2008/12/20
「東方の夢・東インド会社その1」
東方の夢,胡椒がシナモンが茶が,ロンドン庶民の食卓に到着した。「楽園」の物資を運ぶ東インド会社は,世界をヨーロッパに収斂させる。インドの支配者となった一大海運企業の盛衰とその時代
<東インド会社・著者浅田實>
アヘン戦争 中国軍艦を攻撃する鋼鉄戦艦ネメシス号
(財)東洋文庫蔵
16世紀イギリスでは,続々と大特許会社が設立された。それらの会社は,それぞれにある特定地域における貿易の独占権が与えられた。後世の歴史から見て,最も注目すべきものは,エリザベス治世の末期(1600年)に設立された東インド会社である。この会社はアジアでの貿易独占権を獲得した。当事「インド」という語は,現在の西インド諸島やアメリカをも意味していた。それは,初めてこの地方に到着したコロンブスが,目的地インドにたどり着いたものと思い,間違ったせいであり,そのため原住民もインディアン(インド人)と呼ばれることになってしまった。本来のインドは,西インドと区別して,わざわざ東インドと呼ばれた。この会社は,19世紀に解散するまで,マドラスとボンベイを拠点にインド支配権を拡大・維持した。つまり単なる貿易会社の範囲を超えて,自ら独自の役人や軍隊まで備えた一大植民機関にまで発展したのである。(平凡社世界を創った人々より>
海賊紳士ドレーク参照
東インド会社
The expanded East India House, Leadenhall Street, London, as rebuilt 1799-1800, Richard Jupp, architect (as seen c. 1817; demolished in 1929)
イギリス以外の東インド会社<Wiki>
西欧の世界制覇の動きが及ぶことを予測
三谷 19世紀の前半、特に定信以降、将来、西洋諸国の世界制覇の運動が日本に及ぶだろうという見通しは幕府の首脳や、その周辺の知識人には共有されていたと思います。これはいつ深刻になるかわからないというタイプの危機です。そうすると普通の人は、くよくよしないで今を楽しく生きようと考えますが、そうでない人もいます。
アヘン戦争
その典型的な例が水戸・徳川家の徳川斉昭や会沢正志斎、藤田東湖という人たちです。彼らの攘夷論は、わざと西洋と戦争を起こし日本人全体を戦場の中にたたき込んで、性根を鍛え直そうというもので、ものすごく過激なんです。
異国船打払令を1825年に出しますが、これは決して日本が好戦的になったのではなくて、どんな手荒な措置を外国船にやっても戦争にはならないという確信のもとに行われたことだと思うんです。ところが、1840年にアヘン戦争が起きた。たった15年です。幕府の役人が、ロシアとの戦争は起きるはずがないと判断したのは、それまでの経験から言うと極めて合理的でした。ところがこの時、水戸の突飛な考えをしている人の予想が、むしろ当たってしまうというどんでん返しが起きる。それで彼らはスターになっていくわけです。
嘉永五年の別段風説書でペリーの来航を把握
編集部 アメリカが日本に来るのを、幕府は知っていたんですか。
岩下 幕府は1年前の嘉永五年の阿蘭陀別段風説書によって、翌年の春以降にアメリカの蒸気軍艦がペリーに率いられて江戸湾にやって来ること、軍艦派遣の目的は通商要求にあること、上陸して城を攻める軍隊を連れていることなどを把握していた。
その前にアヘン戦争情報という形で南京条約の内容が幕府に提示されたり、弘化元年(1844)にオランダの軍艦パレンバン号が国王ウイレム二世の開国勧告の国書を携えて長崎に来航し、西洋諸国のアジア進出などの状況とアヘン戦争での清の敗北を強調しながら、鎖国体制の変革を促している。
さらに、アメリカ議会で北太平洋で操業する捕鯨船主らのロビー活動によって、日本を開国しろという議論が沸騰しているというのが嘉永3年(1850)の別段風説書でわかっています。
別段風説書は阿蘭陀風説書のスペシャルニュース
編集部 別段風説書というのは、阿蘭陀風説書とどう違うんですか。
岩下 阿蘭陀風説書の別仕立て、スペシャルニュースということです。通常の阿蘭陀風説書は、多くて十か条ぐらいのニュースで、オランダの拠点であるジャワのバタビアから長崎まで、ポルトガル船を見たとか見ないとか、大したことのない情報を載せています。
