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國學院大學
伝統文化リサーチセンター

左義長祭調査

2008年11月17日更新



1. 調査目的
 「左義長祭」(平成20年3月15・16日)における現地調査を通して、左義長という「モノ」が祭礼の中でどのような役割を果たすか把握を試みる。左義長祭の儀礼構成とその内容を把握し、さらに左義長祭がどのような社会組織によって支えられているかについて分析を行う。その上で、左義長の形態と要素を把握し、祭礼がどのような歴史的伝承を背景として成立したかについて理解する。
 
2. 実施日時
平成20(2008)年3月14日~18日(5日間) 4泊5日
 
3. 調査地
 ・日牟礼八幡宮(滋賀県近江八幡市)とその氏子地区
 ・付随する調査地
    天孫神社(滋賀県大津市)、大津市役所(滋賀県大津市)
    京都大学総合博物館(京都府京都市)、
     財団法人祇園山鉾連合会資料室(京都府京都市)
 
4. 参加者
 島田 潔 (客員研究員) 
 小島 優子 (ポスドク研究員)
 筒井 裕 (ポスドク研究員)
 鈴木 聡子 (リサーチアシスタント)
 
5. 概要
 
■「左義長祭」について
 左義長は元来、新年に行われる火祭行事である。正月の飾りものや書き初めなどを集めて焼く招福除災の行事として、トンド・ドンドン焼き等の名称で全国に伝承されている。しかし近江八幡では、明治6年に太陽暦が採用されてからは3月に行われている。日牟礼八幡宮左義長祭は昭和33(1958)年滋賀県無形民俗文化財に指定され、平成4(1992)年2月には国選択無形民俗文化財に選定された(以下、日牟礼八幡宮『日牟礼の火祭』昭和41年、参照)。
■日牟礼八幡宮
《略社誌》
ご祭神: 譽田別尊(ほむだわけのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、比賣神(ひめがみ)
歴史的変遷: 寛弘2(1005)年に法華峰(八幡山)山上に八幡宮、その麓にも社が設けられた。この麓の社が現在の日牟礼八幡宮とされている。天正18(1590)年に豊臣秀次公は八幡城を築くために、山上の八幡宮を麓の社に合祀して替地として日杉山に祀る計画を練っていた。しかし、豊臣秀次公が自害したためにこの計画は頓挫し日杉山に社が建てられることはなく、現在のように一社となった。また、八幡城も廃城となったが、その城下町が商人町として栄えたことから、近江商人の守護神として崇敬されるようになった(『日牟礼八幡宮略誌』参照)。

写真1 日牟礼八幡宮


■左義長祭の構成
《左義長祭前日 3月14日》
御籤(みくじ)神事: 日牟礼八幡宮において左義長の奉火(境内で火をつけて燃やし、神に捧げる)順が籤によって決められる。
左義長宿、だし清祓式: 13町の左義長宿を日牟礼八幡宮宮司が回って清祓を行う。

写真2 御籤神事


写真3 だし清祓式
写真3 だし清祓式


《左義長祭第一日 3月15日》
左義長の宮入り: 13基の左義長が日牟礼八幡宮境内に勢揃いする。
渡御神幸祭
左義長渡御出発(旧市内を錬り歩く)
左義長渡御日牟礼八幡宮帰着・渡御還幸祭
左義長だし飾り(各左義長宿前にて)
左義長宿入り

写真4 渡御行列


《左義長祭第二日 3月16日》
左義長大祭
左義長の町内巡行
日牟礼八幡宮で「組合せ」(左義長のけんか)が行われる
鳥居前引回し「廻れ廻れ(マッセマッセ)」
左義長5基一斉奉火(籤順に1番から5番まで)
奉納順の6番から12番順次奉火
最終の左義長(13番)を奉火

写真5 左義長の組合せ


写真6 左義町5基一斉奉火


■左義長の構造
 左義長は、松明・「だし」・「むし」・「十二月(じゅうにんがつ)」からなる。

「松明」: 新藁を十二段にし、一束毎に揃えて三角錐の形にしたもの。十二段は一年(十二ヶ月)を表している。約3メートル。
「だし」: 円形・扇形・長方形などの意匠が凝らされた台。五穀や海産物、果物、菓子などの食品を材料にして、地元の人々が年明けから制作に取りかかる。
「むし」: 干支の動物を表現した作りもの。「だし」の中心につけられる。
「十二月」: 3メートルあまりの青竹から笹を取り除いたものに、数千枚の赤紙や、火打・くす玉・さる・等を飾る。松明の上につけられる。赤紙には「吉祥天筆和合楽地福円満楽」と、子どもの名前を記した書き初めがつけられ、子どもの平穏が祈られている。

