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七里の鼻の小皺

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nanari

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『破』劇場予告の流出動画

http://www.veoh.com/browse/videos/category/animation/watch/v180127712zDcZtTW

(evatakaさんのツイッターから)

かっこいいなあ。線路をよこぎってく群衆のシーンが、すばらしい(やや「22'話」のリメイク部分と重なるか)。この段階ではまだおおくは言えないけど、『序』の延長線上にあるイメージも散見される(ビルのCG処理など)。

アスカの名字と声優を変えることが一部で話題になってるけど、あれが宮村との対峙を避ける決定だったとしたら、嫌だと思う。声が変わった宮村でも、同じ宮村を相手にした方がよかったのではないか。「エンターテイメント化」は、過去の困難を避けることを意味しない。

「式波」という名字については、haimuさんが「綾波」の僚艦の「敷波」からではないかと指摘していて、これが鋭い気がする。アスカの扱いを縮小して、綾波の問題領域を拡張しようという意図なのだろうか。すくなくとも、アスカが他者全体を象徴するという、TV版後半から夏エヴァにいたる方向性には修正がくわえられそうだ。

でも、アスカに恋をしないエヴァというのは、一体なにになるのだろう。わたしもアスカ派を旗揚げするしかないかしら。



イルリメの新譜『メイドインジャパン』を、とりよせられたのだけど、ちょっと残念だったなあ。

日本語ラップは、やはり言語の流れや形式自体を言語としてきた(普段なら使わない語彙で簡潔に喋ってしまえば、シニフィアンが現前を表すのではなく、シニフィアン自体が現前する、ということですが)と思うし、その点でイルリメの音楽はどれだけヒップホップを離れても、日本語ラップの最良の可能性のひとつを示していたように思うのだけど、どうも最近は違う。言語の形式の冒険がとまってしまったように見えるのだ。どういうことだよ、メーン。

イルリメがノイズから音楽をはじめて、ヒップホップを経由して、『illlreme.com』でついに、「見せておきたい景色」のフォーク的な抒情に到達したまではよかったのだと思う。『illreme.com』においては、彼の言語上の冒険も、その過程と平行していた。つまり、ノイズ的な分裂した言語が、拾い集められるようにして、ひとつの抒情的風景をもとめるような運動性が、そこにはこめられていたのだ。しかし、近作においては、このフォーク的感性が、イルリメの落としどころとして予定調和的に定着してしまったように見えるのだ。これ以上の展開が見いだせないドツボとして、フォークが機能してしまうという問題。

ロックとフォークの対立という、古典的図式で語っているようで面映いけれど、意外とこの対立軸が、強く日本の音楽の歴史を規定してきた印象がある。フォークの、演歌につうじる「コブシ」の世界が、ところどころでもっとも才能のあるポピュラー・ミュージシャンをとらえて、「日本的な感性」の魅惑的なドツボへと彼らを閉じ込めてしまったようにも見えるのだ。尾崎豊が、フォークからはじめて(デモテープの「町の風景」など)フォークに帰ったように(「クッキー」における「おいら」など参照)。あるいは、「尾崎豊みたい」と小山田にくさされて以降のオザケンを思いだしてもいい(「天使たちのシーン」以上のフォークがあるだろうか。あの孤独こそ、極限の連帯だ)。なにか、フォークの呪縛のようなものが、日本のポピュラー・ミュージックの最良の部分をおおっているようにみえてしまうことがあるのだ(天才たちが、こうも抒情にだまされやすいことは、ぼくにとっては実は喜ばしいことでもあるのだが)。

