この夏、話題になったのは、日本ハムのBSE(狂牛病)をめぐる牛肉偽装事件だったが、たった九〇万円の補助金詐取で日本中が大騒ぎしているころ、 総務省は地上波デジタル放送に一八〇〇億円の補助金を投入する方針を決めた。一見なんの関係もないように見えるこの二つの事件には、実はつながりがある。
地上波デジタル放送は、来年末から「試験放送」が始まることになっている。現在のアナログ・テレビ放送はVHF帯(一〜十二チャンネル)で行われて いるが、これをUHF帯(十三〜六二チャンネル)に移し、二〇一一年にはVHFの電波を止めることになっている。一億台以上あるテレビが、九年後にはすべ て「粗大ゴミ」になってしまうという驚くべき計画だが、国民にはほとんど知らされていない。
しかしUHF帯は、今でもアナログ放送に使われている。首都圏では多摩にUHF局があるため、来年始まるデジタル放送は、東京タワーのまわりの半径 一キロしか電波が出せない。こうしたアナログUHF局のアンテナと家庭の受像機の周波数を変更し、デジタル用の周波数を空けようというのが「アナアナ変 換」である。その費用は当初、八五〇億円程度とみられ、総務省はそのうちNHKと地方民放の約七〇〇億円を国費支出することを決め、今年度の当初予算に計 上された。ところが実際に作業を始めてみると、その二・五倍もかかることがわかって作業は中止され、今度は残りの一一〇〇億円の補助金を「お代わり」しよ うというのだ。しかも、この財源は携帯電話の利用者の負担する電波利用料から支出される。これはわかりやすくいえば、区画整理で新しい土地に引っ越すテレ ビ局の引越し代金を、携帯電話利用者のカネでまかなおうという虫のよい話だ。もちろん携帯電話業界は強く反対している。
それにしても、こんな訳のわからない補助金がなぜ出てくるのだろうか。BSE問題と共通するのは、行政の失敗をごまかすバラマキだということであ る。立花隆氏は、こうした手法の生みの親は田中角栄元首相だと分析している(『「田中真紀子」研究』文藝春秋)。一九七一年、通産相に就任して日米繊維交 渉に取り組んだ田中は、それまで数年間もめ続けていた交渉をわずか三ヶ月でまとめ上げた。その手法は、米国の要求を受け入れて日本が輸出自主規制を行い、 それによる国内の繊維業者の損失を二千億円以上の「国内対策費」で補償するというものだった。外交交渉で譲歩する代わりに「つかみ金」で国内業者を押える というこの手法は、のちの牛肉・オレンジやウルグァイ・ラウンドなどで多用された。その延長上に今回のBSEやアナアナ変換があるわけだ。
それでもBSE対策の補助金には感染拡大の防止という大義名分があるが、アナアナ変換のようなテレビ局の私的な業務になぜこんな巨額の国費が投じら れるのか――そこにはもう一つの田中の負の遺産がある。田中は一九五七年、三九歳で岸内閣の郵政相になり、一挙に四三ものテレビ局に免許を出した。このと き彼は全国の免許申請者を郵政省に集め、みずから「一本化調整」を行なったといわれる。彼は電波利権にいち早く目をつけて郵政省を田中派の金城湯池とし、 この遺産は今なお受け継がれている。もちろん、こうした調整の報酬は必ず取るのが田中型政治の特徴である。テレビ局の場合には、地元資本による政治献金も さることながら、ローカルニュースで自民党の政治家の「お国入り」を紹介することが大きな効果を持った。政治家が地元民放で「国政報告」の定時番組を持っ ていることも多く、田中も一時は地元の新潟放送で三〇分のテレビ番組を週二本も持っていた。
そして一九七二年、田中が首相になって行なったのが、全国のテレビ局の系列化だった。初期のテレビ局は、新聞社とのつながりはそれほど強くなく、毎 日新聞系の東京放送(TBS)の系列に大阪の朝日放送(朝日新聞系)があるなど、系列も一本化していなかった。しかしテレビを傘下に収めたいという新聞業 界の要望に応えて田中は、株式交換によって系列を一本化し、NET(日本教育テレビ)を全国朝日放送(テレビ朝日)と改称して朝日放送と系列化するなどの 大規模な業界再編成を行なった。
これを契機として、全国各県に系列それぞれの地方民放を置く「各県四局体制」がとられるようになり、急増する新設局を収容するためにUHF帯が虫食 い状に使われたことが現在の苦境を招く遠因となった。しかし新聞でさえ各県一紙あるかどうかという広告市場で、各県四局も民放が成り立つはずがない。事 実、民放一二七社の営業収入をみると、図1のように東名阪の二八社で七〇lを占め、残りの三〇lを約一〇〇社でわけあっているのが実情だ。
