2008/12/13
「テンプル騎士団とマルタ騎士団」
マルタ騎士団というゾンビ参照
その他の騎士団参照
英国ガーター騎士団のエンブレム。天皇家はガーター騎士団(ここをクリック)日本支部。
日英同盟参照
イルミナティになるには(あるいは,なれる家系は限られていますが)母親の胎内にいるころから訓練されることは記事にしました。数多くの殺人儀式を経て正式にイルミナティになる宣誓書を紹介しましょう。
The Oath administered to the Illuminathi is based upon the Oath of the Jesuits。つまりイエズス会と同じ宣誓ということです。その宣誓前に胸に刀が当てられる。これはテンプル騎士団の入会宣誓と同じです。
”Shouldst thou become a traiter or perjurer,let this Sword remind thee of earth and all the members in arms against thee.Do not hope to find safety;whithersoever thou mayest fly,shame and remorse as well as the vengeance of thine unknown brother will torture and pursue thee!
Then in the Oath which follows he swears;
"Eternal silence,and faithfulness and everlasting obedience to all superiors and regulations of the Order.I also renounce my own personal views and opinions as well as all control of powers and capacities.I promise also to consider the well-being of the Order as my own,and I am ready,as long as I am a member,to serve it with my goods,my honour and my life.......If I act against the rule and well-being of the Society,I will submit myself to the penalties to which my superiors may condemn me......
In the name of the son
Crucified(ie the Pentagram,the Illuminised man),swear to break the bonds which still bind you to your father,mother,brother,sisters,wife,relatives,friends,mistresses,kings,chiefs,benefactors,and all the person to whomsoever you may have promised faith,obedience,and service.
Name and curse the place where you were born,so that you may dwell in another sphere,to which you will attain only after having renounced this pestilential globe,vile refuse of the heavens! From this moment you are free from the so-called oath to country and laws:swear to reved to the new chief,recognized by you,what you may have seen or done,intercepted,read or heard,learned or surmised,and also seek for and spy out what your eyes canmet discern.Honor and respect the Aqua Tofana(ie;an imperceptibly)slow poison as a sure,prompt,and necessarry means of purging the globe by death of these who seek to vilify the truth and seize it from our hands.Fly from Spain,Naples and all accursed land,finally fly from the temptations to reveal what you may hear,for the thunder is no prompter than the knife,which awaits you in whatsoever place you may be. Live in the name of the father,son,and Holy spirit(The trinity of Illuminism.......Cabalistic and Gnostic.The father-the generating fire;the Holy spirit-the great mother nature,reproducing all things;the son-the manifestation,the vital fluid,the astral light of Illuminasm.
テンプル騎士団−聖杯伝説
第一章
テンプル騎士団の創設
原文
第一次十字軍
(1) 聖戦の求め
教会は果てしない流血を止めようと躍起でした。手っ取り早い手段は「神の休戦(水曜日の夜から月曜日の朝までを休戦にすること)」であり、貴族間で「私闘」しない日を指定しました。長期の政策としては戦うキリスト教徒の理想を提供する騎士道の試みであり、元来は戦での功名であったナイト勲位が最終的にはほとんど宗教的なもの、寝ずの番、武器への祝福、貞節の誓いへと捧げられた。
-Desmond Seward, The Monks of War
散文物語はアーサー王のロマンスやガリアのアマディスに、凶暴なものはドンキホーテの中に変わりました。それはローマ帝国の野蛮な侵略者を文明化する、カトリック教会の最良の混合主義の例でした。しかしこの過程には数世紀を要しましたので、他の早い解決が必要でした。
1095年教皇ウルバヌス二世が638年からイスラム教徒によって占拠されていたエルサレムを取り戻すよう呼びかけたとき、彼の嘆願は異常な熱狂を引き起こしました。パレスチナの重要性は新しいキリストの人間評価によって高められました。情熱の場はエルサレムを指していました。街が異教徒に属していることは、神の法律に反対していました。そして聖戦は野蛮な貴族の破壊的なエネルギーの大きな捌け口となるでしょう。
聖戦を神の召喚による兵役と考え、既にイギリスや南イタリアで領地を獲得したと同じようなチャンスだと考えました。「Deus li volt」の掛け声がヨーロッパ全体に鳴り響き、全ての身分から好戦的な巡礼者が古代の勝利の賛美歌「Vexilla regis prodeunt」を歌って聖地に集まりました。
-Desmond Seward, The Monks of War
既に第一次十字軍に参加していた騎士は互いに戦士が利欲的に集まった集団からなり、集団規則に従っていた。聖ベルナールによってその貪欲さ、空虚さ、邪悪な暴力を非難されていた騎士は、13世紀の終わりには修道士の巡礼に対応する個々の探求という文学的な騎士の概念を与え始めた。個人的な探索の中に冒険を求めた騎士はしばしば世俗の、エロチックな経験と関連し、それらは十字架によって重大な贖罪を求めた罪人と関係はありません。
-Peter Partner, The Murderd Magicians
エルサレムは1099年7月に襲撃されました。狂犬のような略奪の獰猛さは、教会が野蛮な本能のキリスト教化に成功していないことを示しただけでした。聖地の全住民が切り殺されました。ユダヤ人とイスラム教徒、7万人の男、女、子供が3日間猛威を振るった大虐殺で死にました。場所によっては踝まで浸かりながら血の中を歩き、騎手は血をはね返りながら道を行きました。泣きながらこれら信心深い征服者は、虐殺に急いで戻る前に、聖墳墓において祈るために素足になりました。
