2008/12/21
「東方の夢,東インド会社その2」
The expanded East India House, Leadenhall Street, London, as rebuilt 1799-1800, Richard Jupp, architect (as seen c. 1817; demolished in 1929)
オランダ東インド会社アムステルダム本社。オランダ東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie)は、1602年3月20日にオランダで設立された世界で初めての株式会社です。 その頭文字をVOCを組み合わせた社章はあらゆる場所や器物にも刻印されました。
1833年の東インド会社の貿易独占権の廃止は,自由貿易商人の勝利と見ることが出来る。しかし会社の英国国家権力からの直接介入として,植民地支配請負業者としての機能はいかんなく発揮されることになる。東インド会社のT・ラッフルズは1819年マレー半島突端にあったシンガポールを獲得し,ここに自由港を建設した。インド洋と太平洋をつなぐシンガポールはこれから急速に繁栄し,英国の中国進出の重要な足場となった。1833年以後の東インド会社の収入源は,インド農民に前貸金を与えて阿片の栽培に従事させ,これを買い占めて中国の広東に売り出すことでありその収入は東インド会社の収入全体の12%にも達していた。
阿片戦争の舞台裏参照。なお中国・香港でのサッスーン家はロスチャイルドの代理人である。
こうして1840年から阿片戦争が始まった。そして英国の軍艦が1841年1月26日香港を占拠し貿易商人たちが土地を買って移住を始めた。これらはラッフルズの香港領有の主張であり阿片戦争後1842年に結ばれた南京条約には阿片の規程はないが,香港はその後も中国に売り込むための阿片の最大の貯蔵所になったのである。
東インド会社がその独占商業権を失い,さらにインド統治権を奪われたのが1858年であったが東インド会社はまだ完全に清算されたわけではなかった。東インド会社が残務整理を行っていた1858年以後の約30年間に,英国にとってインドの存在はますます重要になっていった。1869年にはスエズ運河が開通してインドへの往来が便利になりインドを足場にしたアジア各地への進出も容易となった。
ヴィクトリア女王
東インド会社が株主等への残務整理を終えた後,1877年にインドを英国領としてヴィクトリア女王の王冠の下に統合する宣言がなされた。このときヴィクトリア女王を「インド女帝」に祭り上げたのはディズレリ首相であった。この「インド帝国」の成立によって,東インド会社は名実共に過去のものになったのであるが........(ヴィクトリア朝参照)
しかし「インド帝国」は東インド会社の遺産でも何でもなかった。むしろ東インド会社がその後に残したものは,会社が植民地支配や経営に重点を移しつつあった頃「アジアの海」で活躍しはじめた私貿易商人・自由貿易商人たちであった。彼らは,東インド会社解散の1858年以後も,インド帝国成立の1877年以後も,香港などを拠点に暗躍した。その代表がジャーディン・マセソン社で,この会社こそ東インド会社の末裔であり飛躍すれば米国は東インド会社の末裔と言えなくもない。
ジャーディン・マセソン社は今なお香港を本社に置く会社でもともとはスコットランド出身のW・ジャーディンとJ・マセソンとが,1832年にマカオに設立した会社であった。最初はもぐり商人として出発したが阿片戦争後,本社を香港に移し,中国大陸にも進出した。ここでこの会社の真の姿や陰謀を書けばキリがないのでこれで終わりにします。<浅田實著:東インド会社より,編集・解説・要約>
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