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1999年9月
(09.15)
貴重な休日だというのに、何処にも行く気が起こらず。朝起きて昼寝する。
夜思いついたようにVに撮ってあった「きらきらひかる2」観る。今は重いものはとても観られないので
丁度良いか。冒頭からイマジナリーライン無視のカット割りで演出・河毛のヤンチャ振りがモロ出ていたが、格好つけようと粋がってる割には決まらないレイアウトが続いたりと、やっぱりツッパリハイスクール系だなあ。いいけど。
それにしても深津絵里の初々しさ!いいねえ。それ以上に三谷夫人のリアクション一つに至る怪演。それとギバちゃん。
てな訳で深津繋がりで「踊る大捜査線」年末SPを流す。
(09.16)
小説二篇進まず。エネルギー未だ不十分。いや、方向が定まらない。「さいご。」のコンテも手付かず。
どう生きたって、私の人生。私のもの。
(09.17)
今日やっとHP開設。
何もしないで寝るよりは、まし。
(09.19)
今日も奇跡的に休日。神はそれでも余地を残して下さったか。
散髪のついでにビデオ借りて三条の十字屋でCD漁る。
するとなんと事もあろうかC.クライバーの「カルメン」1978年ウィーンライブが海外版のビデオになって4200円(税抜)!
これも神の賜物か。生きる勇気とはこないな所から湧き出ようというものか。
早速帰って拝聴。ああ、ちゃんと映像撮れてる!(海賊版てのは画質も編集も酷いやな)
カルロス物凄い振り!オケに一息入れる暇も与えない。優雅で天国的極まりない
そのタクトから出る音は正に悪魔的。
弦が炎を吹いてら。さしものシュタッツオパーも必死!
すっかり興奮して第一幕終わればカーテンコールは物凄い喝采。しかしそれ以上なのが第二幕のカルロスの入場で起こった割れんばかりの歓声!
何だか、急に寂しくなったのでそこからは観ず。
代わりに黒澤映画二本、「どですかでん」と「生きる」を借りて来て内「どですかでん」観る。
最も思い入れの深い黒澤映画なのだが、今は辛過ぎて観られなかったか。これも途中まで。
(09.20)
芳蔵君から「御前のHP暗くて怪しいわ」。
それで良い。今は自己満足を得るために必死なのだ。
(09.23)
本日リンクコーナー設置。芳蔵イラストよこせ。
(09.26)
前日の酒が残ってフラフラする。
また某レンタルビデオ屋にて借りる。今度は「屋根裏の散歩者」と「トマトケチャップ皇帝」。
すっかり邦画づいてしまった。だって面白いもん。
選択ミスもあるだろうが、とにかく最近の洋画(というかハリウッド映画)は良いとも、上手いとも思わない(「MATRIX」観て更に強くなった)。
映画は見世物(=スペクタクル)という意見も聞くが、同じ1800円払って二時間拘束される見世物ならばポルノ映画の方が遥かに実用的。
洋画は気が向いたらビデオで、で暫くいきそう。
今年唯一の例外は「EPISODE T」。ただこれも、
「ルーカスこそやっぱクロサワ直系の弟子やん!」という確信が影響したか。
「屋根裏」。実相寺で期待したが意外とあっさり。ちっとも水平にならないカメラとか
アニメのような入射光とかに眼は行ったが、尺足らずの雰囲気。
折角の濃い登場人物達を生かし切れなかったという感じ。
その後遂に「生きる」観る。突き刺す痛みこそなかったが胃に重みがずっしり。
作風としてどうしても小津調にならざるを得ないのを気にしたのか、先生の演出はいつものダイナミズムがすっかり影を潜め至って淡白。
移動撮影の連続もモーションピクチャーの醍醐味を味わわせるためではなく、あくまで志村喬の生き様をつぶさに捉えんとする凄味。
しかし、何という素晴らしいストーリー!
黒外套の男の台詞の通り、「ファウスト」の影響もあるのだろうが、胃癌の市民課長は果たして人々に対する善行に生きる意義を見出しただけなのか?
そんな、そんな薄っぺらい訳ないやん!ゲーテと一緒にするない!
息子始め酒や快楽、若い娘等手当たり次第に涙ながらにみっともなくすがり付き、少しでもこの張り裂けんばかりの孤独感を癒してもらおうとして悉く裏切られ、最早人の愛情でも悦楽でもなく、恐らく使命や義務や慈善からもかけ離れた、公園という何の変哲もないもの(しかもそれは、小田切みきの作っていたウサギのおもちゃのように愛らしさ等の具体的情感すらもたらさない!)にしかすがり付く事の出来なかった絶対的孤独、絶対的絶望!
そして、それでもあくまで逃げずに(間違えてはならない。最も忌むべき逃避とは何かにすがる事ではなく、理性の力を借りて自分を強引に了解させ、その恐怖を抑圧する事だ)、その生と死の絶望を最期の時まで真正面から受け止め、対決しようとしたその勇気と潔さ!
黒澤のエンタ−テイメント性しか認めない愚か者よ、黒澤の「活劇性」、即ちモーションがエモーションを統括するその映像技術の素晴らしさばかりを殊更取り上げてその実天才の無邪気を笑わんとするインテリ供よ、
ああ、呪われてあれ。
ここまで人と、そこに根付くドラマの壮絶さを見切った映画人が他にいようか?
ここまで真剣に、誠実に自分の生と向き合い続けた人間が他にいようか?
と書いて、またため息。
1999年10月
(10.01)
ああ、10月。
今は映画観る事くらいしかないか?完全な思考停止状態。部屋にはレンタルビデオが絶えず4本以上。
深作欣ニの新作「おもちゃ」にドギモ抜かれる。
「一部」を除いて、大変「上手い」映画だ。舞妓はんの物語なので深作アクションは影を潜めたが、それにしてもアクションつなぎの手本とでも言うべきそのカット割り。そのテンポの良さ!
ヒロイン時子が全篇を小走りで駆け抜ける。その下駄の軽やかな響き(「じゃりン子チエ」みたい!)が作品を象徴する。
確かにバタ臭い所も幾つかあったのだが(時子が想っていた男の職場を訪ねるシーンとか)、決して湿っぽくならず且つ 芸妓の悲しみと心意気を小気味良く、たくましく、そして鮮やかに描いている(富司純子の気品!)。
しかし問題の「一部」。この映画の目玉。
ラストの「お水入れ」のシーン。この作品の情緒が充満して色彩豊かな感動に包まれる、筈のシーン。
宮本真希見事な脱ぎっぷり!ああそれなのに・・・
耳に飛び込んできたたおやかな弦の調べ。ただ、それが「ジャイアントロボ」でなければ・・・。
やい天野正道!!!まんま流用やんけ!!手抜きにも程がある!!いや流用云々以前に何が悲しゅうて濡れ場でシンバルとティンパニを聴かにゃならんのだ??
宮本脱ぎ損。ペットのファンファーレにコーラス重ねて、対旋律にホルンってそりゃ京の情緒でないっしょ!!
暫しボー然、後腹が捩れる程爆笑。まともに観ていられなかった。
でもふと思う。これ、やっぱり深作の欲しかった音だとしたら・・・。
何か狙ったのかなぁ。
ってこのページ、映画批評コーナーに堕して良いのか??
ま、いいや。
(10.02)
深夜、自分の仕事を観る。
他人事のように大笑いした。楽しかった。
確かに、あの仕事は、楽しかった。
知人の反応も知りたかったが、殆ど宣伝してないから、観てないか。
今は、昔。
(10.05)
頭、まだ沸いている。
ボーっとしてる。
創作系手につかず。このHPも完成しない。
寺山修司「トマトケチャップ皇帝」観るが、シラケた。
公開当時はもっとショッキングだったのかも知れないが、今となってはアングラと聞いて思いつくものをただひたすら並べていったという印象。
Hなショットもダラダラしていて、テンション低い。
ダラダラ。ああダラララ。
(10.10)
滅多にない連休。でも何も出来ず。無駄に過ごす。
映画だけはよく観ている。最後の意地か。
市川崑「東京オリンピック」。かなり長かったが良い映画だ。
とにかくフレーミングの美しさ、オリンピックの「肉体性」のみに絞った画の
切り取り方は見事。ただ、公開当初「記録か芸術か」と揉めた作品にしては、期待が外れて随分ドキュメンタリーな印象。これも後の世が真似し尽くした結果か。
それにしても、演出しでぇなー。
(10.11)
知り合いから「黒澤明展」を知る。行かねばなるまい。
行く前に借りてるビテオの処理。「まあだだよ」。感動。
黒澤は徹頭徹尾クロサワ足り得た事を再認識(「摩阿陀会」の望遠レンズで捕えた生き生きした迫力!)。
それにしてもカラーになってからの黒澤映画はつまらんだの、やっぱり娯楽映画撮ってた頃の方がが良いだの、そういう方々は普段一体映画の何処を観ているのだろう。
やはり氷山の一角だけなんだろうか。水面上のものだけを見ている訳で、そういう人に限って創り手の方にいる訳で、案の定水面上のものだけを作ろうとして、結果、それをお水に浮かべたら殆ど沈んじまう訳で。
「とにかく解り易く」だあ?奢り高ぶるのもいい加減にしなさい。客を嘗めるな。
彼等にはしっかりと水面下まで見えてますよ。
なのにそんな妄言を金科玉条にして表現者としての真剣勝負を避け、自分の情念を出し惜しみして大人ぶるなんざ(ああ、そんなの考えただけで恥ずかしい!)、結局、客から総スカンだ。ザマアミロ。
イカンイカン、今日はどうかしてるぞ俺。
えー、つまり「まあだだよ」な訳で。
しかし正直、私もこの映画だけは「なんかダサそう」と敬遠してました。反省。
何だか私には内田先生が、黒澤先生とダブって見えまして、これってつまり、黒澤先生が御自身を祝福するために撮ったのではないかと。
「色々あったけど、こんだけ長くやって結構頑張ったんじゃない? ようやったなあ俺」と。
そんなセンチメンタルな吐露に感激致した次第で。いや、これも私の邪推ではありますが。
(こんな事書くとまた「映画に不誠実だ」なんて言われるのかな。ウヒョヒョ)
んでもって「黒澤明の世界展」な訳で@京都駅ビル「えき」。
入る前から妙な緊張感で汗びっしょり。あカメラ忘れた!ショック。
先生の台本にメモがびっしり。コンテ。わあやっぱ上手いや(当たり前か)。
あ、菊千代の刀や!こっちに仲代の被った兜!うわっおばあちゃんの逆さ向いた傘!
「南山寿」の額縁!!(って解んない人にはサッパリやろな)すっかりミーハーである。
感動したのは様々な演出メモに刻まれた「格言」の数々。人に見せる訳でもないのだから、恐らく先生もこんなのを綴っては自らを励まし、奮い立たせていたのだろう。
その中でも、「素晴らしき日曜日」の台本の、ある1シーンのト書きにメモってある、
「ここから一本撮るつもりで押せ」
ああ、これこそ物創りの気迫だよなぁ。感激のまま家路に。
しかしながら再び思う。有名なエピソード、
「赤ひげ」で、劇中使われた箪笥の開ける筈のない引出しに食器を入れた
(因みにこれは監督の命令ではなく美術の悪戯?まじりの行動だったと記憶しているのだが・・・)事を「不合理的」と憤慨したり「無駄な事」とあざけり笑って見せるヤツに、果たして「物創り」の資格があるのだろうか?
氷山の一角だけでは、氷山に非ず。侮る者はタイタニックよろしく沈むのみ。
(10.17)
枯山水メンバーの誘い、返答すらせず。申し訳ないがまだ一人でいたい。
「HANA−BI」観る。泣けた。泣けた。ああ泣けた。
北野の映画にしては心中もので一寸甘いだの、インサートされた絵画があざといだの色々な批判はまあ解るが、これくらいが私のフィーリングにはよく合っている訳で(やっぱりベタ好み)。
劇場で観た時、映像に溢れる「青」の余りの深みと優しさにすっかり参ってしまい、後にそれが「キタノ・ブルー」と称されている事を知ったのもこの映画。
本当に言葉にしにくい、繊細な映画。鐘の音と共に猫がシンメトリーで止まるという奇跡を成し遂げた映画。たけしの崩れた右顔面を最大の武器にした映画。岸本加世子がたまらなく可愛く、いとおしくなる映画。
ああ、胸一杯。これが映画を観た気分っていうんだろな。
当分は黒澤−市川−北野のローテーションで観よっと。本物以外は観とうない。
ところで、前回の続き。
「コマネチ!」もついでに読み返す。そこに吉岡忍が「HANA−BI」のリポートを載せているのだが、この作品にぴたりと寄り添った(それはまるで岸本に寄り添うたけしのよう!)
名文。その中の一節。前回の文章における私の舌足らずを埋めてくれる見事なもの。以下引用。
「映画は娯楽だ。みんなが楽しめるように、わかりやすく作らなければいけない・・・そんな業界常識が映画とテレビの垣根を取っ払い、結局は、寝転がってテレビで見られるものをわざわざ映画館まで行くか、という映画離れを引き起こした。ていねいな作り、といえば聞こえはいいが、派手なアクションやら愁嘆場の一から十まで見せるばかりで、省略を知らない。抽象を理解しない。したがって情念も理念もわからない。」
これ、わっかるかなぁ。
まったく日本人というヤツは、モノを生み出す才能はあるクセに、モノ味わう才能はカラッキシないんだから。
いつも。
昼から京都市内へ出て、ビデオをレンタル。市川の「鍵」と溝口健ニの「西鶴一代女」。
三条で本購入。キネ旬と「巨匠たちの映画術」(西村雄一郎)と「黒澤明の映画術」(樋口尚文)と「ゴーマニズム宣言7」(小林よしのり)。こんなに徹底しなくてもねぇ。
十字屋のクラシックコーナーへ。来る度に居心地悪くなっていく。何も買わず。
剥ぎ取られたものは、大きい。今は我慢。
(10.18)
キネ旬10月下旬号では「日本映画オールタイムベスト100」だそうな。
私もつられてやってみた。日本映画ベスト10。
○七人の侍
○HANA−BI
○もののけ姫
○THE END OF EVANGELION AIR/まごごろを、君に
○黒い十人の女
○どですかでん
○火垂るの墓
○天空の城ラピュタ
○踊る大捜査線THE MOVIE
○萌の朱雀
あら、やっぱりメジャータイトルばっかり。もっと映画を観なくっちゃ。
でも、死ぬ直前に一度は観直したい作品ばかりなんだな。この10本。 因みに、次点は「生きる」と「北京原人」。
(10.30)
ここ数日間、醜態の連続。
情けない。その醜さを言い訳しようとは思わない。これが、ワタシ。
この2ヶ月、ただ、自分の人生を生きているのはあくまで自分、という子供でも解る事をひたすら叩き込まれただけ。
自暴自棄の醜悪。何かにすがって少しでも楽になろうとする惨めさ。
そして激しいしっぺ返しを喰らう喜劇。
逃げようにも、血路を開けない。闘おうにも、武器がない。
周りに汚物を撒き散らす。体を清めようにも、まず立ち上がれない。
そんなこんなで、2ヶ月。
「そんなことで悩むな」と言われる度、胸に突き刺さる。
「自分の気持ちなんか誰も解ってくれない、なんて下らない考え起こすな」と言われる度、ハラワタが潰れる。
じゃあ、あなた解るの?
解らんもんは、解らん。当たり前の事に何故腹を立てる?
他人の病を思い遣ることなく自分の病に固執する者をエゴイストというならば、 エゴイストと言われても良かった。いや、何をどう言われようと、どう扱われようと、どうでも良かった。
ただ今は、それを総て受け容れたい。居直った訳ではない。あくまで、「これが自分」、という事。
感情のコントロールが効かず、重い鬱に苛まれ、ぬめる地を這いつくばってドロと汚濁にまみれながら、
周りの迷惑顧みずもがき苦しんだ、とことん格好悪い私のザマを最早どう思われても構わない。
しかし、これこそ私の生き方だと、私の人生だと、これだけは胸を張って言える。
格好を付けない。ポーズを取らない。自分の中の絶望やエゴや嫉妬や歪んだコンプレックスと真っ向から闘ったこの2ヶ月に、わたしは引け目を感じたり、フタをしたりはしない。
この生き様こそが、わたしの最大の武器となるのだ。これまでだって、そうだった。
・・・なんて強がりも、ようやく振っ切れたから言えた訳でありまして。
みぃんな、悩んで、大きくなりまさぁな。ねぇ。
(10.31)
えー、ホント映画しか観てないな俺。
「STATION」リニューアル中は貸出ししないとか。ショック!
当分は宇治の二件のレンタルビデオ屋でもたすか。
今日そのリニューアル前の最終日。一気に4本借りる。
市川崑「黒い十人の女」(ダビングの為)寺山修司「書を捨てよ町へ出よう」木下恵介「二十四の瞳」それとヤン・シュワンクマイエル短編集。
意地になってるな。邦画萬歳!!
午後C反氏と落ち合って、写真撮りがてら三条に。
日が暮れて鴨川へ、等間隔・・・隣がC反だけに虚無感倍増。
11/3に何か撮ろうと(「さいご。」はホンが・・・)約束。休めるかな?
徐々に創作系から火が着き始めた。何かしよう。
命みじかし。恋せよ乙女。
それにしても、最近何観てたっけ?
作品と感想を意味もなく列挙。
○北野武「KIDS RETURN」 少し青春臭くしすぎた?でも間が雄弁だ。
○北野武「その男、凶暴につき」 この頃は「キタノ・レッド」。ひたすら赤。怒りの赤から哀しみの青へ。ンー。
○木下恵介「カルメン故郷に帰る」 偉大なる中庸。デコチャーン。人情落ちに堕さないバランス感覚。
○黒澤明「素晴らしき日曜日」 嗚呼「未完成」!!真夜中でもテレビに向かって拍手。これはしなきゃ。
廃墟でベーカリーを夢見る二人が決して浮いて見えない。クロサワの情感は誠に音楽的。
○黒澤明「デルス・ウザーラ」 ウザかった。色がくすんで前へ出ない。思った程ロシアの雄大さが見えて来ない。絶望と死を乗り越えた直後の作品だけに、調子出ずか?デルスの姿は正に当時の先生だったろうか?
○黒澤明「虎の尾を踏む男達」 あ、QTU(クイック・トラック・アップ)!!ズーム嫌いだって言ってたのに。そこに迫る
大河内傳次郎の物凄い形相!!このシーンのモンタージュの鮮烈さは最近の映像表現も顔負けですな。
○市川崑「鍵」 市川はよく「空ショット」の名人と言われるが、私は敢えて「空フレーム」の天才と言いたい。だだっ広い大映スコープをわざわざスタンダード分しか使わず、残りはひたすら「闇」。そこに漂う吸い込まれそうなエロス。
○ケン・ラッセル「マーラー」 わかりやすー。コジマ・ワーグナーいうたらジークハイルかい!画的には楽しいけど。しかしオケの汚い音!どうしたハイティング=コンセルトヘボウ!(サントラのせい?)5番アダージェットが何故か移調。
それにしても、日記を公開するってつくづく露出趣味よねー。
でも、そんな自分の醜態に興味が湧きつつあるのもまた事実(だって、創作なんて露出趣味の最たるものだもんな)。
フフフ。
十字屋で購入した竹松舞のニューアルバム聴く(テンシュテットの「マラ6」を買いに行った筈が・・・)。
「亜麻色の髪の乙女」。その青白い透明感。涼やかなパースペクティヴ。ドビュッシーを誉めるべきか舞ちゃんのハープを誉めるべきか?
って舞ちゃんに決まってるっしょ!
マイヒャーン!!(まだ少し無理してる)
すっかり舞ちゃんにホの字の貴方はhttp://maiclub.comへGO!
最近、コーナー名を「掃き溜めノオト」に変えようかと考え中。
どっちでも一緒か。
1999年11月
(11.01)
其の壱。
TBSドラマ「ケイゾク」最高!
ようやくビデオレンタルが始まって、1話観て一気にのめり込んだ(本放送は乗り遅れた!)。
悲しいかな、二番煎じの宿命。「踊る大捜査線」といたる所でカブッてしまうのは否めない。
しかし、そんな世評をあざけり笑うかの如き映像センス。その苦味と鋭さ!
画の色合いからしてサイケでヴィジュアリスティック。TBSが本気を出せば、フジのドラマなど(「踊る」さえも!)忽ち野暮なお子様番組になってしまうという好例である(OPからしてそう。中谷美紀の歌声がまたいいこと!)。
また、あり余る映像テクニックをただ陳列しているだけでなく(某日テレによくある話)、ドラマの必然性(ドラマの内面が醸し出す「気分」の必然性、と言うべきか)の中で完璧に統御しているのも大人の味。正に横綱相撲。
しかし、また先を越されたという感慨ひとしきり。まあ順番競ってもしょうがないんだけど。
其の弐。
N村氏等が学祭合わせで出すらしい文芸誌??に何か書けと言われたので、咄嗟に思いついたミもフタもない物語を一篇送ったら、結構好評。
面白かったのは、「ロマンティックなのにどこか歪んで残酷な空気がわあっと沸き上がってくる」のが「山本ワールド」の特徴だとか。
へぇー気付かなんだなぁ。面白い人が読むと作品も幸せだねぇ。モノの出来不出来関わらず。
あ、因みに、今年で京大アニ同20周年だとか。
アニバーサリー映像でも作るか。腕なまるもんな。でもその前にキャプチャボード何とかしなきゃ・・・。
其の参。
岩井俊二「スワロウテイル」。ラスト30分はB級無国籍香港アクション映画(或いは、ジャパニメーション)。
見事コロッ、と。コトン、と落っこっちゃった。どうして?岩井のオタッキー魂が辛抱出来なかった?
それまでは欧米人の日本観に出来るだけすり寄った(と言えば聞こえは悪いが、それを敢えて逆手に取った)良い世界を作ってたのに・・・。
2時間半もぶっ通しで手揺れのカメラは酔うぞ!とかそのせいでアクションのインパクト薄いぞ!とか唐突にワラワラ涌いて出たガキ供は何?とか、ただ、そんな諸々の不満も総て伊藤歩のタトゥーで許しちゃうのでありました。
かわいいから、許す。万物の真理。うそ。
でも、個人的には、やっぱり好きな監督。しょうがねぇな。
(11.04)
N村氏に急かされるように「書を捨てよ町へ出よう」観る。
確かに「トマトケチャップ皇帝」よりは面白かった。でも、一言で言うなら、
「歪んだ、サービス精神」?。
どーも、どのショット観てもこちらのツッコミを寺山がてぐすねひいて待ってるようで、
どーも、アヴァンでクレイジーなのが小手先のテクニックだけに終わっているような気がして、
「どうだい、俺はこんなにみっともなく狂ってしまえるんだぜ」というナルシシズムばかりが見え隠れして、
冷めちゃうんだよなぁ。寺山の流れを汲む学生演劇と重ねて見てしまっているのかな?
美輪明宏の言うような「情けないまでの繊細さ」は少しは感じ取れるんだけど、
それはいつも画面上の表現のそのまた向こうから発せられているようで。
まあ、寺山にはパイオニアとしての功績はあるんだろうけど。何か盛り上がれない。
そんな寺山の情けなさと歪みっぷりが見えて唯一オオッ、と思ったのは、やっぱりラストショットで寺山に寄り添って映ってた美輪だった訳で。「ウワー並んで映ってるよー」みたいな。
美輪は良かった。さすが山犬。
俺はそれなら寧ろ、その前に観たヤン・シュワンクマイエルの狂いっぷりの方が好きやなぁ。
シュールレアリスムスだとか反体制だとか下らない文句並べる以前に、
「俺にはこう見えるんだよ、しょうがねーじゃん」という凄味がある。
この真剣さがたまらない。自分の狂気から要らない距離感があると駄目なんだろうな、俺にとっては。
・・・そう言えば、ここでアニメの話題出すの初めてじゃない?
こういうところにも、自分のコンプレックスがチラチラして、嫌らしいわね。
ついでだから、シュワンクマイエルの一言。
「私の映画の源は、幼年期と夢だ。
自分の子供時代と、夢への回帰。
芸術家はこの二つの泉から作品を汲む。
幼年期と夢こそ、人間にとって最も強烈な体験だからだ」
ありがちだけどね。
(11.07)
追記二つ。
○「ケイゾク」について書いた時、
「あり余る映像テクニックをただ陳列しているだけでなく(某日テレによくある話)」
と、書いたのだが、
「ケイゾク」の監督・堤幸彦は何を隠そう「金田一少年の事件簿」「サイコメトラーEIJI」の監督だったりして。
今日「ケイゾク 事件ファイル」(角川書店)買って来て吃驚。あー多分あん時もこの人の演出イメージしたんだろうなぁ。
でも日テレの画面は何処かバタ臭いというか、陰鬱な印象があって、それと堤の映像とが絡むと嘘臭さが先行してしょうがなかった(という以前に、ジャニーズ供のせいだろうな)んだけど、TBSの画面はハイキー気味で実に艶やか。シルクの肌触り。それにピッタリ嵌ったのではないだろうか。
しかし、「エヴァ」の影響って思った以上に引っ張るね。凄いぞアンノ。
http://www.tbs.co.jp/keizoku
TBS「ケイゾク」サイト。みんなで見よう。
○で、「マジック・ランチャー 庵野秀明×岩井俊二」(デジタルハリウッド出版局)を読み返すと、
岩井が「周りが「クサイよね」と言って簡単に捨てちゃうものをゴミをさらうように丹念に拾っていって、自分の「マジック」で蘇らせる事に醍醐味を感じる」みたいな発言をしていた。
我が意を得たり。やっぱり「スワロウテイル」はラスト30分の「クサイ」二流無国籍アクション映画をどうしてもやりたくて、そこにまで持っていく為に四苦八苦した記録なのだ。
確かにそれはどう見ても失敗だし、しかも相当バカ映画的失敗なのだが、私が笑いながらも呆れなかったのは、岩井のポーズではない邁進っぷりを見て取れたからなのかも知れない。
これが、岩井作品へのイメージ(=先入観)としてありがちな、「どう?イケてるっしょ。ウォン・カーウァイっぽいっしょ?
ついでだから最後に香港アクションも足しとくよ。その方が若い客喜ぶっしょ?俺若者の心掴むの上手いしさぁ」みたいな作りを実際していたのなら、ウンザリしただろう。
失敗だけど、愛すべき失敗だった。それにそれまでの2時間は見事だったのだから(特に三上とCHARA達がライヴハウスを開く所はいい。ここでは例の手ぶれカメラが、まるでみんなの高揚する心臓の鼓動を伝えているよう!)、文句言う方が、無粋ってモン。
で、今日の本題。
某所で一時話題沸騰となったらしい「世界中がアイ・ラヴ・ユー」遂に観る。
タイトルからして鳥肌立つわ。ナタリー・ポートマン出てなきゃ食わず嫌いで終わったろうな。
でも、良かった。観終わって非常にスッキリした!
冒頭からいきなりミュージカルで「ギニャー、こっち系の映画か!」と身構え、観方をバカ映画モードに切り替えたのも束の間、宝石店でのミュージカルシーンで突如何の脈絡もなくヒラリと華麗にフレームインして来た眼鏡のセールスマンにすっかり撃沈。そのタップダンスの中途半端に華麗な事!
(N村、俺このシーンの方で半月は笑えるわ)
でも、これはバカ映画の楽しさではない。完全にパロディの領域だ。
監督ウッディ・アレンはそこら辺を実に入念に、戦略的に描き切った。これは一級のファルスではないか。
その証左に、彼はカメラを寄せない。主要人物をバストサイズ以上にせず、ピンで立たせない(ジュリア・ロバーツだけは例外。彼女のエピソードだけは少し重心を低めに取りたかったのか、それとも大女優のワガママか?)。
不必要な感情移入を避け、ダイアローグの臨場感を尊重する為だ(ナタリーのアップが観られなかったのが残念だが・・・)。
そして「ハイ次ィー(by愛川金也)」と言わんばかりにトットと進む場面転換とカット割。しかもPAN一つにオチを付けるサービスの心憎さ。
愛を囁くムーディーなミュージカルシーンもT・U(トラック・アップ)で情感を煽らず、逆に引いてしまう。そこに泣き節でごり押しする訳でもないセンスの良い音楽が入る。長く引っ張らないのがまた良い。
極めつけは、あのどっから見てもハイレヴェルで怪しい脱獄犯!しかも歌う!しかもやっぱりただの犯罪者!
(彼にうつつを抜かしてしまうドリュー・バリモアを売り飛ばそうとする、なんて展開だとなお良かったかも)。
結論としては、岡本喜八の「ああ爆弾」と三谷幸喜の「ラヂオの時間」を足して二で割った、というのが私の印象かな?
劇中の歌の一つにあった、「少しずれてるけど、大目に見よう」てな感じ。
久しぶりに骨のあるハリウッド映画を観たなぁ。感激。
水曜にはキャプチャボードが回復しそう。 これで「創りたい病」からも解放される、かな?
あたしゃこの子を「ポスト・O.ヘップバーン」と信じて疑わないので御座居ますよ。
(11.13)
仕事忙しくなって来た。23時終業は絶対。
加えてアニ同への御祝いプロモを繋ぎ始めたので(学祭合わせは無理か・・・)、ごっつ眠い。
「ケイゾク」#9に仰天。中だるみが続いたのでああ、こんなもんかと思った矢先、
オイ、これTVドラマでやっても良いの!?スゲェよ渡部篤郎!!今井夏木って何者!?
ところで、メールで「HP宣伝しませんか?」と来たもんで、ここを登録してやった。いや、何となく。
http://www.hero-island.ne.jp/index.html
しかし眠い。何か嫌な予感がする。
何となく。
(11.18)
今の仕事大詰め。地獄。
NFちゃんと行けるかな?でも行ってもしゃあない気もする。
まだ見つからない。多忙な毎日へ。
錯乱の始まり。
不安。
冬が怖い。
記憶が怖い。
確実にこのHPへのアクセスが増えている。見てるのかな?
何にもないよー。出す気ないよー。
自分の壊れぶりを露出し刻印して自虐的に嘲り笑ってるだけ。このコーナーは。
こうでもせんと、つかめん。あがく術すら奪われてしまう、このままでは。
笑え。笑え。叩くなら今ぞ。
踏み躙れ。
もう何も出ない。出せない。出られない。
格好の付け方なんて、忘れた。
思い出したくもない。
「ケイゾク」コンプリート。ラスト3話の常軌を逸した展開は「エヴァ」や「踊る」の轍を踏んだ。
テンションばかりが肥大化し、映像がとめどない暴走を繰り広げ(「ポケモン事件」もクソ喰らえ!)
ストーリーが追いつかない。最早フラッシュバックの羅列。
しかし、「ケイゾク」は最後まで、前述二作が持っていた「止むに止まれぬ」という思い詰めた情動を露にする事がなかった。斜に構えた冷静さが支配し、「所詮映像は、光の明滅が網膜に焼きつく瞬間に過ぎないんだよ」と言わんばかりのシニカルさで充ちていた。だが、だからこそ彼等は、人の網膜に出来る限り長く、強く焼きつく「光」を浴びせかけんと必死だった。
シリアスとギャグのバランスの「崩し」方一つにしても、例えば「機動戦艦ナデシコ」と比べてみても(と言ってもこれ最初の方しか観てないんだけど)出来が違う。「ケイゾク」はそのような命題の提示を数学的に処理しない。だからといって、それは勿論奇を衒ったお遊び的なものでもない(日テレ時代の堤はその印象が強いんだけど)。
言葉を選びにくいが、敢えて言うならそれは、網膜への挑戦、視覚への誠実さ、である。手法としての挑戦ではない。
光を受け取る感官としての機能を、徹底的に知り尽くそう(感じ尽くそう)とする壮絶な意志なのである。
徹底的に誠実であるという事は、徹底的に懐疑的であるという事。彼等はその試みを成し遂げた。
「光」を受け取るという、他愛のない現象との死闘。
最終回、「命尽きるまで真実を見極める」という父の遺言を語る柴田の眼の輝きの中で不意に具現化されたもの。
あたかも少女漫画のようなその眼の輝き(絶妙な照明!)、そこに彼等は自らの戦史を敢えて言語化し、刻み付けたのだ。
柴田の「眼」に「虚構」の「光」が宿る刹那、彼等は勝利の凱歌を高らかに唱和したのである。
「エヴァ」「踊る」「ケイゾク」、この三つを並置する事で出来る映像次元をいつかじっくりと観てみたい。
出来るだけ早く。でも時間ないか。
まとまりない文章。御免。
(11.20)
2日徹夜で仕事UP。
ただ、虚しい。不安定。スタジオから見た夜明けが紗がかかってバカに綺麗。
ボーッ。
C反の映画完成。ウソ、ホンマに上がったの!?
アカン、俺も何とかせな。腐ってる場合やない。
しかし・・・。
明日、NF顔出そ。
(11.21)
仕事終えて、夜NFへ。と言ってもアニ同の打ち上げに顔出すだけ。
名誉顧問・T村氏結婚!?に仰天。ただ女優が一人増えるのはラッキー。
こっちの御祝い映像も創る?
しかし、刺激が多かった。特に今年の自主制作には感心した。
O本の「動かない」アニメに感動。その開き直りには敬意。
C反の「キセツ・・・」も拝見。負けてられん。あー創らなければ!!
焦れ。焦れ。
しかし、今の立場の如何に刺激に乏しい事か。対照的で気持ちいい位。
パン屋のバイト、ひたすらケーキにイチゴを乗っけている気分。社会人の宿命か。
・・・・・・
ここで、思考停止。お休み。
(11.23)
21日の追記。
アニ同で観た刺激的な作品もう2つ。何れも商業作品。
「デジモンアドヴェンチャー」劇場版。完全に嘗めてた・・・。ラスト5分しか観てないが
「ボレロ」(!!)をBGMにただならぬ雰囲気のクライマックス。
2コマ打ちのキャラが妖艶ですらある生々しさ。東映こんな枚数使っていいの!?
演出は?細田守?細田!!誰それ。
もう一つはN村に強烈にプッシュされ、渋々観た「セラフィムコール」。
その個性は圧倒的ですらあるM月先生の作品は、悉く私のような凡人の理解を超えるものであり、
#1は案の定100%濃縮M月ワールド!作風の余りの統一感に暫し感動していたのだが、
#2で見事意表を突かれる。そのオチに周りも気にせず大爆笑。これは至芸。スゲェ!御見逸れ致しやした!
でもやっぱ脚本の勝利かも。「パーフェクト・ブルー」だし。
アニメもやってるところはちゃんとやってる、という証拠。自分とも照らし合わせ、反省。
ウギャー。
(11.26)
起きると熱感。というか身体が動かん。
会社休んで日暮れまで寝倒す。
もう限界かも。
朦朧とした頭でD・W・グリフィスの「散り行く花」観る。
流石カットワークの元祖、クローズ・アップの元祖!しかし寧ろ面白かったのは役者陣の「御前等みんなアヘンやっとるやろ」みたいな必要以上に迫真の演技。
その中でもリリアン・ギッシュ。オーラが違う。時折「アヘン漬け」の演技もするがその勢いもまた良し。
しかしその美しさ。サイレントのフィルムはどうしても被写体の輪郭を捉えるのが精一杯で、光と闇の表現には至らないと思っていた(小さい頃、チャップリンの映画が怖くて観られなかったのを思い出す)が、リリアンは正に「光と共にあり」。
それともう一つ。この頃よくやってた技法で、寄りのカットになるとアイリスみたく黒くパラがけされるのは何故だろう?
村田安司がやってたのが非常に印象的なので思い出したが、その意味がもう一つつかめない。
ただ、今では寧ろ斬新さを感じる。応用難しいけどね。
あ、更にもう一つ。リリアン・ギッシュと言えば淀長。「私の映画教室」(新潮文庫)に「散り行く花」の紹介が載っていたが、ストーリー作る作る。見てきたように嘘を書く。
でも作品そのものはズバリ言い当てる。正に天才。映画の妖精。
後ろでボケてるオヤジが妙に画になってたりして・・・
(11.27)
日付替えて、まだ書く。
「POKEMON]全米大ヒットとか。「MONONOKE」騒がれないのを尻目に。
これを見てすかさず「ホラ、やっぱアニメは子供向けの分かりやすいものの方が良いんだよ。」
「「EVA」「もののけ」なんてやっぱり駄目なんだよ」としたり顔の声。
ただ振り子が逆に触れただけやんか。斬新なものの後に、安定したもの。もっと巨視的に観ようよ。
これ以上、アニメが痩せ衰えませんように。南無。
(11.28)
其の壱。
私が作品を批評するのは、ひとえに自分の創作のためである。
何よりも先ず、それ自身が再創造でなければならず、またそれが次への創造の契機とならなければならない。
そして更に、作品とは、何もそれ自身の完成を以って成立とするのではなく、
そういった無数の「再創造」=解釈のほぼ無限にわたる積み重ねの上で
変容し、成長して行くものだと、考えている。
再三言い続けた事の確認。
其の弐。
「(タイトル未定)」 シネマスコープ、モノクロ(一部カラー)、120分。
時代劇が、少しばかり邦画を賑わしている。
亡きクロサワの御霊が現世で最後の輝きを発しているのか。日本人の「心の故郷」への回帰願望が顕れたものか。
はたまた、最早「ジャパニメーション」や香港映画に取って代わられた感のある西欧のオリエンタリズムへの誤解と曲解か。
何れにせよ、時代劇。失われしもの。そこにいま、込めるべき意味とは何か。
かつての司馬遼太郎の如く、そこに今は亡き日本の「本来性」を発見し、強調すべきなのか。
しかし悲しいかな、われわれの刹那主義はそのようなノスタルジーを一瞥すらしない程根深く、虚無的である。
幾多もの種々多様な「時代」を経て辿り着いた「いま」という時代。微動だにせずわれわれを圧倒する「いま」という名の閉塞感。
終わりなき絶望。
それに立ち向かう形で「時代劇」を提示する時、われわれはそこに必ず「いま」へと吹き抜ける風を感じなければならない。
大河ロマンと処世シミュレーションを繰り返すだけではない、等身大のドラマを歴史の時間軸の中へ投げ込まなければならない。
勧善懲悪のチャンバラに終始する事のない、「いま」の手触りを感じさせる人間を描かなければならない。
「人間を描く」。古今東西の作劇で唯一、普遍的なもの。
ドラマに必ず登場するこの「人間」というものに、本作品もやはり注目せざるを得ない。
ひとりの少年がいる。
足軽だった父が死に、母は多くの兄弟を抱え必死。故に捨てられた。
幼くして無宿渡世となった不遇の身。しかし、彼には「自由」という大きな武器があった。
ひとりの少女がいる。
ある城主の姫君。結婚外交の要。ただ三の姫で合ったが故に、「道具」としての機能は未だ果たせずにいた。
ひとまずの安寧は得られながら、籠の中で喘ぐ小鳥。更に、決定せぬ未来に対する苛立ち。
ひとりの若き侍がいる。
父の命ごと城を奪い、血で手を清めながら地を駆け抜ける事を宿命づけられた悪魔の子。
マクベスのジレンマ。その不条理を味わい尽くす男。
時は戦国。
調和と混沌、安らぎと不安、永遠と刹那、構築と破壊が両立する「ある時代」の日本。
一本の「伝説の宝刀」をめぐり、数々の生は躍動した坂道を転げ始める・・・。
「此の世を見るのは己の二つの眼。何が見える?」
・・・なんて書いてみたけど、やっぱり「もののけ姫」の焼き直しになるのよねぇ。
でも、誰か買ってくれないかしら?そこそこ面白いと思うんだけど。
オファー待ってまーす。無理か。
(11.29)
雑記(といってもずっと雑記だけど)。
先週の「N響アワー」。「運命」第二楽章でスクロバチェフスキ再評価。
響きはいかにも弦主体ピラミッド型のドイツ風。しかもタテ線重視硬めの鳴りはまるで本格コンヴィチュニー=カイルベルト派。
しかし待てよ。よくよく聴けばトゥッティを出した時の内声の刻みが妙に明るい。そういえばバスもやけに音通りが良い。
高弦のルバートを伴ったエスプレッシーヴォもロマンに耽溺せず、寧ろ御洒落。あ、そう!クリュイタンスの音!
そう言えばミスターS、弱起と第一拍を打ち込めば事足りるが如き応援団的ツメ襟タクトではなく、
数小節後に広がるイリュージョンを虚空に描く筆使いのような棒さばき(フルネみたい!)。
ひょっとして、ヴァント以上に面白い指揮者じゃないかな?ドイツ的なのに、エスプリ。「運命」全曲聴きたかったなぁ。
余談。「レコ芸」でケーゲルの特集。「歌うことを大切にする指揮者」だって。笑いが込み上げて来るのは私だけ?でも外れてないしなぁ。
あ、佐渡ちゃんとシエナ・ウィンドのニューディスク。もう出てるんだよな。
それより中谷美紀のアルバムよ!あー今月も金足らん。
田中秀幸先生が素晴ラスィーダス!
「ウゴウゴルーガ」で年収二億の人。石野卓球のクリップの人。「ウルトラリラックス」のジャケットの絵の人。
ポップでキッチュでロリータ、だったらそこらの芸大漁ったらワンサカ転がってそうだが、そこを一線飛び越えた天才。
ゥワーなんて言ったら良いんだろ。例えば卓球の「anna〜letmein letmeout〜」を全篇ハイスピードで押す気構え。
テクノにハイスピード!ムズムズ。踊るブルマー体操ネーチャン!!ムラムラ。そして「東京オリンピック」のOL!!とどめに水被り!
ブルブルブル、素晴ラスィーダス!田中先生!
そんな田中先生がお創りあそばされた名作アニメ「スーパーミルクちゃん」が極めつけ!メリメリグァー!
これ、WOWWOWでリメイクされます。田中先生のセンスフルインナースペースをみんなも体験しよう!
傍から観てる分には面白いのよ。ね。
マルC怖いから一部だけ・・・。
ゴダール「パッション」。観終わるまでに二回夢の中へ。
印象に残ったのは台詞のリズムを妨げるやたら大きなSEと肌色のモザイク。でもタイトルも幸いしたのか、相変わらずの粗雑なカッティングの間合いは確かに、芝居の空気に潜む狂気がモンモンモン、ギャー!!と(今日はこのノリで通そ)噴出す瞬間を的確に抑えている。気がする。そこが「勝手にしやがれ」より解りやすくて、良い。
でも光だ、光だとゴタクを並べてる割には、画自体は素の描写であっけらかん(画に対する信頼感がどうも希薄)。寧ろ劇中劇の出来上がりを見たかった。これってザッハリヒカイト?違うな。映画からの剥離。映画に埋没する自我の放逐。
「共通了解」を総て無に帰した先の、剥き出しの「視覚」。
ただ光を受け取るという現象の「ありのままさ」の前に立ち尽くす「ありのまま」の自我。その「ありのままさ」に対する放心にも似た「ありのまま」の気分。
そう言いたいのは解るんだけど、何か説明が言語的な気がするのよね、ずっと。
どうも、ゴダール本人が本当に伝えたい事に対し、ゴダール本人が余計な注釈をつけているという印象が付きまとう。その自己撞着の気まずさ。この映画もそう(主人公が映画監督だったり、髪の引っ張り合いしたり、ブリッジしたり。要らないなぁ。SEもでか過ぎて解り良い。サービス過剰。そこから見え隠れするゴダールの色気!)。
結局、映画というものはいかなる情況下に於ても「視界を限定する」=「世界を分節する」という過程を超えられない。
後は、この絶望的な事実にどう折り合いをつけるかが勝負、と言ってしまえばそれまでで、ただゴダールも散々苦しんだんだな、という事だけはようやく理解し始めた次第。
少しゴダールと仲良くなれた気分。思い込みは人の勝手。
企画立て続けに浮かぶ。二本目。
今度は戦隊物。伝家の宝刀(・・・かしら?)。
浮かんだが最後、あっという間にパタパタとピースがくっついて来て、仕事そっちのけでメモってしまった。
あまりに具体的なところまで固まっちまったので、ここでは出さんとこ(連載する!?)。
タイトルだけ公開。「公立戦隊アーバイト」。
あちこちの知り合いにここのHP宣伝してる始末。まだチグハグね、やってる事。
今月のカヲ:今年もこの人の「第九」を聴いておしまい。この曲で何度泣いたか・・・。
1999年12月
(12.02)
さいご。の、つき。
このHPが300ヒット!?ていうか一日20件!?
見られてる!キャー見られてる!!ヤメテェェー!!
ってテンション続かないから素に戻す。
<今日の三面記事>
モ、モモ、萠が脱いじまった!!
モヱモヱーがぁっ!!(だから今日はしんどいんだって)
必要以上のショックに喘ぐ。
こんなのありがちとは言え、何だかまたひとつのターニングポイントに来たような気がして。直感。不吉。
でも太ったね。
<三谷幸喜のロジックとベートーヴェン解釈の問題>
純粋な論理的推論の世界は、経験の世界とは”原理的に”必然的な関係をもってはいない。
前者はもともとは後者から生まれ出たのだが、両者はただ似ているだけなのである。
だから本質的に経験世界を越えた問い、つまり、世界の起源は何か、神は存在するか、死んだらどうなるか、等においては、
原理的に純粋な推論は成立しない。だからそれらはそもそも「答えの出ない」問いなのである。(竹田青嗣「プラトン入門」)
(どうでも良いけど、京大生って竹田と永井均を好まない人が多い気するんだけど。なんでかな?)
直接関係ないけど、上のを読んでてフワフワっと浮かんだので。
ドラマにおいてキャラクターを描く際、われわれは「リアリティ」の問題に直面する。即ち「人間を描けるか」である。
このテーマに対して、攻め方は二つしかない、即ち、「経験的」に描くか、「純粋論理的」に描くか、である。
前者はつまり、自分の周りに実在する人々からキャラクターを引用し、模倣し、その心理等を深く掘り起こすという形態である。
概ね「人間ドラマ」 と呼ばれる類のものはこの方法でキャラクターを設計するが、
それは往々にしてドロドロした生臭いものとなってしまう。それは、観察者個々が持つ「ある観点」から切り取られた整然さが希薄だからである。
それに対し、キャラクターを思い切って抽象化・簡略化し、あたかも記号のように設計する場合がある。それはストーリー重視、特に喜劇を中心としたエンターテインメント作品に多い。
ここにおいて記号となったキャラクターは、正にストーリーという名の数式の一部として機能する。
そこには「ある観点」から切り取られた整然性・一貫性が存在するのだ。
こう書いてみると、ひとりの脚本家を想起せずにはいられない。
「喜劇(この場合ファルス・シチュエーションコメディ)の本を書くには、数学的なアタマが要る」
と、そのものズバリを語った三谷幸喜である。
誤解を恐れず言うが、彼のドラマは、ドラマではない。人間はあくまで人間としてではなく、ひとつのシチュエーション(それは殆どの場合笑える程の危機的状況であるが)を解決するための、記号として働く。
彼のドラマは「人間とは何か」等という大上段的なモティベーションを拒絶する。たとえそれを含んでいたとしても、それはあくまで、作品を無味乾燥なものにしないための隠し味程度である。
彼のドラマを観る歓びは、難しい数式を解き終えた時の快感とほぼ一致するものなのである。
ただ、ここで「数式を解く歓び」というものを斜に構えて捉えてはならない。われわれは皆、本能レベルで、観念や抽象化の機能を借りて自己の実存と眼前の現象を「気持ち良く」見つめるという欲求を、真に持っている。その事を確認しておきたい。
このような意味で、故に三谷の作品が、ある種の堅牢な安定性をもって人々に受け入れられているであろう事は、容易に想像出来よう。
同じく、この「堅牢な安定性をもって」人々に受け入れられて来た例として挙げられるのが、ベートーヴェンの音楽である。
未だクラシック音楽の頂点として名高い彼の作品を支えるのは、言わずと知れたソナタ形式、そのロジックにある。
確かに「第九」に見られるように、愛と理想を謳った「音のドラマ」こそベートーヴェンの真骨頂ではあるが、彼の楽譜そのものに目を凝らしてみると、そのソナタ形式が正に数式の如き完璧さで構築されているのに驚かされる。
つまりベートーヴェンは、「ロマンティック」である以前により「純粋」に「ドラマティック」なのである。
しかし、ここである誤解に注目したい。「ベートーヴェンは数式、ロジック」という論理を完全に履き違えている演奏解釈があるという事実である。
ノイエ・ザッハリヒカイト、とにかく楽譜に忠実に、恣意的な解釈や、過度の感情を込めずに、という近年の主流である。
ここには決定的な誤解がある。数式はたとえ数式であっても、それを成す記号のひとつひとつにはれっきとした「キャラクター」が付加されている、という当たり前とも言える公理をにべもなく黙殺してしまっている、という事である。
1+2=3という数式の意味を解らない者、それは、1が決して2ではなく、ましてや+とは全く異なる役割を果たすものだ、という事の当たり前さに対し驚く程無頓着である。
言わば、自分では「1+2=3」を演奏しているつもりが、実は「00000」を演奏している、といういたたまれなさなのである。
(これを自覚的に敢えて試みるという方法論も確かにある。ミニマル・ミュージックがそれである)。
1がリンゴ1個である必要はない。金髪ねーちゃん1人である必要もない。ただ、その1が数式全体にもたらす有機的な(敢えてこの言葉を使ってしまうが)作用を忘れる訳にはいかないのだ。
にも拘らず、忘れてしまった、世界中で忘れてしまった情けない時代があった。クールな即物主義の時代。
しかし近年、その絶対とも思えた即物主義もひとつのモードでしかない、という事に漸く気付き始めて来たのは悦ばしい。
特に交響曲で、チェリビダッケの怪演、ジンマンの発見、ブリュッヘンの学究、スクロバチェフスキの洗練等が評価されて来たのは大変心強い。(ヴァントはどうした!?アーノンクールは??)
かたや日本、有難い事に既にひとりいた。朝比奈隆。
現在最も「堅牢な安定性をもって」鳴り響くベートーヴェン。
その「普遍性」を獲得した稀有のベートーヴェンを今年も聴ける。得難い体験である。
(つかれた・・・)
<また・・・>
立て続けに三本目の企画。精神の他の機能が停止している分妄想力だけは元気。
タイトル「BLUE SNOW」。テーマは「少女誘拐」。
自分の中の最もアレな部分をこれでもか!という位肥大化させたら面白いかな、と以前から思う。
早速脚本化に入る。入れる?