これらパレスチナに滞在した者は主にフランスの冒険者であり、彼らの土地に戻る者はなく、そこに彼ら自身の土地の封建制を作りました。
-Desmond Seward, The Monks of War
絶え間ない異教徒からの侵略の結果、多くの神の子が死に、教会が弱体化するのを知ったのなら、あなたがじっとしていないことを信じます。我々は兄弟を守るため、教会の自由のため最大限の努力をあなたに求めます。
-教皇カリストゥス二世、1123年
(2) 新しい修道会の設立
テンプル騎士団は第一次十字軍の直後、エルサレムに生まれました。ソロモン寺院の貧しき騎士修道院は1112-1124年の間に敬虔な戦士の集団が創設した。彼らは巡礼者が上陸するパレスチナの港ヤッファからエルサレムまでの危険な道の警護の任務に就きました。彼らは聖アウグスティヌスの宗教的規則の下に生き、そしてエルサレムの聖母教会の指導と規則がありました。
-Peter Partner, The Murderd Magicians
1104年、シャンパーニュ伯はエルサレムから戻ったばかりの少なくとも一人の位の高い貴族と秘密会議で会いました。封建君主のアンドレ・ド・モンバールも出席していました。
-Baigent, Leigh & Lincoln, The Holy Blood and the Holy Grail
この秘密会議のすぐ後にユーグは聖地に旅立ち、そこに1108年まで逗留しました。彼は1114年に短期帰国し、シャンパーニュに戻り、クレヴォーの領地を聖ベルナールに寄進しました。公式の記録によれば、4年後ユーグ・ド・パイヤンは彼の従者、親類、アンドレ・ド・モンバールと7人の仲間と共に任務に旅立ち、初期のテンプル騎士団を作りました。1125年にシャンパーニュ伯ユーグ自身がこの新しい修道会に参加しました。
-Lynn Picknett & Clive Prince, Turin Shroud - In Whose Image? The Shocking Truce Unveiled
ユーグ・ド・パイヤンはシャンパーニュ伯と同様、トロワ伯の分家でもありました。
1123年の文書によると、ユーグを「テンプル騎士団の棟梁(Magister Militum Templi)」としています。おそらく重要なのはMagister Militumが後のローマ帝国の最高軍司令官の称号であったことです。しかし彼の小さな集団は単なる志願同胞会であり、最近の研究では彼らが新規入会者を見つけるのが困難であり、解散間際であったことを示しています。ユーグは規則を求めない別の十字軍に関心を向けました。
-Desmond Seward, The Monks of War
テンプル騎士団は名前をエルサレムのソロモン王によって立てられた寺院にちなんで「militia templi(テンプルの戦士)」とした。彼らは王によりそのそばの土地を割り当てられました。
新しい修道会の完全なオリジナルの称号は「Pauperes commilitones Christi Templique Salomonis」、キリストとソロモン寺院の貧しき同胞戦士。
彼らの初めの任務はエルサレムへの道を守ることでした。しかし自発的な警察力の役割を引き受けるようになるまでにそれほど時間はかかりませんでした。
-Noel Currer-Briggs, The Shroud and the Grail - A Modern Quest for the True Grail
ある神に仕える騎士階級の貴族たちが、大司教の保護下で世俗の規範の中で神に仕えながら、貞節と服従と非所有のもと生きたいと公言した。これらの中で初めてかつ最も重要な尊敬すべき男に、ユーグ・ド・パイヤンとジョフロワ・ド・サントメールがいた。彼らは教会も、住む場所もなかったので、エルサレム王ボードワン二世は彼らに一時的に寺院の南側下に持っていた彼の王宮の一室を住居として与えた。彼らの職業の第一要素は彼らに、大司教や他の司教による罪の減刑のために、最大限の努力で特に巡礼者を泥棒や強盗らの安全のために道路を守ることが命じられました。
-William, Archbishop of Tyre
ボードワン王はキリスト騎士たちを歓迎し、ソロモン神殿があったといわれる場所の上、アル=アクサ寺院のとなりに建つ彼の王宮の1/4を与えました。同時に聖堂参事会員は馬小屋を与えました。
-Peter Partner, The Murderd Magicians
(3)シオン修道会とヨハネ派の関係
テンプル騎士団の背後には秘密の修道会が存在し、それはテンプル騎士団を軍事的、管理上の目的で作った。この修道会は様々な名前で活動し、もっとも知られた名前はプレウリ・ド・シオン(シオン修道会)です。
-Baigent, Leigh & Lincoln, The Holy Blood and the Holy Grail
プレウリ・ド・シオンは1956年フランスで作られた近代の結社です。中世のシオン修道会とのつながりは、鍵となる歴史文書が偽物と認められたことで疑わしいものとなりました。
ベイジェント、リー、リンカーンはシャンパーニュ家が関わるシオン修道会(ときにはOrder of Our Lady of sionと言及される)を取り巻く陰謀の証拠を暴露した。彼らの主張では、これらの影にはテンプル騎士団の創設があるとしています。これらの出来事の原動力はシャンパーニュ伯ユーグであり、騎士団の創設を助け、後には1125年自身もテンプル騎士団に加わった。歴史家は、記録は少ないが、ユーグはユーグ・ド・パイヤンと親戚であり、彼は確かに封建領主であったとしました。
-Lynn Picknett & Clive Prince, Turin Shroud - In Whose Image? The Shocking Truth Unveiled
何人かの作家はテンプル騎士団がヨハネ派またはマンダ教の異端に汚染されていたことを指摘した。それら異端はイエスを偽預言者であると非難し、(洗礼者)ヨハネが真のメシアであるとした。テンプル騎士団が中東で活動中に、確かにヨハネ派と関係があった。
-Baigent, Leigh & Lincoln, The Holy Blood and the Holy Grail
この教団(ヨハネ派)はキリストの称号をもつ教皇を持ち、太古から断続しないで続く儀式の正当性を主張した。テンプル騎士団の設立時(1118年)には、教皇Theocletesはユーグ・ド・パイヤンと知己であり、彼に教団の奥義と特権を与え、かれに最高位と組織を約束し、最終的に彼を後継者に指名した。
-Kenneth Mackenzie, The Royal Masonic Cyclopaedia
少なくともプリウリ・ド・シオンのグランドマスターの二人が、ヨハネ派とのかかわりを明らかにした。ユーグ・ド・パイヤンが密かにヨハネ派であったという主張は19世紀に、初めにバチカンから、次に神智学者達から繰り返された。
教団の創設を洗礼者ヨハネによるとされているヨハネ派は、教皇の称号がChristos, Anointed, Consecratedとなっていて、教皇権は聖ヨハネから中断しないで続いていると主張します。名をTheocletという人物はテンプル騎士団創設の時期に、この架空の教皇権を主張し、知り合いであったユーグ・ド・パイヤンに彼の偽教会の奥義と希望を与え、最高の階位と王権で誘惑し、最後は彼を後継者に指名しました。
-Allocution of Pio Nono against the Free Masons
彼はこの町へ来て住んだ。マリアとヨセフの故郷である。「彼はナザレの人と呼ばれる」マタイ2:23。「もしガリラヤの埃っぽい日ざしを浴びて,塵にまみれつつ旅に疲れた師イエスをよく知り,これに従っていたまじめなナザレ人の誰かが,突然この世界に蘇ってきて,例えばローマの聖ペテロ教会のミサに参加して,その聖壇のうえにおかれた聖餅(せいべい)が,十字架に架けられたかれの師そのものに他ならないと知ったら驚くであろう」H・Gウエルズ世界文化史(OUTLINE OF HISTORY)より。
A CITY CALLED NAZARETH参照
真のイエスの歴史と初期のキリスト教は(ナザレまたはヨハネ派の)テンプル騎士団の教皇Theocletesによってユーグ・ド・パイヤンに伝えられた。その後パレスチナでさらに高位の更に知的なヨハネ派の騎士数名によって奥義を教えられた。知的自由と唯一の普遍宗教の復興が彼らの秘密の目的だった。服従・清貧・貞節を誓い洗礼者ヨハネの最初の騎士は荒野で泣き、蜂やバッタを食って生き延びた。それらが真のカバラ伝説である。
