事実に「即して、書く」ということにこだわり、その正確さを第一に心がけ、一片の無駄もなく不足もない。物書きであれば、そういった文章を我が物とすることに汲々とするのは当然のことだ。『猟銃』で文学界に一石を投じるまでの10年間、井上靖は大阪毎日新聞社で社会部に所属し、「徹底的に調べて書く」「読者の興味を引くように書く」という基礎を身につけた。そこに飛翔する想像力を働かせて、『敦煌』『蒼き狼』など、オリエンタリズムに史実と主観を融合させた作品を生み出した。記者時代の部下に、山崎豊子がいた。彼女への指導にも、「よい作品は事実の積み重ねの上に成り立つ。君の作品は豊富な裏付けが取られて書かれている。その意味で、よい作品の条件の一つを満たしている」と評価していた。
わたしが井上の文体を好きでいられるのは、膨大なリサーチと読み手に配慮したバランスがなされていることにあると思っている。それでいて、文学の薫りが失われてもおらず、司馬遼太郎の「司馬史観」のような大局観に埋もれる危うさも孕んでいない。井上の文には、人間の矮小性と宿命観とでもいうような運命の荒波に向かった人間たちの姿が、歴史の一断面として文学的にも興味を起こし続ける。論争好きで知られた大岡昇平が『蒼き狼』のチンギス・カン(Činggis Qan)の扱いに「史実に対して主観が強すぎる」と苦言を呈したこともあったが、本書は件の事実を尊重する姿勢の中に、天平の日本において仏教の戒律をもたらすために遣唐船で入唐し、唐の名僧・鑑真を招来する使命を任じられた4人の留学僧の物語が織り込まれていく。個人の烈しい情熱や鉄の意志を超えた、悠久の時間の流れにある無常な運命観が緊張に満ちて展開される。そこには、史料をひも解くだけでは必ずしも知り得ない、虚無感のうちに苦闘する人間の追い求める真理が息づいている。
上 《井上靖》
下 《大岡昇平》
右 《山崎豊子》
天平の甍
補陀落渡海記
解 説……………山本健吉
二つの僧の物語…河上徹太郎
四高の先輩たち…杉森久英
代表作品解題
参考文献
年 譜 |
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仏教が伝来してから180年が経過した天平5年、第九遣唐使派遣が決定された。課役逃れの出家僧が蔓延り、いまだ確たる戒律もない。正式な授戒制度を整えるためには、唐から学徳すぐれた僧を招くことが仏教界の要請である。そこで、留学僧として大安寺の普照、興福寺の栄叡が任命される。二人が第九遣唐使船に乗り込むと、留学僧の戒融、玄朗がそこに加わる。唐の地を目指し出航したが、波浪に弄ばれ、暴風雨にも襲われた。酔いと恐怖におののきながらも、3ヶ月以上を経て蘇州に到着。朝廷のある洛陽へと向かう。大福先寺に落ち着き、留学生活が始まる。4人は、30年前に入唐した老留学僧に出会った。今は堕落してしまった景雲、また膨大な経典を熱心に写経しいつか日本に持ち帰ることを生涯の信念とする業行である。留学の意味を各自で模索する普照らだが、戒融は托鉢僧の道を選び、離脱する。意志薄弱な玄朗もまた、還俗して唐の女性と結婚、子をもうけ安住する。
《高野山大師行状図絵・遣唐使船》
洛陽から長安に移り7年を過ごした普照と栄叡は、揚州・大明寺で55歳の鑑真と面会し、鑑真門下の僧を来日させる許可を求めた。志願者が名乗り出ないため、鑑真自ら法のため、蒼海を隔てた日本に赴くことを決断すると、17名の高弟が鑑真に従属して来日することが決まった。しかし、渡日の許可は下りず、鑑真と弟子は国禁を破って5回の航海を試みるが、妨害、難破、漂流でいずれも失敗に終わる。栄叡は衰弱死、鑑真は失明する。しかし鑑真は執念を絶やすことなく、遣唐副使の大伴古麻呂の助けを借りて6度目の航海に臨んだ。ほどなくして大暴風が一行を襲う。鑑真の乗り込んだ船は持ちこたえ薩摩半島に無事着くのだが、業行が留学生活のすべてを費やした何十、何百巻もの経典の写しは、業行の絶叫とともに海の藻屑と消え、業行も海中に没した。かくして、10年の歳月をかけ鑑真来日は果たされ、天平宝字三年、鑑真は唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。留学僧でただ一人、鑑真が日本の地を踏んだことを見届けた普照のもとに、唐から甍(いらか)が届いた。贈り主は不明だが、戒融と玄朗のいずれかであろう。甍は、唐招提寺金堂の屋根に載せられた…。
《唐招提寺金堂》
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唐招提寺は、南都六宗の一つである律宗の総本山である。鑑真がここで当初、私寺として律学を開き、講律受戒を開始したところ、四方から学徒が集った。普照を中心とする留学僧と、その中心にある鑑真が描かれるが、伝記の体裁を取ってはいない。彼らを取り巻く、見えない大きなうねりと流れ、それが常に物語を取り巻く「気」のようにたゆたっている。昭和30年頃、井上は早稲田大学の安藤更生により「自分は鑑真伝の研究をするが、あなたは鑑真を小説で書いてみてくれないか」と言われたことをきっかけに、構想を始めた。半ばおだてられ、半ばもたれるような気持ちで、本作に取り掛かったことを井上は語っている。