いま、イルリメは本名の鴨田潤名義でフォークをつくりはじめている。そして、『メイドインジャパン』の末尾は、まさにこの鴨田潤的なフォークで閉ざされているのだ。これは、『illreme.com』の成功をなぞっているように見えるし、なぞっている分だけ、やはり説得力を減じている。本名でのフォークが、彼にとっての真実性として措定されてしまっていて、そこに予定調和的にたどりつくことが繰り返されるのだとしたら、それは大変なことだ。日本語ラップの冒険も、フォークの呪縛にとらわれてしまったということなのだろうか。まさか、そんなことはない(こんな風に素朴に思える力をあたえてくれたのは、イルリメかもしれないが)。ともかく、つぎの一手も、そのつぎも、いつまでもちぇけらっちょーしていかないといけないのであった。



すっかりゼロアカウオッチ日記になってしまっていた。

最近、ある友人に、ゼロアカ好きなのか嫌いなのかときかれて、すこし驚いた。好きにきまっている。これだけ楽しんだということは、それを知らない人に説明するときには、責任をもって肯定するしかないと思うし、そうしたい。

どう言えばいいのか、うまく言えないことがおおすぎるのだが、ぼくだって東浩紀をさんざん読んだのだ。いまとすこし事情が違うのは、ある世代のある種の人々にとっては一時期、東浩紀しかいなかったように見えたのだ。すくなくとも、飛び抜けていた。受験の選択のような場面においてさえ、実はもろに影響をうけていたのだから、ぼくはだれも笑う気はない。

そういえば最近、ある別の友人が、東浩紀の慶應講師時代の授業にでていたという話を聞いた。その時期の話を聞いたのはかなり珍しく、実はとても面白かった。



村上隆を批判してた頃の東はどこへ行ったのか。でも、「批評のメジャー化」を言うようになってから、東も村上を批判できないのは明らかだ。東の昨年以来の「和解」と「メジャー化」の流れが、単なるネオリベ化にならないことを期待していたかったのだが。



「現代思想のアナル」の舞台から降りる際に、一回だけこっそり「イェイ」をやった東浩紀には、微妙に萌える。

藤田のMCが、なかなかうまかったのに嫉妬。松平さんで白いエリクチュール吹いた。

総じて、悪ふざけ以外のなにものでもないが。「現代思想のアナル」、ほんとにやっちゃだめだよ。内輪のりすぐる。っていうか、だれか終わらない学園祭とめてやれ。

ファイナルザクティ革命は、真の「堕落」に失敗したように見える。



どのような経路をたどってのことだったか、健忘をはたらかせてしまったようだが、「(巨乳の)理論と実践」という、すばらしいホームページと出会ってしまった。そのページの理論篇にあたる、「乳論神経」(1997-2000年)という評論を読んで、感心も得心もした。文字通り、拍手してしまった。すばらしい文章だったので、ぜひ読んでもらいたいと思う。

「乳論神経」の内容を要約するのは難しく、全体を読んでもらうにこしたことはないのだが、ともかくいくつかの論点を拾ってみることにしよう。著者のOrangeCurveさんは、自らの「乳論者」としての立場をつぎのように語りはじめている。

私がいま第一に言いたいのは、躰のバランス、即ち所謂 "プロポーション" のことではないのである。おっぱいの巨きさに拘泥するわれわれ乳鑑賞者---これを私は "乳論者" と呼びたい---は、"プロポーション" や "スタイル" というような、余りにも従来的な上品さ志向の価値観の手垢にまみれた観念から、ともかくも一旦は乳だけを解放することを求める者である。或る意味でわれわれは、自分が、(巨きい方へ向かうヴェクトルにおいて)躰全体とのバランスを喪なった乳を求める者たちであることを、忘れてはならない。

このようにして著者は、単体としての乳と、その乳をみつめる乳論者の視線へと、状況を白紙還元することによって議論をはじめているのだ。この作業は、「眼で乳に触れる」乳論者の視線を肯定するために、必要不可欠なものであろう。