ここからもわかるように地方民放は、平均年商六十億円の中小企業にすぎない。これでは経営が維持できないので、「電波料」で調整する。これは地方民 放が番組を配信してもらう料金を在京キー局に支払うのではなく、逆にキー局が地方局に支払うのである。この商品を供給する側がカネを払うという奇怪な商慣 習は、全国放送のコマーシャルを地方局に流してもらう対価ということになっているが、いくら支払っているのかは明らかにされていない。関係者によると「単 価は決まっておらず、経営の苦しい局を助けてやる『相互扶助』方式だ」という。このシステムのおかげで、地上波テレビ局は五十年間、倒産どころか合併・買 収も一件もない(詐欺の被害にあって倒産したKBS京都を除く)という銀行も顔負けの「護送船団」である。
こうした田中角栄の呪縛は、今も放送業界の近代化を阻んでいる。世界の放送・メディア業界は、通信衛星の利用やブロードバンド化によって大型合併や 国際化が進み、きわめて資本集約的な産業になっており、せまい日本に中小企業が百社近くひしめく民放業界が今のまま生き残れるとは考えられない。地方民放 の実態はキー局の中継局だから、本来はキー局が地方局を買収して子会社にすればよいのだが、実質的に政治家に支配されている地方局は、総務省のいうことを 聞かない。政治家は県域放送だからこそ私物化できるので、いくら経営が苦しくても統合を許さないのだ。
総務省が地上波のデジタル化を進めた背景には、これを梃子にして業界の整理・統合を進めようという意図もあったが、地方民放は、政治家を頼って国費 を引き出す方向に動いた。つまり今回の一八〇〇億円は、経営の行き詰まった地方民放の救済資金なのである。その大義名分として、アナログ放送を止めたあと VHF帯を移動体通信に「有効利用」するということになっているが、BSデジタルテレビの売れ行きは月産六万台程度で頭打ちだ。このペースでは、一億台以 上あるアナログテレビをすべて置き換えるには一三〇年以上かかる。米国ではデジタル化の開始から四年たってもデジタル受像機は百万台にも届かず、今年八 月、FCC(連邦通信委員会)はテレビにデジタルチューナーの内蔵を義務づけるという強権発動を行ったが、米国では八十l以上の家庭がCATV(ケーブル テレビ)で見ており、これはテレビの価格を百ドル以上上げるだけだ。日本でも、結局UHF・VHF両方を占拠したまま立ち往生し、かえって電波の浪費に終 わるだろう。
しかも、この補助金によって民放は、自民党に大きな「借り」を作った。最初の八五〇億円が減額された(キー局が除外された)のも、森内閣の中川秀直 官房長官の録音テープを一部の民放が流したことに自民党の郵政族のドンが怒ったためと伝えられる。その後、日本テレビは民主党のコマーシャルを「自粛」す るなど、効果はてきめんだ。
田中的なバラマキは、短期的には紛争をスムーズに解決するが、一度つかみ金に味をしめた業者は、その後も国費を要求し、補助金漬けになって繊維や農 業のように業界全体が衰退してしまう。そして最後は、このつけは膨大な財政赤字となって国民に回ってくるのである。放送業界も同じ道を歩み始めている。ア ナアナ変換が終わっても、次は放送設備のデジタル化に一兆円以上が必要になるが、地上波デジタル放送は基本的にサイマル(同時)放送だから広告費は増えな い。したがって民間放送連盟のシミュレーション(図2)でもわかるように、地方民放が放送開始する予定の二〇〇六年から新設局は一割近い赤字となる。この まま二〇一一年にアナログ放送を停止したら、放送局の経営はすべて破綻するだろう。
またCATVもデジタル化しなければならないが、その視聴者は今や二千万世帯を超える。しかも事業者が七百社近くあり、その半分以上が赤字だ。した がって次に出てくるのは、地方民放やCATV局のデジタル化投資への公的資金の要求だろう。また米国のようにテレビにデジタル・チューナー搭載を義務づけ ることも検討されている。今回の一八〇〇億円は、泥沼の始まりにすぎない。今回の総務省の予算要求が、そのまま財務省の査定を通ると見る関係者は少ない。 非公式の折衝では、テレビ局の負担する電波利用料を値上げすることによって実質的に減額する「落とし所」がさぐられているという。しかし電波利用料に手を つけると、携帯電話業者が四〇〇億円も払っているのに、その二倍近い周波数を使う放送局が五億円しか払っていないという不均衡を是正しなければならない。 もしも携帯電話業者と同額にしたら、せっかくの補助金は五年で帳消しだ。
この行き詰まりを打開するには、現在の計画をいったん凍結し、抜本的に見直すしかない。欧米でも地上波デジタル放送はすべて失敗しており、日本が急 いで追随する理由はない。また今の経営体質の弱い地方民放を全部デジタル化することは不可能であり、むしろ田中角栄の亡霊はアナログに閉じこめたほうがよ い。デジタル放送は、内外の新しい事業者の参入によってブロードバンドでやればよいのである。いま日本の直面している最大の課題は、こうした田中型政治の 負の遺産を清算し、自由競争と自己責任の原則を確立することだ。今回の地上波デジタル放送への国費投入を止めることができるかどうかは、日本の政治が再生 できるかどうかの試金石となろう。私たちは今、これに反対する署名運動を行なってい るので、ぜひご協力いただきたい。