-M. P. Blavatsky, Isis Unveiled
(4)秘密の目的
1894年に英国軍人のグループが500ポンドの予算でヘロデ王寺院の下にある遺跡の発掘に取りかかった。Charles Wilson大尉に率いられた王のエンジニア隊は困難な条件のもとで優れた成果を上げ、彼らは地下の部屋とアーチ型の天井を見つけました。そして彼らはまた、彼らが地下の空間を訪れた初めての訪問者ではないことも気づきました。彼らはテンプル騎士団が740年前に残していったものを見つけました。それらは剣、拍車、槍、小さなテンプル十字でした。
-Christopher Knight and Robert Lomas, The Hiram Key
1099年十字軍がエルサレムを征服したとき、彼らは街に残ったユダヤ人から、まさに岩のドームその場所が至聖所であると聞きました。十字軍はイスラム教の岩のドームをソロモン寺院と間違えました。
-Noel Currer-Briggs, The Shroud and the Grail -A Modern Quest for the True Grail
1118年九人の十字軍騎士が東方で、その中にはジョフロワ・ド・サントメールやユーグ・ド・パイヤンがいたが、コンスタンチノープル大司教の手による宗教儀式をあげた。その司教区は大主教フォティウスの時代から常に秘密裏に、そして公然とローマに反抗していた。テンプル騎士団は公の目的を聖地を訪れるキリスト教徒の保護としていたが、彼らの秘密の目的は預言者エゼキルの設計したソロモン宮殿の再建築であった。
-General Albert Pike, Morals and Dogma
九人の騎士の真の目的は、そのエリアを調査し、ある遺物や写本を手に入れ、ユダヤ教や古代エジプトの秘儀を手に入れることであり、それらはおそらくモーゼの時代まで遡る。彼らがこの仕事を果たしたことは間違いなく、そして彼らの発見から得た知識は、騎士団の中で口頭で伝承された。
-Gaetan Delaforge, The Templar Tradition in the Age of Aquarius
1960年代Louis Charpentierはそのアイディアの明快さのために注目されなかった2冊の著書のなかで、テンプル騎士団は聖ベルナールにより、ソロモン寺院のアークをヨーロッパに持ってくるように聖地に派遣されたと主張した。彼の証拠は、テンプル騎士団の財力によりヨーロッパのゴシック形式の大聖堂が建設されたこと。それらは部分的には錬金術によって、部分的にはアメリカから(コロンブスより3世紀も前のことです)輸入された銀がラロシェル(フランス)に陸揚げされたものです。
-Peter Partner, The Murderd Magicians
多くのユダヤ教、イスラム教の伝説が魂の井戸の底に封印された地球の内部へと続く秘密の抜け道について語る。アークはおそらくソロモン寺院の破壊時にそこに隠され、そして多くの者が、精霊と悪魔に守られ今でもなおそこにあると信じている。おそらく考えられることとしては、ユーグ・ド・パイヤンと後援者のシャンパーニュ伯はアークを見つけるためにテンプル騎士団を組織し、この目的を達するためにテンプルの丘を支配した。
しかしもしそうであっても、彼らの目的は失敗しました。12世紀は、ある専門家が言うように、「有名な聖遺物の価値は莫大であった。」契約のアークのような唯一重要な聖遺物の所有は巨大な権力に加えて、名声をも騎士団にもたらしたはずである。このことにより、もしテンプル騎士団がアークを発見したのなら、彼らは意気揚揚とヨーロッパに持ち帰ってきただろう。
-Graham Hancock, The Sign and the Seal
我々は最近クムランの銅巻物(地中海写本)の複製が直接寺院の祭壇下の「Shith」または「洞穴」に置かれているのを発見しました。その洞穴は中心が環に加工された大理石が被せられていた。これはテンプル騎士団が持ち上げた石で、そこから下の地下ドームへ降りて行ったのでしょうか?
-Christopher Knight and Robert Lomas, The Hiram Key
宮殿(アル=アクサ寺院)の反対側にテンプル騎士団は新たな建物を建てた。それは高さ、長さ、幅、そして全ての地下室と食堂、階段と屋根がその土地の習慣とまったくかけ離れたものでした。実際その屋根はとても高く、私がどれほど高いかを述べても、聞く人はほとんど私を信じれらないでしょう。
-Theorderic(1174)
彼は明らかにテンプル騎士団の建築技術はとても進んでおり、特に高くそびえる屋根とアーチに感銘を受けた。高くそびえる屋根とアーチが、12世紀のシャルトルの大聖堂やほかの大聖堂で見られるゴシック様式の建築物と異なる特徴であった。ある観察者は大聖堂が当時の科学技術をはるかに超えたものだとしている。
-Louis Charpentier, The Mysteries of Chartres Cathedral
もしテンプルの丘の発掘中にソロモン宮殿に関する巻物、原稿、定理、図面を発見していたとしたら?もしこれらの中にピラミッドや他の古代の建築物の幾何学、割合、バランス、調和の秘密が含まれているとしたらどうでしょう?
-Graham Hancock, The Sign and the Seal
そしてもしテンプル騎士団がサン・ベルナールの強力な後援の見返りにこの秘密を共有していたとしたら?
-Graham Hancock, The Sign and the Seal
テンプル騎士団の後援者であるサン・ベルナールは初期のゴシック建築の発展と普及に貢献した。(彼はシャルトルの大聖堂が建てられた1134年に権力の最高潮に登り、塔や全ての建物の神聖な幾何学原理の実行を強調した。)
ゴシック建築は1134年シャルトルの大聖堂の北塔の建築で生まれた。1134年の直前、ベルナールはシャルトルの司教Geoffreyと特に親しい友情を育て、ゴシック様式の「一般的ではない熱意」を吹き込み、建築業者らとほとんど毎日の交渉を行った。
「神とは何ですか?」と尋ねられたとき、彼は「神とは長さ、幅、高さ、深さである」と答えた。
全ての大建築物は、注意深くそして明らかに深遠な宗教的ミステリーの鍵としてデザインされていました。それで例えば、建築家や石工たちはゲマトリア(数をアルファベットの代わりに用いる古代のヘブライ暗号)を使い、礼拝の句を大建築物の寸法に隠して綴った。同様に彫刻家やガラス屋は通常よりも高位の聖職者の指導の下働いて、人智や過去、聖書の予言的な意味を数千もの異なる仕掛けや、デザインの中に注意深く隠した。(例えば北玄関の絵の中には、説明されない目的地への契約のアークが牛車に乗って避難する様子が描かれている。風化した碑銘「HIC AMICITUR ARCHA CEDERIS」は「ここに契約のアークを隠す」という意味かも知れない。)
-Graham Hancock, The Sign and the Seal
1139年教皇インノケンティウス二世(ついでに言えば彼の立候補を熱狂的に支持したのはサン・ベルナールである)は騎士団にユニークな特権を与えた。それは彼らの教会を建築する権利である。この特権はその後十分に行使されました。ロンドンのテンプル教会のような円形の美しい礼拝所は、テンプル騎士団の活動の特徴になりました。
-Graham Hancock, The Sign and the Seal
1170年から100年間の間にフランスだけで80以上の大聖堂と、およそ500の小修道院が建てられました。それはかつてエジプトで切出された石よりも多いものです。これらの建物はかつてない驚異的に新しい比率で建てられました。
-Christopher Knight and Robert Lomas, The Hiram Key
テンプル騎士団のもっとも大きな影響は、資金と人の東方への移動でした。西ヨーロッパの領地や、教会、農場に建てられた多くの建物は訓練と宣伝のためであったが、それらは少数の例外を除いて慎ましく、実用的なものであった。テンプル教会には標準形は無い。エルサレムの岩のドームや、八角形のエルサレムの聖母教会を連想させる円形や、多角形のものはごく僅かである。しかしほとんどのテンプル教会は通常の半円形構造である。
-Peter Partner, The Murderd Magicians
サン・ベルナールの支配
(1) 強力な擁護者
