2009/1/1
「Act of Godと西洋の没落」
現代の自然科学者は,想像も及ばない遠い未来に,宇宙の"時計”の"停止”する日の来ることを予見している。その未来というのは,想像も及ばない遠いところにあるのです。Sir james jeans(1877〜1946,英国の天文学者,物理学者)は次のように記している...........
『人類の将来について非常に暗い見方をし,人類は今後,地球のこれまで経てきた年数とほぼ同じ期間に相当する,20億年しか生きていられないと仮定しよう。そうすると,人類全体を70年の寿命をもつ一人の人間とみなせば,人類の生まれた家はまだ建ってから70年にしかならず,人類自体は生後わずか3日にすぎない,ということになる......われわれは全く無経験なものであっても,やっと文明の曙光がさしそめたばかりの所にいるのである。......やがて朝焼けは色あせて平凡な昼の光に移行してゆくに相違ない。そしてこの昼の光はいつかはるかに遠い将来に,最後の永遠の夜を予告する薄暮に席を譲ることであろう。しかし,われわれ黎明(れいめい)の子は,ずっと先の日没のことをあまり気にかける必要はない』
しかし,今日の西欧の,文明衰退の宿命論的ないしは決定論的説明の唱道者は,この人間の制度の運命を,自然的宇宙全体の運命を結びつけることはしない。その代わりにかれらは,地球上の生物界全体を支配すると称する,もっと波長の短い老化と死の法則に訴える。はじめに『隠喩」をもうけておいて,そこから,それがまるで観察された現象にもとづく法則であるかのようにして,論を進めてゆくのがオズヴァルド・シュペングラーのやり方である。
シュペングラーは,あらゆる文明が一個の人間と同じように,生涯の各時期を次々に経過してゆくと宣言する。しかし,かれはこの主張を雄弁に述べ立てているにもかかわらず,その雄弁は一向論証になっていない。社会はいかなる意味においても,生きた有機体ではない。社会は,主観的には,歴史研究の理論可能な領域であり,客観的には,一定数の個別的人間のそれぞれの行動領域の間の共通の基盤であって,個別的人間は生きた有機体であるけれども,かれらはかれら自身の影の交差からかれらにそっくりの姿をした巨人を現出させ,この実体をもたない身体にかれら自身の生命の息吹を吹き込むわけにはいかない。一つの社会のいわゆる”成員”を構成するすべての人間の個別的エネルギーが,その作用によってその社会の歴史〜寿命を含めて〜を作り出す生命力である。社会はすべて,あらかじめ定められた寿命をもつと独断的に宣言することは,劇はすべて,かならず一定の幕数をもつと宣言することと同じようにばかげたことである。(管理人注:ファウスト博士が召喚した悪魔メフィストフェレスが西洋を没落させたとする劇を痛烈に皮肉を込めて批判しているのである)Act of Godとは不可抗力の意味である。したがって世界国家の命運も不可抗力が支配する。
アヤ・ソフィア
キリスト教会のハギア・ソフィアは回教のモスクになってしまったが元をたどればアブラハムであり兄弟なのであが,正教キリスト教は文明はあいかわらず生き続けた。それはちょうどヒンズー教が,一世紀のちに,ムガル人のアクバルによって建設された,やはりトルコ系の世界国家のもとで生きながらえ,さらに,ムガル帝国以上に異国的とは言えないが,ブリティシ・ラージのもとで生き続けたのと同じである。
皇后ゾエとコンスタンティン9世に囲まれたキリスト
1453年に,オトマンのパーディシャー,メフメッド二世がコンスタンチノーブルを制服するとともに,正教キリスト教文明は終わりを告げたかというと,そうはならなかった。奇妙なパラドックスによって,この外来の征服者は,かれの征服した社会に世界国家を提供することになった。「アッシリア人が,羊の群れを襲う狼のように,来襲した」ときには,すでに,シリア世界は,『ひとりの羊飼い』に守られる「一つの群れ」<ヨハネ福音書10:16参照>でなくなっていたことが判明する。
