OG VOL17 『戦・幻想号』HELLO OG! INTERVIEW 暗黒プロレス団体 バカ社長 THE CRAZY SKB 見参

パンクとプロレス、そしてドリフ。それがオレの生き方…。

OG 今年最後の大一番、2007年のHELLO OG!の大トリは日本一怪しい音楽産業組織「殺害塩化ビニール」の代表取締役社長であり、パンクバンド「QP-CRAZY」をはじめとする数々のバンドを牽引するミュージシャンであり、現役のプロレスラー、しかも「666(トリプルシックス)」なる暗黒プロレス団体の黒幕も務める通称バカ社長こと、the CRAZY-SKBさん(以下、社長)に飾っていただきます!

社長「遠いところすいませんね、こちらこそよろしくお願いします(ニッコリ)」

THE CRAZY SKB

OGおろ? 意外に優しい方なんですね!

社長 「いや、そうでもないですよ(ギロリ)」

OG・・・・・・と、とりあえず社長のことを知らないユーザーもいるかと思いますので、まずはベーシックなところから順に聞いていきますね。そもそも、社長はミュージシャンなのになぜプロレスやってるんですか?

社長 「いや、もともとはバンドとかいうよりも悪役のプロレスラーになろうと思っていろいろと生きてきましたから」

OG 社長の夢は悪役プロレスラーになることだったんですか?

社長 「そうですね。小学校二年生くらいのときにプロレスを観始めまして、 親父が好きで観てたもんですから自然と一緒に観るようになって、アントニオ猪木と上田馬之助とのネールデスマッチを観ちゃって何かに目覚めちゃいましたね」

OG 昭和53年2月8日日本武道館で行われた日本初の釘板デスマッチですね! 5センチ長の釘を打ちぬいたベニヤ板をリングサイドに32枚敷き詰めるという(苦笑)

社長 「今観ると、上手い事やるなぁと納得出来る試合なんでしょうけど、子供心に『すげぇ!』って思っちゃって。それと、全日本(プロレス)のオープンタッグ(世界オープンタッグ選手権)ですね、(アブドーラ・ザ・)ブッチャーと(ザ・)シークを観て、もう将来はプロレスラーになるしかないって心に決めましたね」

OG具体的な努力なんかは?

社長 「もちろんしましたね」

OG小学校二年生から!

社長 「いや、中学になって柔道とかベニー・ユキーデのマーシャルアーツとかいろいろ始めましたね。で、プロテインなんかもガンガンに飲みまくって体を大きくしようと思ったんですけど、これがまたなかなか大きくならなくて・・・・・・、身長も体重も足らないなって思って」

THE CRAZY SKB

OG 身長や体重が標準の人でもプロレスラーとしてデビューできるリングがある今と違って、昔のプロレス界は「大きくないとダメ」的な狭き門でしたからね。

社長 「そうなんですよ。だからリングでプロレスするプロレスラーになるのはひとまずそこで諦めたんですよ」

OGリングでプロレスするプロレスラーになるのを諦めた!?どういうことですか?

社長 「いやですね、中学二年生のときなんですけど、友だちがバンドを作ったっていう情報を耳にしたんですよ。で、『なにチャラいことやってんだよ! ゆるせねぇ!!』ってなって、そいつらが練習しているスタジオに乱入して、そいつらの楽器とかスタジオの機材やなんかをめっちゃくちゃに破壊してやったんですよ」

OG アハハハハ!

社長 「 で、ギターを床にこうガーンって叩きつけた時にスタジオに鳴り響いたノイズを耳にして、『あれ?』って思っちゃって」

OG まさかその衝撃音で音楽に目覚めた?

社長 「ですね。でも、音楽もそうなんですけど、やっぱり一番に目を覚ましたのはプロレスでしたね。そんときにね『リングでプロレスできなくても、バンドでプロレスすりゃいいんじゃん!』って気持ちになったんですよ」

OG バンドでプロレスすりゃいいんじゃんって(笑)

社長 「今もですね、基本的というか、見た目はバンド活動ですけど、自分はプロレスだと思ってやってますからね。でね、その衝撃で開眼して、そのままそのバンドを乗っ取ったんですよ」

魔界八犬伝SHADA

OG お友だちのみなさんもたまったもんじゃありませんね(苦笑)

社長 「今考えたらめちゃくちゃですよね。でね、自分がレスラーになったときに使おうって思って考えてたリングネームが『恐悪狂人魔』ってリングネームなんですけど」

OG 恐悪狂人魔! もうこれ以上悪くはなれないってくらい悪いリングネームですね。

社長 「カッコいいでしょ! で、その恐悪狂人魔の『魔』を『団』にかえて、そのバンドの名前を『恐悪狂人団』ってバンド名に強引に改名させたんですよ」

OG 何気に恐悪狂人団誕生のルーツですね! でも、みなさん納得されたんですか?