<アンギャー>
「ゴジラ」。ちゃんと観たのは初めて。 いろいろ文句はあるが、やはり特撮マインド溢れる名作なのは確か。
いたる所で安っぽさが否めない着ぐるみとミニチュアによる映像を、白黒フィルムと夜の闇が絶妙にカバーする。
虚無の闇に溶け込む凶暴なゴジラの肢体。それを神秘的に取り巻く街の業火と煙!美しい!
ここまでの画にしただけでも円谷英二の仕事は後世に語り継がれるべきである。
ただ、本多猪四郎の仕事には納得行かない部分も多し。冒頭はいかにも段取り臭いし、水爆をめぐるドラマも取って付けた感じだし・・・。ただ、ゴジラ東京襲撃とその後の救助活動はこの作品の白眉。あの頃の人々総てがその網膜に焼き付けていた筈の戦争の惨禍を、邪悪なまでに克明に描いた。その情念と祈りには敬服。
でもひとつだけ言わせて、折角のゴジラ初登場シーン、それなのに、
こんななだらかな丘からのどかにニュ!と顔出しても巨大感出ないっしょ!
後気付いたの、「GV」はつくづく「ゴジラ」やったんやなぁ、と。
寝よ。
(12.04)
このHPにBBS設置。リアクションがそんなに欲しいのか?
気付いたら足元に企画ネタ散乱。どれから手をつけて良いやら・・・。
ま、気分次第で行きますか。
一先ずはずぅーっと放ったらかしだった「AUFTAKT」。冒頭は既に書いたが やっぱり、「何を書くべきか、何を書かざるべきか」に悩む。悩んだ挙句、セミドキュメンタリーでもいいや!と開き直る。
次に、どうせだから徹底的にやらんと、と思った瞬間、最近の吹奏楽情報どころか用語もコッテリ忘れてる自分に愕然。
慌てて家中の関連本漁ってみるが、読む暇がない。
イカンこんな弱気では!やるならやる!ていうかとりあえずやる!やる?
明日悲願の休日。資料漁るべぇ。
因みに今、武蔵野音大の「大空への挑戦」(ホールシンガー)を久しぶりに聴きながら書いている。
んー、何とかモノにしたいよなぁ。
あと明日寺町でスキャナ買わなきゃ。あれないと不便で困る。
映画どうしようかな?「白痴」(手塚眞)と「黒い家」(森田芳光)と「あの娘と自転車に乗って」(アディカリコフ)で迷ってるんだけど。でも「あの娘〜」はテアトル梅田だしなぁ。
明日決めよ。
(12.05)
・・・酒井若菜、いいじゃん。
起きる。時計見る。14:47。げ。
一度も目覚めずだもんな。疲れてたんかな。
ともあれ、大阪行きは諦め四条へ。
寺町のタニヤマムセンで早速スキャナ購入。OMRONのHSF6000。
決め手はとにかく値段。9980円で600dpi。接続もUSB・パラレル両方あるし、
店回るのも面倒だったし、直感で決定。税込みで10479円。
次に行ったニノミヤPC TOWNで同じのが12800円だったから、適当な買い物にしては勝利!
ここでは「Adobe Premiere でつくるデジタルムービースーパーテクニック」(税込み3360円)を衝動買い。
ミルクちゃんなかったなぁ。まぁ今日は買うもの多いし、いいや。
そして北上。タワーレコードで噂のケーゲルのブルックナー発見。ををを触ると取り憑かれそうなK先生の御顔が!!
でも買う。ケーゲル=ライプツィヒ放響、ブルックナー交響曲八番 2010円。
更に北上。正義の駸々堂で磯田健一郎編「200CD 吹奏楽名曲・名演(立風書房)」1995円
東浩紀「郵便的不安たち(朝日新聞社)」2730円(ギャー、いつの間に手の中に!!)と「キネ旬」820円購入。
そして十字屋へ。3F飛び込むなりシャルロット・チャーチの動く御姿が!ああああああシャルロット!!
彼女のライブビデオ4250円。アカンここでこうたらこれで終わってしまう!
モニターの前で10分間鑑賞。テレビデオ越しの音声ながらシャルロットの「天使の歌声」は、1ST.アルバムの時気になった高音の硬さも随分取れ、ふくよかになっていた。
しかもあの愛苦しい御顔で歌われた日にゃアータ、身も心も昇天!OHジーザスCOMEONベイベー!ですわ。
身体が良い感じで成長してんだな。頼むよ。20越えて唯の人は嫌よ!
しかしその誘惑を断ち切ったのが、弟子入りしようと一瞬だけ本気で思った事のある佐渡ちゃん。
佐渡裕=シエナ・ウィンド「ブラスの祭典」2400円。続いて目に止まった宇野先生!
ああまたサクラとのベートーヴェン!トンデモマニアなら手に取って当然。てな訳で
宇野功芳=アンサンブルSAKURA、ベートーヴェン交響曲七番他 2300円。
財布の残りカツカツだけど、シャルロットいっとくか!と思った矢先、ここでも私を闇に引きずり込もうとするK先生の涅槃からの眼差しが!!(って故人をよくここまで言うね)
ブルックナー九番を試聴。第三楽章。唖然。マジかよ!?ホントにそれは「涅槃」からの響き!
ああブル九ってこうだよな!朝比奈もヴァントも、あのシューリヒトの名盤さえも一瞬にして記憶の彼方に消えた。
チェリビダッケ・テンシュテットと並ぶ「トンデモ指揮者御三家」のひとり、K先生の面目躍如。
買うしかないっしょ!ケーゲル=ライプツィヒ放響、ブルックナー交響曲九番 2500円。
割引券あったので、しめて6559円。
シャルロットごめんよ、いつか迎えに来るからね。と妄想に耽りつつ去る。
彼女の「詩篇第23番」は絶品のファンタジー。何度聴いたか。
1Fへ。中谷美紀のアルバム買わなきゃ。3000円。あ!足りない!!
やっぱり東浩紀が余計だったんだ!!
しょうがないので4Fで久しぶりに「Band Journal」1月号購入(懐かしいフェネルの顔!)。1200円。
えー、しめて29143円。ようつこた。
映画諦め、帰宅。家で観っか。
黒澤明「どん底」。
冒頭の鐘の音からやってくれるぞー、と思ったらやっぱりやってくれた。
あの長屋のセットといい、そこに棲む連中の着物といい、ボロ!その手触りすら分かってしまうような、徹底したボロボロ!そこに当てられた陰鬱な照明、正にどん底。
原作に引っ張られたのか、台詞が妙に理屈っぽいが、黒澤のペシミストっぷりがよく出ていた。
圧巻はラスト。その幕切れの余りの鮮やかさに思わす膝を叩く。
黒澤を理想主義者だと言うヤツはどいつだ!?だったら、こんな素晴らしい終結を描けるものか!
スキャナ繋げようとしたが、ドライバを認識せず。あ!これひょっとして・・・。
早くも「2000」問題に悩む。○伸にまた調べて貰わんといかんのか・・・。
佐渡ちゃんの「キャンディード」。いいねぇ。前TVで聴いた時と比べおフランス帰りのセンスが光ってるざんす!
「アルメニアン・ダンス」「ガイーヌ」「シンフォニック・ダンス」ああ、気分良い。
ただ、やっぱりクラの鳴りがどうしても良くない。響きに穴が空いちまうよ。シエナに限らず、吹奏楽はどうしていつも
クラを抑えてしまうんやろ?目一杯吹かせたら張りの良い音が出る楽器なのに・・・。
「キャンディード」繰り返し聴く。なんか泣けて来た。一杯やりたい気分。
今日は彼の初の「一万人の第九」もあったんだよな・・・。
てな訳で、いかにも日記然とした文章でした。おわり。
(12.07)
懸案だった「AUFTAKT」第一回思い切って公開。反応怖い。反応ないのも怖い。
でも、今は遮二無二形にする方が大事か。何か方向性も見えて来たし。
HPの容量5Mに。実写画像使い過ぎなんだよなぁ。
しかもマルC無視だし。自分とこは主張してるのに。ねぇ。
ところで「どん底」だけど、黒澤にしては珍しくローアングルを多用。本当に多かった。
どういう事だろ?確かに効果的。人間の内面を生々しく描くには鼠か虫ケラの視点で撮れ!という事か?
うーん、今日は駆け足でさようなら。「AUFTAKT」読んでね!
(12.09)
臥薪嘗胆。
髀肉の嘆。
それでも、・・・何かせねば。
余りに話題に上らないので、怒りも込め羽目を外して書く。
'90年代日本アニメーションの最高傑作、
「THE八犬伝〜新章〜◎第4話『浜路再臨』を観るべし。
会社の先輩に「これは観とかんと」と薦められ、ドギモを抜かれたのが半年程前。再び観た。
・・・言葉にならない。カルチャー・ショックとはよういうた。
最早勝負しているレベルが違う。観る者のアニメ観は悉く揺さぶられるだろう。アニメオタクであろうが、なかろうが。
観てはいけないものを観てしまったという驚異。パンドラの箱。
アニメのリアリティに対する革命的挑戦。
・・・ああ、こんな言葉じゃ陳腐。陳腐!自分のボキャブラリーとイマジネーションの貧困さが余りに醜い。
とにかく、観て下さい。これを観て圧倒されない人は、眼が悪いか頭が悪いか、根性が悪いか。そのどちらか。
OVA作品ではダントツのベスト。オールジャンルでも、今は比べる対象すら見つけられない。
(ていうか、他の作品等思い出したくもない!)
とにかく、観ろ。観なさいって!末代まで祟るよ。
画像もでっかく載せちゃう!
芳蔵君に「アイドルないの?」と言われ、おお、そう言えば。と思ったのでミニコーナー「ONE-SHOT」開始。
ただ、アイドルのみっちゅうのもアホらしいので、自分的にインパクトの強かった映像からピックアップする予定。
これでアイドルサイトの体裁も保てる。かな?
(12.09)
・・・最近椎名林檎のナース姿が頭から離れん。
中谷美紀の「クロニック・ラヴ」意外にも会社近くの小さなCD屋で発見!灯台下暗し!
今も聴いているのだが、このそよ風のようにすー、っと抜ける声、どっかで聴いたような・・・。誰だっけなぁ。
ま、よろしおま。「雨だれ」もありがちのけだるさだけど。イイ。
あ、それと、柴田純補完委員会京都支部宇治出張所所長として、宣伝。
12/24、「ケイゾク」特別篇「死を契約する呪いの樹」放送決定!!!
・・・何か、日テレ臭くなる気もするんだけどね。
久しぶりに「少女革命ウテナ」#1、レンタルで観る。
いやぁ、もうフィルムってだけで古臭く見えちまうんだなぁ、という驚き。(ていうか、リマスタリングの失敗?)
アニメの新鮮さは、最早デジタルフォーマットとは切っても切れないのかも知れない(16mm独特のボケや掠れ、微妙な照明ムラ等を何とかしないと、アナログ撮影は生き残るのが難しかろう。アニメに限って言うと、だけど)。
いや、それだけじゃないな。「パロディからの超克」という監督・幾原の目論見から大きくハズレて、どう考えても明らかな’70年代からの「引用」(「天井桟敷」は勿論の事、出崎アニメの影響も大。背景のタッチやBOOK引きの具合なんてモロ「家なき子」)はパロディの節度を失って、皮肉にもわれわれに’70年代そのものの新鮮さを教えてくれる。またそれが見事な完成度だけに、悲しかった。
いや待てよ、これは「革命前夜」の様子を伝えただけに過ぎないのかもな。「ウテナ」ってこれで終わった訳じゃないもんな。
実は本放送で全話見損なってるから、鑑賞をケイゾクします。
エーそれと、前回の「THE 八犬伝」ですが、この回の演出・大平晋也氏と作画監督・湯浅政明氏についての情報を御待ちしています(過去何やったか、とか)。宛先はインデックス。
(12.11)
また風邪。喉痛い。まだ弱ってるのかな?
20時まで起きられず。突然無性に孤独感が襲って来てTVを点ける。
「めちゃイケ」久しぶりに観る。確かにマンネリだけど若々しくっていいなぁ。
こんなにテンションあるって、いいなぁ。楽しそうだなぁ。
ついでに「花のお江戸の釣りバカ日誌」観る。これが立派に時代劇してて、良い。
作り込まれたセットをパンフォーカスでガッチリ見せる。ああ、解ってるなぁという感触。
ただやっぱり、青と赤が浮いてるのよね。時代劇に限らず邦画は皆だけど。
特に夜のシーンなんて、青がバタ臭い。要らぬ照明の明るさ。「木枯し紋次郎」のあの真っ暗闇が懐かしい。
かのクロサワが「影武者」までカラーの時代劇を撮らなかったのは、そこら辺なんでしょうな。開き直るまで、時間かかった。
まだフラフラする。明日日曜出勤出来るかな?
(12.12)
昼から喉飴舐めながら出勤して何だか解らない内に仕事して日付変わった頃に帰宅して玄関入ったら放心して暫しその場で棒立ちになる。
ただ、そんだけ。さようなら。
(12.16)
また風邪でダウン。良い事ないね、まるで。酒飲んだら悪酔いするし。
しょうがないのでとりあえず映画。「白痴」。と言ってもこれは黒澤の方。
4時間25分の大作を松竹の命で2時間46分に切られ、先生が「切るならフィルムを縦に切れ」とのたまった曰くつきの作品。確かに、これじゃ完全版を観ないと評価出来ないな・・・。
前半は事ある毎にテロップで粗筋説明するというズタズタっぷり。まあそれを差し引いたとしても、どうも先生、満を持したドストエフスキー作品への気負いがあったのだろうが、肝心の白痴の主人公の無垢さを強調しようとして総て空回り。
あれじゃブリっ子。あんなのに泣かれてコロッと参る女達もどうかしてる。
その主人公の描写の弱さが結局全篇に影響してしまって、最後原節子と久我美子が主人公を取り合うシーンでも思わず苦笑してしまう。こんな男にそこまでせんでも・・・。
こうして観ると、松竹の判断も案外妥当だったのでは、という気がする。同じような思いで試写を観たんじゃないかしら?
但し映像面における黒澤節は健在。カット割のテンポはいつにも増してシャープだった気がする。
特にラスト近くで三船が原を殺してしまったあとのシーン。影を存分に使って凄い狂気!
それと、やっぱりアオリ。ネガティブな思いで人間を撮る時は、必ずアオってるよ。面白いね。
あー、やっぱり演出しでなー。こればっか。
(12.18)
イマジナリーラインとなると親の仇みたいになるな、俺って。
大人げないわねぇ。
でも、面白いからもうひと押し。おーい、しんた氏、君は気付いていたかい?
→ (「Because I Love You」より)
これなんて、間違いの典型よ。 勿論俺のミスだけど。
ますます信用できねぇな、イマジナリーライン。
「特別篇」に備え「ケイゾク」 #1から総復習。最初観た時の、あの映像の青味がかった色調が網膜から身体へと流れ込むような透き通る快感こそ薄れてしまったが、その代わりあちこちに散りばめられたギミックの数々を宝捜しのように味わえる感動。
良いね。 チクショウ上手く考えてら!
特にカメラワークの選択、寄りか引きか、望遠か広角か、という作業の入念さに驚く。画ひとつひとつの刺激だけではない、確かにカットとカットの「間」で ドラマが創られているという手応え。これ、名作の条件。
オフビートで用いられるディゾルヴの愉快さ。あ、ワイプ使ってるよ!上手過ぎるなぁ。
さて、今日は「ケイゾク」批評のサイトをひとつ。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/9169/k-file.html
不可思議な言語体系で迷走に迷走を重ねながら次第にトリップ感を味わえるという筆者の文体そのものが「ケイゾク」的。読みにくいが「読める」。
という訳で、12月24日。みんなで観よう。
(12.20)
映画評を三本。
宿敵ゴダールとの第三ラウンド(って言ってる意味解んねぇぞ)「気狂いピエロ」遂に観る。
え?あの名画をまだ観てなかったの??だってゴダール好きやないんやもん。
でも、良かった。相当良かった。
本作でゴダールを解った気になるな、と樋口泰人もいう通り、やはりこれはゴダールとしては異例の「解りやすい」映画なのだ。
もうエンターテインメントしてると言っても良い。なんたって場面転換が解る。画の情感に沿ったBGMが入る。とりわけストーリーが解る!
あの相変わらずのやたら勿体ぶった途中で字幕を追うのを放棄したくなるグジグジしてやたら自分の博識を自慢したがる科白回しも、今回は 何だかステキ!良く解んないけどカッコイイ!
というか、今回はそんな屁理屈の一つ一つに映画の内容そのものからの剥離感がない。
つまり、映画になってるんです。いや、蔑んでるのではなく。
映画を信じているゴダールが、そこに居る。そんな事にいたく感激してしまって。
しかしそこはフランス県出身ヌーベルヴァーグ部屋の大横綱。映画の虚構臭が鼻に突いて来るとすかさず崩しを入れて物語への埋没を防ぐ。しかしながら全体の造形は全くもって高度に映画的。
冒頭のパーティシーン。フィルタをかけて赤や青やらの強いモノトーンで攻める。その色のドギツさに息苦しくなったフェルディナンが会場から逃げ出すと、そこには自然な室内灯の下でのマリアンヌとの運命的な出逢いが待っている。ここからもう演出は精緻を極めている。
その後二人車に乗って次第に自由への想いを募らせるシーン。その感情の昂ぶりは路上の照明にしては余りに不自然に鮮やかな光の照り込みが雄弁に語る。同時にその先の愛の絶望までをも予感させてしまう、闇の中での強すぎる光の瞬き!
その他、移動撮影にしてもそう。時間軸の歪曲にしてもそう。特にマリアンヌの囲い主をフェルディナンと殺すシークエンスなんて、どうよ!
それはわれわれが映画に「映画的であれ」と望む以上に「映画的」じゃないか!スゲェ!!
「映画」とは、こういう事さ、とでも言わんばかり。まさに横綱相撲。
これ、イイよ。ゴダール見直しちゃったなぁ。
つまり、私の頭の中では、こう固まっている訳で。即ち「勝手にしやがれ」で映画の「形而上学」にポストモダン的挑戦を仕組んだ
血気盛んな頃のゴダール、しかしやがて少しずつ彼と映画との間に一種の和解が訪れ、それが醸し出す幸福的とも言える雰囲気が出た「気狂いピエロ」のゴダール、そしてそれが絶望的な別離へと収束し、退廃とも取れる「映像」の「ありのままさ」をひたすら提示しようとした「パッション」のゴダール。
ゴダールマニアにとっては噴飯物かしら?でも凄くしっくり来た。
これは洋画ベスト10に入っちゃうなぁ。いや、アタシが不勉強でした。
このカット観て「木枯し紋次郎」のOP思い出した。パクったな、市川。
因みに、押井が設立に絡んでたっていう「スタジオぴえろ」のぴえろって、この事?
やり兼ねんな。
もうひとつ、名画として名高い「アンダルシアの犬」。15分のものなのにやっと全部観た。
しかし、こ、こ、これは!って自主映画のノリやんか!
ダリ御得意のシュールなイメージは確かにあるんだけど、その緊張が続かない。ダリい。
淀長の御薦めって、こんなんで良いの?15分が異常に長かった。
あと、ビデオ化に際してなのか、妙なシンセ音楽BGに付けるのはやめてけれ。途中で嫌になってステレオ消した。
「AUFTAKT」参考のため観た「ブラス!」。まぁ、こんなものか。
肝心の吹奏楽より炭坑争議の方に力点が行ってるから、合奏シーンは平凡。しかし、意外だったのは移動撮影がちっとも効果を上げていなかった事。
吹奏楽ってオケと比べても更に動きが少ないから、ドリーは必須だと思ってたのになぁ・・・。
真俯瞰からのクレーンはこの前観たゲルギエフ=キーロフのショスタコでも使われていて、それなりに面白かったけど、何か、決め手に欠けるんだよなぁ・・・。困ったなぁ・・・。
しかし最後の取って付けた「威風堂々」は解せない。そんなに本国に媚びを売りたいか!?
ラストショットが団長だったのも訳が解らん。
後決勝でバンドが選んだ「ウィリアム・テル」も、曲想がアレだけに解るんだけど、俺がやるならもっと意味と因縁を持たせるのになぁ・・・。
(「L×I×V×E」みたくなるのはゴメンだが)。
そんなのを除けば、演出も演奏もまぁ御見事。特に団長が倒れたシーンでガラッと望遠ショットに切り替えたのは強く印象的だった。
「AUFTAKT」資料が届かないので書けず。暫く我慢。
(12.22)
何気なくジブりのHP覗いてたら、ありましたよ!
宮崎センセの次回作「千と千尋の神隠し」!!
http://www.ntv.co.jp/ghibli/
アイタタタ、古傷が。 疼く疼く。
たぎる想いは、やり場もなく。じっと手を見る。
咳は止まらず。夜空を見上げども、星星は語らず。
もう直ぐ、クリスマスやねぇ。 寝よ。
(12.23)
NTTDIRECTORYに駄目モトで登録申請したら、通っちゃった。
http://navi.ocn.ne.jp/ 。因みに「アイドル」でも検索引っかかります。
樋口尚文「黒澤明の映画術」(筑摩書房)やっとこさ読了。名著である。
それは恰も黒澤の作品自身の如く、明晰で、力強い。作品評の一つ一つに合点が行く。
痒いところに手が届く。技法書としてももって来い。
でもやっぱり、この人も「感性の王国」の住民なのよねぇ。例えばこんなところ。
闇からやにわに訪れる椿三十郎やデルスは、言わば映画そのもののように物語に対して無責任で身軽であることが意図されている。
彼らは一種イリュージョンのような存在であって、映画を生な現実と混同させることなく、常に虚構として明晰に意識させる。そして、彼らの虚構性ゆえに、映画は時として物語に収縮せず夢幻的な拡がりを持ちえるのだ。
勿論彼は、黒澤の技法が如何に「物語」の再現に的確であるか、ということをテーマに本書を編んでおり、ボヤカし気味にはなっているのだが、やはり観念的テーマの表出には悉くネガティヴな反応を示しており、映画が弁説の手段になる事を拒む。
ごく単純な物語の段取りや感情の表現手段としてしか、映画は存在し得ないのか?
どうして映画が思想性や社会性を帯びる事が許されないのか?
いい加減、納得行く説明してくれないかなぁ、誰か。他人任せ。
北野武「菊次郎の夏」観る。
テーマはモロに「イノセンス」。もう、撮り方から言って無防備としか言い様がない。
とにかく無邪気に、いろんな方法で撮りまくる北野がそこにいる。勿論明らかに失敗しているカットも多く、構成の綻びも散見される。
露骨なイメージの引用も多い。ビールを注げば「ラブ&ポップ」だし、少年の悪夢は「影武者」だし、菊次郎と少年が待つバス停は「トトロ」だし。
でも、もういいや、前作で評価も受けたし、今回は体裁気にせずジャンジャン撮ろう!という姿勢が、実に潔く、楽しい。
このカット。「トトロ」でしょ?あくまでイメージね。
驚いたのが、「コメディアン」ビートたけしが純粋な形で登場している点だ。
「ビートたけし」はかつて「お〜い、やってるか!」で御家芸のコメディを撮り、、兎に角暴力的とも言える「お笑い」の破壊を企て見事成功し、その他の追随を許さないしょーもなさで圧倒した。しかしそこには「北野武」の作家性が当然ながら介在し、その水と油とも言える(同じ個人なのにここまで違うのは凄い)個性の相違が、結果として余りに無意味で下らねぇのにしかしどうにも見届けずにはいられない不思議な緊張感を全篇に湛えていた。
しかし今回は、そのようなギラギラの野心は全く影を潜め、自らの御家芸を懐かしむようにしてスクリーンに描き出す。
少年とのやり取りを時として確信犯的に漫才に仕立て上げ(競輪のシーン等はそう)、御得意のズッコケのコネタ(なんと、北野映画で見せるのは初めて!)を多用し、しまいには井手らっきょにまで猪木ネタをやらせる始末。
今まで執拗に避けて来た「ビートたけし」という素材を惜しげもなく使う。勿論それが笑いを誘い、作品世界を温かく彩る。
われわれはここに、「北野武」と「ビートたけし」の幸福的なまでのコラボレーションを見るのである。
ただしかし、これはある意味、「芸人」ビートたけしの引退をも意味しているのかも知れない。それ程までに、ここでのたけしは毒がなく、優しい(その証拠はやはり、あのビートキヨシとのコンビ復活だろう。芸人としての自分を初めて自分のフィルムに出す時、それは既に過去の自分であった、と。しかしカンヌがツービートの掛け合いを観る事になろうとは、誰が予想したろう!)。
あれだけ言葉を選び、切り詰めていたレギュラーキャラ・たけしが、よく喋る。
「バカヤロウ」を連発し、今まででは考えられない臭い台詞で少年に語りかける。その無防備さ。
だが、そのイノセンスの裏側に、ヴェネチアに選ばれた獅子・北野の自信と余裕が伺えるのは言うまでもない。
あの「キタノ・ブルー」は相変わらずの透明感でもうそれだけで映画を観る満足感に浸らせてくれるし
(しかし、日本の監督はどうしてこれ位の上品な青を撮れないんやろ??)、ロケーションがまた良い。如何にも風景然とした田舎の画は避け、道の途中やパーキングエリア代わりの殺風景な空き地等にキャラを置く。
映画の前半は競輪場やらラブホテル?やらだし、これが作品のセンチメンタリズムを薄めているのは疑いない
(私個人にとっては、こっちの風景の方がノスタルジーを感じて、良い)。
所謂「オチ」を見せる時は大胆なカットの省略をし、笑いのテンポを上げる。それでいて、各カットが画として持つギリギリの尺まで切らない編集術は、健在である。
唯一戴けないと思ったのが、菊次郎が母親の老人ホームを訪ねるシーン。あれは要らなかった。現実の母の事を思ってしまったのか、しかしあそこで作品は過度に甘くなってしまい、バランスも崩れた。
とは言えやはり、祭りの場面、菊次郎がヤクザと絡むシーンで肝心の暴力描写を思い切って総て省略してしまったところにこの作品の本質を読み取らねば、観る方の品格すら疑われてしまうだろう。
自分の「御家芸」を廃してまで、徹底して子供映画を描き切ろうとした北野は、それだけで十分男前なのである。
って、随分長くなっちゃったなぁ。
(12.25)
現在1999年12月25日午前4時14分。
「ケイゾク/特別篇」鑑賞終了。
感想。
ヴァンダフル!!
エクセレント!!!
ブリリアント!!!
トレビアァァァァァァァァァァァンンンンンヌ!!!!!!!
・・・モノ創るの、嫌になって来た。やめよっかな。
(12.27)
いきなり屁理屈。
「善と美とは一つである」と主張するのは、哲学者の品位にふさわしからざることである。
さらにその上「真もまた」とつけくわえるのなら、その哲学者を殴りとばすべきである。(ニーチェ「権力への意志」原佑訳)
未だ熱狂から冷めない「ケイゾク/特別篇」に、一先ずこの言葉を捧げる。
黒澤の「赤ひげ」観る。彼の長編は2時間を遥かに越えるのに、少しもだるさを感じない。
第一部終わって「休憩」のテロップ入り、黒画面のまま劇伴がただ流れるのを聴いている間、もうワクワクしっ放しで早く続きが観たくなる(とは言え、ビデオの早送りはせず律儀に黒画面を観続けてしまったのだが)。
1965年作品である。流石にフィルムが良くなり、グレースケールがより繊細になっている。
それに伴い浮かび上がって来た、黒澤の「闇」の凄味。市川のようなケレン味のエロスとはまた違う。同じ底無しの深みでも、黒澤のは まるで虚無への誘いだ。
病室の暗がりで茫洋と形を成す病人達の姿。その表情!闇に蝕まれたその実存の輪郭に強烈で神々しいハイライトの帯が出来る。
光と闇の危なげで輝かしいコントラスト。と来れば、やはりそれは生と死の類稀なる視覚化、としか言いようがない。月並みだけど。
作品の白眉はおとよ(二木てるみ)。ノイローゼの時の演技なんて、何か打ってるんじゃないの?
メイクと照明の勝利ではあるのだろうが、猫化けみたい。三船敏郎といい、黒澤は獣のように叫び、動き回る俳優を好む。
そこに志村喬 のような存在感だけで画を充たす俳優を添え、緩急とダイナミックスをつける。上手い。
正気に戻ってからの芝居は昔の子役然としてしまい鼻に付くが、長坊(「どですかでん」の頭師佳孝。彼がまた上手い!)が瀕死に陥った時、願掛けのため井戸へダダダダダッと駈けつけてその中へ「チョーボーッ!!」と叫ぶなんてのは、その入れ込み方だけで彼女を愛してたまらなくなる。「どん底」の香川京子もそう。「羅生門」の京マチ子もそう。
黒澤のヒロイン達が半狂乱で 四肢を露にして己のエロスを撒き散らす様は、実に美しい。
狂った方のおとよは、スチールでかなり出回ってるのでパス。しかし羨ましいぞ!加山!!
これで黒澤作品、全30本の内22本をクリア。でもまだ8本もある・・・。
「御法度」紹介ビデオ、ついでに借りる。そうか!「青」を撮れる監督いたよ。大島渚だ。
巨匠クラスの監督を2人も役者に配しているものものしさも納得。恐るべし大島、画の風格が違う。
楽しみやなぁ。早く観に行こ。
(12.30)
今年最後の妄想。
予告通り、朝比奈先生の「第九」聴く@フェスティバルホール。
・・・応えた。それだけ。
N村、「フリッカー、あるいは映画の魔」3810円+税もしたぞ!
黒澤「生きものの記録」。んー、これが心に響かないってのは俺も主人公の家族同様、真に正気ではないのかも。
このような作品が前時代的になるのは、確かに恐ろしい事なのだが・・・。
画が変にルーズで視覚的に語りかけて来ないのも不満だった。
いいや。ここまで。また来年。
今月のカヲ:「完全版」19日発売。最大の敬愛を込めて。やはり「志」。
2000年01月
(01.02)
明けた!
2000年や!!
何か変わった?凄い事になった?
変わる訳、ないか。
1900年代、最後に観た映画。大島渚「御法度」 。
2000年代、最初に観た映画。ジュネ「エイリアン4」。
何も 、こんな所でオチをつけなくても、ねぇ。
しかし圧倒された。「御法度」。大晦日の最終回に劇場に潜り込めたが、良かった!
全篇ホモ!全篇やおい!そのむせかえる程に濃厚で、且つ透明なまでにピュアなエロティシズムは
美の結晶とも言える画創りで完璧。兎に角完璧!
「EPISODE T」と並んで99年のベストだな。いや、やはり格が違うわ。これが一番。
「菊次郎」の時と言葉をダブらせてしまいたくなるが、1ショット1ショットを観る歓び。もう筋など追わんでエエ。
その気品と淫靡が絶妙に融和した繊細且つ凶暴な色彩感覚。思わず背筋がゾクッと来る新撰組の「黒衣」。黒!
それを着る特異な役者達の顔、顔、顔!
その頂点は勿論この作品のエロスの泉・松田龍平。トミーズ雅の「イカン!」に同情。あれじゃホント気が変になる。
あの浅野忠信がツーショットで完全に食われた。それだけでも一大事。こんなの彼の役者人生において今後も絶対あり得ない事だろう。
先ずは一にも二にもこの「平成のマライヒ」(?)松田に尽きるのだが、ふと他の役者に眼を向けると、どうよ!
眼球が絶えず気味悪くピクピク動く崔洋一。イイ!
われらがビートたけしの陥没した右頬に瞬きしない右眼球!イイ!
やっぱりハマり役だった田口トモロヲ。イイ!
そして浅野。そして武田真治。OHエクスタスィィー!
こんだけの異形の男達をズラリ画の中に並べてムンムンムレムレしてる筈が(伊武雅刀が沈んでる・・・)、
第一印象の肌触りは驚く程冷たい。ホモを知り尽くした大島の貫禄。美しい!
この瞬間でもう昇天してしまわないと、真の「やおい」は語れないぞ、諸君!!俺は語りたくないぞ!!
溝口を思わせるラストシーンの河原のセット。この幽玄さをカラーで拝見出来ようとは・・・!
ただ、更に驚いた。某友人(正確には、そのまた友人)が本作を評して言った「プログラム・ピクチャー」という言葉。
その通り。そこまでせんでも・・・とまで徹底して「プログラム・ピクチャー」していた、その心とは?
前時代の象徴とも言える(しかし「ケイゾク」はちゃんと応用している)「ワイプ」の多用。それによる古典的な「省略」。
対して渡り廊下ショットの「反復」。トミーズ雅のキャラクターはあれで生きた。
回想フラッシュバックが説明的なのもさる事ながら、更に説明臭いのはたけしのモノローグ。古色蒼然もいいところ。
これ要ったか?
情況の狭間を示す空ショットも大島らしくない。らしくないと言えば極めつけ、散々ここでも取り上げた
「イマジナリーライン」。
男のエロスが三次元で語れるか!とばかり観る者の空間意識をグチャグチャにした「戦場のメリークリスマス」の挑戦的カッティングは影を潜め、イマジナリーライン遵守は整然としたもの。ああ、大島なのに。
松竹ヌーベルバーグなのに。ダイアローグが、
余りに基本。ちょっと、こんな教科書的で良いの!?
なんて事も考えながら、観てしまった。これも事実。別に幻滅ではないけど。ただ、教授のこれまた下半身にジーンと来る音楽も含め、 凡百の映画(邦・洋含めて!)等足元にも及ばない映像をモノにしておきながら、どうして「御法度破り」の大島節を前面に出さず、逆にモノクロ時代の古典的「ウェルメイド」として作品を仕立て上げなければならなかったのか。 その疑問がずっと頭から離れなかった。
とんでもない佳作を観た気分にはなったが、とんでもない「大島の」佳作を観た気分にならなかった。そこが、哀しい。
無論、贅沢な事を言っているのだが。
この事態の根拠として、早速「ユリイカ」なんかで評論家諸氏が述べているのを読んで、合点は行くのだが、個人的にはこれ、現代という映像バブルですっかりジャンキーになってしまった私のような哀れなオタク達に、 違うよ、映画って、こういうもんなんだよ、美食雑食も良いけど、栄養のある映画も戴かないとね、と。そういう結論に至った訳で。それが何だか無性に申し訳なくて。
大島が敢えて「職人」と化したのは、当然現代の日本、いや世界の映画界を視野に入れての話。言うまでもない。
つまり、われわれが「御法度」から学ぶべき事は、その作品としての圧倒的な上出来を更に超え、余りに多い訳で。
カンヌくらい、取れるでしょ。
年越しを実家で過ごそうと帰って来た阪急石橋駅近くのビデオ屋で借りた「エイリアン4」。
師匠やら芳蔵君やらがヤイヤイ言ってるから、一応は観とかんとな、と思ってでも元旦に観るもんじゃねぇな。
で、まあ、・・・面白かった、と言っておこうか。特に、エイリアンの息子。あの表情は見事。窓の穴から宇宙へブチブチ潰れ出るのも良かった。
あとは・・・まぁ、角が立つからいいや。
その前に「御法度」観たし、その後「踊る大捜査線」と「七人の侍」を観たのも、良くなかったんだよな。
でも、言っちゃうか。はっきり言って、「志」が違う。「志」の高さ。
違い過ぎて、改めて、吃驚した。
てな訳でそそくさと「踊る」に移りたいんだけど。・・・流石に眠いんで、以下次号。
(01.03)
朝比奈=都響の「ブル5」聴かせろー。
3月29日にサントリーホール行かせろー。
あ、突然ですが、
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/6085/
正にクラシック音楽界の「と学会」。ここ見て腹抱えて笑った人、健康のためクラシック音楽の聴き過ぎに注意しませう。
閑話休題。
さて、「踊る」。今日はまとめて語っちゃうよ。
最近はすっかり「ケイゾク」熱にうなされてしまい(特別篇が「ケイゾク」HPのBBSで評判悪いぞ!なんで!?あれこそ「映像派ドラマの極北」なのにぃ!!)、「踊る」の印象がどんどん「フジの画ってやっぱりバタ臭いよね」と身勝手に変わって行った1月1日、元旦ロードショーで「THE MOVIE」当てて来た!
意識してる、してる!本家の意地見せたらんかい!
とは言え、只今「ケイゾク」熱な私は敢えて観んでも、と。どうせTVでやるんならトリミングされてるやろし。完全版買うし。
・・・なんて言ってても、実家のワイドTVでいざ始まってしもたら、もういけない。
BSで「七人の侍」やるし、9時45分まで・・・なんて思ってたら、分割画面にして二本同時に観てしまった。もう、映像ジャンキー!
しかし、いやはや、最敬礼。やはり素晴らしい。イイよ、これ。
完璧とは言いがたい。公開時各所で述べたけど、一本の「映画」としての脆弱さは否めない。だってTVだもん。
しかしそのTVシリーズとしての「軽さ」と「機動力」を、ある種のプライドを持って死守したという事実。そこにエンターテインメントの「志」を感じ、身震いした。
どうしても「エイリアン4」との比較になっちゃうけど、志が違う。同じ「見世物」でも、こうも違うのか。無論、映画館で彼女を散々怖がらせて「あー面白かった」なんて スッキリ出て来て、その後の食事で皿の料理をつまんで「ホラホラ、コレ、さっきのエイリアンの子供の肉」なんて小粋なパーティージョーク(?)で彼女をキャーキャー言わせて、 夜も更けてホテルにチェック・インする頃にゃすーっかり忘れてしまえる、そんなのが「エンターテインメント」だと言うのならば、もう何も申しません。申す気も起こらん!
「踊るTHE MOVIE」公開初日に起こった、エンドロールに手拍子を送る観客のランチキ騒ぎを気味悪がり、鼻で笑った御目出度い御歴々。いやはやそんなエセ常識人に、一体表現の何が解るというのだろう。そもそも映画の何処観てんねん?自分の狂気と陶酔を目一杯笑い飛ばし、尚且つ敢えて そこに飛び込み、のめり込む。バカをバカとしてそれをバカにする自分のバカさ加減ごとひっくるめて楽しめる事の格別な豊かさ。その拡がり。未だに「自分はいつでも俯瞰で見下ろしていられるんだ」なんて能天気に思ってらっしゃるそこのアナタ、ポストモダンと一緒に火葬場連れてかれちゃうよ。
まあ、いいや。でも「ケイゾク」BBSであった「踊る」批判も示す通り、あの「ケイゾク」で完成の域に達した、狂気凶暴欲情無邪気錯乱幼稚エログロスプラッターナンセンス関西ベタ等等の諸要素とその「遊戯性」を研ぎ澄まされたテンションで描き切る事により、この事こそ即ち人間精神の不必要な虚飾を総て剥ぎ取った中にある穢れ無き真実の魂の立ち顕れであるという 当然にして且つ厳然たる一事実をわれわれの眼前にこれ見よがしにドンと突きつける、その驚異のヴィジュアリズム(無論、これこそ芸術第一のダイナミズムだというのはニーチェの御蔭で最早周知の理)を体験してしまった人にとっては、「踊る」を「ダサい」一言で片付けてしまうのも、まぁ無理はない。逆に、現代感性学へのテロリズム「ケイゾク」ワールドの 強烈過ぎる光をア・プリオリに危険視し、附いて行けなくなって「踊る」を懐かしがる向きもあって、まあそれもしゃあない。
ただこれ、両方とも蔑んじゃう人、いたりするのかな。ウワァ、ナンマイダ。
余程の勇気、要るよ。それって。まぁそんな事すらちーっとも解ってないから平気でけなせるんだろうけど。
早い内に見ておかないと。「EVA=踊る=ケイゾク」を結んで出来る90年代映像表現の磁場とその磁極の探究。焦って来た。
まあいい。今回は深追いなし。「踊る」一本のみ。
あー、何の話だったっけ?あ、そう。「踊る」はやっぱり良く出来ていたという事。綻びも多々あるけど。
色はホント良くない。邦画のダサさの極み。バタ臭い青と赤と、意味の解らないセピアトーンと。湾岸署内は特に戴けない。
TVは広いセットに十分な白熱灯の光に、VTRのハイキーに、恐らく霧吹きを多用したのだろう遠景に微妙なモヤと乱反射を加えて、実に御洒落。サイバーでお台場のイケてる感じ。それが映画で全く失せて、陰気。
脚本も完璧には程遠い。4つの事件は同時多発なだけでちっとも絡まないし、和久と副総監がダチだったなんて設定、要ったか?青島と室井のドラマはTVで上手く振ってるんだからそれだけで十分押せるのに、邪魔。
ただその説明過剰・サービス過剰もまた「踊る」であり、その軽さとフレキシビリティ、重心の高さは全体として大きな醍醐味となる。公開前噂で騒然となった青島殉職も、ベースにきちんとしたシチュエーションコメディがありながら、映像としての テンションの昂まりと「人間ドラマ」への抑えがたい欲求が三谷幸喜的なロジックとの緊張状態を生み、その軋轢から噴出する未曾有の熱いエネルギーを抽出するのに成功したからこその感動なのだ(この点、「ケイゾク」と似ているが、違う)。
でなければ、室井が青島を病院へ運ぶその車の後姿をハイスピードと望遠で見送る御涙頂戴極みのクライマックスの無音の中から、青島のいびき声をフェード・インさせるというあの神業的なショットは、奇跡ではなくただ問題集を解き終えた時の喜びに 落ち着いてしまい、あの劇場内全体がすすり泣きの声から一転大爆笑に変わるという集団催眠の如き圧倒的な効果は決して得られなかったであろう。
更に分析。
気になったショットをピックアップ。先ずはこの画。
手前の隆大介から向こうの青島達にピン送り、しない。勿論他のショットでは、すべきところはちゃんとピン送りをかけている。
ピン送りは画の奥行きを「見せつける」効果があるが、焦点の移動を拘束されてしまうのは観客にとって随分窮屈でもあり、多用はカメラワークの平板化の恐れもある(私は、この点よーく解る)。ここでは、主役を敢えて「見せない」。いつでもちゃんと見えてないとおかしい ものがボケて見えないおかしさ。それに加えもう一点、遠景ボケで奥行きを出しつつ、ピントが頑固にも 隆に留まり続ける事で、青島達に一瞥だにしない隆の芝居と相俟って、彼のキャラクターをたったワンショットの画の力でわれわれに感知させているのだ。
ここら辺、上手い。
さて、ここを観た直後、「七人の侍」で比較に良いショットがあった。カメラが芝居する事を断じて許さぬ黒澤御大、どうしたか?
勿論、パンフォーカス。堂々としたもんよ。
次、室井が青島の期待を裏切る哀しい指令を下すショット。
上層部からの指示のメモを見てギョッとする室井。そこからカメラはゆっくりトラック・アップ。そこにズーム・バックを加味し、 目立たないが実は「めまいショット」になっているのだ。これには溜息が出た。室井の動揺と苦渋の心境を、ここまで繊細に表しているとは!
そしてメモの肝心の部分「所轄は、後方支援。」を意を決して読み上げる瞬間、
万感こもった男の横顔に切り替わる。もう絶品の一語。
更にもう一箇所、さっきも上げた御涙頂戴シーン。
俺このショットでどうしても泣けちゃうんだよなぁ。
なんかね、志がビンビン伝わるの。胸締め付けられるの。
まあそれは置いといて、このマンションのショットから多用される望遠ショット。
広角レンズはパースをつけ、出来るだけ多くの風景を取り込もうとする。対する望遠レンズはフラットであり、圧縮効果により限定された被写体をギュッと引き締めて見せる。つまり当然ではあるが、主に冒頭辺りの状況説明や少しパースを強調したトリッキーな箇所には広角を、ドラマとキャラクターを存分に描きたいクライマックスの箇所には望遠を使う。これが基本。
このシーンもその理に忠実。加えてハイスピードを通して情感を煽る。しかしここでも刺された青島とそれを担ぐ室井を見せるのに、パン・アップでワンクッション置いているバランス感覚を認めるべきだろう。青島の痛みと室井の焦りが、先ず足から伝わって来るのだ。二人の「足」!・・・一つの「志」 に向かって共に歩を進めていた二人の足取りが、今、こんな形で視覚化されようとは・・・!
返す返す、御見事。「志」のショットである。この応用がラスト、青島を見舞った室井が会わずに去るのを真正面からフォローするショット、そして、青島が再起を誓って歩行のリハビリをするのをこれまた真正面でフォローするショット、この二つを切り返す事で、二人の友情と志がより発展的な形で昇華するのを われわれは見取る事が出来るのである。なんて充溢した映画的カタルシス!エンドロールで踊りたくもなりまさぁな。
「志」が、違いまさぁな。
他にはね。えーと、
御家芸のステディカムは「ER」のパロディでこそあれ、本家が対象を絞った合理的な移動と緊急事態のスピード感を表すのに終始しているのに対し、「踊る」のステディはやはり「踊って」いる。滑らかに湾岸署内をすり抜けるカメラは脇見をしつつ出来るだけ多くの人々のキャラクターとドラマを たちどころに見せようとしているかのような贅沢さ。ドリー撮影も加えて「スピード」より「流れ」、リズムがよりスマートである(動かし過ぎって所もあるんだけど。でもそれは「踊る」の軽さ。機動力。大いに良し)。
そして、お待っとさんで御座居ました、全国100万人のイマジナリーライン評論家の皆様、ここでもやってくれてます!!
俺本広に影響されたのかな・・・。
でもしんた氏の言う通り、こういう場合は既にアリになってるのかもね。不自然じゃないもんな。
まだまだ語り尽くせないけど、一旦ここまで。「ケイゾク/映画」の時はえらい事になるぞ。「踊る」と比較なんてし出したら、最悪!
私にとっての「エンターテインメント」とは、限りなく「踊る」であります。断言出来ます。
今更だけど、確認出来た。良かった。完全版買おっと。
(01.07)
空を見て、ああ、俺何やってんだろ、と考える時。
ああ、俺何やってんだろ、と考える時。
ヒトとしての在り分、アンガジュマンとやらに波状攻撃を受け、ふらっと空を見上げるその時。
自らの上はいやに白く、高い。
しーらない。
黒澤24本目「醜聞」。
いやはやこれも教科書。素晴らしい。
蓮實センセが言うのに首肯するのはいちいち癪に障るが、しかし50年代の黒澤は、ホントにまるで当時レッド・パージとヨーロッパ復興で大いに動揺したハリウッドとその文法がごっそり日本に疎開して来たかのような凝縮ぶり!
「俺がやるのは芸術なんかじゃないんだ。やっぱりエンターテインメントをやらなきゃ」なんて偉そうな口叩くオカタ、
クロサワ、何本観た?
観てないっしょ。だからそんな事が平気でほざけるの(最近とみに他人に当たって、駄目ねぇ。そうやって自分の品貶めるのが楽しくてしょうがないんだけど)。
ワイプって素晴らしい技法!なんで廃れたの?廃れたと同時に邦画はテンポも質も間延びさせたのでは?
裁判所のシーンは、まぁ御見事!ロングで被告席からゆっくり横パンして、原告席の志村喬をやり過ごそうとした瞬間
「待って下さい!」と志村が立ち上がる。ゥワア、グウの音も出ない!(でも似たようなカット、何処かで観たような・・・)
カッティングの緩急!いちいち決まるフレーミング!移動撮影のリズム感!ついでに李香蘭!歌は上手いよ流石に。
黒澤のミュージカル・シーンは(時々あります。よく観ると)どれも異様さをプンプン匂わせながら、異様なりに 何だかよく解らないけどモブの迫力も加えて、笑いながらも入っていけちゃう不思議。岡本喜八とはまた違う魅力。黒澤文法とは言えないんだけどね。
あと、未練と執念深さの塊はまだイマジナリーラインで観ます。
あの黒澤先生が、実に効果的な方法でイマジナリーラインを崩しているんです(崩してる所まで行かないかも知れないけど)。
どの箇所かは、この際ヒミツ。
映画の勉強だけ、前向き。これだけ。
(01.09)
ショスタコーヴィチの交響曲に通底するというアイロニーは、勿論直截にはスターリニズム・ファシズムに向けられているものに相違ないが、 彼の天才的なネクラから生み出されたそれは単に政治的性格で一面的に語られるべきことではなく、真に現代的且つ「普遍的」な価値を見出すべきである。
ミニマリズムの先駆とも言うべき無調のフレージングが管弦のフルトゥッティによって暴力的に繰り返され、そこに軍隊そのものを象徴するドラムスが終わりなき時間の無常を刻みつける。その音場は確かに、 希望と絶望が相対化の中で相殺され、最早日々の暦を機械的にめくり続ける事でしか生の連続性を感じる事の出来なくなったわれわれの日常を浮かび上がらせる。
絶望とは、総てが根源的な「一」である事を直感する事。われわれは無意識のうちに、この余りに根源的な「一」を恐れ、避けるように生き続けているのではないだろうか。そしてその逃避が更に包括的な「一」に取り込まれて行く事の、いわく言い難きアイロニー。
何が言いたいのかって?さあね。
(01.10)
行きつけのビデオ屋に返却しに行くと、2階のゲームソフト売場でコナミの某インタラクティヴアニメが「おすすめソフト」としてディスプレイされていたのを見て、呆然とする。
OPの画を見ながら、呆然と。
ボーッ、と。
雨の中傘も差さずに自転車で家路に就くと、マンションの近くに猫の轢死体が転がっていた。
フン。
「GAZO」スペシャルは「ガンダムミレニアム」(なんかズッコケてしまうのは私だけ?)。
富野大僧正の勿体無い説法の中で、唯一もとい取り分け眼を奪われたのが、彼が演出教育の為打ち立てた「アニメ演出チェックの5原則」!!?