それとは別に、アヘン戦争などは幕府にとって大変重要な情報で、量も多いので、そのため別仕立てで百条ぐらいの別段風説書が幕府に出された。それ以前も、オランダ商館は幕府への忠誠として情報を提供していて、レザノフの来航予告情報も、別段風説書に当てはまるのではないかと言われています。
三谷 多分、ドゥーフがいろいろ隠していたことがばれて、オランダは幕府に相当きついことを言われた。そこで商館長が代わったときに、その名誉挽回のためにオランダ側から始めたのではないかと僕は思っているんですが。
編集部 今度の展示にも風説書がでますね。
嶋村 はい。ペリー来航時に老中だった阿部正弘の子孫に伝わっていたもので、阿蘭陀別段風説書の嘉永3年、4年、5年という、ちょうどペリーが来る前の風説書です。現在は古文書類は当館が所蔵しています。
ペリー来航の情報を阿部正弘が海防役の大名に伝達
編集部 長州の浪人だった吉田松陰は、アメリカ船が浦賀に来ることを知っていたそうですね。
岩下 吉田松陰はペリー艦隊を目の当たりにして、アメリカ船が来ることは半年前からわかっていたので、非常に悔しい、と手紙を書いています。恐らく浦賀奉行所のなかで噂されていたことを、そこに出張していた与力の小笠原甫三郎から佐久間象山が聞いて、象山から松陰も聞いていたのでないか。大もとの出所は老中の阿部正弘になるわけです。
三谷 阿部がそういうところへ漏らすことは絶対ないと思う。阿部は海防役の大名にはちゃんと伝えていますが、吉田松陰らへ漏れたのは長崎通詞からだと思う。
岩下 阿部正弘は、今、三谷先生が言われたように、長崎と琉球の警備を担当している外様大名の薩摩藩主島津斉彬、佐賀藩主鍋島直正、福岡藩主黒田長溥に風説書のペリー来航予告情報の部分だけを提供しています。正確には嘉永5年の11月末です。
また阿部は、年末には、御三家、江戸湾防備の四大名、浦賀奉行には情報を伝達しています。
嶋村 今回の展覧会に出ます島津家文書(国宝)の中で言うと、長崎から得ている情報が3通あり、阿部からもらったものも1通あります。
外様大名の黒田長溥は海軍建設の建白書を幕府に提出
岩下 風説書を受け取った長崎防備担当の黒田は、焦って、嘉永5年12月に走り書きの対外建白書「阿風説」を提出する。
三谷 黒田の幕政批判が、ペリーが来る前に堂々と行われているのを見たときには仰天しました。これは岩下さんが発見されたんです。
岩下 黒田は、結局このままでは戦争が起きたら犬死にするしかないと。じゃ、どうするか。例えばアメリカ帰りの中浜万次郎を呼び、海軍をつくったらどうだろうかなどと建白している。
しかし、建白書の中には幕府の役人を批判するような文言がかなりあるので、結局それは無視された。その黒田の上書が残っていたのは尾張の徳川慶勝の所なんです。
徳川斉昭、徳川慶勝や島津斉彬も黒田の上書がどうなるのか相当心配していて、ある程度応援したようなところがある。それに対して勘定所の役人たちが、外様大名や御三家が幕政に口出しするのをきらって、建白書を無視した。
三谷 前だったら、おとがめをこうむるところを、おとがめなしで幕府側が黙っていたのは、相当こたえたんだと思いますね。
黒田の批判の一番のポイントは、もうペリーが来ることはわかっているんだから、今から海防をちゃんとやって、相手の通商要求を断る準備をしなさいと。
ただ、そう言われても責任を負う立場からすると、やはりそこまでは踏み切れない。ペリーが来ると言っていても来ない可能性だってあり、実際にイギリスの使節はそうだったのだから、幕府側が無策だったとは必ずしも言い切れない。
「泰平のねむり・・・・・・」の落首は明治になってから
編集部 よく、「泰平のねむりをさます蒸気船」と言われていますが、来航の情報を幕府はすでにつかんでいたわけですね。
岩下 斎藤月岑の『武江(ぶこう)年表』の嘉永6年6月3日条に「泰平のねむりをさますじやうきせんたつた四はいで夜も寝られず」と出てきます。ただ、この部分ができ上がったのは明治十年なんです。ペリー来航のことが書いてありながら、同じ日付の部分に安政の五カ国条約とか後のことまで書いてある。
