2008/12/5
「失われた時を求めて」
ETHIOPIANS.......COME TO JERUSALEM FOR TO WORSHIP
Now an angel of the Lord said to Philip,"Go south to the road-the desert road-that goes down from Jerusalem to Gaza.So he started out,and on his way he met an Ethiopian eunuch,an important official in charge of all the teasury of Candace,Queen of the Ethiopians......
さて,主の天使はフィリポに,「ここをたって南に向かい,エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出かけて行った。折から,エチオピアの女王カンダケの高官で,女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が,エルサレムに礼拝に来て,帰る途中であった。<使徒言行録8:26〜28>
Book of Ethiopian Enuch(エチピア語エノク書)は偽典とされたが,あくまでEnuch をEunuch(宦官=去勢された高官)として位置づけている。第一エノク書,第二エノク書はキリスト教の正典であったが偽典とされた。それによってすべてダヴィデ崇拝に取って代わってしまった。ダヴィデの曽祖父ポアズは異邦人のモアブの女ルツからダヴィデの祖父オべテをもうけた。
マカベア書(聖書外典でアポクリファに収められている)のなかに伝えられている,あのおとなしい殉教者たち〜老教法学者エレアザルや七人の兄弟とその母〜がパリサイ派の精神的先祖であるが,このパリサイ・ファリサイ=ファリセー(Pharisees)というのは"分離する者”という意味であって,ラテン語系の表現に直せば”Seccessionists"とでも訳すべきか,彼らがみずから名のった名称である。このプロレタリアの"武装した力の人”がおさめた直接の物質的成功が,それは,後世の人びとの目を眩惑した。イエスにもっとも近い弟子たちでさえ,かれらの師が自分の運命を預言するのを聞いてあいそをつかし,その預言が事実となるに及んですっかり打ちのめされてしまったほどである。(管理人注:今日残っているパリサイ・ファリサイ派の中でも敬虔主義者のエノク書,ソロモン詩篇,モーセ被昇天はいずれも旧約外典となったが特にエノク書が外典になったため聖書はダヴィデ崇拝となってしまったのは残念なことです)
I,Jesus,have sent my angel to give you this testimony fot the churches.I am the Root and the OFFSPRING of DAVID,and the bright Morning Star
「わたし,イエスは使いを遣わし,諸協会のために以上のことをあなたがたに証した。わたしは,ダヴィデのひこばえ,その一族,輝く明けの明星である」ダヴィデはウリヤの妻によって,ソロモンをもうけた。つまり聖書はユダヤ教なのである。明けの明星とは「LUCIFER」のことですがそれは神学者によって「悪魔崇拝」の意味へと変わってゆく。
シュメール最古の町エリドウの祭司王アダバ物語は一介の漁夫が祭司王になったいきさつを一つの「訓話風」につくり伝えている。その「アダバ物語」と「エンキとニンフルザグの物語」をヒントに両者を併せてアダムとエヴァの物語を作ったとされる。言語学のための言語学など最も嫌悪するものであるが運良くHamlet's Mill(ハムレットの水車小屋)を発見してキリスト教がVernal Equinox Precession(春分点歳差)によるものであることが分かったように下記のLionel Bender氏の著作を読むことによって 言語学的にセム語・アラム語の起源が何処にあるのかを突き止めることができた。早稲田大学のキリスト教講座は学生で超満員だそうです。それだけキリスト教を知りたい人が多いのですがこれを理解しないと闇の世界が分からない。一応旧約のゼファ二ヤ書は読んでおきましょう。ユダの王アモンの子ヨシャの時代に,クシの子ゼファ二ヤに臨んだ主の言葉。
拙稿:クシの子その1
旧約聖書・年表参照
ハムレットの水車小屋とは?