ホエー、思わず読んじまったけど、
一、「死に体のポーズは禁止」
ニ、「アップ気味より引き気味で」
三、「カメラ位置はアオリが原則」
四、「つまったレイアウトでなく距離感を」
五、「固定したポーズから動かさない」
一、二は大いに納得。キャラの芝居を見せるため、はたまた作品世界の拡がりを意識させるためにはこうした方が良いに決まってる。
しかし三には反論。そもそも「最近のアニメは俯瞰が多い」なんて事自体おかしい。逆である(経験上、言えるよ。ここでは言えないけど)。理由は三点。一つ、富野自身も言ってる通り、アオリの方が「劇的」であり、これに広角レンズを加味して、ロボットや怪獣の巨大感やキャラクターの威風堂々としたカッコ良さを出すなんてのは、 最早アニメの常套手段もイイところ(TVドラマも然り)。一つ、アオるという事は、畢竟空にカメラを向ける事。当然BGは空の比率が多くなり、レイアウト作業や背景作業の軽便化に繋がる(悪く言ったら、ラク)。もう一つ、最近のアニメーターは多数がここ20数年来のアニメブームの洗礼 を受けて業界に入って来ているが故、キャラ(特に顔)の描き込みに思い入れがあるのは当然、あるいは仕方のない事。ならば、頭髪の面積が不必要に大きくなる俯瞰より、あごからキャラの御顔をガッチリ捉えてしまいがちになるのも、不思議ではない。
でも寧ろ、画をフラットからハイアングル気味にして、キャラの立つ世界ごとガッチリみせるべき、というのは私の意見。
その意見と関連しての四だが、アニメはそもそも二次元だから出来るだけ遠近感の表現をつけ、平板な構図は避けるべし、というのは確かにあるのだが、でもそれってどうも、未だ日本のアニメがコンプレックス(勿論、ディズニーに対しての)を引きずっていてしょうがない、という印象を受ける。 われわれは西洋遠近法以前の日本絵画を観て、果たしてそのようなコンプレックスを感じるだろうか?逆に絵巻物や浮世絵のパンフォーカス+パースペクティブ無視のフラットな構図こそが、海外に誇れるジャポネスクの一構成要因であり、日本人に連綿と伝わる感性的アイデンティティではなかったのか?
戦前の大藤信郎や村田安司等の作品が、今観ても根源的な力と構成美に満ち溢れているのは、そういう所なのだろう。もっとアニメを体系的に観なきゃ。
五については、何を言っているのか解らん。
しかし、そういった議論以前に、呆れたのはこれを紹介した氷川竜介のコメントである。
この五原則を見ると、意外な感じがするのではないだろうか。理にかなっていて、単純な原則ばかり
である。エキセントリックな映像を志向しているかと思われている富野監督は、非常に常識的なこと
だけを述べている。
あんさんそれって、上の五原則が実際の富野作品ではちっとも生かされてない、って言ってるようなモンでしょ!これじゃ贔屓の引き倒しやんか。
ウーン、それよりも、「あの『∀ガンダム』のPANはどうしてああも焦点定まらず彷徨い続けるのだろう?」なんて事を考えた方が、余程富野研究の足しになると思うんだけど・・・。
明日も仕事じゃ。
(01.12)
10日は寝倒しちまった。わははは。いいや。
今日は何だか不自然にハイだぞ。ひゃはははは。あー。
映画二本。
「3−4x10月」。こやまん氏のお気に入りだから悔しくて北野映画のベストにしてなかったんやけど、ああ、やっぱエエわ。
キタノをどうしても色で観てしまう癖がついたんだけど、これはいつも空。ずうっと空。人間なんか皆フレーム下半分に押しやられ、ひたすら空。
それと白、ずうっと白。ハイキーなんてものじゃない。観ているこっちの頭ん中まで真っ白にしてしまうような、危険な白。
空と白で、空白。なんちて。
アホな洒落は忘れて、いやあ、もう何と言って良いやら。今回ばかりは言葉が出ん。
「その男」から始まった北野の表現主義は「3−4x」を経て「ソナチネ」そして「HANA-BI」で大成するんだけど、何もかもか昇華され尽くして もうたけしが立っているだけでネガポジ様々な情感がブワッと押し寄せるような文字通り「マトリックス」のキアヌ・リーブス状態になった「HANA-BI」はやはり別格として、テメェらホンモノの狂気を見せてやる!という色気が少し喧しい「その男」、青のバタ臭さと共に何だか邦画の範疇に収まろうとしてやっぱり色気立つ「ソナチネ」 と比べ、この「3−2x」がもたらすエゲツナい存在感は何だろう?
なんかもう、みぃんな忘れてスコーンと草野球してスコーンと綺麗な女と寝て、そのままヤクザと絡んでタンクローリーごとスコーンと組に突っ込んでしまいたくなるような、いやいや危険!おおコワ!
途中沖縄の海辺でたけしが自分の女しつこくどつき回すんだけど、まぁしつこい!しつこい!しつこい!女がビービー泣いて可愛く憐憫求めて来てもそれを期待してたかのようにまだどつく!!いやぁしつこいしつこいしつこい(って淀長の真似しても無駄)。
でも、これがね、ぅわあ、なんか物凄い感情が洗濯機の中でゴウゴウ回ってる気分になるの。解る?解んねっか。
更にね、この凄惨などつきを演じたたけしが、後に「ありがと、ゴメンね」と呟く岸本加代子の肩をそっと抱いてやるたけしに変わるんだぜ!オイどうよ!無茶苦茶カッコいいじゃんかよ!!そう思うだろ、なぁみんな!(誰と喋ってんねん)
私の愛してやまない監督、ていうか何度生まれ変わっても追いつけないと諦めた監督、三人いるけど、共通するのがその作品の「MY BEST」以外に必ず「MY FEVORITE」が出来ちゃう事。宮崎センセならBESTが「もののけ姫」でFEVORITEが「ラピュタ」、 黒澤御大ならBESTが「七人の侍」でFEVORITEが「どですかでん」、で、北野なら「HANA-BI」と「3−4x」に、なるんだろうなぁ。
このぬぼー、とした顔で始まりぬぼー、とした顔で終わる。んー。
もう一本黒澤「酔いどれ天使」。
まぁこちらは、あの志村が喋る喋る喋る喋る(もういいって)。
「醜聞」でも志村は弁護士役で相当喋ったけど、やはり小市民的だった。こちらは怒鳴る。もう言葉解んなくなる程早口で怒鳴り倒す。
最初は観ていて、ああ、御大が「抜いた」方のシャシンかなぁ、と思っていたがさにあらず。後半徐々にに画のテンションを上げて来る。
「ジャングルブギ」はイイ歌だなぁ。スポッティングはイマイチだけど。
そして有名なペンキまみれの死闘シーン。結核で死にかけの三船(こっちもカッコいい!)と相手のヤクザの強烈なアップをこれでもか!とばかりに短いカットで切り返して切り返して切り返して切り返して切り返して・・・っていくらなんでもやり過ぎの感。でもその後の白ペンキ、 そして刺された三船が最後に見る救済的な洗濯物の白いなびき!珍しくここをクレーン・アップで撮ってるのも、散々突き放して、でも魂だけは救いたかったんだろうなぁ。
さり気なく三船のために卵を買って来る医者の志村にカット・バック。その後ろにはやはり白い洗濯物のなびきが。ああ素晴らスィー!
さて、ブルックナーでも聴きながら酒飲んで寝よう。
(01.14)
妙に疲れているので早く寝たいのだが、それ以上に精神的疲れや渇きが酷いので、結局観たり書いたりする毎日。
蓄積の手応えは十分あるので、いいけど。
黒澤26本目「わが青春に悔なし」。
おお、終戦直後の京大・・・。・・・。
さて、今回はワイプなし!代わりにOL!全部OL!くどいくらいOL!
カメラは珍しくヒロイン原節子をピタリとマーク。彼がここまで役者とがぶり四つに組んだのは唯一ではないか?
しかしOL、またOL!それが次第に、実はヒロインの病的とさえ言える粘り強さとリンクしているのだと解り、ああ納得。
初めて原節子を美しいと感じたのも、原の顔に見る可憐さだけではない骨太さとOLの腰の強さが見事一致したからだ。
それよりも問題は田舎へ行ってからよ。あの永遠のマドンナ原節子に野良仕事!泥まみれ!それを強烈なカッティングで(いくら何でも、切り過ぎ)これでもか!とサディスティックに苛め抜く黒澤!まぁイヤラシい!御大気持ち良かったろうなぁ。
まぁ原もそれに負けじと凄い顔!才人のぶつかり合いだねこりゃ。
何度か言ってるけど、黒澤のアオリショットの威力。初期の作品には比較的多用されてはいるけれど、ここぞという時に持って来るその時の画の力。人物の存在感。誰も語ってないけど、黒澤のアオリは凄い。
さて次は「悪い奴ほどよく眠る」を・・・と思ったら、レンタルビデオ今日返却日。いけね。
慌てて「LxIxVxE」@に変更。
勿論小説の参考のため。期待してなかったけど、1巻3話一気に観てしまった。
まず言わせて下さい。今井、フルートのケースをチャリの籠に入れて乗るのはやめろ!!オイ誰か注意してやれ。いくら初心者の設定でもあれは教育に悪い。
あ、この糸を引く程ベタベタで唐突な展開で兎に角エピソードで尺を埋めればドラマになると思っているこの脚本!やっぱり信本大先生!!作家性もすっかり確立!!
なんて書いたけど、OKっす。学園を舞台にしてハートフルなストーリーを可愛い娘使って撮れば、十分商売です。いやいや、嫌味でなく。世の中には全く商売になってないのもありますから。
そりゃ、言いたい事は腐る程あるが(久しぶりにカット毎に突っ込みを入れながら観てしまった)、でもイイっす。こうすれば良くなる、という方法論を自分の中から引き出してくれるだけで、これは十分なリファレンスであり、刺激なのです。
だってヒロインの今井絵里子は十分魅力的に撮れているし、脇を固める内山理名や木内晶子や星野真里、そうこの星野がまたイイ!まだ出番少ないにも拘らず小技が効いてて、って随分豪華な配役やんか!アラァー。もう一人SPEEDいたような・・・。
タイトルバックは音楽的で良い出来。本編でもこれくらいやってよ、とは本音。
「AUFTAKT」再開しよ。普通に書けば良いもの出来る筈なんだよな。そもそも。
(01.20)
忙しさに対してこれだけ全く充実感が沸かないのも珍しい。
帰って来ると気絶するように寝るだけ。勤務中も何度か気絶する。居眠りじゃないよアレって。
会社の上司と「プロとは何か?」という有史以来最も実にならんテーマで話をするが、何よりお互いの間で「そんなの、解っちゃいるんやけどねぇ・・・。」という空気が充満して行くのが何ともいたたまれなくて、息苦しい。
「LxIxVxE」#4は今井夏木の回。すっかり「ケイゾク」ナイズドされていたが別のドラマみたいな引き締まり方。演出はリズム。リズムを見たら一目で本物か否か解る。
この話数観た後心がグジャグジャになって寝付けず(6時まで!)。
ソンナニ アノヒガ コイシヒカ。
(01.22)
ばかっつらー
ミレニアムアニメNO.1確実(逆さAなんか真ッ逆様!)20世紀最後のセンセーション「OH!スーパーミルクチャン」はいよいよWOWWOWで1月27日よりOA!!!ダス!!!
いやー近年のアニメ観てこんなに興奮したのもおっとフライング!いいや。OPは泣いた。魂が震えた。神よ!
まぁ観とくんなはれ。特に#2必見。個人的に。
詳細は後日。
黒澤27本目。あと3本!!「静かなる決闘」。
散々語られたが、黒澤と言えば雨。黒澤と言えば風。本作にもその傾向がはっきり見て取れるが、全体として特徴にはやや乏しい。
三船、役合ってねー。彼の粗野なイメージを崩すための御大の起用だったが、医者のカッコして「ボクは・・・」なんか台詞言い難そう。
驚いたのが千石規子。黒澤作品三本で、いずれも三船の傍で世話を焼く小娘役だったのが、今回はひょっとして彼女が主役だったんじゃないの?と思っちまう位の充実振り。
三船が梅毒に蝕まれた自分を呪ってそれを情けなく千石にぶちまけるシーン、千石のリアクションは勿論泣き。しかし、これが「ウエェ、ウエェェ」。このうめき方には惚れた。
ひょっとして皆避けて通っているんかな?「AUFTAKT」更新。実は前の文も修正しつつ書き進めています。って余り自慢にはならんか。
とうとう、ますます窮地です。でもこの心の余裕は何?
(01.23)
・・・石野真子の歌が頭から離れん。
黒澤優が「ISOLA」に出ている事を今日のスポーツ誌で初めて知る。
おおおおクロサワ17歳!御大の御孫!ていうか「がんばれ!レッドビッキーズ」と並ぶ林寛子の偉業!!
勿論彼女は「アイドル俺的BEST」ランキングの殿堂入りであります。
御母様に似てホンマに良かった・・・。
んで、おじいちゃまの「悪い奴ほどよく眠る」。
黒澤の社会派物は出来が宜しくない、とは巷の定評のようだが、確かに変にドラマティックで、仰々しくて良くない。
が、ドラマツルギーがしっかりしていた分これは楽しめた。
但し劇伴は近年の久石譲以上にベタで邪魔。シネスコになってからの黒澤作品はみんなそう。それに妙に喧しい。佐藤勝の責任じゃないと思うけど。
シネスコと言えば、黒澤は結局このサイズの広さを使い切れなかったのではないだろうか。市川はその横へのだだっ広さがレイアウト上無駄である事を良く知っていた。そしてそれを逆手に取り、あの天才的な「空フレーム」を編み出した。一方広所恐怖症の如く画面の空白を兎に角埋めたがる黒澤はどうも上手くいかず、モブの多用や幾何学的な人物配置に終始せざるを得なかったのではないか(これがビスタサイズになると一変して絵画的な完璧さを確立する。それは流石)。
樋口の指摘の通り、人物は徹底して引きである。今回の場合それが人間の矮小さを表すのに好都合ではあるが、やっぱり個人的にはもう少しキャラの懐へ飛び込んでその情感を共有したい。
とはいえ、シネスコだったらいくら顔を寄せたとしても、
所謂クローズ・アップにはならないから、しょうがないんだけど。
香川京子、いいねぇ。黒澤ヒロインの代表格じゃないかな。彼女が「まあだだよ」で黒澤を看取ったってのがまた感動的。
それと、おおっと思ったこのカット割、
先の三船と次のじじいが供に歩いているので、アクションカットの切り返しと思ってしまったが、場面も人物も違うこのトリック!
智謀策術を巡らす両者が供にやや行き詰まっているというシークエンスだけに(またそれが共同テレビのようにケレン味一本槍で来るのではなく、ドラマの自然な流れに溶け込んでいるという点で)、御見事と言うに尽きる。
(01.25)
・・・あー。
・・・うー。
「LxIxVxE」#7にまた吃驚。やってくれたぜ信本!!
もう脚本・演出に至るまで得る所なし!!どうした今井よ御前もか!?
・・・恥をかかせおって。裏切ったな、ボクを裏切ったな!
続く#8も駄目。TBSドラマ御得意の中だるみか?それにしてもせめてM8以下のあの発表曲何とかならんかったの?
最後まで観るの、怖いなぁ。観るけど。
<「松本人志 シネマ坊主」をボーズにビョーブするゾ(声・矢島晶子で)>
「新アイドル四天王」と題して池脇千鶴・内山理名・木内晶子・後藤理沙(以上生き残りそうな順で列挙)を特集していた日経エンタテインメント買っちまう。
そこに載っていた松ちゃん師匠の上記コラム。
北野との対談読んでも思ったけど、撮りたいんやね、相当。
相変わらずここでも散々本物志向とプロ意識を捲くし立てているが、思わず「じゃあなんでアンタが映画批評やってんの?」とツッコミ入れてしまうのが関西人。それを置いといたとしても、マァ、見事に映画感想文。それ思うとこっちまでギクッとくる程。もう、ゾクゾクッ、て。
そのゾクゾクッ、が何箇所か。先ずここ。
(「雨あがる」の評で)この国の美しさを、とにかくきれいに、ていねいに撮ろうとしたことがよくわかります。
「この映画の日本とやらに、一回行ってみたいなぁ」と思いました。
松ちゃんの口から「日本の美」・・・。いや、確かに松ちゃんの「北の国から」フリークは有名だけど。
そして終盤「踊る」映画版を糞味噌にけなして、最後こう吐き棄て。
ぼくも日本人ですから、外国へ行った時に「踊る」みたいな映画で盛り上がっているやつらの一員やと思われたら、嫌ですから。
オイこの人日本背負って立ってるよ。長者番付上位やもんね。ヨッ文化人!映画人!
・・・何だか発言の雰囲気が、某ミイラ化セミナーに通っていたっちゅう某カリスマ歌手に似て来たんだけど、気のせい?
そんな不安も過ぎりながら、しかし「踊る」と「シュリ」をパクリ一点張りでとことん斬り刻んでいる彼の御姿は、「4時ですよーだ」や「夢で会えたら」が淡いノスタルジーである私にとっては、どうも近親憎悪以外の何ものにも見えない訳で。
やりたい事出来るようになったいまとなっては、過去の忌まわしい仕事は悉く清算せな気ぃすめへん、みたいな。
しかし待たれよ。このような駄文であれ間違いなく彼の表現の派生形。無闇な嘲笑では彼の天才に唾しかねない。
この私情、という他ない個人的ルサンチマンが陰湿に凝縮され、発火した末噴出す烈火こそが彼の表現の一且つ全である筈ではないか。
ライト兄弟時代、番組で横山やすしにやはり糞味噌に因縁つけられ、その憎悪が後の(しかもやすしが凋落した後!)「ごっつ」の「やすしくん」にまで凝縮され、その沈殿物の腐乱臭をプンプンさせながら同時に異常な化学反応で爆発的エネルギーを得た、あの事実を想起すれば証明に事足りるであろう。
ただ、読む所なかったなぁって、そんだけ。次の志村けんのコラムはそれにも増して、アイドル並の文章だったのが重ねてショック。
(01.27)
さっきTVで相米慎二「翔んだカップル」観て胸が一杯になる。
いま時間が時間だけに、それに言葉にするのが辛くて、書けない。詳細は後日。
(01.28)
<告白>
告白します。
実はウチのコンピュータ、アプリ起動の時「らじゃー了解」ゴミ箱空にする時「任務完了スシでも食いいっかー」と叫びます。まぁ。ぽっ。
旧作「スーパーミルクちゃん」パイオニアからLD(だった筈)出ています。こちらも凄い出来なのでいかが?
http://www.movie.co.jp/supermilk/
ハマッた人は、行きなさい。
(01.29)
♪「テツコのベルギーワッフル」の歌をうたいながら仕事をすると、眠くなるのでやめましょう。
ヒャァー!!!(ドラえもん一作目OPのノリで)
「LxIxVxE」遂にコンプリート。
いやー凄い。中盤ダレ気味ながらも自然に流れが出来てそれなりに青春の風情を醸し出して来たのが一転、降って湧いた血みどろのハプニングをちぎっては投げちぎっては投げ、ストーリーの構造を木っ端微塵に粉砕してしまうこのカタストロフィックなカタルシス!正に信本調全開!!(「白線流し」もこれにやられた・・・)
その中で気を吐いた#10の今井演出。ああ、信じて良かった。群像劇のテンポ、画一つ一つで語る丁寧さが光る。最早カオスと化したストーリー構成を今井−藤原−木内の三角関係に絞ったのは正解。これで何とか展開が落ち着いたと思ったのに・・・。最後で藤原事故らすか?ヘェ?・・・アニメじゃないんだから。カッコ笑い。カッコ爆。
でも、ええ、十分楽しめました。トンデモ的な観方含め。
「表現はイマイチだけど、内容は良かった」ってやつ?
哀しいかな、これにノスタルジイ感じた時点で、俺の負けなのねぇ、全く。またそれを別問題にして作品を評するなんて野暮。そんなの審査委員長がやんなはれ。
技術こそ表現、というテーゼは未だ健在だが、これが作品の茫洋たる全体像をヒステリックに拘束するのでは、何もならない。プロになるんじゃないんだから、もっと頭パーにして観て良いんじゃないの?というのは単純にしても、それこそ「感性の王国」に対する必要以上の言語化とそれによる圧力を感じる度に、こういうベタ大甘な作品の重要性を声高に叫んでしまいたくなる私もまた御調子者。
ブルゴーニュでしっかり熟成したワインでも、コンビニで500円のワインでも、酔えば一緒という大前提。また、例えばある夜飲んだワンカップ大関が自らの失恋の遺恨を洗い流してくれたという極めて個人的な経験が、その後のワンカップ大関に対する認識を外部から変化せしめたとするならば、その付加価値は間違いなくそのワンカップ大関の存在をイメージ的に決定する事になる、と。抵抗あるのは解るけど、これいい加減認めるべきではないかしら?
まだ解らない?芸術的感受とは記憶との連環。そこからどうにも逃れる事は出来ない。とはG.ベームが証明した通り。彼の本じかに当たってないから良く解んないけど。
芸術とは、技術を必要としない能力のことである。 W.フルトヴェングラー
表現とは対話。極めて個人的な一対一の非言語的コミュニケーション。作品の誕生は受け容れる者の魂に咀嚼され、初めて「成長」の過程を迎える。作品は、歴史の中で成長する。生、病、老、死、そして再生も。前からの持論。「また・・・」って声聞こえそうやな。
「じゃ、批評に何の意味がある?批評は結局趣味論か?」
もう御分かりだと思いますが。批評とは作品の内なるカオスとその流動を固着させる事なく捉えると同時に、幾多にも分裂して「個人的体験」と変容した作品の各部位をかき集め(「どろろ」の百鬼丸みたく)、作品の(あくまで現在の、となるが)「全体」を提示し、その成長と変容を見届ける事。
私の語彙じゃ、こう言うのが精一杯かしら。ジャーナリズムと同義にも見える。だが違うのは、批評する者の主観の「強度」が試される、という点。「どれだけ客観的になれるか」と言っているんではないので、御間違えなく。(だから、ここでやってるのも映画批評とは、やっぱ言い難いんだよねぇ。カッコ笑い)
と、あからさまに今木氏への反論になってしもうた。わはは。読んで戴ければ幸い。
因みに、「酔いどれ天使」で酔っ払い医者役の志村喬が商売道具のアルコールに水入れて飲んじまうシーンがあるんだけど、あれはあれで粋なものですよ。
さて随分長くなっちまって「LxIxVxE」だけど、全国500万の吹奏楽関係者は涙を流したであろう。彼等は、「ちゃんと吹いていた」。
近年の音楽ドラマで「それが答えだ!」があったが、こちらはクラシック中心の劇伴は充実こそすれど、いない楽器まで鳴っているオケ部の合奏シーンはそれだけで辛かった。マトモに弦をこすっていない深田恭子のボウイングも!
一方、今井の持ったフルートは決してアクセサリーではない(扱いゾンザイやけど)。彼等がナマの充実した音(それでこそ「LxIxVxE」。解る?)をなるたけ出せるよう、選曲とアレンジに緩みが生じてしまったのも致し方ない。何故ならその分、#5で星野真里が汗だくになって響かせた「威風堂々」のソロやホルンの男(名前忘れちゃった)が何気なくアップしている際の変ロ長調スケールは、クラブ活動としての「場」の演出に見事な効果を発揮していた、実は特筆すべきガジェットとなったのだから。
ラストカットの今井の涙が良かった。ここをクランクアップに持って来たのだろう卑怯な手!しかしこの今井のメタレヴェルの涙は、やはりガキンチョ使って青春物を撮る時の醍醐味に他ならない。いいじゃないか、楽しそうで。このショットで俺何もかも許しちゃったもんねー。
勿論、「反面教師」として役に立ちましたよ。そこら辺は抜かりなし。
えー続きまして、散々言っておきながらやっぱり技術の力はこんなにスゲェんだ!という一例。
映画「デジモンアドベンチャー」。ガキ供がずっと借りてて漸く先日レンタルした。
まぁショック!!物凄い雰囲気!!打ちのめされたー。最近続けてやもんね。尤もクソアニメ観てヘコむよりか数千倍イイけど。
いちいちキメて来るレイアウトは、まぁ庵野−樋口ラインの影響下にあると言っても良いんだけど、あの2コマ1コマで打たれたキャラの淫靡さは何?「THE八犬伝」もそうだったなぁ。アニメは2コマ以上にすると異様な生命感を獲得する。これがアニメのリアリティ?そうかもな。
勿論ダラダラ動くのではない。凄い表情の作り!光の笛がまぁ生きてくる事。特に終盤怪獣(名前忘れた)に向かって吹こうとしてケホッケホッとむせ返るあの動きは、ああ何か直視できない体験。
頑張ろう。歩けなくなるまでは歩いて行こう。前向きにおしまい。
(01.30)
慌てて起きたら午後三時。疲れてたから、いいか。
散髪その他結局端折って映画だけは行く。松本人志先生御推薦「雨あがる」@京極東宝。
本篇云々の前に先ず予告篇。邦画の充実ぶりにいやー嬉しい悲鳴。トレイラーの作り自体上手くなってるんやね。「どら平太」!
文
字
曲げの元祖 が四騎の会の面子を次々太明朝で!ってこりゃ行かな駄目っしょ。
「PRINSESS MONONOKE」あ、英語版の予告の方が上手い。
そして「ケイゾク」。出ました。「マタンゴ」みたいだ。やってくれそうです。
あと「JUVENILE」も。最近の子供映画は嘗めてかかると痛い目に遭うよ。実写も、アニメも。
あ、秋元康・・・。
対する洋画も「MISSION2」のジョン・ウーとか「007」とか、まぁ良さげなんだけど、しかしこうも続編頼りでは・・・。アニメじゃないんだから。カッコ爆二度目。イエローカード。
馬鹿な事考えてたら本篇。いきなり黒澤の遺影。んー確かに媚び売ってるなぁ。
ま、良いじゃないの。「サイトウ・キネン・オーケストラ」や「シンフォニー・オブ・ジ・エアー」みたいなモン。巨匠亡き後、こういう過程を経ないとやっぱ、気が済まないのですよ、芸術バカというのは。だってあの御大に皆がこんな形で感謝する事に何の後ろめたさがある?まだ「純粋に映画として・・・」なんて言うの?
しかし、ファーストショットの黒澤調大雨(確かにここもオマージュ)から一転、寺尾聰の歩きから増水した河へあ、クレーン・アップ!ここでもう御大の愛弟子・小泉の面目躍如である。腰低そうなポーズの裏で、クロサワの名で売ってるけどあくまでこれ、俺のフィルムだからね。まぁ、何てしたたかなんざんしょ!ここの主人公みたい!
その「クロサワの威を借るコイズミ」振りは冒頭の安宿シーンで決定的となる。汚しも徹底的な村木の美術までは黒澤のプレゼントとは言え、あの照明の暗さ。御大は情況描写で決して人物の顔が見えなくなるライティングはしない。しかしここでは雨の鬱陶しさとそこに泊まる貧しい衆の心の内を捉え、良いムード!
カメラのポジションはやはりフラットが基本。しかし少し寄るとローアングルが多い。そういえば超望遠じゃない!寧ろ標準レンズ。これにより晩年の黒澤映画の醍醐味だった絵画的な構図の格調は失われこそすれ、人物の温かみが十分伝わる距離を確保出来る事となる。つまり、この優しさと渋みこそがキツネ、もとい小泉の持ち味。勿論作品の内容を考えるに的確な選択。
ただその、創る方も観てる方も、どうしてもクロサワに引っ張られてしまうのは自業自得。解っちゃいるけど、その宿での宴会シーンはカッティングがだるい、もっと割ってくれなきゃ盛り上がらないよー、中盤の試合シーンも2カメ1テイクじゃ足らないよー、地味、林を抜けるシーンはPANじゃないっしょ、ちゃんとレール使わなきゃ、うわーここでどうしてもっとカメラ引かないの、とかそりゃもう挙げたらキリがない。
黒澤ファンが集ってその偉業を称える場として考えると、やはり物足りない。そこん所の中途半端さ。終始戸惑った。
ミフネ!オヤジそっくり!あの顔!妙に肩肘張って一気に捲くし立てるあの台詞回し!舌回っていない所もソックリ!
彼がヘタクソに見えたのは、彼が殿様だったからでしょ。あの槍振り回して暴れ回っているシーンの生き生きした様子を見ると、菊千代みたく裸同然で走り回らせていた方がピッタリだったに違いない(オヤジもこの年の頃は、殿様なんて出来っこなかった筈)。
あ、ミスキャストと言えば吉岡秀隆!彼にチョン髷付けようなんて考えた奴はどいつだ!もう違和感の極み。
それと松本先生の御指摘のあった殺陣の流血ね。いやぁ、地味でした。あそこもマルチカムでテンポを煽らずワンカットで押しているから、でも逆に寺尾の静かなる狂気が乗り移ってて、殺陣ともども効果として見事だった。「椿三十郎」知ってたのを良いことにあれを「グロ」って決めつける松本先生・・・何かデートの会話で彼女に知ったかぶりしている高校生みたい・・・。
そう、その寺尾の「内なる狂気」、彼が気晴らしに型をやっていると、後ろの林の木々がザワザワ、ザワザワ、って。そりゃもう、宮崎アニメのようなざわめき。寺尾が刀を収めるとスッと止む。このスッ、が自然で良いのよ。御大なら解り易くゴウゴウやるだろうに。そういうきめ細かさと優しさが、本作の総てだったようである。
ただあのラストショットだけは、何とかならんかったかなぁ。「見終って、晴れ晴れとする」にはあの海の色は褪せ過ぎた。
つまり小泉には、早く黒澤の呪縛から逃れて一本撮って貰う方が良い訳で。そりゃそうよ。でも世界中のプレッシャーを受けてここまでこぎつけた気力には拍手。
最近文章が長いな。どうしたのかなぁ。
今月のカヲ:泡が邪魔。
(02.02)
また風邪の兆候が・・・ダンナも弱くなりましたねぇ。
すわっ!。淀高がNHKの丸谷翁でダフクロのフルート六連符そんなに合ってないか!?
栄誉ある淀川工業高校吹奏楽部御中の演奏をナマで一回、高ニの府大会で聴いたけど、記憶にあるのははミス何回やったか数えてたくらいやしなぁ。
超名演としていま尚不動の34回全国大会での「アルメニアン・ダンス」も一気呵成と言えば聞こえが良いが、何だかスターリングラードを蹂躙するタイガー戦車みたいな興奮はあっても(そう言えば鳴りもショスタコみたい)、こう、この曲ってもっとディオニュソス的破廉恥さとアポロン的エスプリが最終コーナー回って直線ドドドーッと駆けて来るような感じじゃなかったかな?と思うと、その完璧さに反比例するような物足りなさが残る(録音のせいも大いにある筈だけど)。
NHKの特集、7日の観逃したが今回は撮った!不躾ながら寝っ転がってリハ拝見させて戴きましたが、まぁ偉大なる指導者にして同志丸谷大先生は典型的スパルタ!!鞭を振り振りちいぱっぱで怒鳴る締め上げる!思わず笑っちまった。笑いは不快に対する身体の後天的拒絶反応。だわさ。
そうして出て来た「ダフニスとクロエ」は完璧無類の淀高サウンド!しかし、相変わらず居心地悪いなぁ。ムズムズする。先生の指揮される御姿見てても、あのゲシュタポが政治犯を尋問する時のような不気味な笑顔は何だ!?あんな顔見てよく吹けるなぁ(関係者の方失礼)。
しかし、学生に芸術性求めるのは確かに酷なんだけど、このショルティ=シカゴ響のような猪突猛進型体育会系スポ根千本ノックサウンドが吹奏楽のイメージとして定着してしまったのは事実であって、格好の集団教育の場という機能は認めざるを得ないとは言え、スポーツと芸術を混同されては困る(なんて書いたら玉木宏之に文句言われそう)。インタビューで何言ってようが結局「勝った負けた」(「殺るか殺られるか」?)の価値観で音楽をしている事は、音を聴けば解る。高校生には解り易くて使えるから、しょうがないんだけどね。
チキショー、こんなのばっか崇め奉ってるから吹奏楽はいつまで経ってもメジャーになんないんだよ!チキショー、羨ましくなんかないぞ!!
勿論「L×I×V×E」みたいに楽しく吹いていたらいつの間にか一生懸命練習していて上手くなっていましたー、ってのもいまや説得力のかけらもなく、ドラマツルギー的にもどうしても恋愛だ余計なアクシデントだ、で逃げるしかない。
純粋な音楽描写の正攻法で、その音楽共々ドラマを充溢たるものに出来るのか?丸谷先生を打倒するのは至難の技やけどなぁ。
しかし、吹奏楽のブレイクアウトは、その先にしかない。疑念の余地なく。
淀高の対極にある吹奏楽界のトンデモファナティック教団、レーベンバッハ吹奏楽団のCD購入を決める。
P.S. ・・・そもそも、こんな所で俺がこんな事書いてもね、ははっ・・・。
(02.04)
手短に。
黒澤いよいよラストツー、「續姿三四郎」。
この頃の黒澤はレイアウトの決め方、シャープに畳み掛ける「顔のカットバック」(敢えてこの用語こう使っちゃうもんねー)等、眼を見張る演出技法はどうもエイゼンシュテインやグリフィスなんかの影響を受けているらしく、若々しいけどこれぞクロサワ、と言うのは一寸憚ってしまう。ボクサーとの試合シーンのカッティングなんてやっぱ凄いけどね。
寧ろそのクロサワらしさは、キャラににじり寄るような3段4段ものカットズームや充分引いて且つパースを殺した堂々たる日の丸構図等の、一見目立たない箇所に見受けられる。
しかし終戦末期だというのに、よくこんな筋が通ったね。とは言え御大が「言われてやっただけの続編」と言うだけあって、ストーリー展開はかなりゾンザイ。
「サクラ対戦 轟華絢爛」。
かつてOPだけ観て鳥肌が立ったのだが、周囲の評価がイマイチなのでなんでかなぁと思い観直すとなるほど、デジタルペイントの安っぽい発色でかなり損をしている(前は遠くから覗き見したのだ)。それと決して洗練されているとは言えない作画。しかしなかなかどうして、上手いよこれ、やっぱ。スポッティングさえしとけばイケてるOPのコンテ切ったつもりでいる近年のアニメと比べて、格別。あの舞い散る桜!なんて粋なんだろう。これでさくらの剣の舞がもっと艶やかだったら・・・。意図は素晴らしいのに、惜しい。
本篇も小技を駆使して、かなりの健闘。クライマックス戦闘のBGMの入れ方と抜き方、それに合わせたスローモーションと、堂に入ったもの。
キャラに余り修正当たってないから、不当に低く見られるのかしら?いいや、俺そんなところでアニメ観る気ないし。
頭痛い。胃も痛い。お休み。
(02.06)
次回、「モーニング娘。のマスゲームがクロサワコンプリートで池辺の劇伴はどうも明日も血採られるのかなーゾゾゾッ!」
御楽しみに!
(02.08)
徹夜明けで胃カメラ飲む。飲ますな!
ワンダフル!病み付きになりそうあの地獄!涎と涙の垂れ流しで阿鼻叫喚。
案の定胃が荒れていた。薬貰って一万円。しまった!ボラれた!!
もういいや。外は冬の雨。これからまた出勤・・・。
わはははは。
下らん現世など放って置いて今日も、でも今日は眠い。
クロサワコンプリートだけを報告。
30本目は取って置きの「影武者」。
が、・・・結論から言えば、「乱」の方がずっと良い。
後期クロサワの絵画的な神々しさはどうやら「乱」で大成し「夢」以後に受け継がれて行ったらしく、本作とその前の「デルス・ウザーラ」は言わば過渡期、と位置付けるのが賢明のようだ。いやいや、無理矢理定式化してるんではないよ。
何せ画が決まらない。後期クロサワの神器である超望遠がセットもロケも殆ど使われず、代わりに多用されるドリーには意図の強さが感じられない。スタイルだけ見れば寧ろ前期クロサワに近いのだが、無論往年の凶暴な移動撮影や怒涛のカット割は鳴りを潜めてしまっているだけに、同ポジ寄り引きの連続では余りに単調。アクション・カットの繋ぎが甘い所もチラホラ。
樋口が著書で、黒澤の長回しワンカット処理の必然性を象徴するとして挙げた後半合戦シーン、風林火山の御旗を立てて武田勢が陣を敷くカットなんて、坂を登って来る兵どもを慌ただしく右左へパン。ずっとリピート。・・・ハンディカムで運動会撮ってるんじゃないんだから。ここも中途半端な望遠で迫力が出ない(「乱」の軍勢登場シーンの見事だった事!)。
仲代達也は流石の貫禄だが、クロサワ初体験の大滝秀治がどうしても浮いてしまう。緊張したのかなぁ。武田だ織田だ徳川だと並べて歴史のダイナミズムに作品を飛び込ませたいのは解るが、主人公である「影」のドラマに的が絞られていない分、ストーリー構成は散漫。後半の竹丸とのエピソードである程度は立て直すのだが。しかし2カットのみ御出演の上杉謙信!これはNHK大河の総集篇か?
とは言え合戦はやっぱり興奮もの。馬が良い。旗が良い!馬を追うには望遠でパンだ!というのも解る。確かにバックの流れが正に流背でスピードに乗る。そして孫子の旗のバタバタ!バタバタバタ!!よく一人で支えてるよ。確かにこれだけでもう御大、他を圧倒。
有名なラスト、長篠の死屍累々ショット。延々続くこの惨状。続き過ぎ。思わず「この起き掛けの馬さっきのカットの裏焼きちゃうの?」なんて要らん勘繰りまで起こした。裏焼きで思い出したけど、織田徳川鉄砲隊の射撃、どうして同じフィルム焼き増しして繋げるの!?(「ムトゥ」みたいで笑ってしまった)本多猪四郎の入れ知恵と見た。東宝特撮にしてどうする。
もう一つ、突撃前重臣三人が別れの挨拶に槍を交差させ、太陽バックにカキーン!御前等サンバルカンか?
スローモーションにSE抜きという同じクライマックスでも「乱」の方が数段エキサイティングで、悲劇的である。なんで「乱」がカンヌ獲れなかったのかなぁ。
あと「乱」との決定的な落差は、音楽。池辺センセ、コムーロの「天と地と」劇伴を笑えないっすよ。盛り上げたい所で盛り上げたい音楽が過不足なく入ってくれる。アニメじゃないんだから。三回目退場。あ、アニメで思い出した。センセ、同時期の「未来少年コナン」では良い仕事してるのになぁ。
「乱」は武満。「どですかでん」もそうだが、流石映画マニア。完璧に付ける。
「乱」に勝ってるとすれば、色か?確かに「影武者」の色使いは絶品。「夢」と双璧。館内のくすんだ緑に夕焼けの赤。フランスで受けたのはそこかなぁ。
以上。さて、新コーナー「黒澤明の三十本」。「ルサンチマン」の後かなぁ?
でもあそこは「ケイゾク」の為に空けてるしなぁ。
次回、「胃酸過多でヒロスエ仕事がなくて鉄道員もそろそろ観てしまったOB通信これあてつけか?セクシービームッ!からダイオキシンの巻」御楽しみに!
(02.09)
http://www.c-bigbang.com/mmca/test/02_011.html
樋口真嗣が「夢」で使われなかった黒澤の脚本の内「飛ぶ」を監督したそうな。
3Dで。ウワーいいなー。
(02.11)
日テレがまた「風の谷のナウシカ」放映している。何回目だ?
私が最初に観たのは小学生の頃。祖父の家で。やっぱり「金曜ロードショー」やったなぁ。
もう50回程観たけど、流石にいまの立場になると「あれぇ?」という箇所もあったりする。
しかし、それがどうした!文句があるか!!セルアニメがセルアニメたる事に全幅の信頼が置かれていた時の、セルアニメの神様による奇跡。
「アニメーション」=「アニミズム」というイノセントな信仰の結晶。
しかし、それでも私は、「ナウシカ」原作版の完全アニメ化は業界の使命であるといまも思い続ける。誰か何とかしろ。
N村の進言で「AUFTAKT」テキストのフォントを1つ上げた。
でも、悪あがきかなぁ。
(02.14)
と思ったら、あ、台詞部分の改行がおかしい。
すぐ直します。暫し御待ちを。
(02.17)
拝啓 涼羅様
CD今日着きました。
有難う御座居ます。
早速先程聞き終えたのですが、
いやぁ、グウの音も出ない名演!!
朝比奈先生の録音はどうしてもアラばかり拾って
がっかりする事も多かったのですが、
これは重低音の充実が恐ろしいばかりで、
先生の実演に限りなく近い印象だと思いました。
勿論オケの力量と一期一会の緊張感がここまでさせたのでしょうが。
先生の指揮も鳴りにくいNHKホール対策として早目のテンポを取り、
(前半楽章の弦主体の所はこれでもかと粘ってますが)
休止も短め。バランスも所々変えており、面白いと思いました。
フィナーレのコーダなんか神々しい事!ただこれはマイクの都合か
管はしっかり拾っているのに比して弦が薄くなってしまった。
まぁそこまで求めるのは贅沢極まりない事ですが・・・。
実は名盤の誉れ高い大フィル94年版には「実演はもう少し上だったな・・・」
というはがゆさがあったので、それが一遍に解消されました。
いやはや、返す返す感謝です!
しかしこの録音、音良いですね。ノイズが殆ど入っていない。
FMですか?それともBS?
どうやって処理したのかも御教え戴ければ幸いです。
では、送料等送らせて戴きます。
敬具。
P.S. 3月の都響との「ブル5」に行ったりしませんか?
私は死ぬ程行きたいのですが前売りは完売だそうで、
当日券目当てに一か八かで上京するのもなぁ、と考えています。
では。
山本 寛
インターネットで知り合ったクラシックファンの方から、伝説の朝比奈=N響「ブル8」のエア・チェックを譲って戴いた御礼のメールより。
3月に入れば、反撃に出る。3月末のスケジュール、連絡戴きたし。
それまでに準備する。
2月は、寝かせろ。
(02.20)
ギャァァァゥオォォゥオォォォッ!!!(「はじめ人間ギャートルズ」OPのテイストで)。
また吹奏楽ネタ御免。解散したのは破防法適用のせいかとも噂された世紀末ハルマゲドンバンド
「レーベンバッハ吹奏楽団」のCD届く!!(なんと残り6枚だったそうな)
聴く!
ギャァァァゥオォォゥオォォォッ!!!(くどい)
何やこれは!?これが吹奏楽の音か!?いや、これは吹奏楽ではない!!
否!(←古印体で)
他のバンドの音こそが、吹奏楽でないんや!!!
かんく先輩吹奏楽腐れ縁歴11年目にして漸く「吹奏楽」を聴く!!
おおジーザス・クライスト!我が無知と不実を御許しあれ!!
いやカルチャーショックやったよ。だって吹奏楽のくせに感動的な音出すもん。
曲で感動した事はまぁあるけど、鳴りで感動した事はなかったなぁ。
評判では技術は云々、と言われてたけど、どうしてどうして、上手いよ、金管も木管も。
全国大会の録音聞いてみなよ、酷いぜ。時々耳塞ぎたくなるような演奏にさえ「ブラボー!」なんて御声が掛かる。
これを読んでる吹奏楽関係者(いるのか?)のアナタ!!馬鹿にせんと聴きなさい!!でなきゃ21世紀になってまでブカブカやってる資格なし!
過去にこういう演奏を経ていまの吹奏楽があれば、もっと歴史は変わってたろうにねぇ・・・。
真実の表現に対して、真実の評価が捧げられますように。
本年の、ささやかな祈り。
(02.21)
ィヤァァァァァァッ!!!(いい加減飽きた)。
・・・ここ数日、アマチュアのパワーに圧倒されっぱなし。
思うに、日本のプロフェッショナルは表現の真実に対し、余りに無頓着で無責任であると。
また解ったような事をって?じゃ、ちゃんと反論出来る?胸張って。
いいや。もうしょうがないよ。所詮プロなんだし。
いまは唯、自分の表現エネルギーを精一杯研ぎ澄ますのみ。
で、今日も研ぎ澄まして来ました。昨晩の電話でC反に誘われ行った「プラネット映画祭2000」。文字通りインディーズ映画祭の草分け(?)。
いやその筈よ。もう出て来る作品出て来る作品その都度口あーんぐり、涎だららら!
ああ、もうええ、眼の毒。これ以上俺を惨めにさせないで!
自己満足?良いじゃないですかぁ大いに結構!(←以上伊武雅刀のテンションで)作りたくもねぇ観たくもねぇ作品を濫造する惨めさに比べれば、遥かにマシ!
教育上遥かに良し!これぞ健全な人間精神の営み!!(言い過ぎ?そうは思わんゾ)。
まぁアジっていてもしょうがないんで、アンケートに書かなかった作品の寸評をここで。だって現場で書くと面倒なんだもん。
「桜物語」:「ルサンチマン」でも御世話になった友人、福田氏の作品。何より「やり尽くした!」というすがすがしさがとても良い。ヒロインのNが少し冗長で、画の足を引っ張ったか?8mmではなかなか出来ない長回しをここまで持たせた執念に惜しみない拍手。
「野良中野」:卑怯!これ反則!反則大好き!劇中劇のクライマックスがイマイチ決まらなかったのは唯一の弱点か。
「猿蟹合戦」:ウソー、アンチエイリアスかけてるのにジャギ目立ってるよー。このCG技術にしてこのグロテスクさ。尚且つ粋!夕日が当たり。
「ONEDAY,SOMEGIRL」ポリゴン女のカクカク感を逆手に取り、無機質な恐怖が充満。でも同じ事ならゲームでやってるんじゃ・・・。
「バスルーム 総集編」:どうせ裸見せるんだから、もっと冒険して欲しい。ドキッとさせるショットがなかった。
「パセリ」:肝心の脚本があれじゃぁ・・・。「感情表出がデジタル」これ私がよく使う言い回し。女優が折角の美人なのに・・・。
「バトル野郎」:文句なし。完璧。とうとう3D導入でインディーズ特撮も新境地!しかしレンダリング時間どれくらい掛かったのかな・・・?うかうかしてられん。
「マンガくん」:・・・御見逸れいたしやした。穴があったら入りたい。倉本聰=杉田成道が芸術祭に参加した時のようなその渋み、その深み!2つ目のエピソードで不安症の妻が買い物に行こうと出ては戻り、家の中をチェックして出ては戻り、出てはまた戻り・・・。私なら4回リピートで切る。しかし6回も!この悪魔的な執拗さが次のシーンの夫の台詞を何倍にも熱くする。これぞ正に「志」の演出。
やんべ、やんべ!!負けてられへんでぇ。たとえ勘違いでも、やる。ていうかやる。
(02.22)
<ミタニ・ディレクツ・ミタニ>
N村の嫌味も酷いので、暫く振りに観直した三谷幸喜「ラヂオの時間」。
・・・いやー凄い。これはまた完璧な「プロの仕事」。ウェル・メイドの王道。コメディ映画の教科書!
それはファースト・ショットの長回しからして顕著である。三谷本人は「カット割が解らなかったから取り敢えず回した」なんて言って煙に巻こうとしていたようだがとんでもない。喜劇物理学者の三谷博士がそんないい加減な事をする筈がない。第一寸分の狂いもない彼の脚本にそのような演出を当てて、上手く行く訳もあるまい。これは勿論、ラジオスタジオというごく密閉されたシチュエーションにおいてストーリーのうねりを表出して行く際、多少の乱暴なカット割でもスタジオ内部の位置関係が解るように、最初で充分観客の眼に憶えさせる為の的確な判断なのである。狭い空間はどうしても「引き」が充分に取れず、フレームに入る空間的要素が限定されてしまうので位置関係が掴みにくい(その相乗効果として場が更に狭苦しく感じられてしまう)。つまり、もう最初の長回しからして、目まぐるしいフォロー・パンによるフェリーニ的効果とスタジオ内の空間把握を同時に処理してしまうという、憎らしいくらいの三谷CPU!!やはりOSはNTか?
