楽しむ スポーツ・レジャー地域の知られざるトピックを発掘
王者復活、影に亡きライバル――WBAスーパーフライ級・名城信男2008/12/12配信
9月15日、河野公平(ワタナベ)との王座決定戦で最終12ラウンドまでもつれ込んだ末に2―1で判定勝ちし、1年4カ月ぶりの王位カムバックを遂げた。ジャッジ3人がいずれも115ポイント―114ポイントを示す薄氷の勝利。「試合が終わってどっちが勝ったか分からなかった。負けを少し覚悟した」というのが名城の偽らざる感想だった。 大接戦となった要因の1つは両者のボクシングスタイルが似通っていたためだった。前に出て相手に圧力をかけるファイター同士の対戦。相手のペースに引き込まれた前半の判定は河野有利だったが、8ラウンド終了後、セコンドの藤原俊志トレーナー(34)から「きれいなボクシングはせんでええ」と一喝され開き直った。得意の右ストレートではなく、次なる武器として用意していたアッパーに活路を見いだし、終盤に有効打を重ねた結果の逆転劇だった。 ◎ ◎ 名城が現在のボクシングスタイルを確立した転機は、アマチュア時代にさかのぼる。プロでは通算13戦12勝(7KO)と1度しか負けていないが、アマ時代の戦績は38勝19敗。3回に1回の割合で負け、「華麗なフットワークを使ったり、カウンターを取ったりしたい、と思った時期もあった」という理想が通用しないと思い知らされた。それが「泥くさいファイタースタイルに磨きをかけていくしかない」との決意につながった。 今回は出番の少なかった右ストレートも、名城を語る上で必要不可欠だ。初戴冠となった2006年7月のマーティン・カスティーリョ(メキシコ)戦。辰吉丈一郎(大阪帝拳)と並び日本ボクシング史上最短記録となるデビュー8戦目での世界王座奪取の快挙を果たしたこの1戦も、2ラウンドに王者の左目上に右ストレートがヒット、出血させたことが10ラウンドでのTKOにつながっている。 ただ、強打ゆえの悲劇にも見舞われた。田中聖二(金沢)を破り、同級日本王者に上り詰めた05年4月の1戦。10ラウンド、王者をロープ際に追い詰め左右から猛ラッシュ。たまらずレフェリーが試合を止めたが、控室に戻って倒れた田中は12日後に帰らぬ人に。国内で試合中のダメージが原因で死亡したプロボクサーは当時、36人目だった。 この件になると名城は「今でも乗り越えたかは難しい」と沈痛な面持ちで話す。同じ関西所属の練習仲間であり、良きライバルでもあった田中。悲報を聞き、1カ月近く自宅に引きこもった。「ボクシングをやりたくなくなった」と何度か本気で引退を考えすらした。名城を支えたのは「このまま辞めては聖二さんに対して失礼」との一念だ。 ◎ ◎ 復帰後もしばらくは「自分ではそんなつもりはなかった」が、スパーリングパートナーにさえパンチを当てるのもためらう日々が続いた。それでも、「あんな弱い男に田中は命を奪われたのか」――決してそうは思わせたくない強い思いが名城を立ち直らせた。だからこそ、今も試合が終わるたびに鳥取市内の田中の墓前に報告を欠かさない。 次戦に熱望していた3階級制覇の経歴も持つWBA同級暫定王者のホルヘ・アルセ(メキシコ)との対戦は、残念ながら持ち越されることになった。枝川孝会長によれば初防衛戦は早くて3月ごろになりそうだが、名城の「自分のできる限り強いところを目指していくのが聖二さんへの恩返し」という気持ちはいささかも揺らぐことはない。 (大阪運動担当 中川淳一) ●支える藤原トレーナー 名城信男を5戦目から指導しているのが藤原俊志トレーナー。元アマチュアボクサーで、五輪強化指定選手に選ばれたこともある。現役時代の武器は名城と同じくストレート。「体が小さいせいでフック気味になっていたストレートを直してもらった」と名城も信頼を寄せる。2006年には優れたトレーナーに贈られる「エディ・タウンゼント賞」も受賞した。 田中聖二選手との試合後に自宅に引きこもっていた時期も、唯一藤原トレーナーからの電話には出たそうで、精神的にも名城を支えている。
|
|