佐藤優氏から、公開質問状への回答が来ない/『週刊新潮』編集部とのやりとり
前にも書いたように、2月25日の内容証明郵便で、早川清『週刊新潮』編集長宛に、添付した佐藤優氏への公開質問状(回答期日は3月11日)を渡すよう伝えたのだが、佐藤氏からの回答は、3月17日現在、来ていない。

後述のように、早川編集長は、私が送った文書を受け取っていないと主張しているのだが、私が佐藤氏に公開質問状を送り、ウェブ上で全文を公開していることを、佐藤氏が知らないはずはないと思う。ましてや佐藤氏は、公開質問状でも触れたが、「左右両翼からの批判について、公共圏で論じる必要がある問題提起には、投書への返信を含め、時間の許す範囲で誠実に対応してきたつもりである」(『世界認識のための情報術』金曜日、2008年7月刊、8頁)、『週刊金曜日』の「編集部経由で筆者に寄せられた照会についても、すべて回答している。筆者の反論に、批判者がどの程度、納得しているかわからないが、筆者としては誠実に回答しているつもりである。いずれにせよ、編集部を経由して、このような形で読者との双方向性が担保していることをうれしく思う」(同書、222・223頁)などとこれまで発言しているので、これは大変奇妙に思われる。

回答期日が過ぎたので、今後、何らかの件で佐藤氏と接する機会のある人々は、佐藤氏に、金に公開質問状への回答を送るよう、佐藤氏に催促してほしい。佐藤氏の講演会で、この件に関して佐藤氏に質問をするのも面白いのではないか。

なお、この件に関する『週刊新潮』側の反応は、大変興味深いものだったので、報告しておこう。

3月11日の回答期日から2日を経ても佐藤氏からの回答がないので、私は、早川編集長に直接確認しようと、3月13日の夕方に『週刊新潮』編集部に電話した。早川編集長は、外出して不戻りらしいとのことだったので、翌日14日の午後に改めて電話した。その時は不在だったが、時間をおいて改めて電話すると、電話に出た編集部員は用件を聞いてきた。今度は、早川編集長はいるようだった。用件を伝えると、今打ち合わせに入ったという。打ち合わせは10分くらいで終わるらしいというので、また時間をおいて、改めて電話した。

電話に出た編集部員に、用件を改めて伝え、早川編集長に電話をまわすよう言うと、そうした内容には、法務担当者が答えるという。私は驚いて、抗議したが、電話は法務担当者にまわされた。

『週刊新潮』編集部の法務担当者であるらしい人物は、佐貫と名乗った。この佐貫氏に用件を伝え、早川編集長を電話に出すよう再度求めると、それはできない、こうした件については全て自分が答えることになっている、と言う。そして、早川編集長に事実関係を確認するので、15分ほど待ってほしいと言われた。

そして、15分を過ぎてから、改めて電話をした。ここでの佐貫氏の回答は、以下のような、驚くべき内容だった。


●早川編集長宛の郵便物は、私信以外は、全て前もって自分が開封した上で、早川編集長その他の関係者に郵便物を割り振ることになっている。しかし、金が送ったという文書は、自分は受け取っていない

早川編集長も、金が送ったという文書を受け取っていないと言っている。また、佐藤氏と親しく、『週刊新潮』2007年12月6日号掲載記事「佐藤優批判論文の筆者は「岩波書店」社員だった」を書いた記者(デスク)も、受け取っていないと言っている

●金は、内容証明で送ったと言っているから、多分新潮社には送られているのだろうが、「庶務のアルバイト」の手違いなどで、自分に文書が渡らなかったなどの可能性が考えられる。また、牛込郵便局(新潮社の所在地の郵便局)の手違いの可能性もある


そして、この後再度電話したところ、佐貫氏は、


●佐藤氏への公開質問状は、ウェブ上で、先ほど確認した。佐藤氏と親しく、『週刊新潮』2007年12月6日号掲載記事「佐藤優批判論文の筆者は「岩波書店」社員だった」を書いた記者(デスク)が、公開質問状をプリントアウトしたので、この記者が、公開質問状を佐藤氏に迅速に渡す

と回答した。

『週刊新潮』側はこのように述べているのだが、この内容証明郵便を新潮社が受け取ったことを示す配達証明書を、ここに貼り付けておこう。



念のために書いておくが、上の配達証明書は、新潮社の誰かが、印鑑を押すかサインするかして、牛込郵便局から届けられた私の内容証明郵便を受け取ったという事実を示している。これほど明確に、早川編集長宛に牛込郵便局が配達したことが証明されているにもかかわらず、法的効力のある内容証明郵便を受け取れなかった、という主張がもし事実ならば、新潮社というのは、どれほど奇妙な管理体制の会社なのか、ということになる。それでは、『週刊新潮』はこれまで、どうやって裁判をこなしてきたのだろうか?

仮に、私が『週刊新潮』編集部に電話で直接確認しなかったならば、佐藤氏は、公開質問状について聞かれた場合、以下のように答えていたかもしれない。自分はその件は全然知らない、『週刊新潮』編集部も届いていないと言っている、内容証明郵便でそうした公開質問状を送ったという金の主張は、事実であるか疑わしい・・・。

それはさておき、『週刊新潮』側は、公開質問状のコピーを佐藤氏に迅速に渡すと明言したので、少なくとも佐藤氏に、公開質問状が渡る(渡っている)ことにはなる。佐藤氏からの回答に、引き続き注目しよう。

また、今回の電話のやり取りから、上でも書いたように、『週刊新潮』2007年12月6日号掲載記事「佐藤優批判論文の筆者は「岩波書店」社員だった」を書いた記者(デスク)は、佐藤氏と大変親しく、毎日のようにやりとりしているらしいことも分かった。『週刊新潮』編集部の人間が、そう明言したのである。なお、この記者(デスク)は、私にメールを送ってきた、荻原信也記者とは別人とのことである。

なお、『週刊新潮』の編集方法やその体質については、「元記者」による下のリンク先の記事が詳しい。



「「早川清」編集長もビックリ!?
元『週刊新潮』記者が暴露した編集部内のおそるべき「捏造体質」」
http://www.yanagiharashigeo.com/htm/report4.htm

# by kollwitz2000 | 2009-03-17 00:00 | 佐藤優・<佐藤優現象>
メモ6
作家の目取真俊氏が自身のブログで、佐藤優を重用する沖縄の左派知識人やメディアを批判し、佐藤への警戒を呼びかけている(私のブログも言及されている)。私も、沖縄の左派、大田昌秀や新川明や仲里効らの佐藤への入れ込みようには唖然としていたのだが、まともな批判がようやく出てきた、と言える。左派における佐藤優(現象)批判のタブーも、弱まりだしたようである。

