話題通信No.9
メールマガジン
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「話題通信」(現代、人生、科学、聖書)No.9
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ザビエル以前の日本の
隠されたキリスト教史
キリスト教は仏教より早く日本に入っていた。
REAP(決断)ミッション代表 ケニー・ジョセフ
フランシスコ・ザビエル
以前の日本に
キリスト教が
伝えられていた
Qキリスト教が初めて日本に伝えられたのは一五四九
年、カトリックの宣教師フランシスコ・ザビエルが日本
に来たときと言われていますが、これは本当ですか。
Aいいえ、間違っています。 カトリック、サレジオ会
の神父で、日本に住んだ故マリオ・マレガという人が、
『ザビエル以前の日本のキリスト教』
という論文を一九五二年に書いています。これは東方
学会(アジア研究会)に提出されたもので、西暦六二二
年に京都に建設されたキリスト教会(景教の教会 今の
広隆寺)に関するものです。
ザビエルより一〇〇〇年も前の日本において、キリス
ト教会が建てられていたのです。
彼らは、アッシリヤ方面から中国を経て日本にやって
来たキリスト教徒(景教徒)でした。
また、ザビエルが日本に行く以前から、日本にはすで
にある種のキリスト教が伝えられていたと、ザビエル自
身が考えていたのです。
ザビエルは、マラッカ(マレーシアの港町)で日本人
・弥次郎(アンジローと呼ばれていた)に会い、日本の
宗教や風習についていろいろ聞きます。
そして、日本では仏教というものが信じられているけ
れども、よく聞いてみると、日本の仏教は様々な面でキ
リスト教に似ている、また混合していると気づくように
なります。
また弥次郎から、日本のある大名は十字架のマークを
つけている、ともザビエルは聞きます。そのほか様々な
ことを聞いて、ザビエルはある確信を抱くのです。
ザビエルは一五四八年に、弥次郎から聞いたことをも
とに、ヨーロッパやインド宛に手紙を書いています。そ
れは、共にいたランキロット宣教師に書かせたものです
が、その結論部はこうです。
「福音はすでに日本において語られていると思われま
す。しかしその光は、今は彼らの罪と(仏教による)異
端的な教えとによって、薄暗いものとなってしまってい
ます。
私がこれを書いている間にも、アッシリヤ人(アルメ
ニア人)主教が来て、いろいろ教えてくれました。彼は
中国など東アジアの地で、四〇年も宣教を続けてきた人
です。
彼は、かつてキリスト教の初期の時代に、アッシリヤ
人(古代キリスト教徒や景教徒たち)は中国にやって来
て、多くの人々をキリストに導いたのだ、と教えてくれ
ました。
もし、真の信仰の光がこの地域にもたらされたことが
あるなら、もう一度その光をそこにもたらすことは、大
変すばらしいことです」
(http://www.keikyo.com/books/xavier.html)。
このようにザビエルは、自分は初めて日本にキリスト
教を伝えに行くのではなく、むしろ、昔そこに伝えられ
たことのあるキリスト教を再び燃え上がらせるために行
くのだ、という自覚を持っていたことがわかります。
ザビエル以前から、多くのキリスト教徒が日本にいま
した。しかし、中には異教と混合したり、形骸化した
り、信仰が薄くなっている人々も多くいました。
そこにザビエルがやってきました。マレガ神父によれ
ば、ザビエルは日本で十字架を発見しました。それはザ
ビエルよりも一〇〇〇年も前の十字架だったのです。
ザビエルは、ある本には三〇万人もの回心者を得たと
書いてあります。しかし、先日NHKで放映されたド
キュメンタリーでは(一九九九年)、実際には八〇〇人
であったとしています。
しかし、それらの人々が核となって、そののち爆発的
に信仰が広がっていきました。これは、ザビエル以前か
ら日本にあったキリスト教信仰が、再び燃やされていっ
たからなのです。
アッシリヤ人
キリスト教徒?
