2009/3/8
「ファティマ第三の秘密」
......1989年に相次いで起きた事件は,ソヴィエト連邦においても東欧諸国においても,無神論を標榜していた共産主義体制の崩壊をもたらしました。このためにも教皇は,心の底から聖なるおとめマリアに感謝しておられます。しかし,世界の他の地域における,苦しみの重荷を負う教会とキリスト者にたいする攻撃は,残念ながらまだ終わっていません。ファティマの「秘密」の第三部にかかわると思われるいろいろな出来事は,もはや過去のことに思えるとしても,聖母マリアから20世紀の初めに呼びかけられた回心と償いへの招きは,今日もなお時代性と緊急性を残しています.....2005年5月13日 ファティマにて 国務省長官アンジェロ・ソダーノ枢機卿の声明
「悔い改め,悔い改め,悔い改め」
シスター・ルチアが,レイリア〜ファティマ教区の司教にあてて1941年8月31日に書いた「第三の回想録」による。
........それでは,秘密について少しお話しし,最初の質問にお答えしなければならないと思います。秘密はこうです。天からのお許しはすでにいただいているので,お話ししてもよいと思います。また,地上における神の代理者たちは,お話しする権限を何通ものお手紙で繰り返しくださいました。この手紙は,ホセ・ベルナルド・ゴンサルぺス神父様からのもので,そのなかで,神父様は,教皇にあてて書くようにと勧めてくださいました。そこでわたしに指示されたことの一つは,秘密を明らかにすることです。
.......いいでしょう。秘密は,異なる三つのことがらについてで,そのうちの二つを今明らかにしようとしているのです。
第一は地獄のビジョンでした。
マリアは,わたしたちに広大な火の海をお見せになりました。それはまさに,地の下にあるもののようでした。この火の中に,サタンと人間の形をした魂とが閉じ込められていました。この魂は,透き通るように燃え上がる燃えさしのようで,すべては黒く,あるいは,光り輝く青銅色をしていて,大きな炎の中に漂っていました。彼らは自分の中から放つ炎によって,巨大な煙の雲とともに空中に吹き上げられ,ぞっとするような,しかも恐怖に震え上がるような苦痛と失望の悲鳴とうめき声を上げながら,重さもバランスも失って,火花のように大火の中を四方八方に飛び散っていました。サタンは,見たこともない奇怪な動物の形をしていたのでそれと分かりましたが,戦慄を覚えさせるような気味の悪い形相をしており,透明で黒い色をしていました。
このビジョンは,ほんの一瞬の間続いただけでした。天の母マリアが,最初のご出現のときにわたしたちを天に連れて行くことを前もって約束してくださっていたことに,わたしたちはどれほど感謝したことでしょう。もしそうでなければ,わたしたちは恐怖のあまり死んでしまったと思います。そのあと,マリアに目を上げると,優しいけれども悲しそうに,こうおっしゃいました。
「あなたちは,あわれな罪びとの魂が落ちていく地獄を見ました。罪びとを救うために,神は,わたしの汚れない心に対する信心を世に定着させるように望んでおられます。もし,わたしがあなたたちに言うことを人々が実行するなら,多くの魂は救われ,平和を得るでしょう。戦争がもうすぐ終わろうとしています。しかし,もし人々が神に背くのをやめないなら,ピオ11世が教皇である間に,もう一つの,もっとひどい戦争が始まるでしょう。ある夜,まだ見たことのない光がやみを照らすのを見たら,それは,戦争や飢餓,教会と教皇に対する迫害による世の罪のために今まさに神が,世を滅ぼそうとしておられる大いなる徴(しるし)であると悟りなさい。それを防ぐために,わたしの汚れない心にロシアを奉献することと,償いのために毎月初めの土曜日に聖体拝領をするよう,わたしはお願いにまいります。もし,わたしのこの要請を受け入れるなら,ロシアは回心し,平和が訪れるでしょう。さもなければ,ロシアは,戦争と教会への迫害を推し進めながら,自分の誤りを世界中にまき散らすでしょう。善良な人々は殉教し、教皇は非常に苦しみ,多くの国々は滅ぼされるでしょう。けれども,最後には、わたしの汚れない心が勝利するでしょう。教皇は,ロシアをわたしに奉献し,ロシアは回心し,世界に平和の時が与えられるでしょう」
「秘密」の第三部 イエス,マリア,ヨセフ
ファティマのコーワ・ダ・イリアにおいて,1917年7月13日に明らかにされた秘密の第三部。
レイリアの司教と聖母マリアを通してお命じになる神への従順の行為としてペンを執ります。すでに述べたあの二つの啓示のあと,私たちは,マリアの左側の少し高いところに,火の剣を左に持った一人の天使を見ました。この剣は,まるで世界を火で焼き尽くさんばかりに,火花を散らして光り輝いていました。しかし,その炎は、マリアが天使に向かって差し伸べておられた右手から発する輝かしい光に触れると消えるのでした。天使は,右手で地を指しながら大声で叫びました。「悔い改め,悔い改め,悔い改め」。それから私たちには,はかりしれない光〜それは神です〜の中に,「何か鏡の前を人が通り過ぎるときにその鏡に映って見えるような感じで」白い衣をまとった一人の司教が見えました。「それは教皇だという感じでした」そのほかにも幾人もの司教と祭司,修道士と修道女が,険しい山を登っていました。その頂上には,樹皮のついたコルクの木のような粗末な丸太の大十字架が立っていました。
