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「桜ソング」 |
☆★☆★2009年03月21日付 |
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卒業シーズンの今、各地で卒業ソングが流れている。 その卒業ソングを聴く場面で、最近の卒業ソングの特徴のような思春期の心のヒダを詠んだ繊細な歌詞や複雑な音階のメロディー、それを卒業生や在校生が軽々としなやかに歌い上げる合唱力にも驚かされる。 先週招かれて出席した母校の卒業式では、国歌や校歌のあとに、卒業ソングの定番になっている「旅立ちの日に」を卒業生たちが歌うのを今年も聴いた。在校生たちは「With You Smile」を歌っていた。 涙をキラキラとこぼして、合唱する卒業生たちの姿は花のように美しくいとおしく、聴く者の心が洗われるものだった。 春のシーズンにこうした卒業式が行われるのは、日本固有のものではないかと思われた。 ちまたでは、「桜ソング」も流れている。 たまたま入った音楽CD売り場では、桜ソングだけを並べたコーナーが目立つところにあった。「桜」の題名が付くポピュラー音楽のことで、毎年、三、四月の時期に歌われる楽曲のことを桜ソングというらしい。 卒業式、入学式、入社式などが行われる桜の季節に、旅立ちや出会い、希望などをテーマにした桜ソングはブームのようで、インターネット上でも卒業ソングと並んで、人気ランキングが掲載されている。 桜は、個人的にも別格な存在に思える。桜は日本の表徴である―といった岩手の偉人、新渡戸稲造博士はその名著「武士道」の中で、桜の花に日本人の姿や美的感覚を重ね合わせている。 その第一章は、「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」という文から始まる。桜花は日本の象徴で、日本の国土に咲く固有の花であり、「桜は古来我が国民の愛花であり、我が国民性の表章であった」としている。 桜については、ひ弱な栽培植物ではない、自然に生える野生の産で、わが風土に自生する自然の所産であると強調。しかし、原産だからという理由だけで桜花を愛好するのではない、桜花の持つ洗練された美しさや気品は、ほかのどの花からも得ることのできないものであると記している。 「その美の高雅優麗が我が国民の美的感覚に訴うること、他のいかなる花もおよぶところでない」と。桜は日本人の美的感覚を刺激するものであるとし、ヨーロッパ人が賞賛するバラの花と比較して、桜花の特性をあげている。 「我が桜花はその美の下に刃をも毒をも潜めず、自然の召しのままに何時なりとも生を棄て、その色は華麗ならず、その香りは淡くして人を飽かしめない」 桜はその美しい装いの陰にトゲや毒を隠し持ってはおらず、その色は派手さを誇らず、その淡い匂いは人を飽きさせないものである―とも。 桜の花にこれだけ深く言及した文章はほかに目にしたことがない。博士は、桜の芳香が朝の空気を匂わし、その美しき息吹を吸う時ほど、清澄爽快な感覚を覚えることはない―と記している。 桜ソングがブームとなっている背景に、こうした桜に対する伝統精神が案外、底流にあるからかもしれない。この原稿を書いているパソコンの画面に、昨年見事だった母校の桜を写真に撮って飾っている。 桜に対する思いが、知らず知らずのうちに深く根づいていることに気づかされるのである。(ゆ) |
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ああ我が受験生時代 |
☆★☆★2009年03月20日付 |
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今年の大学入試も大きな山場を越えたようだ。 三十数年前、私も大学に挑んだ。今のようにセンター試験があるわけではない。その前身と言える共通一次もなく、偏差値という言葉もあまり聞かなかった。 当時の大学入試は単純明快そのもの。自分が受けたいと思う大学をストレートに受験するだけ。国公立も、私立も一発勝負=B受けようと思えば、私にだって東京大学を受けることだけはできた。 高校三年の時、私は理系の大学を二つ、受けた。結論から言えば、サクラは咲かなかった。授業をエスケープして野球応援に出かけるなど、高校生活を満喫しすぎたことも原因の一つだが、最大の理由は別にある。 入試結果を学年長の先生に報告した時、ズバリ、言われた。 「当たり前だ。お前の英語でとれるわけがない!」 かくして、下宿しながら仙台の予備校へ通うことになった。翌年の合格保証がない不安と二人三脚≠ナの予備校生活だが、忘れられない思い出がいくつもある。 その一つが夜中によく作った即席ラーメンだ。