それからもまぁ、手兵を含めた豪華役者陣による一糸乱れぬアンサンブルは言うまでもなく、カット割のリズム、ズームの選択、俳優のポジションに至るまで恐ろしく精密な設計!この人数によるハイスピードな展開を僅かな濁りも緩みもなく描き切ってしまう。いくら舞台での演出経験があるからと言って、ここまで来るともう、凡百の演出家には決して真似出来ない熟練の技である。いや、それだけではない。このような見事さの根底にあるのはやはり、「脚本家」三谷に対する「演出家」三谷の桁違いの理解であるに相違ない。
それが顕著に表れるのが後半に入って、アクシデントの洪水に呑まれ右往左往しながらも絶妙に乗り越えて行くという三谷御得意のドラマトゥルギー上において、問題処理の手段として機能する事を宿命付けられたプログラム=「記号」としての登場人物の内部から、えも言われぬ温かいヒューマニズムが滲み出してくるという感動的な瞬間なのである。その代表が西村雅彦演ずるプロデューサーが主婦脚本家鈴木京香を説得する際の、あの名台詞であろう(ここ、こらえ切れずに泣いちゃったよ・・・)。業界人にとっては何とも痛いこの台詞だが、ただ三谷の過去の経験だけがこの叙情を生み出した訳ではない。凡作ならここで西村はキャラクターとしての変化を見せ、甘いヒューマニズムに溺れてしまうか、逆に心理的葛藤を解り易くするためエキセントリックな悪物に仕立て上げるかしてしまうだろう。ここが三谷の真骨頂。西村はその後も(鈴木には少し語気を荒げてしまうのだが)キャラクターの変化を見せる事なく「記号」としての任務を全うする。その透徹さ!ここで西村のヒューマニズムを敢えて抑圧し、演算処理のスピードを衰えさせない事により、その一旦内面化したヒューマニズムが唐沢寿明のディレクターやその他のキャラクターにあ・うんの呼吸で伝播し、クライマックスの鳥肌が立つ程すがすがしいテンションの爆発へと帰結するのである。
これはN村の指摘の通り、三谷作品の素晴らしい特長のひとつではあるのだが、さて他の演出家はこの三谷のドラマ方程式の中から、どれだけのヒューマニズムを読み取った事だろう。それは昨年の「古畑任三郎」でも一目瞭然であろう。いや、中原俊「12人の優しい日本人」でも良い。どうぞ観比べて戴きたい。
まぁそれにしても、いままで少し侮ってたな。三谷のベストはやはり舞台であり「君となら」がマイベストだと思っていたが、どうやら「ラヂオ」と同率首位で決まりのようだ。あと、かつてやった邦画ベスト10に入れなかった事も反省。「萌の朱雀」と交代でノミネートですわ。
しかし上手い。渡辺謙の運ちゃんカットのインサート法ひとつ取っても、この映画を笑う者は(いや笑って良いんだけど)最早映画が見えていないとしか言えまい。
参った。
鈴木京香の可愛らしい事!勿論撮り方が良いんだけど。
(02.24)
こんばんわ。「平成のソフィスト」山本です。
昨晩は凄かった。当HPHIT数40に到達。前代未聞。
いやー、こんな宣伝法もあったのね。ごっつうアクドイ手やけど。
結果的に利用しちゃった方々、御免なさい。マジでそのつもりはなかったんです。
新企画行きまーす。「いっぱつや」。ただ球を遠く、高く飛ばす事だけに生涯を捧げたある男の物語。
思いついたのそれだけ。あかんやん。
あ、もうひとつ企画いきまーす。「そら」。不器用な刑事と精神症の恋人の物語。
プラネット映画祭に影響受けた?あかんやん。違うこれはその前から・・・!ガチャッ。
(02.25)
ハイ皆さん、また御会いしましたねぇ。インディーズ映画界の「噂の眞相」ことスタジオ枯山水の山本寛、ヤマカン、ヤマカン、ヤマカンですねぇ。そこの御坊ちゃん、初めて?怖がらなくてエエのよ捕って食ったりはしないから。たまに食うけど(笑)。じゃあゆっくり、ゆっくり、ゆっくり喋りますからね。ゆっくり、ゆっくり聴いて行って下さいね。
今日御紹介する映画は「大阪物語」、オオサカ、オオサカなんですねぇ人情溢れる町。人の匂いがプンプンする町を描いた映画、でもこれを監督した市川準、昔吉村公三郎が同じタイトル「大阪物語」撮ったのと違って、これは市川監督の映画、「東京兄弟」、「東京夜曲」の東京ばっかり撮ってた東京育ちのボンボン、市川準が監督で、脚本は犬童一心、「二人が喋ってる」「金魚の一生」の監督さん、この人も東京モン、二人の東京モンが創ったナニワの映画、不思議な映画なんですねぇ。その二人の東京モンがナニワの映画なんか撮れるんかしらんと思ってたら、撮れるんですねぇ。これ役者が全て関西出身だから、関西弁上手いんですねぇ、関西人なんやから当たり前ですけど、でも関西の人にとってはホンモノの関西弁、アア、エエナァと思うんですねぇ。いまやってるNHKの「あすか」と比べても、アア、エエナァ、ホッとするんですねぇ、ホンモノの関西弁聴くとホッとするんですねぇ。
最初のショットから池脇千鶴、マァ、可愛らしい、可愛らしい、可愛らしい、その池脇千鶴がキャメラに向かってホンモノの関西弁で話し掛けるところから映画は始まる、「ASAYAN」からCMで出たシンデレラガール、池脇千鶴、ホンモノの関西弁、アア、エエナァ、で始まるんですねぇ。「大阪物語」、大阪のベッピンさんがホンモノの関西弁で喋ってくれてる、アア、エエナァ、「大阪物語」。
その御父ちゃん、沢田研ニ、御母ちゃん、田中裕子、二人はホントのメオト、それが池脇千鶴の御父ちゃんと御母ちゃん、二人は芸人、夫婦漫才、でも売れない夫婦漫才、娘はそんな事気にしてないよ、御父ちゃん御母ちゃんが仲良ういてくれたらエエんよ、でも御父ちゃんそれ、ちょっと恥ずかしい。売れない芸人、貧乏、恥ずかしくて恥ずかしくて恥ずかしくて、いつもよそで女こさえてその恥ずかしい気持ち慰めてる。
でもこの家族、坊やもひとりいて四人家族、あったかい家族。御父ちゃんがよその女のところから朝帰り、こっそり嫁さんの布団に入る、嫁さん何食わぬ顔でアンタ御帰り、一緒に寝てしまう、娘それに気付いて御父ちゃん御帰り、アタシ御父ちゃんと一緒に寝たい、御父ちゃんの布団の中に入る、坊やも入って来て、四人川の字になって寝る。そしたら坊やがオナラする、臭い臭い、臭い、ねぎ焼き食うたやろ、そう言って臭い臭い言いながらも幸せそうに寝る、それずっとクローズ・アップで撮る、幸せそうに寝てる。あったかいあったかいあったかい家族。
でも御父ちゃん、恥ずかしがり屋の御父ちゃん、結局よその女のところへ行ってしまう。長屋の四件隣に引っ越してしまう。それでも御父ちゃんと御母ちゃん、二人は夫婦漫才、売れない漫才でオマンマ食べて行く。娘も寂しいけど、でもエエよ、御父ちゃんはいつもアタシの御父ちゃん、言って御父ちゃんを許す。そう言って娘、夜の通天閣、ネオンのキレイなキレイな通天閣見て、ポロポロ泣く。
ところがその女、御父ちゃんとくっついた女、自分勝手な女、御父ちゃんと自分の産んだ赤ん坊残して、別の男の所へ行ってしまう。御父ちゃんガッカリして、酒も浴びる程呑んで、そのまま舞台に立って大失敗してしまう。御父ちゃん、恥ずかしがり屋の御父ちゃん、女に逃げられ、舞台は失敗して、すっかりショボンとして、娘に「ああ、御父ちゃんってアホやなぁカスやなぁ」って言う。娘「うん、カスや。どうしょうもないカスや」。御父ちゃん、とうとう何処かへ消えてしまう。あったかいみんなの所から、いなくなってしまう。
娘、ああアタシが悪いんや、大好きな御父ちゃんにカスやなんて言ってしまって、どうしよう、でも御母ちゃん、御父ちゃんの事捜さんと逃げた女の赤ん坊をオフロに入れてる。娘ガラッとオフロの戸開けて「なんで御父ちゃん探さへんの?」ってハラを立てる。そしたら御母ちゃん、そのよその女の子供、赤ん坊を抱いて、「ぴかぴかでしゅー」、嬉しそうに、可愛らしく、「ぴかぴかでしゅー」、その御母ちゃんの優しい、可愛らしい笑顔。御父ちゃんに逃げられ、残った赤ん坊も自分の子やない、それを抱いた御母ちゃんの、優しそうな寂しそうな笑顔。娘それ見て、あ、自分がなんとかせな、思ってとうとう、御父ちゃん探す旅に出る。御母ちゃんの為にも、大好きな御父ちゃん見つけて、また昔のようにあったかく暮らそう思って、御父ちゃん探しの旅に出る。
そして大阪のあちこち探し回る。御父ちゃんの友達当たって、御父ちゃんの居所知りませんか?訊ね歩く。途中でチンピラから逃げる男とバッタリ会う。よく見たら、ア、アンタアタシの片想いの御人。学校嫌になって飛び出して、何処かへ行ってしまったアンタ、こんな所にいたの?向こうもア、アンタこそなんでここに?それから、その男娘の御父ちゃん探しの手伝い始める。
大阪のあちこち、あちこち探し回る。御父ちゃんいない、ちっともいない、娘心配で、心細くて心細くて心細くて、あんなにあったかかった御父ちゃん、どうしてアタシを置いて出てっちゃったの?そんなに「カスや」言ったので傷ついたの?御父ちゃんゴメンね、思いながらあちこち、あちこち探し回る。クタクタになって、探し回る。寂しい寂しい気持ち、じっと我慢して、御父ちゃんを探し回る。夏の暑い日。汗びっしょり。野宿もして寝る。汗びっしょり。それが、関西っぽくない。脂ぎったコテコテやなくて、凄く粋。可愛らしい池脇千鶴の寂しい寂しい、汗びっしょりが、凄く粋。東京モンが撮った関西人の汗、凄く粋。
そしたら見知らぬ大人やって来て、アンタ、あの芸人の子供?そうよ。御父ちゃん見つかったよ、でも交通事故に遭って病院にいる。娘アア、良かったとエ、御父ちゃんが事故?クシャクシャの気持ちで病院に向かう。御父ちゃんベッドにいる。ああ、御父ちゃん良かった!生きてた!御父ちゃんニッコリ笑って御嬢ちゃん、ゴメンね。こうしてハッピーエンドになると思ったら、御父ちゃん、ひと月後ポックリ逝っちゃう。これ、市川監督一流のボケ。みんなコケなきゃならない。関西をよく理解していて、東京モンの粋。
葬式で御母ちゃん、涙たっぷり浮かべて、大好きな御父ちゃんがこんな事になってしまって、オイオイ泣きたいのをじっとこらえて、アタシ御父ちゃんと隣合って墓立てる。センサーつけて、御父ちゃん御母ちゃんの漫才流せるようにする。娘笑う、御母ちゃん「ま、ハイテクやな」。凄く粋。関西っぽいのに東京モン。凄く粋でけなげ。
この「粋」っていうのがこの映画、凄く効いてるんですねぇ。これは監督が東京モンで、東京モンの監督が関西の御話を撮る時に、しっかりと撮ったらこうなった。大阪と東京のいい所が上手く交じり合った、幸せな映画なんですねぇ。
あ、もう御時間来てしまいました。また次回御会いしましょうね。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。
「映画を語る」、という行為を考えるに、本当の意味で、そこに「観た筈のない」嘘事を出来るだけ盛り込まないように語ろうとするならば、それは淀川長治のように、確かに「自分の眼に映り」、その中で印象に残ったカットを順繰りに、「観たままの」内容で説明して行くしかない。そう述べたのは蓮實重彦である。
確かにそうである。が、はたと考える。私はいま、果たして本当にこの映画を「観た」のだろうか?
眼に映った筈の「あの映像」は、果たして本当に「この映画」なのだろうか?
そんなの考えちゃ、キリがないって?確かにそうなんだけどさ。
(02.26)
アニ同の追いコンに出席する。
いやはや、ウチの面子は何故かくもテンションが高いのか?
こっちは付いて行くのが精一杯。年食ったなぁ。
ああ、こんな所に若いエナジーがあるってのに、何か有効利用する手立てはないものか?
・・・にしては親父供もヒートアップしてたな。俺が疲れてるのかな。
プラネット映画祭の時、Y田から某作品の「2」を提案された。今日も少し話したがかなり「現実的な魅力」のある作品。色んな意味で。安易なシリーズ物でない所が心憎い。
早速ホンの依頼はしておいたが、まぁ心配ないだろう。
ただ大きな問題は、「周囲の期待」。これをどうするかで悩みそう。
まぁいいや。いまは大懸案の「さいご。の、とし。」。・・・頑張ります。
次回「衝撃の新事実!!セクシービームは輪状だった!!」御楽しみに!
(02.29)
最近議論の腕を試してみたくなって(これ自体既に不純)あちこちのBBSに出入りするのだが、私の態度が悪いのか(慇懃無礼が身上だから、自業自得・・・)すぐ相手を怒らせてしまう。今日もひとつやってしまった(いや、これは喧嘩の内に入らんか?)。
言葉というものの力、そして無力さを痛感する。コトバはヒトの何を表現出来るというのか?
・・・あ、フラフラして来た。知恵熱かな。
ヒトと会う機会を増やしている。やっと余裕が出来た。ヒトはやっぱり面白く、面倒臭い。
今月のカヲ:最近これが目覚まし代わり。凄く気分良い。但しその後二度寝。
2000年03月
(03.03)
偉大なる指導者にして同志、榎園実穂先生に連帯せよ。
・・・NHKドラマ「あすか」を観ている。
それはひとえに偉大なる指導者にして同志・・・はもういいや(後日「ONE-SHOT」で!)。いやしかし、
クロサワだオオシマだといってすっかり重大な事実誤認と独善的批評が身に着いてしまったイケナイ大人の私には、このすがすがしさ、たまらない。
各話10分の短さの中で起承転結を付けようとポンポン飛び出すエピソードに呆気なく移ろう登場人物の心情と(これを極めたら信本大先生)、それは確かに連ドラが大衆の人気を得る最大の武器でありまた弱点でもあるのだろうが、それよりも重要なのはあの独特のアトモスフェア、足さず、しかし引かずのNHK孤高の映像創り、色使い、そして演出法なのではあるまいか。
それが端的に表されたのが実はOPのCG、あのポターン、ポターンと落ち行く淡彩の滴と水紋の拡がり。あの画であると私は考える(イヨッ、独善的!)。
これは実写ドラマにおけるCGの表現法から言っても特筆大書すべきものであると確信するが、もうアレを観ただけで朝の光がまるで自分の身体を透き抜けて行くような、素晴らしい愉悦に浸らせてくれる。大島ミチルのテーマ曲に宮本文昭のオーボエ(ラストのHi-Gは絶品!)、三位一体の輝き。
しかしこれでイイんだよな、人物にピッタリ寄り添うように優しいカメラワーク、安定したフレーミング、「ケイゾク」の対極にあるんだけど、良いものは良い。リフレッシュするよー。映像ジャンク浸けで膨満感の胃には持って来い。
いや、勿論技は見せてくれます。最近ではあの芦屋雁之助風邪こじらせて大騒ぎの病院シーン、家族郎党勢揃いで人数が膨れ上がったこのシチュエーションだが、引きの画で人物をなるたけ多くフレーム内に押し込める法を採った。ピンで抜くアップは殆どなし。画のポイントがぼやけてしまうようでどうしても台詞を吐く役者に寄って行きたくなるものだが、ここはじっと堪えて、群像劇の真の迫力を、いとも何気なく掴み取る。これぞNHKの貫禄。
それにも増して驚異的だったのが、「WHITE LOVE」を・・・いやこれは後日。
えー突然ですが、「OH!スーパーミルクチャン」#8、観ましょう。凄いって。
(03.04)
仕事でデンジャーなミス。こんな所で要らぬ借りは作れないのに・・・。でも、気にしなーい。若人あきら気にしなーい。
こんなんじゃ、挫けん。
いい加減サービスで映画評載せるのも、創作作業に影響が出て良くないだろうな、と思ってはいるんだけど・・・。
内田吐夢「飢餓海峡」。
これがまた、なんちゅうキ○ガイじみた・・・と言えば誤解を招くか。しかしこのおどろおどろしさ!思わずまだ観ていない「恐怖奇形人間」を想像してしまった。まぁあれよりは随分大人しいのだろうけど。
モノクロと言えばクロサワばかり観てしまっていたが、なんのなんの、本作の凶暴さに比べれば彼のウェル・メイド振りは優等生的とも言える程。かつての邦画はかくも狂おしきテンションを維持していたのだと再認識。
痙攣するかのようにガタるカメラ。迷走するレール移動。大した意味はないが兎に角夢に出て来そうなソラリゼーション(あのイタコ・・・!!)。吸い込まれそうなハイ・コントラスト。そして何かを噴き上げるかのように舞い踊る役者陣!
「キネ旬」オールタイムベストでも誰か書いてたけど、三國連太郎に恩を感じていた女郎が彼の爪(!)を大事に持ち、時折それを取り出しては頬擦りして、そのまま顔をチクッ、チクッ・・・。おおお、えらいこっちゃー。またそれが彼女の最期、そして三國の皮肉な末路へのモティーフとなる訳だから、穏やかじゃない。
惜しむらくは3時間という尺で粘りが効かず、少し中だるみがある所か。序盤あんなに印象的だった富田勲の劇伴が後半陰を潜めてしまうのも疑問。
ヴァンデルノートというベルギーの指揮者が気になる。「生きていたケーゲル!」みたいな超常現象的怪演。この前十字屋で試聴したんだけど「幻想」とベートーヴェン「第七」辺りは買い。か?
あ、そうそう!「ケイゾク/映画」みんなで観よう。
京都は京極東宝です。 ついでに「ケイゾク」HPでゲーム発信らしい。面白そう・・・。
http://www.tbs.co.jp/fuyajyou/a00101-ma.html
(03.06)
現代感性学へのテロリズム
20世紀映像芸術の
「打ち止め」的メルクマール
「郵便的」映画最高水準の実践体
そして「映像派ドラマ」の極北
・・・「ケイゾク/映画」遂に観る@イオンシネマ久御山。
前回の「特別篇」の時は余りのショックで奇声を発する他なかったが、今回は興奮しつつも語る言葉を持てる。
先ず不満点。作品としてのフォーマットが「特別篇」と瓜二つで、特にラスト30分の所謂「裏ケイゾク」への展開法が焼き直し以上の印象を与えない恐れがあるという点。それだけに城のパーティへの招待といういかにも推理物然とした設定や「黄泉の国」という「裏ケイゾク」への言い訳とも取れるモティーフ等、「解り易さ」への迎合とも捉えられ兼ねない構成で「特別篇」よりも幾分地味で保守的な印象が強いという点。加えて今回は映画だけにやはりVTR画像が見せたハイキーの鮮烈な映像美が犠牲になり、代わりに陰鬱な色調による視覚的な損失がどうも少なからずあるのではないかという点。最後に、件の「裏ケイゾク」が今回明らかに「エヴァ」への意識によって造形されているという事が、TVシリーズよりも露骨に表面化してしまっているという点。以上である。
ただここまで列挙して即座にはたと気付くのは、このように感性の命ずるままひたすらワアワア感想や疑問を好き勝手に投げつけられるステージで「ケイゾク/映画」を語ってしまっては全く以って元の木阿弥であり(いやそれ自体全くOKなんだけど)、「新しい視覚とは?」なんていう人間の健全な社会生活にとって不要極まりない命題を狂ったかのように妄想する以上は、本作への適切なパースペクティヴを慎重に措定しその上で更なるメタレヴェルのアナライズステージを構築する事がどうしても必要不可欠となり得るのだ、という直観的確信である。
少なくとも、「『Beautiful Dreamer』だって。何だオシイじゃんかよー」や「あーあ、また『魂の補完』だってよ。もう飽きちゃったっちゅーの」等としたり顔で言ってしまえる向きには、「いちげんさんお断わり」の暖簾により忽ち放逐されて然るべきだとはっきり言える。その排他性に唾したければすれば良い。「ケイゾク」がそんな輩共の為にわざわざアイレベルを下げる必要等あるものか。
・・・なんて脅し文句はこれ位にして、「ケイゾク」TVシリーズを観た事のない人には真っ先に御薦めします。内容繋がらなくても、もともと適当なんだから大丈夫です。「ケイゾク/シーズン壱」しか観ていない方にも御薦め。きっとドギモ抜かれる事でしょう。ただ「特別篇」を観てしまった人には、一寸食い足りない感はあるかも知れません。勿論充分満足はして戴けるでしょうが。ギャグ・パロディは相変わらずはち切れてますよ!
・・・と、お茶を濁しておこうか。「もう結構です」なんて言われずに済むだろうから。本音部分は他コーナーにケイゾク。
パンフレット買ってまた爆笑。もう、挑発的なんだから!
(03.07)
昨日一緒に観に行った会社の上司が、「ケイゾク」を評して、
「なんか、ピカソの絵みたいなモン」
ユリイカ!!
という訳で、キャッチコピーをもう一つ。
20世紀視覚表現の最高峰=キュビズムの
映画的展開の結実、「ケイゾク/映画」をみんなで観よう!
ついでに「あすか」も観よう!
(03.09)
脚本執筆中。加えて仕事の方も最後の追い込みで、HPの更新なかなか出来ず。
このコーナー位こまめに変えますので。
で、このクソ忙しい中N村からのタレコミで一騎当千、もとい千客万来、違った千載一遇のチャンス、
悲願の石井輝男「恐怖奇形人間」が遂に眼前に@京極弥生座!
定時終業後仕事放っぽり出して行ったった。
その感動を何とか表すなら、これ!
146 もとの所
とき、丈五郎の元へ涙ながらににじり寄る。
とき「なんでこんな事に・・・」(以上、フィルムからの書き起こし)
終演後、涙が止まらなかった。手が震えた。この素晴らしさ、言語を絶する。みんな明日明後日と弥生座へGO!!
後の事は知らないから。
追伸:映画館でこれ見よがしに置いてあった「恐怖」ムックを当然の如く買った後N村と天下一品に入ろうとする際勿体無くも我々を呼び止めて下さった夜の勤労婦人が、そのムックを覗き込んだ刹那この世の果てを見たかのような形相でズーム・バックして行った。あの顔、作品ともども永遠に忘れまい。
(03.10)
最早業界まで敵に回すようになった妄想ノオト、今日も快調です(ウソウソ!あまの先生からは温かく、示唆に富んだレスを戴き、とても励まされました。有難う御座居ます)。
しかし、だな。
ヒト。コトバ。コミュニケーションの問題。
最近そう考えさせられる出来事が立て続け。
家に居ながら様々な業界人たちと忽ち仲良くなった気になれるインターネット・サイバースベースの戦慄すら覚える程の茫洋さ、人間意識の構造を正に変革し兼ねないまでの進化を遂げたそのインタラクティヴ性。面白くもあり、ぼんやりとした不安でもあり。
しかしここで言う問題とは単にメディア論である訳ではなく、そこで交わされる肝心の情報、そしてそれ等を運ぶ上で有史以来変わらずその重職を果たして来た、言葉というツールの問題である。
・・・とここまで書いたは良いが、それ以後の展開は差し控える。余りに難しく、深刻だ。自分の中で。コトバを出来る限り選んで、突き詰めて、考えてみたい。
コトバを信用しなくなって、かなり経つんだけど。それでも、ね。ヴィトゲンシュタインでも読み込むか。
(03.11)
思い違いをしていた。
「ケイゾク/特別篇」は、確か「/映画」のように終盤30分にピタリと「裏ケイゾク」に切り替わるスイッチを持たず、最後まで推理ミステリーとしてのフォーマットを崩さなかった(カタチだけだけど)筈。寧ろ「/映画」は、「/シーズン壱」の最終3話を「裏」の軸とした構造に近い。
完全に思い込んでいたなぁ。どうしてだろ。つまり「/特別篇」は、よく引き合いに出される「エヴァ」との比較で言う所の、TVシリーズ最終数話とその「リメイク」としての映画に挟まれた、言わば「DEATH」篇なのだろうか?
いやいや待てよ、こんなにはっきりと思い込んでいたという事は、何かあるかも知れない。「/特別篇」から「/映画」への繋がり。その神秘性を「エヴァ」で使い古されたレトリックで解いた気になるのは、余りに陳腐。
もう一回、「/特別篇」から「/映画」へ、追っかけてみるしかなさそうでんな。
ところで、巷の「ケイゾク」論争はすっかり「表」と「裏」の二極対立に近い形となっているようだ。「表」の此岸と「裏」の彼岸との対話、みたいな。次元違うからちっとも噛み合わないでやんの。御互いが見えてないというか。こんなの、どちらも「エヴァ」で懲りている筈なんだけどねぇ・・・。
私はズバリ、此岸と彼岸とが接する中間の部位、即ち「三途の川」にこそ「ケイゾク」唯一無二のビューポイントがあると確信する。スタッフ各位も恐らくここから「ケイゾク」を見つめ続けていた筈。ここから見える風景は、恍惚たるカオスと仰ぎ見るようなエイドスとが激しく戯れている、えも言われぬような興奮の坩堝である筈!
ただこれが、言語化しにくい。非常にしにくい。観ている時は網膜越しに「ウワー!」とその世界を満喫している筈なのに、観終わるとその感触だけは確かに残っているにも拘らず「結局、アレって何やったかいなぁ?」と。それで留めておくのが健全な観方なんだろうけど。ま、ケイゾク。
あ、ところで「表」と「裏」って、解ります?これ説明するとネタバレになるので、後日まとめて。
下山天「イノセントワールド」。竹内結子繋がりなの見え見え。
この監督MTV出身なんでしょ?やっぱり。画一枚一枚は美しいのに、繋がらない。カットとカットの間に空白が生じ、その都度「映画」が死んでしまう。情感の持続力がなく、フッ、と抜けてしまう。
序盤の安藤政信・竹内結子兄妹が家出して本当の父親探しに行くまでの展開も、時間軸をシャッフルして如何にもなんだけど、ミュージッククリップ以上の情感の描出を自ら拒んでいるような、そんなもどかしさ。どうせならタランティーノまでやっちゃえば違ったリズムが生まれるのだろうが、そうもしていない分「省略」が「欠落」に見える次第。何処かに「ため」を作らなきゃいけないのに、それがなくてやっぱりクリップみたくスーッ、と行っちゃうんだろうな。
その代わり各カットの作り込み、イイよ。青のフィルターは最高の透明感!北野や大島程の深みはないにしてもいまの私はこっちに親近感。青を撮れるヒトは実に羨ましい。
それとカオ。表情。伊藤かずえはこんなに名女優だったのか!と言えば失礼か?兎に角凄い存在感。
それにも増して竹内結子。あの凛とした佇まい。青に溶け込む冷涼さ。いい役者だなぁ。アイドルではなく役者として光っている。使い潰すなよ業界関係者!
クリップ・CM出身者は顔の撮り方に威力が出る。「大阪物語」の市川準然り。これは純映画も見習うべきじゃない?どうせ人間撮ってるんだから、イイ顔観たいよ。
ストーリーはムイシュキンと旅に出たエンコー少女の自分探し。もうひと捻り欲しかった。
相変わらず映画浸けやなぁ。
(03.12)
http://www.tbs.co.jp/keizoku/index_eiga.html
「ケイゾク/映画」の舞台挨拶がムービーに。・・・中谷美紀の涙。渡部篤郎の絶句。
・・・また俺に嫉妬させやがって。何さ、「踊る」といい「ケイゾク」といい!どれだけアタシに薄甘いヒューマニズムを見せつける気!?
TBSサイトのBBSで「スタッフが頑張ったから、なんて事で語るのではなく、作品自身を語ろう」という呼び掛けがあった。ただね、スタッフのテンションは、まんま作品のテンション。これ持論。
作品という媒介と通して発信者としての自分の「生身の」何かを伝えんとする作業、それ自体がもう「ヒューマニズム」。良いじゃない。スッキリしていて。
世の中には、それすら出来ない、いや、する才能のないヒトだっているようだから。
あ、N村、御前の事じゃないよ。
今日は眠い。何書いてるのか解ってないや。きゃははは。
<吉松隆 交響曲第3番 op.75>
最近頭の中で絶えず鳴っている、あの第一楽章。
正に吉松の言う「破壊と再生へ向かって疾走するもの」。
叩きつけられる金管に駆け抜けるピアノ。息絶え絶えに喘ぐ弦。孤独を泣き叫ぶ木管。評価云々ではなく、いまの私を音化されているようで、穏やかに聴いていられない。
しかし、これが同時に「新世紀開き直り主義」となってしまうのに、些か疑問のある最終楽章。
確かにその居直りは方向性として惹かれるんだけど、第一楽章第二主題が同主長調に再生する瞬間といい、シベリウスの模倣といい、最後の御祭り騒ぎといい、いくらなんでもそりゃ無邪気でしょう・・・。と、少し附いて行けず。
ただこれも、どっちかと言うと、私自身の気分が未だ新世紀の扉を蹴破るまでに昂まっていない、というのが大きいか?
ところで、吉松先生劇伴やってくれないかなぁ。特にアニメ!タケミツ以上の物凄いコラボレーションに思えてゾクゾク来るんやけど。
(03.14)
ネットサーフィン一通りした後めちゃSTEPSの練習してたら疲れ切ったので寝ます。
「OH!ミルク」#6に嫉妬。テツコの泡ガタってようがかなりのカット数を超低精度でレンダリングしてようが、カット繋ぎ可笑しかろうが、面白ければ勝ちよ。あたぼうよ。
「OH!ミルク」にも「めちゃイケ!」にも言える事。作品は、テンション。
(03.15)
また定時で終業!じゃあ、行くしか!
石井輝男「地獄」@京極弥生座。
・・・もうケツの毛まで抜かれて鼻血も出ません。
石井先生、アンタは凄い!凄い!SUGOY!!
劇中の閻魔大王様の御言葉にもある通り、
眼には眼を、
歯には歯を、そして、
最大の狂気には最大の狂気を。
嗚呼、「恐怖奇形人間」が霞んで見えるよー。「ナチュラル」さで言っても「北京原人」を遥かに凌いだ!
「地獄」が「キング・オブ・カルト」なる尊称と限りない親和力によって一体化した瞬間である。それに立ち会えた興奮!
それにしても、
輝いてるゼ、丹波先生!!
アーおなか一杯。でもこれカットされてるんじゃない?どうしても、って所。
買って来た撮影台本(現場に余ってたヤツ・・・?)は、もっと凄いから・・・。
弥生座18日までナイトショー。コラそこ!突っ立ってないで観に行かんか!!
PS 映画館で見掛けた結構胸キュン!な女のコが、なんとボクの通路隔てて隣に座ったんだ。ドキドキ!
でもそのコは上映中一番多く笑ってた。しかもボクと笑いのタイミングがほぼ一緒で・・・。
ちょっぴりランデブー、って感じかナ?
(03.18)
「長いものには巻かれろ」をモットーにこの半生を生きて参りました私(大嘘)、著名人にはめっぽう弱いのであります。
そこで借りて来た「ジャイアントロボ」第七巻「大団円」。実はこれだけ観ていなかった。
わははは、ただでさえ理解出来ない設定なのに二年もブランクあるからストーリー追えねぇ追えねぇ。しかしそれがどうした!この胸の奥底からマグマのように溢れ出る感動とその涙は何だ!?
伏線とかその解決とか、そんな瑣末事良いじゃない、そんな所にわざわざ拘らなくとも超弩級に面白いんだから(「ケイゾク」も然り)。作品を語る言葉も持たないクセに何とか格好つけようとそんな論点ばかり振りかざしていては、本作に申し訳立たないっすよ。この映現そのものの輝き、ショットとショットの間に「神宿る」この瞬間をすっかり観逃して本作を語るのは、愚の骨頂。
リス透過光が嘶く。煙エフェクトがうねる。タッチブラシが牙を向く。瓦礫が舞い上がる。密着ブックが膨張する、つわもの供が広角パース1K打ちで暴れ狂う、そして大作少年の大粒の涙を受け、魂の質感ブラシを浴びたロボが咆哮する!
話なんてもう追わんでエエ。これこそアニメーション。これこそモーション・ピクチャー。「七人の侍」や「必殺4」に通ずる、「モノ」が「動く」という事に対する、切実なまでの信頼。いや、信仰。
ホント泣けた。ポロポロ泣けた。やっぱアニメなんだから、散々動かなくっちゃ。これ観てると無性にそう言いたくなった。虫の良い話。
あまのセンセの劇伴、やはり最高です。似たようなスタイルのW田氏と比べても、持っているテクとその出し方が違う。あ、言っちゃった。でもね、W田氏は「GGGのK太郎」なんかでも、アニメの劇伴でだって自分のホンマの実力見せたるデェ!って気合入れて、逆に結局映像と間抜けな齟齬を見せてしまうばかり(それ以前にテクニックが空回りしているようで、何か野暮。特にティンパニ)なのに対し、あまのセンセはあくまで「添え物」としてのクールな視点を保持しつつ、 それでいてテクニックや作家性をそっと偲ばせる確信犯。ずっと粋。画を邪魔しない、でも画に負けない、画から離れてもひとりで立てる理想的な映画音楽。
・・・とこれ位持ち上げておけば、何か良い事あるかな?うそ。
それに加えて今日、よせば良いのに確認の為件の「おもちゃ」再び借りる始末。一寸心配になって来たもので。
明日を以って10日間失業。でも羽伸ばしている暇はないっす。
(03.19)
時効のつもりで言っちゃいますが、実は#8に「出演」しています、私。
最後の仕事を見届ける事なく、「ワシの時代は終わったんじゃ」と来たばかりの新人の肩ポンと叩いてスタジオを後にした25歳の早春。春よ、遠き春よ、瞼ァ閉じればァンそこにィ・・・。腹減った・・・。
だから映画ばっかり観るなって。書けって。10日はあっという間だぜ。一寸待ってよだって早めに観ておきたいもん「おもちゃ」!
二度目。マッドコンポーザー・ドクトルアマノの執拗な波状攻撃に負けてはいられない。某PオニアLDCのプロデューサーに頭抱えさせたこの私が負ける訳にはいかない!(嘘でもたまには反省しろって・・・)
次の攻撃に備え、チェック。
・・・いやぁ、でも、一回目より良かった。一回目よりハマッた!
こりゃ絶品です。イイよ、これ。
前回書いた事と概ね変わりないけど、補足せずにはいられない。このカット割は正にリズムの聖化。舞踏の聖化!
だがトリッキーなモンタージュでテンポを煽る常套手段とは一味違う。人物への寄り引き、カットズームの繰り返しが殆ど。それとシンプルな切り返し。マルチでやっても多くて3カメの複合。しかしこれをアクション・カットで繋いだ切れ味のシャープさ。リズムだけでもうグイグイ引き込まれてスッとするそれは正真正銘の深作マジック。でもそれだけじゃない、よく観ると望遠のややハイポジが多い。つまりパースを殺してギュッ、とだ。ア、黒澤御大ソックリ!そうなるとトットコ動いてトットコ喋り間を埋めるだけ埋めてしょうがない役者の芝居もそうか。ああアクションつなぎのカット・ズームも。新発見!こりゃ本格的に深作を知りたくなって来た。同時に「阿部一族」と「忠臣蔵外伝 四谷怪談」借りてて良かった。
それはそうと、「おもちゃ」で深作が新境地に入った事は最早疑いない。その黒澤への接近もそうだ。ナメの構図を多用して人物を素材として切り刻んでいたかつてのヴィジュアリズムはいまやなく、人物は上体ごと安定した空間の中に収められ、ほのかに明るい背後のボケBGからくっきり浮き出る、この威厳と気品。いくらカットを短く刈り込んでも画面に卑しさが漂わないのは、周到な計算の賜物なのだ。
その客観性が悉く生き、作品の風雅を引き立たせる。その象徴があの「藤乃屋」玄関前のトンネル。
こまめにインサートされるこのショットは実に雄弁だ。人々はここを潜り抜ける時、その闇の冷たさに一旦溶け込み、無に帰る。しかしその後再び柔らかな光の下に立ち顕れ、玄関の戸の先にある姦しい芸妓達のドラマに参加する(ファーストカットからしてそうである)。それはそのまま、生のデフォルメ(それはある意味、同時に死と虚無をも意味するのだが)とも言える本来の深作ワールド(本作でも健在ではある)に対する、本作での深作の「カメラポジション」として見る事が出来るだろう。彼は闇の冷たさを通してこの「裏の真実(南果歩の台詞)」たる御座敷の世界を見つめる。その奥行き・パースペクティヴは、余りに人間臭く描かれる芸妓達の日常を、その哀しい内実ごと一目で見せてしまうのである。説明臭のかけらもない、その絶妙なコントラプンクト(これもクロサワの御家芸)。このコンストラクションにおいては最早、日常描写に生き生きしたデフォルメを施せば施す程、すっ、と引いた時の哀感と情緒は増幅され、しかもその転調はいたってスムーズで、自然となる(例えば時子=おもちゃの壮行会。あのランチキ騒ぎから滲み出る人生の深部から響いて来るような優しさ・・・!)。匠の技とは、この事である。
それだけにね、ああ、ラスト、効いたねぇ。笑い堪え切れないよー。ダメだ。たまらん。許して。あそこで一気にガタガタ、っと豪快に崩れ行く雅の世界!画は完璧なのに。アア・・・。
やっぱり解らん。「おもちゃ」御披露目の朝、面々に出掛けの挨拶をする時のBGMに木琴入って、あ、流石、匠は匠を知る、とほくそ笑んだのに。それも束の間の大惨劇。・・・言い過ぎ。
でも良かった。話題作りの為にでもエエからアンタも観てみなはれ。次回作は期待大。
・・・結局今日も書けなかった。あちゃー。明日は明日で不安で寝られんよ。ぐー。
(03.22)
・・・嫌な引力かかってる感じ。
この3日、リミッター外れっぱなしのハイテンションとは裏腹に気持ちの整理がつかず、グチャグチャ。
あ、笑ったな。そこのオマエ笑ったな。「やっぱ精神構造のコアは女子高生なんだー」って笑ったな!
だったらボクを認めてよ!ボクに優しくしてよ!!
・・・失礼。
「さいご。の、とし。」主役のスケジュールが空かなくなってとうとう頓挫!
申し訳ありません。不徳の致す所。
でも撮った分の編集と脚本は完成させて、キープとさせて戴きます。だって惜しいんだもん。
今夜はその企画会議です。あ!まだホン上がってない!!
(03.25)
・・・まだ考え中。
今日は久し振りに何処にも行かないと決めた。溜まったビデオ観よっと。
・・・。
最近、この気分の襞を表す言葉が見つからない。
益々駄目な男になって行くなぁ、と。この台詞自体既に駄目。
ヤクザな商売に入ったのだから、足を洗うか、我慢するか、それだけなのに。
ただ創作人ってのは、みんなこんな思いじゃないのかしら?
・・・いつになくセンチメンタル・・・。
何が言いたいのかって?自分の右脳と左脳、どちらを選ぶかって事。
益々解らんって?がはは。
スタジオ枯山水次回作「恋のテレポーテーション」に決定!
クリップです。簡単に撮れるかな、って。
(03.26)
許光俊のルサンチマンがうざったいです。何とかしてくだーちゃい!
・・・また映画。
深作欣ニ「阿部一族」。これTV映画?
師匠(って、最早師匠ではないか・・・)に「深作ならこれ観とかないと」と言われていたんだけど・・・。深作マジックが裏目にでて、アダ。だってこんな話じゃないもん。ズーム・アップとW田薫の劇伴がうるさい。
ラストの討ち入りは流石、貫禄のリズム感。
木枯し紋次郎「峠に突いた甲州路」。いま関西の劇場を流している「新撰組」(観てぇー)とカップリングの「自選・市川崑劇場」に入ってるのでVでチェック。右足のない娘の話。
このストップモーション。段々畑を走る紋次郎の俯瞰ショット。殺陣の天才的カッティングは深作と好一対だが、眼を見張るべきはカタワの娘のたまらない哀感。
ギョロっと凝視するその眼から伝わる絶望。それを意に介さないが如く逸らしてしまう紋次郎のペシミズムが、ラストの惨状の中でのささやかな心の触れ合いに帰結する。ヒューマニズムを突き抜けているのよ。これぞ「木枯し紋次郎」。
エー続きまして、深作欣ニ「忠臣蔵外伝 四谷怪談」
お岩「何処まで行くの・・・?」
伊右衛門「解らない・・・兎に角、俺たちが行き着ける所まで・・・」 (以上、フィルムからの書き起こし)
で、ここまでしちゃったの!?深作先生!!!
脚本がもうアレなだけにやりたい放題、深作オカルト妖艶路線の文字通り集大成。
高岡早紀のパイオツにおおおっとつんのめって、赤穂浪士の宴と荻野目慶子の家の宴とのダブラシ、それぞれの舞と御囃子が恍惚と共に一体化する高度なコントラプンクトに酔いしれて、ブワッと舞い散る桜の花びら、枯葉の圧倒的質感、勿論殺陣のスピードと、まぁそういう所で楽しめれば充分なんだろうな、この作品の場合。
ただ最後、討ち入りシーンのお岩のセクシービームには参った。そりゃないよ。笑えたけど。
23日に「ケイゾク/映画」弐回目。大分スッキリした。うん、解って来た、「裏ケイゾク」が。何となく。
確かに応えてるよ、「エヴァ」に。良い繋がり。言葉にするにはもう少し時間を。
(03.28)
・・・ドツボ。
しっかりしろ俺!何処向いて悩んでんだよ俺!!
見上げると陽光の眩しさが身に沁みる今日この頃、皆様如何お過ごしでしょうか。
古川タク「アニメおもちゃ箱」@扇町ミュージアムスクウェア。
前半奇を衒い過ぎてどうかなぁ、と思ったが後半は巨匠の至芸で楽しんだ。
あの直筆の名前テロップでさえブルブルしている細い線のブルブル感、それを3コマベースで打って更にブルブルさせる事で生じる妙な生々しさ。それは対象が記号化される程に強調される。アニメート表象の根源化。
ていう理屈以前に、話題の「上京物語」は良かった。少し風刺臭が時代を感じさせたけど。それ以上に「コーヒーブレイク」!夥しい人モノ動物が空中にブワーッ!!ってコーヒー飲んでるだけなのに・・・。参った。「スリーピー」も可愛かった。
キネ旬2000年3月上旬号、旭屋で発見。「ケイゾク/映画」特集なのだ。
そこでの樋口尚文の批判だが、
「やりっぱなし」「ひとりよがり」「ドラマとしての「しまり」を与えて欲しかった」
まぁ、なんて御決まりの単語達!
いやいや、これで良いのです。淀長亡きいま彼は「映画の良心」「映画の管理人」「映画の大家(おおや)」を襲名し得る数少ないひとり。植田Pへの評価もあってTV毛嫌いの無知蒙昧さもなく、どちらかと言うと「俺やっぱり、こう書かなきゃしゃあない立場にいるんだよなぁ・・・」という姿勢が見えて、寧ろ好感が持てた。
ただこのフレーズ、
「あまり文化を感じなかった」
こいつぁ、気分優先で戴けねぇや。
最後に、不肖私が畏れ多くも反論。
「「ケイゾク」の企画は演出によって弾けているのか?」
演出「だけでは」ありません。植田Pの戦略性も加え、総合力の勝利です。
だから何やってんだよ俺!え、もう答は見えてる?
今月のカヲ:何故これかって?いや、希望が持てるやん。
2000年04月
(04.05)
こんにちは、SPEEDラストライヴを観返しては涙を流す日々のヤマカンです。
何か随分空いたなぁ。
便りのないのは良い便り、とは某こやまん氏の名言だが、・・・良い便り?
とりあえず、決めました。
唯我独尊
これで行きます。もう、宿命です。いいんだ。畜生。バカヤロウ。
あ、そうそう、再就職しました。といってもウチの系列会社ですから、移籍です。
最近空が青く、澄んで見えるようになりました。陽の光が眩しいのです。
曇りの日はまた、淡い慎み深い光の戯れを楽しんでいる。シャシンに撮るとこれがフランス映画臭くて、良いのですな。ピント合わせにくいけど。
とにかく、自分の新陳代謝がもうクロサワの暴風みたくゴウゴウいってるのが解る。間違いなく来ているのですよ、自分の中で。
ミューズの手招きが、見えたのですよ。
・・・浮かれている場合じゃない。まだ何の解決にもなっていない。
そろそろネタ的に充分かな、とも思うので「AUFTAKT」第二回の執筆、開始致します。受けている方面が完全に限られているのが悲しく・・・。毀誉褒貶、何でも良いから御感想御待ち申し上げて居ります。
3月29日に「ケイゾク」三回目。携帯ストラップを漸くゲット。「裏ケイゾク」に入ると寝てしまった。やはりあれは要らんかったのかなぁ。
今度の春改編、ドラマのチェックが忙しそうである。
アニメは?
(04.07)
「響宴U」を聴いている。気合の入った曲もあるけどまだまだ殻の中という印象。
それ以前に、演奏と録音がもう少し良ければ・・・。
珍しくフランス映画二本。久し振りに「映画はいかにして死ぬか」読み返しているせいか?
ロベール・ブレッソン「バルタザールどこへ行く」。
アニマル物!?と胸ワクワクさせて観たのだが、確かに主人公・マリーがロバ・バルタザールに愛撫するショットは相当アレなものだったが、全体としてはなんじゃこりゃ?兎に角、繋がらない。
ヌーヴェル・ヴァーグを責めているのではなく、だって次のトリュフォーは良い仕事しているのに、こっちのカット割は妙に繋がらない。情感の持続というのか、意味の発生というのか、何より、新しいカットがその都度訪れた時の衝撃みたいなものがない。何じゃこりゃ?から始まって、何とか自分の中で了解するのに時間がかかる。その補填みたいに繰り返されるOL。なんだかなぁ。
よくブレッソンに「シネマからシネマトグラフへ」なんて評があるけど、そうかなぁ?寧ろわれわれに「映画的」に観る事を強要するようなカメラワークの連続。パン一つが黒澤御大以上にしつこい。例えばバルタザールが久し振りにマリーの家に戻って来る時、カメラはバルタザールのフォローを止めて庭のベンチに止まる。ありがちよねぇ。手のクローズ・アップの多い事。またそれが必ず何らかの淫靡な動きを示していて、解り易い。
極め付きはこれ、不良息子が車の中でマリーを誘惑するシーン。よりにもよって、
男主観のこの画。下品ねぇ。
でもかつてスチールだけ見ていても思ったけど、画の深み、グレースケールの厚みは観応えがある。このグレーは美しい。TVのNTSCでこれだけ出るんだから、劇場だともっと良いんだろうな。だから闇が深くて、その分ランプやら何やらで照らされた部分がとても淫靡で、ドキドキするの。
これなんか。
ただ、そう、かなり「なんじゃこりゃ?」のまま登場人物に感情移入もしにくいまま、「これを観ろ!!」ってごり押しされたままほぇーっと観て来た分、ラストのバルタザールの屍のショットは、何だか不意に突き放されたような寂しさが鋭く胸を打った。
フランソワ・トリュフォー「突然炎のごとく」。
前半のブチブチなカッティングはやはりヌーヴェル・ヴァーグの代表格。ただ「バルタザール」と好一対なのは、そのリズムが実に雄弁に語っているという事。
彼等はカットとカットの「間」を信じない。その「意味」の連関を決して信じない。しかし、だからこそその「間」からは間違いなく、隠しても隠し切れない「意味」と「信頼」が否応なしに溢れ出て来るのだ。この引き裂かれ行く皮肉は正にポスト・モダン。
ただ後半、ドラマが重くなるに従って監督も物語りに夢中になったのか、カット繋ぎが意外にも次第に常識的となり、リズムも穏やかになってしまうのは如何なものか。私はどうも食い足りないのだが、蓮實大先生に言わせればこれも「撮影的映画」から「演出的映画」への横断、あるいは逍遥なのだろうか?終盤の車で入水なんてのも、当時はショッキングだったのかも知れないがいま観るとオチとして格好付き過ぎ。
でも、何かいいなぁ。このリズム。ああ女の子にフランス映画の話して口説くのが俺の夢だったよなぁ。「スーパーミルクチャン」#10がさぁ、なんて言って間を繋がなくて済む日々がもう直ぐ来るのかしら?ドキドキ。ンー。
あと画の中の白、白壁とかジャンヌ・モローの服とか、至る所で主張する白の凄味についても語りたいが、どうせあの大先生が腐る程書いてるだろうから、やめた。
(04.08)
ゲ!!「戸田奈津子」がない!!
完パケでは入ってたからヤッタ!と思ったのに・・・。ビデオには入るかも?
んー、これが壁なのね。
つくづくヤな壁!
それはそうと、日曜に母校吹奏楽部の定演なのであります。
わざわざ2時間も電車乗り継いで聴く代物か?なんて然り顔も最早馬鹿馬鹿しい。
ミューズは心ある者の味方です。
あんな出来の表現にも、神宿る瞬間てのがありまして。
表現への誠意か、狂気に近い信仰か、そんな愚を平気で犯せる輩に、神は甘いのです。
この2年、ミューズにシカトされていたあちき等は、嫉妬の限りでありんす。
何が表現か?
(04.11)
・・・おーい、救けてくれー!!
何を?
<表現は真に極私的でなければ、公に開かれ得る言葉を持ち得ない>
・・・今回聴いた御子ちゃまバンド、カッコ笑いで出た結論。
毎年で御座居ますが、練習不足が音に出る。基礎の不備で、あがけど技巧にまで至らない。すぐバテる。
ただ、そういった者供の上に、気まぐれな神はふらり通る。しかと見た。
ああ、こういう事か、と。
アマチュアの特権と嘲笑するなかれ。最早自らの思惟力をも疑い、自らの身体性をも疑うまでに疲弊した悲哀の20世紀は、いい加減終わりに近づいているのだという、この穏やかざる流れに眼を背けるのは何処のどいつだ。
21世紀は「人間性」への「信仰」の時代。目撃せよ。え、話膨らませ過ぎ??
しょっちゅう言ってるでしょ。つまり、作品は、テンション。
<プロのマスターベーション>
「プロ」という厄介な免罪符。
これさえあれば、創りたくない物を観たくもない人へ伝え届けても、痛みを感じない。
「公」というものが加速度的に形骸化し、結局「公」に生きる人々の「私」の心にかすりもしなくなった、笑うに笑えもしない皮肉な文化。
・・・ぽかーん。
ああ、もう書く事ねぇや。
・・・いまの仕事が正にそうなので。
<「アニメスタイル」>
・・・とか言っておきながら、漸く買った美術手帳増刊「アニメスタイル」第@号に吃驚。
新世紀を前に、もう数える程しかなくなったアニメ界の限られた綺羅星を丁寧に拾い集めて凝縮した、正に小黒祐一郎一世一代渾身のアジテーション。
こんなにCOOLなアニメ雑誌はなかった。だって事ある毎にあのTHE八犬伝「浜路再臨」に言及しているってだけでも、流石の名伯楽!御立派!俺が言うんだから間違いない!
これ読んでると、何だかムラムラして来るよ、久し振りに。
<石井克人「鮫肌男と桃尻女」>
やっと観る。リズム!このスパスパ来る快感!同じ「リズムの聖化」でも深作センセがクラシックなら、この石井克人はロック!まぁ、解り易い言い草!
やたらONなSEにも感激。リズムだからやっぱり、音でも整えたい。それをちゃんと見せて(聴かせて)くれるサービス精神。走る浅野忠信の枯葉踏む音、革ジャン軋ませる音、服を着る音、総てリズム!鶴見辰吾のジッポはその代表例。
その画・音両方のリズムが結実したのが銃撃シーン。北野の延長上にあると言えばそれまでだけど、この運動性なかなか出せないよ。
ただ挑戦的なカット割にしては、全体の展開自体は起承転結の枠内にあったのが残念。そこまで反抗する必要もないか。
白眉は勿論山田君。
人生が歪んで来たぞぉ。きゃははは。構うもんか。
(04.15)
砂漠を歩いてたら左前方にオアシスが、右前方に歌舞伎町が見えたのはいいんだけど、どちらも結局蜃気楼で、それ以前にあ、俺いま金ないやと思って、途方に暮れた事はありませんか?
そんな気持ち、早く忘れて砂の上で寝たいです。
アチチチ。
(04.17)
<なぁんだ?>
ドラマ春改編にSPとエアチェックしているモノは目白押しなのに、不毛な残業でちっとも消化出来ないでやんの。
しかしこれだけは観とこ。今井夏木の不気味な初チーフ「QUIZ」#1。
「『踊る大捜査線THE MOVIE』観た?」
アハハハ。早速喰い合ってる。スゲェ!
「カヲル」君の登場といい、「エヴァ」=「踊る」=「ケイゾク」ラインに対し充分自覚的なTBS連合赤軍・植田Pは、その戦線の拡張を図る為に敢えて今井を選んだ。そのミーハー性に賭けたのだ。
その証左があの「バッファロー66」。これは正に現代サブカルチャーの枯葉剤作戦。
しかし破壊の為の破壊、歪んだテロリズムの行き着く先は所詮内ゲバ。そしてシラケ。その予感すら孕みつつ、しかもそれを楽しんでるようなこの余裕。クソー、地上波でなんでここまで出来るんだよ!!