教皇は,そこに到着なさる前に,半ば廃墟と化した大きな町を,苦痛と悲しみにあえぎながら震える足でお通りになり,通りすがりに出会う死者の魂のために祈っておられました。それから教皇は山の頂上に到着し,大十字架のもとにひざまずいてひれ伏されたとき,一団の兵士たちによって殺されました。彼らは教皇に向かって何発もの銃弾を発射し,矢を放ちました。同様に,他の司教,司祭,修道士,修道女,さらにさまざまな地位や立場にある多くの信徒たちが,次々に殺されていきました。十字架の両腕の下には二人の天使がいて,おのおの手にした水晶の聖水入れに殉教者たちの血を集め,神に向かって歩んでくる霊魂にそれ注ぐのでした。
トゥイにて 1944年1月3日
シスター・ルチアにあてた教皇ヨハネ・パウロ二世の手紙
コインブラ修道院におられる尊敬いたしますシスター・マリア・ルチア,よみがえられたイエスが弟子に言われた言葉をもって,復活祭のごあいさつを申し上げます。「平和があなたとともにありますように」。
神がお望みであれば,フランシスコとヤシンタの列福式を今年5月13日に執り行う予定です。長い間待たされていたその日にお目にかかれることをうれしく存じます。しかし,その日はお会いしてゆっくりお話しする時間がなく,ただ短いご挨拶しかできないと思われますので,私に代わって,教理省の秘書タルチジオ・ベルトーネ大司教にお話をうかがいにいくよう依頼しました。教理省は,カトリックの真の信仰を擁護するために,教皇と密接に協力する省です。ご存知のように,そこには1957年以来,ファティマのコーワ・ダ・イリアで1917年7月7月13日に啓示された「秘密」の第三部を書き記したあなた自身の手紙が保存されています。
ベルトーネ大司教は,レイリアのセラフィン・デ・スーザ・フェレイラ・エ・シルバ司教に伴われ,「秘密の第三部」の解釈に関する幾つかの点についてお尋ねするために,私の特使としてそちらへまいります。シスター・マリア・ルチア,ベルトーネ大司教に何でも素直にお話しください。大司教は,あなたの答えを直接私に伝えてくれます。
尊敬いたしますシスター・ルチア,私は復活されたキリストの御母に,コインブラ共同体のため,そして全教会のために心から祈ります。巡礼の旅の途上にある人類の母マリアが,私たちをマリアのみ子であり私たちの兄弟であるイエス,いのちと栄光の主であるイエスといつも結ばれているようはからってくださいますように。特別な使徒としての祝福をお送りいたします。(出典:バチカン教理省カトリック中央協議会)
2000年4月19日 バチカンにて
ヨハネ・パウロ二世
なおこれらはUFOを見たという類の話ですから注意してくださいね。
Vatican Holocaust
なお 「ファティマ第三の秘密」はここで購入できます。神学的解説が豊富に入っています。945円+送料200円。
この世の仕上げとして読まれることをお勧めいたします。この世が実体性のない嘘で固められた虚構の世界なのか真実なのか,判断するのはあなたです。仮に否定するにしてもピグミーかホッテントットかコイサンマンになるしか道はありません。サルトルとボーボワールの「別れの儀式」を読むとサルトルは無神論者であったことがわかります。人それぞれの人生で人それぞれ生きて死んでよけばいいのです。男あり女ありそれが人生もいいでしょう。私のブログはそれに対するトッピングです。醤油ラーメンをチャーシュー麺にするかミソバターチャーシュー麺にするかシナチクを加えるかそれは全く自由なことです。宗教とは「春分点歳差」であるにしても人に「安心立命」を与えることが出来ればそれで充分ではないでしょうか。最後の晩餐をシナチクラーメンにするか鍋焼きうどんにするかあるいは二つ一緒に食うか?あるいはビールと餃子を足すか。悩みは尽きない。そっちの方が重大問題だ(笑)。拙稿の目次に「神々の青き海」というのがあります。そこで辻邦夫さんは「 僕は歩くことだけで,見ることだけで,喋ることだけで,自分が,過不足なく<完了>した,と感じた。不足もなければ,余剰もなかった。必要なだけがそこにあり,それを,必要なだけ使った〜そんな感じがした」,と。これが人生の終着点だと思います。私は今大変幸せです。
「それからあの賢く抜け目のない男が現れた,神々への恐れを最初に発明した男が......。彼は一つの物語を,とても魅惑的な教えを案出し,いつわりの伝説のベールで真理を隠した。彼は恐ろしい神々の住まいを語る,回転する天球の,雷鳴が轟き稲妻の恐ろしい閃きが目をくらませるところ.......。こうして人々の周りに恐れの縄を張り巡らした。崇高なところに住む神々で彼らを取り囲み,呪文で魅了し,ひるませてーーーーそして無法が法と秩序に変わったのだ」<クリティアス>
彼はプラトンの曽祖父であるが,詩人であり,人民を「説得する」ために,すなわち脅迫して服従させるために宗教を作り出した賢くもずるい男を讃える(管理人注:讃えられているのは弁証法の父ヘラクレイトスのこと)。クリティアスの見解では,宗教とは偉大で賢明な政治家の堂々たるうそに他ならない,と。(カール・ポパー)