部屋には鍋も、コンロも、どんぶりもない。では、どうやって作り、食べたのか? 当時、やかんを縦に細長くしたような形の電気ポット?なるものがあった。それでお湯を沸かす。沸いた頃、買い置きの麺を二つか四つに折り、中に入れてゆで、粉末のスープを投入して仕上げた。 電気を切ったポットの取っ手を握り、中に箸を突っ込んで麺を食べる。スープはそのまま、ポットに口をつけて飲む。うまかった。 電気ポットはお湯を沸かすだけでなく、ラーメンをゆでる鍋であり、それを食べる器でもあった。ただ、ポット内には時に麺やスープがこびりついて残ったものだ。 台所でタワシや洗剤を借りて洗うわけにはいかない。下宿のおばさんに夕食が足りないと思われたくなかった。大体は部屋のそばにある水道で軽くゆすいで終わり。その後、ポットで沸かしたお湯はなんとも微妙≠ネ味がした。 予備校時代、下宿で食べたハヤシライスも忘れられない。 実は、それまでハヤシライスなど見たことも、食べたこともなかった。初めて口にしたハヤシライスはにおいといい、味といい微妙≠フ極みだった。 体の中では、受け付けまいとする胃と、食べなければお腹がすくという食欲の戦いが繰り広げられた。結局、後者が勝った。 しばらくして腹痛と下痢に襲われ、病院に運び込まれた。慣れない物を食べたせいだ、と今でも思っている。以来、長い間、ハヤシライスのにおいを嗅ぐだけで吐き気をもよおしたものだ。 翌春、東京にある文系の私立大学を五校受けた(理系から文系に変えた理由は省く)。予備校では英語の勉強にも力を入れた。おかげで四校に合格できた。 本命中の本命大学の試験も順調だった。国語も、日本史もまあまあの出来で、 「これならいける!」 と希望が膨らんだ。 そして、迎えた最後の試験。 当然ながら、問題用紙は裏返しのまま配られた。新聞の紙面を一回り縮めたくらいの大きさだったと思う。試験開始の合図とともに、問題用紙を表に返した。 その瞬間、息が止まった。 そこには日本語が一文字もなかった。設問から問題文まで、全てが英文。しかも、分からない単語が多く、いくら読んでも設問の意味すら理解できない。答えの書きようがなかった。 己の英語力の低さを、改めてまざまざと痛感させられたものだった。他の受験生が走らす鉛筆の音を聞きながら、心静かに覚悟を決めたことを、昨日のことのように覚えている。 受験生時代も私の大切な青春の一ページだ。さまざまな積み重ねがあって今の自分がある。(下) |
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母ちゃん消防の活躍 |
☆★☆★2009年03月19日付 |
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消防法などの改正により、二十三年六月一日までに一般住宅への住宅用火災警報器設置が義務化されている。住宅火災による死者のおよそ七割は「逃げ遅れ」とされ、就寝時間帯に集中している。そこで寝室などに警報器を設置して、犠牲者を減らそうとのネライがある。 警報器は煙や熱を感知し、音声や警報音、光で火災の発生を知らせるもので、部屋の天井や壁に設置する。アメリカでは一九七〇年代後半、火災によって約六千人の死者が発生していたというが設置が義務化され、普及率が90%を超えた二〇〇九年には死者数が三千人とほぼ半減したというデータもあり、有効な役割を果たしていることが見えてくる。 義務化を受け、最近はテレビコマーシャルも頻繁に目にするようになってきたものの、期限まで時間があることから全国での普及率は35%ほどにとどまっており、まだまだこれからというところ。数千円という適正価格を大幅に上回る金額で売りつけようとする悪質な訪問販売もあるというから、注意が必要だ。 こうした状況の中、住田町での設置率は今年一月時点ですでに全国平均の二倍以上の約74%となっている。気仙はもとより県内でもトップ級のこの数字をはじき出す原動力となったのは、同町婦人消防協力隊の活動だ。 同隊は町制施行前の昭和二十八年、国鉄上有住駅の開業に伴う機関車などの火の粉による山火事発生に対応し、男性の出稼ぎによる消防力不足をカバーしようと、上有住大洞地区で初めて組織された。 三十年の住田町誕生とともに、世田米、上有住、下有住の三地区隊で町婦人消防協力隊が発足。五十六年には大股、五葉地区隊が加わって全戸加入となり、いまでは千四百人余りの隊員が消防団とともに防災・防火活動に尽力している。 十八年からの住宅用火災警報器義務化後は、その普及啓発にも積極的に努めており、昨年秋には消防団員による火防点検に合わせ、各戸を回りPR。共同購入による低価格購入や悪質な訪問販売の被害防止をと注文票を配布しながら歩いた。 