著者はそのあとで、身体全体の問題を位置づけることも忘れない(このような節度が、彼の文章に篤実な魅力をあたえている)。そこで著者は、乳を悪しきバランス主義(プロポーション主義)から解き放つために、とりわけウエストを乳の「土台」としてとらえる考え方を提示している。これは、言葉の響きほど意外な発想ではない。ウエストを「土台」として発想すれば、「トップ」と「アンダー」の関係性の全体を乳の問題系として認めることができる。それは、乳を身体へと疎外することなく、ただし身体との関係のなかで再考するための方法論なのである。

しかし、ここで著者の理論は、ひとつの問題と向き合うことになる。「トップ」と「アンダー」の関係に焦点を絞ると、「カップ」の数値をあまりにも過大視することになるのではないか。著者は、この「数値」の問題を、けして軽薄にはあつかわない。むしろ、公開された「数値」が、われわれの視線に必然的に影響をあたえることを認める、「数理乳論」の必要性さえ説いているのである。

重要なのは、したがって、「数値」のために盲目になることでもなく、「数値」を度外視することでもない。「数値」によって視線をきたえあげることが、われわれ乳論者のありうべき態度なのだ。著者はわれわれの目指す先を、つぎのように整理してくれる。

(1)余りに表面的な数字に騙されて満足してしまう傾向を批判し、乳ではなく数値を見ていたに過ぎない視線を、視覚的な乳へと戻してやり、乳をよりよく視ること、


(2)一面的な乳の視覚印象(‘おっぱい’の見た目である)で得られた喜びに満足することなく、この印象に、より豊富な数値的裏付けを与え、場合によっては、数値によって正当化出来ないような印象と満足を捨てて、乳鑑賞に深みを与えること、

言うまでもなく、問題となるのは、この「乳の視覚印象と数値との弁証法」にほかならないのである。


さて、われわれにとってなによりも興味深いのは、著者がその弁証法的な視線を、具体的な胸へと差し向けるときである。そして、きわめて妥当なことに、彼がそのあふれるばかりの感性によって触れるのは、他ならぬ、かとうれいこの事例なのである。

かとうれいこが、「Dカップ」であることの必然性を受け入れながら(彼は、この数理論を手放さず、絶対にかとうれいこがDカップであることを信じることの必要性を強調している)、そのうえで再度彼女の胸を見つめ、そこに「たっぷり感」という理念の可能態を掬いあげていく論旨の誠実さには、胸を打つものがある。このかとうれいこ論の、さしあたりの結末部には、「たっぷり感」のある胸の図が、書き手と読み手の視線がついに別れていかなくてはならない(まるで、左右のおっぱいのように)場所を告げるかのように、唐突に投げ出されている。これほど見事な切断面を、ぼくは稀にしか見ない。


最後に、この「乳論神経」の文体の魅力と、そのあふれるばかりの感受性について、触れないわけにはいかない。たとえば、つぎのような一節。

巨きいことは勿論重要であるが、巨きいという物理的な量が、柔らかさ・弾力という視覚的な質に転化していることもまた、決定的に重要なのである。適度な柔らかさを、乳はその形状を通して視覚的に伝えるのでなくてはならない。この性質を欠いた乳は、当然、視覚的に "硬い"。デカいだけで "たっぷり感" の欠けた、(視覚的に)硬い乳というものが実際にある。私はこれを「デカタイ」と呼びたい。視線を肩から下へ走らせてゆくと、鎖骨の直ぐ下辺りから、急激にお椀のように隆起する乳を、"たっぷり感" のある魅力的な乳と一緒に、ひっくるめて「爆乳」と称する傾向は、甚だ遺憾である。