写真7 左義長の構造(1)

写真8 左義長の構造(2)

■左義長祭の歴史的伝承
 日牟礼八幡宮の左義長祭は、安土時代の安土に由来を持ち、『信長公記』に記されているように、織田信長が奇抜な装束で馬に乗り、爆竹でにぎやかな城下に繰り出したことが祭りの起源であると町の人々は言い伝えており、近江八幡市の歴史的背景のもとで、継承されたことが見て取られる。地元の人々は信長からの伝統と言い伝えて、女装して左義長を担ぐ若衆も見られた。


写真9 女装した若衆

6. 付随した調査
・ 天孫神社、大津市役所
 天孫神社では、10月に大津祭が行われる。この祭りでは、13基の曳山が曳きまわされる。調査時には、曳山は解体されて山蔵に収納されていたが、境内に展示中の曳山の写真を閲覧することができた。さらに、大津市役所教育委員会では、大津祭に関する調査報告書、パンフレット等の資料収集を行った。
・ 京都大学総合博物館、財団法人祇園祭山鉾連合会資料室
  京都大学総合博物館では、京都市の祭礼に関する資料(書籍・神社資料が中心)を多数所蔵している。これらは京都市在住の郷土史家松本利治氏のご遺族が京都大学文学部地理学研究室に寄贈されたもので、通称「松本コレクション」と呼ばれるものである。「神社祭礼に見るモノと心」研究グループでは、現在作成中の神社祭礼に関するデータベースを充実させるべく、八坂神社・賀茂御祖神社・護王神社など、京都市内の著名神社の祭礼や社務記録の閲覧を行い、これらの一部を撮影・複写した。また、本グループでは、八坂神社の祇園祭が各地の山車行事に及ぼした影響についても研究を進めている。このことから、非常に入手困難とされる書籍類(たとえば各町内が編纂した山鉾・山車の書籍・パンフレット等)・映像資料・各町内の粽など、祇園祭に関する資料を約1,000点所蔵する「祇園山鉾連合会資料室」においても調査を行った。同室では資料の閲覧は可能だが、複写を禁止している。そこで、本調査では同室の所蔵資料の一部を閲覧・筆写するとともに、『祇園祭』などの祇園祭山鉾連合会資料室の刊行物の収集を図り、昭和・平成期における祇園祭に関する知見を深めた。
 
 
7. 調査の成果と課題
 
【調査の成果】
 左義長の起源として伝えられている伝説は、昔、八幡の街に巨大な魔物(化物)が来て街の人々に悪事を働き災いをもたらしたので、街の人々が協力して退治し神社の馬場で焼いた後、平和な街になったというものである。その時のことを模倣して行っているのが左義長の行事であり、このために左義長の台は三本足であり、山車は胴、十二月は頭であると言われている(『日牟礼八幡宮火まつり調査報告 日牟礼の火祭』日牟礼八幡宮発行、昭和41年)。この伝説から鑑みるならば、街の人々が年明けから2か月余りをかけ苦労して作成した左義長を燃やしてしまうこの祭りの性格は、災厄を祓うものであると推測することができる。町の人々に対する聞き取り調査からは、労力や金銭をかけて作り上げたにもかかわらず、左義長を燃やしてしまうことが「近江商人の心意気」であるという人々の自負を見いだすことができた。さらに左義長のダシという「もの」が食品から作られていることから、神に感謝し五穀豊穣を祈る人々の「心」も読み取ることができる。
 
【今後の課題】
今回の調査では「左義長祭」は、近江八幡という地域で安土時代に起源を持つ歴史的特性の中で、人々の暮らしとともに築かれた祭礼であると理解することができた。今後の課題は、全国の祭礼における山車、屋台などの曳き物調査を行う中で、左義長祭のもつ特性を理解するとともに、他の祭りとの共通点を見いだすことである。
 
 
 
文責: 小島 優子



このページに対するお問い合せ先: 研究開発推進機構事務課

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