顔を知る「近所の母ちゃん」たちの活動が功を奏し、20%に届いていなかった普及率は飛躍的に上昇することとなった。 共同購入呼びかけだけにとどまらず、購入世帯のうち高齢者世帯など取り付けが困難な場合は、消防団の協力のもとで無料で設置作業を実施。 さらに、設置を終えた世帯には「住宅用火災警報器設置済み」と書かれたシールを配布。悪質販売抑止と周囲の未設置世帯への啓発をネライとするもので、共同購入以外で設置した世帯からも希望があれば、最寄りの隊員を通じて配布するなど、アフターケアにも細やかな気遣いが見える。 その取り組みを紹介しようと取材にうかがった際、設置率の飛躍的向上について隊長さんは「地域の皆さんに顔を知ってもらっているわたしたちが歩いたことで、安心して購入することができたのでは」と分析していた。 なるほど、隣近所の顔も知らない少し規模の大きいところで同様のことをしてみたとしても、けげんな顔をされておしまい、ということになるのではなかろうか。今回の住田町での取り組みを見て、また何か、小さな地域はどう生きるかがぼんやりながら見えた気がする。 同協力隊では期限前の「設置率100%」を目指して今後も啓発活動に意を注いでいくといい、これが実現し、また紙面で紹介できたら、と考えている。 (弘) |
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浜に好況到来をつたえる大円舞 |
☆★☆★2009年03月17日付 |
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日曜日の十五日午後、大船渡湾口の手前にある養殖施設のあたりを何気なく眺めていると、湾奥の方からおびただしいカモメ(ウミネコ)が飛来してきた。このあたり普段はカモメが少ないので何事ならんとその動きを追っていると、湾口の外側にボートのような白い物体が見えた。 目をこらしてよく見ると、この物体は伸びたり縮んだりしている。瞬間、これはカモメの大集団だと理解し、双眼鏡を取り出してみるとなんとも壮観というか、この世のものとは思われぬ光景が展開されているのである。 この「ボート」は一隻になったり、二隻になったり、あるいは三隻になって離合集散を繰り返しているのであった。これは明らかに海面下に形成された魚群の列を狙った集団行動であり、願ってもない好餌の到来に湾内外のカモメたちが一斉に集まった結果、当方にとっていまだ体験したことのないカモメの一大群舞を目にすることができたのである。 何の魚群であろうか。素人には即断しかねるが多分イワシではないかと推測した。始まったばかりのイサダ(オキアミ)漁で朝な夕なに出入りする漁船からイサダがこぼれ落ちることもあろうが、こんな大集団を引き寄せるほどの量ではない。ここはやはり小魚の魚群が海面近くに回遊してきたためとするのが妥当だ。 その正体はイサダそのものか、あるいはそのイサダを追ってきたイワシかのいずれかであろうと判断したのだが、カモメの立場になって考えてみると、いや人間の食欲に訴えるのはどちらかと人間の視点から見ると、導き出される回答はイワシの方に分がある。 それにしてもどこにこれだけのカモメがいたのだろうかと思われるほどのおびただしい数である。おそらく数千羽、いや万を超すかもしれない。少なくとも点が面となってその面積が小型漁船の大きさに相当する広さに及ぶには、しかもそれが二、三隻分ということになれば、当方の認識力がいかに甘くていい加減でもある程度の推計は可能である。 すぐ飛び出して現場に急行したい衝動に駆られたが、持ち船があるわけでもなく知人の船舶所有者に頼んで漕ぎ出してもらうにしても、日曜日とあって依頼するには気がひける。まして時間的余裕もない。 ちょうどこの頃、一隻のヨットが湾内を遊弋中だったが、それが湾口を外に出てセイリングを始めた頃にたまたまこの一大ショーに遭遇した。クルーがこのタイミングを逃すわけがなく、周回しながらカモメの大軍団をカメラで追っている様子が状況的に見て取れた。なんとも運のいいヨットである。おそらく後日、その千載一遇の好機を生かした傑作が発表されると思われるが、ぜひとも一見し、眼福を楽しみたいと願わずにいられない。 この魚群の正体は間もなく明らかにされるであろうが、カモメの「全員集合」を促すだけの一大回遊があったことはまぎれもなく、それは浜に大漁を告げる証とみてさしつかえあるまい。 北海道では久しぶりにニシンの大漁が続き、当地の前浜でも漁こそ少ないがブリが網にかかっている。先日そのブリを供される機会があったが、近年は養殖ハマチの味に馴らされていただけに、忘れかけていた旨さを久しぶりに味わう思いだった。 海況は気候によって変化し、当然海流も魚道も変化する。地球温暖化がいわれるようになって久しいが、気候の変動が当地の漁場にも新たな変化をもたらし、それがプラス面に働いてくれればいいがと期待したのも、もう二度とは目にすることもないような絶景を体験したからに他ならない。 とはいえ、フラミンゴの大集団が、水辺を埋め尽くす映像をテレビで見た時を思い起こさせるこのカモメの大円舞が、また再現される時があるかもしれない。世は不況まっさかりだが、これが浜が大好況を迎える序章になってほしいものだと願うのである。(英) |