私の記事を読まれて表裏を知ってしまっても無智を装って生きることだ。それしか幸福になる道はない。子どもの心を失わないことだ。そうすれば「裸の王様」を見分けることが出来るだろう。つまりこういうことだ。ユートピアの表面的なゴールは人類に世界的な幸福を与えるというものです。しかし彼らの裏に潜んだ意図は違います。闇は真の光に対抗するために、光を偽装して戦力を集めようとする。しかし、見極める目を養えば、真の光と、光を偽装する闇とを区別することは可能である。セーレン・キエルケゴールは言っている。騙される方法は二つある。一つは嘘を信じることで,二つ目は真実そのものをを拒絶することである,と。
日本に対しては属国意識を持ち、日本を米国の被保護国と呼ぶ。日本がアジアの大国になることは「不可能」であり、日本はひたすら経済成長に力を注ぎ、その経済力を国際社会に寄附し使ってもらう存在になるべきだ。
By BLACK POPE(Alias MR.Z )
Jimmy Carter and MR.Z(Zbigniew Brzezinski)
つまり少しでも反米的な政治家,人物は一服盛って葬り国策逮捕をしてきた理由です。それをやっているのは統一協会というカルトなのです。その上部組織は世界勝共連合です。つまり風を征するモリア(イルミナティ)の代理人ということです。『代理人は,彼らの忠義を彼らの国ではなく,風の征するモレア=イルミナティに捧げるのである。彼らの狙いは彼らの愛すべき国を破壊して,その殺戮から利益を得ることである』<ヘンリー・マルコウ>。
カルトの怖さ・参照
青年,否,人間一般が生涯の各時期に自分を完成したと思うことが出来て,真であると偽りであると,貴きと卑しきとを問ふことなく,自分の適ふもののみを求める無智こそ幸福である。
<ゲーテ・詩と真実>より
ルチア,フランシスコ,ヤシンタの3人
シラクサのルチア。ルチアとはラテン語で光を意味しLUXまたはLUCIDから派生した言葉。イルミナティの世界ではクイーンズ・マザーと呼ぶ。LUCIFERという言葉は神学者によって歪曲された経緯がある。
続・モナークマインドコントロール参照
アウグスティヌスはマニ教徒であった参照
すべてはオカルト儀式で決定される参照
Illuminati Agenda
ヨーロッパ共同体はバベルの塔である
ウラジミール・ブコフスキーとは?
マルクスとサタン
革命の仕掛け人は誰だ
ロシア革命はユダヤ革命だった
これほどの人でも666はネロ皇帝だと言う。それはDOUAY BIBLEを知らないからであろう。
666に関してはΩ祖型からバチカンまで参照
動画:成り上がりのツァーリ。明治天皇替え玉くらいで驚いていてはいけない。ツァーリもそうだしキング・ジェームスだってそうだ。
動画:ドイツ騎士修道会
動画:阿片戦争・いかにして英国は香港を手に入れたか
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前200年頃『ヨブ記』第11章17(日本聖書協会訳『聖書』より)
そしてあなたの命は真昼よりも光リ輝き、たとい暗くても朝のようになる。
この節のラテン語訳は「et quasi meridianus fulgor consurget tibi ad vesperam et cum te consumptum putaveris orieris ut lucifer」である。最近になって知ったが、『旧約聖書』のラテン語版には、下に記す『イザヤ書』ともうひとつ、『ヨブ記』のこの部分にも、「lucifer」という言葉が使われていた。ただし、欽定英訳では「And thine age shall be clearer than the noonday: thou shalt shine forth, thou shalt be as the morning」となっており、『イザヤ書』と違い、完全にラテン語訳にしか使用されていない。でも、この節は「もしあなたが心を正しくするならば」、「あなたの命は真昼よりも光リ輝き、たとい暗くても朝のようになる」ということで、正義の行いをする者に対して、「lucifer」という言葉が使用されているのは面白い。
前200年頃『イザヤ書』第14章12(日本聖書協会訳『聖書』より)
黎明の子、明けの明星よ。あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたはさきに心のうちに言った。「わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果てなる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう。しかし、あなたは陰府に落とされ、穴の奥底に入れられる。