社長 「う〜ん、確かめてはいないですけど、多分今は納得してんじゃないですかね。で、それが83年の4月頃だったんですけど、自分はもうプロレスしたくてしかたがなくてですね、その数週間後に渋谷の屋根裏(旧/日本のロックシーンの根底を支える老舗ライブハウス)でワンマンでやったんですよ」

OG いきなりワンマンですか! しかも結成して数週間の中学二年生バンドが屋根裏!

社長 「まぁ昼の部でしたし、お客さんは6人くらいでしたけどね(苦笑)。でも、もう客入りなんて関係なくてですね、とにかく1,2,3.4!ってカウントをとって、次の瞬間音さえ鳴ってりゃいいだろ的な演奏を三時間くらいノンストップで」

OG もちろん曲らしい曲などなく?

社長 「まったく曲らしいものはなかったですね。なんていうんだろ、ほっとんど演奏ってものはなくて、もう単純に”音”ですね。当時の屋根裏の店長さんに『もう帰れ』って言われました。しかもライブ中に(苦笑)」

OG アハハハハ! 屋根裏でダメなら他のライブハウスでって感じですか?

社長 「まぁそうなんですけど、ライブハウスだとライブをするのにお金とかかかっちゃうんで、地元の練習スタジオを借りてそこにお客を入れてやったりしましたね。もちろん、プロレスだと思ってやってますし、スタジオの中で乱闘、花火とか爆竹とか放尿とか臓物とかいろいろやりましたね」

OG もうその頃からスイサイダル極まりないパフォーマンスをされてたんですか?(苦笑)

社長 「プロレスですからね。スプリンクラーがガンガンに回っちゃって、スタジオの機材が台無しになっちゃったりとかして大変でしたけど。あとはそうですね、楽器を持ってデパートの屋上に行ってですね、1,2,3.4!ってカウントをとって、消火栓をおもいきりひねって屋上を水浸しにしたりとか、1,2,3.4!ってカウントをとって、デパートの食料品売り場で消化器をまき散らしたりとか」

THE CRAZY SKB

OG うわぁ、ライブというよりテロ活動ですよね。一応楽器は持っていくとこが最高ですけど(笑)

社長 「バンドですからね。あと、地元が湘南なんで、1,2,3.4!ってカウントをとってよく漁船を破壊してましたね」

OGぎょ、漁船まで破壊しましたか! でも、よく周りのメンバーがついてきましたね?

社長 「いやもう気づいたらみんなそんな感じだったんで(笑)」

OGもともとハードコアバンドだったんですか?

社長 「ハードコアバンドというか、言うなればハードコア精神ですね」

OGなるほど、そいつは名言ですね! では、バンドとしてというか音の方向性っていうのはあったんですか? 例えば、好きなバンドとか。

社長 「スターリンが大好きでしたね。最初はスターリンとブッチャーとシークを意識しまくってバンドしてましたね」

OGスターリンとブッチャーとシークは同一線上に並ぶ存在なんですか?

社長 「もちろんですよ、自分のルーツは基本的にスターリンとブッチャーとシークのミクスチャーなんで」

OGアハハハハ!

社長 「あと、絶対に忘れてはいけないのはドリフターズですね。パンクとプロレスとドリフ、基本はこの三本柱のクロスオーヴァー(融合)です、もう物心ついたときからその部分(ドリフ)は変わってないです」

レーベル発足! それは、血で血を洗う毎日から生まれた…。

THE CRAZY SKB

OG 恐悪狂人団のメンバーのみなさんは、そんな社長の思考回路を理解してくれてたんですか?

社長 「基本的に同じ感じの考えを持つ人間同士でつるんでたんでそのへんは全然大丈夫でしたね。自分らはもうなんていうんですかね、恐悪狂人団もそうですけど、中学くらいからは学校はプロレスをやりにいってましたから、本気で」

OGもう日常の全てがプロレス?

社長 「その通りですね。自分はさっきも言いましたけど全日派だったんですよ。全日本プロレスには春はチャンピオンカーニバル、夏はサマーアクションシリーズ、冬は世界最強タッグ決定リーグ戦っていう流れがあるんですけど、そのまんまでスケジュールを組んで、休み時間や昼休みを利用 して、一試合ずつ丁寧にスケジュールを消化してましたから」

OGアハハハハ!

社長 「小学校から高校卒業するまで仲間が同じだったんで、かなりの試合数をこなし てきましたね。試合はもう本気ですよ。小学校のときはプロレスごっこで済んでたんですけど、中学ぐらいになると、もうホントにテレビとかで観たまんまにやってましたね。オレなんか悪役なわけですから、フォークとかボールペンで相手の額や背中をズッタズタにしてました。火炎攻撃で相手の顔焼いたり(笑)」

OGうわぁ、血糊とか使わずガチ流血ですか?