Qアッシリヤ帝国は紀元前五七六年に滅びたのに、どう
してアッシリヤ人によるキリスト教の宣教というような
ものがあったのですか。
Aアッシリヤ帝国は、バビロン帝国のネブカデネザル王
によって滅ぼされましたが、世界には今も、三〇〇万〜
四〇〇万人ほどのアッシリヤ人が生きています。
私もアッシリヤ人です。
一九一七年に、トルコとクルドのイスラム教徒が、少
なくとも一八万四〇〇〇人のアッシリヤ人キリスト教徒
を虐殺する、という事件が起きました。このとき虐殺を
のがれた大量の難民が発生しました。
私の両親も難民となり、アメリカに渡りました。つま
り私は、その生き残りの子孫なのです。
キリスト教が成立したとき、イエスの弟子たちは西の
方角へ伝道に行っただけではありません。東の方面にも
向かいました。
十二弟子の一人バルトロマイは、ヒエロニムス(聖書
学者、教父。三四七〜四二〇年)の記すところによれ
ば、インドに伝道に行き、最後はアルメニアのアルバノ
ポリスで死んだとしています。
バルトロマイは、アッシリア方面に伝道に行ったので
す。使徒トマスも東に向かい、インドに行きました。ト
マスはそこで殉教したと言われています。
また使徒タダイ(アラム語でアダイ)は、アッシリヤ
地方の古都エデッサ(現ウルファ、トルコ南東部)や、
パルテヤ地域(カスピ海南東)に福音を伝えました。四
世紀の歴史家が、過去の文献を引用してそう記した文章
が残っているのです。
その後、エデッサは東方キリスト教の中心地として栄
えました。西暦九五年には、その地域には一九の都市
に、キリスト教の主教がいました。
一六一年には、メディヤ、ペルシャ、バクトリヤなど
のアッシリヤ地方には、広くキリスト教が伝わっていた
ことが知られています。アッシリヤは、最初のキリスト
教国となったのです。
そののち五世紀になると、「景教」(ネストリウス派
キリスト教)と呼ばれるキリスト教の一派も、このアッ
シリヤ地域で栄えました。そしてさらに東方へ広がって
いったのです。
彼らは中国に達し、またそののち、日本にもやって来
ました。
私はアッシリヤ人ですが、私が日本に来るよりはるか
以前――今から一六〇〇年ないし一八〇〇年も前に、
アッシリヤ出身のキリスト教徒が日本にやって来ていた
のです。
古代の日本に来た
キリスト教徒とは
Q古代の日本にやって来たというそのキリスト教徒たち
について、何か具体的な証拠があるのですか。
Aそうですね、今から一八〇〇年前に日本にやって来た
そのキリスト教徒の遺体をお見せすることは、もちろん
できませんが、これについては山ほどの証拠がありま
す。
英語、フランス語、ドイツ語、中国語、日本語、ベト
ナム語、インドネシア語、ロシア語、アラム語、マレー
シア語などでこれについて書かれた、三〇〇を越える書
物があります。
日本でも、佐伯好郎博士(早稲田大学教授)、東ケ崎
潔氏(ジャパン・タイムズのオーナー)、江上波夫博士
(東大名誉教授)、鯛 茂氏、賀川豊彦氏(伝道者、社
会運動家)、池田栄博士(京都大学教授)などが、これ
について記しています。
佐伯好郎博士は、古代キリスト教は西暦一九八年には
すでに日本に入っていたと書きました。
日本の古文書『新撰姓氏録』(九世紀)は、仲哀天皇
(第一四代)の第八年に「弓月」の王「巧満」が日本の
朝廷を公式訪問した、と記しているのです。
「弓月」(クンユエ Kung-Yueh)という国は、中国の
史書にも記されていて、中央アジアにありました。佐伯
博士の研究によれば、これは小国とはいえ、キリスト教
国だったのです。
そこから人々がやって来た。やって来たその年――仲
哀天皇の第八年は、西暦一九八年(または一九九年)に
あたるのです。
(訳者注 日本の神話に基づく歴史の上からは西暦一
九八〜一九九年であるが、今日の歴史学者の多くはこれ
を一般に四世紀後半と見ている。一説には三五六年とさ
れる。しかし二世紀頃に、すでにキリスト教徒が日本に
入っていたことは、十分あり得る。キリスト教はインド
には西暦五二年に、また中国には六一年にすでに入って
いたと言われているからである)。
弓月の人々は、国が滅びてから中国方面に逃れていた
のですが、そののち、日本の応神天皇(第一五代)の第
一四年――巧満王の来日の一六年後に、巧満王の子が一
