2009年3月19日 (木曜日)

さて。

 
“お彼岸に
ヒガンじゃダメよ……”
 
な〜〜〜んて
親父ギャグ(´Д`)
 
 
 
さて、
1時半から彼岸法要です
 

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2009年3月16日 (月曜日)

昼休みの走り書き投稿

「いいひとだね~~」

とホメラレタ場合。。。。

そういう“評価”とは、

上っ面の自分の好み(都合)の範囲内でしかなされていないのかな。

しかも、

心地の良い「一時的」な関係の中だけの気がする。

ジワジワと沸上がってくる「しみじみ感」が

皆無のような気がするのである。

だから、例えば、僕は、

「いいお坊さんだね~~~」

というホメられても、素直になれないのだ。

「いい人だね~~」

という感激は、

例えば、

相手にとても腹が立ったとか、

一見、ものすごくヒドイ言葉に聞こえたとか、

なんて冷たい人だろう?って思えた、

とか、

そういう場合には起こらない。

(あたりまえか)

でも、

そういう気にくわない人の意見や言葉が、

「愛情の裏返し」的なものだとしたら???

アタマを冷やしてよくよく考え直してみて、

あるいは、

長い目で見て、

あるいは、

深い観点から見つめてみて、

「嗚呼、こういう事をあの人は伝えてくれてたんだなぁぁ・・・」

という

“真意を慮る”

感じでは評価されにくくなっているのかもしれない。

(ま、評価や見返りを期待しての言動ばかりではないけれど)

そして、

みんな、

自分は、「絶対的にただしい。間違っていない」

という1点を揺るがすことなく、

相手を「批判」し、

あるいは、

相手を「評価」する。

「単純」になっているのかもしれない。

「分かりやすくなきゃダメ」な即効性が

昨今なのか。

うん、

僕もそうだしな・・・。

すぐに、批判意見にヘコムしな・・・

その「批判意見」が、

実は僕に期待し、僕を育ててくださる為の「愛情」だったのだ、

と感じたり、味わったりする前に、

ムカついてしまったりするからな・・・。

と、

昼休みの、走り書きでした・・・。

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2009年3月15日 (日曜日)

お経を盗撮?

今日の昼、
あるお宅での法事の帰りに、
その一族のイケメン兄ちゃんが僕に

「お経を盗撮されないように気をつけてくださいね…」

と笑いながら小声で言った。

 
「なんのこと??」
そんな僕に、彼の奥さんが

「いつもながら住職サンが良い声なので、(ケイタイ電話のビデオでお経を)録音しちゃいました!」

とのことデシタ。

あ、それで“お経を盗撮”なのね!
(てっきり 札幌かどっかでの“お忍び姿”でも写メされたのかと僕は苦笑)

う〜〜ん、お経や声をホメられても、俺は「歌手」じゃないしね(^_^;)
それよりも、
「法話」の感想、話した内容に対する意見や反応が欲しいなぁ。ホントはね。

   

・・・・・・・・・・でも
「お経を録音したい」と頼まれてしまう場面は、たまにあるんです。

  

先月もあるお宅へ“月参り”に行った時、

「今日、住職サンのお経を録音してもいい?」

とバアチャン。
で、
録音マイクがお仏壇と僕との間にすでにセットされてました(笑)

 

バアチャン 「はい、スイッチをオンにしますね……はい、どうぞ!」

私 「(チ〜〜〜ンチ〜〜ン) 帰命ぉ〜〜〜無量ぉ〜〜寿如来ぃ〜〜〜………」

バアチャン 「あっ!ごめんなさい!もう一回!オンになってなかった。 はい、どうぞ!」

私 「(チ〜〜〜ンチ〜〜ン) 帰命ぉ〜〜〜無量ぉ…(泣)(汗)(苦笑)…」

  

非常〜〜〜〜に、やりにくい!
録音を意識しちゃって緊張する!
レコーディングじゃないんだからっ!

途中で咳き込みそうになったり、
そのお宅の電話が鳴ったり…
押しベルがピンポ〜〜〜ン♪

あと
終わったあとに巻き戻して、
聞き直すのもヤメテっ(笑)

  

やっぱり
録音するなら
僕の知らない間に

「盗撮」

にしてっ!

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2009年3月14日 (土曜日)

ものすご〜〜くアホでもあり・・・

NHKのBSで『私の1冊 日本の100冊』という15分番組がある。http://www.nhk.or.jp/book100/index.html

俳人・金子兜太さんが、

『橋本夢道句集 無禮なる妻』

を紹介している回を偶然に見た。

”橋本夢道”という俳人は知らなかった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E5%A4%A2%E9%81%93

番組の中で紹介されていた「句」の中に、

  

“妻よおまえはなぜこんなにかわいんだろうね”

  

というのがあった。

「妻」はいない僕だけど、この句に、胸がジワ〜〜ンとなってしまった。

 

