名古屋市内で女性を拉致、殺害した闇サイト仲間三被告のうち二人に死刑が言い渡された。被害者一人の事件では異例だが、むごい手口や被害者の無念さ、遺族の悲嘆を思えば、やむを得ぬ判決だ。
凶悪事件が相次ぐすさんだ世相とはいえ、名古屋地裁も判決で「無慈悲、凄惨(せいさん)、残虐」「戦慄(せんりつ)を禁じ得ない」と言葉を並べるほどの事件だった。
ネット上のサイトで知り合っただけの男三人が、ゲームのように帰宅途中の女性に目を付けて車内に押し込み、現金などを奪った揚げ句、命ごいもしているのに、殺害した。現代社会の体感治安の悪化も物語った。
夫を白血病で失い、女手一つで育てた娘を失った母親の憤りは、察するに余りある。三被告の極刑を求めて母親が始めた署名活動には約三十万人分が集まった。自首した被告の一人は無期懲役とし、二人は極刑で臨むしかないという今回の判決はやむを得まい。
しかし、五月からに迫った裁判員制度を考えると、不安や懸念も浮き彫りになった。
死刑か否か。学識者の意見も割れる今回のような境界線上の裁判に、市民が裁判員として加わらねばならなくなった。問題は、その際の死刑基準のあいまいさだ。
被害者が一人の場合、これまで死刑を回避する判決が多かった。最高裁が一九八三年の判決で示した「永山基準」で、死刑選択には動機、殺害方法の執拗(しつよう)性・残虐性、遺族感情、殺された被害者数など結果の重大性−といった九項目を総合的に判断するとしているからだ。
今回は、被害者は一人でも、まれに見る事件の残虐性、極刑を求める遺族感情、社会に与えた影響などを重視した結果の判決だった。しかし、これらがどの程度なら死刑が適用されるのか、線引きは必ずしも明確ではない。
裁判員制度を控え、検察側は残虐性や遺族感情を強調する法廷戦術を意識している。今回も女性の幼少期から殺害直前までの写真をスライド上映するなどした。
裁判員が、起訴内容から離れた感情面での心証に影響を受ける心配はないだろうか。これまでの模擬裁判でも、こうした死刑判決のケースは扱ってこなかった。
裁判員制度は、法廷に市民感覚を反映させる狙いがある。今回は裁判官が市民感情をくんだ判決だが、これからは裁判員となる私たちに課せられる責務である。
この記事を印刷する