ですから、この落首は、明治10年代ぐらいまでにはさかのぼれるけれども、それ以上はさかのぼれないんです。
三谷 『側面観幕末史』には別の狂歌が入っています。例えば「毛唐人呼の茶にした蒸氣船(正喜撰)たつた四はひで夜もねられず」と書いてある。「泰平のねむり」というのは、明らかに江戸時代の人は眠っていたと見ているわけで、これは後の人しか言えないことです。
中国航路のために補給基地がほしかったアメリカ
三谷 アメリカの来航の事情ですが、実は、これを研究した日本人は今まで一人もいない。だから、これについて我々が知る手がかりは、アメリカ海軍史の大家モリソンが書いたものの翻訳が二種類。それと今から10年ぐらい前のワイリー・ピーター著『Yankees in the land of the gods』の翻訳(『黒船が見た幕末日本』TBSブリタニカ刊)、この二つぐらいしかないんです。
最初に嶋村さんが言われたように、大統領の国書が求めてきたのは、書かれた順では、第一番目が通商問題、二番目に石炭補給のための開港の問題、三番目に漂流民を手厚く保護してほしいという問題です。しかし、ワイリーらの本を見ると、通商よりも港を開くことが重要だった。
中国との間に蒸気船航路を開設するのに、水と石炭を積んでアメリカ大陸から中国まで行くと、それだけで一杯になり、積み荷は積めない。ですから、石炭や水を補給するための寄港地がほしいわけです。日本には石炭も出るそうだし、と。
先走りすると、ペリーはあれほど脅しに成功したわけですから、通商をもぎ取るのは簡単だったはずだし、日本側も通商は覚悟していたのに、彼らは要求しなかった。どちらもお互いの思惑は全然知らなくて、実は同じことを考えていたんです。
中国のお茶や陶磁器の輸入が目的
三谷 もう一つ大事なポイントは、アヘン戦争によって欧米の国々が東アジアに関心を持つようになった。
それまでは、中国とお茶の貿易をやっている程度だったのが、中国の港をいくつか開いて、香港を手に入れて、通商の拠点と軍事的拠点をつくった。それで腰を据えて、そこからどんどん次の関係を北太平洋につくっていこうと。そういう変化が起きたというのはかなり決定的ですね。一度、イギリスがそれを開くとあとのヨーロッパの国が群がり寄ってきた。
もう一つは、蒸気船の問題があります。帆船の方がスピードは速いし、積載能力もあるけれど、蒸気船のよさは向かい風でも走れるということです。
そのときイギリスとアメリカは、中国との関係で蒸気郵船、メールのスピード競争をやっていた。ちょっとでも速いほうが商売に勝つ。
ちょっと話を先に飛ばしますと、蒸気船が導入されたことで時間距離が縮まり、このことが日本が世界に巻き込まれてしまう大きな要因になった。
よくものの本には、イギリスで産業革命が起きて、工業力が増して、製品の売り場に困り、それらを無理やり押しつけるために日本をこじあけたという説がありますが、これは逆なんです。
実は、中国からはお茶、陶磁器を買いたい。ですから、西洋から見た輸入の問題であって、中国市場に工業製品を売り込むことは考えてない。後のハリスも、日本市場から買うことばかり日記に書いています。条約を見てもそうです。
ですから、産業革命の中の繊維産業の観点からはペリーの行動は説明できない。産業革命との関連では蒸気船という技術革新のほうに決定的な意味があった。
太平洋横断航路もペリーの立案
Matthew Calbraith Perry(1794〜1858)
ペリーと日本とフリーメーソン参照
岩下 ペリーは郵船総監として、平時には郵船の配置などを決める役職についていたことがありました。それが、有事には海軍になる。
三谷 太平洋横断航路もペリーの立案なんです。郵船というのは太平洋だけじゃなく、一番のメインルートはヨーロッパと北アメリカの間です。ペリーはこれら全部の中心にいた。
それで、海軍の軍人ですから、戦時には軍艦として使えるような船をつくって、平時にはそれを郵船として使う。
当時のアメリカはゴールドラッシュで大もうけをしていたので、その金を専ら郵船につぎ込んでいた。
それをやっていたところ、中国航路を開設しようと別の人が言い出し、ペリーに立案を頼んだんです。彼は日本に来る気は全然なかったんですが、行くはずだった人が、途中でだめになったので自分で行くことになった。<以上原文はここ>