テンプル騎士団が創設された1118-1119年、それは貧しき修道会として、主な目的はヤッファの港と、内陸のエルサレムを結ぶ道をゆく巡礼者の保護であった。しかしこの新興修道会に重大な転換が起こったのは、サン・ベルナールの保護下に入ってからです。彼はテンプル騎士団の創設メンバーの一人、アンドレ・ド・モンベールの甥である。彼が20歳になり修道士になるまで、サン・ベルナールは騎士としてのキャリアを積んでいたが、彼がテンプル騎士団の保護者になると、ブルゴーニュの騎士の理想と信念を吹き込みました。
-Edward Burman, The Assassins - Holy Killers of Islam
ベルナールにクレヴォーの領地を寄付したのは、シャンパーニュ伯ユーグでした。そこで彼は彼の大修道院を建設し、そこで彼の帝国を拡大させました。彼はテンプル騎士団の公式スポンサーとなり、彼の影響力はトロワの公会議で教皇の任命に影響を与え、これはユーグの首都であった。ベルナールの弟子、教皇インケンティウス二世(以前はクレヴォーの修道士であった)はテンプル騎士団にローマ教皇を除くすべてへの忠誠からの自由を与えた。
-Lynn Picknett & Clive Prince, Turin Shroud - In Whose Image? The Shocking Truce Unveiled
トロワで公会議が開かれた1128年、28歳であったクレヴォーのベルナールはテンプル騎士団の規則を作る手助けを依頼された。彼はそれ以上のことを為した。彼は最も強い擁護を主張し、彼らが大地からの贈り物と、お金に支えられ、そして良き家族の男達に罪深い生活を捨て、テンプル騎士団のように剣と十字架をとるように促した。
-John J. Robinson, Born in Blood
サン・ベルナールはユーグと強い絆で結ばれ、彼は封建領主の犯罪、不信、強盗、殺人、姦通に変換される余剰エネルギーと繋がる手段を持っていた。彼はユーグに規則を編纂し、新入者を見つけることを約束した。彼らは主のために闘い、キリストの戦士であった。軍のキリスト教性は、真の創始者がキリストであったからだ。
-Desmond Seward, The Monks of War
実際、キリストの騎士たちは神の戦いを安心して、決して敵を殺す罪を恐れず、自身の死を恐れず、キリストのために死を与え、それらは決して罪ではなく、むしろ輝かしい報酬に値した。これ故、キリストのために、これ故キリストは達せられる。彼は確かに自由に復讐として敵に死を与え、さらに喜んでキリストの戦士としての安心を見つける。キリストの戦士は安心して死ぬ。彼は彼の興味である死に仕え、キリストの興味は死の中にある。
-St. Bernard
ベルナールは俗世の騎士の生活は、虚栄と、不義と、略奪と、盗みに捧げられ堕落し多くの罪がある。それと騎士団の聖なる神への喜びに満ちた生活を比較し、若者にテンプル騎士団の剣をとるよう促した。キリストへ捧げられた貞節と祈りの生活は、不信者への戦いの犠牲となり、どんな罪も、どんな数の罪も十分贖われるものである。基礎としてベルナールは『sceleratos et impius, raptores et homicidas, adulteros(邪悪な不信者、強姦者や殺人、姦通者)』を著し、テンプルの王として参加することで彼らの魂を救った。免罪の保証もまた、破門の命令と同じくこれらの解決法であった。テンプル騎士団としての宣誓は教会に証拠を提出し、そして至高の懺悔は戦時において真の十字架のために、贖罪のための神の要求を満たすことでしょう。
-John J. Robinson, Dungeon, fire and Sword(1991)
戦士は子羊よりも温厚で、ライオンよりもどう猛で、穏やかな修道士が勇敢な騎士と結婚したようなので、彼らを何と呼べばよいのか分かりません。男たちはソロモンのテンプル神殿を宝石ではなく武器で、黄金の冠ではなく盾で、鞍や手綱ではなく燭台で飾った。名声ではなく勝利を、虚飾ではなく戦いを求める。彼らは無駄な演説、不要な行動、慎重でない笑い、噂やおしゃべりを無駄なこととして嫌う。大人数にもかかわらず一つの家で、一つの規則に従い、一つの魂と一つの心を持つ。
-St. Bernard
別のもう一団の入会者は、馬、鎧、武器をそろえるお金のなかった貧しき騎士でありました。入会に際してこれらの物品は個人的な使用人とともにそろえられました。生きるために十分な食料と土地が与えられました。どれほど自尊心がおとしめられていたかにかかわらず、それらはすぐに回復するでしょう。(ちなみに装備をそろえる重い負担は自由労働者の400日分の給料に相当します。)
13世紀には、入会者は騎士または親が騎士であることが要求されました。農民の出は騎士の入会には障害であったし、聖職にも同様障害であった。従ってテンプル騎士団も例外ではなかった。破門された入会希望者はまず司教のところへ連れられ、そこで免罪された場合に限りテンプル騎士団に受け入れられた。入会勧誘は道義的な犯罪で有罪とされた騎士の中から行われた。良く知られたフランス版の規則には、テンプル騎士団がしばしば破門された騎士から入会者を募ることが指示されます。ラテン版の規則には、おそらくテンプル騎士団の公の聖職者としての態度と、地方特有の軍の文化の間に緊張関係を示す目的で、度重なるこのような収集を行わないよう禁止命令を与えた。意見は最後まで分かれました。騎士団の草創期から解散時まで、死刑に値する強盗が、騎士団への入会を認められていたことは、不名誉であると言われていました。
-Peter Partner, The Murdered Magicians
(2) 入会儀式
入会志願者の許可は週一回行われる総会で行われました。もし盟友の大多数が同意すれば、2,3人のさらに上級の兄弟に調べられました。もし答えが満足なものであったら、つまり彼が自由身分で、貴族で、健康で、正当な出生を持っていたら、かれは棟梁の前に連れられた。
-Noel Currer-Briggs, The Shroud and the Grail ? A Modern Quest for the True Grail
入会の儀式は厳重な秘密の下普及し、エルサレムの聖母教会の円形の建物とまったく同じくコピーされた建物で行われました。多くのテンプル教会や礼拝堂はこれを考えて円形に建てられ、その中心にはスペインのセジョビアにあるヴェラクルズ教会のように、しばしばキリストの墓の模型が置かれ、2階建てで階段が続く構造であった。あるステージでは、入会者のために特別な儀式が行われ、一瞬の間、地上で至高の神の姿を見ることができ、その前にひれ伏した。
-Ian Wilson, The Shroud of Turin ? The Burial Cloth of Jesus Christ?
総会が行われる建物は守られ、儀式は夜、秘密裏に行われ、騎士はテンプル騎士団に入会した。総長は集まった騎士に何度か、新入会者への反対がないかを尋ねた。何も聞かない内に、彼は騎士団の規則を改定し、新入会者が妻や家族を持っていないか、借金や病気を持っていないか、他の(騎士団の)総長に忠誠を持っていないかを尋ねた。新入会者はひざまずき、これらの質問を否定し、テンプル騎士団の使用人や奴隷になることを願い、神と聖母マリアに服従を誓った。
-Ancient Wisdom and Secret Sects
テンプル騎士団への入会の儀式の間、神の永遠性と、神の息子の完全性の証明書が作られた。Cassanhasのヨハネ、Noggardaのテンプル騎士団の指導者は、いかにリーダーが入会儀式を宣言し、「汝神を信じ、神が死なず、これからも死なないか」を説いた。
入会志願者が彼の誓いを立てるとき、彼の手は通常の儀式のように聖書に置かれるのではなく、ミサの中でキリストの身体について言及しているミサ典書の上に置かれます。何人かの司祭、たとえはBertrand de VillersとEtienne de Dijonは二人ともLangresの司教区からやってきたが、彼らはミサのホストが聖変化するところで、「Hoc est enim corpus meum.(これがすなわち私の肉体)」を省略するよう言われたと述べた。
こうして彼は修道院の慣習に従うこと、聖地を征服する手伝いをすることを誓った。この後、彼はテンプル騎士団に迎えられ、肩に白いマントを掛けられた。司祭は詩篇133を読んだ。
-Noel Currer-Briggs, The Shroud and the Grail -A Modern Quest for the True Grail
神の人々が一緒に協調して暮らしていくことは、何と素晴らしく、喜ばしいことであろう!