現在では悪魔の頂点とされているルシファーだが、聖書ではここにしか登場しない。この一節は、ヤコブが「バビロンの王をののしって」言ったものであり、本来は悪魔の話ではない。しかも、もともとヘブライ語で書かれた『イザヤ書』のこの部分は、ヘブライ語ではHelel ben Shaharすなわち「輝く者」である。紀元前後のギリシア語訳(所謂『七十人訳ギリシア語聖書』)ではeosphorosとなり、これが405年に聖ヒエロニムスによってラテン語に訳された時(俗に『ウルガタ聖書』という)、「明けの明星」を表すluciferとなった。つまり、聖書だけを見るなら、ルシファーという悪魔は、存在しないに等しいのである。だが、次に上げていくキリスト教の神学者たちによって、ルシファーは悪魔化していく。
150年代頃『ペテロの第二の手紙』第16章(日本聖書協会訳『新約聖書』より)
こうして、預言の言葉は、わたしたちによりいっそう確実のものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのって、あなたがたの心の中を照らすまで、この預言の言葉を暗闇に輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。
この部分のラテン語訳は「et habemus firmiorem propheticum sermonem cui bene facitis adtendentes quasi lucernae lucenti in caliginoso loco donec dies inlucescat et lucifer oriatur in cordibus vestris」で、ここでも「明けの 明星」に「lucifer」があてられている。ただし、欽定英訳では「We have also a more sure word of prophecy; whereunto ye do well that ye take heed, as unto a light that shineth in a dark place, until the day dawn, and the day star arise in your hearts」となり、やはりラテン語訳にしかでてきていない。この預言の言葉とは、キリストの言葉のことだ。キリストの預言に「lucifer」が当てられているのは面白い。これが『ヨハネの黙示録』第22章16「わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」へと繋がっていく(ただし、この部分のラテン語訳は「ego Iesus misi angelum meum testificari vobis haec in ecclesiis ego sum radix et genus David stella splendida et matutina 」であり、「lucifer」は使われていない)。
230年オリゲネス『キリスト教原理について』(ニール・フォーサイス『古代悪魔学』より引用)
明らかに、この個所のことばによって、かつてはルキフェルと呼ばれ毎朝昇ることを常としていた者が天国から転落したことが示されている。かれが暗闇の存在だと言う人もいるが、もしそうならば、どうして以前かれは光をもたらす者と呼ばれていたのか。あるいは、もしその光の一端さえ持っていないのならば、どのようにしてかれは朝に昇ることができたのだろうか。
オリゲネス(185〜256)はギリシアの神学者であり、原著はギリシア語で書かれていたはずである。現存している『キリスト教原理について』は、ルフィヌス(345〜410)によってラテン語訳されたもので、おそらくはラテン語訳版で初めてルシフェルの名が記されたんじゃないだろうか。ここで、『イザヤ書』の記述が、バビロニアの王ではなく、悪魔に対してのものだという説が生まれる。この当時、グノーシス主義などの異端宗派が生まれ、オリゲネスら初期神学者たちは異端の信徒たちと議論を交わした。この一節も、二元論に対する、一元論的見解から悪魔について述べられたものだ。なお、この書は『諸原理について』というタイトルで、創文社から全訳がでているが、これを書いている時点で未見。読みしだい、修正します。
399年エウアグリオス・ポンティコス『修行論』序言(上智大学中世思想研究所訳『中世思想原典集成3』より)
そして、このような歌声は謙虚さを生み、高慢の根を断ちます。この高慢さこそ、古えよりの悪であり、「黎明に昇る明けの明星」を地に振り落とすものなのです。
これはエウアグリオス・ポンティコス(345〜399)の神学書からで、後に「七つの大罪」となる、貪欲、淫蕩、金銭欲、悲嘆、怒り、嫌気、虚栄心、傲慢の「八つの想念」について書かれている。これらは悪魔が源になっているが、まだ具体名は出てこず、上に記した傲慢が「明けの明星」に当てられているのみ。原典はギリシア語なので、この頃はまだ「ルシファー」ではないはず。このへん、オリゲネスの影響らしい。また、「罪」ではなく「想念」、仏教の「煩悩」に近いものとされている。ようするに、修行者は煩悩を捨てなくてはならないって内容。
426年アウグスティヌス『神の国』第11巻15章(岩波文庫) ところが、かれらは、預言者の証言に、すなわち、イザヤが悪魔をバビロニアの君主の人格をもって象徴的にあらわして、「ルチフェルよ、朝にのぼっていたあなたは、どうして天から落ちてしまったのか」といい、あるいはエゼキエルが「あなたは神の園の快楽のうちにあって、ありとあらゆる宝石にかざられていた」という証言にどう答えるのであるか。この証言においては、悪魔が罪なくあったときもあることが理解されるのである。
