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2009/03/20

箱根西麓に眠る116万人分のざる蕎麦

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甲斐犬ルンミーが旨いモノ食い過ぎて脂肪肝で胆嚢炎で具合悪くて寝込んでいたんだが、なんとか回復しつつあるようで、元気になったら少しダイエットさせないとマズイね。まぁ、甲斐犬なんてモノは、山の中で、冬になるとドングリなんか拾って食っていたわけで、ルンミーはドングリの実を剥くのがうまいです。前足で押さえて歯先で器用に剥いて食います。犬はドングリなんか食って、腹壊さないのかね?




ところで、縄文時代には人間もドングリ食っていたわけです。人間はアク抜きの方法を知っているので、アクを抜いて食う。縄文人は狩猟民族という言われ方もするんだが、肉ばかり食っていたわけじゃない。いや、むしろ「商業」やっていたという話もある。貨幣経済がないのに「商業」って、さて、どうやるのか?

黒曜石というモノがあります。真っ黒いガラス質の火成岩なんだが、コレが薄く剥離するので、刃物の代わりに使われます。なんと、今でも海外では「眼球/心臓/神経等の手術でメスや剃刀として使われることがある」そうで、鉄器が普及するまでは日本では広く使われてました。Wikipediaによれば

外見は黒く(茶色、また半透明の場合もある)ガラスとよく似た性質を持ち、割ると非常に鋭い破断面(貝殻状断口)を示すことから先史時代より世界各地でナイフや矢じり、槍の穂先などの石器として長く使用された。日本でも後期旧石器時代から使われていた。当時の黒曜石の産地は大きく3つに分かれており、その成分的な特徴から古代の交易ルートが推測できる。

黒曜石は特定の場所でしかとれず、日本では約60ヶ所が産地として知られているが、良質な産地はさらに限られている。後期旧石器時代や縄文時代の黒曜石の代表的産地としては北海道白滝村、長野県霧ヶ峰周辺や和田峠、
静岡県伊豆天城
(上多賀や鍛冶屋)、
神奈川県箱根

(箱塚や畑宿)、東京都
伊豆七島
神津島
・恩馳島、島根県の隠岐島、大分県姫島、佐賀県伊万里市腰岳、長崎県佐世保市周辺などの山地や島嶼が知られ、太平洋や日本海を丸木舟で渡って原石を求めたのであろう。

黒曜石が古くから石器の材料として、広域に流通していたことは考古学の成果でわかる。例えば、伊豆諸島神津島産出の黒曜石が、後期旧石器時代(紀元前2万年)の南関東の遺跡で発見されているほか、佐賀県腰岳産の黒曜石に至っては、対馬海峡の向こう朝鮮半島南部の櫛形文土器時代の遺跡でも出土している。また北海道では十勝地方も産地として非常に有名で、北海道では現在でも「十勝石」という呼び名が定着している。

南関東にも旧石器時代の遺跡はたくさんあるんだが、黒曜石は採れないので、どっかから持ってきたわけです。どっかからと言っても、北海道や九州ではないわけで、もっとも近い産地としては、伊豆・箱根、そして長野というのがあります。で、南関東の遺跡からは、その、どれもが出てくる。考古学者というのは、やたら穴を掘っては、石器を何千個も並べてアタマを捻ってるわけで、

 こうしてみると、愛鷹・箱根山麓遺跡群の旧石器集団は、南関東の立川ローム第6層段階に先んじて石器製作に多量の黒曜石を使いはじめ、しかも近距離の伊豆・箱根系のみならす、遠隔地石材である信州系黒曜石までを恒常的に入手しうるルートを確保していたことになる。相模野合地や武蔵野台地の集団が伊豆・箱根系の黒曜石を採取しにきたおり、あわせて愛鷹・箱根山麓遺跡群の集団から信州系黒曜石を入手した可能性は十分あるというべきだろう。あるいは、南関東の集団は伊豆・箱根の黒曜石原産地を直接訪れたのではなく、愛鷹・箱根山麓の集団から伊豆・箱根系と信州系の両方をセットで入手した可能性も考慮にいれておかなければならない。