ただ、ミーハー性含め今井の女性的センシティヴィティが、諸刃の剣ながらもよく顕れているのは興味深い。意外にオーソドックスな脚本、カヲル君のキャラ造形としての甘さはその裏目の部分だが、「ケイゾク」とは対照的に輝度を抑え、モノトーンへの接近を図った色調はセット・衣装類等の赤・青の配置を巧みに行った結果抜群のバランスを成し、トリッキーながら安定感にも配慮した構図が作品のオリジナリティを慎ましやかに主張する。あの白タイル上白制服の内山理名のイメージを思い出すだけでもその卓越したセンスは明白であろう。
個人的に気になるのは喰っては吐いた星野真理のモティーフ。たった数カットの慎重な提示をしているだけに、大事に膨らませて欲しい。
勿論、成功・失敗関係なく大いに注目すべき一作。これは疑いなくなった。但し竜雷太のあの髪型だけは納得行かない。どうもアレは。
(04.21)
N村様、その後御加減如何ですか?
麦茶は捨てましたか?
<今日はまだ処女>
「池袋ウェストゲートパーク」。長いね。「I.W.G.P」。流石本家。唸っちゃった。
最初はやはり画が破壊衝動のひとり歩きでああだが、なになに、ホンの上手さが徐々に効いて来て、終いにはあの自主映画的遊戯性が作品のテーマ的骨心にピタリとシンク、やっぱ日テレ時代に戻ったのかなぁ、でも「ケイゾク」の先行こうと思ったらこれしかないよなぁ、と諦めかけていたのロしてしまってる、というこりゃあたまげた侮っとった。
鋭い!切れる切れる。ビシビシ切れる。カットの間から噴き出るガムシャラな攻撃本能と血の匂い。そして凍てつくデカダン。
植田がいない分陰鬱なオタク性が薄れ、その点「エヴァ」=「踊る」=「ケイゾク」ラインから外れた格好となってはいるけれど、堤の天才性はこちらの方が顕著。「鮫肌」以上のリズム。オフ・ビートっていうのか(そういえば市川崑のリズムも散見)シンコペーションが複雑っていうのか、何か変拍子からチャンス・オペレーションまで用いて、もう悪行三昧といった雰囲気。そう言えば終盤の芝居の空気はまるでトーン・クラスター。
それだけに、酒井若菜を一話で殺しちゃうのは惜しい!どうして!?楽しみがひとつ減るやない!
殺人事件との絡みが上手く纏まるかな?という危惧はあるけど、良いでしょう、見事な進化の形。
「QUIZ」共々、図に乗ってるねぇ連中!アニメ観る暇あったらこの二本観なさい。
(04.22)
<ビデオ屋のあんちゃんに「ブギーポップは振り向かない」ありませんか?と言っちまった。伊藤かずえは出てません>
「ブギーポップは笑わない」#1、#2観る。
またコピーガードかかってる・・・ケチねぇ。
まぁトライアングルスタッフだし、世界は「lain」引きずっていてしょうがない。んでもって今回の監督は渡部ニイサンだから、脚本・演出に多くを期待するのも野暮。しかし緒方剛志のキャラが良い。「アニメスタイル」でも散々小黒が話題にした「アニメキャラのムラムラ」を更に一歩発展させた具合が確認出来る。あの女子高生を描く時の腰から足にかけてのラインの淫靡さ、影を意識させない立体造形は貞本義行キャラの先を行き、後藤某なんかじゃ決して真似出来まい。
その緒方キャラに支えられ、画面は洗練を尽くす。パラとディフュージョン(多分A.Eのグローと放射状ブラーの混合技)の繊細かつ大胆な使用が気持ち良い。かつて某ぷるるん監督から「アニメっぽい画はどうしても画的にダメだから、DFやパラやフレアで隠すしかない」と聞いたが、やはり特に作り込めないTVシリーズの画ではこうするのが無難なのだろう。
但し、どうしても「lain」と比べてしまうけど、あのデジタルにセルアニメが陵辱されて行く感じがない分、なんか素直過ぎてその分刺激に乏しい。
(04.24)
<漢泣き>
はとむねさん急病の為、女性たったひとりに男性5人が寄って集って・・・。凄い撮影会(「会」を付けるな)となっちまった2000年度最初の作品「恋のテレポーテーション」。
11時出町柳駅集合。取り敢えずロッテリアで昼食。その後女優先生に着替えて貰って、衣装に、・・・良いのかコレ。オイ!アドレナリン最大分泌。野獣供狂喜乱舞。
イインデス!!美にモラル等あるか!!大願成就はオージーザスなんてこったい。早速駅の階段を走って貰い、何度も何度も駈け上がり、それを微塵も逃すまいとカメラを、・・・こんな事では良心は痛まんぞ!
しかしよく疾走して下さった。鴨川の岸を何度も何度も。野獣供も総出演で良いポイントで使えた。まるでオールやっつけとは思えないスムーズな撮影!・・・。
よく動いた。疲れた。久し振りにモノを創ったという満足感。いや、違うな。モノを創る事に対する「後ろめたさ」「恥の意識」から解放された瞬間の、えも言われぬ心地良さ。いや、マジな話。ホント。
H多様。有難う御座居ます。これ以上いかがわしい役は振りません。申し訳御座居ませんでした。
そして飢えた魑魅魍魎供!!待ってな!!御前達には最高のリビドー・ヒーリングを味わわせてやるゼ!!でも今日はもう寝ます。ばいばいきーん。
(04.26)
急に忙しくなって来た。「本業」で。
加えてマイコンピータのビデオキャプチャーカードが不調、ていうかこれドライバが2000に合ってないんじゃないの?
ったく・・・。
てな訳で、今は編集し辛い。すまん!加えて2000でちゃんと動くカード急募。
因縁の「ケイゾク/内ゲバ」第弐ラウンドは植田=今井連合軍の勝利!
「I.W.G.P」にんじんの回(にんじん・・・いやらしー!)はどうもストーリーに追いかけられてた感があり、カッティング・台詞回し共にトンガらなくてイマイチ。終盤の羽賀苛めシーンはまぁ良かったけど、序盤でアイディア出し尽くしたらすぐ萎んでしまうってのが堤の弱点??
対する「QUIZ」#2もやはり落ち着いてストーリー運びしている感はあるが、あの赤い風車(血の赤との絶妙なコラージュ!!)等、今井の繊細なイマジネーションは尽きていない。それにしてもリズムが良い。「堤より堤的」?でもこれが彼女のオリジンかと思うと、ちょっと疑問。タイトルバックは良いね、歌も。
「どら平太」行きてー。
今月のカヲ:答えのない質問。それを問うは罪か?
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2000年05月
(05.03)
戸惑っている。
この数日、生と死の強烈な立ち顕れに、ただオロオロと。
ちっぽけなニンゲンのちっぽけな躯に宿った、ちっぽけな魂のちっぽけな揺らめき。
ただそれだけのちっぽけな現象に対する、巨大な無を前にした時のような恐怖。
それとは別にある、いや、その先にある、妙に冷めた絶望感。
それでも、ストラヴィンスキー「火の鳥」の一曲「王女たちのロンド」で、消え入らんとする自我を必死に慰撫しようとするかのようなオーボエソロに、胸掻き乱されてしまうのは何故だろう?
ここ数日、あのオーボエが鳴り止まない。何を語る?
いま眼をつぶる私の周囲に、果たして私の知る世界は広がっているのだろうか?
どうにも、確かめられない。
誰にも、確かめられない。
ホントは「ファンタジア2000」だの「スペーズトラベラーズ」だの、語りたい作品はたんとあるのだが、暫らくはこんな意味不明の言葉の断片しか出まい。
ムッシュかまやつ先生が今日ラジオで歌っていた。
なんにもない なんにもない まったく なんにもない。
うまれた うまれた なにが うまれた。
星がひとつ 暗い宇宙に うまれた。
(05.06)
大勢が決したので書く。
今日、会社の先輩の葬儀に参列した。
意識が無くなる4時間半前まで、一緒にバカ話をしながら仕事をしていた人だった。
翌日には、ベッドの上で、規則正しい呼吸で、カーカーと寝ていた。
やがて、この世に、忘れられたように、あっさりと逝った。
パッとする事を嫌う人だった。
パッとしない人生を、パッとしない職場で歩んだ人だった。
そして、パッとしないまま、パッと、消えた。
そのパッとしない生き様が、余りに馬鹿馬鹿しくて、
涙が止まらなかった。
人は必ず死ぬ、という、これ程単純なものはなくしかしそれ故に余りにも重く人間の御魂に圧しかかる邪な神々の悪戯な宿業を、自分の脆い思惟と情感の場においてハイデガー的覚悟をもってどれだけ了解の域にまでこぎつけようとあがき苦しめど、津波の如き猛威で押し寄せる生の空、死の虚無が永遠の回帰を暗示する様をただ苦々しく見つめているだけで、その成す術のなさに存在の確からしささえ危うく感じてしまう。そう妄想するのは、やはり私の中にぽっかりとある「闇」のせいなのか?
答えの無い質問。それを問うは罪か?
しかし、今日着て行ったスーツを明日の顧問の結婚式にまた着なければならないとは・・・。
「なんにもない 大地に ただ風が ふいてた。」
(05.12)
<阿倍野高校吹奏楽部の「展覧会の絵」は数の力、にも増して馴れ合いの内輪ムードは確かにヤな感じ!>
よせば良いのに、まだまだ「ドラマ」の捏造に忙しい。
息付く暇もない。ていうか止まったら壊れる。
自業自得。しゅん。
HP更新もしたいんだけど、今は観賞が直に創作に結びついているので、文章にするのがやや億劫。
因みに「バッファロー66」はやっぱり予告篇の方が良かった。それだけ報告。
あ、「AUFTAKT」・・・。サイドストーリーなら今書いてるんだけど、おっと。
「恋テレ」急ぎます。何だか売れっ子みたいやなぁ。
なんか不安。
夏辺り。
(05.19)
イカン!!
仕事以外なーんもやっとらん!!
珍しく反省。心ば入れ替えますたい。
しかし最近痛感するに、フレーミング。ほんの数ミリカメラを振っただけで、印象と意味がガラリと変わってしまう「レイアウト」という妙。
要は人間視覚、ていうかその「観点」と密接しているだけなんだろうけど、改めて不思議。
それにしても、アニメにパースは必要なのか?
折角二次元なのに?
悪あがきに見えるんだけどなぁ。
・・・はよプロット練ろっと。
よっちねえさん、見てくれてる?きゃー。
とりとめもなくおしまい。
(05.20)
<るっせーな、プロプロいいやがってー>
常々やってるプロ批判を聞いて、どうも私がアマチュアリズムに尾を振ってると思っている方がチラホラいるので。
私はただ、
「酷いアマチュアはただサムイだけ」だが、
「酷いプロはただ害悪にしかならない」。
こう言いたいだけ。
この発想に首肯出来ない輩をさっさと撲滅しないと、真のプロフェッショナリズムには程遠いのにねぇ。色々と。
因みに、「上手いアマチュア」と「上手いプロ」、どっちが上か?
そんなの、仕事の中身だけ見て決めりゃ良い。当たり前。
(05.22)
<めちゃSTEP、未だ憶えられず。ていう事は俺山田花子並!?>
「QUIZ」#6観ていて、一見アヴァンでサイケなんだけど思い付きがブチブチ来ている感じでいつもの映像的デリカシー(・・・変な言い回し)がないなぁ、と思ってスタッフロール見たら、
「演出 福澤克雄」。
・・・ははぁ。
だからこんな、本来なら全篇に漲るサイコホラーな雰囲気と引き裂かれるような映像ムードの中に一瞬キュン、と沁み出して来る筈のカヲルの誕生日エピソードが、無残にもメタクタにされてしまったのね。これ程までの野蛮さと無神経さは、最早立派な芸格か?
何が言いたいかって?これも「プロ」だって事。
あ、そうそう、
http://www.odoru.com/home/wps/title.html
DVD発売記念らしい。今更とは思うけど。
(05.25)
<モーニング娘。よ永遠なれ>
・・・だからモブシーンは面倒臭いんだって。
「ハッピーサノバビッチ」じゃない、何だっけ?「ハッピーサマーウェディング」。感銘致しました。
露悪趣味だけならおニャン子クラブの悪夢の再来、しかしいまは軽佻浮薄の80年代ではない。空白と開き直りの21世紀!その先鞭をつけ意気揚々たるは汎エスニックでカモフラージュし児童ポルノ禁止法を華麗にすり抜ける真の表現者の姿!
無闇な引用によるオリジナリティの希薄さと古典的芸術的倫理観の欠如を戦略的に逆手に取り、逆に左様な論調で平気に批判する厚顔の文化人もどきが如何に「アイデンティティ」とその現代的意義に対し無知であるか、不誠実であるかをこれみよがしに嘲り笑う。そのサブカルチュア的カタルシスの何という爽快感!
正に「ケイゾク」と双璧をなす、現代日本文化における「徹底したポストモダン」の最高次の形態!
・・・なんて言っても信じてくれねっか。まあいいや。ビデオ買おっと。
「アニメにパースは必要か?」職場で主張すれど誰にも理解して貰えず。
しょうがない。これから。
(05.29)
<フカキョンに投票するくらいならふかっちゃんに入れろ!>
日曜出勤、定時にバックレて梅田まで足を伸ばす。
斎藤麻衣(11歳)
の写真集購入の為。
紀伊国屋着。発見出来ず。初音ならあったが迷って止める。
映画コオナアへ。あ!遂に出た別冊太陽「監督 市川崑」!!
蓮實の新刊なんかそっちのけで買う。
いやあ、濃い濃い!市川本ってどうしてこんなに出なかったんやろ。同じムックでも「黒澤明」(共同通信社)は黒澤研究会による膨大な資料集めこそ評価すれど、話が噛み合ってすらいないファン同志の放談には辟易してしまう。しかしこっちは筋金入りの市川親衛隊による如何にも「市川的」な完璧さ!特に市川本人と石坂浩二との対談は徹頭徹尾の技術論で全くもって「市川的」!
ああ、「どら平太」観てぇー!
続いて旭屋。・・・ここにもない?
んおー2万部売れてるって言ってたやんか!在庫もうないの??
・・・また映画コオナアへ。
「市川準研究会」。?あホントだ、イケチ写ってら。
「大阪物語」特集だったので買う。市川繋がり・・・。
こうなるとついでに「シナリオ」。「どら平太」の脚本は押さえておきたいし。
・・・気が付きゃもう5千円でしょ?食費削っても結局浪費癖は治らんのよね。
あ、紀伊国屋で見かけた「コキーユ」のビデオ、買っときゃ良かった・・・。
妄想ノオト
今月のカヲ:結局、いつも眼に浮んでいるのはこの原風景・・・。
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2000年06月
(06.01-1)
TBS ENTERTANMENT、讃。
徳井優、讃。カッコばく。
「QUIZ」#7。児ポ禁への挑戦ならこちらは剛速球の真っ向勝負。
標準レンズを8歳の娘にいじらせて・・・。人差し指と親指で・・・。それから耳を・・・。
ぬををををを変態ダス!!いや、天才ダス!!天才?
まぁ演出上も変化球少なめで少し喰い足りない感はあるが紗理奈エピソードに沿ったなまめかしい緩急の付け方は流石、と思ったらやはり生野慈朗。・・・多分前回あっての今回だからこんなに褒めてるんだろうけど。
しかし「ケイゾク」ネタ連発といい(そう言えば刑事の御歴々はモー娘。!相通ずるのか?)竜雷太の意味不明な台詞といい、ホントに邪悪!だってさN村、なんか植田Pって御前のような反応を一番期待してるんじゃない?
「さあ、突っ込んで!もっと激しく突っ込んで!でないともっと悪さしちゃうわヨ!」
ここまでやられると元祖天邪鬼の私なんかは些か引いてしまったりするのだが、刺激的なのには変わりない。興味は未だ尽きず。
でも真犯人はカヲルじゃないの?
岩井俊二が前掲市川本でいたくお気に入りだった「犬神家の一族」。久し振りに見る。
「ヨーシ、解った!」あ、これかぁ元ネタ。加藤武ね。それより三条美紀・・・。年取るとこうなっちゃたのね。
しかし予想外に大した刺激なし。眠かった。ていうか「技のデパート」市川マジックにしてはどうもバーゲン品しか出してない感があり、甘口。市川映画と言うより角川映画の色調。やっぱり「所詮TV映画に毛の生えたようなモン」と諦めて撮ったか?
岩井が絶賛していた無茶苦茶なスピードの切り返しも「どう?お手頃価格でこの切れ味!これなら奥さんにも簡単に使えるでしょ?」と言われているようで、まぁ悪いとは言ってないんだけど。
それでも興を削がれたのは終盤の解決篇!かつて誰だったが「名探偵コナン」の推理描写の甘さの理由として「その時になって幾つも読者の知らない証拠を出して来るな!」というのがあったが、・・・本作も正にそれ。しかもそれが証拠になり切ってないバツの悪さ。
極めつけはこの台詞。「幾つも偶然が重なったんだ・・・」それじゃミステリーになってないやん!!
これもその少し前に、同じ市川の「野火」を観てしまったから厳しめになったのかしら?まぁいいや、さて「竹取物語」でも観るか。
大仕事二つ。厄介。どちらを考えても胃が痛む。もっと楽に生かしてはくれぬか?
誰か癒して下さい。まぁいいや。
(06.01-2)
N村ぁ、また退行するぞぉ。いいじゃんいまは癒されたいのよぉ。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Theater/3564/cgenjin_nikki.html
バレたぞー!ぎにゃー!!大勢でおとうさんを殺しに来るよー!!
さようなら。
(06.10)
ある出来事以来占いをめっぽう信じるようになった小市民の私で御座居ますが、最近は「ぴあ」連載のニセ予言家ヂィーニアス・サワキが妙に当たっていて気持ち悪い。
因みに5月30日〜6月12日の乙女座。
「具体的にイイ仕事や役割を任されたのは嬉しいが、同時に責任やプレッシャーも重くなってきて、実は苦しい、という運気に入ってきた」
ををを、ぴったり!各方面で。
しかし最後、
「面従腹背で。」
これだけは出来ぬ相談です。
という訳で、いまはHPどころではありません。御容赦を。だって06.29OAなんだもん・・・。
あーあ、「どら平太」観逃した・・・。
(06.21)
御無沙汰して居ります。御元気でした?
もうプロフェッショナルに失望するのは沢山なんだけど・・・。
「ブギー」ナンダカンダいって6話まで観る。
注目すべき点がひとつあって、色。かなり彩度を落とし、DFとパラ(ていうかアフターエフェクトのグロー)を多用して、滲み・くすみを前面に出した画創りが成されている、というのは最近の映像(特にMTV)の流行りなのだが、殊アニメでこれをやるというのは、所謂「アニメ調」とも言える純色系の安っぽい色調に対する批判としては充分面白い。が更に言うと、さっきのDFとパラによる効果は、明暗、つまり光と影をわれわれに存分に意識させる仕掛けとも考えられるのだ(加藤浩の美術も然り)。
人間の視覚とはまず輝度であり、次に色相である。ならば色彩とは、第一に明暗であるべきなのである。かつての白黒映画が未だ独自の質感と美を保持し得るのは正にそこであって、映像が永遠にテーマとせねばならないものでありながら、如何せんアニメ等は何処まで考えているか。いや、答えは明白なのだが・・・。
テレビやビデオデッキにモノクロの機能がついている方、いっぺんそれに切り替えて観てみて下さい。アニメ映像を「読む」新しい切り口が発見出来る、かもよ。
とは言うものの、雰囲気ばかりで中央を喪失しているというか、語るべきものが見えて来ない脚本とか、枚数切り詰めてたまに動いても芝居にならない作画とか、やっぱ監督のせい?
(06.22)
珍しく褒められちった。わーい。
でもさっさと仕事終わらせてくれ。もういいや。
結局未だ不自由。スカッとせんなぁ。
(06.23)
明日は子猫ちゃん達と一日中!きゃっほー。
もう日頃のしがらみも鬱憤も児ポ禁も忘れ・・・られないのよね。ちっとも。
ってイカン!もう寝なきゃ。まあいいや。新幹線の中で寝よ。
幾らチャレンジしても寝てしまう市川崑「竹取物語」を漸く観終えて(でも最後の宇宙船シーンは「未知との遭遇」以上にクールな市川イリュージョン!)、是枝裕和「ワンダフルライフ」。これは良かった。
優しく溶け出す光に包まれて彼岸へ赴く人々、しかしその影はヒヤっと、ゾッと冷たい。月並みだが、巧みな映像作家は必ずこの「光と影」を存分に描き切る。シナリオで、芝居で、そして画で。
本作ではそれに加え、故人の一番の思い出を「わざわざ映像化」して、それを胸に成仏させるプロセスを提示する。つまりこの映画には三つの「現実」が存在してしまう。ひとつは個々人の中の「記憶」、そしてそれを頼りに(かなり安いセットで嘘臭く)作られた「記憶の再現映像」、更には、実際の現実をちゃんと自分の生涯分撮り貯めしてあった「現実の映像」、である。
勿論、話はこの三つのうちどれがリアルか?等というお寒いアニメチックな展開には及ばず、是枝は実に抑制の効いたタッチでこの三つの「現実」を一つの「イメージ」として幸福的に融和してしまう。リアルでもバーチャルでも、そこに自分の思いが存分に詰め込まれているのであれば、そこに最上の「印象」が宿っているのであれば、最早現実らしさ等意味を成さない。天上で永遠の生を生きる為に、そんなものが何の役に立とうか。
ここから仄かに伝わるメッセージ性が即ち、「映画」というもう一つの「イメージ」にも向けられている事は言うまでもない。その為の「記憶の映像」創りというモティーフ、と言っても過言ではない。わざとらしいけどね。
しかしこの演出、頭良過ぎてコントロール効き過ぎているのか、悪くは無いんだけど最後、主人公望月が漸く自分の一番の思い出を選択して撮影に入るシーンで、ベンチで彼の隣にはやっぱ小田エリカが座るべきだったんじゃないの?そういう安易なカタルシスは嫌だったんだろうけど、そうしないと折角の「イメージ」の対位法がちゃんと解決しないもん。
小田エリカを二度も風呂に入れるんだから、それ位の色気があっても良かったよなぁ・・・。なんちて。
折角直前にこのショット入れてるのに、ねぇ。
あ、イカン!新しい朝の為に寝よう。
(06.25)
昨日夢の中でモーニング娘。の一員になれました。
ごっつぁん他みんなから「なんでアンタがいる訳!?」「いや、取り敢えず・・・」。
バツが悪かったです。
会社の同僚にこれ話したら「ああ、日頃のストレスがこんな所に・・・」。
のーん。
(06.28)
我等が主宰、辛矢凡先生、ブラウン管デビューです。
・・・って書いたらバレルか。
ヒッチコックはやはり超A級のB級映画監督なんだなぁ、と「知りすぎていた男」観て思う。
つまりA級映画とB級映画の違いというのは、「自分」を出したショットがどれくらいの割合を占めるか、みたいなものであって。
つまり石井輝男はA級映画監督、佐藤純彌はB級映画監督な訳で。
うーん、何か納得。
(06.29)
キューブリック「ロリータ」。
魂の戦慄き(わななき)。
おおミューズよ、この魂の巨匠による魂の傑作にして永遠の魂のバイブルを、私は何故今まで敬遠していたのだろう!
兎に角キューブリックの天才がよーく解った!ピーター・セラーズの衝撃もよーく味わった!魂の同志にして女神、スー・シオンの神々しさもよーく解った!懺悔!洋画オンチで悪かった!!
クライマックスのジェームズ・メイソンの魂の号泣に魂の共鳴を伴った哀切な痛みを感じない非人間は最早魂の兄弟とは言えまい!荷物ばまとめてさっさと村から出て行げ!
痛い痛い。凄くロリータが痛い。良いよ、これ。ロリータが良い。リメイクしたくなるよ。何とか翻案出来ないかなぁ。
これに比べりゃ「季節はずれのクリスマス」なんて・・・おっと危ない。来週です。
「恋テレ」遅ればせながら編集開始。マシンが不安定。プレミアバージョンアップしてメモリが足りないのかな?
今月のカヲ:結局、いつも眼に浮んでいるのはこの原風景・・・。
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今月のカヲ:珍しく嵌まりつつあるこの外人監督。やっぱニーチェ主義者だからか?
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2000年07月
(07.05)
平和だねぇ。
うそ。
結局癒されない哀しい身。哀しいなんて知らねェや。
ソフィア・コッポラ「THE VIRGIN SUICIDES」観る@テアトル梅田。
女性監督による繊細な叙情が・・・なんてもう書き飽きたよ。そんな筈がないこのコッポラの才女、これでもかと仕掛けられたトリックには迂闊に批評の言葉を出せなくなる。こんな事ばっかりオヤジから教わって!
勿論彼女の「女性」が豊かな叙情性に結びつく時も、またダダ甘な乙女チシズムに陥る時もある。しかしその危険性に敏感な彼女のカッティングは余韻を残さない。その切り方自体は実に潔く、男前ですらある。それに限らず、本作では見せなくても良いものは決して見せない。話の筋を追いたきゃナレーションを聞け、とばかりに説明的なショットをどんどん省く。代わりに自分の温めていた思い入れたっぷりのイメージの断片をシーン中に散りばめ、その熱が冷めるや否やバッサリ切る。きっと彼女の恋愛感覚もこうなんだろうなぁ・・・。
それでも出て来る少女の生々しいエロスはもうむせ返るよう。一人減ったあとの四人全員がふかふかの白いドレスを着た時のそのフカフカは居ても立ってもいられなくなるような・・・。しかし「ロリータ」のような自虐的とも言える痛々しさが皆無である、という点ではやはり女性映画であり、物足りない訳で。
その最たるものが、彼女達の自殺の理由が「大人になるにつれ色褪せて行く自分達の今の輝きを守る為」なんていう至極妥当な推測で落ち着いてしまった点。そうかぁ?少なくとも今時の女の子って、物心ついた時から「色褪せ行く自分」を充分自覚していると思うんだけど・・・。その辺、一寸古風な感じがして・・・(オトコである以上深追いは出来ないままおしまい)。
補足:長女がどうしてもブルース・ウィリスに見えてしまって、どうせなら長女が先に死んでくれなかったか?・・・ってバカヤロウ。
キューブリック「時計じかけのオレンジ」観て、自分との近親性を妙に感じ取る。
とは言え、「ロリータ」で目覚めた位やからねぇ。
作品自体はVTRのような鮮明でハイキーの画像に極彩色のセットが織り成すエロ・グロ・ナンセンスが雄弁過ぎる分、後半の社会派ドラマが主人公の狂気を完全に奪ってしまい退屈。
幸せって何だろう?
(07.06)
「洋画を鍛えてモテモテになろう!的計画」推進中。
ヴェンダース「パリ・テキサス」。
キュンと来るのはトラヴィスが息子を学校に迎えに来て、呆気なく無視されるあのショット。それと、やがてわだかまりが解け、道を跨いで両端を並んで歩くあのショット。それだけで充分「エエ映画」の太鼓判は押せてしまう、とまた調子良くぶっこいてみる。
何処ぞの東大総長が言ってたかは忘れたが、確かに空の青、この透明感と拡がりに参ってしまった。フレーム上半分に充ちる青。・・・「3−4x、10月」?
そうそう、北野武と似ていると気付いたの。後半の「菊次郎」っぽい展開は言うまでもなく、ひたすら歩くトラヴィスを横フォローとか。
そうなるとね、澄み切った青がある分、至る所で喧嘩を売って来る赤、これがどうも眼障りに思える。冒頭被ってるトラヴィスの帽子なんかも「HANA−BI」の岸本加世子と同様のアクセントがつく筈なのに、こちらはどうもうざったい。途中のモーテルのベッドの赤とか。
いやいや、これが「最後のアメリカ映画」を主張するヴェンダースの狙いなんだろうな、と。赤と青。猥雑な赤に、突き抜けていく青。捨てた女房追いかけている時の彼の車のボンネットは青で、女房の車は見事に赤!
ただ終盤の風俗シーンで、その青と赤がこれでもかというぶつかり合いを始めてしまう、その悲痛さは物語上仕方のない事とは言え、「青く」静止した時を見事演出していたそれまでの空気とは若干馴染んでおらず、戸惑う。それを引きずってラストもう一回出て来るトラヴィス夫婦の会話もメロドラマに傾き過ぎて、少し冗長。
それより解せないのがこの作品にある「小津調」のイメージ。何処?私は寧ろ後半どんどんどぎつくなって行く赤と青に、寧ろ黒澤を感じてしまったのだけれど(だからカンヌが獲れた、と)。
これがそう、らしいんだけど・・・。
なんて書いてはいるが、「失われたアメリカ映画」としての責務と誇りは感じ取るにやぶさかではない。近年の邦画監督がしきりに小津、小津と言ってるのと同じでそう褒められたもんじゃないとは思うけど、まあ、勢いや、良し。
(07.10)
母校の学園祭。また晴れた。
・・・それ以上は面倒臭いので書かない。
そのいちー。
実家で見たゴダール「中国女」。下宿附近のレンタルビデオ屋には置いてなかったので。
居間で観てたら母親が「とにかくつまらん」。うん。つまらん。
つまらんからこそ、意義がある。これぞゴダールの驚異。
「気狂いピエロ」の時も書いたが、ゴダールの60年代はどんなに抗おうとも徹頭徹尾「映画」であり、その枷を外せなかった。いや、外さなかった。この映画も「メタ映画」である事を不自然なF.I、F.Oやカメラ、カチンコそのものでモロに見せたりと、くどい位に解り易い。「メタ映画」としての「映画」に対する拘り。
内容も徹底的に共産主義、その内的吐露。そう採ってはいけない、ゴダールに騙されてはいけないと東大総長は吹聴するが、そのデマゴーグにこそ騙されてはいけない。ゴダール程、映画に対し臆面もなく誠実であり続けた作家はいまい。彼が(インタビュー等は知らんが)映画の中で、嘘をつくなんて不実を犯す筈がない。
彼の中の共産主義が時代に従って大きな動揺を見せる、その移ろいをも彼はまたしても「解り易く」、図式化してまで観客に押し付ける。画面のあらゆる部位に塗りたくられた「赤」、勿論これが共産主義の提喩である事は言うまでもない(なんて映画マニアと思い込んでいる奴なら誰でも書ける)が、それは幾何学的デザインで統一され、少しの曖昧さもない。そこに青、そして白が介在する所に、ゴダールの多弁過ぎる程の雄弁さが証明される。赤・白・青、つまりフランス国旗、というのは歪んだイコノロジーにしても、共産主義の「赤」に対する資本主義=ブルーカラーの「青」、そしてその二者の狭間で放心する「白」、本作が持つ色の恐るべき「強さ」を裏付けるにはこれ位のホラ話が妥当ではないか。何故なら本作で優勢なのは、その赤でも青でもなく、壁の純白であるという事、私はここにゴダール的コノテーションの完成を見てしまったからだ(それって、最近色でしか映画を観てない私の偏執狂から来てるだけやん、と言われりゃハイそれまで)。
どれ程の赤を積み重ね、忌まわしき青を露悪させようとも、彼はふと一瞥した先の白壁に言葉を失う。それが彼にとっての「文化大革命」であり、「修正主義」と称された共産主義の内部告発であり、ヨーロッパが希望を枯渇して行く70年代であったというのは、想像に難くない。やがて彼は狂ったキリコフの身体を借りて、その白壁に赤青そして黄緑の純色で落描きをさせる。最後にはキリコフの自殺。
それでも科学的共産主義の革命的暴力を信じるヒロイン(名前忘れた)に大学教諭が教え諭す列車の中の一シーンになると最早色を失い、あるのは窓外の飛んだ景色と中に座る人物のシルエットのみ。実に印象的だ。
劇中「色の三原色」とか言っているだけに、黄色も出て来るが、アンリと共にさっさと放逐されてしまう。これも解り易い。
長江朗が宮崎駿とゴダールに共通項を見出したのは当然の事で、ある意味コロンブスの卵ではあるが、ゴダールの「中国女」に対する宮崎のそれは、間違いなく「紅の豚」である。「赤い」古びた飛行機に乗る自らを呪った「アナーキスト」、彼と戦うのはアメリカから「青い」飛行機で飛来した「未来の大統領」。ただその間にあったのは、空と、海の「青」であった、というのが何とも宮崎らしいと言えば宮崎らしい。そう言えば、劇場版「ナウシカ」で世界を背負った少女の服は、真紅から深い青に染まってしまった。
そのにー。
宇野功芳=SAKURAの愛のイニシエーション、もとい大阪公演聴いて来ました。
もう期待通りの抱腹絶倒、「命を賭けた遊び」の壮絶さを目の当たりにし、お腹一杯で帰って参りました。オール・ベートーヴェン・プロ。
「コリオラン序曲」:SAKURAのCDと表現はほぼ同じ。ただ全曲通して大阪センチュリーからのCb.のトラがものを言ったのか低弦が充実(舞台右の二階席で聴いていたからかも知れませんが・・・)。あのティンパ二を肉眼で確認。スゲエ!考え過ぎなのか考えてないのか、同じ音形なのに叩く度にアーティキュレーションが変わるところまでスゲェ!
「第八」:宇野ベートーヴェンでは初聴。早いテンポで爽快に行きたかったようなのですが、オケが附いて来ず。レガート歌い切れず。
そして「英雄」:GTN先生がフルトヴェングラー的ならやはり宇野先生はクナ的だと確信。ムラヴィンスキーを思わせる指揮ぶりから流れるはまるでキューブリック映画を彷彿とさせる否定弁証法的なベートーヴェン賛歌!例のティンパニストが第一楽章再現部でハードマレットに持ち替えた瞬間などはもう狂喜乱舞!宇野先生の指揮も時折シェルヘンのように神秘的な弧を宙に描く!
その直後は大体アンサンブルが崩れてたんだけど・・・。
第三楽章が平凡なのを除けば概ねよく鳴っていました。よくトチってたけど。Tp.・Hr.が比較的調子良かった(特に第一楽章)。
終演後は隣で憤激する兄ちゃんに当てつけるようにブラボーを連呼してしまいました。まあ、お祭り的ムードだったし。
しかし、こうなるとやはりGTN先生も聴きたくなりました・・・。お加減はその後如何なのでしょうか?
某クラシックマニアの掲示板へのカキコより。
映画は、ゴダールによって、初めて自分が映画である事に気付いた。
なーんつってな。
(07.17)
倉木麻衣サイドに問題があるとするなら、パクリ呼ばわり如きで目くじら立てて抗議した事であって。
まあ売上に影響しそうなら仕方のない話だけど。
一体この世界で、パクリ呼ばわりされて後ろめたさのないモノなんてあるの?
自分棚に上げてパクリ呼ばわりする厚顔無恥なヒト、まだいるの?
ああ、それにしてもまた松ちゃんか・・・。
(07.18)
<「デジモン」、あるいは惨状からの希望>
巨匠や名作どころか最早まともに作品として成立しているものさえ壊滅寸前に追い込まれ、あの「職人」佐藤順一までをも使い潰そうとしている、もう「可哀想」としか言い様のない日本アニメーション界の堕落の中から、われわれの諦めに目潰しのような光を投げつける突然変異の如き異彩の天才、細田守。
アニメーションの過去といまを、痛みをもって受け入れた者のみが持つ事を許される未来への鍵の一つは、確かに彼に手渡されたようだ。
「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」
正直言うと背景やセルのデジタル発色がよろしくなかったり(ってこれ、ビデオ化に際してフィルム通さずマスタリングした弊害?)中割の不備が目立ったり、演出も小技が効き過ぎている分衝撃は劇場版の一作目に比べるとやや少なめだったり(って、なんちゅう贅沢な不満)、と。しかしデジタル世界の綿密な描写(キャラの線にはアンチエイリアスがかかっているのに、デジタル世界内のものにはジャギが!こまけぇー!)やロングショットメインの繊細な芝居等、決してレベルダウンを意味するものではない。それに最後の戦闘におけるレンダリング時間が予想もつかない、あの敵キャラ(名前なんだっけ?)の無限増殖ショット(羨ましい・・・)は、確かにデジタルアニメの新世紀に力強い楔を打ち込んだ瞬間となったであろう(間違っても、その楔は青い6番目のナントカによるものではなかったと、いまとなっては誰でも言える)。
2コマ打ち以内で枚数を存分にかけ、生々しさを取り戻したモーションの泉は正にアニメーション的感動の極地、その真髄は政岡・瀬尾という戦前の大家達から受け継がれる筈がこれを見捨て、一時ディズニーにカブれた東映や手塚がその復活を試みては断念し、ガイナックスがジブリがそれを受け継ぎつつあったにも拘わらずいまや次第に忘れ去ろうとしている、われわれの誇らしき「伝統」なのである。
日本のアニメ業界よ、目覚めよ!寝たふりもするな!アホみたいに涎たらして「アメリカはCG一杯使っててええのうー」なんてほざくな!!
われわれは確かに、こんなにれっきとした一つの「文化」を作り上げて来たではないか!そして、その一大事業は、これからやっと実をみのらせる時に来ているんじゃないか!無知無能の輩どもに呆気なくそれをあけ渡す等、死に値する恥と思え!
太一達がデジタル世界内に入り込んじゃって奇跡が起きる、というありきたりなオチは流石に子供向け故の限界ではあるが、そのショットでまたしても見せた世界中の子供達からの応援メールの洪水!その興奮に万感の涙。
「ポケモン」劇場版も確かに悪くはないが、「デジモン」に比べれば、赤子と兵隊。つまり、倉木麻衣がヒッキーを超える事があっても良い訳。解る?解んねっか。
だから横イチの構図でいいっつってんのに!・・・オトナは判ってくれない。
<蓮實のホラは何所までおもろいか自分の眼で確かめよう!的月間>
J-L.ゴダール「女は女である」ビクトル・エリセ「ミツバチのささやき」相米慎二「お引越し」立て続けにレンタル。まあ相米は言われんでも解ってるけど。
それに先駆けF.トリュフォー「大人は判ってくれない」これも漸く初観。こりゃイイ!
流石ヒッチコックの擁護者だけあって、とまた安易なこじ付けしちゃうけど、しかしこれはもうB級に徹したヒッチコックをA級で蘇らせようとする弟子の心意気?兎に角カッティング、トリッキーなレイアウト、爽快なリズムのカメラワーク、どれを取っても「ヴィジュアリスティック」の名に相応しい。市川もヌーヴェル・ヴァーグの影響を受けたと言っているが、それはゴダールではなくて寧ろトリュフォーだったか?そんな感じ。
先にも書いたがやはりゴダールと比べて徹底して映画を「信じる」スタンスが快く、また逆にゴダールに比べ刺激に乏しいと言えば乏しい。それにしてもジャン・ピエール・レオーの素晴らしさ!ラストショットで彼が延々と歩くその様、延々とフォローの続くそのショット(カメラよくガタらないな)、ああ、やっぱり「元祖」なんだな、と納得。
(07.23)
ミューズは気紛れだ。
解ってるよ。
「ぷりてぃうぃっちーはすみっちー!的月間」続行中。 ゴダール「女は女である」。
こいつはタマゲた!恥も顧みず、傑作と言おう。
ゴダールの余りにゴダールである所が正にゴダールだというか、ゴダールの方向性が例外的にサマになっているというか、一線越えればこれ、ただのバカ映画やん、って所まで踏み込んだその思い切りの良さというか、いや私なりに定義し直した所の「バカをバカにする大バカ野郎のその大バカさ加減を大バカにしてやる」という意味合いでは、正真正銘のバカ映画、バカ映画の中バカ映画なのでありまして。
同じ斜に構えたミュージカルであるウッディ・アレンの「世界中がアイ・ラヴ・ユー」なんか、これに比べりゃ流石に手ぬるい。「ミュージカルのパロディ映画」と「これまでのミュージカルの方が実はパロディだった、と解る真性ミュージカル映画」の違い?「ぅわー!、これがミュージカルだったんやー!」って素直に感動し血湧き胸踊るこの単細胞を何とかしてくれ。
ゴダールがアメリカ映画の継承者、というのは、この映画で頷けた。しかし、「女は女である」!!ゾクゾク来るよなイイタイトル!!
もう「女は女!!」チクショー!
そうだよ!!オンナ!!御名は恩田だよ名!!ゴメン、NGね。
ヴィターリー・カネフスキー「動くな、死ね、甦れ!」
戦時中のフィルムを模したような感度の悪さに黒の滲みはスピルバーグの「シンドラーのリスト」を思い出したが、過不足なく見せてしまうスピルバーグと違って奥の闇の中で何が蠢いているか解らないそのおどろおどろしさ。そのただ事ではない禍々しさ。
うーん、素直に「観る人を選ぶ」、と言った方が良いんじゃない、センセ?いや、寧ろ「観る人に選ばせない」映画、いや、・・・なるほど、言葉に窮するこの衝撃。
取り憑かれてしまった役者陣の半狂乱の暗黒舞踏はまるでグリフィスの「散り行く花」のようだが、あちらはもう当時の演技はああいうモンだったんだとして理解する他なかったが、今回は映像の禍々しさと終戦当時のソ連極東、という設定と相俟って気を逸らす事の出来ない程のテンションを強いられ、息苦しい。
そこで繰り広げられる、少年少女の凶暴化した生命力が横溢する反抗期のドラマは「大人は判ってくれない」のような感傷を許さず、闇夜からケモノが跳びかかって来るような恐怖と驚きで身が硬直してしまう。だって少女が自分をからかう少年をぶん殴って、少年が奇麗に吹っ飛ぶんだぜ!!そんな子供映画あるかよ!?またそれをロングで見せてしまう邪悪さ。少女かなり可愛いんだけど。
それだけに、終盤少年が町を脱出して盗賊団に入り、といきなりピカレスク物に外れてしまったのは蛇足の感強し。まあこうやってストーリーよりもカットから次のカットへ切り替わるその時のスリルが!なんて喜んでる芸術肌の映画って、みんな落とし方に苦労するみたいだけど。
(07.28)
生まれて初めて点滴を打った。
今日はメシを喰えた。
信じるとは、何と難しい事だろう。
オーバーなって?まぁね。
「北の国から」。
ファーストシリーズの再放送に改めて吃驚。こりゃスゲェわ。
やはり脚本!やはり演出!やはり役者!何処にも隙ナシ!抜かりナシ!
ここまで色と、光と、人の御魂を輝かしく再現し得たドラマに、「所詮ドラマ」の烙印をぬけぬけと押せる日本の批評界は、やはり「所詮批評家」な訳であって。
自分の眼で確かめてみなさい。確かめられる「眼」があったら、ね。
それでも、ニンゲンを信じるとは、何か。
今回は逃げずに、見る。
オーバー?うるせぇ!
今月のカヲ:音と言葉と・・・。もう音も言葉も解りません・・・。
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2000年08月
(08.13)
えー御心配なく。生きて居りました。
仕事もサボりつつやって居りました。
ただ万年アダルトチルドレンな私は、どうも考え込む事が多いもので。
悟った振りは、大嫌いなもので。
フルトヴェングラー御大のあの「面食らう」指揮に、ある奏者が畏れ多くも
「どうやって入ったら良いのですか?」
と訊ねたら、御大曰く、
「もう待てない、もう待てない・・というときに、出てらっしゃい・・・」
そのものズバリ、
「オーケストラを指揮して演奏するという行為は、正にセックスのようなものだ」
とのたまったのは、バーンスタイン先生。
つまり、そういう事。
コンテ切った。
こんなコンディションでよく切れたなあ、という位テンポ良く切れた。
「アングルフラット、ロング、フィックスで!」
やっぱりこっちの方が合ってるのかなあ。
(08.15)
<「結局、めんどくさいのが好きなんでしょ?」>
やっとこさ「I.W.G.P.」と「QUIZ」コンプリート。最近撮ってあったもの観てなかったもんなあ。ライブで「フードファイト」観てたりすんだけど。
結論言って、どちらも脚本が尻つぼみで痛み分け。やっぱり「内ゲバ」。
「QUIZ」後半の本の悪さには流石に辟易(何?N村、「今更」って?)してしまい、またその露悪的嘘臭さが武器になる筈の「つんく的」演出センスが欠乏し、福澤とかいう素人がのさばって来た時点で(しかしある意味彼の個性と作品とが奇妙な化学反応を起こし、完璧なまでの不快を表現していたのは確か。日本でこれ程の演出的不快感を出し尽くせるのは「ゲートキーパーズ」と福澤だけか)、「こりゃダメだ」と観念。しかし最終回は「ANSWER」として意外とすっきり納得。「結局家族愛がテーマかよー」という思いもあるが、落とし方として妙に気持ち良かった。しかし竜雷太のつくづく余計な事!
で結局、今井夏木は降ろされたのか?使い潰されたのか?一番気になる・・・。
「I.W.G.P.」は予想通り、ストーリー展開が図式として余りに明快になって行く分、それまで築いて来た筈の「めんどくせえ」気分とその演出とに齟齬が生まれ、堤の遊戯性が一人歩きしてしまった感が強い。それでも最終回では、堤が取り敢えずこのままってのも何だから冷蔵庫に残ってるモンみんなぶち込んじゃえ!!みたいな気合が序盤から伝わり、決闘シーンでは大ナタでフィルムを切ったような荒々しいカッティングで押し切り、その捻じ伏せ具合になかなかの快感。出ていた役者も良かったんだろうね。長瀬君も。
さあ、「ケイゾク」後のドラマ界、何が出て来るかしら?
「フードファイト」?・・・かもね・・・。
いきなりトランペットを衝動買い。なんじゃこりゃ!?
(08.20-1)
夏はただ暑く、
我放心す。
週末ヒロシマ、行けるかな?
会社には「行きてー」って言ってるんだけど。
(08.20-2)
こっそり「さくや 妖怪伝」観に行く@祇園会館。
人少ねー!!期待してなかったけど。
冒頭、いきなり思う。
・・・石井輝男?
あの安っぽさ爆裂の照明!のこのこ動く着ぐるみ!あのタイトルのフォント!そして丹波先生!!
あ、なんだー、石井輝男かぁ。これで何もかも納得。出来るか!!
責任は殆ど原口智生。市川や深作やら、時代劇マインドも持っている所を見せたいのか、しかし照明も美術も(これが松竹京都?「御法度」とえらい違い・・・)、カットを切るタイミングからフレーミングに至るまで、途轍もなく中途半端。こうなるともう技術ではなく、監督としての才能の問題としか言えない。
折角塚本晋也を持って来た中盤の猫又シーンも恐ろしい程の盛り上がりのなさ!どうしてフィルターかけるとかして妖怪造形の安っぽさを誤魔化さないの!?まるで無策。
安藤希の使い方も下手。止め画にすればしっかり決まる顔立ちなんだから、ていうかそれだけでキャスティングしたんだから、どうしてあんなに沢山台詞を吐かせるの!?最低でも腹からしっかり声出せば随分と変わるものを、それすらさせない。演出のエの字も見えない。歩き方くらい練習出来なかったか?
そして御待たせ致しました!!劇中で松坂慶子が歌う挿入歌!!キャッホー!!一番やってはいけない事を・・・。
という訳でこれじゃ樋口先生の仕事も生かされない。終盤の巨大松坂シーンも樋口特撮とすれば余りに月並み。しかも今回は「ナメ」の構図を生かし切れていないから、巨大感すら出ていない(広角ショットも少なかった気が・・・)。合成バレは画面動で何とか誤魔化そうとして、でもエッジが見えてしまう。富士山の合成は流石に良かったけど。
脚本も合わせて、全てにおいて中途半端。何より、特撮マインドも時代劇マインドも、そういう「志」というものが感じられない、不愉快なフィルムだった。そんなに予算がないならちゃんとバカ映画然として開き直れば男前だったのに(「妖怪大戦争」にしたかったんだって?それでも足りないよ)、それすらしていない。ガッカリ。
河童アイリスもスベってたし・・・。
口直しにV.エリセ「ミツバチのささやき」やっと観る。
ていうかこれ、夜観ると必ず眠くなる。奇麗なシーンが穏やかに続いて、それだけかなぁ、と。しかしこの映像、記憶にへばりつく粘着力というのが物凄く、頭の中でフアーッととめどなく膨らんで行く。後から効いて来る三年殺しのような逸品。
最近ずっと意識している映像の「光と影」を手っ取り早く掴もうと思えばやっぱりレンブラントかフェルメールだろうが、エリセも同じ方向性で画を捉える。しかし私の感性とイマイチ合わないのは、そのトーンが青ではなく、赤に統一されていたからだろうか?
いずれにせよ白眉はどうあっても主役のアナ・トレント!虚空を凝視するその眼差しは「無垢」なんて生ぬるい麗句で収まる訳がなく、見てはいけない現世の真実を鷲掴みにするような不穏な凄味で圧倒する。迷った夜の森で幻のフランケンシュタインと出遭った時の、あの振り向き様の表情等は、「ポネット」なんかじゃ決して真似出来ない別格の美しさ。
そしてこの映画、闇が素晴らしい。「北の国から」もそうだったが、逆光を恐れない。夜は顔が見えなくなるギリギリまで照明を抑える。夜は暗くて当たり前なの!当たり前の事をやろうよ。みんな。
アナのように、長々と夜空を見上げたり、ヒトの心の襞の奥まで読み取ろうと、じっと、見つめ続けたりというのは、子供の特権なのだろうか?
いや、大人になってもずっとやるのって、疲れるんだよな、致命的に。
影絵なんてありきたりかも知れない。でも、解ってないと撮れない。
(08.22)
子供が子供だった頃
いつも不思議だった。
なぜ 私は私で
あなたではないの?
なぜ 私はここにいて
そこにいない?
時の始まりは いつ?
宇宙の果ては どこ?
この世の生は
ただの夢?