アウグスティヌス(354〜430)も、413年から426年にかけて書き記した『神の国』の中で『イザヤ書』のルシファーを悪魔とみなした。「エゼキエルが」とあるのは、『エゼキエル書』第28章のエピソードで、ここでも「あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に見せ物とした」とあるが、これもイザヤ書同様にツロの王の事を指していて、悪魔を指しているわけではない。アウグスティヌスはもともとマニ教徒だったが、キリスト教に改宗した人物で、「ところが、かれらは、」というのは、マニ教徒たちを指しており、この文章は、マニ教の二元論に対する一元論的悪魔観を述べている文章である。マニ教の二元論が「悪」がもとから「悪」として創られたのに対し、アウグスティヌスの一元論では、もともとは「罪なくあった」ものとして創られたものが、「悪」になったと語っている。ということは、ルシファーという存在は、神学者がキリスト教における一元論神学を語るにあたり、「必要悪」として創られたんではないだろうか。
1130年コンシュのギヨーム『宇宙の哲学』第2巻12金星について(上智大学中世思想研究所訳『中世思想原典集成8』平凡社より)
さてこの星はルキフェル〔暁の明星〕ともヘスぺルス〔宵の明星〕とも呼ばれる。早朝、日の出の前に見られるときはルキフェルと、夕方、日没後に見られるときにはヘスペルスと呼ばれるのである。
コンシュのギヨーム(1090〜1154)はフランスのシャルトルの神学校を中心とした、所謂「シャルトル学派」のひとりとされている。この『中世思想原典集成8』はシャルトル学派の文献を集めたものだが、これを読む限り、ギリシア哲学・神話を取り込んだ、かなり独特の神学が語られていたようだ。この『宇宙の哲学(Philosophia mundi)』でも独特の宇宙論が語られていて、惑星についての解説のところに、ルキフェルが登場しており、ここでは完全に「暁の明星」として扱われ、堕天使ではない。ただ、この金星の説明部分は、「四番目は、プラトン学派に従えば、金星である。熱く湿った星である。そのために有益な星であり、一年で黄道を一周する。この星はしかし、火星と淫行を働くと言われている。というのも、自身の軌道よりも上方に出現するときに、火星への接近を果たしてその利益を減じるからである。また快楽の女神とも言われるが、それはこの星が熱さと湿気とをもたらし、それによって熱さと湿気を帯びた者たちのあいだで情欲が増すからである」と、やはりギリシア神話のヴィーナスと結びついて、快楽を司る存在となっている。あと、対となる存在として、「ヘスペルス」が登場している。
1151年ヒルデガルド『スキヴィアス』(種村秀弘『ビンゲンのヒルデガルトの世界』青土社より)
私は正義であり、節を持ち、悪を欲しない。だが、おお人間よ、汝は悪を認識して以来、悪に手を出している。汝もルチフェルも、汝らはともに堕ちる。なぜなら汝らは――虚無から呼ばれるやたちまち――私に反逆するからだ。汝らは善から悪に向かって落下した。しかしながらルチフェルは悪をすっかり身内に入り込ませて、善を完全に投げ捨てた。彼は善を味わうことなく――死の手に落ちた。
ヒルデガルド(1098〜1190)は、ドイツの女性修道院長。天上のヴィジョンを幻視体験し、その記録として書き記したのが、この『スキヴィアス』である。これは三部に分かれており、ルシファーに関する記述は、1部と3部にある、らしい。翻訳は『中世思想原典集成15女性神秘家』にあるけれど、残念なことに第2部しか翻訳されてないので、私も種村秀弘『ビンゲンのヒルデガルドの世界』の、簡単な解説でしか読んでない。美しい天使であったルチフェルが、神が天上で輝くように、自分も地上で輝きたいと欲したところ、神は「天に二つの神があってはならない」と言い、ルチフェルを地獄に落としたのだという。その後、楽園でイヴをそそのかし、禁断の実を食べさせた。これによって、善と悪が分かれたという。オリゲネスやアウグスティヌスは、神学の解説として『イザヤ書』のルシファーを紹介しただけだったが、ヒルデガルドは幻視により、ルシファーを神話化した。ルシファーの堕天神話はミルトンが描くよりも500年早く、ここになされていたのである。
1158年ヒルデガルド『石の書』(種村秀弘『ビンゲンのヒルデガルトの世界』青土社より)
すなわち神は最初の天使を全身くまなく宝石で飾ったのである。この最初の天使ルチフェルは神性の鏡にこれらの宝石が輝いているのを見て、そこから彼の知識を受けとった。それらの宝石に、神が多くの奇蹟を巻き起こそうとされるのを見てとった。するとルチフェルの精神はおごり昂ぶった。我が身にまとうた石の光輝が神のうちに反射していたからである。彼は自分が神と同等であり、神以上のことをなしうると思った。それゆえに彼の光輝は消されてしまったのである。