バビロン世界とエジプト世界の中間に存在する,ヘブライ,フェニキア,アラム,およびヒッタイトの小国群を,イスラエルの覇権のもとに政治的に統一しようとする,紀元前10世紀の企ては失敗に終わった。そして,その結果として起ったシリア社会内部の骨肉相はむ内戦が,アッシリア人に機会を与えたのである。シリア文明の衰退は,アッシュル・ナジルバ(アッシリア王)がはじめてユーフラテス川を渡った紀元前876年に始まったのではなく,937年のソロモンの死後,ソロモンの建設した帝国が解体した時期に始まったのである。またしばしば,正教キリスト教文明の"ビザンチン”時代の政治形態である"東ローマ帝国”はオトマン・トルコ人に滅ぼされた,というふうに言われる。そして,通常,それにつけ加えて,回教トルコ人は最後のとどめを刺しただけであって,この社会はその前にすでに,不敬虔にも第四回十字軍の名をかたって行われ,半世紀以上(1204〜61年)にわたって,ビザンティウムからビザンチン人の皇帝の存在を奪った西欧キリスト教徒の侵略によって,致命的な打撃をこうむっていた。
しかしこのラテン系諸民族の襲撃は,のちのトルコ人の襲撃と同じく,被害者となった社会の外から来た者である。したがって,もしわれわれの分析をここまででとどめることに甘んじるとするならば,自殺という診断を下してきた死亡者のリストについて,はじめてまぎれのない他殺死体という診断を下さなくてはならない。<Study of Historyサマヴェル縮小版より要約・編集・解説>
参考までに村松正剛氏の解説を転載させていただくがアーノルド・トインビーのシュペングラーに対する皮肉のこもった批評とは対照的である。つまり一向論証(At all proof)ではないのである。日本のこれからの若きインテリに望むことは『構造主義的』批評をして欲しい点である。このような書評をする場合,正教キリスト教社会が西欧文明の社会全体に包摂された例を出し,他の現存文明がすべて同じ道を巡っていることを書かなくてはペダントリック(学者ぶった)な偽インテリであると言われても反論できないだろう。構造主義ではレヴィ・ストロースを参考にするとよい。
オスヴァルト・シュペングラー
『西洋の没落』1・2
1972 五月書房
Osward Spengler : Der Untergang des Abendlandes 1918〜1922
村松正俊 訳
問題作である。
ゲバラの愛読書だった。けれども、いまだに評価が落ち着かない。シュペングラーは文明論的な比較形態学の試みとして世に問うたのだが、この著作の成果を歴史学界がうけいれたことはない。では、ここに発見がないかといえば、いくばくかの発見と指摘と暗示がある。とりわけ「歴史の運命」がある。ただ、それが理論的な組み立てからはずれていること、著者の独断が強すぎること、およびその主張とのちのナチズムの主張との類似性が指摘されたため、いまなお問題作にとどまっている。
しかし一方、シュペングラーの方法と成果は10年をへてトインビーやソローキンやクローバーらに継承された。それがトインビー学派の総集編的な継承でもあったため、そこからシュペングラーの独自性が見えにくいきらいもある。
大作である。
本訳書では2段組400ページが2巻にわたる。第1巻「形態と現実」は世界史をアポロン的なるものとファウスト的なるもので捉えて、その鳥瞰のなかにインド文化、ギリシア・ローマ文化、アラビア文化、ヨーロッパ文化などを並進させて比較した。第2巻の「世界史的展望」ではそれを、起源・土地・科学・国家・貨幣・機械というふうに発展史的にたどりつつ、とくにヨーロッパに比するアラビア文化の充実を説いた。1950年代になってから、あまりの大作だというのでヘルムート・ヴェルナーらが原文をくずさないでつなげた縮約版を刊行した。これはトインビーらものちに真似た手法だった。
話題作である。
ベストセラーであって、ロングセラーでもある。表題がセンセーショナルで、ヨーロッパ中を疲弊させた第一次世界大戦がやっと終了した1918年の刊行とともに、爆発的に売れた。ただし、これは全部が刊行されたのではなく、初期の草稿にあたるものの刊行だった(第1巻)。けれども「西洋の没落」というフレーズは、その後のヨーロッパの現代と未来を語るうえでの常套語になった(いまでもこの言葉は殺し文句になっている)。日本語版もよく売れたが、五月書房が版権を独占し、改版も改訳もしていないため、最近では一般にはあまり読まれなくなったままにある。翻訳もよくない。
最初に問題作である理由について説明しておく。大きく絞れば、二つある。