ハムレットの水車小屋・原文
米国の作家で,南イリノイ大學教授のLionel Bender氏はWadai-Darfur=Language in Ethiopiaの論文でSemitic Language(セム語=アラム語)のエチオピア起源説を発表した。ノアの子供セム(黄色人種)とハム(黒人人種)はその名が意図的につけられた感がある。シュメール人の建設した年にセム系アラム人が侵入し王朝を築き,シュメールの影響を引きずると言われているバビロンの「イシュタルの門」には蛇に関する聖獣が多く描かれている。
これは修復されたもので岩田明氏の「16菊家紋の謎」にオリジナルがある。大英博物館には隅に17菊家紋の偽物が置いてある。これは天皇家とシュメールとの関係を知られては困るからであろう。
アフロ・アジア語(セム・ハム語)の源流は北東アフリカであり,黄色い部分がその地域でベルベル語族,チャド語族,クシュ語族,オモ語族,セム語族とされる。
セム系部族社会の形成
上の研究論文は「セムの子孫はイスラエルの祖となるエベルを含む」とあり完全な誤解をしている。それは教師によく見られる文献のみがソースによるものです。
出エジプト記の時代のはるか以前にゴシェンの地にセム族は定住していた。セム族の神モレクや女神のアシマトレスがエチオピアの神であったことを知る人はいない。その後古代マヤに伝わったと考える。なぜならチェチェンイッチャ市に「生贄の聖泉」がある。この生贄は旧約聖書にも引き継がれている(神はアブラハムの忠誠を確かめるためイサクを神に捧げるように命じた。しかしアブラハムは黒人奴隷との間に出来たハガルを生贄に捧げた)。
↑神が殺せと命じるとき参照
エチオピア・アクムスにあるタボット(聖櫃)。日本のお神輿によく似ているそうだ。
エデンの門が開く時その1参照
エデンの門が開く時その2参照
ラケルの墓参照
エチオピアのティムカット祭り・日本の祭りとよくにている。下のほうにビデオが出てきます。
失われたアーク(聖櫃)
原文
すべてのイスラエルの教師であり、主のために聖別されたレビ人に、王はこう言った。
「イスラエルの王ダビデの子ソロモンが建てた神殿に、聖なる箱を納めよ。
あなたたちはもはやそれを担う必要がない。あなたたちの神、主とその民イスラエルに奉仕せよ。」
- 歴代誌下 35:3
1. アークとは?
アークとは約3000年前、シナイ山でモーゼが神から授けられた十戒を刻んだ2枚の石板をしまった箱。サイズは112×68×68cm。アカシヤで造られ、金箔で内側、外側を覆われている。
アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。棒はその環に通したまま抜かずに置く。この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。次に、贖いの座を純金で作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマとする。打ち出し作りで一対のケルビムを作り、贖いの座の両端、すなわち、一つを一方の端に、もう一つを他の端に付けなさい。一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う。この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める。わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る。
- 出エジプト記 25:10-22
紀元前970年〜のソロモン王の統治下、エルサレムに神殿を造り、至聖所と呼ばれる内陣にアークを納めた。旧約聖書によると1年に1回、祭司たちが外にアークを運び出した。しかし紀元前900年以降突然消えた。
ソロモンは、そこでイスラエルの長老、すべての部族長、イスラエル人諸家系の首長をエルサレムの自分のもとに召集した。「ダビデの町」シオンから主の契約の箱を担ぎ上るためであった。エタニムの月、すなわち第七の月の祭りに、すべてのイスラエル人がソロモン王のもとに集まった。イスラエルの全長老が到着すると、祭司たちはその箱を担ぎ、主の箱のみならず臨在の幕屋も、幕屋にあった聖なる祭具もすべて担ぎ上った。祭司たちはレビ人たちと共にこれらのものを担ぎ上った。ソロモン王は、彼のもとに集まったイスラエルの全共同体と共に、その箱の前でいけにえとして羊や牛をささげた。その数はあまりにも多く、調べることも数えることもできなかった。祭司たちは主の契約の箱を定められた場所、至聖所と言われる神殿の内陣に運び入れ、ケルビムの翼の下に安置した。ケルビムは箱のある場所の上に翼を広げ、その箱と担ぎ棒の上を覆うかたちになった。その棒は長かったので、先端が内陣の前の聖所からは見えたが、外からは見えなかった。それは今日もなおそこに置かれている。箱の中には石の板二枚のほか何もなかった。この石の板は、主がエジプトの地から出たイスラエル人と契約を結ばれたとき、ホレブでモーセがそこに納めたものである。
- 列王記上歴 8:1-9
旧約聖書の中で、最後のアークに関する言及はヒゼキヤ王の統治下であった。バビロン補囚後、ゼルバベルによって寺院は再建され、動物の生け贄が再び行われるようになった。しかし聖書は、アークの運命に関し沈黙している。
ヒゼキヤはこの手紙を使者の手から受け取って読むと、主の神殿に上って行った。ヒゼキヤはそれを主の前に広げ、主の前で祈った。 「ケルビム(訳注:アーク)の上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です。」
- イザヤ書 37:14-16
これ以降、契約の箱(アーク)は旧約聖書中に言及されることはなくなり、消えてしまった。
2. どこに消えた?