W.ヴェンダース「ベルリン・天使の詩」。美しい映画である。
「パリ、テキサス」より遥かに良い。
素晴らしくシンプルで、作為臭がなく、だからこそ深い。
ただ見つめる天使。
生と存在の絶望に喘ぐ人々に寄り添うも、その哀しみを共有する事も出来ず、何かしらの決断と意志をもって見守るでもなく、放心にも似た、ある意味「用意された」絶望、いや、虚無、いや、それをも超越した、言葉にし難い「何か」を胸にそっと秘め、ただ、見つめる天使。
この姿をメタレヴェルで、即ちヴェンダース自身の、映画自身に対する態度として捉え、彼を「映画に対する答えを持っていない」と嘲笑した者がいた。その浅薄さにこそ、われわれはあの天使と同じ眼差しを向けるしか他ない。あの眼差し。それは北野映画のあの眼差しであり、「もののけ姫」のアシタカのあの眼差しであり、「ミツバチのささやき」のアナの、あの眼差しと、必然的に同じ意味を持つものである。
天使を主観としたあのクレーンショット、空撮の何という哀しみ。「人間の苦しみを伝えるには、先ずカメラが苦しまねばならない」と語ったのは「ショア」のクロード・ランズマンだが、総ての意味と情感がただ、カメラワークのみによって語られているというだけで、これはただ「素晴らしい映画」としか語り様のない映画なのである。
ベルリンに漂う「いま」と、そして沈殿して山と積もった「歴史」を総覧していながら、天使は「いま」「ある」という事に、「意味」がそこに「ある」という事に、限りない無垢な憧れを掻き立てられる。無知故の憧れではない。「絶望以上」の地から「絶望」を見つめ続けた、「虚無」に立つ者の実に「純粋」な「答え」なのである(勿論、先の「答えを出してない」等とぬかした者に、この映画が見えている訳がない。きっと天使をも、生涯一度も見た事がないのだろう)。
唯一惜しむらくは、彼の得た「意味」を、男女の愛という形で無理にはっきりさせてしまった事。そんな限定の仕方をせずとも彼にとっての「いま」は充分実り多きものとなったではないか。最後一緒になるサーカス女性も喋り過ぎ。あんたが一々総括せんでも良い。
これを観て、自分がいま、ここにあるという「憶測」を、自分がまだ性懲りもなく「信じて」いるという事に気付いて、無性に泣けた。
(08.24)
吹奏楽はトランペットが総て。この夏確信する。
ただ内容的には「アニメは美少女が命」と同じなので、御間違えなく。
いいや、そんな事。
アタマ沸いてらぁ。
アホ相手は、もう疲れた。
相米慎二「お引越し」。期待程ではなかった。
何せ、ヘタすりゃこれ「普通の映画」だもん。
ワンシーン・ワンショットが身上の筈のワンショットが短い。ていうかカット多い。カメラに暗めのフィルターかけて変に日本映画し過ぎ。役者が上手過ぎ(桜田淳子は流石に良かった・・・って実生活とリンクしたとしか思えない気合。宗教に走りたくもなるわな)。どうもね、普通の映画なんだわ。ずっと。
あの「跳んだカップル」を観てしまって以来愛して止まない、ながーいショットを伸び切ったパンツのゴムみたいにぴーんと張って、その中で素人同然のアイドル役者を放り込んだ時の取り付く島のなさ、バツの悪さがそのぴーんと張ったパンツのゴム、もとい画面の絶対的長さが持つ緊張感と相俟って生まれる、不思議な位の禍々しいテンション。「高度に映画的なホームビデオ」と言った事もあるのだが、そのイライラウズウズするような緊張感がここにはまるでない。つまり、折角の「ヘタウマ」子役・田畑智子(「私の青空」!)を絡ませるには、中井貴一や桜田では荷が重すぎた、いや、軽すぎたのだ。
カメラワークもいやらしいドリーを繰り返す。TVドラマじゃあるまいし。栗田豊通の入れ知恵?彼のカメラは上品過ぎるしなぁ。
後半になって「あの」長い坂道とか「あの」オートバイとか出て来るのだが、やはりバシッと嵌まるものがない。田畑が訳も解らず走っているのも効果が薄い。ラストの田畑入水シーンなんか妙に情緒臭くなってしまって、オイこれで終わりかよ!と思っていたら、
「おめでとーございまーす!!おめでとーございまーす!!」
やっと相米節復活。
この突然ラリったかのような意味不明の台詞、あるいは行動が、クライマックスに向かって高められた情感の圧縮に作品の外界から火花の様に放たれた時、作品が映画として成立しているそのステージをも覆すような物凄い振動をもって作品が揺さぶられ、観る者の動揺が増幅しそして間髪入れず、その倍化された緊張感は何時の間にか作品の内的カタルシスへの爆発エネルギーに転化されてしまっている。あの見事なまでの反則技だけは、本作でも健在であった。田畑が両手ブンブン振り回して「おめでとーございまーす!!」と言ってる姿に比べれば、東大学長が褒めちぎってた「女の顔」なんてのは野暮野暮。いやまぁ、可愛いんだけどね。
ヒロシマ、行けそうもありません。
アニメのアニメーションたるを存分に謳歌させているその同じ空の下で、アニメの掃溜めで汚物まみれになっています。
憐れみ下さい。
(08.27)
またしてもプロとして恥ずかしい仕事が意外と早く終わって午後暇になったのでお、こりゃいけると思って佐渡ちゃんのヤングピープルコンサート@京都コンサートホールへ。
場内埋め尽くしたあどけない子猫ちゃん達に酔いしれ音楽そっちのけでそれに見とれ、溜まってんのじゃ許せ。
入り口で配られた指揮棒片手に子猫ちゃん達が佐渡ちゃんと一緒に棒振り大会!ををを、ちんたいばーん!
演奏自体は大味。ていうかどうしても曲がズタズタにカットされるのでそういう意味でも物足りない。
しかし一曲終える毎にぜいぜい言ってトークもたどたどしい佐渡ちゃん見てると、改めてバーンスタイン先生の偉大さを確認。勿論、面白かったけどね。
その後十字屋に寄ってV.エリセのDVDセットを買っちまう。
あれ?いや、「エル・スール」が観たかったので。
かつてある女友達に、俺の動脈には演出家の血が、静脈には指揮者の血が流れていてぇ、なんて話をしたら、
「じゃ、両方やればいいじゃない?それしかないわよ!」
と言われた。出来るか!
しかし、今やどちらも瘤が出来放題です。
じきに破裂するっしょ。
へっ。
(08.28)
「AUFTAKT」実に半年振りの更新です。
しかし第一回より、更に苦渋の気持ちで文字に向かってるような気が・・・。
俺は呪われてるのか??
がびーん。
(08.30)
友人サイト「Pants-aholic」 とか「imaki」 とか覗いてると、ああ、俺もう真っ当なオタクにすらなれないのかも知れないなぁと思い、一寸焦る。
映画だけは観てますが、本は読まねぇズラ。「映画狂人」くらい。きゃはは。
今月のカヲ:まぁ、ここは死んでないだろうから、いっか。何が?
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2000年09月
(09.01)
誕生日。二人の女性から祝電を貰う。フン。
免許更新の帰りに珍しく、この世で最も大嫌いなアニメ系の本と漫画を購入する。魔が差したか。
だって少年画報社の「劇場版 銀河鉄道999 設定資料集」が「劇場版 さよなら銀河鉄道999 設定資料集」と共に古本コーナーに!吃驚これが各500円!
アニメの本持って興奮したのってホーント久し振りやなぁ。
中を開くと案の定、20年前発行とは思えない程画質の良いグラビアに脚本・絵コンテは全ページ掲載!最近のアニメ誌には逆立ちしても出来ない頭の良さ。
しかし取り分けスタッフ座談会が面白かった。そのムンムンしたパッション!語っているその場の熱気がビシビシ伝わりもうアチチチ。作品から滲み出るあの噎せ返る程のエネルギーの源は、やはりここだったのだと、漸く確認する。
思った通り、りん・たろう始め当時のスタッフは、それこそ革命でも起こさんかの壮絶さでアニメーションと格闘し、それをフィルムに刻み付けて行ったのである。しかしそんな事はこの対談を読むまでもなく、フィルムを一見すれば日を見るより明らかであり、私は高校の時からこの作品におけるひとつの「奇跡」として書き続けて来た。それを漸く、この歳になって創り手自身の言葉から確認出来たというこの事実を、しかし私はどう受け止めれば良いのだろう。
有り体に言うと、私に何を確認しろというのだろう?
それは僥倖か?それとも皮肉か?
・・・考えるの止めよ。もういいや。
噂に聞こえた細川知栄子「王家の紋章」、第一巻がなかったので第二巻を買って大感激。どえりゃー事になっていた!
パッショネートな狂気なら「999」に劣るものではなく、いや寧ろヌーヴェル・ヴァーグを思わせるコマと吹き出しの洪水にただ圧倒。ロングの絵になると途端に俺のコンテの絵のようにガチャポコになってしまうのも堪らずグー!
あと「彼彼」七巻を買ったけど・・・、まあいいや、何時か読も。
人の日記を読む、という何ともいかがわしい行為が何故ネット上で流行っているのかと言えば、それは日記を読む行為が何ともいかがわしいものだからだ、という事に今更気付く。
サイバースペースにはやがておどろおどろしい生気が漲り、リアルワールドに棲む者の実存を侵食し始め・・・ってアニメだなこりゃ。
(09.03)
会社終わって扇町ミュージアムスクウェアへ。P.F.カンパニーレ「女性上位時代」。
B級映画。イタリア映画。お色気映画。面白かった。
バカ映画の勢いこそなかったが、カトリーヌ・スパークのあまりの可愛さに何もかも許す!最初はフン、ただのH映画じゃあねえぜ!とばかりヌーヴェル・ヴァーグしていたカッティングがカトリーヌの濡れ場が入るにつれ奇麗に凡庸なものとなり、終盤思い出したように「鏡割り」の換喩で知性を見せようとした演出の往生際の悪さも情けなくてOK!
明日は寝て過ごすか。
(09.04)
Y田が「♪水銀・コバルト。カドミウム・・・」と歌ってたのが引っ掛かって、坂野善光「ゴジラ対へドラ」観る。
OPからあの主題歌!ギャハハハスゲェ!底抜けにサイケな公害映画!
ヘドラのドロドロ感!気持ちわるぅー!!SEがまた良くって、跳ねっ返りのぺちゃ、がもうイライラする程、ぺちゃ、がグロテスク!
そしてゴジラとヘドラの決戦!!・・・何故大ロング?ていうかセット広ぇー!!
途中全く無意味に入るアニメーションカットも含め、してやったりの怪作。特撮マインドを失った特撮業界人は眼を皿のようにして観るべし。
(09.05)
今日も会社抜け出して女子高生観賞。・・・虚しくなってまた映画。アッシュ「パップス」@シネマアルゴ梅田。遅れて頭15分逃す。
よく観るにつけ何もかもが「・・・『スペトラ』?」。ステディカムの動きも。オチまでそう(奥山の入れ知恵?)。
そのウェルメイドな作りは確かに映画としての楽しみ易さに貢献したが、しかし少年少女の青白き暴力性のイノセンスを若干薄めたきらいはあって、ああ、もっとカメラで暴れたらいいのになぁ、って所詮ないモノねだりの贅沢か。
主役のミーシャ・バートンとキャメロン・ヴァン・ホイ(よくテンションが持ったものだ・・・)の二人の狂気だけで100分を見せ切ったというのは、役者を褒め、演出を褒め、作品を褒めるに異論なし。
ていうかミーシャでしょう!もうコンチキショウな位可愛かったので総て許す(最近こればっか)。
オンナはキレると、怖いねぇ。ギャフン。
(09.06)
皆さん御待ちかね!金田龍「ブギーポップは笑わない」(げきじょば〜ん)!
ヒャハハハハハハハハハハハ!!!!笑った俺の負け。
もうコッテコテの東映特撮調!16mmのえせヴィスタで撮ってるとしか思えないあの画面!生音なしの臨場感溢れるサウンド!ぬぼーっと薄汚ねぇ学校の屋上に突っ立ってるのが無茶苦茶な存在感のブギーポップ!クールな映像を目指そうと試行錯誤して結局「部長刑事」にしかなってない演出!
と、ここまでは絶賛?したけど、もういいや、こういうの。最近中途半端なバカ映画には辟易し出しているので。「マトリックス」以降かな?ここ10年の東映特撮はどうも身体に合わないし。
始まって5分で「これ、あと100分観るのぉ!?」と放心してしまって、実はいまも60分過ぎたところで中断しているのだが、えーこれ全部観なきゃダメ!?
ああ、せめてしっかりしたバカを見せてくれ、日本の特撮さん!!
でないとハリウッド映画に落ちぶれちゃうよ。
ニンゲンについて考え出すと放心してしまう癖、直らんものか。
キレる中高生の心境かのう。それならそれで、いいや。
(09.08)
まさか、表現に携わる者として知らない訳はないと思うが、最近どうもこれすら理解していない知恵遅れがいるとしか思えないので。
芸術に、破ってならない法則などない。 L.V.ベートーヴェン
某作品の22話を観て、余りのやるせなさに、業界全体が、という但し附きで、
「正しいアニメを求める余り、面白いアニメたる事を放棄している!」
と辺り構わず喚いてやったら、師匠が、
「偉い!その通り!」
が、その後、
「じゃあ、君がそのアニメを作る番やな!」
あくまで俺だけかい。
日本で唯一、日本のアニメを観た事のある人が編んでいる雑誌「アニメスタイル」第A号、待ってました!
早速21世紀最大のアニメーション演出家、細田守の写真附きインタビューが載ってあるのはこの雑誌であれば当然の事。今回は特に、今石先生の絶望の淵から蘇って来たかのようなハイパーヤケクソテンション漫画に圧倒的な魂の共感。
これ読んでたらアニメに希望と目標が持てる、と言ったら上司が、
「俺もそう思う!」
・・・。
(09.10)
「アニメスタイル」の続きー。
佐藤順一センセ!忙しくてキリキリ舞いだろうなと思ったら、こんな所で呑んでやがる!
そんなセンセが曰く、
「実写を作るフィルムがあるなら、アニメを作れ!」
嫌です。
ていうか、
あんたに言われたかねぇ。
唐突企画、<アニメーション映画ベスト10>!
○桃太郎 海の神兵
○くもとちゅうりっぷ
○太陽の王子 ホルスの大冒険
○銀河鉄道999(第一作)
○王立宇宙軍
○火垂るの墓
○となりのトトロ
○もののけ姫
○THE END OF EVANGELION AIR/まごごろを、君に
○デジモンアドべンチャー(第一作)
要は、日本のアニメーションを「確立した」(筈がそれが継承されなかった)政岡憲三・瀬尾光世の代表作、「東映ヌーヴェル・ヴァーグ」とでも言いたくなる高畑・宮崎の「ホルス」、そうなると後に続けざるを得ない後継者たる「999」とガイナックス、残りは存命中の上記諸氏の「その後」の作品、と、いたって変わり映えのしない当然のラインナップになってしまった。
その中で一際輝くのが勿論「最後のアニメーション監督」細田守の「デジモン」である。これこそ上に鎮座まします大家の作品に引けを取るどころか、その歴史的価値すら霧散せしめかねない程の「徒事ではない」邪悪なエネルギーを綿々と湛えているのである。その大事をいやしくも自覚出来ていない東映上層部の者は速やかに辞表を提出するように。
(09.13)
コンテ読んでスタッフの女の子達が泣いとる。
・・・そうなのか??
喜んで良いやら、トホホな気分はおセンチ。
その直後、アニメージュ2000年10月号P42-43に愕然。驚天動地。阿鼻叫喚。どうせ某映像保育園の圧力だろうけど。
あ、「季節はずれの栗スマス」載ってる。トホホー!オーマイガァーッ!古い。
そんな世迷い事は放っといて、眼の健康な者は栄養のある映像を観ましょう。
ひょんな事からフェスティバルゲートで細田守の最新?作、「銀河鉄道999 ガラスのクレア」と御対面!何故そんな所にいたかはあんた等のような愚民供には教えない。なんちて。
要は3Dで無理して創った見世物。15分で松本ドラマを見せようという方が無理。話は追いにくくしかも夢オチで興醒め。
松本キャラのモデリングは成功した方か。3D技術の前進は見られたかな?細田演出と言えば緊迫したダイアローグの中でメーテルのアップが15Fでインサートされる所とか、絶妙な間合いで聞き手の方にカメラを振ってオフ台詞にしてしまう所とか、鉄郎にトラック・アップ(3Dだから文字通りカメラが寄って行く)する際先ず鉄郎をフレーム上寄せして、それから寄りつつゆっくりパン・アップして行く所とか、それでもまぁ目立つのは部分的で天才の閃きには乏しい。
でも彼は、小品でも劇場監督でいて欲しい。シリーズ監督なんて止めた方が良い。人間腐るから。
細田物でもう一本、「ひみつのアッコちゃん」#14「チカ子の噂でワニワニ」。
こちらも緻密なレイアウトに表現主義的な色使い、1コマ打ちを多用した独特のリズムと眼を見張る所は少なくないが、トーンとしては大畑清隆やら錦織博やらの延長上にあり、あの鳥肌の立つような凍て付く触感に乏しい。才能を充分開花させるには、この業界の土壌は余りに貧困って事か。解ってるけど。
ゴダール「アルファヴィル」。「気狂いピエロ」と同じ制作年らしいがこちらはモノクロ。
やはり「気狂いピエロ」と同じく、くどい位に映画。しかしこっちは魅力に欠ける。
いかにもSF、といった装い。人工知能による不条理な秩序を強制される都市とその人工知能に「愛と詩」で対抗するスパイ。くっさー。最後アンナ・カリーナ連れて脱出!愛の逃避行!!くっさー!
こうなるともうあの読むのマジ面倒臭いナレーションが子守唄の様に響くだけ。
次回「I WISH、あるいは安倍なつみ後方支援」御楽しみに!
(09.15)
くどいようだが「AUFTAKT」の御感想・御待ち申し上げております。
「何が書きたいのか解らん」「何処を読めば良いのか解らん」の類でも結構です。
ごく一部で妙な受け方をしているのがどうも・・・。やっぱ内輪受けか?
(09.17-1)
やすみー。寝て暮らす。もう身体が持たん。
アナンド・タッカー「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」。ファンタジー過ぎる画創りは少し鼻に突くところもあったが、あの心に叩き付けられる荒ぶるチェロの響きを知る者にとってはもう涙なしには観られない逸品。
観終わって慌てて「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」さんのビデオ引っ張り出して観る。凄い。「エロスとタナトゥス」という表現が正にぴったりのこの音。
ビクトル・エリセ「エル・スール」。
素晴らしい。もう、素晴らしい。言葉を失う。ていうか自分の乏しい語彙でこの作品を汚してしまうのが辛い。
映画の「光と影」。それを知りたければこれを観るが良い。もうこれ以上の物はカラーでは撮れまい。何か諦めモードに入ってしまう程「やられた!」
今回はトーンが青、あの青が素晴らしい。漆黒の中でブルートーンに優しく包まれた少女の神々しさは他に類を見ない。つまり「魂の巨匠」ビクトル・エリセの面目躍如である。
「ミツバチのささやき」では少しくどさを感じてしまった中OLが見事に決まる。ドリーの滑らかさはスピード感を失わず、それでいて気品に溢れている。
「南」へ行ってからの展開が省略されてしまった為、オヤジとその死が不必要に「謎」となってしまった感があるが、同じエストレリャを演じたソンソレス・アラングレーンとイシアル・ボリャイン、どちらも魂の精霊として完璧無類。どっから拾って来るんだこんな子役!?
特にソンソレス。初聖杯拝受の為純白のドレスを纏って外のオヤジ(何故鉄砲を撃ってる・・・?)に見せに行こうと嬉しそうにタッタカタッタカ走る。オヤジ見つける。遠くのオヤジ銃を空にバーン!放つ。それ聴いて少女、ビクッと来る。バーン!と来てビクッ。この幼い肢体に漲らせた緊張感はどうだろう。父と娘というこの作品の主題を最も慎ましやかに、しかし最も生々しく表現し得たショットであるのは言うに及ばず、それでもこの少女の表情から溢れ出る情感にはもう驚きの声しかでない。
しかし、ウワッ、「南の島編」観たかったなぁ!!もう17年経っちゃったか・・・。
(09.17-2)
新しい批評空間とは、こんな所から始まるのかも知れない。
http://cinema.media.iis.u-tokyo.ac.jp/
(09.18)
だから巨人からも何人か代表に出せば良かったんだよ。何してんの?
小津ショック!!
・・・恥ずかしい事書くのでちと派手に。
・・・実は私、生まれてこの方26年、小津をマトモに一本も観た事がなかったのであります。告白します。
でも黒澤がコンプリートで小津が0。何かカッコイイじゃん?んな訳ねっか。
で、とうとう買ってしまった蓮實重彦「監督 小津安二郎」(ちくま文庫)を記念して、観てしまったのであります。
小津安二郎「晩春」。
ではこの熱い想いを歌に。
(OZ!OZ!)
(WOO・・・)
OZ!OZ!OH何てコイツは映画なんだ!
OZ!OZ!OH何てコイツは映画じゃないんだ!
※FLASH!俺の観て来たTHE MOVIEは所詮MU−ヴィー!(OH!GROOVY!)
YEAH!そしてこれこそTHE CINEMA!AGAIN!(FUWA FUWA)
映画じゃないのに何処までも映画!(WOW WOW)
LONELY LONELY これこそ孤高の偉大な魂!(SOUL FACTORY!)
これこそ映画史MISTERY! これぞ映画史FANTASY!
「ワタシはOZの弟子なのデース!キタカマクラは映画のような街でサイコーデース!」
みたいなどっかのドイツ人監督みたいになっちまうぜ!(YOUはSHOCK!)
OH MY OZ!(YAH!)
OH MY GREAT OZ!
(WOO・・・AH・・・)
(間奏:12分)
「(セリフ)こんなに 好きなのに つれないなぁ ナァーッ!!」
OZ!OZ!OH取り敢えずコイツは映画なんだ!
OZ!OZ!OH取り敢えずコイツは映画じゃないんだ!(マジっすか!?)
※くりかえし
SPARKIN’!!
・・・兎に角、これだけ映画足る事に逆らってこれだけ映画を濃縮出来る術を私は知らない。衝撃。
何かスゲェ。いままで考えも付かなかった手口で呆気に取られた感じ。
詳しくは「東京物語」で書きます。今日はこれにて。
ついでに観た「ラン・ローラ・ラン」はマニアの血がギトギトしていて多少の共感はあったが、ポップでキャッチーも良い所で刺激に乏しかった。アニメパート入れるなら「ゴジラ対ヘドラ」の方が数段イケてる。
(09.20)
このHPもう一周年。御声援有難う御座居ます。
さて、各方面の知己を名指しこそしないが罵りまくった「妄想ノオト」。この一年間で語った映画の数、85本で御座居ました。
TVドラマやTVアニメ・OVAも観つつこれだから、しょうがないか。語ってないのを入れてもやっぱ100本行かんよなぁ。
という訳で、かつて映画を年間1000本観たという押井守大先生は、余程仕事の嫌いなエエトコのボンボンだったようです。そんな放蕩息子の言う事など聞く耳持たん。
(09.21)
こぼれる笑顔を浮かべて、親のない少女が言いました。
「シスター、かみさまって、ほんとにいるの?」
私は、笑顔を返すのが精一杯でした。
生きて、行けますか?
高三の時から温めている企画、「聖フローレンスと夕日」、未だ形にならず。
今日長い打ち合わせを終えて家に帰り、ふと思い出す。
描きたいのはただ、信仰と絶望。
(09.24)
マラソンを撮る時は望遠レンズを使うな!
ハラハラしたやんか!!
それにしても、高橋尚子選手、おめでとー。
赤の他人だが、可愛いので許す。
あれ、何書くんだっけなぁ?
(09.25)
・・・一応。
祝・東京読売巨人軍セ・リーグ優勝
皆々様の御蔭で御座います。
・・・やっぱりドタバタしやがって。
(09.26)
小津二本目「麦秋」三本目「東京物語」立て続け。
どうしても語り尽くされた言説の中で観てしまうので、「ははぁ、なるほどねぇ」なんていう感心の域で終わってしまう感もあるが、しかし、いやいやどうして、ただならぬ物を観たという恐ろしさと不意を突かれるような鈍い衝撃が忽ち感動に変わる瞬間を、どうも未だ完全に言語化する事が出来ないでいる。難しい。
「麦秋」。「ネェ?」で形作られるミニマルなリズムの浮遊。全篇通してひたすら食べ続ける事によるドラマのダイナミズムの増幅。そして例の「アンパン食べない?」。確かにその衝撃を味わうに充分のウルトラCではあるが、ただやっぱりそんなまやかしでは「・・・で、何で原節子結婚するん?」という疑念は拭い去れず、終盤に些か冗長さを感じてしまう。
「東京物語」では流石にOZマジックに眼も慣れて来たのか、あのダイアローグのテンポやらイマジナリ−ライン無視やらに胸躍る事もなくなった。が、ドラマ重視で描くその画の中に、不意に紛れる小津には珍しい俯瞰のロングショット。勿論、熱海の海岸にポツンと座っている笠智衆と東山千栄子の老夫婦の画がそれであるが、そのハイキー気味のフレーム上部に広がる海の輝きとセンターにポツン、と居座る老夫婦の穏やかな寂寥感には心を奪われた。もう一つ同じようなシチュエーションだが、娘の家を追われて上野公園で一休みする老夫婦、その画を今度は、同じく滅多に使わないドリーで横パンする。ここぞ!とばかりにフレームが活気を帯び、冷酷さに冷え切ってしまった画面は仄かな温かみで打ち震えるのだ。涙。
ここまで統御された完璧な情感を表出し得ただけに、終盤笠智衆が原に「アンタはワシの子供達より余程優しい」と愚痴ってしまうのは格好がつかない。まぁ、言わせてしまうもの解るけど。
小津の画面には溢れる程の運動がある。これは意外と自覚されていないんじゃないかな?笠智衆が蚊を払おうと団扇でパタパタする、その中に秘められた空気の揺らめき。「足の裏」を見せて歩く人々の歩調の確かさ。
溝口健二「山椒太夫」がまた良い。
禍々しいテンションで迫り来る人間供の狂気を幽玄な映像空間で妖艶に絡め取る。突き詰めたリアリズムから来る生々しさが、俗世を超越する美しさに昇華してしまうその信じられない瞬間。OHなんてこったい!!超越論的なカメラワーク。
やっぱ小津・溝口なんだよ。みんな観ないとダメよ!
香川京子が本当に美しい。「東京物語」にも出ていたが、巨匠達に本当に愛された「真のヒロイン」は原でも高峰秀子でもなく、彼女だったのでは?と勘繰りたくもなる。
(09.28)
巨人が能天気に独走優勝を果たしたその裏で、日本代表がメダルを逃したというごく当然の事実に、われわれ野球ファンは身の縮まる程の恥と戦慄を感じなければならない。
われわれが、日本の商業エンターテインメントを、その程度のものにしてしまったのだという事実に。
それはさて置き、渡邉祐介「いい湯だな全員集合!!」は当時の日本映画の活力をベースに三流映画として堂々の振る舞い。
しかし「ババンババンバンバン」の節は妙に歯切れ良く不自然。コッチが正解なんだろうけど。
(09.29)
遅ればせながら。
故・徳間康快氏に合掌。
・・・これがまたターニング・ポイントになるのだろうか。
ロベルト・ロッセリーニ「ドイツ零年」。
・・・まるで「大人は判ってくれない」。瓜二つ。階段カットのリピートなんてもう。
暴力的に早い台詞回しに暴力的に早いパン。塗ったくったような影。騒音に近い劇伴。
これ観て思うに、ヌーヴェル・ヴァーグはつくづくガイナックスやったんやなぁ、と。パロディである事を自覚した時の絶望と開き直り。
庵野はゴダールだよ。やっぱ。ちゅう事は「ホルス」がネオリアリスモ!?
ただこの後に押井守大先生の「ケルベロス」を観てしまったのがいけない。アイタタタ。8分もすると耐えられなくてビデオを止める。
この程度で庵野をバカ呼ばわり出来るとは。勘違いとは恐ろしいものよ。
今月のカヲ?:あ、ひこーきぐも。
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2000年10月
(10.03)
で、押井の「ケルベロス 地獄の番犬」は、何とも背伸びをした「(タツノコ系)アニメ屋」のシャシンで、男が少女と千葉繁探しに行くシーンなんてもう、いやはや、学生の頃はこんなのばっか撮ってたんだろうなぁ、とだけ。
流石に押井の御家芸たる食事のシーンこそ秀逸であったとは言え、白背広の男が缶を放る時にビュン!とSEが入るだけでもう、絶句。もう少しで北野武になれたのかも知れないが、案の定、トラヴェリングに「倫理」がない。そう言う俺もないけど。きゃは。
そう言えば、アニメ(演出)業には多いね、「おいおい、そんなの学生時代に済ませとけよ!」っての。皆様も学生時代は大切にしませう。
(10.04)
結局、この世がうざったくなるにつれ、映画観る量が増えるのよねぇ。
映画は良いねぇ。何たって、始まりと終わりが、ちゃんとある。
人生ってのは、それを意識するには、余りに長過ぎるので。
ゴダール「男性・女性」。
世界の至る所で革命的戦争に邁進する同胞がいるのに、平和ボケの中でいちゃつくバカップル供め・・・!!って、そういう映画。なんて書いたらミもフタもねっか。
ミルクマン斎藤の言う通り、胸張って傑作呼ばわり出来るゴダールはやっぱりバカ映画のゴダールであって、落ち込むゴダールは観て行く内に何だか痛々しい同情に襲われて、バツの悪い思いをする訳で。俺何で映画撮ってんだろう、御前何でこの映画観てんの?なんて言われたら、そりゃ普通の人は怒るわな。そんな感じ。
とは言え、これは108分飽きずに観られた。まだ愛という形で幻想を保持し得ているからだろうか?
いや、それより面白いのは映画の至るところにある「素」の瞬間。シネマ・ヴェリテの名の下に極端に割らないリヴァース・ショット。対話の相手が不在の長回しで観ている方まで不安になって来る、そんな時恐らく台本にない質問をポーン!とぶつけるのだろう(社会主義云々の質問はそうじゃないかしら?)、その直後一瞬だけ見せる役者陣の「戸惑い」が、観ているこちらの不安と見事シンクロしてていい感じなのである。そのハッ、とする瞬間に立ち会う事こそ映画の最も映画的な僥倖である、てな事書いてゴダールの術中にまんまと嵌まっているワタスもオバカさん!
ただその分、本物のミス19歳を登場させた本物のインタヴューは何ともゴダールらしい蛇足。しかもこれが長ぇ。
しかし気になったのが五月蝿い位バンバン響いた銃声。まさか、これがヴェトナムからの叫びである!なんて言わないよねぇ・・・。
あ、そうそう、Y田、後藤真希が叫んでいるのは「あ、なんだ!」です。
こう書くと何だか哲学的な響きがするなぁ。しないか。
(10.08)
嫌な東京出張。しかし今回は奇跡的に平和裏に行った方。つっても仕上がりにそう期待は持てないけど。
その合間にシブヤへ。映画館捜して迷う。畜生シブヤの分際で。
パルコへ辿り着くと偶然「モーニング娘。展」が!!おおおおこれぞ神の御導き!!
苦笑しつつ入場。一体何展示してんのよ!ごっつぁんの目覚まし時計に、保田のCDウォークマンに、
・・・。
メッセージ帳にはちゃんと「総てはののちゃんの為に!!ヤマカン」と記す。使命は果たした。達成感。
ていうか本題はこっち。トレイ・パーカー「サウスパーク 無修正映画版」@シネ・アミューズ。
最大級の腐れポンチ映画に最大級の賛辞を。
いや、期待通りの傑作。最初のミュージカルシーンからもう既にディズニーを飲み込みにかかる。上出来のパロディはそちらが本家のような錯覚を与えるまでになるが(いや、それは錯覚でも何でもなく、文化とは本来そうやって齢を重ねるものだろうが)、これもそんな感動すらあったりする。「UNCLE FACKA」は耳に付いて離れない呪いの幻聴のような名曲!
でも作りとしては「スーパーミルクチャン」のノリなんかな?違和感バリバリの3DCGとか、BGに写真張り込んだりとか。カッコ笑ひ。しかし社会性にまで抵触せずにはいられないその毒々しいテンションはやはり御国柄か。テンポの早さも。
ただハリウッドを出し抜く構成にした分その弱点も背負ってしまったようで、中盤から後半(4つに分けたらCパート)にかけ、ギャグの衝撃度にも慣れて来てしまうタイミングにどうしても緩みが出てしまった。ここまでやっちゃえば大きなキズではないけどね。
しかし、こんなクソ下劣ファッキンコックマスターな映画を観た後に、その対極にある仕事に向かう羽目になるというのも、何か、・・・いや、俺の人生らしくて、いいや。もう。
(10.09)
「ニュー・シネマ・パラダイス」を「映画と映写技術を解ってない」と、「映画ファンをなめてるの?」と扱き下ろしたレビュー発見。
自分で確認するのも馬鹿馬鹿しいんで、本当にそうだったら具体例の情報をスタジオ枯山水まで。
夜中「YAWARA」「めぞん一刻」それぞれ再放送を観て唖然。・・・よう出来とるわ。
今更アニメ作る必要ないやん。
(10.13)
散々言い続けて、声も枯れた。
もう疲れた。言う気になれん。でも、こう言わなきゃ、自分の身が危ない。
「これでも、プロの仕事か!?」
御願いだから、プロの誇りは結果で見せて下さい。その才能があればの話だけど。
小津「秋日和」。カラーになった分セット安ぅー!!これはゴダールの如き純色の配列か?な訳ねっか。
まぁ作りはモロ「晩春」の焼き直し。少しストーリーの運びが緩慢。岡田茉莉子が杉村春子の代役を務め切れていないせいか。
ところで、壁に映る水の反映、料理屋で繰り返されるけど、あの水は何だろ?印象深い割に意味が解らん。
ブレッソン「少女ムシェット」。
ブレッソンで一番観たかった映画。どっから観ても「魂の兄弟」の映画!実際そう。
しかし重ねて思うに、ブレッソンが「役者」に「演技」させまいとする分、カメラの「演技」がくどい事!「手の戯れ」って絶賛するのは良いがこの変態臭いカメラワークの何処が「シネマトグラフ」なのか?理解に苦しむ。
まあでもそれはまた別の話で、そんなブレッソンの変態生も含めて「ロリータ」と並ぶ名作!ムシェットの一挙手一投足に到るまで情念の眼差しを注ぎ込んだそのカメラに映る生々しいモーションの泉!レイプシーンの陳腐さもそれまでの生々しいモーションの積み重ねで許しちゃう!
それにしても、美しいグレースケールだねぇ。
(10.14)
<「しゃあないやないか」が肝心>
高畑勲 讃
いやー、参った。流石!一筋縄では行かぬスルメ納豆演出!!観る度に評価が変わる高畑芸術の真骨頂!!
「ホーホケキョ となりの山田くん」。勿論今日NTVでOAの分。
あ、そっか、日テレだ。これ何人観てるんだろ。観てたら明日から会社にいられなくなると思うんだけど。あ、そっか、そんな神経すらないからいられるんだ。
学生時代に書いた「高畑勲論」が懐かしい。彼の多層的演出法は「火垂る」「おもぽろ」「ぽんぽこ」と次第に贅肉を削ぎ落とし、晦渋とも言える難解さでわれわれを魅了したが、本作ではどうだろう!その完成と言うに相応しい出来だと声高に叫ぼうではないか!「もののけ姫」と比べ物にならない散々な興行的惨敗がそれを雄弁に実証しているではないか!!
高畑程の作家が愚民供に媚び売る必要なんかねぇ!高畑はアニメの近衛。選ばれし者としての重責を果たした、ただそれだけが何とも感動的である。
しかし忘れてはならない。芸術は大衆の物に非ず。然れども芸術は絶えず大衆に語りかける。日常ドラマとしての微笑みと、アニメーション表現の生々しさを根本から問い掛ける禍々しき凄味。それは正に小津の奇跡に匹敵する、現代のわれわれに与えられた僥倖なのである。
でもホントに高畑アニメというのは、前回観て欠点と感じた所が今回観て長所に見えてしまう、そんな魔法を臆面もなく披露する。本作では終盤の「月光仮面」。劇場で観た時(忘れもしない、休日なのにガラガラの渋谷東急・・・!)高畑の社会派臭さが滲み出て辟易してしまい、寧ろアクション満載のA・Bパートに眼を奪われてしまったが、今回は全く逆。「正義のヒーロー」の妄想に入る前に見せるたかしのあの表情が語りかける(文字通り眼がテン!)情感はどうであろう!それは最早恣意的な意味付けや姑息な企図によって拘束される事のない、限りなく自由なシニフィアンとしての記号を現前させた、どうしようもなく映画的な体験なのである、なんて書けばホラ、やっぱり小津的でしょ!?
後期の高畑作品で慎ましく肥大化して行った「退廃」の気分はここで「しゃあない」と「適当」の二文字に集約され、またそれが途方に暮れる程の手間暇、財力技術力によって「力瘤の入る程」の力説となって表される。しかしそれは全共闘世代のアジテーション等とは似て非なる、この現実世界とアニメの世界、双方に誠実に向き合った者のみが実現し得る身軽さで、山田家と共に最後宙にまで舞う。こんな年の取り方って粋だなぁ。でも何で未だに共産党シンパなんだろ?あ、それでも良いのか。
こんな物を創っている人々の陰でこそこそやってるワタスなんか、もう、アニメに集ってる蝿でんなぁ。
(10.15)
♪
いち、にー、さん、しー、
ミニモニ。ィエィィエィ!
いっしゅー廻って
やっぱりィエィィエィ!
ごー、ろく、しち、はち、
150cmいーか!
ぎゅうにゅう飲んでも
リーダーは145cmー!
ミニモニ。、ちっちゃー!
ドンドコドンドコドンドコドン、ィエィ!
ドンドコドンドコドンドコドン、ィエィ!
ドンドコドンドコドンドコドン、ィエィ!
ドンドコドンドコドンドコドン、ィエィ!
ミニモニ。!!
ちびちびちびちびチビっ子3人、
みんなで一緒に小さくなろう!
わんつーすりーほー
えいごでィエィィエィ!
3人一緒にカワイくィエィィエィ!
・・・ここ数ヶ月間で唯一、胸ときめいた瞬間。
(10.17)
http://www02.so-net.ne.jp/~saitou/okasan.htm
早速妄想ノオトに掛けてみて、夜中大笑いする。
御試しあれ。
(10.18)
ゴダール「ヌーヴェルヴァーグ」。
解らん。ホンマ解らん映画やった。
それだけでこれは価値あるよ。マジ。冗談やのうて。
元来、解らない映画等殆どない。「解ってない」映画なら腐る程あるけど。ゴダールとてそれは同じで、彼程映画表現の「解り易さ」に(無意識的にかも知れないが)ムキになっている作家も珍しいとも言える。黒澤並に。
しかし驚いた。この作品にはそのゴダール特有の色気が全く失せた。こんな戸惑いは初めてである。
御蔭で観ている間睡魔の酷い事!!
ただ、段々セリフを中心に追って行くにつれ、ああ、これどうやら、総ての主語を「映画」に替えて読むべきなんだろうな、と。憶測の域を出ないが、どうもそれ臭い。映画の為の映画。映画しか語らない映画。映画のアイデンティティについて最もピュアに、最も残酷に語り得た映画。BGMのグレツキ的暗さはそんなゴダールの絶望的吐露の顕れなのかも知れない。以上こじつけ。
観終わった後「観た」という感覚すら残らないのがまた何とも、皮肉な話で。
「ラブコンプレックス」#1。天才の至芸にひたすら酔う。
澤田鎌作程の才能が安易に「堤=植田連合赤軍」の真似をやったんじゃ、「ケイゾク」以降のTVドラマシーンに錦の御旗を立てるどころか、いまのTBSのバブリーな優勢状態に対抗出来ない筈で、ああ、これじゃアカンなぁと思いつつ観ていた序盤。しかしわれらがカマサクのしれっとしたダンディズムがカットとカットの間から冷たい業火を放つのを目の当たりにすりゃ、彼がわざわざスタイルの変遷なんぞにしゃしゃり出て来る野暮なんてしねっか、と妙に納得。
彼こそモンタージュ。映像はカットとカットの間から生まれて来るという事をここまで教えてくれる作家はいない。それは変拍子をも越えて小節線自体を総て取っ払ったにも拘らず、全くリズムとしてのつっかかりを感じさせない奇跡的な音律感覚!それだけ取れば、最早市川崑すら敵うまい。
フジが人材難だって!?嘘でしょ?ちゃんといるじゃない、現代最高のTVドラマ作家が。どっかの映像保育園より余程マシ。
そう言えば「編集王」も手放しで良いとは言い難いが、充分に娯楽的なカットワーク。このクールのフジは気を吐くか?
(10.19)
最近かまびすしい程不毛な「未来日記」批判に一言。
じゃ、あんたこれよりオモロいシナリオ書いてみなさいよ。
それがプロってモンでしょ?
勿論、ワタスは書けますが。
(10.22)
そう言えば、最近コンサート行ってないなぁ。
モー娘。も逃したしなぁ。
音楽かぁ、・・・何か引き込まれつつある気がするんだけど。
日々の平安を願う心とは裏腹に、大きな渦の辺境から徐々にその中心へと位相を変えつつある自分に、恐怖と動揺を隠し切れない毎日です。
うそ。
でも、渦はやっぱり一つにしておきたいものです。なんちて。
またアクセス数減ってる。飽きられたか?
(10.27)
http://www.music.ne.jp/~classix/The%20classix
これでも(苦笑)歴としたプロのペエジ。何か方向性がウチと似ているような・・・。
D.W.グリフィス「イントレランス」。
たまげた。
これはもう、サイレントの古さを超えた。
映画の最初期独特のマスクが多用され、何とも効果的で格好良い。それは市川や庵野や澤田にまで続くヴィジュアリズムの粋。
既にアクション・カットが使用されてたのか!元祖クローズアップの力感と共に吃驚。
しかし取り分け感動的なのは勿論、取り憑かれたような人々の狂態、もといそんな狂気を孕んだアクションの数々と、これでもかと繰り出す人の山!山!山!!
盗撮事件で右往左往の先生がのたまった映画的感動になくてはならない「愚鈍」の尊さも、あの1.2kmもあるバビロンのセットを掻き分け進むクレーンショットを観ればもう痛感する他あるまい。終盤の馬供の疾走!自動車の爆走!そして渾身の力を全身から振り絞って表現に没我する人間!!そこまでせずともカメラワーク・カットワークの妙で「それらしく」見せられる様になってしまったその後の映画からは決して観る事の出来ない、これは最早映画としての「誇り」の輝きなのである。
私が観たのは最近になって再上映したというプリントで、カラー(っつってもモノトーン)化されてあったが、それがまた毒々しく生々しく、素晴らしい。更にはその後に入っていたグリフィスへのオマージュフィルム!あの美しい往年のリリアンの写真に導かれ登場した晩年のリリアン・ギッシュに思わず涙。おかしいなぁ、そんなに映画ファンやってたつもりないんだけどなぁ。細かく繋がれたグリフィスの名ショットの数々につくづく感動。
三池崇史「DEAD OR ALIVE・犯罪者」。
最近は正直、カットの多さだけでグイグイ見せて行くMTV調の割り方には食傷気味。でもこれはリズム良し、加えて映画を味わえる画をじっくり撮った長回しが意外と多い。そのバランス感覚はあるよ、このカントク。
実はこの妄想書く前までは褒めちぎろうと思っていたのだが、「ラブコンプレックス」#3を観てしまったら萎えた。やっぱり東映Vは東映Vであり、その野暮ったさは鼻に付く。
いやでも、こんな事書いては哀川翔と竹内力に申し訳が立たない。この天下の両雄を並び立たせたというだけでも、この作品の価値は全く減ずる筈がない。またどちらもこれ見よがしに画になる事(あのハイスピード!!)!その格好良さを描き切ったのも本作の偉業の一つである。
世界の磁場をも、天地の気をも操らんとするこの巨人達が一同に会すればどうなるか?そりゃ、日本位吹っ飛ばすに決まってるやろ!というのがあのラスト。ただ無上のカタルシスは得られたけど、やっぱり竹内と哀川にはこれじゃくどいし、勿体ないよ。
ダンカン・大杉漣・寺島進と「北野組」俳優が脇を固めていたのも印象的。一つのジャンルとなってるよな、もう。
最近喋る時間が増えた分、言葉の質が低下して来ているみたい。こういうのも困るにぃ。
(10.29)
時間もないのでこれだけ。
祝・東京読売巨人軍日本一
ていうか、どっちかと言うとダイエーのチームの素晴らしさばかりが目立つシリーズでした。
まぁ、いいや。
あーそうだ。NF合わせで「恋テレ」いい加減仕上げます。忙しいけど。何とか。
(10.30)
休日出勤切り上げて気になってた映画、ギャスパー・ノエ「カノン」観る@テアトル梅田。
「総てのモラルに対抗する!!」
その宣言とは裏腹に、何ともサイテーな、いやそう言ったら褒め言葉になるか、何ともさえない、イケてねー映画!!
これ程のは久々に観た。
もう冒頭からモロゴダールで、あっちゃー、庵野で、延々歩いてるのは北野かトリュフォーか(松ちゃんの「シネ坊主」・・・)、兎に角映画マニアなのは認めるが、そんなに粋がっていても「志」と才能なけりゃ何やっても無駄だよ、と。それだけ。
カメラが動く度にバカでかい銃声(「心臓の悪いヒトは見るな」ってこの事・・・)!「男性・女性」のつもり??その割に酒場の主人が握る猟銃からパン・アップした時はSE付けないでやんの。あ、日和ったな!!もう情けなくて涙出て来らぁ。
その映像そのもののさえてなさが強力なバックアップとなり、主人公のあのサイテーさは存分に引き立った。これだけ取ればあの「バッファロー66」より徹底していて(そのヴィンセント・ギャロが激賞している時点で気付くべきだったんだよなぁ・・・)、怒りと呆れを通り越して思わず圧倒されてしまった(終盤の妄想オチ!!ぎゃはははは)。
これが「ゴダールを過激にした」だってぇ!?「ゴダール+セックス・ヴァイオレンス」なら大島渚がとっくにやっているだろうに。ゴダールに憧れて「これが映画なんだぁぁぁー!!」と叫びながらあちこち適当に壊しているさえない学生映画。ただそのさえなさの徹底振りが逆にこの作品を別次元へと誘った。のか?最後白痴の少女に救済されてあの「カノン」が流れる所まで、完璧無類の素人藝術もどき映画!!
こんなのに賞をやるとは、カンヌも良い町になったねぇ。もち大うそ。
あ、冒頭の宣言、主人公のセリフなのか。
帰ってみたらNHKでバンベルク響公演。この指揮者ミッコ・フランクがまた大学生レヴェルのさえない棒!!いやーん!!
(10.31)
「CUT」が偉そうにイマジナリ−ラインの講義たれて、しかも堂々と間違ってるぞー!
ロッキングオンを焼き討ちにしろー!
これと同じミスを別の雑誌で、しかも似たような映画文法講座でやっちまってるのを見た事がある。
解るでしょ?イマジナリ−ラインは、この程度。
映画も百年を越えたのに、「映画は嘘付きである」という当たり前の事実と向き合うには、人類はまだまだ学ぶべき事が多いようで。
今月のカヲ:いやー、いい加減仕上げんとなぁ、と。
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2000年11月
(11.01)
読んで戴く方の事を考え、フォント上げました。
御客様は神様のスタジオ枯山水をどうぞ宜しく。
媚び過ぎは冒涜にしかならないという一例。
日テレ営業中。下らん。「恋テレ」編集中。
繋がらん。
何か、カンが戻って来ない。
日頃ロクでもないモノばかり創っているせいかねぇ。
だってこないだ久し振りに3年前のアレ観て、吃驚したよ。
ああ、俺、確実に腕落ちてるって。少なくともモンタージュは。
その証拠が明日、全国に流れます。御確かめを。
何か文字デカ過ぎて落ち着かない・・・。戻すか?
(11.03)
完敗です。
負けるべくして負けた。
作業中言い続けて来たけど、シドニー五輪柔道の篠原選手。
或いは、変化球全部禁じられて直球オンリーで勝負して、何とか低めギリに投げ込んだら全部ボールに見られて、苦し紛れに投げたインコース高めが甘く入ってポンポンスタンドに運ばれたような、そんな感じ。
もう試合が出来なかった。あらゆる意味で負け。
余りの情けなさに涙も出なかった。
あのね、画を観ずに音だけ聴けば、良い仕事してますよ。
皮肉ではなくマジで。
そういう作品です。
(11.08)
近くのレンタルビデオ屋がまた潰れる。
一番マニアックな店だったのに・・・。
これでTSUTAYA一軒になってしもた。
そんなにビデオって借りられないのかしら?
映画館程不景気の影響被らないと思ってたんだけど・・・。
あー、これでとうとう梅田のTSUTAYAに通うしかなくなったんやなぁ。
その店で最後に借りた侯孝賢「非情城市」。
「台湾のオヅ」と言われてるらしいけど、望遠でアイレヴェルよりやや上から撮る向きはまるで黒澤。カットの尺を伸ばし切る所はまるで北野(ロングで撮るヤクザの喧嘩も。BGMも久石臭い。あ、でもこの人の方が先か)。小津的と言えばパースを完全に殺した室内ショットと、病院の玄関に代表される縦構図位か。
しかし徹底したオフ・ショット。見せたいものの反対向きにカメラを構えているかのように、本当に語りたいものは絶対に撮らない。御蔭で前半は話の筋も追えなきゃ人物関係も解らん。しかし誰もがその眼に焼き付けるであろうあの筆談とか、ひたすらもくもく飯食ってる所をただじーっと眺めている、ただそれだけの画の向こうに、忍耐し続ける台湾史が慎ましやかに、しかし不気味に浮かび上がって来るのは何と狡猾な確信犯。これも台湾民族の魂の反映か。
本来なら大戦後の大動乱の時期を描いているにも拘らず、実際その歴史の実情をシーン中に採り入れているにも拘らず、この映画の静けさは何だろう。先の筆談でインサートされる字幕は勿論サイレント映画へのオマージュなのだろうが、同時に「聾唖」たる事を強いられた彼等の、憎しみと哀しみの果てにある静けさを表明していると感じ取るのは、いかにもなた易い憶測とは言え、否応なくわれわれ日本人の心に呼応し得る筈で。え、しない?