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修理で知る「もったいない」 |
☆★☆★2009年03月15日付 |
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暮らしを豊かにしてくれる家庭電化製品。毎日使うものだから何年かすると故障するし、やがて寿命も尽きる。昨年末、二十年間使ってきたブラウン管式テレビの映りが悪くなった。付き合いの電器店に症状を訴えたところ、「修理部品がない」「寿命のようだ」との診断。テレビはいまや生活必需品なので、やむなく買い替えた。 電化製品の故障にはサイクルがあるようで、二十年ほど前の年末、二台あったテレビがほぼ同時に映らなくなり、オーディオ装置も一緒に不調。家人は紅白歌合戦や年始番組が見たいというのでテレビを更新し、オーディオのほうはメーカーの修理に出した。おかげで、その暮れのボーナスが吹っ飛んでしまった。 そのうちの一台のテレビがダウンしたことで、「もしや…」と悪い予感がしていたところ、年明け早々、十年ぐらい使った電気炊飯器の電源が入らなくなった。しかし、どうにも直しようがなく、文字通り飯の食いっぱぐれになるので電器店に出向いた。 「たかが電気釜」と高をくくっていたが、なんと液晶テレビが買えるような値段のものがあって驚いてしまった。タイマーが付き、標準米でもおいしく炊けるという比較的安い圧力式を求め、どうにか飯にありつけている。 そうこうしているうちに、やはり十数年使ってきたLD(レーザーディスク)プレーヤーが動かなくなった。LDといっても若い人たちには分からないかも。DVDの前身となったディスクで、DVDの12a径に対しLDは30aもある代物。当時、「絵の出る画期的なレコード」として華々しく登場した。新しもの好きなのですぐ飛びついたが、デジタル技術の進歩は加速度的で、しばらくしてその役割はDVDに取って代わられた。 市場のLDソフトは激減。やがて新譜が出なくなり、中古盤しか入手できなくなった。やむなく数少ない手持ちのソフトを細々≠ニ視聴していたのだが、プレーヤーが故障してしまってはお手上げ。かの電器店に持ち込んだところ、原因は判明したものの「もう修理部品がない」「別のものを買うしかないね」とのご託宣。 ところが、その製品は唯一のメーカーが生産を打ち切っているとのこと。「じゃ、どうすれば?」と聞くと、「中古品を探すしかないねえ」と冷たい&ヤ事。ネットであちこち検索したけれど、ほとんど入手困難の状態。どうやらLDはこのまま終焉を迎えてしまう運命となりそうだ。 三月になってから、今度はデジタル時代の最先端と思っていたD・VHSデッキが故障。デジタル録画ができなくなったが、こちらは生産終了からまだ日が浅いとあって、ユニットごと取り替え、どうにか生きながらえた。 電気製品は一般に、生産完了から最低八年間は修理部品、あるいは相当品の確保がメーカーに義務付けられているという。それゆえ、もう製造しなくなったブラウン管テレビやLDプレーヤーの修理ができないのはやむを得ないが、原因が分かっていて部品さえ手に入れば再生するのに、使えなくなるとは「もったいない」のひと言に尽きる。 まして今はデジタル時代。ありとあらゆる電化製品がIC、LSI化され、回路は集約化。不具合が見つかれば、ユニットごと交換して「はい、直りました」となる。ハンダごてを片手に部品の一つひとつをチェックし、故障個所を特定して交換修理するという、アナログ時代の姿はもうすっかり過去のものになってしまった。 一世を風靡したオープンリール、Lカセット方式の録音機器、ベータ方式ビデオデッキ、そしてLDプレーヤーは技術革新の波に飲まれてしまった。すっかり定着しているカセットテープ、VHSビデオ、CD、DVDもいつの日か「無用の長物」と化してしまうのだろうか。(野) |
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「ケイフ先生」の宿題 |
☆★☆★2009年03月14日付 |