ひとつには、本書は「あらゆる文化は予定された歴史的運命によって発展し、変貌し、ついに円環をなす」というふうに読めるため、本書は当時ちょうど台頭しつつあったナチズムを勇気づけ、鼓舞してしまったのである。周知のようにナチズムはゲルマン民族の現代的未来的神話の捏造によって第三帝国を予言的に実現しようとしたのだから、本書が歴史的運命は円環となって永遠になると主張しているのなら、これはもってこいの歴史書だったのだ。はたしてシュペングラーがそのように歴史を描きえたかどうかは、しばらく措くとする。
ともかくもナチからのシュペングラー賛歌がいっとき連打されたのは事実だった。そこで、のちにシュペングラーの歴史家としての立場が問われることになる。そればかりか、戦後には"思想戦犯"の扱いもうけることになった。ただし、経緯の詳細は知らないのだが、シュペングラー自身はナチに入党しなかった。ナチからの誘いも断っている。ちなみに日本ではGHQの出版統制リストに本書があがっていて、戦後しばらくは翻訳刊行が禁止されていた。やはりナチズムやファシズムの系列に入るとみなされたせいだった。
もうひとつのことは、少々説明が長くなる。本書は「反歴史学」ではないか、そうでなければ歴史記述にあるまじき態度であるという見方によって問題作とされてきたという点だ。
そもそもこの大作の第1行目には、こう書かれている、「歴史を前もって定めようという試みがなされたのは、本書がはじめてである」。あまりに大胆な文句であり、大それた自信である。しかし、こんな規定が歴史にあてはまるとは誰も思わない。
歴史にも予定調和がありうるというようなことくらいなら、すでにライプニッツの時代から何度も暗示されてきた。けれども、そのことを実証して歴史を解読しなおすという試みは、誰も手をつけない。経済学におけるコンドラチェフの周期や回帰予想のように、統計学による推定ならありうることだった。けれどもシュペングラーは「意味」における歴史実証を試みたのだ。誰も思わないことで誰も手をつけなかったことを、シュペングラーは仕出かしたのである。当然に学界はそっぽを向き、一般読者はよろこんだ。たしかに「反歴史学」めいている。が、それはまだ聞こえがいいほうで、ようするにこんな歴史書はありえないという痛罵が投げつけられたのだった。
ではシュペングラーはなぜにまた、そんなさかさまの理念と手法を思いつき、これを世界史の文化形態に実証的にあてはめようとしたのかというと、シュペングラーは第一次世界大戦を体験して、ここにヨーロッパが混乱し没落しつつあると実感した。このことは当時のトーマス・マンをはじめ多くの当時の知識人の実感と一致する。ほとんどの知識人は世界大戦がヨーロッパでおこったことに半ば絶望的な思いをもっていた。そういう状況だったのである。そこでせめて、なぜヨーロッパがこうなってしまったのかという理由を解明したい。これは哲学者や歴史家ならいつも考えることである。作家ならその根拠を何かに取材して描きたい。
シュペングラーは今後のヨーロッパの運命を見定めるには、世界の歴史がどのように変遷してきたかという「歴史論理」を見いだし、その「歴史論理」によってヨーロッパの将来を予見する以外にないと考えた。しかし、ここが変だったのだ。「歴史論理」があるとして、それを過去にあてはめるならともかくも、未来にあてはめようとするのが逆倒した。
ところが、である。ところが、ここからがいささか意外な展開になるのだが、本書においてはその逆倒のあてはめなど、どこにも書いてはないのだ。幸か不幸か、反歴史学にはならなかったのである。シュペングラーは過去の歴史に「歴史論理」を見いだすことに熱中し、たしかに自分の試みが「歴史を前もって定める」とは言っていたのだが、まったくそんなふうにはならなかったのだ。
まとめれば、シュペングラーは反歴史学に失敗し、むしろ歴史の見方を新たに樹立しようとしただけだった。けれどもそのことを説得するには、歴史学の方法をまったく踏襲しなかった。こういうことなのだ。
オスヴァルト・シュペングラーはハルツ地方はブランケンブルク生まれのドイツの数学者である。もともとの歴史家ではない。ハレ大学、ミュンヘン大学、ベルリン大学で自然科学と数学を専攻した。卒業論文はヘラクレイトスだった。その後、ミュンヘンに移っているとき、第2次モロッコ事件がおこり、これで世界大戦の危惧をおぼえた。そこで、予定していた「保守主義と自由主義」をめぐる政治理論の執筆計画を捨て、歴史の解明のための大著にとりかかる決意をした。第一次世界大戦が勃発したときは34歳になっていた。