こちらのサイトによると、愛鷹・箱根山麓遺跡群には、古くから旧石器集団がいて、彼らは交易によって信州系の黒曜石まで入手、それを南関東の旧石器集団に供給するようになった、というわけだ。伊豆の黒曜石は、あるいは直接、南関東に運ばれたのかも知れないが。さて、南関東の連中は、何を持って黒曜石と交換したのかね? カネはまだ存在しない時代なので、あるいは子安貝とかだったかも知れない。何もない場合は、仕方ない、どこにでもあるドングリの実をたくさん集めて交換するしかない。

そういう時代においては、もっとも豊かな地というのは、黒曜石の採れる土地です。信州長野は山の中であまりに遠いので、愛鷹・箱根というのがその当時の「日本」の中心だったらしい。

箱根というと、芦ノ湖を思い浮かべる人が多いと思うんだが、元箱根というのがあって、関所跡というのがあります。関所というのは江戸時代にあったんだが、もっと昔は、箱根越えのルートは足柄山方面を迂回してました。現在のルートは急峻なので、その上か下をまわった方がずっと楽です。旧石器や縄文時代にはどうだったのか? 今となっては知る術もないんだが、足柄ルートとか、熱函ルートとか、色々あったんだろう。でも、元箱根の箱根神社とか、十国峠の日金山は、伊豆でも有数の古い神社だし、山伏とかいたらしいので、古い祭祀跡なんぞもあります。まぁ、そういう「特殊な」人たちの縄張りだったとも考えられる。

ところで、箱根では西麓というのはあまり注目される事がないわけです。東京から見ると「裏側」になるという理由もあるし、温泉が湧かないという理由もある。おいらにとっては地元なんだが、荒涼とした「雑種地」が延々と拡がっていて、樹木があまり生えてないわけです。東麓とはずいぶん雰囲気が違う。ただ、急峻な崖というより、なだらかな傾斜地なので、あるいは縄文時代とか、焼畑農業でもやっていたのかも知れない。そんな雰囲気です。で、この西麓に、もちろん縄文時代の遺跡があります。有名なところでは観音洞遺跡というのがあるんだが、この遺跡の面白いところというのは、奈良時代に至ってもまだ、狩猟によって生活していた痕跡があるわけだ。観音洞(かんのんぼら)遺跡 奈良時代の住居跡というんだが、

箱根山麓標高358メートルの山中にある珍しい住居跡です。北壁に立派なカマドがあります。このころ、平地の稲作だけでなく、狩猟によって生活する人びとがいた証明となる住居跡です。

黒曜石を日本各地に供給していた人たちの末裔なのかね? この時代には、箱根は山岳信仰の聖地でもあったわけで、そういう人たちと何かしらの関係があるのか。少なくとも、稲作を生業としていた大和政権勢力とはあまり関係なく過ごしていた連中というのが、ここら辺にはいたわけです。

さて、時代はグッと下がります。江戸時代初期の話です。

貞亨4年(1687)春の事。三島の宿二日町(現、三島市東本町)に住む、尾州播の浪士尾張屋源内の娘で、当時6才になる小菊が、参勤交代の折り、通りかかった播州明石の城主、松平若狭守直明の行列を見ようと、道向かい側にいる小菊を母親が見つけ粗相があってはいけないとうっかり声をかけた。娘は自分を呼んだものと勘違いし行列の供先を横切ってしまった。
心ある役人は、「犬だ、捨てておけ。」と叫んだが間に合わず、小菊は供先役人に捕らえられ、本陣に引き立てられた。横暴で短気な25才の我がまま大名は「余の供先を横切りし不届き者、手を切り足を切り、極刑にせよ。」と怒り狂った。
本陣前に引き立てられた幼女小菊の事を聞き、町中は大騒ぎとなり問屋場、町名主、本陣等の総代が、命乞いをしたが許されず、ここに十万石の格式を持つ玉沢妙法華寺第24代日迅上人も下座に出て助命を乞うたが、これも聞き入れられず、泣き叫ぶ幼い小菊も小さな手を合わせ「何でもお殿様の言うことを聞くから堪忍してください。」と絶叫する幼女の声にも耳をかさず、哀れ小菊は無血の大名により、手討ちにされたのである。
この残忍さに上人は寺を去り、雲水の旅に出た。
父源内は我が子の仇を討たんがため、箱根山中の塚原新田松並木で大名を待ちうけ、火縄銃を打ち込んだが、供先役人の機転から空籠であり目的を果たさず、万こくの恨みを残して自害した。
父源内は、元 尾州播の砲術の名手であり、事情あって浪人しこの地において猟師を業としていたという。
この尾張屋源内親子の理不尽な仕打ちを憐れむ里人は幼い小菊の霊を慰めようと、地蔵尊として祀り、大名の言い成りに切られ、小菊が首の座に座ったとき必死で繰り返し叫んだ「何でもお殿様の言うことを聞くから堪忍してください。」との言葉にちなみ、「言成地蔵」と名づけて供養してきました。
以来、人々が思いを込めて詣でると、なんでも必ず願い事が叶えられると言い伝えられ多くの参拝者が引きも切らずに訪れている。