「国家主義者という病理」
http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/82ae9a8d0b28418653f14b827a48674e

ついでに言うと、これまでの例を見る限り、『世界』『金曜日』などの左派ジャーナリズムには、左派の著名人が〈佐藤優現象〉に批判的であることを表明した場合、その人物を誌面に登場させて、そうした批判を無化させようとする傾向があるように思われる。目取真氏も、近いうちに、両誌(のどちらか)に登場するのではないか。

# by kollwitz2000 | 2009-03-15 00:00 | メモ
朝鮮総連の資産凍結について
1.

麻生政権は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がミサイルまたは人工衛星を発射した場合、朝鮮総連の財産の凍結処分を行う方針を固めたという。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090306/plc0903060120000-n1.htm

この件に関しては、吉田康彦が早くにコメントを出し、「在日朝鮮人の生活と人権のさらに圧迫する非人道的措置」として批判している。だが、どうせ大多数の日本の左派は黙認するだけだろう。
http://www.yoshida-yasuhiko.com/

それにしても、ついにここまで来たか、というのが第一報を聞いた感想である。朝鮮総連が何か犯罪を犯したから、という理由ですらなく、外交関係上の「国益」の観点から、資産を凍結するというのだ。在日朝鮮人の「人権」は、はじめから考慮の対象にすらなっていない。さらに言えば、これは吉田が指摘するように、北朝鮮への「圧力」になることすら疑問とされる措置であり、本当に、外交上の必要からの措置として行なわれるものなのか、それ自体も怪しいと思う。

私は朝鮮総連を支持しないが、「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がミサイルまたは人工衛星を発射した場合、朝鮮総連の財産の凍結処分を行う」などという方針は、国籍を問わず、在日朝鮮人の財産権、結社の権利という基本的人権の真っ向からの否定であって、全面的に反対せざるを得ない。

ましてや、朝鮮総連が数多くの在日朝鮮人から構成されており、民族学校の生徒や保護者、関係者をはじめ、朝鮮総連と関係を持つ在日朝鮮人が数多く存在することは客観的な事実であり、民団などその他の民族団体が大衆レベルでまともに機能していない以上、そうならざるを得ないだろう(このことは以前にも書いた)。現実に、数多くの在日朝鮮人によって構成され、数多くの在日朝鮮人の生活に関わる団体の財産を、単なる外交上の観点からのみ凍結するというのであるから、恐るべき暴挙であると言わざるを得ない。

こうした、対象の「人権」を全く考慮に入れない、「国益」の観点からのみの弾圧が、外国人一般に対しても許されるべきでないことは明白であるが、ましてや、在日朝鮮人は、日本の植民地支配による朝鮮の農村経済の崩壊、朝鮮の近代国家化の挫折の結果、日本で食べていかざるを得なくなった朝鮮人およびその子孫であって、日本に定住する権利を持つ(「日本で生まれて日本で育ったから」、「地域社会の住民だから」定住する権利を持つ、と言っているのではない)。財産権を含めた、日本国民と同等の基本的人権の享受が否定されること自体が、不当である。

そして、今回下されるらしい政府の措置は、何らかの犯罪的行為を理由としたものですらなく、ひたすら外交関係上の「国益」の観点からのみ行われているのであるから、その人権侵害の度合いはより一層激しい。

日本人の(それも左派の)中には、朝鮮総連から被害を受けた在日朝鮮人の声を持ち上げて、朝鮮総連への日本政府の弾圧を正当化・容認するような議論も散見される。そうしたケースで、被害者に対して朝鮮総連の責任が問われるのは当然であるが、そのことと、日本政府が在日朝鮮人の財産権、結社の自由といった基本的人権を否定することとは、次元が全く異なる。そうした議論は、在日朝鮮人の自己決定権の否定が前提となっているのだ。

現在の論壇で、こうした、外交上の「国益」の観点からの朝鮮総連への弾圧を最も積極的に唱えている人間が、私の論文やブログをお読みの方ならお分かりかと思うが、佐藤優である。「<佐藤優現象>批判」の一節を、改めて引用しておこう。


「佐藤は、「在日団体への法適用で拉致問題動く」として、「日本政府が朝鮮総連の経済活動に対し「現行法の厳格な適用」で圧力を加えたことに北朝鮮が逆ギレして悲鳴をあげたのだ。「敵の嫌がることを進んでやる」のはインテリジェンス工作の定石だ。/政府が「現行法の厳格な適用」により北朝鮮ビジネスで利益を得ている勢力を牽制することが拉致問題解決のための環境を整える」と述べている。同趣旨の主張は、別のところでも述べている。「国益」の論理の下、在日朝鮮人の「人権」は考慮すらされてない。

 漆間巌警察庁長官(当時)は、今年の一月一八日の会見で、「北朝鮮が困る事件の摘発が拉致問題を解決に近づける。そのような捜査に全力を挙げる」「北朝鮮に日本と交渉する気にさせるのが警察庁の仕事。そのためには北朝鮮の資金源について事件化し、実態を明らかにするのが有効だ」と発言しているが、佐藤の発言はこの論理と全く同じであり、昨年末から激化を強めている総連系の機関・民族学校などへの強制捜索に理論的根拠を提供したように思われる。佐藤自身も、「法の適正執行なんていうのはね、この概念ができるうえで私が貢献したという説があるんです。『別冊正論』や『SAPIO』あたりで、国策捜査はそういうことのために使うんだと書きましたからね。」と、その可能性を認めている。」


興味深いことに、ここで名前を挙げた漆間巌は、周知のように、麻生内閣の内閣官房副長官である。今回の政府の決定も、漆間が主導しているように思われる。

念のために書いておけば、麻生政権が倒れ、民主党(主導の)政権への「政権交代」が実現しても、こうした在日朝鮮人への迫害はなくならないどころか、むしろより一層激しくなる恐れすらある。

昨年11月上旬の報道によれば、民主党の拉致問題対策本部がまとめた北朝鮮制裁案の原案には、北朝鮮関係団体の資産凍結、朝鮮総連への課税強化などと並び「在日朝鮮人の日本再入国禁止」という措置が盛り込まれている。ここでの「在日朝鮮人」が、韓国国籍の者を含むのかはよく分からないが、朝鮮籍の在日朝鮮人を対象として含むことは確実であろう(ちなみに、意外なことに、柳美里が、『週刊ポスト』の北朝鮮訪問記でこの制裁案に批判的に言及していた)。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081102/plc0811022035003-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081102/plc0811022035003-n2.htm
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20081106-OYT1T00103.htm