非常に息の永い、それこそ爆発的人気を現在も誇る青木祐子さんや、山田まりやさんの胸が、いま一つ感動に欠けると思うなら、貴方は優秀な乳論者である。

青木裕子と山田まりあの「カタサ」を、同列に挙げる必然性を感じていた人間がいたことに、ぼくは本当に感謝したい。

第五章「超大粒の真珠の泪 トポロジカル乳論の導乳」の、つぎの美しい段落を引用することを、ぼくは禁じえない。

この世に女性の肉体というものが存在することは、それ自体で既に、自然が芸術活動を営んでいる証拠であることを、我々は疑うことなど出来ない。このように自然に相向かう我々人間のなかでも乳論者は、特に、神々しいまでに巨きく育った乳房に眼を奪われるとき、巨乳においてこそ、自然の美的造形力の光が最も眩しく輝き出るのを、些かの躊躇もなく認めることであろう。乳論者は、まさにそのとき気付くのだが、優しく触れ合う双つの豊かな膨らみの影から、それらの作者、即ち、自然という、偉大だが実は孤独な芸術家が、微笑みながらこちらに目配せをして、宇宙に友を見出した安堵と静かな喜びを、そして、自らの作品に対する、いまや本当の理解者を得て揺るぎないものとなった芸術家としての自負心を、表明するのである。

これで、おっぱいについてぼくは書かなくてもいいと思った。だから、ネットはすばらしい。


「乳論神経」

http://www.interq.or.jp/orange/curve/Unter/nyu.frame.html



Buono!、MilkyWayは言うにおよばず、no3bやCOSMETICSなど、perfume以降再度「三人」の時代がやってきた観がある。ごまっとうが見た夢を思い出してもいいし、ただしくキャンディーズに遡ってもいいが、「三人」はグループとしてのアイドルの理念的形態であり、ハロプロ以降の「集団」を逸脱する問題をはらんでいる。

COSMETICSにおいて、ふかわりょうは、かなり貪欲な、いい仕事をしている。ふかわの、あの慎みのなさと比較するとき、おそらくアイドリングでのバカリズムは優しすぎたのだ。



東浩紀ブログ、「ファイナルザクティ革命成功しすぎだろ」→「ザクティ革命成功しすぎだろ」に訂正された? 確証はない。しかし、いずれにせよ、東さんは今回の一連の藤田動画は、あくまでもザクティ革命(XR)の一貫と考え、ファイナルザクティ革命(FXR)には言及しないつもりなのだろうか。

今後も、調査をつづけていきたい。あと、七里ネットにはりつきすぎ。



寮の宴会で、数人の学生たちと出身地の話をしていると、ちょっと不思議ちゃんぽい女の子が、「こりん星出身でーす」などと言う。彼女と親しいらしい女の子たちが、「そう、この子、こりん星から来たのよー」ともりあがっている。内心さほど乗りきれないながら、「そうですか。では、ご同郷でしたか」と、まじめにかえすと、女子たち全員、プイと無視して、なにか食べたり飲んだりしている。冗談ではない! 



ファイナルザクティ革命がすごいのは、もはやこの革命が、自分の勝利しか考えていないところだ。革命という語からあらゆる公的な理念を奪いさり、藤田直哉は個人的な願いのためにこの言葉を使いはじめている。

革命という語の堕落。しかし、そうでなければ、堕落した生を革命することはできなかったのだ。


などと言っていたら、ぼくの友人がみなぼくより偉くなっている。ぼくも、自分なりのファイナルザクティ革命を見いださなくては。



ファイナルザクティ革命、成功するかもしれん。

ミネオのアナルはイェイイェイイェイ



七里。文学研究者。批評家、エッセイスト、詩人、ブロガー。匿名希望。

獅子座、A型。誕生日は、上杉和也の命日の翌日。

ご連絡は、上記メルアドまで、よろしくお願いします。


ある程度まとまりをもったテクストとして、さしあたり以下のものを挙げておきます。

「対談 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』」:http://d.hatena.ne.jp/nanari/20080104

「アイドルについて語るということ」:http://d.hatena.ne.jp/nanari/20070718

「対象を失った愛(2) 想像力のために」:http://d.hatena.ne.jp/nanari/20070212

「笑いの忌明けのために」:http://d.hatena.ne.jp/nanari/20070101


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