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三月六日、多くの教え子らに「ケイフ先生」と呼ばれ、慕われていた元大船渡市教育長の金野勍夫先生が逝去された。享年八十二。春のなごり雪が消えた翌日のことだった。 六年前の平成十五年春、永年にわたり地域教育行政の振興に寄与したとして勲五等双光旭日章を受章された。その取材のため自宅を訪れ、ケイフ先生にお会いした時のことを今でも鮮明に覚えている。 というのは、その前年、先生は病気治療のため声帯を摘出していた。私の質問に口頭で答えることができないので、当然、筆談となる。 はじめは、「便利なので」と苦笑しながら、子ども用のお絵かきボードに書いたり、消したりしていた。じれったくなったのか、傍らにあった一日人間ドックの申込用紙を手に取ると、その裏面に受章の感想や教職時代の思い出話をすらすら書き連ねた。 「ケイフ先生の尊敬する人物は?」と尋ねると、しばらく目を閉じてから、大きくうなずき、一首の和歌をしたためた。 『僅かなる庭の千草の白露を 求めて宿る秋の夜の月』 盛小学校の校長室に、新渡戸稲造の直筆でこの和歌が掲げられている。これは古今和歌集にある歌だという。ケイフ先生は、「この歌は今の教育に必要なこと」と走り書きして囲んで見せた。 ペン先に力が入っている。とくに「白露を求めて宿る」の言葉には二重丸をつけて、「ここに、一人ひとりの子どもたちを教育する積極的な意志が表れている」と強調しておられた。 新渡戸先生を尊敬し、ことさらこの歌がお気に入りだったのだろう。「昭和のはじめにこの歌に着目し、学校に書き残した炯眼(けいがん)には驚きます」と語られた先生の言葉は、春の叙勲を知らせる翌日の紙面(平成十五年四月三十日付)に紹介した。 この時、先生と筆談したメモ用紙は、今でも私の大切な宝物となっている。 先生の訃報に接し、もう一度、このメモ用紙を読み返してみた。すると、その片隅にもう一つの和歌が書き残されていることに気づいた。『僅かなる…』の印象が強く、不覚にも見落としていた。 その和歌は、こうだ。 『みどりなるひとつ草とぞ春は見し秋は色々の花にぞありける』 これは、誰の歌なのか。どんな意味があるのか。 浅学非才のわが身を心配して、亡くなっても「もっと勉強しなさい」と叱咤激励してくださる。まるで、ケイフ先生が私に残した宿題のように思えた。 古今和歌集から問題の和歌をさがし出すのは大変だった。季語からたどってみたが、該当する歌は出てこない。もしやと思い、次に新古今和歌集を調べてみる。 あった。「題しらず」、しかも「読み人しらず」の歌である。 親切にも、「春はみんな同じ草に見えるが、それが秋になったら、色とりどりの花であった」という意味が添えられていた。 別れの季節が過ぎれば、もうすぐ春。新入学の季節を迎える。ピカピカの一年生たちはすべて緑一色と思っていたら、秋になったら個性豊かに成長していることを教示したものだろうか。『僅かなる…』の歌に相通ずるものを感じた。 筆談取材の中で、「教師として一番うれしかったことは何ですか?」と質問した。 「中学時代にケイフ先生が言っていたことはこのことだったのかと、今になって気づきました」と教え子から言われたことだという。「当時のことを今でも覚えていてくれたのかと思うと…」と、目頭を熱くしていた。 一見、温和な言葉の中に、強い意志を秘められ、時として熱弁を振るわれる先生のお姿は、今でも多くの教え子たちの心の中に生きている。合掌。(孝) |
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高田松原の観光振興 |
☆★☆★2009年03月13日付 |
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今秋、陸前高田市は国の地域活性化生活対策臨時交付金の一部を活用し、高田松原地内にあるシャワー室や売店、海の家などを集約した複合型施設(事業費約六千五百万円)の整備に着手する。 老朽化した既存施設を解体して新しくし、観光客らのニーズに応えながらさらなる観光振興を図っていくものだが、これらの施設整備は三百年ほど前に松の苗を植えた菅野杢之助翁と松坂新右エ門翁もきっと許してくれるに違いない。 高田松原と言えば、広田湾に沿って遠浅の弓形状した砂浜にクロマツとアカマツが六万から七万本連なる松林が美しく広がる白砂青松の景勝地。夏の海水浴シーズンばかりでなく、通年、散策やジョギングに多くの人が訪れている。 しかし、その昔は「立神浜(たつがみはま)」と呼ばれ、周囲を強風が吹きぬけて砂が飛び散り、海水の飛沫が背後地の水田まで届いたという不毛の地だった。 現在の松原の基礎を築いたのは、高田村当時の豪商・菅野杢之助。江戸時代の寛文六年(一六六六)に仙台藩主・綱宗公(伊達家十九代藩主)の命を受けて検分に訪れた奉行・山崎平太左衛門から松の植栽を命じられた。 同七年(一六六七)に苗木を準備し、植栽に取り掛かったのが始まり。