この件に関しては続報があまりないので、その後の党内の審議でどうなったのかはわからないのだが、この制裁案によれば、少なくとも朝鮮籍の在日朝鮮人は、日本を一旦出国すれば日本に再入国できないことになるから、事実上、日本から外に出られないのである(より正確に言えば、朝鮮籍の在日朝鮮人の場合、再入国許可のないまま日本を出国すると、在留資格(特別永住資格)を失うことになる。朝鮮籍の在日朝鮮人は、旅券を所持していないため、その場合、保護する政府を持たない状況で、日本外に取り残されることになる。よって、事実上、日本から外に出られない、ということになる)。イスラエルにおけるパレスチナ人を連想させるこんな度を超えた人権侵害そのものの案を、次の衆議院選挙で第一党になることが有力視されている政党が保持していることに驚かざるを得ない。

だが、より驚くべきことは、「反貧困」や「格差社会の是正」を唱えて民主党(主導)政権への「政権交代」を主張しているリベラル・左派の人々が、民主党拉致問題対策本部のこの北朝鮮制裁案の「在日朝鮮人に対する再入国許可禁止」という項目について、黙認しているか、一切言及していないことである。この政党のこんな制裁案を黙認しておいて、一体、どういう神経をしていれば「人権」やら「思いやり」やら「平和」やらを語れるのか、謎である。

民主党は、格差社会の是正や、女性の社会的進出の促進など、国内問題で「左」と映りそうな政策を行うために、対外的に「右」と映る政策を公約してバランスをとり、保守的な有権者からの支持を獲得したいのだろう。格差社会の是正を唱えているから民主党(主導)政権を支持するという人々こそが、(少なくとも朝鮮籍の)在日朝鮮人の基本的人権の侵害を支えることになるのである。こうした人々は、やがて、自分たちの行為を自分自身に対して正当化するために、半ば無意識的に、在日朝鮮人に対する排外主義的感情を強めていくことになるだろう。



2.

日本の護憲運動や平和運動は、2006年7月の北朝鮮のミサイル発射からの数ヶ月間における、日本社会の、開戦前夜とでも評すべき異常な緊迫状況において、北朝鮮との戦争への反対の声を、ほとんど上げることができなかった。あの時点で、日本の護憲運動・平和運動は、一度死んだのである。今回のような、在日朝鮮人の基本的人権を考慮に入れない、朝鮮総連への弾圧を黙認するという事実それ自体が、「北朝鮮」や「拉致問題」を出せば何も言えない(または対外強硬論を唱える)という「空気」をそれだけ強めることになる。こうした人権侵害に反対し、2006年後半の沈黙への反省がない限り、護憲運動・平和運動は、対北朝鮮武力行使、対テロ戦争にまともに反対することはできないだろう。少なくとも、「2006年には、北朝鮮の核実験という危機の高まりがありながらも、韓日両国の平和運動の力は、軍事的解決の方策を、それぞれの国の政府にはとらせなかった」(小森陽一「「韓日、連帯21」の役割と課題」(小森陽一・崔元植・朴裕河・金哲『東アジア歴史認識論争のメタヒストリー』青弓社、2008年11月)といった自己欺瞞そのものの文章が流通しているのを見る限り、そう思わざるを得ない。

和田春樹は、『世界』2009年4月号(3月8日売)掲載の論文「韓国併合100年と日本――何をなすべきか」で、2006年の北朝鮮ミサイル実験以降の、朝鮮総連への政治弾圧を、「法律の厳密適用という名のもとでの在日朝鮮人、朝鮮人団体に対する圧迫とハラスメント」だとし、日本の「拉致問題至上主義政策」を批判する。和田の姿勢は、自分たち左翼の日本社会での「立ち位置」にしか関心がなさそうな、太田昌国(和田への批判者でもある。太田の『拉致異論』という本は、要するに、左翼のアリバイづくりの本である)その他の大多数の左翼よりも、はるかにマシである。

だが、和田のように、「拉致問題至上主義政策」に対して、「この地域の最重要な課題と言えば、核問題、ミサイル問題である」として対抗しようとしても、「在日朝鮮人、朝鮮人団体に対する圧迫とハラスメント」が終わるとは言えないだろう。「核問題、ミサイル問題」は、むしろ「拉致問題」よりも日本の「国益」に密接に関わるテーマであり、「在日朝鮮人、朝鮮人団体に対する圧迫とハラスメント」が北朝鮮への圧力として合理的であると認識されれば、それが行われることを止める論理はないからである。「拉致問題至上主義政策」と「核問題、ミサイル問題」を中心に置く政策が、対立するものではない。和田が、佐藤と親密な関係にあることも、そのことを示唆している。

和田の主張は、外務省のラインである。「拉致問題至上主義政策」が付随させる排外主義に対して、日朝平壌宣言で対抗しようとしても、対抗できないか、排外主義を伴った形での日朝平壌宣言ラインでの主張に転化するか、のどちらかであろう。現実の言説状況と政治過程が、それを裏付けている。

日朝交渉においては、日本側が過去の植民地支配とその下での非人道的施策への清算を、みずから果たす責任があり、そのことが両国間の中心的課題である(もちろん、「拉致問題」に関する交渉も並行して進める)という立場に立たない限り、「拉致問題至上主義政策」にまともに対抗することはできないだろう。私の言っていることは、今の日本ではあまりにも突飛に響くだろうが、そもそも、日朝交渉のスタートラインにおける、日朝交渉に関する安江良介や和田春樹らの「朝鮮政策の改善を求める会」の主張は、「日朝関係の不正常さをみずから正す」ことを主張し、「日朝関係の歴史と現状に照らして肝要なこと」として、「日本政府が植民地支配の清算を果たすことを明確に掲げること」と、「日朝関係の改善は、日本側から、具体的に行うべきこと」の二点を挙げるものだった(「声明・政府に朝鮮政策の転換を求める」1989年3月。朝鮮政策の改善を求める会『提言・日本の朝鮮政策』岩波ブックレット、1989年3月。強調は引用者)。「拉致問題」の浮上があったとしても、揺らぐのはおかしい、歴史的立場である。こうした主張から、「みずから正す」という姿勢を棄て、換骨奪胎して「国益」論的に変質したものが、90年代以降の和田の立場(日朝平壌宣言)である。