万八六七〇人もの民を率いて日本に渡来、帰化している
のです。
日本の古い歴史書や、中国の歴史書からそういうこと
がわかります。約二万人もやって来た。それは大集団で
した。
彼らがいわゆる「秦氏」(秦一族)です。秦氏のこと
を調べた学者は、彼らが一種のキリスト教信仰を持って
いたと述べています。
仏教が五三八年に日本に入るよりもはるか以前に、キ
リスト教は日本にすでに入っていたのです。
秦氏一族の
キリスト教信仰
Q秦氏の人々がキリスト教信仰を持っていたことは、ど
んなことからわかりますか。
Aスペインから来たカトリック宣教師、マリオ・マレガ
神父は、秦氏について私に教えてくれたことがありま
す。
彼は一九五二年の東方学会で、歴史学の教授たちを前
に論文を発表しました。それは西暦六二二年に、秦氏の
首領、秦河勝によって京都に創建されたキリスト教会に
関するものでした。
それは京都の葛野に建てられました。しかし後に焼失
したため、そこから数キロの地点に再建されました。
創建当初の教会は窓がなく、大きな入口が一つだけあ
り、シンプルな構造で、黒い十字架が一つついていたと
のことです。
現在それは、広隆寺(別名 太秦寺、秦公寺)と呼ば
れる仏教の寺になっています。しかし、江戸時代後期の
儒学者・太田錦城(一七六五〜一八二五年)は、この寺
を見て、
「寺という名はついているが、仏教の寺ではない」
といい、それがもともとキリスト教の教会であったと
述べています。
広隆寺といえば、そこに有名な弥勒菩薩像がありま
す。ミロクというのは、仏教における未来の救い主で
す。キリスト教でいえば、再臨のキリストに似ていま
す。
京都大学の池田栄教授によれば、中国の景教徒の間で
は、メシヤとミロクはしばしば混同されていました。
ミロク思想は四世紀のインドにおいて生まれたもので
す。当時のインドでは、景教が力を急速に伸ばしていま
した。
そのために、景教のメシヤ思想が仏教徒の中に入っ
て、ミロク思想となったのです。有名な景教学者E・A
・ゴードン女史は、
「ヘブル語のメシヤが、インドではマイトレーヤにな
り、中国ではミレフとなり、日本ではミロクになった」
と述べています。
広隆寺の創建者、秦河勝の名は、日本書紀にも出てき
ます。また日本書紀によれば七世紀、皇極天皇(在位六
四二〜六四五年)の世に秦氏のことが話題になり、
「ウズマサさまは
神とも神と聞こえ来る
常世の神を打ちきたますも」
という和歌が人々の間で歌われ出した、と記されてい
ます。これは、
″ウズマサさまは神の中でも神だと大評判だ。常世の
神を打ち懲らすほど霊験あらたかだから〃
の意味です。和歌の内容から見て「ウズマサ」は、明
らかに秦氏が信じていた宗教の本尊名でしょう。
佐伯好郎博士は、この「ウズマサ」は、イエス・メシ
ヤを意味するシリア語(東方キリスト教の中心地エデッ
サとその周辺で話されていたアラム語の方言)イシュ・
マシャ(Yeshu Meshiach)が若干なまったものであろう
と述べました。ウズマサの名前は今日も、京都に太秦と
いう地名としても残っています。
広隆寺の隣りには、秦氏の子孫である人の家がありま
す。その敷地内に「いさら井」と呼ばれる井戸がありま
す。
ある人々は、この「いさら井」というのは、イスラエ
ルのなまったものだろうと考えています。
また私は、この「いさら井」の写真を、シカゴのア
シュルバニパル図書館に送って、アッシリヤ語の学者
ホーマー・アスリアン博士に見てもらいました。彼は、
「イサライは、おそらく『イエスはわが羊飼い』とい
うアッシリヤ語でしょう。イサはイエス、ライは羊飼い
です。詩篇二三篇から来たものでしょう」
と言いました。
私はその井戸の持ち主、本間さんにお会いしたことが
あります。彼は家に私を上げてくださり、先祖から伝わ
る秦氏の系図を見せて下さいました。
「いさら井」の意味の話をすると、彼はとても喜んで
下さいました。
秦氏の神社や寺は
キリスト教の
礼拝所だった
Q秦氏はそのほかにも京都に、大酒神社や蚕の社をつ
くっていますが、これらもキリスト教と関係があるので
すか。
Aはい、関係があります。京都の太秦に、秦氏がつくっ
た神社で、今は大酒神社と呼ばれている所があります。
そこの門柱には、
「ウズマサ明神」
を祀っていると書かれています。もともとそれは、イ
