2009/1/1
「捨て子物語」
彼はこの町へ来て住んだ。マリアとヨセフの故郷である。「彼はナザレの人と呼ばれる」マタイ2:23
ある人は言うだろう。どんなふうにして,死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか。愚かな人である。あなたのまくものは,死ななければ,生かされないではないか。また,あなたのまくのは,やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても,ほかの種であっても,ただの種粒にすぎない。ところが,神はみこころのままに,これにからだを与え,その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。死人の復活も,また同様である。朽ちるものでまかれ,朽ちないものによみがえり,卑しいものでまかれ,栄光あるものによみがえり,弱いものでまかれ,強いものによみがえり,肉のからだでまかれ,霊のからだによみがえるのである........聖書に『最初の人アダムは生きたものになった』と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった.....『第一の人は地から出て土に属し,第二の人は天からきた主でアル』<コリント人への第一の手紙第15章35〜8,42〜5,47節>
レンブラントの描いた獄中書簡のパウロ
晩年のパウロ参照。
この「コリント人へのパウロの第一の手紙」の一節の中に,四つの考えがある。第一は,秋に姿を消した穀物が春に復帰するのを見るのは,復活をまのあたりに見ているのであるという考え方である。第二は,穀物の復活は死んだ人間の復活の前兆であるという考えであって,これはずっと前からヘレニック社会の秘教で説かれてきた教えを再確認するものである。第三は,人間の復活は,死と,生への復帰との中間の待機期間中に,神の働きによって人間性がある種の変貌をとげることによって,はじめて可能になり,考えられるという考えである。この死者の変貌の前兆は,誰の目にも明らかな,種が花となり実となる変貌である。人間性に起るこの変化は,より大いなる忍耐,美,力,および霊性に向かう変化でなければならない。第四の考えは,この一節のうちの最後の,もっとも崇高な考えである。”第一の人”と”第二の人”という思想において,死の問題は忘れ去られ,個々の人間の復活という問題に対する関心もしばらく棚上げにされる。『天から来た主である第二の人』の出現によって,ただ一人の人間から成る新たな種が創造されたこと,すなわち,神から与えられた霊感を仲間に吹きこむことによって,人類全体を超人のレベルに引き上げることを使命とする。"神の補佐者”Adjutor Deiが創造されたことを,パウロは謳歌しているのである。それは明らかに,あまねく宇宙全体に及ぶ主題であって,普遍的真理の認識ならびに表現の直感的な形式である神話の,もっとも古いイメージの一つになっている。
このモチーフの神話的変形に,捨て子物語がある。王位を継ぐ者として生まれた子どもが幼いうちに捨てられる.....時にはオイデプスやベルセウスの物語のように,夢の中で,あるいは神話によってその子どもが自分を押しのけることになると知らされる父もしくは祖父の手で,その子どもの父親から王位を奪い取った,そして,その子どもが成人して復讐することを恐れる簒奪者の手で,またときにはヤソンや,オレステス,ゼウス,ホルス,モーゼ,キュロスの物語のように悪人の殺害計画から子どもを守るために心を砕く同情者の手で。物語の次の段階では,捨てられた幼児が奇跡的にいのち拾いをする。そして第三の,同時に最後の段階では,今や立派に成人し,それまでに嘗めてきた辛酸によって英雄的気性にきたえ上げられた運命の子が,力と栄光に満ちて戻ってきて,かれの王国にはいる。