また、日本の周辺アジア諸国の民衆から見れば、こうした立場の方がむしろ当たり前の認識である。日本は、植民地支配を行ない、しかも、強制連行や「慰安婦」制度等の、非人道的措置の被害者を輩出させた相手国に対して、戦後一貫して謝罪と賠償を拒絶してきているのであるから、日本側が、従来の姿勢をみずから正す、という姿勢で日朝交渉に臨まない限り、日本側の主張は奇異に響かざるを得ないだろう(世界の各国の民衆は、日本が、植民地支配とその下での非人道的措置について、まともに取り組んで来なかったし、これからも取り組み気はないであろうことを、日本の左派よりも正確に理解している。「慰安婦」問題への日本政府の誠実な取組みを求める決議が、世界の各国で議決されていることも、そのことを示している)。こんな状態で、「拉致問題への国際的理解を得る」と言っても、どうやってそんなことができるのか。特定の政治勢力以外の「国際的理解」は得られないだろう。

念のために言っておくが、安倍晋三や中川昭一のような右派政治家や、「つくる会」のような歴史修正主義勢力の影響力が低下すればよい(戦後補償運動を行なっている一部の人間も、このように考えているようである)というのではなく、戦後民主主義勢力も含めた、戦後の日本社会が、植民地支配とその下での非人道的措置に対して、一貫して無関心だったのである。以前にも指摘したように、現在のリベラル・左派の論調は、「保守派を含めた、「戦後社会」の「平和」を肯定する勢力の結集」を志向するものになっている(そうした心性が、<佐藤優現象>を支える基盤である)から、「戦後社会」そのものが現実には植民地支配とその下での非人道的措置には一貫して無関心で、潜在的な排外主義と骨がらみであった以上、「北朝鮮」や「拉致問題」を掲げる右派の攻勢に対しては、対抗できないか、自らも排外主義を伴った形でのものに変質するしかないだろう。

総連資産の凍結は、以前にも書いたが、総連の前身である朝連の解散と、そのことへの当時の日本の左派の無関心を連想させる。結局、戦後60年間、何も変わっていなかった、ということである。



3.

それにしても、本当に不思議なのだが、イスラエルのパレスチナ人への蛮行を批判したり、憂慮したりしている人々は、目の前の、朝鮮総連や在日朝鮮人への嫌がらせに対し、どう考えているのだろうか。北朝鮮の軍事的脅威や拉致の脅威を掲げて弾圧を正当化、または容認しようとする人々の主張は、イスラエルがハマスのテロの脅威を訴えて、パレスチナ人の人権を抑圧するのと驚くほど似ている。

ましてや、朝鮮総連が拉致に関与したことも法的に確定した形では示されておらず、北朝鮮政府は拉致について謝罪している。恐らく真剣にテロに恐怖を感じている人々も多いであろう、イスラエルの状況に比べて、総連弾圧を主張したり容認したりしている人々が、本気で、総連が拉致かテロ活動を再びやると考えているとも思えないのである。

また、軍事的脅威の話をすれば、日米同盟や韓米同盟は、北朝鮮や中国に対する軍事的脅威そのものであろう。米英主導のイラク侵略を擁護する軍事評論家の小川和久すら、以下のように、述べている。

「ノドン・ミサイルを最大200基配備する北朝鮮が、それを日本に向けて撃てば、大量のトマホークのお返しを覚悟しなければなりません。それでも足りなければ、アメリカは核弾頭型トマホーク数十発(威力は長崎型原爆の数千倍)以上を北朝鮮に撃ち込む用意があるのです。/ということですから、北朝鮮が暴走し、万が一にも日本にミサイルを撃ち込めば、金正日体制の崩壊どころではありません。それは、北朝鮮という国家の消滅を意味します。逆に北朝鮮の立場からこちら側(日米同盟)を見れば、ビビらないほうが不思議なほどです。彼らは日米同盟に本気で反撃されたら一巻の終わりだと知っているのです。」(小川和久『日本の戦争力』アスコム、2005年12月、236頁。強調は引用者)

北朝鮮の軍事的脅威に対して、総連弾圧など行動をエスカレートさせるのは、もともと在日朝鮮人の人権を全く考慮しない右派だけではない。「日本は戦後、平和憲法のお陰で、戦争に巻き込まれなかった」とする護憲派や、日本の戦後社会を肯定する人々も、日米安保体制の下、日本が戦後一貫して、北朝鮮や中国への軍事的脅威であったごく当たり前の事実をまともに認識していないから、「軍事的脅威」が煽られれば、「北朝鮮」や「拉致問題」を掲げた排外主義を容易に支持するようになる。

繰り返し言っておくが、朝鮮総連を支持するか支持しないかは、今回の朝鮮総連の資産凍結に反対することと関係がない。パレスチナの例に準えれば、ハマスを支持することと、パレスチナ人がハマスを選ぶ自己決定権を持っているのを認めることが、全く別のことであるのと同じだ(ただ、この比喩は、現実の朝鮮総連が、ハマスのような軍事組織と抵抗精神を持っていないという意味で、不当ではあるが)。

日本のリベラル・左派は、イスラエルのパレスチナ人抑圧は非難しておきながら、目の前の同質の問題には、国民としての政治的責任をはるかに負っているにもかかわらず、頬かむりをするか容認するわけである(それどころか、そうした弾圧の扇動者である佐藤優を重用する)。今のリベラル・左派論壇に、読むに値する文章がほとんど現れないのも、当たり前だろう。

# by kollwitz2000 | 2009-03-08 00:00 | 韓国・朝鮮(在日朝鮮人)
早尾貴紀「佐藤優氏のイスラエル支持について」
パレスチナ情報センターで、活発な活動を展開されている、早尾貴紀氏からご寄稿いただいた。

「資料庫」にアップしたので、是非ご参照いただきたい。

早尾貴紀「佐藤優氏のイスラエル支持について」
http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-17.html

早尾氏の文章は、シオニスト左派を日本の知識人・メディアが持ち上げることの奇妙さの指摘など、大変示唆的なものである。詳しくは全文を読んでいただきたいが、ここでは、当ブログとの関係上、あまりにも当たり前の以下の一節を引用しておこう。

「反動的で差別的な佐藤氏の価値観を共有するメディアが彼を重用するのは当然だろうが、金光翔氏が繰り返し指摘しているように、なぜに佐藤氏が左派・リベラル陣営を自任するメディア(とくに『世界』『週刊金曜日』)にも頻繁に登場するのか。この点については、強い違和感を覚える。

 もちろんメディアを使い分ける佐藤氏が、そうした左派メディアで「パレスチナを占領しその人びとを殺戮するのは正しい」などとは言わないだろうが、よそで言っているだけだからといって執筆させるのは無責任ではないのか。(中略)

 左派メディアには、今度佐藤氏が書くときには、ぜひともパレスチナ/イスラエル問題へのスタンスを問うてほしいものだし、それに対する編集部の見解も示してほしいものだ。」