エス・メシヤを礼拝する所だったのです。
また大酒神社の由緒書には、この神社の名はもともと
「大辟神社」と書いたと記されています。「大辟」ある
いは「大闢」は、中国ではダビデを意味して用いられた
漢語でした。
ダビデは竪琴の名人であったと聖書に記されています
が、この神社の門柱にはまた、
「機織管絃楽舞之祖神」
と記されています。つまりこの神社はもともとは神道
の神社ではなく、ダビデを偲んで建てたキリスト教の礼
拝所だったと言われているのです。
また同じ太秦の地に、「蚕の社」または「木島坐天照
御魂神社」と呼ばれている神社があります。
これも秦氏が創建したものですが、そこには全国でも
珍しい「三柱鳥居」と呼ばれる、鳥居を三つ重ねた形
の、聖なる三脚があります。
これは門ではなくて、池の真ん中に立てられている神
的な象徴です。池田栄教授は、これについて詳しく解説
して、これはキリスト教の三位一体信仰の象徴であると
述べています。
秦氏については、彼らは単にキリスト教徒であるとい
うだけでなく、もともと中近東の(アッシリヤ、ペル
シャに住む)人々であった、あるいはユダヤ人であっ
た、という説もあります。佐伯好郎博士なども、秦氏は
ユダヤ人キリスト教徒であったと、考えていました。
景教徒も日本に
やって来た
Q秦氏の来たあとに、景教徒(ネストリウス派キリスト
教徒)も、日本にやって来たのですか。
Aそうです。景教は、一時はアジアにおいて非常に大き
な勢力を持ったキリスト教でした。
今もバグダッド(イラク)や、コチン(インド)、テ
ヘラン(イラン)、マドラス(インド)や、モートン・
グローブ、シカゴなどに景教の教会があります。
景教は中央アジアや、インド、中国方面に早い時代か
ら伝わりました。西暦六三五年に、景教徒の使節一行が
中国の長安に公式訪問した、という記録が残っていま
す。
しかし、これは古代の書物に記録された公式訪問で
あって、それ以前から多数の景教徒がすでに中国に来て
いた、と考えるべき理由が少なくありません。
この六三五年から約一五〇年間、景教は中国において
非常に栄えました。その様子については、中国の西安で
発見された有名な、
「大秦景教流行中国碑」
が物語っています。その後、モンゴルなどでも栄えま
した。
当時、またその前から、中国大陸と日本の間には多く
の交易があり、物や人の出入りがありました。ですから
当然、景教は日本にも入っていたのです。
日本に来た景教徒に関する最初の公式記録は、『続日
本紀』(八世紀)にあります。
西暦七三六年六月に、景教徒の宣教師であり外科医で
もあった「李密」というペルシャ人が、日本にやって来
たと記されています。また彼と一緒に、「皇甫」という
景教の教会の高位の人物もやって来ました。
彼らはその一一月に、聖武天皇から位を授けられてい
ます。滞在六ヶ月にして位を授けられているところをみ
ると、皇室とこのペルシャ人景教徒・李密らとの間に
は、親密な関係ができたもののようです。
李密や皇甫は宣教師でしたから、皇族に対し、キリス
ト教の伝道をしました。そして皇族の中に、それが広
まっていったようです。
実際、以後宮中の記録に、それまでに見あたらない
「景福」という景教用語が散見されるようになります。
聖武天皇による「国分寺建立の詔」(天平一三年)の一
節にも、
「あまねく景福を求め……」
とあります。またこの詔では、国分寺尼寺を「法華滅
罪」の寺と呼んでいます。仏教には本来、罪の意識はな
いのに、「滅罪」という言葉が生まれてきた背景にはキ
リスト教の影響があるのです。
景教は異端ではない
Qしかし、景教――ネストリウス派キリスト教は、四二
八年のエペソ宗教会議で異端とされた教えだと聞きまし
たが……
A私も、自分が通った三つの聖書学校でそう教えられま
した。しかし、もともと誰が景教を「異端」と言ったの
でしょうか。
ローマ・カトリックです。カトリックは当時から、マ
リヤを「神の母」と呼んでいました。マリヤ崇拝が始
まっていたのです。ネストリウスはこれに異議を唱えま
した。
「マリヤをキリストの母と呼ぶのはよい。しかし神の
母ではない。神に母はいない」
と。これは今日のプロテスタントの考えと同じです。
ジョン・M・L・ヤング博士も、その著『徒歩で中国