徳川時代、黒船艦隊を率いて鎖国を続けていた日本に来航し、フィルモア大統領の親書を携え、日本を開国させた、東インド艦隊司令官のペリー提督はフリーメーソンでありました。
ペリー提督が所属していたロッジは、ニューヨークの 「ホーランドNo.8」 で、フリーメーソンにとっては、定期的な儀式は欠かすことが出来ないため、英米の軍艦にはロッジがつくられており、いうまでもなく、黒船にもロッジがつくられていました。
日本に開国を迫ったアメリカの当時の状況は、
東海岸の13州をもってイギリスから1783年に独立し、原住民のインディアンと戦いながら、メキシコとの米墨戦争(1846-1848)を勝ち抜き、西海岸のカリフォルニアに至り、
ジョン・L・サリバンが 「併合論」 に書いてあるように、「北米大陸での膨張は自由の拡大という神に与えられた使命である」 と、国土の拡大をアメリカ人は「神の摂理」と理解し、それを明白な宿命(Manifest Destiny)と表現し、熱狂的に西部開拓を行い、その延長上に太平洋の彼方の日本がありました。
また、科学技術の発展により、工場は夜遅くまで操業していましたが、まだ石油が発見される前であったので、灯りは鯨油を燃やしてとっていました。 その鯨油を確保するために、捕鯨は盛んで、1846年の統計では736隻出漁し、日本近海でも約300隻が操業しており、アメリカは港を必要としていたのです。
一方、政治的には、当時はイギリスがスエズを陸路で通過し、インド、シンガポール、香港、上海までの航路を開いており、日本まで支配下におかれると、アメリカは太平洋進出の足場を失ってしまうと考えており、
ペリー率いる日本遠征艦隊には、サスケハナ号(2450トン)とポーハタン号(2415トン)が含まれていましたが、当時2000トンを超す蒸気軍艦はアメリカだけが保有していたもので、
何故喜望峰を回り、インド洋からシンガポール、上海に至るルートを選んだのかと言うと、イギリスに対する軍事的パフォーマンスの目的もあったわけです。
上海を出航した艦隊は、沖縄に立ち寄り、小笠原諸島に向かいましたが、ペリーは本国に 「イギリスの極東における勢力に対抗するには、沖縄にアメリカ海軍基地を建設すべきである」 と書き送っており、
アメリカの沖縄駐留軍の構想は、江戸末期のペリーの時代から既あり、地政学上、今でも沖縄は重要な位置にあります。
江戸幕府に、国書を渡したペリーは再び沖縄に行き、琉球政府に強要し、貯炭所建設を認めさせ、
こうして、フリーメーソンンの大物、ペリー提督が来航して以来、日本の歴史はフリーメーソンと深く関係をもつようになります。
オランダ東インド会社 アムステルダム本社
オランダ東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie)は、1602年3月20日にオランダで設立された世界で初めての株式会社です。 その頭文字をVOCを組み合わせた社章はあらゆる場所や器物にも刻印されました。 1598年にロッテルダムを出航し、1600年に奇跡的に日本に漂着したデ・リーフデ号のウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステンが徳川家康の目にとまり、日本とオランダの貿易が始まった事から、オランダ東インド会社は早々と日本を市場として取り入れることに成功し、さい先の良いスタートを切ることが出来ました。 発足したばかりのオランダ東インド会社の日本駐在員になったのが、ヤン・ヨーステンで、東京駅八重洲口の八重洲は、彼の屋敷があったところで、彼の名前がなまってつけられたものであります。
デ・リーフデ号 (慈愛号)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/825.html#readmore
デ・リーフデ号とオランダ人と長崎出島
日本とオランダの交流は、1600年4月19日、豊後(現在の大分県)臼杵湾にオランダ船デ・リーフデ号が漂着したことに始まり、オランダは、鎖国時代に長崎の出島で通商を許可された唯一のヨーロッパの国として、日本と世界をつなぐ架け橋となり、日本は医学や工学など、様々なヨーロッパの最先端技術や文化を学び、また日本が世界に紹介されました。