# by kollwitz2000 | 2009-03-01 00:00 | 佐藤優・<佐藤優現象>
佐藤優氏への公開質問状
2月25日付の内容証明郵便で、佐藤優氏への公開質問状を、早川清『週刊新潮』編集長宛てに送った。早川編集長に、公開質問状を佐藤氏に渡すよう書いておいた。

佐藤氏への公開質問状の全文は、「資料庫」にアップしたので、是非ご参照いただきたい。

金光翔「佐藤優氏への公開質問状」
http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-16.html

回答期日は、2週間後の3月11日とした。佐藤氏からの回答に注目しよう。

# by kollwitz2000 | 2009-02-26 00:00 | 佐藤優・<佐藤優現象>
村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチについて
村上春樹のエルサレム賞受賞については大して興味がなかったのだが、前回も書いたように、受賞スピーチへのメディアやウェブ上の賛美には本当に唖然とさせられる。

スピーチの全文は、下のリンク先にある。
http://www.haaretz.com/hasen/spages/1064909.html

翻訳はウェブ上にいくつかあるが、便宜上、その下のものを使わせていただく。
http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20090218/1234913290

村上は言う。


「しかしながら、熟考のすえ、最終的に僕はここに来ることを決心しました。僕がここに来ると決めた理由のひとつは、あまりにも多くの人々が僕に「行くべきでない」と言ったことです。おそらくほかの多くの小説家と同じように、僕は天の邪鬼です。多くの人々から「そこに行くな」、「それをしないでくれ」と警告を受けると、そこに行き、それをしたくなる傾向があるのです。

あなた方は「それは小説家だからだよ」と言うかもしれません。そう、確かに小説家は特別変わった種族です。この連中は、自分の目で見たもの、手で触ったものしか本当に信じることができないのです。 

それが今日、僕がここにいる理由です。

僕は立ちすくむよりもここに来ることを、目を反らすよりも見つめることを、沈黙するよりも語ることを選びとりました。」


驚くべきことに、村上には、「ここに来ることを決心」するにあたって、パレスチナ人に自分の受賞がどう映るか、ということを考慮した形跡は欠片もない(少なくとも、そうした点への弁明が必要だとは全く考えていない)。日本での、村上への呼びかけしか眼中にないのだ。

村上は、「自分の目で見たもの、手で触ったものしか本当に信じることができない」、「目を反らすよりも見つめる」などと言うが、イスラエルに行きたければ、私費で行くか、どこかの出版社にイスラエルへ行きたいとでも相談すれば済む話である。なぜこんな稚拙な言い訳がまかりとおっているのだろうか。

また、村上は、自分のスピーチが「政治的なメッセージ」でないことを繰り返し語っているが、パレスチナの民衆から見れば、イスラエルの蛮行を世界的大作家は拒絶していない、という「政治的なメッセージ」以外の何者でもないだろう。もちろん村上がスピーチで、例えば、「賞金の1万ドルは、全額ハマスに寄附する」とでも表明すれば話は変わってくるだろうが。

イギリスの「ガーディアン」は、村上のスピーチについて、

“Murakami defies protests to accept Jerusalem prize”

という見出しで報じている。問題の本質を正確に捉えていると思う。
http://www.guardian.co.uk/books/2009/feb/16/haruki-murakami-jerusalem-prize

受賞式への出席に関しては、イスラエルの「エルサレム・ポスト」も、

“Defying boycott pressure, Japan's Murakami heads to Israel to accept Jerusalem Prize”

という見出しの記事を掲載している。これも、問題の本質を、イスラエルのメディアが正確に理解している、ということである。受賞拒否さえなければそれでいいのだ。
http://pqasb.pqarchiver.com/jpost/access/1646126041.html?dids=1646126041:1646126041&FMT=ABS&FMTS=ABS:FT&date=Feb+13%2C+2009&author=STEVE+LINDE&pub=Jerusalem+Post&edition=&startpage=4&desc=Defying+boycott+pressure%2C+Japan%27s+Murakami+heads+to+Israel+to+accep

だいたい、仮に、村上のスピーチがイスラエルのガザ侵攻への全面的な批判であると解釈するとしても(私にはそうは全然思えないのだが)、その程度の批判は、シオニスト左派も国内でいくらでも行なっていることである。イスラエルの国民からすれば、海外の知識人が、そうした見解を持っていることなど折込済みだろう。ウェブ上で、村上の発言がパレスチナの民衆を勇気付けることを期待する、といった声すら見かけるが、そうした声は、パレスチナ人を馬鹿にしていると思う。

村上のやっていることは、村上の多くの小説世界の主人公たる「僕」のように、肥大化した自己愛がだだ漏れしているだけだと思うのだが。テロにも対テロ戦争にも賛成しない良心的な私、という、2001年9・11以降の、対テロ戦争に関する上野千鶴子の立場のようである。

冒頭で書いたように、村上の受賞については、村上ならば受賞拒否はしないだろう、という感想しかない。ああ、またやってる、という感慨だけだ。こんなスピーチに感動する方がおかしいのである。特に、村上の受賞拒否を呼びかけていたらしいブログの人物が、このスピーチを絶賛し、「ボイコット示唆にも言及。嬉しいやら恥ずかしいやら申し訳ないやら楽しいやら」と嬉しそうに書いていたのを見たときは、絶句してしまった。

村上が、受賞式出席について、日本の自分への受賞拒否への呼びかけへの対抗から(論理的にはそうなる)正当化していること、パレスチナ人からどう映るかという認識が存在しないことは、興味深い。これは、萱野稔人の最近の主張に似ている。萱野はこのところ、外国人労働者の流入への反対やネット右翼容認論を展開しているが、その際には、従来の左派との違いの強調や、左派への説得はされながらも、萱野の言説によって被害を被ることになる外国人労働者や在日朝鮮人の人権は、はじめから考慮の対象に入っていない。これは、佐藤優が排撃する在日朝鮮人その他の対象の人権を考えず、佐藤優を自分たちの味方として宣伝しようとするリベラル・左派とも同じ構図である。

# by kollwitz2000 | 2009-02-18 00:00 | 日本社会
メモ5
村上春樹がエルサレム賞を辞退しなかったことには何ら驚かなかったが、村上の受賞スピーチを高く評価する人間が結構いることには心底驚いた。こんなものは、受賞するか辞退するかのどちらかであって(受賞式でイスラエル批判を行なった、ソンタグを持ち上げる人が多いのも奇妙である。結局は貰ってるんだから)、賞を貰った上でどれだけ批判しようとも、それはイスラエルの「寛容さ」を示す材料にしか使われないだろう。

