その31 三迫ジム 相澤国之選手


PHOTO BY 山口裕朗



 「人生、楽しく気ままに生きる―難しく考えても仕方ない。僕は“お気楽”な人間なんです」自分のペースを決して崩すことなく、一歩一歩着実に階段を上ってきた男は、虎視眈々とその“椅子”を狙っていた。

 前回の戦士、日本ウェルター級1位の山口裕司選手(ヨネクラ)は、アマチュア時代に日本代表・オリンピック予選などで一緒に活躍した、相澤国之選手(三迫)を紹介してくれた。
 上下の規律が厳しいアマチュアボクシングの世界だが、日大出身の山口選手と、1学年下で拓殖大出身の相澤選手は、学生時代から、プロとして活躍するようになった現在まで、親しくお付き合いが続いているらしい。
 
 7月に入って間もない頃、私はこのボクシング界で20年間生きてきて、初めて名門・三迫ジムをお訪ねした。1階がジム、2階は事務所とトレーニングルーム、3階が会長のお住まい、という立派なビルに一歩足を踏み入れると、同ジムの元・日本フライ級王者で、現在トレーナーを務めている西川浩二さんが2階の事務所へ案内してくれた。
 あいにく三迫会長はお留守で、ご挨拶することが出来なかったのが少し残念だったが、フィジカルトレーナーの大浜奈緒さんにお茶を入れていただいた。私は初めて訪れる名門ジムに少々緊張ぎみだったが、想像していたよりも“アットホーム”な雰囲気に、少しだけ気持がほぐれた感じだった。

 間もなく相澤選手が到着し、初対面のあいさつを交わした。インターネットで「“お気楽”な人間」と公言している割には“生真面目”そうな印象だった。
やがて“写心家”の山口裕朗氏も遅れて到着し、我々は1階のジムで相澤選手の練習を見学させてもらうことになった。
そこで驚かされたのは、相澤選手の担当トレーナーとしてコーチをしていたのが、80年代後半に活躍した元・アイドルボクサーの福田健吾氏だったことだ。
 ベルトには縁が無かったものの、主演映画が作られるほどの爆発的人気だった福田健吾―。髪に少し白いものが交じり、体もふた回り位大きくなっていたが、鋭い眼光と、キリッとした目鼻立ちはかつての面影を残していた。
 「3試合前から相澤とコンビを組んでます」という福田氏は、相澤選手について「足がすばらしい選手ですね」と分析する。「乱打戦にもつれ込んでも、後半にもう一度アウトボクシングに戻れる。そして何よりパンチが鋭くて固くて」と相澤選手の卓越している点を説明してくれた。

 長めのシャドーと3ラウンドの実戦的なミット打ち、3ラウンドのサンドバッグ打ちと仕上げのシャドーなどなど・・・。短めだが密度の濃い練習を終えた後、私と相澤選手は近くで食事を摂りながらゆっくり話をすることになった。
 ジムでは寡黙で、修行僧のように練習に打ち込んでいた相澤選手も、一歩外へ出ると愛嬌のいい青年に早変わりして、“お気楽”にいろいろと語り始めてくれた。
 
1979年6月26日、宮城県で男二人兄弟の次男坊として生まれた相澤選手―。何と!私事で恐縮だが、生年月日が私と同じで、干支もひと回り下の「未年」と、奇妙な偶然にのっけから話は盛り上がった。
 
 相澤少年は、父親がアマチュアボクサーだったことでボクシングに興味を持つようになった。二人兄弟のお兄さんも少しだけボクシングをかじったそうだが、あまり運動は得意でなかったらしく、勉学の方に力を入れるようになったという。「頭の良さは兄貴に持ってかれちゃったんですけど、運動神経だけは俺に置いていってくれたんですよ。ハハハ・・・」と屈託無く笑う。
 いろいろと家庭の事情もあり、決して平穏無事な少年時代を過ごしたわけではなく、「結構ハングリー」だったらしい。しかし、中学時代はバレーボール部の厳しい練習に明け暮れ、グレる暇も無かったようだ。そしてボクシング部のある宮城農業高校に入学し、相澤国之のボクシング人生が始まったのだ。

 今回のインタビューに備え、インターネットで“相澤国之”についていろいろ調べていると、見たことのあるページにたどり着いた。それはリニューアル前の「新田ジムオフィシャルサイト」だった。以前、新田ジムに所属していた宮城県出身のプロ選手S君のプロフィール欄に、“尊敬するボクサー=相澤国之”と書いてあったのだ。相澤選手にそのことを話すと、「ああ、あいつは宮城農業高校ボクシング部の後輩ですよ!」と言うではないか。世間は狭いものである。そういえば相澤選手の微妙な東北なまりは、S君のそれとそっくりだった。生年月日のことと言い、縁というのは奇妙なものである。