三島の二日町というところに「小菊地蔵」という小さなお堂があるんだが、そこに伝わる伝説です。松平若狭守直明という人物は確かに存在して、6万石というので、まぁ、小さな大名なんだが、この事件が本当にあった事なのかどうなのか、全部が事実ではないような気もするんだが、なんせ「伝説」なので確かめようもないわけだ。ただ、ここで気になるのは、江戸時代に至ってもまだ、猟師を生業とする人が、箱根にはいた、という事実です。そういや、三島大社の裏には、国領銃砲店というのがあったな。いつ見ても客の入ってない店だったが、まぁ、鉄砲屋に行列ができるわけもないんで、それでも商売にはなるんだろう。

それより、この「伝説」が何のために作られ、何のために語り継がれてきたのか、というのが気になるわけです。娘の仇を打とうと火縄銃で大名を狙う父親とか、日本全国に雲水の旅に出て大名の非道を訴えようという上人とか、なかなか味わい深いモノがありますね。

で、江戸時代には栄えた宿場だった三島には、参勤交代の武士を始めとして、多くの旅人が往来するわけなんだが、そういう人たちもこの話を聞かされるわけだ。松平若狭守直明にしてみりゃいい迷惑なんだが、それはまぁ、身から出た錆なので仕方ない。それより、この話で「得をする人たち」というのが存在するわけです。さて、誰なのか?

街道には「雲助」というのがいたわけだ。一般的には荒くれ者で、素性の良くない人だと思われていて、良い印象はありません。ただ、三島は町そのものが雲助みたいなものなので、ちょっと違う。三島には「雲助・久助の墓」というのがあるんだが、一介の雲助なんだが、

 日頃、頭役となって仲間の取り締まりをしていましたが、困窮の者や若者のめんどうを、身銭を切ってもしてやりました。これは、雲助だけのことではなく、街道筋の百姓にも同じでした。
 ことに、往来の悪者に難くせをつけられて、弱りきっている者を身をもってかばってくれたといいます。
 したがって、仲間の者からも、また、街道沿いの百姓、商人からも厚い信頼を受けていたのです。彼は、終生酒を愛し、酒を楽しみ、酒の中で一生を終わったといわれています。
 その死後、彼を慕う後輩の雲助や土地の人々の手によって作られたのが、通称「雲助の墓」といわれるこの墓なのです。
 石碑の前面に、大きく杯と徳利を浮彫にして、全体にしゃれた趣を漂わせたこの墓は、彼の人柄をよく表現しています。往年は、香華の煙の絶えることがなかったといわれています。
はぐれ雲みたいだねw まぁ、こういう雲助なんぞは、この伝説で「得をする」わけです。三島にいた無数の賤民階層というのは、こういう伝説を語る事によって、「貧しい卑しい者だからといっていじめると酷い目に合うぞ」と脅すわけですね。これから箱根山という「天下の険」を越えようという金持ちたちにとっては、自分の雇った雲助だけが頼りなので、まぁ、対応が妙に優しくなったり、酒手をはずんだりするわけですね。偉い人は、下々の者が機嫌を損ねないようにうまく使うのが仕事というモノです。