村上の受賞スピーチに感心できるメンタリティは、<佐藤優現象>に違和感を持たないメンタリティとも通底していると思う。


# by kollwitz2000 | 2009-02-17 00:00 | メモ
メモ4
「フォーラム神保町」の「世話人」を確認したら、いつの間にか、メンバーが一部入れ替わっていた。

現在は、

青木理、伊田浩之、伊東乾、魚住昭、乙骨正生、香山リカ、小林健治、佐藤優、多井みゆき、田原総一朗、東郷和彦、二木啓孝、宮崎学、山口二郎、山田聡(50音順)

の15人である。
http://www.forum-j.com/agreement.html

だが、少し前までは、

青木理、石坂啓、伊田浩之、魚住昭、乙骨正生、香山リカ、小林健治、斎藤貴男、佐藤優、多井みゆき、二木啓孝、宮崎学、森達也、山口二郎、山田聡(50音順)

だったはずである(検索すればコピーで貼り付けられたものが出てくる)。

石坂啓・斎藤貴男・森達也が辞めて、伊東乾・田原総一郎・東郷和彦が新しく加わったということになる。

辞めた三人が三人だけに、なかなか興味深い。この三人は、佐藤らに距離を置きはじめた、ということだろうか。よくわからないが、参考までに記しておく。

# by kollwitz2000 | 2009-02-13 00:00 | メモ
佐藤優(現象)とソフト・ファシズム


「『金曜日』新編集委員就任について」で、中島岳志の『金曜日』編集委員就任は、『金曜日』社長の佐高信らが、佐藤優を『金曜日』で使っていくためであろう、と述べた。

佐藤や佐高らは、佐藤を『金曜日』が重用することへの読者からの批判を、どうやら非常に恐れているようなのである。まず、おさらいしておこう。

佐藤の単行本『世界認識のための情報術』(金曜日、2008年7月刊)は、『金曜日』が佐藤を使い続けるために出版したと言ってよいだろう。「<佐藤優現象>と侵食される「言論・表現の自由」でも書いたが、『金曜日』編集部で、佐藤と昵懇の伊田浩之は、『金曜日』2008年6月27日号の編集後記で、以下のように述べている。

「本誌連載「飛耳長目」をまとめた佐藤優さんの新刊『世界認識のための情報術』を7月中旬、発売します。佐藤さんは、この本のために400字詰め原稿用紙100枚超を書き下ろしました。本誌購読者などで佐藤さんの言説に違和感を持たれている方がいれば、その方にこそ書き下ろし部分を読んでいただきたいと思います。」

同書で佐藤は、「私は『週刊金曜日』と真剣につきあっているつもりである。なぜなら、このような形態で、読者との双方向性を担保する媒体が、存在し、発展していくことが、閉塞した現下の日本からファシズムが生まれることを防ぎ、真の意味で、日本の国家体制を強化することに貢献すると考えるからだ」(40頁)といった具合に、自分の『金曜日』に対する「率直な思い」について語っている(佐藤と「ファシズム」については後に触れる)

何度も私は書いているが、佐藤が『金曜日』やリベラル・左派ジャーナリズムに書こうとするのは佐藤の勝手である。佐藤ではなく、『金曜日』やリベラル・左派ジャーナリズムこそが、佐藤をなぜ自分たちが使うのか、また、リベラル・左派が佐藤を重用することが、佐藤が右派メディアを中心に展開している排外主義的・国家主義的主張に対する、一般読者の警戒感や、リベラル・左派の抵抗感を弱める役割を果たしていないと本気で考えているのか、答えるべきだろう。そして、『金曜日』を含めたリベラル・左派は、この疑問に対して管見の範囲では一切答えていないのである。

さて、これまでは前置きである。佐藤や佐高らが、佐藤を『金曜日』が重用することへの読者からの批判を恐れているらしいと考える根拠として、今回取り上げたいのは、『世界認識のための情報術』内のある注釈である。

同書は、単行本の元となった連載記事の1回分の文章の後に、注釈が加えられている。この注釈の書き手が、佐藤か編集部かは不明だが、同書には書き手が明示されていないため、文責は佐藤が負う、と考えてよいだろう。

さて、以上の予備知識をもとに、同書中の「防人の歌」なる表題の文章を見てみよう。ここで佐藤は、連載の前の回(「六者協議と山崎氏訪朝をどう評価するか」(『金曜日』2007年1月19日号。単行本では、「山崎氏訪朝」)に対して、『金曜日』読者が投書欄で批判したことを受けて、その投書を取り上げている。

佐藤はここで、「「こと朝鮮について、佐藤の世界観なり情報に誠実、新鮮、鋭敏、千里眼といった要素をおれは感取できない」との杉山氏(注・投書の投稿者)の評価は、真摯に受けとめる。仮にこの評価が『週刊金曜日』の読者の圧倒的大多数と編集部の見解ならば、読者を不快にするために執筆を続ける意味はないので、筆者はいつでも連載を打ち切る用意がある」(127頁)と、例によって、単なる一批判(しかも、読者からの)を自身の連載中止の話にまで拡大させる大見得を切る(後日の投書欄で「佐藤さんには連載をやめてほしくない」といった趣旨の投書を『金曜日』編集部が載せて、この件は収束する)のであるが、それはとりあえず置いておこう。

佐藤批判のこの投書は、佐藤の、対北朝鮮「戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」という一節を批判している。これに対して、佐藤は以下のように答えている。

「筆者は国権論者であるので、基本的に国家主権は尊重するべきで、大国による小国への人道干渉は原則として避けるべきと考える。しかし、06年10月9日の北朝鮮による核実験によって「ゲームのルール」は根本的に変化した。/北朝鮮の核攻撃の標的に日本と韓国がなっていることは明白である。さらに北朝鮮の核技術、弾道ミサイル技術がイランに流出すると第三次世界大戦を引き起こし、世界規模での熱核戦争が生じる可能性を排除できない。/これは筆者の主観的な見立てではなくインテリジェンス専門家の間では共通の見方だ。主観的願望により客観情勢が変わるというのは「念力主義」だ。核実験を行ない、生物・化学兵器と弾道ミサイルを保有し、「戦争も辞さない」と公言している北朝鮮を国際社会が「戦争カード」によって牽制するというのは外交ゲームとしては当然のことだ。これらの議論もすべて国家という主語の中に内包されている。」(128~129頁)

いかにも「国権論者」らしい主張である。ここでの佐藤の主張を読む限り、問題になっていた佐藤の発言「北朝鮮に対するカードとして、最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」という一節は、日本の北朝鮮への武力行使を念頭に置いている、と考えてよいだろう。