留学僧たちの使命は、基礎の定まっていない仏教の戒律を導入するという宗教的な意義と、その仏教を国家体制の維持と安定に活用するべきという政治的観点の意義があった。黎明期を経て、不安定な律令国家ともいえる時期にさしかかっていたことを、朝廷は危惧していた。当時の僧侶は課役を免れる特典が付与されていたため、窮乏生活を避ける目的で出家する輩が続出していたのである。仏教徒にとっての戒律とは、釈迦の説く道徳と智慧とを自律をもって奨励するものである。五戒と無数の戒律をもってすれば、法令よりも民衆を取り締まるのに有効である。さらに、自由な出家を禁じ、正式に僧侶と認めるための儀式(三師七証)を授けるための僧を育成するよう、知太政官事・舎人親王は聖武天皇に奏上し、学識高い僧を招聘することを決めたのだった。
《井上靖全集》
朝廷の求める僧・鑑真を連れ帰るまで、20年の期間を普照は費やしている。志をともにしたはずの留学僧は広大な唐の地で別れ、あるいは使命の全うにすべてを捧げてきた輩(ともがら)は無念にも没した。普照とて、一切の迷いなく仏教の徒であり続けたわけではない。一歩誤れば、捨石になりかねない帰途の海。文字通りすべてが水泡に帰することを覚悟の上、本国の土を鑑真と踏み、戒律を国に根付かせねばならない。有限の時間、殺伐とした世情にあって天道是か非か。常にその迷いと恐れが胸に渦巻いていたに違いない。しかし、苦難を極めた普照の背後には、清涼ともいえる風が吹き抜けているような感がある。仏の道に仕える僧や留学僧の中でも、自分の立場と任命の本義を最も「自然に」受け止めていたのが普照であった。純粋に学問に打ち込み、広い唐土の文化の風に学び、経典の真理と蘊奥を究めるべく精進する真摯な徒。他の留学僧は大陸の魅力にとりつかれ放浪の道を選び、あるいはその地で家族をもち、いかに信念を強く持とうと結晶すべき努力とその身を不遇にも散らせていった。ここには個人の情熱や精励をしのぐ、天命といったものが作品全体をゆったりと、だが厳しく流れている。
‘普照はいかに広大な土地であるとは言えその中に何かがあろうとは信じられなかった。何かがあるとすれば、それはまだ自分などの知らない仏典の中にあるだろうと思った。新しい経典は続々印度からこの国へも持ちこまれつつあった。経典の林のほうが、普照には唐土よりむしろ広大に果てしなく思えた’*1
《井上靖文学碑》
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悠久の時の流れに埋没するのは、市井の人々と歴史のトピックを彩るアクターを支えた人物たちの記録と、記憶である。本書の美点とされるべきは、歴史を紡ぐ人々の魂の清冽さと命を賭すひたむきな行動する力、その苦闘と浪費を運命のもつ無常さと対峙させながら、一条の光が射し込むような希望に支えられた達成感が最後に控えている点だろう。学問と宗教に関わり合い、その発展に寄与する人物をこの国にガイドするという大役を果たした普照を待ち受けていたのは、仏教界の事情の変化であった。国内では、政府の圧力と迫害に屈しなかった行基が民衆を味方につけ、大僧正となって徒弟らがその教えを広め、またこれまでの遣唐船によって来日した唐僧らが学才を認められつつあったのである。
‘普照の渡唐前と現在では仏教界の事情はまったく変わっていた。…中略…日本の仏教界の混乱を防ぐといういわば政治的とも言うべき意味は完全に解消し、今や授戒伝律はまったく純粋な宗教的な問題だけになっていた’*2
左 《鑑真和上坐像》
右 《鑑真の手紙》 正倉院・蔵
鑑真が戒檀を立て、孝謙天皇が菩薩戒を受けてから、受戒は天皇・皇后・皇太子以下、沙弥440余人に上った。戒壇院、薬師寺と太宰府の観世音寺を合わせて天下の三戒壇と称し、僧尼となる者は必ず登壇受戒することが定められた。天平宝字7年に鑑真は西方を向いたまま結跏趺坐して76歳の生涯を閉じた。死後3日経っても頭の頂が冷えることなく、荼毘に付した時にはえもいわれぬ香気が山に満ちたという。鑑真の願いは、仏門の教えを乞う人々が、広く四辺より集う寺院を創建することであった。それゆえ、広き「唐」と四方の人々すなわち「招提」する願いを寺に冠した。今に残る甍は、この国と仏教の長い歴史に占める一角を象徴的に、無言に伝える。平成12年から10年に及ぶ平成の大事業、唐招提寺の解体修理のため、甍は金堂に安置されたばかりである。平成21年秋に落慶を迎える予定であるという。
《唐招提寺の鴟尾》
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▽『天平の甍』井上靖
-- 旺文社, 1968
(C) Yasushi Inoue 1957
*1 本書、p.55
*2 本書、p.176
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