左義長祭の由来

1.左義長の由来
 左義長は元来新年に行われる火祭行事を指し、三毬杖・三木張・三毬打・爆竹とも書き、地域によってはサギチョウ、トンド、サエノカミと呼ばれています。旧正月を中心に14日夜か15日朝、正月の飾り物などを広域に集めて焼く行事であり、1年の無病息災を祈って現在でも全国各地で行われています。
 もともとは中国から来たもので、漢の時代から正月行事として行われていた爆竹が元と言われています。わが国では正月馬に乗り、紅白の毬を先がヘラになった杖で掬って遊んだという「打毬の楽」が由来しています。打毬の楽で破損した毬杖を集めて焼いたのが三毬杖・三木張・三毬打の語源とされているからです。
 その後、仁明天皇承和元年、鎮護国家・五穀豊穣を祈る祭として、青竹の束に扇子・短冊などを吊るし、陰陽師がこれを焼く行事が執り行われるようになりました。この際毬杖を3つ結んで立てたとも言われています。

2.踊り出したる信長公と八幡開町の心意気
 信長記に「織田信長安土において毎年正月盛大に左義長を行い、自ら南蛮笠を被り、紅絹にて顔を包み、錦袍を着け、異粧華美な姿で踊り出た」とあります。信長亡き後、豊臣秀次が八幡城を築き、八幡城下での楽市楽座に招かれて安土から移住した人々を中心に、天正18(1586)年八幡に城下が開町されました。
 この時、既に4月に行われていた氏神八幡宮の例祭「八幡まつり」の荘厳さに驚き、これに対抗し、開町による新進気鋭の悦びと感謝の意を込めて、厄除・火防の由緒ある御神徳を仰ぎ、左義長を八幡宮に奉納することとなったと伝えています。本来正月に行われる左義長が、3月に行われる由縁もここにあると考えられます。

3.左義長の姿形(1)〜十二段祝着と赤紙、火のぼり
 左義長は十二段祝着と言い、一束ごとに揃えた新藁を美しく十二段の段状に重ねて、六あるいは七尺(=1.8or2.1b)の三角錐状の松明(たいまつ)にしたものを胴体とします。
 その上に一丈(=3.03b)余りの青竹(もしくは笹)を据えつけます。青竹は葉を取り、代わりに短冊型の赤紙を数千枚結び付けます。この色鮮やかな赤紙が、祭りの間街中に赤く燃えるように映え、お祭りムードを高めます。青竹は赤紙のほか吉書、扇、火打巾着、くす玉など紙製品で賑やかに飾り付けます。
 さらに胴体と青竹を繋ぐ部分に「頭」を作ります。頭は緑色の杉の葉で作り、藁で編んだ「耳」を3つ、それぞれに御幣を差します。もう1つ、頭の上に「火のぼり」という御幣をつけます。祭りのクライマックス、左義長を奉火する時には、この火のぼりから火をつける習わしとなっています。

4.左義長の姿形(2)〜だし
 左義長の中心正面には「だし」を飾り付けます。毎年、干支や時局にちなんだテーマを各町内で考案し、穀物・海産物・地元特産品を使い、その自然色を生かして立派に作ります。これが左義長の晴眼で、費用を惜しまず手間を凝らし、名作を競って郷土芸術の誇りとしています。
 主として干支の動物を題材にした造物を俗に「むし」と呼び、据えつける背景となる円形・扇形・方形などの部分は単に「台」と呼びます。このむしと台を合わせて左義長の「だし」と呼ぶのです。

5.左義長の姿形(3)〜担ぎ棒
 最後に、左義長には「担ぎ棒」と呼ばれる棒が、縦に4本通されています。町によって横棒の本数は異なりますが、立派に飾り立てた左義長を、神輿と同じように担ぎ棒を肩に担ぎ、子ども達が前綱を曳いて、町を練り歩くのです。5メートル以上の左義長が、大勢の担ぎ手に担がれて町を行く姿は、壮観の一語に尽きます。

6.踊子
 左義長の担い手は踊子(おどりこ)と呼ばれます。踊子は老若男女を問わず、変装・女装も自由となっています。氏子66ケ町のうちで、町または区ごとに左義長を奉納しますので、同じ左義長を奉納する者は、揃いの踊半纏(おどりはんてん)を着るのが普通です。男も顔を美しく化粧し、手には拍子木を持ち、紅白の鼻緒の下駄を履いて「チョウサ、ヤレヤレ」「チョウヤレ、ヤレヤレ」と元気良く声をかけ合い担ぎ踊る姿が、奇祭と呼ばれる1つの所以です。

7.祭次第
 金曜に、奉納順を決める御鬮祭(みくじさい)があります。土曜の昼には全左義長が宮入りし、奉納順に勢揃いします。その後、神主・神役・稚児が先導し、全部の左義長が順に並んで旧市街を渡御(とぎょ)します。全部の左義長が勢揃いする姿は、この折にしか見られません。夜には「だし飾り」が行われます。
 日曜には、それぞれの左義長が自由に街中を練り歩きます。旧市街の狭い道幅を勝手気ままに練り歩くため、奇祭の本分が見られることでしょう。そして日も暮れかかった頃、さしもに踊り狂った踊子たちも、くじ順に従い、潔く左義長を奉火します。天下に豪華な火祭として見応えのあるのは、まさにこの折です。若者たちが各々に趣向を凝らし1ケ月余の手間と費用をかけ、立派に完成した左義長を、境内にて勇壮に奉火して神に捧げるのです。次々と炎上する左義長で馬場は一面火の海と化し、人々の祈りが歓声と踊りに包まれて、早春の夜空に燃え上がっていきます。

8.左義長に結集して
 子どもの夢や地域の繁栄、国や世界の平和が、だしのテーマになり、氏神への奉納行事として、出来映えを賞嘆して楽しみます。400年余の昔、信長公が踊り出したとされる左義長が、子どもからお年寄りまで世代の連続性と地域の永続性への調和を見事に結集する祭礼として、昇華されたと言えるでしょう。
 毎年十数基が奉納され、3月14日・15日に近い土曜日曜に行われます。

昭和33年 滋賀県無形民俗文化財に選択
平成 3 年 滋賀県無形民俗文化財に指定
平成 4 年 国の無形民俗文化財に選択