貴重なオイルがアロンの頭やあごひげに流れ落ちたように、彼のローブの襟に落ちます。
それはヘルモン山の露がシオンの丘に落ちるようです。
そこで主は彼の生命が終わらぬようめぐみを与えます。
-Psalms 133
(3) 清貧と同胞会
シトー修道会の規則に基づいて、初めに貞節、清貧、服従の3つの基本修道院の誓いができた。貞節は両性にとって重要であった。テンプル騎士団員は例え母や姉妹であっても女性にキスしたり、触れたりしてはならなかった。どんな女性との会話も断念し、しばしば禁止された。テンプル騎士団は羊皮で作られたズボン下を履き、決して脱ぐことはなかった。(この規則はテンプル騎士団が決して風呂に入らないよう命令されていたので、ズボン下を脱がない命令は、性的活動を禁止するためだったと思われる。)テンプル騎士団員は、特に他の団員に裸を見せてはならなかった。修道院の全員が男社会の中においては、闇夜がホモセクシャルを許してしまうかも知れないので、寄宿舎ではランプが一晩中灯されました。
-John J. Robinson, Born in Blood
静寂の強調は食堂でサインを使うことにまで発展し、その同じ起源で、シトー派の祭壇装飾品の簡素さの類似が、簡素な武器、馬具、金銀を使っていない引き綱です。宗教儀式は、軍事教練に変わり、静寂の中、両方ともフランス語訳された聖書を読みながら二度の食事があり、とくにヨシュアとマカベアの部分が強調された。残忍な異教徒から聖地を奪還することは、全てユダの残忍な利用、兄弟と彼ら戦闘集団からインスピレーションを受けた。同胞は組になって、もう一方が食事で弱らないかを見た。ワインは食事毎に出されたし、肉は一日3回でした。彼らの禁欲は戦争の困難さであった。それぞれの騎士は3頭の馬を所有することが許されたが、象徴的な例外はライオンであり、襲ったり狩りをすることは禁止された。髪は刈り込み、髭は伸ばさなければならなかった。彼の上司は単に部隊指揮官ではなく、修道院長でもあった。キリスト教の歴史で初めて、戦士が修道士として生活を送ったのであった。
-Desmond Seward, The Monks of War
テンプル騎士団の盾は正に聖杯伝説英雄のガラハド卿のものであった。それは純白に大きな赤十字が装飾されたものです。
テンプル騎士団の象徴は二人の騎士を運ぶ馬であり、清貧と同胞の象徴です。ベルナールは彼の粗野な集団を、俗世の豊かな騎士よりも好意的に見ており、テンプル騎士団は滅多に風呂の入らず、髭はもじゃもじゃで、汗とホコリ、馬具と熱で汚れている。テンプル騎士団は赤十字で飾られた白いマントを纏い、騎士団の創設者によって好まれたまだらの馬の後、Beauseantと呼ばれる白黒の旗の後ろに戦うために乗りました。同じ単語はスローガンとなりました。
-Ancient Wisdom and Secret Sect
全てのテンプル騎士団員は上位の団員に対し、即刻服従が要求されます。そして教皇以外の誰に対しても責任を負わず、本質的に非服従のため、死刑までを含む独自の処罰システムを作り上げた。テンプル騎士団にはプライバシーは存在せず、受け取った手紙は棟梁または牧師の前で声を出して読み上げなければなりませんでした。
テンプル騎士団は戦場で、3対1以下にならなければ、その場合でも退却の命令がなければ、退却してはならなかった。テンプル騎士団に入会した者は、戦場で死ぬことを期待され、そして実際多くの者がそうなった。
-John J. Robinson, Born in Blood
シトー修道会は、木の伐採を祈りと考えたように、正しい条件を与えた。テンプル騎士団は同様の態度でイスラム教徒に対応した。サン・ベルナールの言葉では「殺人ではなく、malecide(犯罪者を処刑すること)である。」それは不公正というよりも、不正義の絶滅であり、望まれることである。実際異教徒を殺すことはキリストに栄光を与える栄光を勝ち取ること。戦場での死は殉教者の献身であり、街道で20000人のテンプル騎士団が200年間旅行した。
ベルナールの才能はゲルマン戦士の儀式を、宗教的な職業に変えました。それは異教の神々が聖人やキリスト教の豊饒の儀式に変成されたように、キリストはヴォーダン(アングロサクソンの神)を追い出してしまいました。
-Desmond Seward, The Monks of War
テンプル騎士団−聖杯伝説
第二章
聖杯の騎士
パルチヴァール
パルチヴァール叙事詩は1200年ごろフランスとドイツで同時にクレチアン・ド・トロワやロベール・ド・ボロン、またはドイツの吟遊詩人ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハによって初めて書かれた。本質は、若い英雄が騎士や中世の貴族社会と隔絶されて育ち、そこから広い世界へ冒険に旅立ち、アーサー王と出会う伝統的な物語である。彼は王から騎士に叙され、英雄としての存在を取り戻し、最終的に「神の手」によってムンサルヴァッハ城に導かれる。この神秘的な要塞には聖杯の守護者と呼ばれる貴族がいる。彼らの王は多くの罪を犯し、永遠の病を与えられた。彼が赦されるためには、信心深い男が王に対し、病気の理由を尋ねることが必要である。パルチヴァールは食事に招かれるが、質問することを忘れてしまう。その後何年も彼はあちこちをさまよい歩くが、ついに再びムンサルヴァッハ城を訪れることができた。このときは決定的な質問をして、王は病と苦しみから解放され、パルチヴァールは「聖杯王」として就くことになる。
中世史研究者の何人かが既に指摘していることだが、パルチヴァール叙事詩は、様々なテクストからなる複合体である。実際ペルドゥル物語や、後半の伝説の要素の多くを含んだケルト神話はその遥か以前に存在していた。その中にはアーサー王の部分や、様々な異教神話、キリスト教からの影響、実際の聖杯伝説そのものが存在し、まったく分けて考えなくてはならない。
しかしグラールとは実際には何なのでしょう。中世の作者達は詳細に語りませんでした。明らかなのは彼らは実際に「聖遺物」を見ていないことです。二人のフランス人作家はただ「豪華な容器」または「金属のボウル」、ロベール・ド・ボロンは最後の晩餐で使われた聖杯であると記述しています。ここがパルチヴァール長編物語に最も顕著にキリスト教の影響が現れている場所です。一方、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハは控えめにこう記しています:
グラールと呼ばれるものは、地上の欲望を有り余るほど与えました。
その石は同じくグラールと呼ばれました。
語源的には、グレールの概念の派生語がいくつか見つかります。中世ラテン語のgradalisとフランス語のgradaleは「ボウル」を意味します。プロバンス語のgrazaalは古カタロニア語のgresalに対応し、「ボウル」、「たらい」、「皿」と訳されますが、「ミルク差し」、「喜び」、「慈善」、「パン」の意味もあります。
パルチヴァールの起源を調べてみましょう。ロベール・ド・ボロンやクレチアン・ド・トロワといったフランスの作者は情報を「偉大なる書」から得たと述べていて、その中で聖杯にちなんだ名前の壮大なミステリーが記述されています。ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハはこの本について一番明白にこう言います:
