの組織は女性としての立場から、日本全国の文化公施設の設備、使いやすさ、アクセスの公平性などを実地調査しております>と名のる二人組みの女が現れて、図書館員と長い問答をくり広げるのだ。
>彼女ら二人が指摘するのは<ここには女性専用の洗面所がありません、そうですね?>ということと、閲覧カードの<著者の分類が男女別になっています>の二点である。
>相手をにらみながら女はいう
<この図書館では、全ての分類において、男性の著者が女性の著者より先に来ています>
<これは男女平等という原則に反し、公平性を欠いた処置です>
>この厄介な二人組みの相手をするハメになった図書館員の「大島さん」が、自分はトランスジェンダー(性同一性障害)だととつぜんカミングアウトすることで敵を黙らせる
 このあとに上記のセリフが来るわけです。

 これについての斉藤氏の評はこうです。
>まず、NPOだかNGOだか知らないが、こんなに暇な女性の組織は、(少なくとも今の日本には存在していない)
>だのをチェックできる(しかも全国規模で)ような人員や予算をこの女性の「組織」はどうやって確保しているのだろう。
>しかし(少なくとも日本には)存在しないそんな組織が、あたかも実在するかのような錯覚を抱かせるのはなぜか。洗面所と閲覧カードが選択されたのは、それが「瑣末事」だからである。瑣末事に目くじらを立てる狭量なババアども、というのは女性の団体に向けられる最もポピュラーな視線。はっきりいえばこれは「俗情との結託」なのだ。
>誤解している人のために補足しておくと、事案別の団体はあっても、現在の日本に横断的なフェミニストの圧力団体はない。
>近年でこれに近いものがあったとすれば、1975年に設立されて96年に解散した「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」(86年以降行動する女たちの会」と改称)だろう。「私作る人、僕食べる人」のCMに抗議したことに一躍有名になった団体で紆余曲折ありつつも、NHKの女性ニュースキャスター、家庭科の男女共修、均等法、すべての彼女たちの行動なしには多分実現しなかった。
>『海辺のカフカ』がそして日本人の多くがイメージしているのはこのような団体ではないのかと思われる。
>女性の団体にも、むろん突っ込みどころがあり、やればおもしろいのである。しかしそれにはそれのツボがあり、高度な芸が要求される。
><想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ、ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム、僕にとって本当に怖いのはそういうものだ>と『大島さん』は述べている。同じせりふをそっくり村上さんに返しておこう。

NakanishiBNakanishiB 2009/03/16 17:11  いくつか手短に今度の騒動の感想を述べます、私は村上氏の受賞スピーチを評価しています。『ガーディアン』の見出しを借りればエルサレム賞を今もらいに行くことは弁明を必要とすることを示してしまったからです。「卵と壁」については現在の状況では、Foxテレビしか見ていない人ならともかく普通は壁がイスラエルの軍事力だよねと思うわけです。スピーチの中に「圧倒的な軍事力の行使を行った国家の政策を是認することにならないか」という文言があるのだから本人の意見は明らかです。それ以上を期待するのは私には理由がありませんでした。

 ただここにあえて書き込もうと思ったのは、それこそ『海辺のカフカ』のエピソードのような蛇足にリンクされている抜粋が読めたからです。まあいかにも似てるなーと。私がこのたびの騒動で気づいたのは、このような「鈍さ」が村上氏の作品の特色であると考え、それにもかかわらず(それゆえに)ちゃんと村上氏の作品を読んでいる人がいることですね。「鈍さ」というのは誰にでも現れるという意味ではだからこそ読むべきことがあるのかもしれません。それを確認しない私はやっぱり「鈍い」ことに居直ってるとも言えるわけですが…。

 なお、エルサレム賞受賞についてはきわめて公的な性格を帯びた事件であり、これに何ほどか言う人が現れても当然だと思います。国際的に評価されるってのはそういうことですし。なんで村上氏にそこまで期待するの?という違和感がありますが。
 ひとつ例をあげると2004年のノーベル文学賞はエルフリーデ・イェリネクという作家が受賞しました(ちなみにカフカ賞も受賞していますw、私はファンです)。きわめて政治的な作品を各作家であるので受賞にあたって出身のオーストリアやドイツ語圏では否定的な意見も出ていました(NHKの衛星を見ていた限りでは)。私も何でなのか不思議だったのですが、実はなぜピンチョンの感想にヒントがあったのです。「なぜ先にハントケにあげないんだ?」という。これはドイツ文学者の方との私的な会話で聞いた話ですが、このとき作家として先輩のペーター・ハントケほうが最有力候補だった。しかし、ハントケはユーゴスラビア内戦において一貫してセルビア擁護的(反自由主義陣営的)な発言を繰り返し著作を出している、このことが選考過程で忌避を招いてオーストリア(ドイツ語圏)ローカルではむしろ反発が激しいはずのイェリネクが受賞したというわけです(実は彼女はEUの対ユーゴ外交に内戦のはじめから批判的だったのですが…)。
 
