“オレがやらなきゃ 誰がやる!”
“今やらなきゃ いつやるんだ!”
〜日本一の障害者福祉の先進国を目指して〜
埼玉県東松山市長 坂本 祐之輔
おやじの夢を果たしたい!
私の父は、私が高校三年生の時、病気で亡くなった。父は当時43歳の若さで、数ヵ月後に控えた市長選への立候補を決意していた。現職の市議会議長であった。私は、日に日に衰える父の姿を見て悲嘆に暮れていた。そんな私に、「なんとかして病気を克服して市長選に立候補し、市長になりたい。」と言った父の姿を鮮明に覚えている。
高校卒業を控えた私は、父がなぜ43歳の若さで死ななければならなかったにか、ということを真剣に考えていた。そして、父と同じ道を歩むことにより、父の生きてきた足取りを感じることができるのではないかと思った。父の果たせなかった市長になるという夢を自分が果たす、それが市長就任までの大きな夢となった。
パワーの源
私の家は創業150年になる日本料理屋である。小学生の頃、ランドセルをしょって帰ってくると、店の上がり座敷に何人もの芸者がいて、「ユー坊、お帰り」と声を掛けてくれた。三味線の音色がいつも私の帰りを迎えてくれた。
さて、私の特技は趣味の多いことである。その趣味の多さがたくさんの友達をつくりあげてきた。幼稚園の頃から楽器の王様と呼ばれるバイオリンを習い、絵画の教室にも通い、ソロバンのお稽古、そして柔道にも通っていた。
中学に入ると、他に将棋に懲り、またギターのレッスンを受けるようになった。さらには、父に感化され釣りを始め、夏になると近くの川に行き、魚を釣っては持ち帰った。釣った魚のはらわたを抜いてもって帰ると、店の板前が天ぷらにして夕食に出してくれた。夕食はいつも家族と板前たち従業員と食べる楽しいひとときであった。今、塾に通う子どもが増え、自分の時間がないという子どもが多い。私も毎日習い事があり、子どもながらに忙しい日々を送っていたが、とても楽しく遊んでいた。
また、高校1年生の時、初めて上った八ヶ岳。その美しさに魅了され、アルプス、秩父連山、関東甲信越圏の山々を友達と制覇した。山は男の世界と言わんばかりに。大学時代の私はゴルフや空手、スキーを愛好するスポーツマンであった。もともと大学でスポーツを専攻していた私は、運動で明け暮れる日々を送った。
いらっしゃい、毎度ありぃ!
大学を卒業し、志を成就するには、まず日本料理屋である家業を建て直さなければならない。そのために東京の向島と四国の松山に板前の就業に出かけた。より多くの魚を捌くために、鮨屋でも修行した。鮨のカウンターには5人の板前がいて、私は、一番入り口に近かった。「いらっしゃい!」と「毎度ありぃ!」の私の声は圧倒的に大きく、店の活気をもり立てた。
あるとき、なじみの社長が来店し、「アンちゃんはいつも威勢がいいんじゃけんど、何を握れるんだい。握った姿を見たことがねえ」と言われた。私はまだ見習いであることを説明すると、「握ってみぃ」と言う。先輩に許可をもらって、握らせてもらった。
初めて握ったのはアナゴ。あまりにも緊張して右手から左手にシャリを移したとき、シャリがなくなってしまった。その瞬間、社長が「アンちゃん、シャリ飛んでるけんの」と言った。以来私は、シャリを飛ばすアンちゃんで名が通っていった。
燃えるのは、今!