2.1 エジプト王シシャクの略奪説
紀元前10世紀のエジプトの王シシャクが持って帰って、現在はタニスにある。しかし現在までのところ、エジプトでは発見されていない。また、シシャクの軍はエルサレムに侵入しなかったという説がある。
エジプトの王シシャクはエルサレムに攻め上り、主の神殿と王宮の宝物を奪い取った。彼はすべてを奪い、ソロモンが作った金の盾も奪い取った。
- 歴代誌下 12:9
BC926、シェションク1世(シシャク)がエルサレムを攻略したときに持ち去られている。
カルナックに残されているシェションクの碑文にはその遠征におけるルートがレリーフとして残されているが、それは二手に分かれている。
一方はエルサレムから北方への進軍。
もう一方は実はガザから南下しているのであるが、その途中にエルサレムを攻略した軍隊よりアークが届けられている。
南下したシェションクの軍隊は、ソロモンの隊商ルートを破壊しながら、アカバに向かい、エチオンゲベルでアーク輸送のためにフェニキヤの船を強奪して、
航海を経てエジプトに帰還している。シェションク自身はナイルデルタ経由で帰国しており、この船の輸送はまさにその陰で秘密裏に進められていた。
その後、ブバスティスに移送され、王宮に置かれていたが、やがて23王朝に転覆されて、アークは略奪、溶解、別物に。
しかし、一説にはリビア人のシェションクの末裔たちがエチオピアまで運んだとも。
(2ch)
ファラオはエルサレムを包囲はしたが、実際に入城することはなかった。その代わり、彼はソロモン寺院の財宝を差し出させた。これらの財宝はヤハウェに民や王が捧げた物からなっていた。そのような物品は通常、貴重な銀や金製品であり、至聖所ではなく、寺院の外側の構内にある特別な宝庫であり、それは旧約聖書に常に記されている、王の家の宝庫のことであろう。
- Graham Hancock, The Sign and the Seal
これらの財宝はしばしば外国からの侵略者や王自身が資金を必要としたときのために使われた。財宝庫は常に、満杯と空っぽの状態を揺れ動いていた。したがって、シシャクの侵略は至聖所とは何の関係もなく、アークの消滅と結びつけることは完全な間違いである。
- Menahem Haran, Temples and Temple Service in Ancient Israel (1978)
2.2 祭司たちによる隠匿
・緊急事態(侵略など)が起こったときに、祭司たちがアークをどこか(エルサレムの地下など)に隠した。
預言者[エレミア]は彼に与えられた託宣(注:ソロモン寺院の破壊が差し迫っているという内容)に従って、幕屋と契約の箱を携えて山へ出かけたという。モーセが神から約束の地を示された所である。そこに到着したエレミヤは、人の住むことのできる洞穴を見つけ、そこに幕屋と契約の箱と香壇を運び込み、入り口をふさいだ。一行の中の何人かが、道標を作ろうとして戻ってみたが、もはや洞穴を見つけることはできなかった。このことを知ったエレミヤは、彼らを叱責してこう言った。『神が民の集会を召集し、憐れみを下されるときまで、その場所は知られずにいるだろう。そのときになれば、主はそこに運び入れたものを再び示してくださり、主の栄光が雲とともに現れるだろう。モーセに現れたように、また、ソロモンが神殿の聖別式を厳かに行ったとき現れたように。
- マカバイ記二 2:4-8(紀元前100年-紀元前70年の間に書かれた)
それはモーセが彼の死の前に、約束の地と考えていた山の洞窟の中に隠され、入り口は閉じられた。後にエレミアの仲間がこの洞窟を訪ねようとしたが、洞窟の場所は分からなくなっていた。
- George Sassoon and Rodney Dale, The Manna Machine
・マナセ王の時代、王が至聖所内に異教の像を祀ったため、神への冒涜と恐れた祭司たちがアークを運び出した。
イマニュエル・ヴェリコフスキーによると、エルサレムのテンプルには真鍮性の蛇があって、それはヒゼキア王が打ち壊した。蛇はフェニキア、カルタゴの神であった。
ヒゼキア王(紀元前725年頃):
聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。イスラエルの人々は、このころまでこれをネフシュタンと呼んで、これに香をたいていたからである。
- 列王記下 18:4
マナセ王は、父ヒゼキヤ王の壊した祭壇をまた作り、アシェラ像を作り、主の神殿の中に異教の神の祭壇を作った。
マナセは十二歳で王となり、五十五年間エルサレムで王位にあった。彼は主がイスラエル人の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣い、主の目に悪とされることを行った。彼は父ヒゼキヤが取り壊した聖なる高台を再建し、バアルの祭壇を築き、アシェラ像を造った。更に彼は天の万象の前にひれ伏し、これに仕えた。主はかつて、「エルサレムにわたしの名をとこしえにとどめる」と言われたが、その主の神殿の中に彼は異教の祭壇を築いた。