よく知られた棟梁であるKyotはトレドで冒険のオリジナル版の書かれた異教の書物が捨てられているのを見つけました。彼はまず初めにアルファベットの意味から、そして黒魔術まで習う必要がありました。彼が洗礼されていたので、さもなければこの物語は今日まで伝わることはなかったでしょう。異教の知識は我々が聖杯のような物語を語る手助けにはならないので、どのようにしてそのミステリーが浸透したのでしょうか。
トレドは更なる調査のためのキーポイントです。もし中世スペインを見れば、イベリア半島は長い間イスラムによって占拠されていました。そしてトレドはイスラム世界の科学センターでした。そこにヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの物語の、おそらくアラビア語で書かれた写本が見つかったという証拠があるでしょう。物語の原作者についてヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハはこう述べています:
Flegetanisは異教徒であり、自然科学の知識に優れ高名であった彼は母親側がイスラムのソロモン族で生まれた。彼は聖杯物語を書いた。父親側も異教徒であり、Flegetanisは牛を神のように崇拝した。彼はそれをグラールと呼んだと言いました。
テンプル騎士団 では次に何が起こりましたか?残念ながらヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハはKyotと認めた日付を残していないので、別ルートを探る必要があります。伝説では聖杯は「聖杯の騎士」と呼ばれる者たちが守っています。ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハはTempleisenと記述しています。この名前はテンプル騎士団と似ているし、多くの一致点があるので、文学者達の間では一般に関係があると考えられます。テンプル騎士団は公式には1128年に創設、1312年にフランス王フェリペ端麗王によって解散させられました。ここで疑問があがります。テンプル騎士団は聖杯を所有していたのか?そして「聖杯の守護者」であったのか。
主な人物はシャンパーニュ伯ユーグとユーグ・ド・パイヤンです。1104年この男達は二度目の聖地へ旅立ちましたが、数ヵ月後にはフランスに戻ってきました。そこで古ヘブライ文書の研究を長年行っていたシトー会修道士との関係を築きました。ユダヤのラビが翻訳を手伝うため連れて来られましたが、その当時まったく異常なことです。その後1114年シャンパーニュ伯ユーグはもう一度短期でパレスチナを訪れました。彼は戻るとすぐ、騎士団にバール・シュール・オーブの森を与え、クレヴォーの修道院設立を主導しました。この計画はクレヴォーのベルナール(後のサン・ベルナール)の手によって行われ、翻訳の仕事も彼のもとで続けられました。
1119年、ユーグ・ド・パイヤンは7人の信頼できる仲間と共にパレスチナへ再び旅立ちました。後にシャンパーニュ伯ユーグもグループに加わりました。彼らはソロモン寺院の貧しき騎士を自称し、ヒラム・アビフによって建てられた神殿の遺跡の1/4の権利をもらった。
8年間の滞在中、彼らは一度も戦闘に参加することはなかったですが、宮殿地区で発掘を行い、パレスチナ中を歩き回りました。そして明らかに決定的な何かが起こりました。テンプル騎士団のうち2人がフランスに戻り、クレヴォーのベルナールに報告し、次に教皇とフランス国王、エルサレムにいる他の騎士団に手紙を送り、彼らはすぐに聖地から戻りました。フランス到着するとすぐテンプル騎士団は公式に設立され、そのときにベルナールは騎士団の規則の序文を書きました。「神の援助により、偉大なる仕事は達成された。」
実際1105年から1128年の間に何が起こったのでしょうか?私たちが一連の証拠全体を再検討するとき、たった一つだけ可能な説明があります。テンプル騎士団はパレスチナに戦いに行ったのではなく、何か特に重要なもの、何か異常なもの、神聖な何かで、イスラエルにあって、何年間もの探索の結果見つけ出されたものを探すため。それは聖杯?
1312年、テンプル騎士団の解散のためにとられた訴訟手続における告発のリスト:
彼らは全ての教区で「ヘッド」と呼ばれる3つの顔(まれに一つの顔)を持つ偶像を所有していたこと。
集会のとき、特に総会において、彼らはこの像を神として崇拝し、このヘッドが彼らの救世主であると述べたこと。
その像は眼窩に赤い目を持ち、その輝きは天国の輝きです。彼らはそれを最高神と信じていました。顔半分はあごひげで覆われ、もう半分は尻でした。それは不快なものでした。
騎士団のメンバーに対して行われた尋問で、上級メンバーはその存在を否定しなかったものの、たった一つの像も見つかりませんでした。実際彼らのほとんどが像の「あごひげ」を強調しました。多くが像(その名前はバフォメットである)を「はげ頭」と述べ、あるものはそれが銀のように光ったと述べました。
テンプル騎士団が聖杯をエルサレムで見つけ、フランスに持ち帰り、聖遺物として崇拝したことは疑いがありません。テンプル騎士団200年の歴史の中で、指導者の地位にあるメンバーだけがそれを見ることができた。彼らは真の「聖杯の守護者」でした。他の下級のメンバーには像のうわさが広まっただけであった。
ベルナールの調査の結果として、テンプル騎士団は聖杯を探す目的で結成され、派遣されました。彼らはそれを、または部分的にでも発見し、ヨーロッパに持ち帰ったかも知れません。テンプル騎士団はそれをバフォメットの像として崇拝しました。1307年のテンプル騎士団の解散時、それは再び姿を消しました。それがテンプル騎士団によって隠された可能性のある場所は多くあります。たとえばベズの丘のレンヌ・ル・シャトー、他のヨーロッパの秘密の場所、カナダのオーク島。ヒムラーのSSや、テンプル騎士団を真似して組織された多くのグループがそれを発見しようとしました。
テンプル 騎士団−聖杯伝説
第三章
聖杯の物語
さまざまな容器
12世紀、13世紀初頭には、アーサー王と騎士についてのロマンチックな物語のレパートリーで王や、伯爵、小貴族を楽しませたプロの語り手階級が存在しました。アーサー王の名声はアンティオキアやパレスチナの十字軍の間に広まっていたとの証言があります。
聖杯物語の異なる版における物語構造や出来事・人物の一貫性の欠如は、自然な結果です。つまり物語りの起源は分離した、大小の独立した部分からなり、それらは礼儀正しく座って聞いていられる1、2時間を考えた工夫である。
内部・外部の証拠をあわせると、12,13世紀初期の物語の部分は主に、アングロサクソンの侵入によって5,6世紀にブリトンからアルモリカ、現在のブルターニュ地方に移住してきたブリトン人の子孫のものです。大陸の隣人との交流の中で、彼らはウェールズ語に似た彼らの言語とフランス語のバイリンガルを形成し、今日でも東ブルターニュにいる子孫はバイリンガルのままです。ノルマン人の詩人ウェースは1155年に多くの円卓の物語がブリトン人によって語られていたと言っています。
土地を失ってから600年経ったあとも、ブリトン人はアーサー王は生きていて、救世主として戻り、先祖の土地を取り返してくれるとの希望をもっていました。ブルターニュではこの信念を疑うものは、投石の危険にあいました。
- Roger Sherman Loomis, The Grail, From Celtic Myth to Christian Symbol