へ』(By Foot To China)の中で、ネストリウス派の信
仰は、今日の福音的な信仰者のものとほとんど同じで
あったと述べています。
景教徒は神の三位一体を信じていました。彼らのキリ
スト論にしても、「異端」と呼べるようなものではあり
ませんでした。手束正昭牧師はこう書いています。
「ネストリウスの見解は……聖書そのものからは決し
てはずれてはいなかったのです……ネストリウスの見解
を政治的に異端としてしまったことは、後の教会にとっ
て計り知れない損失をもたらしたのでした。……最近神
学的にもネストリウスを再評価する傾向が目立っていま
す」(「キリスト教の第三の波」キリスト新聞社刊、三
四頁)。
ネストリウス派キリスト教=景教は、カトリックより
も聖書的で、より正しい信仰を持っていた、と言っても
決して過言ではありません。それはむしろ、プロテスタ
ントに近い信仰だったのです。
佐伯好郎博士や、ケネス・スコット・ラトレッテ博士
(米国エール大学)もこう書いています。
「景教の運動は、世界で最も偉大な宣教運動であっ
た」。
今日、たいていの宣教師は自国や、自分の宣教団体か
らの援助を受けて宣教しています。しかし景教徒には、
そのようなものはありませんでした。
彼らは自活しながら、部族ごと移動して、見知らぬ国
に入り伝道したのです。
景教の影響を受けた
光明皇后
Q景教の影響は、そのほかにはどんなことがありますか
Aはい、たとえば聖武天皇の后、光明皇后は、景教の影
響を大きく受けた人でした。
光明皇后には、将来天皇になるべき子がいましたが、
白血病のために死にかけていました。それを見た、景教
の宣教師であり医者でもあった李密は、マタイの福音書
の八章を光明皇后に読み聞かせました。
李密は、聖書を全部持っておらず、マタイの福音書と
モーセの十戒だけを持っていたのです。彼の聖書は、シ
リア語(アラム語の方言。東方キリスト教の中心地エ
デッサとその周辺で話されていた)と、漢文で書かれて
いたので、皇后は通訳を通してマタイ八章を読みまし
た。
それはキリストによる病人のいやしが書かれてあると
ころです。李密は皇后に尋ねました。
「弥施詞が彼をいやして下さることを信じますか」
「公にはできませんが、信じます」
また李密は、ヨハネの福音書三章も皇后に説明しまし
た。「神はじつに、そのひとり子をお与えになったほど
に、世を愛された。それは御子を信じるものがひとりと
して滅びることなく、永遠の命を得るためである」
光明皇后は、このことを信じ受け入れ、そして息子は
いやされました。彼女の心は感謝で満ちあふれました。
以後、光明皇后は慈善の働きを積極的にするようにな
ります。彼女は表向きには仏教徒とされましたが、心の
内ではキリストの教えに生きました。
光明皇后は、夫である天皇から許可をもらい、身寄り
のない貧窮の人、ハンセン氏病人や、孤児などを収容し
た公設の救護施設「悲田院」を奈良の都につくりまし
た。
また、無料で病人に薬を分け与える「施薬院」もつく
りました。そして皇后という身の上でありながら、そう
した所で自ら看護婦として働いたのです。
奈良の法華寺には、光明皇后がハンセン氏病患者の膿
を吸って吐き出したという浴室が、今も残されていま
す。皇后自身が、病人の背中をそこで洗って上げたので
す。
彼女の名「光明」も、じつは景教用語です。景教の
「景」とは光明の意味で、景教は光明の宗教と呼ばれた
のです。
池田栄教授は、光明皇后がこのように愛に生きた背景
には、景教徒・李密の影響があったと書いています。当
時、仏教にはこのような慈善の考え方や実践はありませ
んでした。一方、景教徒の間では、こうした慈善はごく
普通のことだったのです。
これは八世紀のことです。ザビエルが日本にカトリッ
クのキリスト教を伝えるより、はるか以前のことなので
す。
いろは歌と景教
Qそういえば、「いろは歌」の中に「咎なくて死す」と
いう言葉が隠されていて、これがキリスト教と関係があ
るという話を聞いたことがありますが……
Aそうです。なぜあの古い「いろは歌」の中に、「とが
なくてしす」という言葉が隠されているのでしょう。
七文字ずつに「いろは歌」を並べて、一番下の文字を
拾うと「とがなくてしす」となります。
いろは歌は平安時代につくられたと言われています。
いろは歌は空海の作、という説が一般に流布しています