- 歴代誌下 33:1-4
2.3 バビロン補囚
最も可能性の高いのは、紀元前586年、バビロン捕囚の時。新バビロニアのネブカド・ネザルがエルサレムに侵入。
このとき祭司たちが隠したり、どこかに運んでいない限りは、バビロニア人が持ち帰った可能性が高い。しかしバビロンに持ち帰った財宝リストにはアークは載っていない。
そのころ、バビロンの王ネブカドネツァルの部将たちがエルサレムに攻め上って来て、この都を包囲した。部将たちが都を包囲しているところに、バビロンの王ネブカドネツァルも来た。ユダの王ヨヤキンは母、家臣、高官、宦官らと共にバビロン王の前に出て行き、バビロンの王はその治世第八年に彼を捕らえた。主が告げられたとおり、バビロンの王は主の神殿の宝物と王宮の宝物をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが主の聖所のために造った金の器をことごとく切り刻んだ。彼はエルサレムのすべての人々、すなわちすべての高官とすべての勇士一万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として連れ去り、残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった。
管理人注:He walked in the PALACE of the KINGDOM OF BABILON.空中庭園は世界七大不思議の一つです。「このことはすべて,ネブカドネツァル王の上に起こった。12ヶ月が過ぎた頃のことである。王はバビロンの王宮の屋上を散歩しながら,こう言った。<なんとバビロンは偉大ではないか。これこそこのわたしが都として建て,わたしの権力の偉大さ,わたしの威光の尊さを示すものだ>まだ言い終わらないうちに,天から声が響いた。<ネブカドネツァル王よ,お前に告げる。王国はお前を離れた。お前は人間の社会から追放されて,野の獣と共に住み,牛のように草を食らい七つの時を過ごすのだ
- 列王記下 24:10-14
ネブカドネザルが奪った戦利品には以下のものが含まれる。
ソロモンは主の神殿に置くためのあらゆる祭具を作った――金の祭壇、供えのパンを載せる金の聖卓、内陣の前に左右に五つずつ置かれる純金の燭台、金の花、ともし火皿、火ばし、純金の皿、芯切り鋏、鉢、柄杓、火皿、また神殿の奥の間すなわち至聖所の扉と外陣の扉のための金のちょうつがい。
- 列王記上 7:48-50
当時のバビロニア人たちにとって、征服地の人々の一番の偶像または崇拝物を奪い、彼らの神であるマルドゥックの像の置かれたバビロニアの神殿に持ち帰ることは当然のことであった。そしてアークは当然その第一の候補となったであろう。しかしその黄金を剥ぐことも、触れることもしなかった。それについても、ケルビム(天使)についても全く触れられていない。
論理的に結論を出せば、アークや金で覆われたケルビム像は、紀元前598年、最初のバビロニア人による侵略が行われた時には、至聖所にはすでに存在していなかった。そして至聖所内の壁、床、天井に張られていた黄金は、それより以前にすでに剥がされていた。
- Graham Hancock, The Sign and the Seal
学者たちの意見によると、エルサレムは586年または587年の夏に陥落した。この時、ネブカドネザルは慈悲の心を持っていなかった。街は徹底的に焼き尽くされた。壁は崩壊し、塔の土台の跡だけが残された。そして寺院と、契約の箱は奪われ、完全に破壊された。
- Magnus Magnusson, BC - The Archaeology of the Bible Lands
管理人注:Under Nebuchadnezzar(ネブカドネツァル王)U,notable amongst royal builder,Babylon reached the zenith(頂点) of its glory as Centre of a Universal Empire.ユーフラテス川を挟んで右手奥に見えるのは空中庭園(Hanging Garden)。
第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァルの第十九年のこと、バビロンの王の家臣、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、主の神殿、王宮、エルサレムの家屋をすべて焼き払った。大いなる家屋もすべて、火を放って焼き払った。また親衛隊の長と共に来たカルデア人は、軍をあげてエルサレムの周囲の城壁を取り壊した。民のうち都に残っていたほかの者、バビロンの王に投降した者、その他の民衆は、親衛隊の長ネブザルアダンによって捕囚とされ、連れ去られた。この地の貧しい民の一部は、親衛隊の長によってぶどう畑と耕地にそのまま残された。 カルデア人は主の神殿の青銅の柱、台車、主の神殿にあった青銅の「海」を砕いて、その青銅をバビロンへ運び去り、壺、十能、芯切り鋏、柄杓など、祭儀用の青銅の器をことごとく奪い取った。また親衛隊の長は、火皿、鉢など、金製品も銀製品もすべて奪い取った。ソロモンが主の神殿のために作らせた二本の柱、一つの「海」、台車についていえば、これらすべてのものの青銅の重量は量りきれなかった。