も一冊、ヒルデガルドの著作から。この書は正確に言うと、『自然のさまざまの被造物の隠された諸性質の書』に含まれる文献である。この書には、さまざまな宝石について書かれているが、その序文に書かれた文章だ。ルチフェルが宝石で飾られているのは、『エゼキエル書』によってはいるが、とても女性らしい幻視である。
1184年アラヌス・アブ・インスリス『アンティクラウディアヌス』第4巻(上智大学中世思想研究所訳『中世思想原典集成8』平凡社より)
慎重に忍耐をもってついに急峻な小道を切り抜けると、彼女はウェヌスとスティルボンが堅く抱擁している場所に到達する。ここでは、太陽の使者であり一日の先駆けであるルキフェルが輝きを放っている。彼は地上に放つ光の祝福のうちに取次役をなし、彼自身が昇るとともに日の出のための舞台を設け、自らが昇る際に夜明けを告げる。
アラヌス・アブ・インスリス(1116〜1203)は、ギヨームと同じく「シャルトル学派」のひとりとされている。タイトルの「クラウディアヌス」は4〜5世紀の詩人で、彼を意識して、誌的に書かれたのが、この書だ。したがって、内容はかなり神話的であり、ギリシア神話の神々の他、独特の神名も出てくるので、マイナーな神話好きな方は要チェキ。この第四巻は天文学を擬人化した乙女が宇宙を駆ける話で、『宇宙の哲学』と同様、金星についての部分でルキフェルが出てくるが、御覧のように神話的に語られている。この後、「ルキフェルの圏は身動きが軽く、そのそよ風はより爽やかである」ともあり、竪琴の音色やセイレンの歌声に包まれた、美しい場所として描かれている。なお、スティルボンはメルクリウスのことで、こっちでは火星ではなく、水星と金星が結び付けられている。
1214年頃『ロンバルディア・カタリ異端論』(渡邊昌美『異端カタリ派の研究』岩波書店より)
ルキフェルこそ、天地を創り六日にて業をなしたと創世記に述べられてある神である。
カタリ派はキリスト教史において、異端の代名詞となっている、代表的な異端宗派である。ヨーロッパ各地に存在していたようだが、その中でもイタリアでまとめられたとされているのが、この書。現在はバーゼル大学図書館に所蔵されているらしい。カタリ派が異端とされたのは、この引用文を見ていただければ一目瞭然だろう。彼らにとっては、『創世記』のYHVHこそが、ルキフェルなのである。と言っても、カタリ派神話には始原の神が存在する。と同時に、始原の悪も存在する。もともとルキフェルは善たりし天使だったが、「四面、すなわち人、次に鳥、第三に魚、第四に獣の顔を有し、始原なき悪しき霊なるもの」に魅了され、堕天したのだ。地上において神となったルキフェルは「地の泥をもってアダムを形作り、力をもってかの善き天使を中に封じた。彼のためにエヴァを造り、これをもって罪を犯さしめた。禁ぜられたる樹を食せしとは姦淫の謂である」という。カタリ派神話では、ルキフェルこそが、人間の創造主であった。したがってカタリ派は、肉体的なもの、物質的なものを完全に否定している。人間とは、肉体という悪魔の作った牢獄に、善き天使の「霊魂(アニマ)」を持つ存在なのだという。
1260年ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』洗者聖ヨハネ(前田敬作・山口裕訳/人文書院)
つぎに、ヨハネは、智天使の役目をつとめた。ケルビムとは、〈知恵の充実〉ということである。だから、ヨハネは、またルキフェルともよばれる。この名前は、〈光をもたらす者〉という意味である。なぜなら、『ヨブ記』(38の2以下)の言葉を借りると、彼は、無知の夜を終わらせ、恩寵の光の始まりとなったからである。
聖ヨハネは、福音書において、イエス・キリストに洗礼を施した聖者である。ここでは文字通り、「光をもたらす者」という意味だろうが、ヨハネが「ルキフェル」だとされるのは面白い。なお、人文書院版『黄金伝説』は現在絶版だが、新泉社から抄訳の『黄金伝説抄』が出ている。
1273年頃トマス・アクィナス『離存的実体について(天使論)』第20章(上智大学中世思想研究所訳『中世思想原典集成14』)
さらに、オリゲネスは『諸原理について』第一巻で、アウグスティヌスは『神の国』第一一巻でこのことを聖書の権威によって確証する。その際、彼らは「イザヤ書」第一四章で悪魔についてバビロニアの王になぞらえて語られた「ルシフェルよ、暁にのぼったおまえが、いかにして堕ちたのか」という言葉を引証する。また、「エゼキエル書」第二八章では悪魔に対してティルス王の姿で「おまえは類似のしるしであり、知恵に満ち、神の楽園の宝石に包まれて完璧な美麗さであった」と言われ、その後の個所に「おまえの創出の日から、おまえの歩みは完全であったが、ついにおまえの内に不公正が見出された」と続けられている。
トマス・アクィナス(1224〜1274)は『神学大全』を記したローマの神学者。これはサブタイトル通り、天使について述べられた書だが、天使論というより、「デーモン」の語源となったギリシアの「ダイモーン」について講釈されている。「ダイモーン」には善きものと悪しきものとがいるが、その悪しき「ダイモーン」が悪魔のことだという。もちろん、それは二元的なものではなく、善きものとして創られた「ダイモーン」が、自由意志により、悪しきものへと転向したのだという。オリゲネス→アウグスティヌス→トマス・アクィナスと、キリスト教神学におけるルシファー像が受け継がれた。ルシファーが悪魔化したのは聖書ではなく、これらの神学書の系譜によるものなのである。