ところが、単行本では、「戦争もありうべし」という、投書から再引用された自身の一節に、佐藤は以下のような注釈を施しているのである。

「戦争もありうべし――「あり」+可能性を示す動詞「う」+推量の助動詞「べし」で、かみくだくと「戦争も起こりえるだろう」の意味。(後略)」(130頁。強調は引用者、以下同じ)

……何から突っ込んでよいのやら。品詞分解を見たのは大学受験の古文の時以来である。普通に本を読んでいて遭遇したのは初めてだ。

もし「戦争も起こりえるだろう」という意味ならば、上で引用した「筆者は国権論者であるので」云々の文章は意味不明になってしまう。北朝鮮に「戦争カード」によって牽制する国際社会の中には、北朝鮮の核攻撃の標的になっていると佐藤が言う、日本と韓国が含まれることは明らかであろう。「戦争もありうべし」という言葉が、対北朝鮮武力行使の決意を示すものではなく、「戦争も起こりえるだろう」という意味ならば、ここでの日本の役割は何か?北朝鮮政府にそうした「推量」を伝える役割か?そうした状況で、「戦争も起こりえるだろう」ことくらいは、日本政府が伝えるまでもなく、北朝鮮政府もわかると思うのだが。

とりあえず、佐藤が注釈で主張するように、「戦争もありうべし」は「戦争も起こりえるだろう」という意味だった、ということにしよう。そうすると、次の、「<佐藤優現象>批判」でも引用した一節はどうなるのだろうか。

「1938年のミュンヘン会談でイギリス、フランスから妥協を取り付けチェコスロバキアからズデーテン地方を獲得したナチス・ドイツと同じような「成果」を現在、北朝鮮が獲得している。 /このような状況に「ケシカラン」と反発しても事態は改善しない。狭義の外交力、すなわち政治家、外交官の情報(インテリジェンス)感覚や交渉力を強化し、新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる。これは良いとか悪いとかいう問題でなく、国際政治の構造が転換したことによるものだ。その現実を読者に理解してほしいのである。」(「フジサンケイビジネスアイ 佐藤優の地球を斬る」「新帝国主義の選択肢」

「自国民が拉致された場合、武力を行使してでも奪還を図るイスラエルの姿勢から日本が学ぶべきことは多い。北朝鮮による日本人拉致問題の解決のためにイスラエルと共闘していくことが重要だ。」(「彼我の拉致問題」『地球を斬る』角川学芸出版、2007年6月、116~117頁。「彼我の拉致問題」の初出は「フジサンケイビジネスアイ 佐藤優の地球を斬る」)

これらも「戦争も起こりえるだろう」の意味なのだろうか?「フジサンケイビジネスアイ」の読者で、ここでの佐藤の主張を、対北朝鮮武力行使の可能性を「帝国主義の選択肢」として日本が担保しておくことの必要性の強調ととらない人間は、ほぼ皆無だろう。

上記の、品詞分解まで持ち出してくる例から、佐藤(や『金曜日』編集部)の、『金曜日』読者の批判を防ごうという必死さが伝わってくるだろう。ところが、注釈どおりに「戦争も起こりえるだろう」としてしまうと、上で見たように、今度は佐藤の右派メディアでの主張と整合性が取れなくなってしまう。佐藤が左右メディアで、主張の使い分けをしているということが露呈してしまうのである。

この注釈について、笑える点はまだある。

この『世界認識のための情報術』のあとがきで佐藤は、収録した文章のうち、「標準的な『週刊金曜日』の読者」からの「批判を覚悟して書いた論考」をいくつか挙げているが、その中に、上記の「防人の歌」と、「山崎氏訪朝」も含めている。

だが、「戦争もありうべし」という一節を、注釈で佐藤が主張するように、「戦争も起こりえるだろう」という意味で書いたのであったならば、『金曜日』読者からの「批判を覚悟」する必要はないではないか。佐藤は、品詞分解までした注釈を加えたことを忘れていたか、先にこのあとがきを書いてしまい後から訂正するのを忘れていたか、のどちらかであるように思われる。

佐藤や佐高らは、佐藤を『金曜日』が重用することへの批判に恐ろしく敏感になっているようである。佐高らは、佐藤を使い続け、論壇における<佐藤優現象>を継続させるために、中島岳志の新編集委員就任だけではなく、今後もさまざまなキャンペーンを張ってくると思われる。




「1」で、佐藤が『世界認識のための情報術』では、「閉塞した現下の日本からファシズムが生まれることを防ぎ」たいと主張していることを示した。佐藤は、2008年12月19日付の「毎日新聞」夕刊のインタビューでも、「媒体によって何となく雰囲気が違うように見えるのですが……」という、記者(遠藤拓)の控え目な質問に対して、「僕は右と左の両側から、日本がファシズムに陥る可能性を阻止しようと思って体を張っているつもりなんだ」と答えている。なお、記者は、上記の質問をしたところ、「佐藤優さん(48)の逆鱗に触れてしまったらし」く、佐藤から「あなたはプロフェッショナルな記者で、こっちだって命かけてやっている。根拠もないのに、印象論で来るのは極めて不まじめじゃないか。どう思います?」と「激しい口調でたたみかけられ、思わずたじろいだ」らしい。

だが、「東京アウトローズ web速報版」によれば、「日本は国家機能を強化することを余儀なくされる。ここで選択を誤ると、ファシズムがやってくる」と断りつつも、佐藤は以下のように語っているらしい(立読みして確認した限りでは、原典との大きな違いはないようである)。

「1920年代前半、イタリアでベニト・ムッソリーニが展開したファシズムには魅力がある。初期ファシズムは、共産主義革命を排し、資本主義体制を基本的に維持するなかで、国民を動員し、束ねて、貧困問題を解決し、社会的格差の縮小につとめた。(中略)イタリア型ファシズムには、高度の知的操作によって国家機能を強化し、その結果、資本主義の弊害を除去する可能性を示す。また、国民の能動性を高め、人間の社会的連帯を重視する。(中略)いずれにせよ、ファシズムが日本においても、政治の現実的な選択肢に入りはじめたと私は見ている」(佐藤優・田原総一朗『第三次世界大戦 右巻 世界大戦でこうなる』「まえがき」)
http://outlaws.air-nifty.com/news/2009/01/post-78bc-1.html

佐藤は右翼雑誌『月刊日本』においても、「甦れ、ファシズム!」という表題の対談連載を、このところ続けており、ファシズムに関して同様の主張を行なっている。ファシズムには同意しないと見せながら、「現実的な選択肢」としてのファシズムの「魅力」を大っぴらに語っている。以前にも書いたが、日本の戦前の一部の右翼や社会大衆党は、「反ファッショ」を掲げながら国家社会主義にのめり込んでいったのであって、恐らくそのことに自覚的な佐藤と、佐藤を持ち上げる『金曜日』その他の左派の動きは、戦前の事例の再現のように見える。