日本では秀吉が亡くなった年、1598年(慶長)にオランダのロッテルダムを出航した5隻の船がありました。 この船団は不運で、出航早々の3ケ月後に提督が病死し、翌年4月1日にマゼラン海峡に到達したときには、人も船も疲れきり、乗組員の多くが寒さと飢えで死んでゆきました。
チリ海岸で、生き残った2隻の船員達が会議を行い、何を思ったのか、 「 いっそ日本に向かおう 」 という結論に達しました。 日本についてはポルトガルが市場を独占し、スペイン人が後を追って割り込んでいた事は知っていましたが、日本へはどうゆけばいいのか、誰もが未経験でした。
ただ、積荷に毛織物があり、日本では毛織物が喜ばれると聞いていたので、ただそれだけの理由で日本を目指したのであります。 当時のオランダ人の勇敢さと楽観さには、呆れ帰ると同時に、嬉しくなってしまうものがあります。
2隻がチリ海岸を出発したのは、1599年11月27日で、針路を日本に向けましたが、1600年2月23日北緯20度あたりで再び暴風雨にあい、1隻は沈没し、デ・リーフデ号(慈愛号)は探すゆとりもなく進み、同年4月19日、ついに豊後(大分県)の臼杵(うすき)湾に着きました。 日本に着いたとき、かつて110人もいた乗組員で、生き残ったのは24人、その中で立って歩ける者は6人に過ぎませんでした。
この年の秋に関が原の戦いが起こり、徳川幕府がはじまりますが、デ・リーフデ号が臼杵についた頃、家康は秀吉の遺児を後見するという立場から、大阪城にいました。
家康は知らせを聞いて、大いに関心を示し、彼らを大阪に招きました。
船長は既に死に瀕していたので、航海士が大阪に行くことになりますが、航海士の名前はウィリアム・アダムス(1564-1620) というイギリス人で、スペインの無敵艦隊と戦った英国海軍の貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長をしていた人で、航海で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深めたアダムズは、ロッテルダムからアジアに向かうベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、自ら志願し、このオランダ船の航海士となっていたのです。
スペイン無敵艦隊の敗北
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/823.html
彼は、オランダ人のヤン・ヨーステン(1556-1623)を伴って、家康と対面しました。この対面後、二人とも家康の貿易顧問となり、アダムスは三浦按針と改名して高250万石の幕臣になり、江戸日本橋ちかくに屋敷をもらい、ヤン・ヨーステンも幕臣として屋をもらいますが、彼の屋敷の所在地が、彼の名前をなまって八重洲(やえす)となりました。 東京駅八重洲口の八重洲です。
ちなみに、三浦按針の名前の由来は、「三浦」は彼がもらった領地のある三浦半島に因み、「按針」は彼の職業である水先案内人の意味であります。
ヤン・ヨーステンは、日本武士になると同時に、発足したばかりのオランダ東インド会社の日本駐在員になりましたが、オランダ東インド会社の設立は1602年で、デ・リーフデ号の奇跡の漂着によって、オランダ東インド会社は発足早々に日本を市場として取り入れることに成功し、日本に大きな影響を与えました。
この2年前にイギリスでも東インド会社が設立されましたが、これは当座制の会社で、その規模はオランダ東インド会社の1/10にも満たないもので、会社の性質は全く異なります。
イギリスが株式会社という発想ができなかったのは、貿易というよりも海賊の利益に頼るところが多かったからで、よく映画や本などに出てくる海賊というものは、コロンブスがアメリカ大陸を発見し、金銀財宝を積んだスペイン船がカリブ海を渡ってヨーロッパに航海している時に、エリザベス1世が国家ぐるみで海賊行為を行い、スペイン船を襲ったもので、海賊とはイギリスそのものだったのです。
エリザベス1世
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ブラッディー・メアリー
