文語訳聖書に将来はあるか?
佐藤 研

 新約聖書の多くの書,とりわけ福音書は,当時のギリシャ語文書の中で文体や語彙の言語レベルが特に優れているわけではない.どちらかといえば,単純平易である.特にマルコ福音書やヨハネ福音書などは,お世辞にも洗練されたギリシャ語とは言い難い.したがって,新約聖書を訳する場合,易しい現代日本語にするのは理の通ったことである.その線に沿って,戦後の五〇年代に「口語訳聖書」が作られ,また一九八七年にはカトリックとプロテスタントの共同作業による「新共同訳聖書」が出版された.さらに一九九五年には岩波書店から『新約聖書』全五巻が発刊され,『旧約聖書』も間もなく完成するであろう.こうして,今一般の書店の棚で目にするのは,学問的にもそれなりに信頼の置ける現代語訳聖書であって,そのことは私たちもほとんど当然のように受け止めている.

 しかしながら,過去百五十年の間,日本の精神文化に多大な影響を与え続けてきた聖書は,大部分の場合文語調の聖書であったという事実がある.私は一九六〇年代末に大学生であったが,私ですら最初は文語訳を読み,それから口語の訳を購入した.当時はまだ,こうした二重性も決して珍しくなかったと思う.この一般に普及したいわゆる「文語訳」聖書の元は,一八七二年に結成された翻訳委員会の作業によるもので,まず一八八〇年に新約聖書が出,一八八七年には旧約聖書も揃った(新約聖書は一九一七年に改訳――いわゆる「大正訳」――がなされる).そしてこれ以降,日本の文学界・思想界のみならず,日本文化一般が,聖書から抜き差しならぬ影響を受けることになるのである.「神」や「愛」は,それまでの日本語を換骨奪胎する形で使われ,結局それが定着して今に至っている(「愛」は元来仏教用語で,煩悩の一つである「愛執」の意).「洗礼」「神の国」「贖罪」「永遠の生命」等の耳慣れたキリスト教的語彙が普及したのも,この訳に由来すると言ってよい.また,現代でも人々が口にするところの,「狭き門」(マタイ七13)や「野の百合」(同六28)などの有名句,あるいは「殺すなかれ」(同五21/出エジプト二〇13)とか「目には目を,歯には歯を」(マタイ五38/出エジプト二一24)とか「空の鳥を見よ」(マタイ六26)などの言葉は,すべてこの文語訳からである.教会によっては,いまなお文語訳で「主の祈り」(マタイ六9―13)を唱えている.

 そもそも文語体は,日本語の書き言葉として千年以上の歴史があるわけで,口語体が五十年,あるいは長く見てもせいぜい百年の歴史しかないことを思えば,文語体の言語的熟成の度合いは,口語体とは比較にならないと言えるであろう.熟成度とは,その言語体の持ちうる「美」と「深み」のことである.例えば,以下の例(ローマ人への手紙一18)を見てみよう―
 
  「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して,神は天から怒りを現されます」(新共同訳).

使徒パウロが「です,ます」調で語るという事態に違和感を覚えるのは,おそらく私一人ではないであろう.パウロの原語を見るに,決して丁寧で優しい言葉遣いではないからである.これが文語訳では以下のようになる――
 
  「それ神の怒(いかり)は,不義をもて眞理(まこと)を阻(はば)む人の,もろもろの不虔(ふけん)と不義とに對(むか)ひて天より顯(あらは)る」.

ここには畏怖すら起こさすような気迫と峻烈さがある.言語というものは単に意味が伝わればいいというのではないことの典型例のようなものだ.ここの文語訳は,ことによればパウロがもともと書いた文章以上の言語的美を発揮しているかも知れず,もしそうであれば,それは一種の言語創造と言われねばならないであろう.森鴎外の『即興詩人』の訳が,アンデルセンの原文より優れていると賞讃されたようなものである.
 
 このようであってみれば,旧漢字・旧仮名遣いとはいえ,この古典的音調を湛えた文語訳聖書への愛着がいまだ絶えず,毎年一定部数は常に買い求められているのも頷ける.日本聖書協会から聞いたところによると,一九九九年十一月から二〇〇〇年十月まで,旧新約合本の文語訳聖書は二一一六冊,新約のみ(詩篇付き)の文語訳も二〇六九冊販売されたという.普通の単行本でも,毎年持続的に四〇〇〇部以上売れれば大成功であろうから,これは決してなおざりに出来ない需要である.