それ以前、シュペングラーは形態学の研究に入っていた。とくにゲーテの形態学に没入した。そこでこんなふうな着想をもった。「死んだ形態を認識する方法には数学は有効だが、生きた形態を理解するには類推こそが有効だ」。これはゲーテに学んだことで、シュペングラーはしばらく生命的形態の分化や進化や遡及に関心をもち、あるときからそれを歴史に適用してみることを思いつく。「形態の原理と法則の原理とが世界を形成する根本因子なのではないか」。ゲーテは死んだ自然が生きた自然と対立していることを、法則が形態に対立していることがまちがっていると考えていた植物形態学者でもあったのである(同じことをヘルマン・ワイルも考え、またそれを自然哲学にして研究した)。それならばなんとか「生きながら発展していく歴史というものを印象づけられないか」。
そのようにシュペングラーが大胆な踏み出しを決意したのは、ゲーテとともにニーチェによるところが大きかった。ニーチェの哲学には歴史を永遠回帰させる意志が満ちている。ニーチェはまた、生きた意志の発展を「アポロン的なるもの」と「ディオニソス的なるもの」の交代と連絡によって記述した。シュペングラーはそのディオニソス的なるものに、ゲーテから学んだ「ファウスト的なるもの」を代入するすることを思いつく。ディオニソスのようには酔いしれない全知全能の意志表出に向かおうとする趨勢のことである。
シュペングラーによると、おおむねこういった構図に1911年ごろにたどりついたのだという。これだけならば、ゲーテ=ニーチェ型の自然哲学か生命哲学か、あるいは本書においてもピタゴラスからアインシュタインまでを記述しているのだが、そうした得意の科学発展史を加えての科学哲学のようなものがめざされていただろう。
しかし、そこに始まったのが世界大戦だった。シュペングラーは動顛してしまう。これがヨーロッパの現実なのか。これがヨーロッパの歴史的帰結なのか。
おそらくは当時、開戦した第一次世界大戦のその後の展開や結末を予想できる者など、一人もいなかったと言ってよい。ましてドイツが敗北し、未曾有の経済負債を背負わされ、暴落するマルクの地獄に堕ちるとはまして想像などついてはいない。
シュペングラーもむろんそうだった。戦禍が広がるなか、シュペングラーはゲーテ=ニーチェ的意志による歴史適用を急ぐようになっていく。アポロン的魂とファウスト的魂は「生きている自然認識」のための武器から、ヨーロッパの混乱と没落を救うための「生きている歴史認識」を料理する武器に変更された。こうしてしだいに著作されはじめたのが『西洋の没落』だったのである。
一言でいえば高度に成熟した歴史文化はどういう特徴をもっているのかという分析の書だと言ってよい。上にも書いたように、それ以上の反歴史学といった方法は確立していない。そのかわり、シュペングラーは驚くべき集中力と比較類推の手法によって、まずギリシア・ローマ文化と西洋文化の比較をおこない、そこで見いだされた特徴(これも歴史論理というほどのものではないかわりに、それよりずっと直観的歴史イコノロジーに富んでいる)をもって、これをパターン(形態)に分け、それをエジプト文化・バビロニア文化・アラビア文化・インド文化・中国文化・メキシコ文化の6つの歴史領域にあてはめていった(のちにロシア文化が加わった)。とくに本書においてアラビア文化に費やされた執筆量はべらぼうに多く、この一点だけでもまったく類書を寄せつけなかった。
ついでシュペングラーがとりくんだのは、6つの歴史領域にひそむパターン(形態)が、共通してどのように変遷していったかということだ。結論だけいうが、ここでは「春・夏秋・冬」ともいうべき3段階をへて、どんな文化形態にも成長期・後期・没落期がおこっていることを"立証"した。
とくに工夫を凝らしたのは、各段階の現象や表象は地域と年代をこえて「同時代的」だとみなしたことである。ここにはニーチェの少なからぬ影響が投影する。たとえば、この同時代的比較からすると、春ではトロイ戦争と十字軍が、ホメロスと『ニーベルンゲンの歌』が、建築ではドーリス様式とゴシック様式とが時代をまたいで同時代的なのである。夏秋では、ディオニソスとルネサンス、ピタゴラスとピューリタニズム、ソフィストと啓蒙思想が並び、ついに冬になるとすべての文化は爛熟と退嬰に入って、これを回復するのは絶対に不可能であると論じた。
