【韓国】太宗による対馬征伐(己亥東征)は、明国の日本征伐を止めるための威力外交の一環だった[03/19]
- 1 :壱軸冠蝶φ ★:2009/03/18(水) 10:24:32 ID:???
- ソース:ソウル新聞(ハングル記事を記者が翻訳)
http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=103&oid=081&aid=0002003811
写真:征伐軍にひれ伏す対馬島主?
http://imgnews.naver.com/image/081/2009/03/18/1237317144.599224_SSI_20090317170727_V.jpg
朝鮮世宗1年(1419年)5月、倭船50余隻が忠清道庇仁県を掠奪する。続いて黄海道にも
相次いで数十隻の倭船が出没した。そのため上王人であった太宗と世宗は大臣たちととも
に対馬島征伐を本格的に論議。李宗務を三軍都体察使に任命し出征命令を下した。
戦船227隻と兵力 1万7285人を動員する大規模遠征だった。その結果対馬島当主は降伏
し、対馬島は慶尚道の一部として編入されて朝鮮政府の統治を受けたという記録がある。
歴史はこれを己亥東征と呼んでいる。これは高麗時代末から掠奪行為を行ってきた倭寇
の挑発に耐えかねた朝鮮政府が、倭寇の根拠地を掃討した力強い対応策として把握され
てきた。しかし建国初期に明や日本など、周辺国との相当な緊張関係を維持しなければ
ならなかった朝鮮が、単純に倭寇を撃滅するために大規模な軍事行動をしたという点は
疑問として残っていた。
外交問題に話が及ぶ憂慮にもかかわらず、朝鮮が対馬島征伐を敢行したのは他の意図
と目的があったのではないか。
●全面戦争回避…威力誇示の‘象徴的攻撃’
19日韓国歴史研究会学術発表会で”朝鮮初期における対馬島征伐の原因と目的”を発表
した李奎哲カトリック大講師は、あらかじめ公開していた論文内で己亥東征が倭寇の掃討
より、明の日本征伐を阻止するための外交戦略だったと主張していた。
これに対する根拠としてまず、己亥東征以前の10年間は倭寇による被害がほとんどなか
ったという点を数えている。高麗時代末から太宗初期まで、執拗だった倭寇の侵入は太宗
9年(1409)から大きく減少。10年ぶりの倭寇被害に、それも対馬島が朝鮮との友好的関係
のために努力していた状況で、朝鮮が大規模出兵を敢行した点は理解しにくいというのだ。
出征命令4日ぶりに65日分の軍糧と、1万7000人余りの兵力を準備したという記述も以前
から対馬島征伐を緻密に計画していたことを示唆する。
(>>2以降に続く)
- 2 :壱軸冠蝶φ ★:2009/03/18(水) 10:24:51 ID:???
- (>>1の続き)
朝鮮での被害が減少したころ、倭寇の主要活動舞台は明の沿岸地域だった。明は日本国
王を通じ、倭寇を制御する方式を取ったが、源義満の後を継いだ源義持(注)は積極的に
協調しなかったため日本征伐を計画したのである。
朝鮮は明の動きに慄然とした。明が日本征伐に出れば明との関係改善に努力して来た太宗
としては、これに介入しない名分や方法がないからだ。
結局朝鮮は、明の日本征伐を阻もうとするなら明での倭寇被害を減らすことがもっとも重要
だと判断、対馬島征伐に出るしかなかったという分析だ。対馬島遠征軍が大規模部隊編成
にもかかわらず、意図的に全面戦争を回避したことも征伐の目的が倭寇の撃滅ではなく、
朝鮮の威力を誇示する象徴的な攻撃との推測を裏付ける。
朝鮮は征伐を断行しながらも、日本と対馬島との関係を極端的な状態にまでもって行く
意図はなかったのだ。
●女真地域での影響力拡大という収獲を得る
イ講師は朝鮮が対馬島を征伐し、明による日本征伐を前もって遮断する一方、対外目標
である北方地域、特に女真での進出と影響力拡大という一挙両得を得たと把握する。
倭寇を制した功労で、女真地域の実力行使に対する明の暗黙的同意を得ることができた
というのだ。彼は「朝鮮は事大交隣であるという名分とは違い、自国の利益と外交的目標
を果たすため、対馬島征伐をどういった方法で利用したのかを詳しく調べようとしました」
と語った。
(記者注)源義満は、足利義満が日本国王を名乗る際に使ったものですが義持は不明。
以上
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