私は修行から帰ってくると同時に結婚し、特に地元に戻ってからは、商工会青年部と青年会議所(JC)に入会し、多くの仲間とまちづくり運動を始めた。29歳の時JCの専務理事を務め、全国各地の大勢の優秀な青年たちと出会い、まちづくりには政治が必要不可欠だということを痛感した。まちづくりに対する活動が実を結ぶなか、あるとき、居酒屋でJCの仲間と酒を飲んでいたとき、「俺は市長になる!」と叫んだ。それがその場に居合わせた他のお客に伝わり、坂本屋のせがれは市長選に出るらしいという噂が広まっていった。しかし、実力を蓄えるため、修行時代としていつか市長選に出ようと意を決していた。そして店を建て直し、自らカウンターに立ち、鰻の出前もした。八面六臂の活動だった。
32歳のときチャンスが訪れた。市議会議員に立候補し、夢の実現への扉を開いたのだった。もともと声の大きさに自信があり、演説が得意であった。商工会青年部弁論大会では関東甲信越で優勝した経験もある。さらに青年会議所の若い人たちの積極的な活動のおかげもあり、2101票という大量票を獲得。過去最高点が1500票前後だったことからすると大勝利となった。昔から父を支援していた多くの人たちも、近いうちに市長選に立つことを勧めてくれた。しかし
逆に現職の市長の取り巻く議員からはバッシングを浴びることになる。出る杭は打たれるのだ。
市長選二期目もトップ当選。その選挙が終わり、次に訪れる39歳の市長選に決意を固めた。常に「俺がやらなきゃ、だれがやる!今やらなきゃ、いつやるんだ!」と自分に言い聞かせてきた。が、看板になければ、カバンもない。自分にとっては市長選という大きな戦いは体力だけが資本だと考えた。毎朝、7キロのジョギングを始め、週3回はスポーツジムに通って筋力トレーニングをおこない、身体を鍛えた。
そして迎えた市長選挙。現職は後継者を指名し、万全の態勢で選挙を進めた。地元出身の現職の国会議員、県会議員、そして各自治体などが相手候補への推薦応援をおこなった。まるで大きな山が動き出しているようだった。
私はというと選挙にかかったすべてのお金を事務所に掲示し、ボランティアによる徹底的にクリーンで清潔な選挙をおこなうことを心掛けた。市議会議員団の応援も真っ二つに割れるほどの激戦だった。私を応援してくれた元市議会議長が「ゆうちゃん、歩いた方がいいよ。」とアドバイスしてくれ、一軒一軒訪ね回ることを決意し、市民に顔の見える候補者として活動を始めた。当初、私は友人と二人で、市内を一軒一軒訪ねて回ったが、雨の日も雪の日もただひたすら1日300軒400軒と回っていくなかで、大勢の友達や仲間が賛同し、閑散としていた事務所にも人が集まるようになった。
一軒一軒、もう一軒
新しい風が吹き始めた。ある先輩からは「辛くなったら、『一軒一軒、もう一軒。一軒一軒、もう一軒。』そう唱えるんだよ。」という言葉をいただいた。私はその言葉を毎日呟きながら、まるで行脚のように寒い冬の日から、目もくらむほど暑くなった7月の選挙戦まで、街を歩き続けた。
ある農家をお訪ねし、入口と玄関までが長いので、垣根をぬけて玄関先に立った時、「あんた、市長になろうとする人なら、堂々と正面から入って来なさい。」と注意され、農道100メートルを走って戻り、そしてその方に改めてお会いしたところ、「そこまでの素直さとやる気があるならば喜んで応援するよ」と言ってくれた。うれしかった。
そんなことがあり、古い婦人用自転車をこいで、回り始めることにした。数週間が過ぎたある日、事務所に5人の女性の匿名で新品の自転車が届いた。「みんなのお金を出し合って自転車を買いました。これに乗って頑張ってください。」というメッセージとともに。事務所にいた私と支援者はとても感動した。私はその自転車に乗り、元気よく市内を回り始めた。途中、何回か犬に噛まれたり、ボーフラのわく溝に自転車で落ちたりしたこともあったが、どうにか7月の市長選を迎えた。近年にない猛暑の年であった。今までに訪れた家の数は25,000軒を越えていた。市長選1週間は自ら車に同乗し、150カ所を越える街頭演説をおこなった。支援者の努力が実り、私は当初1対9で負けると言われた選挙に勝利を治めた。あの時の感激は今でも忘れられない政治の原点である。
すてきな風をあなたからつくろうまちの物語
市長になって、私は太陽に向かって真っすぐ伸びていくひまわりのような明るい市政を目指した。まず、職員の責任を明確にするために小さい名札を顔写真のついた大きなものに変えた。さらに市役所への電話対応は、「お電話ありがとうございます。東松山市役所です。」で始まって、各担当職員は自分の名前までしっかり伝えることにした。
また、とかく憂鬱な月曜日は「カジュアルマンデー」とし、自由な服装の日を設けた。私は商人の出身なので、市民が来訪するときには、お客様をお待ちする心掛けが大切であると考えている。「1ににっこり、2におじぎ、3に言葉を掛けましょう」と常に言っている。まさに市役所は市民のためにこそある。さらに女子のお茶くみ禁止、庁内のタバコの禁煙を始めた。
また「臨機応変、即実行」を旨とし、現場主義を貫いてきた。定期的にごみの収集車に乗り、市内1500カ所の集積所(クリーンステーションと呼んでいる)を自らの目で確認し、収集することはとても意義深い。また、し尿バキュームカーにも時折同乗し、現場での把握に努めている。