番組の中で、金子さんが橋本夢道の娘さんと対話している場面が出てくるのだが、その中で、

父は、母と初めて出逢ったときの感動が、ずっと自分の一生涯を貫いている、と言ってました

というような趣旨の話をされていた。

テレビを見終わってから、今まで知らなかった“橋本夢道”という俳人をネット検索して、その人の生涯や時代背景なども調べてみた。その程度のニワカ仕込みで、俳句の専門的なことを何も知らない自分だけれど・・・・、

もし、こういった「短い言葉」の背景に、読み手側の経験を重ねて味わい、解釈することが許されるならば、

僕は、

妻よおまえはなぜこんなにかわいんだろうね

という「句」の中に、

少しだけ自分を重ねることができる。

  

ずーっと出逢えた感動が貫いているから、

ジワーンが消えない。

それが、

良くもあり、

悪くもあり。

豊かでもあり、

でも、

ものすご〜〜くアホでもあり・・・。

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“春の彼岸”の案内を発送

“春の彼岸”の案内を発送

 

世尊我一心 帰命尽十方
無碍光如来 願生安楽国
                            『浄土論』

〈書き下し文〉
世尊よ、われ一心に、尽十方無碍光如来に帰命し、安楽国に生まれんと願う

   

〈訳〉
釈尊よ 私はただひとえに何ものにも束縛されないめざめた心を、私のいのちとして、明るい世界に生まれたいと思う。【高松信英・訳】

   

********************************************************

 

何ものにも束縛されないめざめた心を、私のいのちとする……

根拠のないものに振り回されたり、自分勝手な思い込みの世界を右往左往してばかりのワタシ。束縛だらけのワタシ。
そんなワタシが願うのは、やはり「明るい世界」。

「安楽国」とは単純に 死んだ後ではない。

春のお彼岸が近づいてきた。
ワタシの現在の歩みを確認したい。

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2009年3月11日 (水曜日)

チョロチョロ札幌

今日は
午後から札幌まで遊びに。

ずーっと【ステラプレイス】でぶらぶら過ごした。

本屋で立ち読みしたり、
洋服を見たり、
時計を見たり、
カバンを見たり、
中華を食べに行ったり…

そんな気ままな過ごし方でも
あっという間に夜だ。

この
なにも考えずに
店をぶらぶら見て回るのが
無性に好きなのである。


でも
悪いことはできねぇ(汗)
何人かのお知り合いに目撃されてしまう…

「あら、今日はお仕事は?」
「今日はスケジュールが緩やかだったので、スキを狙ってちらっと来ました(笑)」


見ないで!僕の“お忍び姿”を!(´Д`)

現在
夜行寝台「はまなす」に乗り帰路に。

眠いので
ケイタイからブログ更新。

色んな意味で
今日
札幌に来れて良かった。

ホントは泊まりたかったが………

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2009年3月10日 (火曜日)

ドリンク剤で“自己暗示”

な~んか、疲れてて、

【ドリンク剤】を飲んだ。

グビッと一気に飲んだ。

  

どのドリンク剤にも共通する「味」がある。

あの「味」が、結構好きだ。

  

でも、

効いてるのか?そうでないのか?・・・いつもわかんね。

  

飲んだんだから

「きっと効いているに違いない!!」

というある種の“自己暗示”で、今日も頑張れる。

  

ん?

これがドリンク剤の効能か?!

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2009年3月 9日 (月曜日)

坊さん不要・・・ありがとう。





今日の昼下がり、檀家総代さんのお宅に頼み事があって伺った際に、



「住職サン、これ読んだ??」

と苦笑いしながら、今日の新聞の朝刊を見せてくれた。





読者の投稿欄に「坊さんのお通夜での説教は不要」という内容の文章が載っていた。

実は、先月も1面のコラム欄に、新聞記者が書いた「首をかしげたくなる坊さんの通夜での説教」というのが載っていた。



記者のコラムの内容は、



新聞に毎日、五木寛之さんの小説「親鸞」が連載されているけど、その中で、親鸞が「情感豊かに民衆に語りかけ、聴衆の心を掴んだ・・・・」とあるけれど、と前置きし、昨今のお通夜での坊さんの説教は、通りいっぺんで、型どおりで・・・もっと情感豊かな心に響く話ができないものか・・・・「釈迦に説法を承知で申し上げる」・・・・といった内容。



そして、

今日の読者の投稿は、「その記者のコラムの内容に全く同感!」



というもので、



「通夜は、布教の場ではなく、悼む場である」



「知人の通夜で、坊さんがエンエンと説教をし、遺族を参列者をしらけさせた」



「お経はBGMとして必要かと思ってたけど、今は、お経も説教も必要ないと心が変わった」



「お通夜を、故人を偲びながら、大切な想い出を語る時間にするために、坊さんはお通夜に不要」



「自分が亡くなった場合も、葬儀は坊さん不要に・・・、と今から夫婦で語り合っている」



(手元に新聞を見ながらこの投稿を書いていないので、以上は、おおよその趣意である。)