イエスの物語のうちに,引退〜復帰のモチーフが絶えず反復して現れる。イエスは王位を継ぐ者として生まれた子ども〜ダヴィデのすえ,もしくは神自身の子であって幼いうちに捨てられる。かれは地上に生まれるために天からおりてくる。かれはダヴィデの町ベツレヘムに生まれるが,宿るへやがなく,モーゼが箱舟(聖書ではパピルスで作った籠)の中に,ベルセウスが箱の中に入れられたように,かいばおけの中に入れられた。うまやの中で,ちょうどロムルスが狼に見守られ,キュロスが犬に見守られたように,かれはやさしい動物に見守られた。かれはまた羊飼たちにかしずかれ,ロムルスやキュロスやオイディプスを同じく,卑しい生まれの養父に育てられる。その後かれは,モーゼが葦の中に隠されてファラオの殺害計画から救われ,ヤソンがペリオン山(ギリシャの東北部,テッサリア東部にある山)のとりでに隠されたペリアス王の手の届かぬ場所に置かれるように,ひそかにエジプトに連れてゆかれて,ヘロデの殺害計画から救われる。それから,物語の最後にかれは,他の英雄たちが復帰するように,復帰してかれの王国に入る。ロバに跨ってエルサレムに入城し,群集にダヴィデの子として迎えられるさいに,かれはユダの王国に入る。そして,昇天のさいに天の王国に入る。
これを述べた限りでは,イエスの物語は捨て子物語のありふれた型と完全に一致する。しかし福音書のなかでは引退〜復帰の基本的モチーフが,さらに別の形で現れる。それはイエスの神性がしだいにはっきり示されてゆく,あいついで起る精神的経験の一つ一つにおいて姿を現す。イエスは,ヨハネから洗礼を受け,自己の使命を自覚すると,40日間荒野にひきこもり,そこで悪魔の試みにあったのち,霊の力に満ち溢れて(ルカ福音書4:41)帰ってくる。その後,自分の伝える教えのために死をまぬがれたいことを悟るとき,イエスはふたたび『離れた高い山』<マタイ福音書17:1>にひきこもり,そこで変貌を経験した後,死を観念し,決意して復帰する。さらにその後,”十字架上の死”において,死すべき人間の死を甘受し,墓におりてゆくが,"復活”において不死の者としてそこから立ち上がる。そして最後に,"昇天”において,『栄光と共に再臨し,生ける者と死せる者とを裁き,限りなく王国を築く(二ケア公会議での二ケア信条の一節)ために,地上から天国に引き上げる。
By the Brink of OLD NILE。そこへ,ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りてきた。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は,葦の茂みの間に籠を見つけたので,仕え女をやって取って来させた。開けてみると赤ん坊がおり,しかも男の子で,泣いていた..............。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから」<出エジプト記2:4〜10>
このように,イエス物語の中に何度も現れる,重要な引退〜復帰のモチーフにもやはり類例がある。荒野へのひきこもりは,モーゼのミデヤンへの逃避(出エジプト記,第二章16節以下参照)の再現である。「離れた高い山」の上での”変貌”はモーゼのシナイ山上における変貌の再現である。神性をそなえた者の死と復活は,ヘレニック社会の秘教の中に先例がある。現在の世界秩序の終末をもたらす危機に出現して支配権を握る驚くべき人物はゾロアスター教(管理人注:ゾロアスター教はミトラ教の一部と考えた方がいいでしょう)の神話の中に現れる救世主や,ユダヤ教の神話の中に現れるメシアもしくは"人の子”のうちに先例が見出される。
しかし,キリスト教の神話には,どこにも前例がないように思われる特徴が一つある。それは,未来における救世主もしくはメシアの到来を,すでに人間として地上に生活したことのある歴史的人物の,未来における復帰と解釈する点である。この直感のひらめきによって,"再臨”思想において,引退〜復帰のモチーフはそのもっとも深い精神的意義に到達する。キリスト教の再臨思想を生んだ直感のひらめきは,明らかに,その時代ならびにその場所のある特殊の挑戦に対する応戦であったに違いない。事実はその起原の中に見出されるもの以上のものを何一つ含まないと考える誤謬をおかす批評家は,このキリスト教教義が失望の中で生まれたという理由で,その価値を低く見るであろう。この教義は原始キリスト教徒の集団が,かれらの師が待ち望んだ結果をもたらさずに世を去ったことを悟ったときの失望の中で生まれたのである。イエスは死刑に処せられた。そしてかれの死はかれの弟子たちを,前途の希望を全く失った状態であとに残したに相違ない。<Study of Historyサマヴェル縮小版より要約・編集・解説>
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