2008/12/5
「フランス我が旅・辻邦夫編」
人生の楽しみはいろいろあるけれども,私にとって,物を書くこと,読むこと,音楽,美術を味わうこと,という半ば職業的な領域に属する事柄をのぞくと,まず旅をすること,友達とお喋りをすること,おいしい食事をすること,美酒に酔うこと,などをその筆頭にあげなければならない。思うにまかせぬ浮世であるからこそ,私たちはこうした<楽しみ>をこよなく貴重なものと思う。そしてその一つでも与えられれば,ひたすら有難いこととして,身の幸運を何者かに感謝したくなるのである。
達人コレクシオン・巴里サンマルタン運河
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たしかに人生にはさまざまな不運もあるけれども,一生に一度は,なんともファンタスティックな,信じられぬような幸運が舞い込むことがある。仮に私が人生の<楽しみ>に挙げているようなことが,一挙にすべて与えられるとしたらーーー旅と友達と美味と美酒が一度にどっと与えられるとしたらーー私はやはりそれを,夢のような幸運と呼ばないわけにはゆかない。私とて,そんな幸運を心のどこかに考えたことがなかったわけではない。だんだん人生の眺望が限られ,自分の領域を外に拡げるよりも,内を充実させてゆくべきだと感じるようになる年頃に私もさしかかって,とくに,人生の<楽しみ>の意味が,以前より,重みをもって感じられるようになると,いっそう夢のようなことへの願いは強くなってゆく。
左はシテ島ですが昔,パリサイ人が住んでいたことから「パリ」と呼ばれるようになったそうです。
しかしそれが夢である以上,現実にそんなことが可能だと思っていたわけではない。それはあくまで夢としての<楽しみ>だった。ところが,そんな夢が,不意に実現したのである。はじめは誰もそれを本当だとは信じなかった。こんな世智辛い世の中にそんな夢のようなことが,と誰もが考えた。だが,旅と友達と美味と美酒が真実どっと私達(達人注:東大仏文科の作家・学者仲間)に与えられたのだった。1975年夏のことであった。
しかし物語りはいきなり1975年夏から始めるわけにはゆかない。時間をさらに20年ほどさかのぼらせて,1957年9月4日の横浜港の埠頭に立たなければならない。埠頭にはフランス郵船の東洋航路を走る<カンボージュ号>が白い船体を浮かべていた。沖から強い風が吹き,風のなかで鴎が高くなり低くなりして飛んでいた。そのとき私は日焼けした二宮敬とデッキの上に立っていた。彼はこの<カンボージュ号>でちょうど帰国したところだった。そして私はその<カンボージュ号>でフランスへ渡ろうとしているのだった。............私はこうして二宮とすれ違いにフランスに出かけ,33日の航海ののち,マルセイユに着き,そこから汽車でパリのリオン停車場に向かったのだった。
パリはすでに夜であった。異国の大都会の闇のなかで,ほの白く輝く街燈が,夢で見た風景のように続いていた。リオン停車場の暗い電燈の下を旅行者たちが黙々と鞄をさげて歩いていた。前世紀のような天井の高い,古風な駅の雰囲気に,私は,相変わらず夢のつづきをみているような気がした。現実のパリはもっとずっとモダンなものに思っていたのである。そこに大久保輝臣が出迎えてくれたのだった。私は思わず大久保と抱き合った。フランスではそんな抱擁など当たり前のことだけれども,私たちが抱擁するなどということは,あとにも先にも,例がなかった。.............私は大久保のおかげですっかり気が大きくなっていた。正直のところ,矢でも鉄砲でも持ってこいというような気分だった。
大久保輝臣(注:学習院大学の先生)といると辛気臭い気分などいっぺんに吹っ飛んでしまうのだった。「文学もいいさ。しかしまずパリを楽しめよ」大久保のこういう言葉は,なんとなく悲壮になりかける私の性分に,なにより薬になった。............カフェから見るパリの初秋の街頭風景は私の魂を幸福感で痺らせた。淡い霧が流れていた。マロニエの並木は黄葉し,並木の向こうの建物は銀鼠色の石の肌を黒っぽく湿らせながら,澄んだ,冷んやりする空気のなかに沈んでいた。.........勤めに急ぐ若い女たちが笑いながら道を渡ってゆく。ソルボンヌの礼拝堂の鐘が鳴っていた。鉄柵の向こうにリュクサンブール公園がひろがっていた。もう秋になろうというのに,花壇には赤いサルビアや,ピンクや白のぺチュ二アが咲き誇り,芝生は目覚めるような新鮮な緑だった。
荻須高徳画伯作「Au Bon Vivant」