以上を、“50代の公務員”が書いていた。





僕は、このような内容を見ると、



「あ、この人とは会ったことないけど、こういう批判っていうのは、俺みたいな坊さんの事を指しているんだろうな・・・」



というふうに受け止めてしまうタイプなので、結構ヘコム・・・・。



実際、僕も、新米住職ながら、お通夜では、毎回とても緊張しながら、【お話】をさせていただく(「説教」という表現は使いたくない・・・) 「何、お前エラソウにしゃべってんだ?」みたいな空気や視線をバチバチ感じる場合もあり、



「もういや!!そんな目でみないで!!僕、お坊さんに向いてないのぉぉ~~~!!」

って逃げ出したい場合もある。実際にどんな話をどう表現すればいいのか、いつもコワイのである。



なので僕の場合、



高校などの体育館で生徒さんの前で「BOSANソングライターKONO」としてライブ(公演)をしたり、近隣のお寺に「布教」に行って「ご法話」をするよりも、実は、通夜での「お話」の方が、はるかに緊張するのだ。それくらい、その葬儀という「場」は僕にとって大きなテーマである。


 

常日頃から寺(ワタシ)とのお付き合いが親密にある檀家サンが亡くなった知らせを受けて、その葬儀でお経をあげながら泣いてしまうこともある。故人の顔を思い浮かべ、仏教の味わいと結びついて、「お話」に繋がっていけばいいのかもしれない。しかし、まったく知らない方の葬儀や、お寺の檀家であっても葬儀で初対面になる人もいる。そして、通り一遍の「お話」しかできなくて、冷や汗をかきながら「式場」を退場するのだ。。。


「もういや!!そんな目でみないで!!僕、お坊さんに向いてないのぉぉ~~~!!

だから、



記者の書いたコラムや、今日の50代公務員の投稿もよく分かるつもり・・。





でもなぁぁぁ~~~・・・・・・



もし、情感豊かに、故人をきちんと踏まえ、遺族や参列者をシラケさせない説教を坊さんがしたならば、OKなのですか?それじゃ、「坊さん」ではなく、自分の「好み」を見ているだけじゃないの??



まぁね、



こういう批判の文章を書く人が実際に会った「坊さん」はどんなヤツなのか、分からない。



でもね、こんな風にも考えられないかな?



コラムの記者が遭遇した坊さんの説教が「情感豊か」な語り口じゃなくても、もしかしたら他の参列者は、その話から何かを感じ、学んだかもしれない。



或いは、



50代公務員には「必要のない坊さん」であっても、もしかしたら、そのお寺の檀家の中には、坊さんと絶大な信頼関係があるお宅もあるかもしれない。

 

そもそも、お寺とは、仏教という「教え」に出逢う場である。そして、僧侶は、その「教え」を学び、伝える人である。(いや、僧侶が伝えるのではなく、遺族や参列者の皆さんが亡き人を偲びながら「教え」に会う、感じていただく、キッカケの一端を担う人かな?)





たとえ情感豊かに、遺族や参列者をシラケさせない説教を坊さんがしたとしても、そこに「仏法(おしえ)」が伝わっていかなければ、それは「仏教ごっこ」かもしれない。



やはり、以前もこのブログで書いたけど、



「はじめに教えありき」



という関係での「仏教徒」になっていないので、こういう「坊さん不信」が生まれるんだな。



2007年8月2日投稿「長谷川サン森サン。どっちがエライ?」http://minoyamakono.way-nifty.com/tomo/2007/08/post_a454.html

2007年10月2日投稿「永代経について思うこと。」http://minoyamakono.way-nifty.com/tomo/2007/10/post_2e5e.html

  

この50代公務員は、

「坊さん全般」が嫌いなのか?



それとも、



個人的にお通夜で遭遇したその「特定の坊さん」が嫌いなのか?

もし、

その人が今まで出会ってきた坊さんの「イメージ」が「好みに合わない」だけで、世の中の「坊さん全般」をすべて相手にして批判しているとすれば、

この僕・KONOも批判されていることになり、もし、話し合ったとしても、分かり合えることはないだろう。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」方式の考え方なら、仕方がない・・・。僕も、頑張りようがない。

どうぞ、今後も、坊さん批判をしながら、カッチョよく生きていってください、さようなら。お疲れさん。










結論



「始めに教えがない」のなら、

そして、



通常、お寺との関係が希薄で、「坊さん不信」が強くあるのなら、

ムリして、坊さんを呼ばなくていいのでは?

どんどん切り捨てちゃってください。

お坊さんも緊張して、精進するでしょうし。



 







ただ、

僕は、この50代公務員の投稿に

「通夜は、布教の場ではなく、悼む場である」

・・・・そうは考えていなくて、

「通夜(葬儀)は、亡き人を偲びつつ、仏法(教え)に出あう場」

だと考えているので、

今後も、教えに出あう為のキッカケ(ご縁)と願われ伝えられてきたお通夜での【お話】をやめるつもりはありませんし、やめません。

もちろん、

色んな方のご意見や批判を聴きながら、「どう表現するのか」「どう伝えるのか」を模索していきたいと思います。

そして、

目の前にいる大切な皆さんとの「つながり」を大事にしていきたいと思います。

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