1307年ダンテ『神曲』地獄編第34曲(岩波文庫)
我はもとのまゝなるルチーフェロをみるならんとおもひて目を挙げ見たりしにその脛上にありき。
文学上にもルシファーが登場。ダンテのルシファーは地獄の最下層に氷浸けにされ、ユダなどの罪人を貪り食っている。
1387年チョーサー『カンタベリー物語』修道僧の物語(岩波文庫)
ルシファーから私は始めるとしましょう、彼は天使であって、人ではありませんが。というのは運命の女神は天使には何ら害を与えることはできないけれど、しかし高い地位から彼はその罪のゆえに地獄に落ち、今もなおそこにいるのですから。あらゆる天使の中でも最も輝けるルシファーよ、汝は今や悪魔(サタン)となり、転落したる悲惨な境涯から逃れ出ることはできないのだ。
チョーサーの小説の一節だが、この頃には完全にルシファー=サタンとなっていたことがわかる。
1486年シュプレンゲル&クラメル『Malleus Maleficarum』Question IV(JD訳)
同様に、高慢の悪魔はリヴァイアサンと呼ばれ、それは「付加」を意味している。なぜなら、ルシファーが私達の最初の両親を誘惑した時に、高慢によって、彼らに神性の付加を約束したからだ。彼について、主は言った、私はリヴァイアサン(その古の、とぐろを巻く蛇)と同時に現れるだろう。
これは日本では『魔女への鉄槌』と呼ばれる、魔女狩りテキスト。その中に悪魔に関する簡単な解説がある。ここではリヴァイアサン=ルシファー=エデンの蛇という扱いがされ、「高慢」にあてられている。
1587年『実伝ヨーハン・ファウスト博士』(松浦純訳『ドイツ民衆本の世界3 ファウスト博士』国書刊行会)
ご主君ルチフェル様、つまりこれは、天のまばゆい光から追われたためのお名前ですが、ルチフェル様は以前は神の天使、智天使で、天で神のわざや造られたものをみなご覧になっておられました。たいへんご立派なお姿で、きらびやかに飾られ、権威にあふれ、堂々とお住まいになって、神に造られたどのものより、金や銀よりずっときらめく、目の明るさや星々の光もかすむほどの輝きを神から受けておられたわけです。なにしろ神はルチフェル様を造るとすぐ、神の山の上において侯の位を授け、なにひとつ欠けるところのないようにしたものでした。それが、ルチフェル様が尊大に思い上がられて東の天にわが身を高めようとされたとたん、神に天の住まいから追われて、おられた座から、燃え尽きることのない火の岩へと突き落とされてしまわれたのです。つまり、ルチフェル様は天の光輝をひとつに集めた冠をいただいておられた。それが、わざわざ、むこうみずに神に逆らわれたばかりに、神にお裁きを愛けて、すぐに地獄に堕とされ、もう永久に逃れられない羽目になってしまわれたというわけです。
ちょっと長くなったが、これはメフィストが語った、ルチフェルの堕天神話である。天界にいたころのルチフェルは「立派な大天使のおひとりで、ラファエルと呼ばれておられた」んだそうだ(原文ママ)。地獄に落ちては、「鎖に繋がれ、流鼠の身で引き渡されて、審判の時までとめておかれているのだ」とされ、「東の地獄の王」となっている。ファウストの前に姿を現した時の姿は、「これはふつうの男くらいの背丈をして、毛むくじゃら。赤っぽいリスのような色で、ちょうどリスのようにしっぼを高くあげている」という。
1612年ヤコブ・ベーメ『アウロラ』(ジョルダーノ・ベルティ『天国と地獄の百科』より引用)
ミカエルが父なる神の姿とその美をもとに造られたように、ルシフェルも神の息子の姿と美をもとに造られた。‥‥ルシフェルがその美しさに気づいたとき、彼はすべての者の上に立とうと思った。
ベーメ(1575〜1624)はドイツのプロテスタントの神秘学者。ルシファーの堕天の原因が、その「美しさ」にあるあたり、女性ファンをうっとりさせる一節だ。
1612年セバスチャン・ミカエリス『驚嘆すべき物語』(ロッセル・ホープ・ロビンズ『悪魔学大全』より引用)
熾天使の軍団の中でも最上位にあった三名、すなわちルシファー、ベルゼブブ、レヴィヤタンはいずれも神に反逆して堕天した。‥‥キリストが冥府に降ったとき、ルシファーは鎖に繋がれたまま、万軍に指令を発していた。
ミカエリスは17世紀のエクソシストで、マドレーヌ修道女に憑依した悪魔バルベリトから教わったとして、悪魔の階級を書き記した。この階級は、今日でもいたるところで引用されている。
1629年『教皇ホノリウスの書』(ジョルダーノ・ベルティ『天国と地獄の百科』より引用)
ルシフェルよ、お前を呼びお前に願う、生ける真の神の名において、すべてを言葉によって創造した聖なる神、命ずれば行われる神のために。神の強力な名によってお前を召喚する。
この書は魔術実践本で、これは悪魔召喚の呪文から。
1667年ミルトン『失楽園』第7巻(岩波文庫)