ケルトの神話を通して、治癒と食物を与える魔力を持った聖杯と大釜の例がある。その大釜はアイルランドの神族トゥアハ・デ・ダンアーンによってアイルランドに与えられた7つの贈り物のうちの一つです。最も明らかな容器の例は、ブランの大釜です。この大釜に投げ込まれた死んだ戦士は復活します。それは語り手によれば、それは食物を永遠に供給しました。クレチアンによると、聖杯王はボロン(ウェールズ語ではブラン)と呼ばれました。
しかしケルト人は、この生命力を持つ聖杯の唯一の使用者からは程遠い。そのような容器はギリシャでも見られ、例えばゼウスを育てた食物が溢れ出す豊穣の角。インドではヨーニ、エジプト、ロシア、他のどんな文化においてもみられる。ヘルメス主義者や錬金術師たちはカップは水の要素の象徴であり、特に純粋な女性の受容原理。つまりカップの形と機能は膣に似ています。それは男性の種の容器です。女性は新しい生命の源です。それでカップ、器、杯は豊穣の、新しい生命の象徴となりました。
-J.J. Collins, "Sangraal, The Mystery of the Holy Grail"
クレチアン・ド・トロワ
聖杯そのものはクレチアン・ド・トロワの長編叙述詩『Le Conte du Graal』に初めて登場しました。書かれたのは12世紀の終わりの25年です。(1182年に未完のまま残されました。)
-Baigent & Leigh, The Temple and the Lodge
我々は、当時まだ有名でなかったクレチアンが初期の作品 『Erec』中で姓をde Troiesとしていたことから、フランスのパリの東にあるトロワの町で生まれたと考えます。同時に彼が使用していた方言も西シャンパーニュ地方のものであることからもこれを想定することができます。我々は彼が幼少期どこで過ごしたかは分かりませんが、彼の高い教育からも、彼はよく育てられたに違いありません。彼はシャンパーニュ伯ヘンリー1世の宮廷に仕えるようになったとき、すでに詩人でした。そこで1164年から1173年のあいだにマリー伯爵夫人に『Lancelot』を書きました。後に彼は故郷を去り、フランダースのフィリップ伯爵に仕えました。そこでパルチヴァールを書きましたが、1174年よりも後のことでしょう。彼は1190年に『Conte du Graal』を未完のまま死にました。
-Johannes and Peter Fiebag, The Discovery of the Grail
『Le Conte du Graal』はアーサー王の物語で、パルチヴァールの若い騎士の物語に関連しています。
パルチヴァールの物語の初めは、父親の戦闘での負傷と、パルチヴァールが女性に森の中で育てられ、槍の腕前を持ち、王の宮廷への旅立ちから始まります。彼の母親に会うために帰郷の旅の途中で、パルチヴァールは素晴らしい城に偶然出会います。そこで彼は使用人によって迎え入れられ、ハンサムであるが、病気で立ち上がることが困難な貴族に歓迎されます。彼はパルチヴァールに豪華に飾られた剣を与え、彼を英雄として扱います。
-Roger Sherman Loomis, The Grail, From Celtic Myth to Christian Symbol
不思議には思いましたが、彼の主君であり教師であるGornemantが彼におしゃべりを禁止したので、若者は槍についての質問することを抑えます。このとき、燭台を持った二人の従者のあとを一人の美しい女の子が手に聖杯をもってやってきます。
「グラール」という言葉は古フランス語の「gradale(ラテン語はgradalis)」から来ていて、その意味は「大きく、中空の器」でそこからはおいしい食物が出てくる。クレチアンの時代、gradaleはしばしばグラールと発音された。
-Graham Hancock, The Sign and the Seal
Floidmontの修道院長Helinandの人生は詩人とも重 なり、1215年に書いたもので、グラールという単語を「広く少し深い器で、そこからはご馳走が習慣的に金持ちたちに提供される」と定義しました。
-Roger Sherman Loomis, The Grail, From Celtic Myth to Christian Symbol
フランス語で「gradalis」または「gradale」は広く浅いボールを意味し、その中にはソースと一緒に金持ちに対して、徐々に一切れずつ様々なアレンジで贅沢な食物が提供される。一般的には「graalz」としても知られ、なぜならそれを食べる人たちに、または魅力的な見た目で、それは金や銀またはその中身自体であり、言い換えればたくさんのおいしい食べ物のアレンジメントが楽しい(grata)だから。
クレチアンの詩の初めの継承者は、グラールの上に百匹のイノシシの頭が乗っていた事を記述している。もしグラールが杯ならば、これはありえないことだ。
聖杯はただ一片のウェハースが入る程度の運び手が手に持つ杯ではなく、鮭が十分載る位のもう少し深い皿を想像すべきでしょう。
-Roger Sherman Loomis, The Grail, From Celtic Myth to Christian Symbol
パルチヴァールが質問したはずの疑問の一つは異教のモチーフであり、「誰がグラールに仕えますか?」と同じ質問はアイルランドの『The Phantom's Frenzy』の物語の中に知られ、16世紀の写本しか存在しないが、11世紀には成立していた。
-Richard Cavendish, "Grail", Man, Myth & Magic, An Illustrated Encyclopedia of the Supernatural, Vol. 9
クレチアンの話に戻ると、パルチヴァールの前に、鹿の尻肉のペッパーステーキのご馳走が用意されて始まった。彼の前をグラールが通り過ぎて、それぞれのコースが給仕されていくのを見ているとき、誰が用意しているのか知りたかったけども、知ることができなかった。おいしい食物やワインがテーブルに豪勢に運ばれてきました。食べ物は素晴らしく、王や伯爵、皇帝が日常としている全てのコースがその夜、若い貴族に提供されました。
パルチヴァールは彼の教師への誓いを守り、食事中グラールについて尋ねることを止めました。その後彼は寝室へ案内され、夜明けまでぐっすり眠ります。パルチヴァールは目覚めると、彼と馬以外城は蛻けの殻であることを知ります。彼は森の抜け、頭のない騎士を握り締め、嘆き悲しむ少女に出会います。パルチヴァールは彼女から、その城のミステリアスな主人であるFisher Kingの身元について教えられます。
-Roger Sherman Loomis, The Grail, From Celtic Myth to Christian Symbol
彼が王であることは私が保証します。しかし彼は戦で傷つき、両腿に槍を貫かれ、自ら歩くことはできなくなってしまった。
-Chretien de Troyes, Le Conte du Graal
私はアイルランドでブランと一緒にいたときでした。私は腿が傷つけられたのを見ました。
-Old poem in the Book of Taliesin
さらにパルチヴァールに質問して、彼女は出血をする槍と、聖杯について尋ねなかったことに対して彼を叱りました。
ああ、不幸なパルチヴァール。あなたがこれらのことを尋ねなかったことはなんて不幸なことなのでしょう。なぜならあなたは王の不自由な体を直し、手足を自由に使えるようにできたでしょう。そして彼は国を支配し、大きな善が訪れたことでしょう。しかし今あなたはあなた自身と他の人々に不幸が訪れることを知るのです。