周囲に砂や海水が飛ばないよう、半年ほどかけて六千二百本の松を植え付けたが、砂地という悪条件のため三千本ほどしか根付かずに半分以上が枯れてしまったという。しかし、その後も私財を投じてクロマツを中心に一万八千本を植え付けたとされる。 さらに、享保年間(一七一六〜三六)には今泉村(現気仙町)の肝入り・松坂新右衛門が高田村の松の植裁が効果を上げていることを励みにし、気仙川流域の新田を災害から守ろうと防潮や防風林として松の苗を植え、二十年かけて数千本の育成に努めた。 その後、松原は明治二十九年(一八九六)の三陸大津波で大きな被害を受けたが、三十三年には、詩人・石川啄木が盛岡中学時代に級友六人と来遊したことが知られている。 当時の松原は国有林で、気仙町側の「気仙松原」と高田町側の「高田松原」に分かれていた。気仙松原は明治三十八年(一九〇五)に今泉村に払い下げられたが、高田松原は同四十二年(一九〇九)に農商務省から杢之助翁の子孫に千八百円ほど(当時は白米百`が十数円)で縁故払い下げられた。 しかし、実際にお金を出したのは高田町らしく、財政状況がひっ迫していた町当局は「高田松原はどこにも逃げない」と、摺沢村の豪商・佐藤家(屋号・横屋)に売却。以来、高田松原は同家の所有となった。 そこで、太平洋戦争直後に町内有志二十二人が資金を出し合い、二十万円集めて昭和二十一年に佐藤家から町が買い戻した。当時、町の年間予算が六十万円程度で、二十万円というお金がいかに大金だったかがうかがえる。 高田松原が佐藤家の所有となっている間の大正十一年(一九二二)には、砂浜に妙恩寺が建設され、昭和二年(一九二七)には高浜虚子らが審査して日本百景に入選。同五年(一九三〇)に東北十景に入選したが、三年後の同八年(一九三三)に三陸大津波が来襲し二度目の大被害を受けた。 このような歴史を歩んできた高田松原。近年は県内有数の海水浴場として知られ、好天時にはひと夏に三十万人近い海水浴客が訪れている。しかし、昨夏の入り込み数は七万四千百四十七人と、市が統計をとり始めた昭和五十五年以降最低となり、初めて十万人を切った。 天候不順が大きな要因だが、ここ数年は五年に一度、天候不順で入り込み数が大きく減少する傾向がある。統計的にはその翌年が猛暑となっているだけに、今年の高田松原は多くの海水浴客で溢れることが期待できそうだ。その上で、複合型施設の完成が一層の観光振興につながることを願っている。(鵜) |
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好きなあの人を支えるには |
☆★☆★2009年03月12日付 |
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本を読むのが好きなため、自分の財布の中身が、本棚のスペースが許す限りは読みたい本全てを新刊ないし新本で買いたいのだがそういう訳にもいかない。古本屋や図書館も利用しているが、この人だけは欠かさず新本を買うと決めている作家がいる。 その作家は森博嗣氏。最近では近未来を舞台に戦闘機パイロットの姿を描いた「スカイ・クロラ」がアニメ映画化され脚光を浴びたが、本職は大学教員で愛知県生まれ。ミステリー小説を中心に執筆を続けている。 森氏の作品は理系ミステリー≠ニも評されている。動機やアリバイなど心理的な要因で犯人に迫るのではなく、「犯人はさておき、物理的にどう犯行が行われたのか」という謎解きに力点を置いているのが、理系といわれるゆえんだろう。 さて、大好きなものを応援したり支えたりしたくなるのが人の常。好きな作家を応援、支援したいのだが、直接の励ましや声掛けなどは、知人ではない上に互いに暮らす地域も環境も別世界といったところでこれは無理がある。とはいえ、願う心や気持ちだけで好きな作品、ひいては好きなあの人≠支えられる訳がない。 気持ちあってこその行動、ということで一体私に何ができるか。一番効果的な方法とは何か。 その答えは「新本を買うこと」とひらめいた。 新本を買うことで作者に印税が入る。そのお金で生活が保証されれば新しい作品が書ける。本が売れた、つまり読んでいる人がいるわけだから創作意欲もわきやすい。そして部数が売れれば出版社も作家をより認め、また執筆依頼を出すというもの。そこまでくれば占めたもの、世の中にまた新刊が送り出され、私自身もまた買って読んで楽しめる。なんて素晴らしいサイクルなんだろう! その作家の次の作品も読みたいから、買うという行為。「何じゃそりゃ」「当たり前のことだろ」と思われるかもしれないが、この意外と当たり前のことが浸透しているかといえばそうでもない。 これがもし古本屋で購入したり、図書館で借りたりする場合、なかなか作者にお金が落ちない。