佐藤が左右の媒体で使い分けをやっていることは、「<佐藤優現象>批判」や私のブログ記事や、「1」で示した「戦争もありうべし」に関する件を見るだけでも明らかだろう。佐藤は、記者に対して使い分けを否定しておきながら、使い分けを否定する根拠とした反ファシズムの主張に関してすら、使い分けを行なっているようである。

東京アウトローズは、上の記事で、佐藤について的確に、以下のように指摘している。

「日本の新たなるファシズムは、国民がファシズムとして認識し得ないソフトな〝微笑みのファシズム〟であろう。すでに、いまの日本社会を見渡せば、その土壌は醸成されつつあると言わねばならない。国家による愚民化政策がその一つで、国民は支配・管理・監視されている意識すら持ち得なくなる。

このような来るべき〝微笑みのファシズム〟のイデオローグとして最適な存在こそ佐藤優なのだ。同書(注・上記の田原との対談本)の中で、佐藤は「私はキリスト教の信者だけれど、マルクス主義の信者じゃありませんからね」と開き直っている。たしかに、佐藤がマルクスをどう読もうと勝手である。

しかし、佐藤を使っている『世界』『週刊金曜日』などの左派系雑誌は、佐藤の本質を知るべきである。反資本主義的な要素も含む「初期ファシズム」の信奉者たる佐藤にとっては、こうした左派系雑誌に登場することは何ら矛盾する行為ではないのだ。週刊金曜日が力を入れている「反貧困運動」に対する佐藤の〝共感〟とは、ファシストとしての共感なのである。」

また、日刊ベリタの「「品格ある帝国主義日本」を説く佐藤優氏  右派論客に混じり「昭和維新再考」シンポジウム」という記事によれば、佐藤はこの右翼系のシンポジウムで、「右が左を包み込む」と話したようである。これこそ私が<佐藤優現象>としてまさに指摘してきたものであり、佐藤は驚くべき率直さでそのことを認めているようである。「右」に「包み込」まれつつある、リベラル・左派はここまで舐められているのである。
 
「右が左を包み込む」とは、まさに(ソフト)ファシズムである。だが、佐藤がファシスト的であるのは、主張それ自体の親和性もさることながら、ナチスの元幹部であったヘルマン・ラウシュニングがナチスに見いだしたような(ヘルマン・ラウシュニング『ニヒリズムの革命』筑摩書房、菊森英夫・三島憲一訳、1972年、原書1938年)、メンタリティと行動様式の点においてであるように思われる。

ラウシュニングは言う。

「まさに(注・ナチスにとって)中心的、根本的原則とも見なさるべきは、「市民階級の愚昧と臆病さに対してはなにをしても大丈夫だ」というものである。(中略)その際はっきり言えるのは、この市民の愚昧と臆病さに対する賭けがともかく決して誤った賭けではなかったということである。(中略)「典型的に市民的な態度とは、くり言を言いながらも敢えて抵抗することもなく、一歩一歩退却してゆくことによって、そのつど残っている部署をいくらかでも確保できるのではないかと考える態度である。」」(57頁)

「ナチスの成功の秘密は、あらゆる見せかけの偉大さのもつ弱みを見抜き、こういう見せかけの偉大さに対してはおよそなにをしても大丈夫だということを見抜いていたことである。」(58頁)

佐藤の、左右での主張の使い分けや「言論封殺」の数々の事例、言ったことを言っていないと言い張る姿勢(例えば「小林よしのりと佐藤優の「戦争」について」の「追記」参照)、ファシズム擁護等のあけすけさ(東京アウトローズも、上記の記事で、佐藤のファシズム擁護について「驚くほど明け透けに書いている」と述べている)といった、言動・行動の背景には、「市民階級の愚昧と臆病さに対してはなにをしても大丈夫だ」という状況認識があると思われる。

佐藤は恐らく、リベラル・左派の編集者、ジャーナリスト、学者といった人々が、方向感覚を失っており、内的倫理を崩壊させており、改憲(または安全保障基本法成立)後の「論壇」への適応を考えており、何らかの権威や利権をちらつかせて愛想を振りまけば、簡単に獲得できることを正確に見抜いている。また、教養が豊富であったり学術的に権威とされたりする人々や出版社が、その内実は空っぽであり、単に「見せかけの偉大さ」に過ぎないことも恐らく正確に認識している。こうした正確な認識に基づいた上での「市民階級の愚昧と臆病さに対してはなにをしても大丈夫だ」という押し出しぶりが、佐藤の強みであると思われる。

恐らく佐藤は、日本の「国体」もキリスト教もマルクス主義も何一つ信じていないだろう。多分、佐藤にあるのは、ラウシュニングがナチスに関して指摘したように、徹底したニヒリズムと権力衝動だけである。

<佐藤優現象>に眉をひそめているリベラル・左派は多いだろうが、それを公的に批判せずに沈黙し、佐藤優と結託するリベラル・左派にもまだ可能性があるのではないか、と期待するのは、「くり言を言いながらも敢えて抵抗することもなく、一歩一歩退却してゆくことによって、そのつど残っている部署をいくらかでも確保できるのではないかと考える態度」そのものなのではないか。「佐藤優のイスラエル擁護を問題にしないリベラル・左派の気持ち悪さ」で書いたように、佐藤に嫌悪感を抱かずに結託する時点で、もう終わっているのである。私は『金曜日』その他の佐藤優と結託するジャーナリズムに何ら期待していないが、期待している人は、それだけ一層、佐藤と結託していることを批判していくべきだと思う。

# by kollwitz2000 | 2009-02-01 00:00 | 佐藤優・<佐藤優現象>
ブログ紹介:「日朝国交「正常化」と植民地支配責任」
「日朝国交「正常化」と植民地支配責任」という、在日朝鮮人がやっているブログがある。

「日朝国交「正常化」と植民地支配責任」
http://kscykscy.exblog.jp/

毎回、非常に参考になる記事ばかりなので、注目している。ちょうど、「資料庫」にアップした、「読者より:右翼に(進んで)併呑される人々」にリンクを貼られたこともあり、これを機会に紹介しておきたい。

それにしても、そのブログの最新記事で教えられたのだが、白洲次郎が在日朝鮮人全員強制送還論者だったとは知らなかった。護憲派はこんな人物を祭り上げているわけである。

# by kollwitz2000 | 2009-01-30 00:00 | 韓国・朝鮮(在日朝鮮人)
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