クレチアンの話を続けて、Loathly Damselはパルチヴァールを、槍や聖杯について尋ねず沈黙し、Fisher王を治さなかったことを非難します。彼女は言います。結果として、続く不幸はパルチヴァールに責任があります。
あなたはもし王が領土を持たず、怪我が癒されないならどうなるかを知らないでしょう。婦人たちは夫を失い、国は荒廃し、少女、孤児、多くの騎士たちが死ぬでしょう。これら全ての災難はあなたのせいで起こるでしょう。
しかしパルチヴァールは語りました。 さもなければ彼が誰が聖杯を提供するのか知るまで、そして出血する槍を見つけるまで、そしてなぜそれが出血するのか真の理由を知るときまで、今後同じ宿に二人の騎士と泊まらないこと、または彼が聞いた奇妙な道を避けないこと、または他人より優れていると自称する騎士との交戦を避けないことを誓った。彼は苦難によって探求をあきらめることはないでしょう。そしてたとえそこが危険な土地であったとしても、50の誓いを1つずつどんな冒険も、彼が聞いた不思議な話を探求するときも失敗することはないでしょう。
時が過ぎるにつれ、パルチヴァールは神を忘れていた記憶を失っていました。しかし騎士道の探求は続き、アーサー王のもとに60名の著名な騎士の捕虜を届けました。パルチヴァールはキリストの恩寵を知り、そして罪を告白するために隠者を探し出します。彼を見つけたとき、隠者はFisher王はパルチヴァールのおじであることを教えます。隠者は城で起こった奇跡について、パルチヴァールによる失敗が原因であると説明します。
槍により出血し、それは止まらないが、理由を聞かなかったとき、罪はあなたの舌を切断しました。まったく愚かなことにあなたは誰に聖杯を運んだかを知らなかった。それは私の兄であり、彼の姉であり、私のはあなたの母親であった。そして信じて欲しいが、Fisherは王の息子であり、したがって聖杯を提供されたのだ。しかし父はマスやウナギや鮭を出したことはないと思う。聖人は命をミサのウェハースだけで維持している。聖杯はとても神聖であり、彼自身も精神的であるので、聖杯から出されるウェハースだけで十分である。彼はしたがって、あなたが聖杯を見た部屋から15年も出ていない。
聖杯の原型に近い、リダーチの皿を含むリストがあり、またそれを望むとき飲み物や食べ物が手に入るブランの角という飲料用の器も含まれます。この奇跡を起こす角の起源を聖杯物語のなかに探すとがっかりします。その代わりキリストの聖体、ミサのウェハースに皿と密接な働きを発見し驚きます。古フランス語では「角」と「体」の主格は「il cors」と同じです。『Conte del Graal』の最初の継承では、corsの使用例として、両方の意味があり、写本によれば一つの例は魔法の角に言及し、「祝福された」という意味のBeneizまたはBeneoizの名を生んだ。
現在フランスでは神聖な飲料の角は知られてはいないが、クレチアンの時代、彼らは聖なる食物としてキリストの聖体が知られていた。Caesarius of Heisterbackはキリストの聖体によって命を助けられた女性の話を記述する。1180年代、年代記編者Guillaume de Nangisは他の食物を受け付けなくなった、麻痺した牛飼い女の話をし、同様聖体によって命を助けられた。もしクレチアンがトロワの近くに住んでいたら、彼はこのうわさを容易に聞いたことだろう。『Quest del Saint Graal』の中で、我々は400歳まで生きたabbey king Mordrainの中にパルチヴァールを発見します。その生涯で彼は司教がミサまで昇華させた見たこともない食物を食べ、これはキリストの聖体(cors)である。
-Roger Sherman Loomis, The Grail, From Celtic Myth to Christian Symbol
パルチバールは隠者のところに2日滞在し、二人は一緒にパルチヴァールが信仰を再び見つけることができるよう祈る。これがクレチアンの未完の詩のなかで最後にパルチヴァールと聖杯が語られるところである。ウォルフラムによるとパルチヴァールの孫は白鳥の騎士ロヘラングリンと特定され、この主題はワグナーのオペラ Lohengrinである。伝説によるとロヘラングリンは第一回十字軍の指導者ゴドフロワ・ド・ブイヨンの祖父である。
クレチアンの源
クレチアンは貴族の中の貴族であるシャンパーニュ伯爵およびフランダース伯爵の保護の下にあった。これらの貴族はお互いに密接に関連しており、カタリ派の異端思想で結びついていました。両家ともテンプル騎士団とも密接に関わっていました。
-Baigent & Leigh, The Temple and the Lodge
クレチアンは他の聖杯詩人と同じく、パトロンであるシャンパーニュ伯爵と一緒に作品を書きました。シャンパーニュ伯の家臣であるテンプル騎士団の創設者[ユーグ・ド・パイヤン]だけでなく、伯爵自らも1124年にはテンプル騎士団となった。フランダース伯爵はクレチアンの物語の情報提供者であり、シャンパーニュ伯爵とも密接なつながりがあり、そしてヴォルフラムによるとアンジュー家は秘密の聖杯を持ち、彼らもまたテンプル騎士団であった。
クレチアン自身の説明によると、彼が初めて聖杯物語を教えられたのは、フランダース伯爵からであり、彼がクレチアンに詩版を書くように頼んだ。彼に提示された物語はアプレイウスの『Metamorphoses』の一部分「イシスの書」から取られた可能性が高い。この「イシスの書」はクレチアンの聖杯物語と多くの類似関係があり、そこには衰弱した王、老いた王を若返らせる槍と杯が含まれる。
-J.J. Collins, “Sangraal, The Mystery of the Holy Grail”
カタリ派は先行するマニ教と同じく、啓蒙された救済者のような意味で「未亡人の息子」と呼ばれる「完全な人」の存在を信じていた。その用語は聖杯物語の中でパルチバールが用いています。
-J.J. Collins, “Sangraal, The Mystery of the Holy Grail”
聖餅に言及以外に、クレチアンはキリスト教とのつながりを明確にはしていない。(グラールが「聖なる物」であるという理解すらない。それは旧約、新約聖書で容易に想像がつくのだが。)ヴォルフラムのようなフランスの詩人はキリストの血や、その容器が聖遺物であるということにまったく言及していません。
-Graham Hancock, The Sign and the Seal
クレチアンの死後、他の著者が聖杯伝説に目を向け、異教の物語はだんだんキリスト教化されていきました。クレチアンの『Conte』はそれぞれ別の4つの続編が書かれました。初めの続編は(おそらく1200年以前だが)ゴーウィンは「豊饒の杯」が自在に動き回り、ご馳走を振舞い、ワインに満たされているカップとした。城の主はその槍が、ローマ兵が十字架の上のキリストを貫いた聖槍(直ちにすぐに血と水がでてきた。ヨハネ 19:34)であると説明した。ゴーウィンはまた彼が以前城で見た折れた剣は、Logres王国(イギリス)全土を破壊したものであると語ります。
-Richard Cavendish, “Grail”, Man, Myth & Magic, An Illustrated Encyclopedia of the Supernatural, Vol. 9
テンプル 騎士団−聖杯伝説
第四章
テンプル騎士団の謎
バフォメット
第四章はここ
第五章はここ
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