それに自分―書店―出版社・作者という流通の中、自分と書店の間に「古本屋―売る人」「図書館―管理者」などが入ることで、作者本人に対する支援の効果が遠回りになりやすい。 自分自身、そのことに気が付いたのは生まれてから二十数年後のこと。情けない。理屈で分かっていても身に沁みて実行に至るには結構な遠回りをした。しかし、こうしたことは本に限ったことではなく全ての物について言える。 たとえば、自分の生まれ育った古里、住んでいる町が大好きだという人は大半だと思うが、では実際にその古里で作られた作物を買ったり、住んでいる町で買い物を積極的にしているだろうか。 最近当たり前のように言われている「地産地消」。地域生産、地域消費の略で、言葉としてはだいぶ定着してきた。この単語はなかったものの、自分が小学生のときは「岩手産はおいしい」「身近な人が作っている」から食べよう、と授業で教わった印象が強い。 そして現在は、食育や地元産食材の良さ、地産地消の概念の他に、「地元で買った分だけお店にお金が入り、お金が入ればよりいい商品を仕入れてくれる」というお金の流れをも教えている学校もあり、地産地消はより確固たるものになるのではと思う。すぐに安い物へと走りがちだが、ふところの許す限り、物、生産者、販売店と好きな「古里」ずくめで購入したいものだ。 「地産地消」という言葉は、遠回しに「大好きな地元、ひいては家族をはじめそこに住む人々を支えるために、地産地消をしましょう!」というメッセージを発信しているように聞こえる。(夏) |
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1冊の本との出会い |
☆★☆★2009年03月11日付 |
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ドイツの考古学者・シュリーマンが伝説の都市・トロイを発掘しようと心に決めたきっかけは、子供のころ、父親からプレゼントされた一冊の本だったという。戦後文学の代表作家として知られる椎名麟三は、共産党入党時、特高に検挙されたが、獄中でニーチェの『この人を見よ』を読み、文学への転向を決意した。 一冊の本が人生の進路を決めることがある。優れた本は時に、感受性の強い若者の人生やアイデンティティーの確立に決定的な影響を及ぼす。自分にはまだ経験がないが、人生を左右するほどの感動や衝撃を受ける一冊に出会えるのは幸せなことだ。 最近、『プサマカシ』という本を読んだ。一九九〇年に第十一回読売「女性ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞を受賞した作品である。翌年、カネボウ・ヒューマンスペシャルとして、山口智子を主演にドラマ化されており、ご存じの方もおられるだろう。 著者は中央アフリカ共和国の保健省よりNGO活動の許可を受け、一九九三年から首都・バンギの保健センターを拠点に「アフリカ友の会」のメンバーとして活動している徳永瑞子さん。九州大学医学部付属助産婦学校などを卒業後、一九七一年、日本企業に随行し、旧ザイール(現・コンゴ民主共和国)の診療所に勤務。ベルギーの熱帯医学校で学んだ後、再び旧ザイールに渡り、看護師、助産師として医療に当たった。 若き日の彼女が在俗宣教師として赴任した診療所は、旧ザイールの北端、首都から数千`に位置するマウヤ村にあった。予防接種のないこの村では、二、三年ごとに麻疹が大流行し、小さくて栄養状態の悪い子供の命が次々と奪われる。日本なら難なく治せる病気も、ここでは命取りになることがある。 『プサマカシ』とは、旧ザイールのリンガラ語で「しっかり力みなさい」という意味の言葉だ。作品は「生の始まり」を主題にしたもので、医療過疎地での助産師活動や日々の生活ぶりがいきいきと綴られている。 診療所の分娩室にあるものは、木製テーブルの分娩台、赤ちゃんの処置を行う小さな机にホーロー引きの洗面器一個、水を入れるためのポリ容器、お産の七つ道具が入った小さなアルミの箱だけだった。六畳間ほどの薄暗いセメント壁の分娩室で、徳永さんはマウヤ村に来て初めてのお産に挑む。 陣痛のたびに「お母さん」と叫び、混乱する十六歳の初産婦。「声を出さずに力みなさい」と日本語でまくしたてても通じない。徐々に悪化していく胎児の状態。高鳴る鼓動を抑え、落ち着こうと胸に十字を切り、神に祈った。 「最後よ、プサマカシ。息長く、続けて」。「出た」。頭から足先まで張り詰めていた緊張が「オギャー」の一声で雪崩のように崩れ、全身の力が抜けていった。初めてのお産を描写する徳永さんの力強い筆致から、生の始まりの壮絶さが伝わってきた。 辛く、悲しい出来事もあった。逆子のお産の失敗。孤独感に襲われ、どん底に落ち、「私が赤ちゃんを殺してしまった」と自分を責め続けた。 そんな徳永さんを救ったのは、死児の父親の言葉だった。「子供は死んだが、あなたは妻を助けてくれた。子供はまた産めます」。思いがけない謝辞を受け、彼女は感激の涙に立ちすくんだ。 三年前にこの本と出会い、今春、助産師を目指して看護学校に進学することを決めた高校生がいる。彼女の夢は、外国の医療過疎地で助産ケアに従事し、新しい命の誕生に立ち会うことだという。 若い感性に徳永さんの奮闘記はどう響いたのか。生と死に真正面から対峙する覚悟。強い精神力と体力。そして、母子支援への使命感が必要とされる助産師の仕事。長い長い坂道が続く彼女の挑戦を見守っていきたい。(一) |