高校時代、戦績は良かったものの、これといったタイトルを獲得することはなかったが、拓殖大学に進学後は、国体2連覇と全日本選手権優勝と大活躍。アマチュア時代の通算戦績は72勝(35KO・RSC)12敗という堂々たるものとなった。
 ところが、本来4年で卒業するべきところ、相澤クンは“諸事情”によりもう1年大学に残ることになってしまった。もうアマチュアで小さな大会に出場する気もなかったし、寮も出なくてはならなかった為、「大学を辞めて田舎へ帰ろうと思った」という。
 ちょうどその頃、三迫ジムから「プロ入り」のオファーが来たのだった。相澤クンは大学に通いながら三迫ジムでトレーニングを重ね、1年後に大学を卒業して本格的なプロの世界へと入っていった。

 現在、昼間は居酒屋の仕込みのバイトをし、夕方からジムで練習をしている。一人で食べていく分には経済的に全く問題はない。試合で手にするファイトマネーは、バンバンと使い切ってしまうらしい。「貯めるってことが出来ない性格なんですよ。今しか使える時はないと思ってしまうんです。やっぱり僕は“お気軽”な人間なんですよね〜」そう言って、また屈託のない笑顔を見せてくれた。

 「今のトレーニング環境には満足していますね」物事を無理やりやらされるのが嫌いな相澤選手は、自分のことをよく理解してくれている福田トレーナーや、その体制を作ってくれている三迫会長にとても感謝している。
 福田トレーナーは、相澤選手のことを「素直で頑固」な性格だと表現する。「納得しなければやらないが、ほぼ9割は言うことを聞いてくれる」と、お互いのコミュニケーションはバッチリのようだ。
 練習中は、お互い寡黙にメニューをこなしていた二人だが、時には一緒に食事に出かけたりすることもあるそうだ。「福田さんは練習中は厳しいけど、プライベートではホントに面白い人なんですよ」またしても屈託のない笑顔で語る相澤選手の表情から、二人の信頼関係の強さが感じられた。

 「ライバルのような存在はいますか」という質問に、「僕はジムが組んでくれた試合で、“絶対負けない”ということを考えているだけです」と、力強い眼差しで語った。その視線の先にはもちろん、日本、東洋太平洋、世界という“椅子”が映っているに違いない。
 「三迫会長には可愛いがっていただいていると思います。だからもっと上へ行かなきゃならないんです」と、“お気軽”と言いつつも、やはり根は“生真面目”な部分を持ち合わせた人間のようだ。

 現在、日本Sフライ級1位。9戦8勝(6KO)1分―この1分は、現・東洋太平洋Sフライ級王者の有永政幸(大橋)との1戦だ。三迫会長を始め、福田健吾トレーナー、マスコミ関係者も、実力的には日本タイトル、東洋太平洋タイトル、それ以上を狙えるものを持っていると評価は高い。
 8月8日には、フィリピンランキング6位との試合が決まっている。「相澤はこれまでの試合で、まだ本領を発揮していない。まだまだ楽しみな選手です」と、福田トレーナーは自信を覗かせている。
 “お気楽”で“生真面目”な、私よりひと回り下のこの青年が、その視線の先にある“椅子”に座る日はそう遠くなさそうだ。相澤国之は、別れ際に「ありがとうございました!ご馳走様でした!」と何度も何度も頭を下げ、また屈託のない笑顔を見せてくれた。次回は、その“椅子”に座った彼と再会出来ることを祈りたい―。





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●新田 渉世 (にった しょうせい)
1967年生まれ。92年横浜国立大学卒業。96年東洋大平洋バンタム級タイトル獲得。97年引退。98年米国サンフランシスコへ移住し、『ワールドボクシング』誌にて「ショーセイのアメリカボクシングライフ」連載開始。99年『Talk is cheap』にて「戦士と語る」連載開始、同年ケンウッド入社。03年2月神奈川県川崎市に新田ボクシングジムをオープン、同年ワールドボクシングwebサイト上にて「新米ジム会長奮戦記」連載開始。04年東日本プロボクシング協会書記担当理事に就任。

新田ボクシングジムHP
http://www.nittagym.com/

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