が、現在の学者の多くはこれを否定しています。
景教徒の多くは、語学にたいへん長けていました。彼
らはシリア語、ペルシャ語、中国語、また聖書原典の言
葉であるヘブル語、ギリシャ語などに通じ、また日本に
来た彼らは短期間に日本語をマスターしました。
いろは歌の「とがなくてしす」という言葉は「明らか
にキリストのことをさしている」と、シカゴのアシュル
バニパル図書館のH・モリヤマ氏は述べています。
いろは歌は、景教徒がつくったに違いありません。
現代の私たち
との関わり
Qしかしそのような昔の話が、今の私たちに一体どんな
関係があるのですか。
A多くの日本人は、日本は仏教国あるいは神道国と思っ
ているのではないでしょうか。
しかし、キリスト教は仏教よりも早く日本に入り、ま
たあるときは神道よりも大きな影響を日本に与えていま
した。
そして今から四〇〇年前、日本でキリスト教は最も盛
んな信仰だったのです。神道よりも仏教よりも多くの信
者を、キリスト教は日本で擁していました。
私の息子ケンは、以前、日本のキリスト教の歴史につ
いて書かれたある英語の本を読みました。リチャード・
ドルモンド教授によるその著には、
「西暦一六〇〇年頃、キリスト教は日本において最も
信者数の多い、最も整えられた宗教であった」
と書かれていました。当時、日本で一番信者数の多
かったのは、キリスト教だったのです。
ある本には、当時日本のキリスト教徒は三〇万人だっ
たとか、七〇万人だったとか書いてあります。しかし、
実際はもっといました。
信頼できる研究家によれば、当時キリシタンは約三
〇〇万人程度いたと、見積もられています。
当時の日本の人口は約一〇〇〇万人でしたから、これ
は約三〇%にあたります。それはまさに、日本における
「キリスト教の世紀」でした。
キリスト教は、日本人にとって決して遠い教えではな
いのです。みなさんの先祖の多くはキリシタンだったの
です。あなたにもきっと、キリシタンの血が流れていま
す。
当時、あまりにもキリシタンが増えたために、仏教の
寺は空っぽになってしまいました。あの京都でさえ、″
キリスト教の町〃の様相を呈したのですよ。
さびれていく寺が続出しました。危機感を抱いたの
は、仏教の僧侶たちです。僧侶たちは毎日、豊臣秀吉の
ところに行って、窮状を訴えました。
寺の収入が激減したからです。秀吉は初め、相手にし
ませんでした。しかし秀吉の心は変わり、キリシタンへ
の迫害が始まりました。
そうやってキリシタン禁制の時代が始まり、それは約
二五〇年間も続きました。その時代に、約一三〇万人も
のキリシタンが殉教しました(アメリカ合衆国建国
前)。
日本には「茶道」という伝統があります。茶道はどう
して日本の伝統になったのでしょうか。
茶室の入口は本当に狭くできています。それはキリシ
タン迫害時代に、茶室はキリシタンたちのひそかな聖餐
式の場だったからだと、茶道の研究家たちが述べていま
す。
お茶菓子はキリストの御体を、お茶はキリストの御血
を表していました。キリシタンたちはそうやって密かに
聖餐式を行なっていました。
また小窓から見える庭のキリシタン灯籠(ふつうの灯
籠のように見せかけて、下部に草にかくれたキリスト像
がある)に向かって礼拝をしていたのです。
迫害は長く続きましたが、こうして多くのキリシタン
たちが生き残りました。彼らは根絶されませんでした。
これは世界中を驚かせたものです。
日本のキリシタンは、世界で最も強固な、輝かしい信
仰を見せました。このように、日本は多くのキリスト教
徒の血と祈り、そしてその伝統の中にあります。
よく「リバイバル」ということが言われます。しか
し、それは日本人がキリスト教という新しい宗教を信じ
ることでも、外国の宗教を信じることでもありません。
それは、私たちが先祖の信じた神――聖書の教える真
の神様と、その救い主イエス・キリストを信じることで
す。
あのキリシタン禁制の時代に、それ以前の日本におけ
るキリスト教の歴史の多くは、闇に葬られました。
しかし、もう一度注意深く歴史を観察してみるなら、
日本には大昔からキリスト教の影響が脈々と流れ続けて
いたことがわかります。
私たちの使命は、その流れを再び燃え上がらせること
にあるのです。
日本の歴史は
仏教だけでない