だから、わたしはお前に話しておきたい――思えば、あれは天からルーシファが(そうだ、それが、星の中の星ともいうべきあの暁の明星以上に、かつては天使の群れの中でも最も輝ける天使であった彼の名だ)焔をあげて燃える仲間と共に、混沌の世界を真っ逆さまに己の行く場所へと転落し、御子が味方の天使たちを率いて凱旋されたときのことであった。
『失楽園』は現在の反逆天使としてのルシファー像を創り上げた、最高の悪魔文学だが、ミルトンは清教徒革命のクロムウェルの秘書を務めた、れっきとしたクリスチャンである。革命の挫折が、サタン=ルシファーに投影され、力強く美しい滅びの美学が描かれている。
1812年コラン・ド・プランシー『地獄の事典』ルシフェルの項(講談社)
ルシフェルはヨーロッパ人とアジア人を支配し、紅顔の美少年の姿で現れる。怒ると顔を真っ赤にするが、怪物じみたところはない。
プランシーの悪魔事典にも、当然ルシファーの項目はある。美少年顔の挿絵もついている。ルシファーを呼び出すのは月曜日で、お礼は「ハツカネズミ一匹でよい」とある‥‥なんだか安っぽいなあ。かなり俗っぽいイメージ化されている。
1818年『天地始之事』(中城忠・谷川健一『かくれキリシタンの聖画』より)
七人のあんじょ頭じゅすへる、百相の位、三十弐相の形。
『天地始之事』は長崎の隠れキリシタンに伝わった聖書で、その内容は正伝以外もとりいれられており、とても面白い。この中でルシファーは「じゅすへる」と呼ばれ、「七人のあんじょ頭」、七大天使の長となっている。「じゅすへる」は「ゑわ」と「あだん」に禁断の「まさん木の実」を食べさせたため、天帝から天を追放され、「雷の神」となった。
1860年エリファス・レヴィ『魔術の歴史』序章(鈴木啓司訳/人文書院)
ルシファー! 光をもたらす者! 暗黒の精霊に与えられたなんと奇妙な名であろう。なんとしたことだ、光をもたらし弱い魂を盲にするのはこの者か。然り、間違いない。なぜならキリスト教の伝統は、このことを告げる神による啓示と霊感に満ち溢れている故。
エリファス・レヴィの『魔術の歴史』では、引用したこの序文と、「第三之書キリスト教の啓示による魔術の結合と聖なる実現 第三章悪魔について」にルシファーに関する言及がある。秘儀参入者的なルシファー観は、「彼らによれぱ、光を伝達しあらゆる形を集積することからいみじくも《ルシファー》と呼ばれている大いなる魔術的媒介物が、創造物全体にあまねく行き渡っている中間力なのである。このカは創造と破壊両方に働く。アダムの失墜はエロチックな陶酔であり、彼から生まれてくる者たちをこの致命的な光の奴隷にした。感覚を占拠する情愛はどれも、死の淵にわれわれを引ぎずり込もうとするこの光の渦なのである。狂気、幻覚、幻視、恍惚は、この内部の発光体の極めて危険な昂揚状態に起因する。要するに、この光は火の性質を有しており、これを賢く使えば熱と活力を得るが、逆に便いすぎると焼かれ落かされて無に帰さしめられるのである」という。エリファス・レヴィは「星気体」という魂の発する光(あるいは魂そのもの)の存在を説いており、ルシファーというのは、この星気体に光をもたらす、魔術的媒体であるという。それは強力な力を持った光だが、強力ゆえに、狂気や幻覚などの副作用を起こすこともある。また、「秘儀参入者にとって、悪魔は一箇の人格ではない。それは善のために創られながら悪に奉仕することもできる力である。自由のための道具である。彼らは生殖を支配するこのカを、角を生やしたパンの神話で表現した。
エデンの蛇の兄弟であるサバトの雄山羊(注:図はゴヤ作:悪魔たちのサバトより)が出てきたのである。それば光をもたらす者あるいは《光を発する者》であり、詩人により伝説上の偽ルシファーに仕立てられたのであった」とも言い、これはエロスの力、フロイトの言う「リビドー」的な解釈ではないだろうか(管理人注:性と文化の革命家たち参照)。
1883年スタニスラス・ド・ガイタ『呪われし男の言葉』詩集『黒い女神』(幻想出版局『幻想文学36』より引用)
魔王ルシフェルよ、汝は天界より隕し星、はた地獄の闇になげられし好智ある華、さては瞋恚の炎を燃しつづけて、胸一杯に、叛逆の雄叫あげる天使。
スタニスラス・ド・ガイタはフランスの〈薔薇十字カバラ会〉の総帥だった人物。日本では、詩人としてより、作家ユイスマンスらと呪術戦を行ったオカルティストとして紹介されることが多い。
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投稿者:天宙眼
達人様へ
長い間、貴重な研究記事及び文献の引用を、有り難う御座いました。今回の記事でブログを閉じられることも有り得る旨を読み、もしそうなれば、大変残念では有りますが、世の情勢を考えると、もうそういう時期に入ったのかも知れないと、妙に納得する所も有り、複雑な心境です。私はこちらの記事を読みながらも、勇気がなくて何も出来なかった人間なので、頑張って下さいと言える分際では有りません。只々、感謝するのみです。本当にお疲れ様でした。
彼らの「終末作戦」も三年半続くと何処かで読んだので、三年半後、もし生きていたら、達人様のサイトを検索して、もし有れば、またウィットに富んだ文章を読みたいと存じます。
それでは是非、刻印を受ける事無く、生き残って下さい。神の御加護が有らん事を。
無名の一般読者より