- 列王記下 25:8-16
2.4 実はまだエルサレムにある
数々の考古学的な発見をしてきたロン・ワイアットがエルサレムで発見しているよ。
他の発見は発表されているが、政治がらみでアークの発見のみ、発表されていない。
(2ch)
2.5 中世、テンプル騎士団が発見
テンプル騎士団は神殿の丘の下に洞窟を掘り何かを発掘していた。騎士団はアークを探していた。
その後ヨーロッパに戻ったテンプル騎士団は、王をも凌ぐ富と権力を手に入れた。
2.6 グラハム・ハンコックのエチオピア説 1989年、グラハムハンコックの著書『神の刻印』で発表。それによると1000年以上前からエチオピアのマリアシオン聖堂に納められている。
列王記によると、シバの女王が、ソロモン統治下のエルサレムを訪問。そのとき、女王はソロモンに誘惑された。
ソロモン王は、シェバの女王に対し、豊かに富んだ王にふさわしい贈り物をしたほかに、女王が願うものは何でも望みのままに与えた。こうして女王とその一行は故国に向かって帰って行った。
- 列王記上 10:13
生まれたメネリクは数年後エルサレムを訪問するが、エチオピアに戻るときにアークを持ち帰った。
しかしアクスムの街が出来たのは5世紀である。 ほとんどの学者たちは、ハンコックの『The Sign and the Seal』を酷評している。Ephraim Isaacは「彼の言語的知識の欠如、専門的知識の浅い理解が彼を早急で、しかし興味深い結論に導いている。皮肉にも彼の学者として必要なものの欠落が、ハンコックに独創的な説を作らせている」と言っている。
- John Watton
アークが消えた正確な時期は?ハンコックによる聖書のコンピュータ検索によると、紀元前701年には、アークがまだ存在するが、紀元前626年には消えてしまっている。 紀元前650年頃。
↓
エレファンティネ島。
↓
ナイル川をさかのぼり、タナ湖(タナキルコス島)へ
あなたたちがこの地で大いに増えるとき、その日には、と主は言われる。人々はもはや、主の契約の箱について語らず、心に浮かべることも、思い起こすこともない。求めることも、作ることももはやない。
- エレミヤ書 3:16(紀元前626年頃、エレミア自身による言葉)
この一節の後には慰めの言葉が続く。ここで預言者が約束したことは、そこに良い日が訪れたとき、人々はもはやアークを必要としないだろうということだ。つまりその消失は、悲しみの原因とはならないと言っている。もちろん、その時アークが寺院の中に存在したのなら、これらの言葉はどんな意味もなくなってしまう。
- Menahem Haran, Temples and Temple Service in Ancient Israel (1978)
2.7 近代の発掘
1909年-11年、イギリス人モンタギュー・パーカーのエルサレム発掘。オスマン帝国に賄賂を送り、岩のドームに入り、聖なる岩の下に穴を掘る許可をもらった。
この調査がばれ、エルサレムは大混乱になった。
2.8 米軍隠匿説
アメリカ陸軍対敵諜報情報部(CIC)が、ベルリン陥落後ソ連の支配が強まりつつある中、旧ナチス陸軍将校の供述からある物を郊外のヴェルンスドルフからアメリカ本国へ空輸したという話を聞いた事がある。
その話は確か戦後、イスラエルの情報機関「アマン」や「モサド」の文書の一部が情報公開法で明るみにでた奴だよね。
米国のCIAだかに引渡しの要求文書に書かれていた、その根拠になった情報が、ヴェルンスドルフ輸送作戦だったはず。
空輸だけでなく、マルセイユから海路ではなかったか?
現在、とあるアメリカ軍の倉庫に保管されている。
(2ch)
2.9 アークと御神輿の類似点
ちなみにアークは日本の神輿そっくり。当時も二本の棒を通して幕屋から幕屋へ移動していた。幕屋とは簡易的な神殿。日本での神社がそれにあたる。
(2ch)
※2chとあるのは、2ch掲示板よりの情報出典です。
※聖書の出典は日本聖書協会、新共同訳から引用しました。
ハンコックの『神の刻印』を読んで以来、ずっと行ってみたかったエチオピアに行ってきました。
アクスムのティムカット祭を見学し、真正なるアークを撮影してきました。
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