 もともとハントケは非政治的作家と見られていたわけですが、そのイメージを覆してこの問題にコミットしているのです。その後で獄中で自殺したミロシェビッチの葬儀に遺族に招待されて出席したためにさらに問題になりました。その結果、コメディ・フランセーズでの戯曲の上演が中止され、この劇場の判断を支持する人々と反対する人々の両方から声明が出ています(後者にはイェリネクが名を連ねています)。

 現在ハントケは、かつてもらったビュヒナー賞を返上したりかなり孤立した状態にいますが、まあ彼はこれについてはいいかげんになれなかったのでしょうね。私はハントケの作品は好きですし、その行動も理解できますが、それがほんとうに正しいのかはまだわかりません。その意味で個人的にコミットできないことに関わらざるを得ないことは国際的名声を得てしまった作家にはあるのでしょう。それはめんどくさいでしょう。しかし、インタビューの中でそのめんどくささについて蛇足的に不満を述べているのを何か評価すべきとも思えないのです。なんだかこのコメント自体が「大島さん」にあのようにしゃべらせるにている気がしますが(^_^;)、では失礼しました。

http://www.tkyabe.com/blog/archives/2005/07/_amazonco.html
 ハントケについてはほかにもいろいろありますが、とりあえずこれ。

swan_slabswan_slab 2009/03/17 21:03 kurahitoさん、なかなかむずかしい質問ですね

N・Bさん 
人間万事大島さんですね。弱い人間だということです。
私も受賞スピーチについては評価しています。これをもってアラブ諸国を訪問する機会が失われてしまうのは残念ではありますが、本人がそういう選択をしたのだから仕方がありません。あと、海辺のカフカのケースを出されましたが、今回ちょっとシチュエションがちがうとすれば、本人に対する、無数の声となって迫ってきたであろうことですね。レターの翻訳のコピペ(しかも匿名)なんて相当不愉快だったんじゃないかと思われます。そういう意味では、部※にあった「ガツンといっちゃうよ」のCMじゃないですが、村上氏に何か伝えたいと思っている人達には、本人だったらどういう立場におかれるのか、の想像力がほしいかな、と思っていました。いや想像すべきだというよりも、できやしないわけです。だから強い言葉になってしまうのでしょうけれど、フィードバックの機会を得たらやっぱり少しは考えてほしい。つまり、その文脈にいたって、お前も俺も大島さんという言葉で返すとすれば、あまり誠実とはいえない、そう思います。

kurahitokurahito 2009/03/18 17:49 ビーさんは本名ではないかと推測したので質問してきました。

>しかし、賞を辞退するのも、あなたが共犯者とならないですむひとつの方法です。
さて、ビーさんは共犯者性を意識していると思いますよ(程度問題ですが)。

>「責任を持たねばならない」という「私たちの歴史」に、あなたが生まれる前年に誕生したイスラエルが引き起こしてきた歴史を含めてください。
「私たちの歴史」には当然ビーさんも含まれるでしょうから、ビーさんはビーさんなりに、村上さんは村上さんなりに責任を果すということでしょう(弱さへの責任と強さへの責任と言ってもいいかもしれません)。

>私にはそういう謙譲や誠意があったとしても村上氏に伝わったかどうかははなはだ疑問でした。
明示的に示さなければならないのだという主張でしたら、「不作法は不快だ」以上の説得力を持ち得ないと思います。

><正論原理主義>という言葉に籠絡された人々の面倒は誰が見るんでしょうか?
「書言葉は暴走する」ものですから、<正論原理主義>発言の迂闊さについてはお認めになるのではないかと思います。で、私としては正論を闘わせることを選びます。「正論原理主義」という言葉自体が修辞的におかしなものであって(正論というのは特定の属性の持主を排除するものなのでしょうか?)、「原理主義化した極論」程度に抑えておくべきだったのではないかと思います。「(あれでも)正論を言おうとしているのだろう」という前提に立たなければ、討議自体が成立ちませんので。

swan_slabswan_slab 2009/03/20 14:39 kurahitoさん おまたせしております。
ガン無視していると思われるといけないなので、
一言だけですが、ご了承ください。
kurahitoさんの問題意識はわからないでもないのですよ。
コメント、刺激になります。ありがとうございます。
私は繰り返し、似たようなテーマを扱いますので、これからもよろしくどうぞ。

2009 | 03 |
31895