さて、そんな箱根西麓なんだが、その後どうなったのかというと、

街道を往来する旅人がいなくなると、すっかり寂れて、畑作の地になりました。水はけが良いといえば聞こえはいいんだが、要するに「水田が作れない」という事です。水がない事では有名で、むかしから西麓というのは人が住めない土地です。なんせ水道がないんだから、飲み水にさえ事欠きます。ダイコンくらいしか作れない。ただし、戦前はこのダイコンで有名でした。

"箱根たくわん"
 たくわんに加工されたこのだいこんは、戦前、保存食であり副食でもありました。
戦中は軍の保存食用として満州国駐在の関東軍司令部に納入し、生産面積も増えました。特に軍隊用には重視されていたので、1本あたり2~4キロの大型だいこんを干す光景は三島の冬の風物詩として有名でした。
 戦後、関西市場への出荷が始まり、最盛期には1シーズン3,000~4,000樽にもなりました。昭和33年には全国漬物品評会にて農林水産大臣賞を受賞しました。
 しかし、昭和50年代に入り食の洋風化が進み、生産量、消費量ともに減少しました。現在では、農家の自家用分と近隣観光旅館への納品分を残すのみとなりました。

箱根には、現在「箱根物産」と「鈴木漬物」の二軒しか残ってないんだが、鈴木漬物の浅漬けは美味しいです。箱根は水が良いからね。水道がないので簡易水道とか井戸なんだが、富士の水より美味しいです。で、55ヘクタールの農地があるというんだが、実はそれ以上に「耕作放棄地」というのがあるわけだ。その耕作放棄地で蕎麦の栽培をやっているという人がいるんだが、

 実は、この「蕎麦栽培」は、3年目になる。「環境コミュニティビジネス」を新たに起業しようとの目論みのもと、使用されず、草だらけであった農地を借り受け、都市住民による再活用を目的とした蕎麦栽培に取組んでいる。1年目は1,000㎡、2年目は2,000㎡、今年は5,000㎡までに、耕作面積を拡大してきた。収量は、30㎏、80㎏となり、今年は120㎏を目指している。

 シニア工房の蕎麦栽培の仲間たちは、2年間の実績にすっかり自信を持った。今年は、栽培面積の拡大はもちろんのことだが、農家が使わなくなった耕耘機や種蒔き機の借用を受け、効率的で段取りの良い農作業が実施された。私たちの活動を支援してくれる農家もあらわれ、トラクターによる耕耘支援や肥料・農薬散布などへの指導も受けられるようになってきた。

 当初は、都市住民が農業地帯に入り込むことに、少なからず抵抗があり、私たちの作業を遠目に見ていた農家が、次第に軟化し、気軽に声をかけてくれるようになった。現在、都市近郊の農家でも、日々の重労働が嫌われ、そのため、どの農家でも後継者不足の問題を抱え、高齢化の進展もあいまり、
箱根西麓には約200ヘクタール
もの荒れ地が点在している。

グランドワーク三島というNPOがやっているんだが、蕎麦というのは10アールあたり58kgとか採れるものらしいので、収量はまだまだ増えそうではあるんだが、仮に200ヘクタールの遊休地すべてで蕎麦を栽培したとすると、116トンの蕎麦が採れるわけで、116トンの蕎麦がどのくらいの量かというと、
一人前100gとして116万人分という事になりますね。ざる蕎麦500円で売ったとして、5億8千万円ですか。まぁ、蕎麦の収量はもっと多いとか、年に二度、三度採れるとか、そういう話もあったりするので、実際にはもっと多いかも知れないです。

黒曜石 3万年の旅 (NHKブックス) 黒曜石 3万年の旅 (NHKブックス)
価格:¥ 966(税込)
発売日:2004-10

コメント

> ルンミーはドングリの実を剥くのがうまいです。

 イベリコ豚かよw
 野次馬さん、まさか甲斐犬・ベジョータを作って喰おうってんじゃ・・・

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