芝生の向こうの石の彫刻の上に鳩がとまっていた。鳩たちはベンチの前に群れ飛んで,豆をやると老婆の肩にもとまっていた。淡い太陽が静かにこうした風景を照らしていた。あたりの淡い霧がばら色に変わっていた。私はこうしたパリに触れている自分を心から幸福であると思った。これ以上,何も願うことはないと感じたほどだった。.......10月15日になって辻佐保子がいよいよパリに着くという電報も入っていた。大久保は「な〜に,エールフランスの南回りは遅れがちなんだ。何も急ぐこと,ねえや」と言って,その日の晩も私たちは赤葡萄酒を飲みながら,愚かにも野球ゲームに興じていた。...........「C'est vrai,mademoiselle?」彼は電話をおくと,フランス人のように肩をすくめてみせた。「こいつあ,いけねえゃ。もう着いちまったらしい」
私は大久保の言葉に仰天した。妻はオルリー空港で,出迎えの私がいないので途方に暮れているに違いなかった。妻のしょげた顔が眼に浮かんだ。私はそのときほど,野球ゲームに打ち興じた自分の愚かさが呪わしく思われたことはない。妻に会って,「野球ゲームに夢中になっていたものだから」なんて言うわけにはゆかないではないか。あいにくタクシーが来なかった。...............それでも流しのタクシーが通りがかった。......オルリー空港の明るいロビーが近づいた。........たまたまドアから出てきたエールフランスの制服を着た若い女に大久保がフランクフルトからの飛行機は着いただろうかと訊ねた。相手は信じられない言葉を聞いた人のような表情をした。「その飛行機は一時間前に着きましたわ」私は水をぶっ掛けられたような気がした。
......「なんだ,なんだ。そんな顔するなよ。女房の一人や二人さらわれたって,文学の大勢には変わりはねえぞ」大久保が景気をつける。私もすぐその気になった。「大学も出てるんだし,フランス語も喋れるし」私が言った。「おめえ,大丈夫だよ。おめえの女房ならフランスの男のほうがまるめこまれちまうよ」それなら安心というものだ。私たちはすぐ待たしてあったタクシーに乗った。「最後の希望はパリのエア・ターミナルだ。(達人注:アンバリッド)あそこにいなければ,新聞広告でも出すんだな」大久保もいささか心配な表情をして言った。
しかし新聞広告はひどい,と私は思った。........パリの街に入り,広場に出たり,街燈のつづく大通りを走ったりした。どこをどう走っているのか,わからなかった。やがて暗い,大きな建物の前へ出た。「金は払っておく。早くいって女房を探してこい」大久保は手を振って叫ぶ。.......広場のはずれで,自動車に乗り込もうとしている人影を見つけた。私は反射的にそのほうへ走り出した。一人は女で,もう一人は男であった。私はそれが妻であるはずがないと,半ば諦めかけていた。妻は一人でパリに着いたはずである。よその男などど一緒にいるわけがないではないかーーそれが亭主としての単純な論理であった。
ところが,二,三歩,近づくと,それは,まぎれもないわが妻佐和子の姿であった。私が近づいたとき,妻はほっとした表情をしたものの,しょげた様子はなかった。「エールフランスの中澤さんです。あなたがいらっしゃらなかったから,ずっと中澤さんのお世話になりました」妻はそう言った。「どうもいろいろ.....」私が口の中でもぞもぞ言うと,「なんだ,中澤の旦那じゃねえか。いいやつ,見つかったな」という大久保の声が聞こえた。中澤紀雄は私たちを見て,困った人たちだな,という表情で笑った。「奥さんをほうりだしておくと,パリじゃ遠慮しませんよ」中澤紀雄はそう言ってまた笑った。
彼はパリで哲学の研究をつづけていた森有正の弟子だった。大久保も私も森さんの弟子ではあったが,かなり気まぐれで気楽な弟子であって,むしろ森さんのおかしな話や,ややグロテスクなユーモアを聞くために会いにゆくという趣があった。しかし中澤紀雄は森さんとギリシャ語でアリストテレスを読んだり,ハイデッガーの輪読をしたりして,本当の哲学の弟子だった。
(管理人注:この男が後に管理人の上司になる男であった)。厳密にいうとタヒチの支店長代理を勤めたとはいえ平社員同然であったので上司(注:この人は定年後作家になった)の上司であった。それは時の流れを忘れるほど贅沢で幸福な至福の時間の連続であった。ちょっとおおげさかな(笑)
1974年の秋,私は中澤紀雄から電話をもらった。至急会いたい,というのである。大学の帰りに,溜池の事務所に寄ると,いきなり「フランスで同窓会をやるつもりはありませんか?」と切り出された。「同窓会?」私は驚いて訊ねた。
「つまり昔,パリに留学した仲間と一緒にフランスを,もう一度,旅行してみるつもりがあるか,ってことです」「あるもないも,そんな勿体ない,夢のような話を,本気で信じていいの?」「ええ,いいんです」「だって,誰がそんなこと,してくれるの?」
「それはぼくのほうで考えることですよ」中澤紀雄は昔のような皮肉な笑い方をした。「辻さんはそれを決めて下さればいいんです」
勿論異議があるわけはなかった。中澤紀雄の話を総合すると,航空会社にその種の予算があって,たまたまそれを,私たち古い留学生に適用してくれるという有難い話のようであった。人生のごたごたは(この種の用事も,私は広い意味でのごたごたのなかに入れている)たいていは大久保輝臣に相談することにしている。「そうだな。そいつは悪くねえが,どうも話がすこしうますぎやしないか?」