社長 「そうそう、もうマジですよ。でね、休み時間が終わって授業に戻るわけですけど、やられた相手のワイシャツの背中が血だらけなんですよね。で、先生に『これどうしたんだ?』って聞かれても、『いや、なんでもないです』って感じで」

OGそこは仲間内でシークレットにしてたんですね。

社長 「バレたらプロレスできなくなる可能性がありますからね。もちろん、プロレスが好きな仲間同士でやってるわけですから、イジメとかなんて全然ないですから」

OGあったら大問題ですよ! というか、すでに問題ありありなんですけどね(苦笑)

社長 「でね、学校にプロレスが好きな先生がいたんですけど、その先生が仲間に入れてほしいってやってきたんですよ。最初はわいわいやってたんですけど、最後は本格的になってきて、それを他の先生に見られちゃって、『教師をリンチしてるんじゃないか?』ってことになって、なんとその先生が『襲われた』とか言い始めちゃって、めちゃくちゃ怒られたときもありましたね。当然その先生にはおとしまえつけてもらったけど。それでいろいろあって、高校になったらもっとエスカレートしちゃって」

OG具体的にどうエスカレートしたんですか?

社長 「校舎の二階から下にいる相手にダイブとか(平然と)」

OG・・・・・・、よく死にませんでしたね(苦笑)。体育館とかで、床にウレタンをひいて飛ぶってのはボクらの学校にもありましたけど。

社長 「小学校のときはそういうこともよくやりましたけど、高校にもなるとウレタンとかそんなのはなかったですね。体育館っていえば必ず壇上みたいな感じのステージがあって、ステージ脇の床に穴があいてて、緞帳(どんちょう)を引っ張ったりする機械が、その穴の下にあったりするじゃないですか、で、危ないからその穴の周りは金網で囲ってあるんですけど、そこも最高のプロレススポットでしたね。その金網を利用して、相手を穴にに落としたら勝ちとかね」

THE CRAZY SKB

OG 金網デスマッチのリングが普通に高校内にあったわけですね。

社長 「あと、自分は電車通学だったんですけど、通学時のホーム内も気が抜けませんでしたね」

OGまさか駅のホームでもプロレスしてたんですか?

社長 「当たり前じゃないですか。ホームから線路に突き落としたほうが勝ちっていうルールで下校時に試合してましたね。コンクリートブロックで相手の肋骨を折って停学になったりもしました(苦笑)。プロレスが理由で停学ってなかなかあり得ないですよね」

OG停学どころか今までの話のほとんどがあり得ないですよ!話だけで痛みが伝わってくる学園内プロレスなわけですけど、同時進行でバンド内プロレスも絶賛進行中だったわけですよね?

THE CRAZY SKB

社長 「もちろんですよ。また中学まで話がさかのぼっちゃうんですけど、恐悪狂人団を広く知らしめたいって考えて、中学のときに『人つ目レーベル』ってレーベルを作って自分らのカセットテープを作って自主制作のバンドを取り扱ってるお店やなんかに卸し始めたんですよ」

OG現在の『殺害塩化ビニール』の前身となる伝説のレーベルですね。 でも、立ち上げたのが中学生のときだったってのには驚きですよ!

社長 「とにかく何でもやってみたかったんですよ。人つ目レーベルからはカセットをたくさんリリースしましたよ。あとLPも、アルバムですね」

OGレコードもリリースしたんですか!

社長 「えぇ、『ヘドロ』ってアルバムを中学三年のときに。ちなみに限定1枚で」

OGげ、限定1枚!?

社長 「自分たちももってないっていうね(苦笑)。中学生には値段が高すぎて1枚しか作れなかったんですよ」

OGそれって今どこにあるんですか?

社長 「当時、中野のレコード屋に置いてもらってたんですけど売れないから引き取ってですね、別のレコード屋に委託したら売れちゃって。で、それが流れ流れて、マリア観音っていうバンドの人がやってるレコード屋さんにあるみたいですね。一時期お店に飾ってたそうなんですけど、問い合わせが多いんで自宅に持って帰ってるって話です。正直、返してほしいですね。」

OGそりゃ返してほしいですよね。でも、月並みな私感で恐縮ですけど、レーベルを作って、自分たちの作品を自主製作して市場に流通させようと考えた中学生ってスゴくないですか?

社長 「たしかにそう思われて当然かなとも思いますけど、自分の中では当たり前だなというか、とにかくすぐにでもいろいろやりたかったんで、バンドも組んだらライブをやりたい。自分たちの音を発表したいって感じで。カセットテープだったら空のテープを買ってきて、録った音をダビングしてジャケットつけて卸せばいいだけですからね」

OGでも、当時そんなことをやってたというか、考えていた社長と同年代の人っていたんですかね?

社長 「いないですよ! 特に地元じゃ絶対にいないですね。自分らの周りなんてサーファーかヤンキーばっかりでしたから。当時の湘南なんてサーファーになるか暴走族になるかしか青春の選択肢がありませんでしたから(苦笑)」

OGじゃあ、社長が当時の湘南の若者たちに新たな選択肢を提示したことになるわけですね!

社長 「そうですね、レールを敷きましたよ。誰も続いて来ませんでしたけど(笑)」



  
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