そう言えば中国が映画化しているという「南京大虐殺」。あれとこれ観比べて、人はどういう判断を下すのだろう?ってそんな正常な判断力をみんな備えているのなら、茶の間のブラウン管からぬけぬけと白痴化電波を垂れ流したりはしないか。偉大なる同志から眼を背ける売国奴は銃殺!と言わんばかりのあのオン・ショット。吐き気。
そろそろジブリ作品をもう一度洗い出す予定。今更ジブリは悔しいが、あの白痴がこっちに伝染しない為にも、やっとくべぇ。
(11.13)
三日続けて午前様の残業して日帰りで不毛な東京出張して今日折角の休みをジタバタして潰して明日また不毛な東京出張であります。
もう笑って下さい。うへへへへへ。死ね。
(11.14)
帰りの新幹線の中で高橋しん「最終兵器彼女」一巻を読んでボロ泣きする。
最近感動させる事の下らなさに飽き飽きしてたからかねぇ。
「いいひと。」にしたって、高橋の描く絵はどう見てもピュアである。
イノセントである。
もうしょうがないほどの無邪気さが漂う。
しかし、その中に忍び寄る驚くべきエロスとタナトゥスに、ただならぬ恐怖すら感じずにおれようか。
勿論それは世紀末的破滅願望に過ぎないのではあるが、しかし、例えばCLAMP作品の様にそこに耽溺するような「悲劇のヒロイン」的志向は皆無であり、寧ろ「アモール・ファティ(憶えたての単語・・・)」。その絶望感こそがわれわれの心的脆弱さを飛び越えて(いや、それを取り包みつつ)、真理や愛への「誠実さ」に繋がるのは言うまでもなく、その当然さを改めて気付かせてくれる作品(漫画)と、久々に出逢えた事の興奮は我を忘れてしまう程である。
少なくとも、三島由紀夫や寺山修司如きで(まさか渡辺淳一なんか出しては来ないだろうが)「人間性の根幹であるエロスとタナトゥスがぁ」なんてしたり顔で語れる恥ずかしさを前にして、まるでモーツァルトの様な笑顔で語り掛けて来る「最終兵器彼女」を胸張って推せるこの幸運に感謝したい。
「何で女子高生が戦争してるの」だってぇ?ゥワチャー、そんな、総てのSFアニメを全否定する様なツッコミはカンニンや。
(11.18)
俺、やっぱり甘いのかなぁ。
結局気遣っちゃうもんなぁ。
仕事では気遣ってません。アホらしい。
(11.19)
試しに「BOYS BE・・・」観てデカルチャー。
・・・俺恵まれてる方だよなぁ。
そうだよO本!俺恵まれた仕事してるよ!
・・・。
何がアニメか?
もう知りたくねぇよ。
(11.21)
美は、耐えるべき恐怖の始まりだ。 ゴダール(その原典の有無は不明)
「母をたずねて三千里」久々に観ていて、いやらしいアオリのカットが多いなぁ、割り妙にダサいなぁと思ったら、
「絵コンテ 富野喜幸」
にゃーん。
ゴダール「カルメンという名の女」。
80年代以降のゴダールは兎に角眠い。これも一回挫折した。
しかし二回に分けて観るという映画に対する最大の愚を犯してでも(勿論私はそんなの屁とも思わないが)この作品を傑作と呼ぼう。
映画界唯一の「走れ正直者」ゴダールがつくづく羨ましい。やはり彼程「見えて」いるものを純粋にモンタージュ出来る作家はいまい。彼は絶えず、徹頭徹尾、見えているものしか画にしないし、聞こえているものしか音にはしない。それが「ソニマージュ」。なのだろう。
それを愚民供に説明しようと必死になって逆説的に「映画的」となってしまった「パッション」や、そんなのも奇麗に諦めてヌボーとした思考停止を織り込めた「ヌーヴェルヴァーグ」とは違って、本作は敢えて(60年代の彼の如く)「映画」に再接近する事により(頻出するアクションカットとクローズ・アップ、溢れる情感が逆に何とも皮肉なあの夕景、あの空!)、「映画」と「ソニマージュ」との軋轢に戯れ、それを楽しんでいるかにさえ見える。子供の遊びの様な「銀行強盗ごっこ」に「映画ごっこ」、挙句には「セックスごっこ(自慰だもんな)」まで、作品中に散りばめられた説話論的モティーフ(ああ、こんな用語使い始めちまった・・・)はそのまま「脱構築」のプロセスを経る、と言うよりも、寧ろこの「ごっこ」への限りない愛着と痛々しさを、素直に感じるべきなのだろう。
それにしてもあのシルエット。逆光に映えるカルメンのエロい事!映画は光と影であり、そこにエロスとタナトゥスが宿る、と決り文句を並べて評論おしまい。
これを金獅子に選ぶなんて、やっぱりヴェネチアはいい街だねぇ。カンヌも見習いましょう。
(11.24)
「恋テレ」一応の完成!!
意気揚々とNFに乗り込んだらサムい反応。
・・・。
しゃあねっか、いろいろ試してる作品だから。
それにしてもやっぱり、リズム感落ちてるわ。
やっべぇ。
まぁいいや、観たものを列挙。
山内重保「デジモンアドベンチャー02」。
・・・まぁ細田の衣鉢を継ごうという心意気は感じられ、雰囲気は充分出ている。しかし技術的にはもう赤子と兵隊。どこに原画を挟んでいるかはっきり解ってしまうアクションはシリーズのクオリティの域を出ていない。ていうかこれならウチでもやれる。
哀しかったのは美術!これこそシリーズ並。空気感や描き込みの繊細さどころかパースすら怪しい。
片フレの多用ももう、これくらいしかヴィスタサイズの使い方が解らん!みたいな必死さで、もうここら辺見てるだけで勝負アリ。努力賞。
谷田部勝義「ガンドレス(劇場公開版!!!)」。
遂にあの伝説を、歴史的大事件を目撃!!
もう既に語り尽くされたこのメルクマールに重ねる言葉等要らない。ただわれわれはいまこそ、怒れるモーゼが日本アニメーション界に打ち付けた現代の十戒を痛々しき厳粛さで受け止めなければならない。
ていうか、これだけは許すなよ!!プロとして。御願いだからプロやろうぜみんな!!
プロの現実を語り掛けるヒトに限って、自分の理想主義に気付かないのは何故だろう?
ヤクザに決まってるじゃないの、こんな商売。
仁義なき戦い。
でもはよ撃たれて死にたいわ。楽やろし。
(11.25)
やっと観た「ラブコン」#5で興奮の連続。
このテのアウトロー系というのは(「ケイゾク」「IWGP」が良い例)溜め込んだアイディアを頭二、三話で一旦使い切ってしまうのが常であり(ヒラメキ勝負なんだからしょうがないんだけど)、その後は脚本でどう持ちこたえるかがキーとなる。しかしその点欽ちゃんに叩き込まれた君塚良一は本領発揮、今回も堂々たる横綱相撲(ある意味三谷以上の安定感!)である。しかしそれ以上に圧倒的なのは「リズムの権化」「モンタージュの申し子」澤田鎌作の眩いマジックの数々である。とは言うもののやはり#1に比べるとネムい画もない訳ではない。ただこれを、いつも中盤ガボーっと中だるみしてしまう堤幸彦と比べてみれば、その網膜に蓄えられた光の量は日を見るより明らかではないか。天才のタクトに検討や努力等要らない。彼がひとたび舞う毎に美しきミューズは信愛を以って微笑み掛ける。そう天才とは祝福された者。或いはカルロス・クライバー。
これ観終わって微調整した「恋テレ」チェックする。あ、これでイイんじゃん。
(11.27)
クリント・イーストウッド讃。
「スペース カウボーイ」観る@京都松竹。
感激!こんなにハリウッド映画観て興奮したのは何年振りだろう!
それはもう冒頭のショットに広がるモノクロームの空とそこに浮かぶ雲!これを目の当たりにしただけで心充たされてしまった。アメリカ映画とは空に、雲に、地平線。これ以上に一体何が必要だと言うのだ。
序盤に出て来るジェイムズ・クロムウェルとイーストウッドとのダイアローグがイマジナリーライン遵守の絵に描いたような切り返しで延々と、正に延々と続く。その瞬間、ハリウッド映画の誇りを高らかに宣誓する大作家の威風堂々たる佇まいに誰もが圧倒されるだろう。そして無邪気に戯れる光と哀愁を漂わせた官能に酔う影!もうここで映画として成功を約束されたようなものだった。
しかしそこに溢れるのはあくまで、少年が紙飛行機を折って飛ばしているような微笑ましきイノセンス。ダンディズムの結晶のような4人の男達が軽薄ではない軽快なリズムとエスプリの効いたユーモアで活き活きと描かれる。そんなジジイ達が宇宙へ投げ込まれてからがまた凄い。「アルマゲドン」如きで宇宙が描けたと思うな!と言わんばかりのパニック・ムービーに早変わりし、まるでこの主人公の様なイーストウッドの意地が見えて、またそこで十全たる結果を残す所がまたカッコ良くてこの上ない。イーストウッドこそがハリウッド映画、という意味が嫌という程解った。唯々脱帽。
因みにこの映画だけは、劇場の大スクリーンで観て下さい。そこに映画はどう映るべきなのかが、これ程解る映画はないのだから。
(11.28)
客少ねー!!こんな少ない御大のコンサート初めて!
宣伝不足だったんだろうけど。
前半プロの大栗裕は下野さんの指揮だったのですが、
求めたいのが響きの美しさなのか迫力なのかがイマイチ掴めない解釈で、
且つ大栗特有のアクセントの抉りが効いていないので、
響きがかなり濁ってしまった印象でした。
後半の御大は腕の振りもすこぶる良好、最近囁かれている
「もう指揮無視でオケが勝手に弾いてるだけじゃないの?」
という噂を跳ね除けるような強烈なドライブでした。
弦の主席もそわそわする事なくのほほんと豪快に弾き切っていて、
今日に限っては互いの信頼関係が成立していたのでは。
ただ最近の御大に目立って来た、ごり押しで固めのフォルテが
(ベートーヴェンには生きて来るのですが)ブルックナーでは裏目に出て、
特にペットの強奏はかなり浮いてしまいました。
でも弦楽合奏のピアノは(余り語られないけど、朝比奈の弦のピアノこそ絶品だと
いつも思います)十分な透明感でした。
しかしこの曲、つくづく妙ですね(笑)。
某掲示板へのカキコより。
(11.30)
「ラブコン」#7観て、何が怖かったって一番ゾッとしたのが、
「あー、いるいる、こんなオンナ」と思ってしまった自分。
んぎゃー!!あすらまたみみふぃえんせ・・・。
(11.30-2)
・・・さえない出来。
ていうかね、自分の作品がどれもこれも、刺激というものに乏しくなっている気がしてならない。
良いも悪いもない、空気みたいな感じ。若しくは道端の石コロみたいな。
・・・マズイ。これマジでヤバ。
今月のカヲ:今世紀末は、これでシメ。確実。
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2000年12月
(12.06)
仕事の参考に高畑勲「おもひでぽろぽろ」観ている。
やはりこの人、映画を知り尽くしている。リアルなんて陳腐な言葉では表せられない程、リアル。映画としてリアル。
説教臭いとかアカ臭いとか、そんな映画とは何のカンケーもない所観んで(っつっても、そこで観たって、こうも観間違いが多いんだからもう、映画は教養で見せた方が良いのかもねぇ。余計なハエがたかっちゃ作品が腐る)、映画として観て、充分映画。立派に映画。エーガエーガと口煩く騒いでいる分恐らくエーガを漢字で書いた事がないのだろうどこぞのジャパニメーションさんとは似て非なる、堂々たる映画。加えて細田守の空間造形に先んじている事に遅れ馳せながら気付いて、あ、そっか。ダメだなぁアニメ史の縦線が繋がってないや。
本作も瞬時にオヅへの意識が見て取れる筈だが、それだけにあの高めのカメラが気になる、ていうか、オヅ程の「作家性」を作品に込めようとは考えてないんじゃないかな?そう思える程彼の演出はウェルバランスで、言わば「器用」なのである。
もしかすると、その「器用」さが、彼を巨匠たらしめる際の障害になるんじゃないか?と。そんだけ。巨匠と聞くと鼻白むえせヒューマニストには関係のない話でした。
(12.08)
総てを是とする事の、何と難しい事か。
(12.10)
会社休んで資料探し・・・の筈が、副主宰しんた(今日から何故かハンドルネーム使用。気分で)氏に誘われてN谷と三人でPFFへ@神戸アートビレッジ。遠いわ!
全部観てられないので4本だけ。ハズレはなかった・・・と言うべきか、しかしインディーズの茫洋たる大海から綺羅星を発見するのがこのようなコンペの本来の役割だと思うのに、どっかの局の企画の様な小奇麗な纏まりの作品を選ぶのはどうしたものか。
その中で別格の輝きを放っていたのが餘家守「世界に告ぐ」。もう圧倒的。最初は如何にもな学生映画的ノリで「またか・・・」と思うも、徐々にセリフ間の「無音」、何でもないシーンの自然音が意図的なリズムで切れる「無音」が、ああ、後期ゴダールなんやなぁと(勿論ジャンプ・カットも)一寸感心してみたりして、ところがそこから後半への追い込み!物凄い!溢れる技巧の数々も去る事ながらその大胆な踏み込みが凄い。ショットの「断面」とこれ程の死闘を演じ、自分の「語り口」を模索していた作品は、唯一これのみ。またそれを完璧なまでのコントロールでモノにしているのだから(「第九」使用のシークエンス等は庵野や本広、はたまたキューブリックまでをもせせら笑うかの如き貫禄!!)この監督、二十歳にしてこの実力とは先が恐ろしい!余程の事がない限り将来大きく出て来る名前なのでよく憶えておく様に。それにしてもこれに賞が付かないとは、審査員は映画の何処を観ているのだろう?
別の意味で圧倒されたのは日出崎竜二「KILLER ADIOS!」。正直こんなの、広島アニメフェスタに行かずとも幾らでもあるんじゃ・・・という程のモノ。これを入選作に選んだというのは何だか微笑ましいが、PFF審査員のアニメへの「眼力」が解ってしまってガッカリ。
久保延明「9」。なかなか合わないピントとかしまらないフレーミングとかホワイトバランス悪過ぎの色とか、堤幸彦狙いのカット割とか色々不満もあるが、「IF」を思い出させる脚本で見せた。これで115分持たせたのだからまぁ良しとすべきか。でもやっぱりTVスペシャルだよなぁ。
そしてグランプリ・李相日「青〜chong〜」。タダのキタノ。(「3−4x10月」+「キッズ・リターン」)÷2以上。ていうかまんまで、小手先のテク以上のものを全く見せてくれない。その割に余計なセリフで雰囲気壊しちゃうわ、散々。この程度のキャパシティで次回作撮らせても、恐らく完成すら出来ないんじゃないの?民族間の葛藤をちゃんとモティーフにしたいのなら侯孝賢位は観ておきましょうよ。ていう俺も先月やっと観たんだけど。
んー、やっぱり、何処の世界でもそうだけど、観る方がこれじゃ、撮る方もカナワンなぁ。まぁ外野でギャーギャー言っててもしょうがないから、撮って証明するしかないか。ないのよねぇ。
(12.13)
新企画出します。
「団子と薔薇の花束(仮)」
60min. スタンダード カラー
映画監督志望の男と美少女とさえないオタク少年とのいんぐりもんぐり。詳細はホン書いてから。
言っとくけどこれPFF狙い。
(12.15)
という訳で、「恋テレ」と「You've got to give me room」をプラネットに送りました。
通ってくれると今後大分違うんだけどなー。方向的に。
雪の参考にと降旗康男「鉄道員」観る。
いきなり雪をデジタル合成で誤魔化しちょる。駄目だこりゃ(但しよく観たら1カットのみだった)。
そういや最近結構観てるなぁ。小津の「東京暮色」に溝口の「西鶴一大女」にマフバルバフの「パンと植木鉢」に、一応メモっとこ。
しかしまぁ途中で「Sトーリーランド」観ている錯覚に襲われた位のカット割の杜撰さ。そんなにガタガタ割らんでも大丈夫やのに・・・。如何にも東映チックな自然音の少なさは場の構築を妨げてるし、芝居のリズムはつっかえてしょうがないし、オイこんなんで邦画然とするなよ、と。
ただこういうの、まだ許せる自分がいた。高倉健と我等が広末御大と、山を大きく捉えたロングショットと、消失点をフレーム内に入れてややハイアングルの駅のショットと。こんだけあれば、まぁいっか。
昔からよく言う事だが、こういうベタな(ヘタとは違う。断じて違う)泣かせ物に拒絶感示す様になったら、筆折ろうというのが信条なので、ていうか、これから正にその「ヘタ」そのものに取り組まなければならねぇこのワタスに、何をそんなに偉そうな事ぬかせる資格が御座居ましょうや。へっ。ひゃっ。
堪忍して下さい。素人の御守りは沢山です。もう沢山!
今日蔦屋でビートルズが流れる。もしかしてつんく??
(12.16)
人を病んでるだビョーキだ言う前に、考えてもみなさい。
あんた、そんなに健康で良いの?
イカンイカン、またビョーキだ。
(12.17)
会社の仲間と仕事帰り北久保弘之「BLOOD THE LAST VAMPIRE」観る@テアトル梅田。わーい怖い御兄さんばっかり!!
・・・出来はデジタル以降と背景は抜群。・・・その分他のセクションかなり見劣り。
特にコンテ!新世紀も眼の前なのに何時までこんな割り方してんの??冒頭の電車は良かったんでおお、と期待したのも束の間、嘘くせーオッチャン連中が出て来て如何にもな英語喋り出したら一気に冷めた。こんなのプレステでやっとくれ。
1カットで押せば良いのにちょこまかアオリ入れたりとか、中途半端なサイズで横イチフォローで歩いてるのを何遍も何遍も、もう途中でまた「スTーリーランド」観てる気分に。おお、「ストーRーランド」はもう「ヤシガニ」に代わる新たなスタンダード。
IGって「惜しい塾」とかやってるけど、実は演出不足が深刻なんじゃないのかしら?年寄りが老骨鞭打って、それを煽り立てる若手がいなさそう。つまり「ジブリ」化。
映画終わって集まって感想話して、「あんなちゅーとはんぱな作品だけど、やっぱりちゅーとはんぱに先越されてるから、すっげー不愉快!」とか言ってたら、一人に、
「じゃあヤマモトさん、ウチもやりませうよ!!」
それが出来れば、苦労はないでヤンス・・・。
蔦屋で帯盛廸彦「高校生ブルース」とルシール・アザリロヴィック「MIMI」借りる。
前者は敬愛する高橋恵子先生15歳の熱演に超感動。後者は「カノン」並のやはりさえない出来。
という訳で、次回作は「高校生ブルース」で行きます。15歳の高橋恵子大募集。
(12.19)
超超超、
いい感じ。
超超超超
いい感じ。
良くない!!
タルコフスキー「ストーカー」、苦節ン年、やっと観切る。
あのゴダールを抜いて催眠映画度ベスト1を誇るタルコフスキー。手強過ぎる。折角寝倒す休日にしたのだからと、意を決して勝負。しかしやはり途中仕切り直しの昼寝。手強過ぎ。
しかし看破して、観方変わった。これは相当良さげ、いや、良い。
タルコフスキーの代名詞である水、あの水が全篇に湛えられていれば、それで良い。あの廃墟に湛えられた、汚物にまみれた透明な水。それは「水の記憶」と誰かが評した宮崎駿も通じる、真に猥雑な透明感。
絶望的な現世が陰鬱なモノクロトーンで、「ゾーン」に入るや偽善的に明るいカラーに変わるのも見事なパースペクティヴ。そして「部屋」を前にしての三人の旅人の選択。ああ、ホントに宮崎だなぁ。ていうか宮崎がパクッたの確実。
そして特筆すべきは、そこで嫌という程印象付けられるあの卑猥な「水」の記憶が、「ゾーン」から戻った主人公が家族と見る、余りに冷たく、白い「雪」と最高次のコントラプンクトを成すその刹那。その雪の絶望的な美しさ!
あの超スロートラヴェリングは諸刃の剣、眠気も誘うがそこに混在する不純物を剥離させて(それは決して消える訳ではない、表面に集まり漂うのだ)哀しいまでにピュアな「水(勿論飲めない)」の輝きを見るには、当然の選択だと言わざるを得ない。
あ、早く「バトル・ロワイアル」行かんと。今世紀終わっちまう。
(12.21)
「団子」ホン進まん。
構成はもう固まってるのに、内容が伴わない。ていうかつまり、
「痛々しさ」が湧いて来ない。
昔から箱書き苦手だから。
(12.25)
<深作欣二、たるが故に>
ジタバタした挙句に結局一人ぼっちのクリスマス・イヴ。このサイレント・ナイトのホーリーホワイティな荒野を深作の業火で真っ赤に染めてやるゼ!!
満を持して行った深作欣二「バトル・ロワイアル」@京極弥生座。ていうかこの大事な夜にこんな映画に集う若人供はもう如何にもなカミング・センチュリーでノガミまでテクるゼ!!!!
結論から言おう。深作だからこそ傑作であり、深作だからこそ駄作である。勿論そこに某国会議員の戯言等絡む余地すらないが。
冒頭からヴェルディのレクイエムに導かれその姿を表すBRのシンボルマーク!!その「NERF」そっくりの意匠からしてここに「エヴァ」の情状性が不気味に宿っている事を感知出来ない者はもう乗り遅れたも同然。御愁傷様。
その後の報道陣シーンで見せるジャンプ・カットで最早疑い様のない確信へ。その後ビートたけしと前田亜季の禍々しい関係を暗示するかの様な学校シーンに飛び込んで、見せた元祖手ブレカメラの興奮!!ここで涙しない屁垂れはもうこれ観なくて良い。無駄だから。
前作「おもちゃ」で見せた老熟の味わいを綺麗さっぱり吹き飛ばした、深作濃縮100%の映像世界に、しかし、無人島へ移ってから、われわれは奇妙な齟齬に苛まれる。ボロ校舎内で頻繁に見せるあの時代掛かったカット・ズーム。一斉に手足ばたつかせて慌てふためく42人のジャパン・アクション・クラブJr?の皆さん。細かいカット割りで噴出すリズムは’70年物の熟成任侠ワイン。バタ臭い「東映の夜」はまるで「宇宙からのメッセージ」を観ているかの様なレトロ・フューチャー的魅力を湛える。そう、思えばわれわれは、たけしの登場で否応なく気付かされてしまっていたのだ。この未成年という如何にも現代的なヴァイオレンスを扱おうとする深作を前にするわれわれは、既に北野映画を、そしてそれに代表される沢山の現代的ヴァイオレンス映画を、観てしまっているという事実にである。たけしのあの歪んだ顔を見る度に、「あー、これたけしが撮ってたらなぁ・・・」と溜息混じりに呟く事を、われわれは寧ろ強要されてすらいるのだ。その意味でたけしの存在は非常に皮肉で興味深い。彼はこの作品に審判を下すべく召喚されたとしか思えないではないか。
しかし深作節も全開とは言い難い。思春期のコワッパ供が見せるアクションは、どう足掻いても深作のリズムを十全に伝え切れるものではないし(栗山千秋や柴咲コウの死に様に、あー、これ志保美悦子だったらなぁ・・・とやっぱり溜息)、またしても「エヴァ」ネタの「G線上のアリア」だってあそこはどう考えてもハイスピードで撮らなきゃ締まりが悪いし(「エヴァ」関係ではあのテロップの多用。これも相当ダサい。でもみやむーは良かった)、あ、そう言えば案の定、あまのセンセの劇伴!!また山木泰人がいるって事は、「Gロボ」使ったな・・・。それは兎も角、こんなにオン気味一辺倒に被せちゃ情緒もヘッタクレもねぇやな。
それでも「老熟」や「枯れ」でないのは言うまでもなく、「倫理的」に解釈しようとする巷の呆けた評をあざけり笑う彼の強暴な邪気はいまも健在である事を強調したい。その証拠に、制服のミニスカートを履いた子猫ちゃん達が殺し合うという、一歩間違えれば完全にアクションのリズムをキャピキャピ失ってしまう危険性に対して入念に打たれた手を見逃してはならない。あのシミーズ(スコート?)が一体何の役目を果たしていようか。まさかとは思うが、その濃厚な淫靡さを見落としたアナタはもう映画観ない方が良い。無駄だから。このシミーズというギミックの入念さ!勿論モロ見えは極力抑えた上で、そろそろ深作カッティングにも馴れてしまった中盤の「少女内ゲバ」シーンでアンダースコートごとガバっと見せる!そのガバッ!振りにギョ!と嬉しい悲鳴を挙げさせた後間髪入れず、眠る前田亜季をナメるカメラ。そのスカートがこれ見よがしにはだけててガッデム!!!ここで漢・深作に何もかも預けられねぇフニャチンはやっぱり観ない方が良いって。悪い事言わんし。
総てのショットに深作的カタルシスと時代錯誤的違和感をグチャグチャに絡ませて突入するクライマックスシーンは、もうそれだけで奇跡的な名シーンとなった。あのたけしの絵は「HANA-BI」の時のそれより遥かに猥雑な雄弁さに満ちている。そしてたけしと前田との直接対決。奇跡が起こった。イマジナリーラインの形成を期待して右を向きにじり寄るたけしに対して、一方の前田は微妙な外し方で、同じ右を向いているのだ!!恐らくカメラマンが気付いたのか、何度か切り返した後で前田はカメラ眼線に修正されているが、ミスとしか言えないこのカッティングが語るものは大きい(ビートルズの言う「スタジオ・マジック」ってヤツ?まぁいいや、「それでもミスはミス!」なんて言う白痴なんていまどきいないよねぇ)。それは単に、劇中におけるたけしと前田とのすれ違いを表しているだけでは勿論なく、この作品における「大人」と「子供」、即ち深作自身と思春期の実際である「時代」との齟齬を、深作は自身の無意識で表してしまったからなのである。そこに生じる痛々しさこそが、この作品の感動を成す真の中核を担っていると、誰もが気付くであろうし、また気付かねばならない。つまり「バトル・ロワイアル」にとって某国会議員のイチャモンが如何に無力であるかは明らかである。理由は一目瞭然。「バトル・ロワイアル」は、時代に要請された訳でも、時代を扇動し得る訳でもなく、寧ろ時代との「ずれ」に痛々しさを感じる場として成立しているからである。われわれが恐怖すべきは、眼の前の臆面もない殺戮ゲームにさえ軽佻浮薄なオプティミズムを感じてしまう(換言すれば「ゲーム」を「ゲーム」だと感じてしまう)、自分自身に対してなのである。それを知ってか知らいでか、深作は最後をこの言葉で締めているではないか。
「走れ。」
映画的良心を持つ選ばれし者達は、勿論この後こう続けるに違いない。
「自由になれ!!」。カッコ笑い。
冗談ではなく、こうして「P京Gん人」に繋げてしまいたくもなるこの「走れ。」という胡散臭い一言を利用して、久々の深作ヴァイオレンスの中に無理矢理「倫理(生きる事の大切さとか、命がどうのこうのとか、そういうの)」を捏造しようとしている輩を、われわれは悉く唾棄しなければならない。かつて乱反射的な業火で映画界を焼き尽くした深作マジックが、その映画的感性を存分に残しつつも、現実の前にオプティミズムたらざるを得なくなってしまった、その敗北感を噛み締めなければならない。映画が現実に追いつかずにいるこの歯痒さ、幾ら殺しても殺し足りないかの様な倒錯した残尿感が、われわれの中に息を潜めて燻っているという事実に、戦慄しなければならない。その痛々しさを、20世紀最後の数日間で脳裏にしかと焼き付けよと、深作は脅迫する。その気分は図らずもあの「エヴァ」の「気持ち悪さ」に通低して行くのは明らかであり、よって、「バトル・ロワイアル」こそが、トミノやオシイ等の非映画人は言うに及ばず、その戦線を拡張した(悪く言えば、あやかっただけ)「踊る」「ケイゾク」さえも果たし得なかった、「エヴァ」へのリベンジをひとり達成したのだ、という事に気付くだろう。つまり、その橋渡し的な重責を担ったたけしの歪んだ顔は、映画表現の世紀末をも総括すべく、こちらを冷ややかに睨み付けているのである。
うわっ久々の長文。気合入ったな。よしサービスしちゃおう!!よいこのみんな!たけしおにいさんが、わかりやすくおしえてくれているゾ!
「そうですね、はじめは子供がキレて、だんだん大人もキレはじめて、そうなってみると大人は子供以上に残酷だったということだよね」
わかったかな?それじゃーみんな、来世紀も元気一杯殺し合いましょー!!カッコ爆。
追伸:予告篇に遂に出た!「劇デジ」。あ!この絵間違いなく山下高明!ていう事は!?
(12.30)
さえない年末のまま、さえない年越しになりそうや。
新世紀迎えても、アニメみたいな刺激的な未来像にはなってくれねぇぜ、って。
では、何の変哲もない21世紀に御合いしましょう。
この衝撃を前に、人は、どうやって映画を観続ければ良いのだろう・・・。
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2001年01月
(01.02)
<泣く事すら、してはいけないと、彼女は言い>
年始の挨拶そっちのけで、これを語らねばならない。
30日に観に行った2000年最後の映画、ラース・フォン・トリアー「ダンサー・イン・ザ・ダーク」@梅田ピカデリー。
自分のピュアさをここぞとばかりアピールしようとアンギャーと泣き喚く女供に混じってビービー泣いた後、入った喫茶店でパンフ見て、思わずニヤリとしてしまった。
トリアー自身のコメントである。
「映画を見終わって、誰かに話す時、または文章をお書きになる時、結末に触れることを、控えて頂きたいと思います」
それもその筈である。総ては、あの冒頭3分30秒の闇で終わっていたのだから。
これは勿論、「見る」事を失う映画である。そして、「歌う」事を失う映画である。
主人公セルマは、しかし、最初から「見る」事を諦めている。それは何も「見る価値のあるものなんかある?」なんていうセルマの解り易い補足説明を聞かずとも、あの冒頭の闇がちゃんと証明している。嘘だと思うなら、実際観てあの終末を確かめるが良い。誰もが、真の終末は、あの闇にあったのだという事に気付き、震撼するであろう。
その時、もう既に遅いのだ。われわれが追って来たセルマのあからさまな悲劇も、それにもらい泣きしたわれわれの偽善も、総て、あの闇に消えてしまうのだ。総てが、闇なのだ。嘘なのだ。
いや、ここで皮肉るのも野暮だ。寧ろ、その事実に気付かず映画館出てもまだハンカチで眼を押さえて「よかったー!」と叫ぶ少女達のイノセンスに、愛おしさを感じようではないか。誰も気付く必要はないではないか。われわれが感動の涙を流した代償に、この映画は死んだのだ、という事実等に。
みんな薄々解っているのだろうが、誰もそれを口には出さないであろう。それで良いのだ。映画が死んだという事等いまや当たり前ではないか。それをみんな知りつつ、それでも「映画を観たい!」という自分の身勝手な欲求に従って騙し騙し創り続けて来たものを、こうあからさまに「映画は死んだ!いや、もうとっくに死んでいる」と宣言されてはもう、セルマのあからさまなドラマに逃避して、その説話論的具体性に身を浸している方がずっと楽ではないか。
でも、やはりセルマは、まるで嫌がらせの如く映画を語り続ける。愛する息子が遺伝で盲目になるのを解っていて何故生んだ?とのジェフの質問に、
「赤ちゃんを、抱きたかったの・・・」
泣きながらこう呟くセルマに、スクリーンを挟んで正対するわれわれは、一体何を思えば良いのだろう?
手ブレの酷い(流石にやり過ぎの感)カメラが不意に止まる時、セルマの身体にリズムが生まれる。「歌」が生まれる。それは果たして、古き良き(ミュージカル)映画へのオマージュなのだろうか?ただのノスタルジィなのだろうか?勿論それがセルマの現実逃避である事は日を見るより明らかだ。しかし大胆なカッティングで描かれたこのシーンが、実はDVフォーマットを通して、「フィルム」ではなく「ビデオ」を通してわれわれの眼に晒されたのだという厳然たる事実を前に、その「歌」の変わり果てた虚構性に無邪気に身を預けるセルマを、一体どの様に見守ってあげれば良いというのか?
いや、というより寧ろ、もう御解りだろう、われわれが、果たしてセルマを「見守って」あげられる立場なのだろうか?
如何にも「同情して下さい」と振舞うセルマの瞳が、実はわれわれを「同情してあげる」為に向けられているのだという事に気付かされるのは、そう難しい話ではない。盛んに挿入されるあのミュージカルシーンが雄弁にそれを暗示している。法廷内での痛ましい尋問の際も、セルマの脳裏に、またしてもあの豊かな音の泉が押し寄せる。セルマの証言が総て嘘なのは解り切った話ではないか。それをわざわざ衆目の下へ曝け出させるという偽善。人間の精神的補完の為になくてはならなかった「嘘」を、無残にもこれ見よがしに「嘘」だ「嘘」だと糾弾し続ける醜い偽善!しかしセルマは涙すら見せない。怒りも、絶望もないその空っぽの眼差しで、自分の顔を総ての「傍観者」に見せ付けるのである。
恰も、「泣いてはいけない」「泣く必要なんて何もない」と言わんばかりに。「だって、本当に可哀想なのは、アナタだもの」
物語の終結に向かって進むのは、やはりこれ以上は控えよう。ただあの終結があったからこそ、解ってか解らいでか、カンヌは認めたのだろう。ならば、あの最後のテロップでカンヌは救われたのか?そんなイノセンスしか残っていないカンヌを想像するのは些かゾッとするが、しかしこれだけは確認しておこう。様々な偽善の誘惑に苛まれながら、それでも、「死に続ける」映画に少しでも誠実たらんとするわれわれは、やはり、この作品に感動してはならないのだ。「傑作だ!」と褒めそやしてはならないのだ。
勿論、明日も映画を観続ける為に、である。
<という訳で、2000年度ベスト5>
1 ダンサー・イン・ザ・ダーク
2 該当作品なし
3 バトル・ロワイアル
4 スペース・カウボーイ
5 サウス・パーク無修正劇場版
因みに石井輝男「地獄」は1999年度(日本公開)作品なので外しました。悪しからず。
(01.04)
明日から仕事という悲劇を前に、年末年始観たものを列挙。
○鈴木雅之「GTO」:望遠の多用と強い緑は如何にもだが、そこに田中麗奈さえ立っていれば「しょい」ファンはオールオッケー。
○森崎東「美味しんぼ」:三國と佐藤という父子対決だけでも見応え十分。あの煮豆の質感!
○小津安二郎「非常線の女」:またも出たOZマジック!フリッツ・ラング真っ青の画面の艶!田中絹代が銃を持って違和感ないこの奇跡をみんなで学ぼう。
○新藤兼人「ある映画監督の生涯」:今年最初に観た作品。・・・。自分の演出に強引に引き込み過ぎて、師・溝口への敬意が吹き飛んでいる。ここでも田中絹代は別格の気品。
○溝口健二「雨月物語」:もう語り尽くされてるからいいや。文句なし。ただあの有名な湖上シーンはセット臭く感じた。いまやこんな無謀な男も、たくましい女も許されなくなったのか。
えー、こんなもの観たって何の役にも立たない仕事ですが、それでもプロの良心を少しでもフィルムに焼き付ける様頑張ります。うそ。無駄だし。
(01.05)
流行っているっぽいので、こちらにも投票所を設置します。
飽きたら更新します。では第一回は「2000年度映画・マイベスト」
基本的に2000年劇場公開分のみとします。但し2000年公開と解っていればビデオで観たのでも可。
記憶が曖昧な場合もOKとします。
勿論インディーズOKです。これも公開年が解らなければ構いません。
http://www2.a-nets.co.jp/ivote6/vote.cgi?id=yutapyon
それじゃ、Yoチェキラッチョ!
(01.08)
さて、今日も訳あって某市のウィンドフェスティバルに行って来たのですが、
相変わらずの音符羅列式の(なんか、ある意味これミニマルだよなぁ、と思ったりも)
甘からず辛からず美味からずな演奏ばかりでしたが、気になったのが最後、
合同演奏のアンコールで出された「星条旗よ永遠なれ」でした。
そう言えばこれ吹奏楽のアンコールとしては定番なんですよね。
「オイオイ、俺達ゃいつまで星条旗拝まなきゃならんのだ・・・?」と少しゲンニャリ。
純音楽的に聴けって?そうねぇ。
だからと言って「ラデツキー」出しても一緒だしなぁ。
日本は戦後、歓喜を以って奏でるアンコール曲も失ってしまったのか、 と言えば大袈裟でしょうか?
またしても某掲示板への書き込みより。
性懲りもなくとある吹奏楽のCD買ったついでに朝比奈御大=NDRシリーズのベートーヴェン二番が中古で出てたので買う。それとクリュイタンス=パリ音楽院管のラヴェルのライヴも。
クリュイタンスの異様なテンションと濃厚さにも驚いたが、吃驚だったのが余り期待してなかった御大のベートーヴェン!!
彼を大器晩成とは誰が言った。勿論近年の呼吸の深さ(これ絶対真似出来ないよ、古今東西の指揮者の誰にも。悔しかったらやってみんしゃい)こそないものの、コンヴィチュニーを思わせる冷たい息吹を伴った堅牢さとトゥッティの推進力、大地を踏み鳴らすティンパニの巨大感はもう当時の巨匠達にだって十分太刀打ち出来る当時52歳の貫禄!彼の実力はこうして一流のオケをあてがえば一目瞭然なのだ(シカゴはあんまり好きじゃないんだけど)。あちこちのオケ振って録音もかなりあるだろうから、やがて来る天界への旅の後にはこうしたソースによる再評価(ていうかいまの評価が低過ぎ)は不可避であろう。またそれが出来ない音楽評論界には連中全員ヤマハ子供音楽教室に通わせる等の措置を採らなければなるまい。
だっていまの御大のあの棒を見てまだ「ヘタクソ」って言ってるプロがいるんだぜ。信じられる?まぁかの映像保育園の例を挙げずとも、プロの幼稚さは痛い程よう解ってるつもりだけど。
(01.11)
2001.1.11だ。すげぇ。
さて、投票所だけど・・・洋画ばっか?
しかもどこにでもありそなタイトルばっかやんかよ!
アカンこれじゃそこら辺の映画サークルと一緒になっちまう。誰か凄いの投票してくれ!
「さくや」とか「ああっめが」とか「かあどきゃぷたー2」とか「太陽の法」とか、あ、それで思い出した。
こないだの「映画ベスト5」で「デジモン」入れ忘れてた。
という訳で訂正。
<2000年度ベスト5>
1 ダンサー・イン・ザ・ダーク
2 デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!
3 バトル・ロワイアル
4 スペース・カウボーイ
5 サウス・パーク無修正劇場版
御応募待ってまーす!
仕事が大ピンチじゃ!もぉエエ俺ゃ降りるぞー!
(01.14)
あいやー。
プラネット落ちました。
ていうか応募総数210やんかよ!それじゃぁ落ちるよあんなさえないラインナップ。
まぁいいや、やっぱり30分以上の撮ろうよ。でないと送れないよ。
いやね、占い見ると今週から当分、相当低迷するらしいんだよ。
何かね、その前触れみたいで、ビビるよなぁ。ぞぞぞ。
早速仕事に追われてめっきり精力低下。それに追い討ちを掛ける様にまた難題が・・・。
ちっとも期待してませんけど。色々と。
映画評二つ。今年入ってから当たりが少ない・・・。
市川崑「細雪」。
市川組スタッフがみんな推してたからかなり期待したんだけど・・・。いや、思い切った耽美な色使いとか、御家芸のサイドからのライティングとか、不意に度肝を抜かせる天才的カッティングとか、でも何か、これだけあるのに煮え切らない。何故?小手川裕子も吉永小百合もあんなに美しいのに!?
この頃の市川としてはやはり「映画女優」が(そこでも主演した吉永同様)素晴らしい。それと本作との差は互いのエンディングを観比べてもはっきり解る。どうも東宝50周年の不自由さが祟ったのか、至る所で煮え切らない。
ただひとつ、、各女優のアップをBGT光をも使って抜いた冒頭シーンは文句なしに美しい。良く切れてるし。
アッバス・キアロスタミ「桜桃の味」。
・・・期待外れ。眠かったー。仕事帰りの身体で観ると催眠効果抜群!
こういう一切の説明(と説明的な表現文法)を排した映画ってかなり観慣れたつもりだったんだけど、これに関しては何もしっくり来ない。だったらマトモな台詞全部撮っちゃって画のみに賭けたら良いものを、後半出て来る博物館のオヤジがまた余計な事をたらたらと・・・。ラストで「これは映画についての映画だったんだよ!チャンチャン」なんて出されてもただ御寒いだけ。車のタイヤが地道を踏み締めるあの音が延々続くのだけは印象的だった。主人公の空白が強調されて。
ああ、ネガティヴな予想が頭を巡る。また凄く現実的な読みなのが尚一層痛々しくもあり。
まぁ、いいや。
(01.18)
不意に思い出す。
「スクールウォーズ」の名台詞。
「信じ、待ち、許してやる事。
それが、愛というモンや」
愛を解った気でいる総ての偽善者供に捧ぐ。
仕事大ピンチです。
(01.19)
このクソ忙しい時にカール・テホ・ドライヤー「裁かるるジャンヌ」観て気付く。
あー、やっぱり「ダンサー・イン・ザ・ダーク」これ意識してたんだ。あざとい。
トリアーってあざといよ。それは認める。フィルムに出てるもん。
ただそれが「志」ある者のシャシンになってる、というだけ。
アカン、寝る。
(01.24)
違う日の御話。
「Probe」撮影再開。
周りの白い眼完全無視で撮りまくる。
しかし難しそう、シネマ・ヴェリテ。
「ヤマモッサン、イケテるよ!」
二人のディレクターと二人のプロデューサーに囲まれて、飲んだ。
明日も仕事あんねん帰らせろ、それがアタマの中でぐるぐる。
仕事だからね、やりますよ。ええ。
癒されよう。俗世のバカ供なんか眼中に入れるに値しない。
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2001年02月
(02.01)
言い訳臭いが、言わせて下さい。
こちら、編集権は一切持っておりませんので。
これだけ身を削って良い画創ったのに、・・・もう気力が持たんよ。
疲れが全身襲って来た。もういいや。
あのアフレコラッシュ観てた人達だけは、このOA観て、出来損ない何名かを除いて気持ちが一つだった筈。そうでない人は、御願いだからプロを騙らないで下さい。後生だから。
もういいや。さぁて「スペースヴィーナス」やろっと。
あ、あとこれだけは言わせてよ。
解らんねやったら、触らなええやん!!
(02.01-2)
映画また二つ。忙しいけど素人にならない為にも観る。
○ダグラス・サーク「誘拐魔」:ウワー、ハリウッドだ!ギミックの洗練度はヒッチコック以上!影の使い方は最上のフィルム・ノワール!面白ぇ!ハリウッド映画ってイケテるじゃん!!
○アッバス・キアロスタミ「オリーブの林をぬけて」:嫌いじゃないけどこの監督、波長が合わない。シンプルに撮るという事が如何にいかがわしいかを教えてくれる。しょっちゅう出る「車」のモティーフがイマイチピンと来ない。冒頭は良く切れてるのになぁ。
(02.03)
・・・やっぱり気持ちは一つだった。
ってこんなにみんな老若男女問わず会社を越えてヒートアップしてるのも珍しいねぇ。だって眼ぇつぶっててもバットに当てられるタマ投げたんだから。
前にド真ん中しか投げさせてくれなくてメッタ打ちに遭ったと書いたが、今回は下手投げでハイ坊やー、いくよー!と投げたタマを豪快に空振りされた気分。
「もう俺コケちゃったっつーの!」とは某御偉いさんの言葉。
・・・そりゃコケるしか。
プロなら、ケジメつけなさいよ。次空振りしたら実名出すぞ。プロだし。カッコばく。
(02.08)
<至福の時代>
自信を持って断言するが、今年最大の音楽的な事件は、何といってもミニモニ。の登場である。ミニモニ。の「ミニモニ。ジャンケンぴょん!」を聴き損なった人には、しばらくアイドルという言葉を口にするのを控えてもらうしかなかろう。間違っても、自分はアイドルが好きだなどとつぶやかないでほしい。
もっとも、自信ほど無責任なものもまたないのだから、これはさしたる根拠もない身勝手な断言だといってよい。とはいえ、無根拠な断言へと人を駆り立てるアイドルなんて、そうたくさんあるものではない。よりによって、金を払ってまでおばさん声優の淫声を聴きに行く連中など単なる馬鹿だと断言するのは、充分に根拠のあることだからである。(中略)
「ミニモニ。ジャンケンぴょん!」は、それなりに備わっているかもしれない優れた楽曲であるための条件をあれこれ拾い上げ、だから聴かなければならないと断言することへの意志を、、まるっきり期待していない。ミニモニ。は、ただ、聴くか、聴かないか、というせっぱつまった選択をわれわれにつきつけているだけなのだ。 (重實蓮彦「アイドル狂人日記」より)
映画、また二本。
篠田正浩「少年時代」。次の仕事の参考・・・にならず。
如何にもな、往年の松竹ヌーヴァル・ヴァーグの威を借る狐が「巨匠」への色気も見え見えに撮った(かつての宮川一夫の重用からしてもう見え見えなのだが)、そんないやらしさが濃厚に漂う愚作。とは言えこの人完璧な馬鹿ではないから、ナンダカンダ言って最後まで観られた。
しかしながら無意味に緊張感を漂わせるフレーミングと素朴な情感を一切拒絶するカッティングは何なんだろう?熊井啓や新藤兼人の様な「映画嫌い」が撮ってる訳ではなかろうに、例えば縦構図の消失点の置き方一つ取っても、映画を馬鹿にした様な鼻持ちならない気分が立ち込めて、だったら撮らなきゃええやん!バックにそびえていた筈の折角の立山連邦が殆ど飛び気味である所にもやる気のなさが爆裂。同じくヌーヴェル・ヴァーグを背負って立ち、絶えず反抗の映画人生を歩んで来た大島渚が、「御法度」で図らずも日本映画の近衛となってしまったのとは全く対照的で、一体何やってるの?
アレクサンドル・ソクーロフ「マリア」
今度の新作の参考にさせて貰った。枯山水の方よ。
最近スタッフのレイアウト能力のなさ云々で激論しているのと反比例するかの様に、「フレーム」の拘束というものに無闇なうざったさを感じている毎日だが、だからこそ急に「Probe」撮りたくなったのかもしれないな。何かもう「演出の映画」は当分いいや、という気分が蔓延。今度のもみんなに任せよっと。
この「撮影の映画」からは、「映像詩人」という評価こそ見て取れなかったものの、対象への誠実さ、「まずカメラが苦しめ」とのランズマンの言葉に通底する、眼前に立ち現れる世界に対するカメラのなす術もない驚きというか戸惑いというか、「フレームの外に世界が広がる」事への忘我的感動は少なからず感じられた。
ただどうだろう、尺は40分という短さで良かっただろうか?無限に膨張し行く世界を焼き付けるのに、その程度のフィート数のフィルムしか要らなかったのだろうか、と思うと、疑問は残る。
(02.13)
すっかりニセ予言家ヂィーニアス・サワキを信じてしまっている私だが、また当たるぞこれは。
ていうか、もう当たってるぞこれは。
細木数子的に言うと、今年は健弱とか。うぇへへへへ。好きにしろ。自分の人生になんかもう興味ない。
「あうふたくと」ぉ?続きは頭の中にあるわい。今はその「裏付け中」。
(02.16)
森総理を見る度に、どうしてもあの三谷のドラマ「総理と呼ばないで」の田村正和を想起せずにはいられない。
彼も去り際には、何か大きな事をしてくれそうで。いや、やってくれるよ!・・・そう思って気を和ます。
そんなおもしろカッコいいブロークンな気分で観た沖浦啓之「人狼」。やっとDVDで。
・・・期待を裏切らなかった!あのフトモモ!フトモモ!!フトモモ!!!狼供に陵辱され血塗れになった雨宮の股間とフトモモ!!妙なローアングルだなぁと思ったら雨宮がカメラ手前にタタタッと走って来る時に奇麗に胴が見切れて露になるタワワに実ったフトモモ!!
それ以外は期待外れ。折角押井の演出じゃなかったのに・・・。
何より演出面は言うに及ばず、作画面でも感心しなかった。21世紀に入ってあんな時代掛かった詰めの中割りはもういいよ。リズムを作っているぞ!というアピールだけで、例えば「旧マクロス」に代表される80年代のモーションが如何にダサいかを後の世が痛感した様に、これも結局は90年代のモード。そろそろI.Gでもなかろう、という予感がプンプン。
それにあの白い息!あの蝋燭の煙!あんな無神経な作画は信じられない。あのカット位ウチでやってあげられなかったものか。
演出面は確かに望遠カットの多用に感心した反面、画的なバランスを取ろうという色気見え見えの広角カットにゲンニャリ。押井組の御役所仕事の様な不快感。そして「画が持たないもんしょうがないやん!」という言い訳と共にこれまた多用されるT.U、T.B、PANの羅列。そんなに自分の絵をFIXで見せる自信がないのだろうか?あの溶明・溶暗は意味解ってて使ってるの?
あー、こんな映画位早く凌駕せんとなぁ。でも雨宮は良かったよ。・・・これだけ観てれば評価に値するか?
(02.20)
「あうふたくと」そろそろ再開するかぁ。
モティベーションが出て来たね。フツフツと湧いて来た。
(02.21)
また出た総長本「帰ってきた映画狂人(何ちゅうタイトル・・・)」。悔しいがワクワクして読んでいる。最近映画観られてないので尚更。
97年の映画評で「もののけ姫」を無視している所等は相変わらず呆れと軽蔑感を覚えるが、「HANA−BI」を「止まる映画」と言われた瞬間あ、やられた!と頭を抱えてしまった。彼の評は映画を見抜いているというより、それに感動したりつまんねー!と思ったりするわれわれの心をこそ見透かしているという感じがあって、そこが不気味で、気持ち良い。
しかし過去の「映画狂人」シリーズに比べて、本書の方が読み易いのではないか?過去のは諦めにも似た極端な独断が目立って痛々しかったが、本書はインタヴュー形式というのもあってか、非常に素直に、無邪気に、観たままを語っているようで、だからこその凄みがある。淀長亡き今、この凄みが出せる評論家は、この総長と浜村淳しかいなくなってしまったなぁ。カッコ笑い。
気になるのが東大定年後一本撮る、とかいう嘯き。どうせならやはり「シベリア超特急」くらい撮ってくれないと。面目立たないよ。
(02.24)
<どうせ巷のオナゴ供は「昨日『ラピュタ』観たぁ?」「うん、観た観た!良かったねぇ!」なんて話になるんだろうな。けっ。へっ。>
こちとら、観てる回数も思い入れも因縁も格段に違うんだよ!ひゃっ!
ていうかとっとと「千と千尋」のスポット打ちやがれ日テレ!!まだレイアウトチェックも終わってないんだろうけど。え!間に合うの!?