私の相談を受けた大久保はそう言って頭をひねったが,それでも早速二宮と滝田に電話した。留学の時期から言うと,滝田文彦だけはすこし遅れていたが,同窓会という趣旨なら,さしてそれは問題にならない。要は,古い友達が,好きなフランスに出かけて,あちらこちらを旅行させてもらい,土地土地のおいしい料理と葡萄酒を味わい,大いにフランスを語ればそれでいいのである。二宮も滝田文彦もなかなか本気にしなかった。
中澤紀雄はエールフランス側を代表して堀内徹哉を同行させると言い,とにかく半信半疑の連中を集めましょう,と提案した。「どうして君はおれたちと一緒にこないんだ?」大久保輝臣は集りの席で中澤に訊ねた。「そんなこと,僕に訊くんですか?」
中澤はおかしそうに笑いながら言った。「あなたがたの奇行珍談は,ぼくはよく知っていますよ。それにつき合っていたら大変です」という含みであった。
オルリー空港の一件をはじめ数々の失敗をしでかしている私たちはぐうの音もでないのであった。「お前さんより,堀内さんのほうがいいな。だいいち可愛いよ」ビールで酔っ払ってくると,大久保はそんなことを言い出した。堀内徹哉は私たちより一回り若く,秀才肌の,温厚な人物だった。もちろん可愛いなんて年齢(とし)ではないが,はにかんだ笑い方をする魅力のある人だった。私たちはすっかり堀内徹哉に惚れ込んでいた。中澤紀雄だけはにやにや笑っていた。
旅の目的は,すでに何度か触れたように<楽しみ>のためのものであった。しかしそれはフランスの自然や文明や歴史を楽しむだけではなく,<友>とあることを楽しみ,ともに飲み,ともに語ることを楽しむ旅であった。私たちはオンザンの林の奥にある,野趣に満ちた旗亭ふうのホテルを楽しんだし,ロワールの風が谷を越えてくる館(シャトー・ダルティ二ー)のホテルも楽しめた。昼食のテーブルでも,各人が別々のメニューを頼んで,それをすこしずつ分け合って,いろいろな味を楽しもうとした。
私は<友>とあることがこんなに楽しいことであるのか,と,あらためて,一人一人の顔を何度か見なおしたほどであった。「こんなことは滅多にあるものじゃない。特別なことなんだ。例外のことなんだ」私はそのたびにそう繰りかえしつぶやいた。
クレルモン・フェランには天に挑むような教会がある。ラ・シェーズ・ディユ(神の御座)である。その修道院の内部はがらっとしているが,コール(聖歌隊)の裏手に有名な「死の舞踏」が描かれている
「私は時おり<友>とはいったいなんであろうか,と,つくづく考えこむことがある。旧制高等学校からの友達として私は北杜夫を持っているが,彼にしてみたところで,この<友>という不可思議な魅惑を発散してやまないのである。<友だちであること>−−それは親子兄弟とも違う。夫婦,恋人とも違う。そこには,だいいちそうした肉体的なきずなもなければ,肉体的な関係もない。しかしこの<肉体性>が関与しないだけ,それだけ,濃厚になる不可思議な精神の魅惑が,そこには生まれているのである。
もちろん<友>のなかには飲み友達もある。囲碁友だちもいる。釣り友だちもいる。しかし<友>である以上,まずお互いの存在が楽しいのでなくてはならなぬ。相手がいてくれることーーーしかし何をしてくれるというわけではなく,ただいてくれるということーーが,それだけで楽しくあること,それが<友>であるただ一つの条件なのだ。学校友だちが必ずしも<友>であるための最良の条件をそなえているとは思えないが,私は,学校で,しばしばいい<友>にめぐり会えた。おそらくそれは私の生涯の最大の幸運であったのかもしれない。
.......中澤紀雄(正確には中沢紀雄)とも私はこういう<友>になり得たし,パリにいるあいだ,哲学やフランス文明について話す機会も多かった。中澤紀雄は当時すでにエールフランスに勤め,現在,東洋関係の仕事の支配人をやりながら,ジャンケレビッチやレヴィ・シュトロースの翻訳をし,最近もアランの翻訳を出すことになっている。(達人注:この記事は1975年時点の話です)いわば行動的な哲学者と言っていいだろう。彼は終末はつねに一人で山間の渓流(達人注:中澤氏は伊豆に研究用の別荘を持っていた)釣り道具のほかに,一冊フランス語の哲学書をもってゆく。私たちがほとんど教職を職業としたのに,彼だけ,こうした行動力の要る仕事を選んだのは,たぶん書斎だけの生活では,十分の満足を感じなかったからであろう。
ともあれ,私はこうした<友>とともに,生きる<楽しみ>を知り,文学の喜びや苦しみを分かち合い,いつか人生の半ばにさしかかっていた。つまり20年近くの歳月がその後,過ぎ去っていたのである」転載おわり。
これは今から30年前のお話です。森有正氏の著作「砂漠に向かって」のなかで「N君」と書かれているのが中澤紀雄さんです。
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