東松山市には二つの駅があるが、毎月早朝駅に立ち市政報告(駅頭)をおこなっている。駅の構内に向けてワイヤレスマイクを使って報告するので、ホームで電車を待っている通勤通学や買い物に向かう市民は自然に私の声が耳に入る。この報告を受けることにより私の熱い思い、市政の進展を知っていただくことができる。雨や雪の日の駅頭は大変辛く、使い捨てカイロをワイシャツの上に10個以上貼り、さらには靴の中にも入れる。毎回応援に来てくれる14〜15人の青年たちにも、ともに苦労してもらっている。その後みんなで語らいながら食事をとると心まで温まる。
ノーマライゼーションのまちづくり
東松山市の施策の特徴は、なんと言っても福祉であろう。その基本理念は、障害のある方もそうでない方も、ともに暮らしを分かち合える社会、もし障害をもったとしても、自分が生まれてきた地域で、今自分が住んでるところで安心して自立をして、生きがいを持って生活を続けることができるノーマライゼーションのまちづくりを、すべての施策の根幹においている。
就任後、現場主義をモットーとしている私は、ホームヘルパーと一緒に、介護の必要な方々の家を伺ったことがある。その時、80歳を過ぎた全盲の方に話をうかがった。一人暮らしをしているとなかなか食事が作れないという悩みがあるそうだ。医食同源という言葉があるように、食事は健康の源である。社会福祉協議会を受け皿にして、365日の配食サービスを実施しようと提案した。しかし、職員は「月2〜3回なら、否、週1回ならできるかも」と弱腰である。その時浮かんだ言葉はバリアフリーであった。バリアフリーという言葉は市役所の中においては職員のことを指すのかもしれない。最終手段に出た。私は議会で配食サービスを独断で発表した。一人暮らしのお年寄りの手元に毎日お弁当が届くまで、その間わずか3カ月。現在130名のお年寄り・障害者が利用しており、600名以上の配食ボランティアに活躍していただいている。やろうと思えばなんでもできるのである。現在は障害者世帯と超高齢者世帯にもお届けしている。
その他、埼玉県下90市町村に先駆けて24時間巡回型ホームヘルプサービス事業、高齢者・障害者の権利擁護のための財産保全管理サービス事業、社会福祉協議会の年中無休化、障害者のためのレスパイトサービス、平成12年10月にオープンした「総合福祉エリア」内に、身体・知的・精神・高齢障害に加え、交通事故などの一時的障害を持った方のための『総合相談センター』を設置。しかもそれは年中無休で24時間受付・相談・ヘルパーの派遣体制をとり、全国では初めての施策である。現在では、専任手話通訳者を配置することで更なる充実を図っている。
また、障害のある方の就労をより強く支援するため、心身障害者地域デイケア施設・精神障害者小規模作業所・障害者就労支援センターを一体化にした施設を建設した。このような3障害揃った形態は全国に先駆けた施設である。さらに社協による「重度知的障害者グループホーム」の立ち上げや精神障害者に対する短期宿泊(シェルター)事業、運転免許取得費の一部補助など、支援体制を積極的に進めている。
今私には、二人の息子がいる。野球を愛好し元気に成長している。幼い私の息子たちがもし障害を持って生まれてきたら、またこれから障害をもつとしたら、政治家として何をすべきなのか親の立場になって、そして本人の立場になって毎日考えている。このまちで生まれた障害のある子供が、このまちを愛するには、自分が生まれた地域の学校で学び育まれることは当然のこと。
私は障害をもった人から見た社会、障害者が住みやすい社会こそが、人にやさしいまちであり、すべての人が心豊かに安心して暮らせるまちだと確信している。これからもノーマライゼーションのまちづくりを積極的に推進していきたい。
挑戦
「希望は心の太陽、努力は心の王道、苦難は心のセレナーデ、希望ある所に必ず道が開ける。」
私は職員に対し、何事にも挑戦することを推奨している。前例にとらわれず、何事にも新しい感性をもって積極的に仕事をいてほしい、その責任はすべて私がとると言ってきた。
個々人のライフスタイルにおいても自分らしさを磨き、楽しい人生を送らなければいけない。私は市長に就任してからスキーでは一級、その後準備指導員、さらに正指導員の資格を取得した。技術にはお世辞はないと言われているが、私はこのスポーツが好きで11月〜4月まで休みが取れるとすべてスキーに費やしている。現在では社会福祉協議会にチェアスキーを購入し障害のある方々に貸し出し、楽しんでもらっている。大勢の市民と一緒に雪のない埼玉県から遠隔のスキー場へ出かけ、楽しくスポーツをしてもらいたいと熱望している。同じスポーツを一緒にできることにより、心のバリアフリーにもなるのではないかと考えている。
また、市役所でバンドを組み、学生時代に培ったエレキギターを弾きながら、加山雄三、プレスリーから、GLAY、サザン、SMAPの歌まで歌っている。障害者施設や老人ホームで演奏し、職員にも聴いてもらっている。最近ではテナーサックスも始めた。先般、スカイダイビングにも挑戦した。高度3500メートルから飛び降りる爽快感は文字では伝えることは難しい。
こらからも個人の感性を磨くことを大切にし、スポーツマンらしく市政を明るくさわやかなものとしていきたい。