 しかしながら,言語的・内容的正確さからすれば,この文語訳はやはり十九世紀末ないし二十世紀初めの訳であるため,聖書学的には大きな不満が残らざるを得ない.例えば旧約においては,口語訳なら「主」と訳しているところを,文語訳は一貫して「エホバ」と記すが,「エホバ」という神名は現代の聖書学では誤った音記であることが証明され,もはや誰も使わない(おそらく「エホバの証人」という宗教団体を除いては).現代の学者なら,一貫して「ヤハウェ」と言う.さらには,差別語・不快語の問題もある.個々の箇所の釈義的問題点は,数え切れない.

 そうすると当然ながら,「文語訳」聖書の改訂新版は登場しないのか,という声があがるであろう.つまり,以前の文語訳の調子を保ちながら,内容は大胆に刷新し,現在の聖書学の知見に沿うようにした翻訳である.さらには,内容の理解を助ける脚注までついていれば文句なしであろう.しかし残念ながら,そのような文語訳は販売されていないし,出版されるという話も全く聞かない.
 
 そこでしびれを切らした私は,新約だけでも改訂文語訳がほしいと思い,実は個人的に始めてみた.ある市民学校でそのテキストを使って講義したこともあって,ヨハネ福音書はほぼ完成している.その一部を敢えてご紹介しよう.例えばヨハネ福音書の冒頭(一1―4)であるが,かつての文語訳(一九一七年の改訳版,ただし新漢字に改めた)では次のようになっている――

  一1 太初(はじめ)に言(ことば)あり,言は神と偕(とも)にあり,言は神なりき.
一2 この言は太初(はじめ)に神とともに在り,
一3 万(よろず)の物これに由りて成り,
成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし.
一4 之に生命(いのち)あり,この生命は人の光なりき.
光は暗黒(くらき)に照る,して暗黒は之を悟らざりき.

この格調を保つように心がけながら,現代聖書学の情報にも配慮して改訳し,さらには読む際の助けとなる注を付してみた――

  一1 始源(はじめ)に(1)(2)あり,言は神の許(もと)にあり,言は神なりき.
一2 この者,始源(はじめ)に神の許に在りき.
一3a 万(よろず)のもの,彼(3)に由りて生じたり.
かつ,彼無くしては一物(いちもつ)も生ぜざりき.
一4a 彼の中(うち)にて 一3b 生じたるものは,一4b (4)生命(いのち)なりき.
かつ,生命は人々の光なりき.
一5 かつ,その光は暗黒(くらき)の中(うち)に[常に]輝く(5)
 されど暗黒はそを把(とら)へざりき(6)

(1)  「始源(はじめ)に」は,創世記一1を踏まえた言い方であると同時に,単に時間的な「はじめ」を超えて,「源」のニュアンスも併せ持つ.
(2)  原語は「ロゴス」.ヘブライ的に「出来事」までを包含する「ダーバール」(=一般に「ことば」)の伝統と,ヘレニズム哲学的な「ロゴス」(=宇宙の理)の意味合いが融合している.また,ここでの「言」の形姿は,ユダヤ教における「知恵」(ホクマー)のそれにも酷似する(箴言八22以下,ベン・シラ二四など参照).
(3)  男性代名詞.「言」を指す.
(4)  現在原語底本とされている,「ネストレ・アーラント二七版」の指示による.普通の日本語にするために,節の部分的順序を入れ替えた.
(5)  現在形であり,今なお変わらぬ事態を示す.
(6)  ここは,「悟らざりき」(文語訳),「理解しなかった」(新共同訳),「勝たなかった」(口語訳),「阻止できなかった」(小林訳)等,様々な訳が可能.

 以上,かつての文語訳の美しさをどれほど維持し得ているかは自信がない.似て非なるものになったかも知れないが,とにかくこうした言語的創作の試みがあってよいであろう.とりわけ,巷の日本語がますます軽薄の度を加えていく昨今の状況をかえりみるに,その想いは強まるのみである.ただし,改訳とはひどく時間と神経とを消費する作業であり,ヨハネ福音書以外はまだ形をなしていない.しかしそのうち再スタートし,何とか「文語訳新約聖書改訂版」を完成・出版したいと思っている.
(さとう みがく・立教大学教員・新約聖書学専攻)