それでヨーロッパの現状がどこにあるかというと、シュペングラーは「秋」に入ってしまっていると断じ、今後のヨーロッパ社会は国家や家族は分散して新たなつながりを求めざるをえなくなること、母性の力がそうとうに後退して性と資本とが近づいて欲望と商品が直結し、そこを縫うように泳ぐのはデラシネ的なコスモポリタンになるだろうと予想した。
案外、当たっている。さらにシュペングラーは、この段階に入ったからには、もはや後戻りはありえず、それをせめて新たな円環にしなければならないのだが、それには宗教の腐敗と都市の爛熟がこれを阻むだろうから、結局はヨーロッパの文化はしだいに有機体のような完全開花をめざして没落していくだろうと結んだのである。つまり、歴史は生命有機体に似て、もはや新たな創造力を失って、全身をフル稼働させながら老境に向かって衰退していくしかあるまいと見たわけだった。
このようにまとめるとずいぶん要訣を得ていると思われようが、読んでいると、必ずしもこのようなダイナミックな展開はない。そのかわり歴史的超部分の比較は時空をまたいでダイナミックなのである。まことに風変わりな叙述なのである。
ぼくはこれが五月書房から刊行されたとたんに、むさぼり読んだものだった。緒言や第1部の冒頭で、観相学の方法とゲーテとニーチェの方法を交ぜているところに興味が惹かれ、これが歴史書として綴られていることなどそっちのけで、むしろこれまでの歴史学が指摘してこなかったことばかりに目を奪われて、いわば遊学的に読んだのである。
乱暴な読み方だったろうけれど、いまではこのようにシュペングラーを読んだことが(その後は二度と読んでいないのだが)、かえって多くの読み手が"シュペングラーの罠"にとらわれたという苦情を呈して本を閉じたことにくらべ、そのような陥穽から偶然ながらいっさい自在になって読めたことになっているという気がする。
と、ここまで書いてきて、かねてからいささか感じていたいくつかのことを吐き出しておきたくなってきたので、ごく簡潔にしるしておきたい。
まず、シュペングラーの知の扱い方はその螺旋性からしてニーチェに似ているのだが、その学習の蓄積プロセスの特徴からすると、むしろヴィーコに似ている。誰かそのことに気がついて研究してるのなら、教えてほしい。また、シュペングラーの記述には、どこか「歴史のイコノロジー」といった特色があるように思うのだが、どうか。シュペングラー自身は観相学を援用したような口ぶりであるが、ぼくにはフンボルトのような観相学はむしろ乏しく、歴史におけるパノフスキーあるいは科学におけるフランシス・イエイツの趣きを感じてしまうのである。
次に、シュペングラーがフリードリッヒ・ウィルヘルム1世の軍事的官僚主義の道徳と規律にいちじるしい創造性を感じていて、そのぶんワイマールの議会制民主主義や20世紀の大衆民主主義を強く批判していることだが、これについては本書のふれるところは少なく、『プロイセン主義と社会主義』などにそのことは書いてあるらしいものの、これは入手ができず、それで気になっているということがある。
また、ナチズム批判もよく伝わってこない。いくつかの紹介では、シュペングラーは1931年以降の『決断の時』でナチズムを批判して、18世紀の貴族主義への憧憬を綴ったというのだが、それはどんなものだったのか。それにもかかわらず、いつまでもシュペングラーとナチの結びつきばかりが強調されてきたのは、結局、シュペングラーにはあまりに言を左右する弱腰が目立っていたのかという、その点である。
もうひとつ、吐き出しておきたいのは、いったいシュペングラー批判はどのように確立してきたのかということだ。ぼくの見るところ、いまの歴史批評家や文明論者や文化論者の大半は、まさにシュペングラーを百分の一ほど小型小粒にしたような印象があるのだが、その立場からどうやってシュペングラーを切り崩してきたのか、ぜひ、聞きたいものなのである。
附記¶書き忘れたが、ぼくはモンテーニュの一部にもシュペングラーと隣接する見方を感じたものだった。ただし、あまり根拠はない。シュペングラーのその後の受け取られ方については、コリングウッドやヒューズにシュペングラー論があるらしいことは知ったが、その実物は読めないままにある。ややシュペングラーに好意的なものとして、山本新の『文明の構造と変動』(創文社)がある
※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。