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「政治と金」を浄化する時 |
☆★☆★2009年03月10日付 |
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ある大手新聞社が、本社所有の遊休不動産(土地)を国に売却、その資金で一等地の国有地を払い下げてもらい、そこに新社屋を建てるという難題に取り組むことになった時、首を縦にふらない関係官庁を動かすためには「政治力」が必要なことを痛感した本社首脳が大物政治家に「根回し」を依頼した。 この「作戦」が見事奏功し、不可能と思われたこの難事が、曲折はあっても「解決」したのは、まさに「天の声」の威力だった。登場人物が実名で書かれたこのドキュメンタリー小説を読んで、このような行為が疑獄事件に発展しない「伝統」に対して驚く一方で、政治と金の関係は永遠に断ち切れまいという不信の思いが募った。同時に新聞社が国有地の払い下げを受けるために手段を選ばないという事実(以前から類例は指摘されていたことだが)を確認させられて愕然とさせられた。この払い下げで便宜を図った大物政治家には億単位の「成功報酬」が払われたとか。 裏金問題で捜索を受けている西松建設が、工事受注のために合法、違法の両面で政治家に献金をしていた事実が次々と明るみに出ているが、この事件は氷山の一角であろう。工事受注のために、手を変え品を変えて影響力のある政治家に接近するのは業界の「常態」であり「必要悪」と化しているからだ。 西松建設が約十年前から海外の工事費を水増しして総額十億円もの裏金を捻出していたことが摘発された当時、これは現地政府関係者に対するワイロ用ではないかと当方は想像していた。途上国では依然として不正蓄財がまかり通っており、公共工事の受注にはまず「関係筋」に袖の下を使わないとモノにならないというのは、公然の秘密であり、その「原資」は工事費に上乗せする、つまり水増しするのが通例とされている。なにしろ受け取る側は自分の腹が痛むわけではないからそれを黙認する。国内では容易でない「捻出」が、こうしていとも簡単に文字通り「捻り出す」ことができるのだ。 しかし、その向け先が国内の政治家も対象だったことが、迂回献金やパーティ券購入など次々と表面化する事実によってはっきりと結像した。昨日の産経新聞では、西松建設側が政治家への違法献金について「空港工事に期待していた」と供述しているという捜査関係者の話を伝えていたが、その空港とはわが花巻空港で、受注額は六十五億円(同社単独ではなく共同企業体=JVによる)に達していたと一面トップで報じられている。これだけで献金との因果関係をただちに断定できるわけではないが「もはやこれまで」と観念した西松建設関係者が「真相」を「白状」し始めている段階の今後いかんでは、政界に大激震が走る可能性を否定はできまい。 もし民主党の言う「国策捜査」が政界全般の疑惑追及に及ばないと検察は文字通り「国策捜査」のそしりを免れまい。ここは断固として真相を審らかにし、積年のウミを出さないと、政治と金の流れの不明朗な「負の連鎖」は断ち切れない。「必要悪」が大手を振って歩けないよう徹底して政治における「旧体質」を改善してほしいと国民が望んでいることが世論調査にも表れている。 政治献金疑惑はまさに古くて新しい問題だが、冒頭のドキュメンタリー小説が物語っているように、その献金を受け取る側だけに非があるだけでなく、送る側にもそれなりの「意図」があってのことで、この縮図は人類史上連綿として続き今後も同様であろう。だが、少なくともわが日本が次の世代にも「誇れる国」となれるよう、政治家はいまこそ各国に先鞭をつけて政治資金規正のモデル、スタンダード(基準)をつくり出す時である。 以上は書生論かもしれないが、強まりこそすれ弱まることのない国民の「政治不信」をこれ以上加速させないためにも、検察の「正義」が求められ、それには「蛮勇」もやむを得まい。(英) |
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