Q多くの人々は、日本は仏教の伝統のもとに歩んできた
と思っていますが……。
Aたしかに仏教は、日本に大きな影響を与えました。し
かし、仏教以外のもう一つの巨大な歴史が、日本を流れ
ているのです。
九世紀に空海は、中国〔唐)にわたり、そこで仏教を
学んで、それを日本に持ち帰って広めたとされていま
す。
しかし、空海が持ち帰った仏教は「密教」といい、
シャカが説いた原始仏教とは似ても似つかない教えでし
た。それはじつは″景教と混合した仏教〃でした。
ですから今も密教の儀式を見ると、景教の儀式をまね
ているのがわかります。たとえば密教には「灌頂」とい
う儀式があって、空海自身、それを立派な信者になった
しるしに受けています。
これはキリスト教の洗礼式をまねたものです。灌頂
は、梅の棒をもって人の頭に水滴を三度注ぐ儀式です
が、仏教的には、この三度注ぐというのは何の理由もあ
りません。
これは、父・子・御霊の三位一体の名によって三度水
を頭にかける、キリスト教の滴礼式の洗礼をまねたもの
なのです。景教徒は、洗礼は滴礼式、浸礼式の両方を行
なっていたと言われているので、その滴礼式のほうが模
倣されたと言われています。
実際、ドイツのル・コック博士の探検隊が、中央アジ
アの高昌付近で、景教寺院の廃墟から壁画を発見しまし
た。その壁画には、滴礼用の聖水と香炉を持った牧師、
および三人の人物が立っている姿が描かれていたので
す。
また空海が、自分の師、恵果和尚から授けられた灌頂
用の金属製の器は、ペルシャのものを模倣したものだと
言われています。そして景教で香炉が使われていたよう
に、密教でも火舎香炉を用います。
さらに、灌頂式に使う祭壇の装飾具において天蓋の裏
に太い十字架があり、玉旛の上部にも十字架がありま
す。また卍字香炉には卍字が描かれていますが、その卍
字は、十字架の突端を故意に折り曲げたような形になっ
ています。
そのほか、空海の説いた教えには、景教的な要素が
数々混入しています。
空海の開いた高野山(和歌山県)には、中国にある
「大秦景教流行中国碑」の模造碑が置かれています。こ
れは景教研究家のE・A・ゴードン女史によるもので
す。
模造碑は、バチカンと、高野山の二か所にあります。
なぜ、空海の開いた真言密教の総本山に、景教の碑があ
るのでしょうか。これは真言密教と景教の深い関連を物
語っています。
これは単なる一例にすぎません。日本人が仏教だと
思っているものが、じつは純粋な仏教ではないのです。
そこには多くの場合、景教をはじめとするキリスト教の
影響、あるいは混合があります。
「景教」の「景」の字を見ると、「日」+「京」の形
になっています。「京」は、辞書を引くと「大」の意味
とありますから、「景」は「大日」と文字的に同じなの
です。空海の信じた「大日」(如来)は、じつは聖書の
教える神が仏教的にぼかされてしまったものなのです。
先に述べたようにザビエルは、弥次郎から日本人の宗
教について聞いたとき、どうも日本の仏教はキリスト教
に似ている、キリスト教が混合しているのじゃないか、
と感じました。
日本仏教の「大日」の教えは、キリスト教によく似て
いると思われました。弥次郎がデウス(神)を「大日」
と訳したのも、そのためです。そのため当初、ザビエル
の説いた教えは仏教の別派と間違われました。
また西本願寺の宝物中には、親鸞も読んで学んだとい
う「世尊布施論」があります。この「世尊」とはシャカ
ではなくてイエスで、内容も福音書の山上の垂訓に関す
るものなのです。
日本には仏教が連綿として伝わってきたように思うか
も知れませんが、じつは日本には仏教以外のもう一つの
歴史があります。キリスト教の壮大な歴史が、日本には
脈々と流れているのです。
私たちの使命は、その純粋な流れを、再び日本の主要
な流れにすることです。
[講演依頼]
ケニー・ジョセフ宣教師
およびケン・ジョセフ(息子)
(日本語で一万回以上の大衆伝道をしてきました)
〒106・8691東京都港区麻布台1-6-19-65 The
Keikyo Institute Tel 03-5780-1111 FAX
03-5780-1112
(レムナント1999年10月号より)
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