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クリストファー・コロンブス
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ポトシ銀山
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石見銀山とブリオリズム
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スペイン国王 カルロス陛下
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イギリス東インド会社の当座制とはどういうものであるかといえば、当時の航海はリスクが高く、無事に帰ってこれるかどうか分からなかった為、リスク分散のために、共同出資を行い、出資者たちはその船長に金を与えて、船と武器を整えさせて帰りを待ち、スペイン船を襲って無事に帰ってくることができたら、その利益を山分け、船が沈むとその損失もみんなで痛みを分かち合うという、一回きりの博打のようなものであり、いかにも海賊的な仕組みです。
オランダ東インド会社の株式会社制度では、一回こっきりの襲撃ではなく、相手国との貿易を主においているため、もっと恒常的に資金が安定して供給される必要があり、株式会社という発想が出てきたわけです。
よく商売上手に、アラブ商人や中国商人があげられますが、これは契約をしても平気で約束を破ったり、いかに相手を騙すかという事が大事であるというビジネススタイルに対し、オランダでの株式会社制度では大量の資金を集めることができる事を活かし、設備投資・人的投資・リターンを考えたビジネスシミュレーションが重要となり、大がかりに人・物・金を動かす分、顧客に対しても業者に対しても、相手を騙すのではうまくいかず、ビジネスの信用が重要となり、姑息なだましよりも、ビジネスモデルの構築と相手との信頼が重要なビジネススタイルとなり、このほうが巨額な利益をとれるようになってゆくのです。
この近代ビジネススタイルの構築により、ヨーロッパ諸国は巨大な利益を得て、その利益で軍事体制を整える事ができ、ビジネスと軍事の両面から、アラブ諸国や中国は彼らに支配されてゆく事になります。 何故、日本がやられずにすんだかといえば、石見銀山から産出される銀で、世界でトップクラスの資産 (当時の国家の豊かさは貴金属の量:ブリオリズムで評価され、日本の銀の産出・保有量はスペインに匹敵していた)を持っていた事と、織田信長の先見性により、種子島に漂着しポルトガル人が持っていた火縄銃の製法を学び、滋賀県の長浜で銃の大量生産を行い、数年で世界トップクラスの銃を保有するようになったからです。 当時の銃砲保有量のNo.1は世界最強のオスマントルコ帝国で、日本はそれに続き、ヨーロッパ諸国よりも軍事大国であったのです。
石見銀山とブリオリズム
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腐れの徳川家康が何故鎖国(正確にいえば長崎を通しての徳川独占貿易)をしたかといえば、ヨーロッパから入って来る鉄砲と火薬を地方大名が持ち始めると、自分の身が危なくなるからで、彼の発想は日本を強くしようというものではなく、内部の足を引っ張り、保身ばかり考えていたのです。 それ故、世界の軍事史でも極めて珍しい現象が日本で起こりました。 鉄砲を捨てて、刀に戻るのです。 そうして、徳川時代に日本は弱体化し、国民性・文化にしても、上(徳川)から睨まれたら終わり、すなわちわざとに自分を卑屈にみせるような態度を取る必要があり、非合理的で相手に対し卑屈な印象を与えるようなカッコ悪く振舞う、国民性や文化が花開くようになりました。 江戸時代に形成された日本人の性格は、本来の日本人の性質とは大きく異なるものであると私は思います。<原文はここから>
管理人は下田市白浜に住んでいますがペリーロードは昔の遊郭にあります。下田市観光協会は無料で案内しております。ぜひ一度どうぞ。
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