・・・そんなこんなで宮崎御大。忌まわしき「天空の城ラピュタ」。60ン回目の筈。大学入ってから数えてないから忘れた。
絶対ボロ見えるだろうなぁと思ってたら案の定、見えた見えた!目立った色パカはなかったにせよ(流石保田女史・・・)、特効関係、ブラシのパカは酷いねぇ。タッチブラシもかなり粗い。それにBOOK引き等の撮影ガタもかなり。まぁ撮影は外出ししてた時期だからなぁ。やっぱり撮影まで自前でやった方が良いと、そういう事。
ではなく、そんな事はいいや。演出上眼に付いたのは意外と多かったT.UストップとT.Bストップ。「ウルはラピュタ語で王、トエルは誠。君は正当なる王位継承者、リュシータ王女だ」とムスカに言われた次のショット、驚きのシータの密着T.Bはずっと印象に残っていた実に良いカメラワークだった筈が、ここでもストップが(しかもフェアリングなし)!勿論本作は見紛う事無き「古き佳き漫画映画」なのだから、ちょこまかカメラが動く事にそう鼻白みたくはないのだが、止めでも充分持つ画なのにわざわざぐぐーっと、それも40フレーム位まで一気に寄ってぴたっ!と止まってしまうのには流石に、ああ、アニメだねぇ、と。
それにセル面積の大きさ。火や炎は解るが、家の中のシーンでキャラの一切絡まない家財道具さえもがセルだとは。かつて師匠に「これBGとセル、どっちでやればいいですか?」と訊いて「大体セルの方が奇麗に出るよ」と答えられたのを思い出した。んー、時代の差なのか。
え?どうせ妬みから来た嫌味だって?そうさ。ああそうさ。今回も涙堪える事数回。驚きに呆然とする事数回。
ティディス要塞に囚われの身となったシータをドーラ一味がフラップターで救出する、あの「宮崎アニメ」御家芸の白眉のシーン。一コマ打ちで迫り来る背景動画の生命感にただ涙。縦構図にキャラを走らせる時2、3歩でダダダッと一気に奥まで行ってしまう宮崎のデフォルメ、「風を切らないと気が済まない」と言われたその驚異のアニメート技術にはもう、ただ頭を垂れるしかない。われわれは未だ、この「ラピュタ」の世界に吹く風を全く再現出来ずにいるのだ。あのシータのお下げ!あのお下げが揺らめくには相当の突風でなければならない筈を、実際は何と、慈愛に満ちたそよ風がそこに戯れているではないか!嗚呼、神はこれをこそ「アニメーション」と名付けられたに相違ない。イマジネーションの余りの差に改めて打ちひしがれ、放心する。でもね、だって、言い訳じゃないが、いまの状況では何しろ飛べない!飛ばせてくれない!アニメでこれをやらなきゃ死んでも死に切れないと決めて掛かっていた、茫洋たる雲海を悠然と飛翔するあのイメージに近づくどころか、最近は雲を引く事さえ億劫になっている始末。初心は何処へ行ったか。
いや、そんな事さえどうでも良い。これを観て「このアニメを観よ!!」と叫べないメクラはとっとと自分の眼をくり抜くか死んで貰うしかないと本気で思ってしまう、パズーのシータ救出の、あの瞬間。パズーの腕一杯に抱かれる事への信頼と喜びを命に代えてでも証明するが如く飛び降りるシータと、それに全身で応えるべく疾風となって右IN-OUTの末シータを包み込むパズーの、この生々しきエロスに、アニメーションでしかその恩恵が得られない最高次の奇跡が神から与え給われた事を、われわれはどうにも否定する事が出来ないのだ。宮崎駿が、アニメーションに「祝福された」存在である事は最早疑いない。アニメを愛しているだけの馬鹿は巷に駆除しなくてはならない程湧いているが、この際みんなして、彼がアニメに「愛され」ている存在である事を嫉妬しようではないか。
いやしかし、そんなオカルトチックな妄言で宮崎を祭り上げずとも、彼の演出は、B級冒険活劇を十全に仕上げるだけの卓越したものであるという事を改めて認めなければならない。これだけでもただ驚異であるという事は、その技術をいまのハリウッド監督は誰も持ち得ていない、という事実を鑑みれば一目瞭然だろう。次に来るべきショットを確実に嵌める。いま見せるべきものをちゃんと見せ、見せるべきでないものを見せない。何度も書くが、あの映像保育園はどうしてこんな身近にある教科書から学ぼうとしないのか。多分観る余裕すらなく何処かで飲んでるんだろうけど。
取り分け素晴らしいのは、ロングの画の使い方だ。本当に憎い所で、ここぞとばかりその天才的レイアウトを駆使して息を飲む程の映画的緊張を画面に漲らせる。だがこれを称えるには、高畑勲の存在をも念頭に入れるべきだろう。「高畑の演出を知らなければ、宮崎アニメに上下パースが垂直であるショットはなかったであろう」というのが私の持論のひとつだが、このロングの充溢さもまた然りである。
この様な漫画映画は、使い古されたジャンルとは言え、いつの時代でも必ず誰かはその任を負い、再生産しなければならない。そう考え続けていた。それをまんまと怠った日本のアニメ(「ふしぎの海のナディア」以降、実に10年経過!)がこれ程までの惨状を呈しているのは、やはり当然の事なのである。
ていうか、御前がやれって?解ってるよ!でも仕事も手に着かずジブリ作品のロマンアルバム見ては溜息付いてるいまはどうしようもねぇんだよ!!いつも通り愚痴っておしまい。
(02.25)
あ、そうそう、広告掲載依頼が来たので。インデックスに載せました。
ていうかこれマジであてにしているので、私のクリエイターとしての必要最低限の生活を支えて下さらんとする方は、どうぞ押して下さい。御願い致します。
つっても短時間に何回押しても駄目よ。
(02.26)
<帰りの歩きがどうしてもたけしの真似になっちゃうんだよなぁ。道行く人はみんなヤクザに見えるし。>
・・・心に空洞が。
その最中、もう映画観るチャンス当分ないかも、と思って無理して行った北野武「BROTHER」@梅田ピカデリー。
こんなに疲れてるのに、夢中になって観た。ああ、至福の映画体験。でも結論から言うと、・・・ラスト3カットは余計か?
いやはや、これも無防備というか、「菊次郎」でも思ったが、北野はヴェネチアの獅子となって以降、何だか映画をますますオモチャ扱いしているというか、あ、これしっぱーい!イヒイヒ!と無邪気に笑ってる北野がスクリーンの向こうから見え隠れするようで、ムカつく!しかしもう、彼は何を撮っても映画になってしまうのであって、尚更ムカつく!
冒頭2ショット目に傾斜フレーム。それがカメラ回転で水平構図に・・・??意味が解らん(後でも同じ事カット・ズームでやってるんだけど・・・)。
それも含めて要らんカメラワークが多い。ハリウッドへの媚びか?あー、FIXにしてよー。いつもなら止めてるのにぃ!
それに加えてアメリカの描写がこれでもかという程アメリカに見えない。パース潰してるせいかな?ああ、色もあるんだな(ただ全篇を通せばキタノ・ブルーが影を潜めた分、黒が出たねぇ。艶が最高!)。
それが日本での回想に入って、御馴染みの寺島進やら大杉漣やらがフレームに入って来ると嘘の様!俄然画が締まる。クラブに潜伏したヒットマンをたけしが一撃するあのカット割りには狂喜乱舞!ああ、もうこれだけでも来た甲斐あるってものでさぁ。
とにかくカッコイイ!ジャパニーズ・ヤクザ!!体臭ムンムンムレムレの男、男!!大島渚のやおい系おタンビ路線ではなく、これは男が掘れて、いや惚れてしまうフェロモン。
そのたけしがバストで抜かれた瞬間、背景は壁の色一色のみとなる。そうだよ、これで充分じゃないか!遠近感だ何だと言って映像を貧しくしている哀れな方々、どうぞこれ観て勉強して下さい。どうせ「実写だからこれが出来るんだ!」って言い訳するに違いないんだけど。
後半になって大杉が逆上して腹掻っ捌くショットで、漸く解った。だってハラワタ出てるんだぜ!?この嘘臭さは意図的に、「ぎゃははは、腸見えてるよ腸!」と面白がってやってるに違いないのだ。それはその前の、黒人指詰めシーンを観ても明らかだ。かつて「ソナチネ(あれ、「3−4×」だっけ?)」で渡嘉敷が指詰めした時、全然ドスが通らなくて重しをドスの上からガンガンやってた、あの見るからに痛そうなリアリティはここにはなく、ただ作り物の指がぐにゃ、と。このぐにゃ、を観てうひひひ、ぐにゃ、だってよ!といやらしく笑ってる北野を想像するにつけ、あー、クソッ、馬鹿にしやがって!
あと「日本人は如何にカッコイイか」を世界に知らしめるには、余りに八百長試合。白人にもっと良い役者使わないと、日米対決にはならないでしょう。予算の都合かも知れないが、でもチョイ役で渡哲也まで使っている日本側の入れ込み方とは対照的に、さえない白人供!これじゃミもフタもないオリエンタリズムだと言われて文句は言えまい(でも白人これ観てどう思うのかな?)。
という訳で、今回も隙だらけなんだけど、寧ろ撮ってる本人がその隙を楽しんでいるような(でないとあのラストは、ジョージ・ロイ・ヒル風にしか出来ないもんねぇ。)、そんな小憎らしいフィルムでした。それなのにこんなに充実感を得てしまう私も大概おバカさんなのだが、けれどそれでもここまでの仕上がりにしてしまう北野の腕の確かさに、いまは苦虫噛むしかないんだろうなぁ。次は恋愛モノでしょ?カンヌ狙うなんて小賢しい真似はやめて、いい加減刺々しい情欲をぶつけて欲しいのだが。まぁ、そんなのオイラの知ったこっちゃねぇよ!と言われればそれまでなのだが。
今月の一枚:ここまでの才能とは言わん。普通に映画が解っているヒトと、いい加減仕事がしたい・・・。
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2001年03月
(03.01)
<帰りの足取りが速い速い。周りの景色のPANスピードも速い速い!>
映画が俺を呼んだんだ。仕事切り上げて吸い寄せられる様に行ったゴダール「はなればなれに」@テアトル梅田。
「ゴダールの最高!」とかいう総長の吹聴もあったが、ぴあ見て「ああ、遂にやるんだ」と思った瞬間胸騒ぎが止まらない。勿論こういうオカルトチックな瞬間を生きられるというのが「塗り固められた嘘の奇跡」である映画の醍醐味に他ならないのだが。
果たしてその予感的中!凄い!嗚呼、あ、オイオイ、イヤーン、最高!はむっ!サイコー!アンナ・カリーナがもう、ぷりり〜ん。いやぁ、股間がムズムズするよね!撮ってたゴダールの股間のムズムズが画面一杯に充満!至高の追体験!どぴゅー。
どうせこの傑作に幾ら言葉を連ねても、せいぜいパンフの天沢退二郎程度の文章にしかならないんだから。いいんだよ、それで。映画を語るには映画という「言語」を使う以外にないんだから。そんなミもフタもないヤケクソを口走っちゃうよ。いんだもん。いいんだもぉぉん。
兎に角観なさい。ていうか観ろ。観なけりゃ死ね。女とちちくり合ってる暇なんかあったら、そいつの口に脱脂綿詰め込んでミゾオチに一発かまして、いますぐテアトル梅田へ引きずり込め。終演後「ゴダールってよくわかんなーい」とかホザこうものならとっとと大阪南港へ沈めてしまへ。全存在を全力で否定しろ。
ホントにアンナがカワイイです!まぁ観てみなはれ。彼女に比べればナタリーもミーシャも向日葵の前の月見草でさぁ。でもしょうがない、結局ゴダール以上の「魂の巨匠」に撮られていない、という事だ。嗚呼、いまの彼のギャランドゥをズキズキさせる美少女が何処かにいないものか!このページを見た貴方は発見次第スイスのゴダール宅まで連行するように。おっと、こうはしてられん。あのマディソン・ダンス憶える為に通わなきゃ!
因みにこれで、漸くゴダール10本目と相成りました。そこでその10本でのゴダール・ベスト10!(タイトル右は妄想ノオト他での筆者の評)
1.はなればなれに…股間がムズムズするよね!
2.女は女である…ゴメン、NGね。
3.気狂いピエロ…「スタジオぴえろ」のぴえろって、この事?
4.カルメンという名の女…「セックスごっこ(自慰だもんな)」
5.勝手にしやがれ…・・・勝手にしやがれ。
6.中国女…つまらんからこそ、意義がある。
7.男性・女性…あ、なんだ!
8.パッション…モンモンモン、ギャー!!
9.アルファヴィル…くっさー!
10.ヌーヴェルヴァーグ…観ている間睡魔の酷い事!!
という訳でみなさん、自分の無能さを呪いつつも頑張りましょうね!ばいばいきーん。
(03.08)
はーい、御期待に応えて「あうふたくと」更新したよー。
しかし早くもネーミングで大苦戦。変に凝らなきゃ良かった・・・。
今日午後仕事から逃げ出してまた「はなればなれ」観る。二回目もワクワクの連続!これイイよ。マジで。
帰りに寄ったWAVEにあの「ねこぢる草」DVDがぁぁぁぁっ!!前々から買う義務を自らに課していた細田デジモンとどっち選ぶか一時間悩んで結局両方買う。・・・今月も借金か?
映画寸評三つ。
北野武「ソナチネ」。
と言っても久し振りに観直しただけ。「BROTHER」と比べたくて。そしたら仰天。巷の評で本作が北野の完成形とする向きが多くて、対して私自身は、そうかぁ?「3-4×」の方が・・・と思っていたが、とんでもない!いやいやでも「3-4×」も捨て難いのだ。勿論「HANA-BI」は絶対外せないので、・・・こりゃ参ったなぁ。
総てが破れかぶれで、虚無的で、絶望的で、何かを説明したり、情感を演出したりという様な事の一切を拒絶した、例えば冒頭で凄むたけしや大杉の怒号でさえ、響きが遠く拡散して行くという、まだキタノ・ブルーが完成してない時の中途半端な色使いがその霧の様な役割を担って、我々を喜怒哀楽一切の感情に浸る事を全力で阻止しようとするかの様な、勿論「つまんない」とかいう言葉を仮にも脳裏の片隅に浮かべようものなら一撃で即死、という、そんな恐ろしい映画。思考停止等という生易しい言葉では語れない、この戦慄。観終わったあと、ただ震えているしかないという、この戦慄。
もういまや北野は「ソナチネ」のキタノではない、そう解ってはいながら、それでもやっぱり、もう一度この即死の気分を味わってみたい。その想いはもう止まらない。
北野作品の時代は大きく三つに分かれるだろう。ひとつは「ソナチネ」「みんな〜やってるか!」までの、隙だらけだがそれを隙だと認めさせないくらいの脅迫的身振りで迫って来る時代、ひとつは「キッズ・リターン」「HANA-BI」という、減点法で映画を観る者にも対応したかの様な、隙のない時代。そして「菊次郎」「BROTHER」と、もうタガが緩んで隙を作る事を逆に自虐的に楽しんでしまっている様な、遊び呆けの時代。
いまも悪いとは言わんが、最上ではない。やっぱり早熟だったんだろうか?
クロード・ミレール 「小さな泥棒」:トリュフォー原案の少女版「大人は判ってくれない」。ていうか、ただひたすらにシャルロットに酔う映画。フィルム自体は何処にでもある演出で冴えもヘッタクレもない。
寺山修司「田園に死す」:おどろおどろしい効果を生み出そうと奮闘すればする程、画面からは刺激がますます消えて行くという寺山の不幸。それでも比較的本作に観応えがあったのは、寺山のトラウマとシンクロした農村風景と八千草薫の御蔭か。
(03.10)
「映画は商品だ、
映画を燃やすべきだ」
わたしはそうラングロワに言った。
ただし、
内なる炎でだ。
J.L.ゴダール(「映画史」テクストより)
<今世紀最初の伝説的傑作、
「クレヨンしんちゃん 嵐をよぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」に連帯せよ>
この世界に入ってもう丸三年になるが、「神懸り」としか思えない絵コンテに二つ出会った。
ひとつは師匠の某作品のコンテ、もうひとつが、先日読んだ上記のコンテである。
完全に参ってしまった。職場なので涙を隠すのに必死だった。三年間色々なコンテを見て来たが、余りの苦痛に読むのを断念した物が圧倒的多数を占める中、これは、と膝を打つ瞬間も幾らかはあった。例えば細田守がペンネームで切った「あの」コンテ(実はその作品に私も参加していた!何とかコンテに応えたかったが・・・)、渡辺歩の「ジャイアンの夏休み」、飽きるまで読み返した「OH!スーパーミルクチャン」・・・ってあ、こんなもんか。
しかし原恵一によるのコンテは別次元、一体何の偶然なのだろう?誰が意図したのだろう?いや、こう書くのは余りにもズルい手なので控えたいとは思いながら、しかしこう書かなければ眼前の事実を言語化するには、余りに不充分なのだから、どうぞ解って戴きたい。
これは原の手を使って「神」が描かしめたに相違ない。そうとしか説明出来ないのだ。
何故ならその確たる証拠が、このコンテの中のペラ一枚にあるからなのだ。一枚だけ、絶対に人間の手による物ではない、「奇跡」と言うには余りに必然的で、しかし凡庸なるわれわれからすればそれは正に「奇跡」としか言えない、正に「神の描いた一枚」が紛れていたのである。この驚きを伝えるに、いまここで文字というメディアに頼るのは無駄この上ないという事は承知の上で、敢えて言いたい。これは傑作の名に相応しいフィルムになるだろう、と。
・・・そうなると心配なのが、このコンテの出来にアニメーター以下各スタッフがどれだけ応えられるか、いや、このコンテに各人が(監督の原ですら!)何処まで「接近出来る」か、それに懸かっている。無論本音を言えば、半分もこのコンテを「再現」し得たなら良い方だと、もう既に諦め混じりにそう思ってはいる。だがそれでも、朽ち果て行く日本アニメーション界が迎えた21世紀に、こんなにも早く最初の偉業に立ち会えるというわれわれの幸運を、味わい尽くさずにはいられようか。少なくとも現在上映中である「主役不在」の東映アニメフェアを観に行く位なら、ある種の使命感を帯びてこちらを観に行くというのが、アニメへのせめてもの「償い」なのではないだろうか。
あ、因みに、同じシンエイ繋がりだが、10日からロードショーの「劇ドラ」(「翼の勇者たち」だっけ?)のOPタイトルバックをウチの師匠がやってます。これもトンでもない出来!みんなOPだけ観よう。
よだーん。
8日会社抜け出した時に某アニメショップに寄ったら、あの「マクロス7」がモニタに掛かっていた。
あの懐かしい色と音響の汚物が私の感官を涼やかに通り抜けた刹那、アゴが外れた。
・・・プロを何やと思とるんじゃいボケ!!!
(03.18)
・・・最悪の事態や。
勿論、この2、3年間で最悪でなかった日は一日たりともなかったのだが。
だから、いいや。慣れた。
(03.19)
遠近法は西洋絵画の原罪だった。
ニエプスとリュミエールは、その贖い主だったのだ。
アンドレ・パザン「写真映像の存在論」
取り敢えず、酒断ちした。
夜も一生懸命。
(03.24)
厳しい。
神は面白がっているとしか思えん。
(03.26)
一週間後のいまを、
笑顔で迎える事が出来たのならば、
奇跡だな。
(03.29)
という訳で、3月最後の更新です。
ていうか4月は断固として迎えたくありません。
よって妄想ノオトはこれを以って終了させて戴きます。うそ。
あ、あとこれだけは言わせてくれ。
21世紀最大の衝撃、ZONEに連帯せよ!!
ばいぶー。
今月の一枚:偉大なる指導者にして魂の使徒、ZONEに大いなる歓びを捧げます。
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2001年04月
(04.07)
・・・結局、現実のいかがわしさと虚構性の中に埋没して、生きるしかない。
と、悟ったふりをする事の、何といういかがわしさ。
人は死に向かって生きている、とはハイデガー先生もよう言うた。
リアリティとは、その程度のものだ、と。
言い尽くされた事だ。
悪いけど、まだ生きてるよー。
(04.10)
録ってはいたのだが「SSF」途中から生で観る。面白かった。
特に中島哲也「ROLLING BOMBER SPECIAL」、こういうのこそウチがやるべきなんだよなぁ。
しかし、このリズム、昔は俺も持ってた筈なのに・・・。おかしいなぁ。
明日も五時半起き。死のロードは続くので寝ます。
(04.13)
漸くプロ3本目のコンテが抜けた。抜けてどうする、上がった。
師匠は褒めてくれたが、やはりどうも、まだ全力で投げられない。
こういうモンなのかな。商売だもんねぇ。
あー「モー。たいへん」録り忘れた!!!
(04.17)
案の定、イケてる所はかなりカットされた。
また何の変哲もない6時枠の穴埋めアニメになると思うよ。ていうか既に消化試合。
師匠曰く、
「監督以上に面白いコンテだから、ダメなんだよ」
それだけは余りにさもし過ぎるので、よう言いませんが・・・。
しかし、これすら通らない今のアニメ界って一体・・・。
何語を話せば、通じるんや??誰か教えろ。頼むし。
オーソン・ウェルズ「市民ケーン」。これも未観。
ゲ!!共同テレビ?星護もビックリの技のデパート。大胆不敵なカッティング。御前等にイマジナリーラインの意味が解ってたまるか!と嘲り笑うかのようにしたたかで確信犯的な「ライン越え」。映画に空間等存在しないと言わんばかりの位置関係が錯綜したカット割。シルエットの鳥を何とアニメで動かしてしまう、SFXしか売りに出来ないいまのハリウッドでは考えられない、映画の「こけおどし」さへの皮肉をたっぷりと込めた、しかしながらそれに自覚的である者のみが到達出来る、贅沢な愉悦。
しかし取り分けドギモを抜かれたのは、ケーンの後妻のヘッポコ歌手が自分のデビューをボロカスに叩いた新聞を投げ捨てるショット。単に新聞を左下に投げ捨てたと思いきや、あれ?巻き戻してよく観る。これひょっとして・・・コマ送りで再度確認。腰が抜けた。新聞のアップは実は別ショットで、何と新聞の手前にヘッポコ歌手の影があるじゃないか!つまり新聞の投げ捨てはほぼ正面切り返しのワイプを果たしていたのだ!何という大胆さ!ここまで映画を呑んでかかったら、そりゃ自由に撮らせてくれるわきゃないわな。
いまだって、こんな調子なんだから。数本撮れただけでも幸運だったのだよ、ウェルズは。そう思っておこうよ。映像オンチの妄言に一々腹立てては身が保たないよ。
→ → ワイプでもないんだよな。しかしこう切れればさぞ気持ち良いだろうに。
(04.17)
あと一本が出ない。
(04.22)
最も下手糞な嘘つきとは、
これは間違いだと臆面もなく言える者の事である。
最も上手な嘘つきとは、
間違いを間違いでないかのように振舞える者の事である。
まさか、自分は嘘つきでないなんて思ってるヒト、いないよねぇ。
シノーポリに似合わず壮絶な最期だったんだなぁ。
さて我等が朝比奈御大の「ブル5」、悲願の「ブル5」、やっと聴けました!
が、しかし、一楽章の途中から御大、左手を絶えず譜面台に置き身体を支えながら
の棒振り。正直ヒヤヒヤしました。もうそろそろ椅子が要るのかも・・・。
そう言えば背中も一寸づつ丸くなっているような・・・。
なんて心配はよそに、期待に応えてくれました!
一楽章こそ大フィル特有の御愛嬌が散見された(ホルンの不調は相変わらず・・・)
ものの、固さは見られず弦(ヴィオラがよく効いた)主体の豪快且つ繊細な響きは
絶好調(トレモロまで見事に合わせた。やれば出来るやん)、
都響や新日フィルのCDを聴いて予習はしておいた(新日フィルは確かに素晴らしい)のですが、
大フィルの実演には敵わない。特にブルックナーはそう。
ナンボN響が上手いと言っても、ブルックナーの魂をひとり占め出来るのは大フィルだけです。
マジでそう思ってしまいます(CDではアラばかり目立ってしまいますが・・・)。
だってあの管弦全員が渾身で鳴らすフォルテの神々しさ
(宇野センセの言った「大宇宙の鳴動」、・・・この言葉以外思いつかん!)は、絶対に他のオケでは
出ません。こうなりゃ最早大フィルの楽員が鳴らすのでも、御大が鳴らさせるのでもないのでしょう。
勿論御大の相当細かい指示(誰がこの棒を下手糞だと言うのか)と、それに阿吽の呼吸で応えるオケとの
幸福な関係の賜物であるところが大きいのでしょうが、もうそれどころじゃない、それどころじゃない何かが
ここにはあります。いや、そうとでも言わない限り「音」を語れない「言葉」の無力さに
歯痒くなるばかりなのです(それは言葉を鍛えていない御前のせいだ、と家元様に言われそうですが)。
コーダには感激しました。バンダずれたけど。何年も夢見たここの「響きそのものの法悦」を
目の前で味わえただけもう満足です。ああ、聴けて良かった。長文御免。
またまた、某音楽評論家のBBSへのカキコより。
今日は久々の満足感で寝られる。あ、やっぱり「劇クレしん」の上がり、良くないねぇ。
(04.24)
受けた受けた。
社内的には。
こんなにすがすがしい気分で完パケを観たのは初めてではなかろうか。
ただもう疲れた。いやもうアカン。働けん。脚に来た。ノリツッコミさえ出来ん。
休みくれー。哲夫は要らん。
(04.26)
フリッツ・ラング「M」。
某「そうるていかー」の最大の失敗は、黒を映像のキーとするというアニメではかつてない大胆で美しい試みをしておきながら、創り手の誰一人として自分がそういう試みをしているという事実を自覚していなかったという、笑えない皮肉さにある。せめてラングとかのモノクロ映画を2、3本観込んでおけば随分変わっただろうに・・・。
という感想とは余り脈絡のない所で観た本作。正直、冴えなかった。ラングの「黒」の使い方も、殺人犯の影とか、ありきたりだったし。
脚本、後半が特に冗長。リズムの繋がりに欠けた。ギャング供が殺人犯ピーター・ローレを監禁して裁判するなんてシチュエーションも、ワイマール体制という当時ではある程度の痛烈さを以って響いたのだろうが、ドラマトゥルギー的に見て、贅肉多し。
でも少女誘拐というモティーフ、いま何とかならんかなぁ。前々から言ってるんだけど。
今月の一枚:会社の後輩に言われて思い出した。・・・絶対アニメ化せねば。
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2001年05月
(05.02)
映画ってのは、何だってつながっちゃうものなんだよ。 鈴木清順
絶望視していた黄金週間、ならぬ暗黒週間、何と奇跡的にニ連休の可能性が。
しかし、あれだけ欲しかった休みなのに、こうポンと差し出されると、何やって良いか解らんなぁ。
委員長、呑みにでも行くか?
(05.06)
例の#4、巷やウェブ上の評価を見るに、予想通り「テンポが早すぎる」と「面白くてビデオ観返してます!」の大きく二種。
しかし漸くこれでテンポ感は戻って来たのかなぁ。リズムはまだまだやけど。
ちゅうかね、俺が監督やるとしたら、更に早いよ。当社比1.5倍位。ていうか台詞聞かせてたまるか。
予告した通り、「DEEP SEIJUN」の一環、ホントは「ツィゴイネルワイゼン」観たかったのだが仕方なしに「陽炎座」観に行く@シネ・リーブル梅田。
自由奔放、大胆不敵、天衣無縫で厚顔無恥な演出の数々にも、どうも文芸作品に寄り過ぎているのかもうひと押し足りないかなぁ、と思った前半。カットの断面を惨たらしく露呈させる独特のカッティングもしかし、中盤で刺激に乏しくなる。ていうか明らかに繋ぎがフツーになって行く(意外とイマジナリーライン守ってるし)。大楠道代が片乳見せたりして変化は付けているのだが。あと加賀まりこ。可愛い!
しかし仕掛けはやはり終盤にあった。あの「陽炎座」のシーンは圧巻で壮観。まるでドラマトゥルギーとは起承転結の次にもう一つあるんだよ、知らないの?と言わんばかりの長く、そして美しいイメージの洪水!少年歌舞伎の女形の如何わしさ!人形浄瑠璃に扮する大楠のシュールな色香!そしてあの崩壊のハイスピード撮影!何度も溜息の声を出してしまった。本当に美しい。レトロスペクティヴ行かなきゃ!
会社のミーティングで「今観ているアニメ週何本?」と訊かれて「0」と堂々と答えた。だって今のTVで辛うじて苦痛にならない作品が10本に1本未満だなんて周知の事実ではないか。時間の無駄。ウチも噛んでる「いにゅやちゃ」等殆ど観ていないが、観てなくともあの作品で30分という長き時間を苦痛なく耐えられる話数なんて1本もなかったし、今後も絶対ないであろうと意地を以って言える。ていうかそれが言い切れてのプロなんじゃないの?
まぁいいや。皆さん御待ち兼ねの様なので「あうふたくと」そろそろ書きます・・・。
(05.07)
んを、いきなりBBSがなくなっとる!
あるんだねーこういうの。新しいの借りるか。
今日は今年初めての本格的な休日に魂の涙。でも寝倒す事なくオマケに会社にまで寄って行った久々のプラネット+1、溝口健二が観られず残念、しかしその後のミハエル・ロンム「一年の九日」が大ヒット!!
こんな陳腐な言葉しか使えない自分が情けないが、「ハリウッドよりもハリウッド的」!パンとカットで作り出すリズムには些かの強引さもなく、広角レンズと傾斜フレームを多用して構図に盛り込まれた斜線のスタイリッシュな事!独特のローアングルが生み出す素晴らしい空間感覚は、例えば終盤での人物をフレーム下ギリに置いて広大な雲海を捉えるショットなんか、しょっちゅう真似だけはするのに一度もこれ程までのパーズペクティヴを効かせた事はなく、ああ、これが才能の差か、と。ガッカリでウットリ。照明の当て方にしてもまるで御手本で、カネフスキーとタルコフスキーで(いや、黒澤か?)すっかり誤解してしまっていた陰鬱なソ連映画のイメージが吹き飛んでしまった。クソッ、また「元」総長の術中に嵌った気分。
いやしかし、「元」総長が挑発的に言ってた例の最後の手紙の文面、正直に申し上げますと私、予想がハズれました。をををやっぱり俺って映画屋失格?ていうかやっぱりアニメ屋?まぁ思ったよりベタな中身やったけど。
夜は枯山水の面子とこれも久々に集まって呑む。13歳を御願いしておく。道のりは険しい。でもやる。敵は中央官憲。
前の妄想で、ひょっとすると身内批判と思われるのでは、と思ったので補足。
上記の確信は、#1を観た時のものです。
まぁそう眼クジラ立てずとも、この業界に入るのはアニメの黄昏に立会い、その朽ち果て行く姿を見守る為、と決めてたんだけどねぇ。
日本のアニメは、97年に死んだんじゃないか。もう遅いよ。とっくに。
では出張に行って来ます。少しでもその死に顔に美しい化粧を施せるよう、・・・無理やなぁ。すまん。
(05.09)
久々に胆を冷やしたでぇ。
いやぁ、やっぱり悪口ばっか叩くモンじゃないねぇ。罰当たったんやねぇ。
という訳で私心を入れ替え、今後は前向きな事以外は書かない妄想ノオトにすべく
・・・出来るんだったら今頃もちっとマシな人生歩んでるよ。
<御疲れ様でしたー>
かなりヘコんで淋しく渋谷某所で佇むボクに優しく声掛けてくれたにょ!!
うさだー!!
アンタの笑顔はスッゲェイイ人に見えたにょ!!
やっぱり声優は「人気は二線級、実力は一線級」に限るにょ!!
某ゆりしぃはまるで花魁道中みたいだったにょ!!
序盤主役が乗ってくれずあー、やっぱり今回ダメかぁと諦め半分だったが、哀しいかな線撮りの絵が解り難過ぎたらしい。絵とボードを何度も確認してこちらも粘り強く説明したら見違えるようになった。
何とかなるかな?何とかしたいねぇ。
家庭の味が恋しい。
げま。
(05.11)
<箱の設定出ます?>
会社の後輩から借りていた大地丙太郎「アニメーション制作進行くろみちゃん」漸く観る。
90年代のギャグを築いた大地の新作、今の立場で観るというのはひとしおの感慨で得る物多し。若干従来の手法に(散々それを拝借している身でありながら申し上げると)収まり過ぎているきらいはあるが、御無体に高いテンションの中ふとインサートする18コマ22フレ位のアップのカットにハッとさせられる等、非凡さは相変わらず。てゆーかやはり痛い。相当むず痛い。ウチは必ずしもこうではないが東京は正にこんな感じらしいので、アニメを志そうとするバカでキチガイでフニャチンな非人間は必ず観ておくように。
因みに俺はぶっ通しは絶対しません。原画マン信用してないから。
(05.14)
という訳で、件の#4、原作者が超お気にだそうだ。
遂に金田一御用達の演出家、ヤマモトをどうぞ宜しく。・・・何かスケール小っせぇな。
因みに#8、言わば後一伸びで逆転3ランだった筈が、フェンス手前で捕られて犠牲フライの一点のみ、と言えば合ってるかも。
まだ辛抱。
今日は渋谷で豪遊、つっても映画二本観ただけ。
「ぴあ」関東版買ってあれこれ悩んだ挙句、今の気分にピッタリのを選ぶ。
佐藤真「SELF AND OTHERS」@ユーロスペース。
時間の穴埋めに丁度良い尺なので入ったのだが、大当たり。ファーストカットの空!そこから充溢する空気を一滴も溢すまいとゆっくりティルトするカメラ(流石田村正毅!)の先には一本の木!一気に入り込んでしまった。ただその直後のW.Oにはあざとさを感じてしまったのだけど。
本当に空が雄弁だった。放心する空。彼岸で輝く夕日。この様な空を描こうと何遍も試みるが、イカン。ポスターカラーの限界なのか。描く者の腕か。はたまた観ている者の「眼」の限界か(今回は逆説的に上手く行ってはいるのだが)。
牛腸茂雄の写真は見事なまでに総て人間。ヒトの眼差し。テロップにもあった「見透かされるような透明な眼差し」。それ以上に、ヒトという不可解な空間に身を置き、その清濁に戸惑い逍遥するカメラが、ある一瞬の静謐さの元でシャッターを切るという、それはまるで先の空のショットに繋がる、譬え様もない放心の充溢。その意味を空と、夕日と、木と、路地の縦トラヴェリングで映画的に補完した佐藤のドキュメンタリーの力にただ圧倒。そうそう、こういう風に撮りたかったんだよ!しかもあざとさとの境スレスレを彷徨う余りに感動的な路地のショットと牛腸の写真とのコラボレーションがクライマックスと思いきや、その後のカットワークをまるで会場のすすり泣きを冷まそうとするかの様に蛇足っぽく処理してしまう、そのバランス感覚の秀逸さ。脱帽。
ヒトが何故ヒトを撮るのか?牛腸の自問自答が胸腔に響いた。
<オンナも抱いた。「ヤマモトさん、曙よ」>
続いて市川準「東京マリーゴールド」@シネパレス。
ヒトを撮る、と言えば忘れてならないこのヒト。今回の「”ほんだし”CFをモティーフに一本撮れ」との無理難題にまた難なく応えてしまう市川のずば抜けたテクニシャン振り。彼と北野が年一本のペースで撮り続けられている今の日本映画界はやはり相当なグッドコンディションなのだ。
兎に角フレーム、サイズ、タマの選択、照明のニュアンス(自然光までも!)、色彩(あの青、あの赤)、台詞、トラヴェリングの使い分け(手持ちかドリーか)、ジャンプカットをも含めたカッティングの緩急、総てが完璧なコントロールで機能している。憎らしい位!またそれが総て田中麗奈の表情、ただそれだけの為と割り切って奉仕し尽くしているというプロ魂が実にカッコ良く、こういう準A級映画を褒められない前総長に優越感を感じてしまう程、レナを味わい尽くしてしまった。
”なっちゃん”のパロディとばかりに丸髷で何故かキャッチボールさせられるレナ!オザワ息子(あのヌボーっとした情けなさともう少しで繋がりそうな眉毛に拍手!)にだらだらと蜜柑の話をした後彼の膝の上にやおら乗って「淋しかった・・・」と呟くレナ!!レストランで耐え切れなくなった想いのたけをぶちまける、照明が漫然と上から当てられややアオリ気味に、ブッサイクな画で撮られてしまうレナ!!!もうレナてんこもりであり、「大阪物語」のイケチに続いて、ああ、何でこのオッサンはアイドルをヌレヌレにするのが上手いのだろう!正にテクニシャン!!
しかしこれで終わらない最後の大ドンデン返し!ホンワカとセンチメンタルな気分に浸っていたヤワな男心に鋭く突き刺さるレナの無表情な視線!そりゃもう、
で
な奈落の底へ。そんなにいぢめないでよ・・・。
いやしかし、田中麗奈を撮るという当初の目的にはこの選択こそ妥当であり、メロドラマでは終わらせないぜ!という市川のセックなモダニズムは未だ健在であったので。良い監督だなぁ。
ついでと言っては何だが、帰ってビデオで観た増村保造「遊び」。
これまた高橋恵子に尽きる。もう美の結晶!「高校生ブルース」の時の妙な堅さも取れて体臭すら漂わせ、赤い浴衣でホテルの布団にちょんと座り恥ずかしげに鏡の自分を見るその姿は正に偉大なる指導者にして崇高の始祖!
絶句。
昇天。
くどい。
増村の独特のカットワークにビックリ。ほぼ同サイズで切り返す。いや、切り返すと言っても所謂リバース・ショットではない。高橋恵子と内田朝雄の邪なアベックがシネスコの広いフレームの中で浮遊するかの様な大胆なリズム。それがしなやかにライン越えして行く瞬間のカットの断面の熱さには被写体が高橋でなくとも興奮!そしてあの「空フレーム」!市川崑だけじゃなく、当時の流行りだったのかな。
圧巻はこれもラスト。一体何をしてるんやコイツ等・・・。
(05.17)
MIYUさん、お誕生日おめでとう!
僕はメジャーになってからのZONEのファンで、
まだ日も浅いけど、
これからもずっと応援するからね!!
頑張ってね!!
http://www.sonymusic.co.jp/Music/Info/ZONE/へ出したお祝いメール。SPECIALのコオナア。
さっサブイボが・・・。
NEW SINGLE「大爆発NO.1」
5/23リリース!!!またエアチェック大変そうやなぁ!雑誌も。
(05.21)
3連休潰して東京へ馳せ参じて色々あってギャフン!となって帰って来てまたギャフン!となって途方に暮れたままエ、こんな気分で明日からまた仕事せぇってか!?
「勝ち組」はね、エエ、こういう時こそ強さを発揮して上手い具合にやるんでしょうよ。ケッ。ヒェッ。
・・・なんかにいさんと筆致が似て来たような・・・。
やっぱりでもね、こういう時は、素直に
萌ゑ〜!ハァハァ
とやっておいた方が、気が楽なのだよチミィ。立場上。
兎に角撮るぞ!仕事なんかにかまけてられっか。
http://www.cinefil-imagica.com/ 誰か「(複数の)映画史」のV買う為に私に2万7千円下さい。チクショー!
(05.22)
無を打ち消す力を持つイマージュとは、
われわれに向けられた無の眼差しである。
イマージュは軽く、
無は限りなく重い。
イマージュは輝き、
無はどんよりと広がった厚みであり、
そこでは何一つ見えない。
「(複数の)世界史」テクストより
空と。
夕陽と。
結局描きたいのは、それだけなのかも知れないと、暫し口にする。
(05.23)
#8。
今月四度目の
メインスタッフに頭を下げる。
最低である。
ぅわーやってもーたぁ!!
こりゃイカンよ。全くダメ。
これぞ「コンテは良かったのに、演出がクソ」の典型。皆の衆参考にするが良い。
何つっても切れてない。リズムが出来てない。サンダグムとして成立していない。つまり全く持ってあの遅刻のせい。
ていうか、画面から「力尽きた・・・」という感じが滲み出ていて、
わが事ながら、泣けて来てしもうた。
・・・今は我慢。・・・まだ我慢。
いつまで?
・・・。
(05.25)
ヘナヘナと腰砕けになろうと歩みを止めてはならぬ。昼はもうすっかり御昼寝タイムだから今は夜こそ御勤めさっ!ィエーイ!ゴーゴーヘル!!!
通販でビデオを手に入れィヤッホー!待ちに待った山中貞雄「河内山宗俊」。
何と言っても原節子!16歳!仰天する程の愛らしさ。甲高く済んだ声!またそんな彼女に的確なサイズ、的確なリズムでカメラを向ける山中の心憎さ!また一人魂の巨匠発見。
弟を探しに宗俊の賭博場に入ってチョコ、と立つの原の少女の色香!宗俊と金子市之丞との喧嘩を仲裁しに入って刀に指を掠られ思わず指を口にやるその仕草!そして300両のカタに身売りを迫られる時の落胆振りを気品を残しつつ科を作って仄かなエロスを沸き立たせ、それをまた俯瞰のいやらしいフレーミングで撮ってしまうエゲツナさ!このシーンに続いて「映画史上最も美しい」と前総長がのたまったあの雪が見えるのだが、ここのカット割りが何とも言えず、いやはや、一体何と評すれば良いのか、もう、正に天才とは行間から噴出す業火、美しいとしか言えないこの凄み。慎ましやかな節度を保っているのに強烈なインパクトを生み出し、霊的な程の厳かさを漂わせしんしんと振る雪!黒澤も、「生きる」のあの渾身の雪ですら敵うまい。その雪をBGに原が初めてクローズ・アップで抜かれるのだが、逆光!このシーンだけで彼を天才と呼んで良いじゃないの!天才だよ!これ。
・・・しかし一方で、他は上手さは感じても(間を切り詰めた台詞のリズム感は一代限りの至芸)、余りパッとしないというのが正直な所。特に終盤のドタバタはカッティングのセンス以前に、小娘一人の為にここまでやらんでも・・・とストーリーにやや興醒め。巷の不評はシナリオに依る所が大なのでは?
(05.26)
とうとうダウン。
ていうか、このまま流されて生きてもロクな事にならんと思っての空白の一日。
<みんな能無しだよ>
黒沢清が「映画の三聖人」と称した鈴木清順、山中貞雄、ジャン・ヴィゴ。今月で一気にさらってしまった。
ジャン・ヴィゴ「アタラント号」。
難解な話でもないのに公開当時ですら当たらなかったのも納得、どうにもこうにも繋がりが解らんのなんの。
シーン丸ごと「何撮ってるの?」というものすら(旦那が嫁に「パリへ出よう」と言う直前のくだり)あったり、兎に角位置関係や視点の説明が一切ない。勿論エスタブリッシング・ショットなど1ショットもない。何たって舞台となるアタラント号の全景が終盤までないのだから、観客の方は与えられた(というか、ぶちまけられたというか)ショットを頭の中で繋げるのに必死で、全く以って「悪い見本」。
しかし、そう断言するわれわれの浅はかさに、映画の神は何度哀れみの涙を流した事だろう。「自由たれ」、そう神は声なき声でのたまう。「映画は観る事そのものへの畏れおののく震えである」。視力をますます失いつつある(←比喩になってないもんな)われわれにそう伝えんが為、神は幾人もの使徒を差し向けた。山中がそれであり、ヴィゴもまた然り。だが使徒は現世の凡庸さに翻弄され、殉教するまで苦悩する事をこそ使命とする。神に祝福された者は不幸である。それは神と同じ量の苦悩を託されたという事なのだから(・・・だから最近の北野とか宮崎の動向って、何か引っ掛かるのよねぇ)。 理屈等要らねぇ!ショットの断面から涌き出る激しいパッションと突き抜けるように開放的なフレーミング!あの空!あの川面!あの蒸気!一寸アレな副長の部屋の、まるで絶望的なまでに見通しが悪い空間構築に反比例するかのような細部の豊かさ(そしてその細部ただそれだけを見せんが為としか思えない俯瞰構図)!またその部屋を旦那の船長がやぶれかぶれに引っ掻き回すシークェンスでの、エイゼンシュテイン真っ青の意志的なモンタージュ!まぁカッティングに関してはあくまで「復刻原典版(ブルックナーのハース版みたいなモン)」であるだけに何処まで信じて良いのか解らないが、監督が精魂込めて撮った各ショットが呻き声を上げて求めている「リズム」を正確に把握する者であれば、誰だってこう切れるに違いない。それ位は今の映画技術者だって可能だったのだろう。しかし一旦はなればなれになった夫婦がそれぞれの床に入った後の、あのディゾルブはどうよ!!ていうかこれが今スタンダードになってないのが不思議。余りにエロ過ぎたのか。
他にも壊れた蓄音機の代わりに指をレコードに当てて回すと何故か音がする、なんて粋なトリックや、キャフェでのドタバタ、街のジュークボックス屋?でやっと嫁を見付けた瞬間ショーケースのガラスに映る副長の妙に男らしい!?雄姿(これも繋がってないんだよなぁ)とか、これだけ豊かで感動的な細部があって、全体の不具合を云々するのが「正しい」映画なのだと、まだ然り顔で言えるのだろうか?いい加減「正しい」映画だとか「正しい」アニメだとかバカな事を夢見てないで、この辺の作品を観て映像の「無邪気さ」「愚鈍さ」に立ち向かう勇気を育んではくれないだろうか?
そう難しい話ではない筈だ。日本のアニメだって、80年代にはこの豊かさを持っていたではないか。忘れたとは言わせねぇぜ!
今、TVで新庄が久米宏に向かって「久米っち」・・・。 一遍に新庄が好きになってしまった。
今日二本目、ジョン・ダイガン「キャメロットガーデンの少女」。
偉大なる指導者にして同志、ミーシャ・バートン先生に大いなる歓びを捧げます。
そのミーシャ以外は殆ど期待せず観た本作。それでもそれなりに良かった。
ジョン・ダイガンってイギリスのヒト?英映画臭い上辺の上品さと内包された御下劣さとが脈々と。作品のテーマが階級社会の何とかかんとかなのでまぁ良いんだけど、でもあのブルジョア街はどうもアメリカに見えない・・・。しかしミーシャの撮り方はもう一寸何とかならなかったものか。ミーシャの彫りの深い目元は照明に注意して、例えばキャッチライトを絶えず当てておくとかして欲しいのに(「その点『パップス』は何も考えてない全体照明が幸いしてるんだけど)、その目元にくっきり影が。いくらミーシャをパンツ一丁にさせようが、聖水プレイさせようが、ワタスの眼は誤魔化せないダス!!魂の映画作家失格。
どうも結局ダイガンのイギリス的陰気さが災いして、例えばBGMの主線をアコギにしていたものを突然思い出したようにオケに替えてみたり、移動撮影が妙に少なくてカット中心だったり、どのショットも過不足無く上手く撮っているかのように見えて「もうひと声!」の連続。
まぁラストのあの超SFXはまるで「DEAD OR ALIVE」みたいで、これだけでオレ許す。生々しいミーシャを観るならやはり「パップス」だろうか?
(05.27)
ZONEは絶望した人間を通すように思われます。
善悪に関係なく、不幸な者を。
私は確かにろくでなしです。
世間では何もできません。
妻も幸せにできず、
友だちもありません。
だが私にはここがある。外には何もない。
ここだけです。ZONEの中だけに
私の幸福も自由も尊厳も全部あるんです。
アンドレイ・タルコフスキー「ストーカー」より。
まだCD買ってないヤツ、手ェ挙げろ。 逝って良し。
最近休みっつったら映画やなぁ。りんたろう「メトロポリス」。
・・・には行かず、期間から言ってこっち。庵野秀明「式日」@扇町ミュージアムスクウェア。
予告編終わりかけでいきなりフリーズ。映写室の兄ちゃんが何かごそごそやってるなぁと思いきや、画面が更に横長に。し、シネスコ!?
そこに映し出された宇部の工場、電線、コンクリの壁。そしてレール。邦画にしてはいやに早いカット回しだが、何だかホッとした。本作も決して傑作とは言えないだろうが、それでも庵野はもうとっくの昔に冒頭数カットを完璧なる映画たらしめる術を身に付けてしまったのだ。そのヴィジュアリスティックでトリッキーなレイアウトの数々はシネスコの横長画面を十全に充たしているだけでなく、その空間の広さにギミックが戯れているようにさえ見える。シネスコと言えば恐らく庵野自身の幼い頃に観た映画の記憶なのだろうが(それと故郷の風景が上手くコラボレートし得るのは至極当然)、岩井俊二と藤谷文子の肩ナメショットの収まりがこんなに美しいシネスコを初めて観た。嗚呼、これぞ才能。何が悔しいのか知らんが、少なくとも庵野が映画の「いま」を画面に醸し出す資格を持つ映画作家群の中に確実にいるという事位は観とめようぜ。今時「見紛う事なきただのアニメ屋」押井守なんか担ぎ上げるなんて恥だって。悪い事言わんし。
内容はまたしても「さびしんぼう」小噺。現実はひとつのイリュージョンでぇ、なんてグチグチやってるナレーションなんか要らないよ。そんな逃げの手は押井に任せとけばええやん。こっちは全部画で説明出来てるんだから。後要らないと言えばBGM。付け過ぎ。ここら辺はアニメの癖なのかなぁ。
それにしてもギミックがエクリチュ−ルとしての雄弁さを発揮する事この上なし。藤谷の隠れ家?の「ひみつの」地下室はまるで鈴木清順(白バックのCG合成も。あ、風鈴は実相寺明雄か?)。水浸しの床にスプリンクラーの雨を降らせたらまるでタルコフスキー。本人がそこらの作品観ているかは知らんが、そのインスピレーションの豊かさとそれを確かにフィルムに焼き付ける職人的技能には拍手。
藤谷は決して良い役者だとは思えなかったが、自らが産み出したストーリーに一歩でも近付こうとする意地が後半の凄みに繋がった。岩井はつくづくアンノそっくりやなぁ!もちこっちの方が男前やけど。終盤大竹しのぶを交えた長回しの三つ巴戦は怪我の功名か、三者三様の取り付く島のなさが上手く出ていた。
しかしどうも、ギミックだけでクールに語れないのもアンノの弱みで、藤谷と岩井が心を通わせた瞬間から途端にメロドラマに傾き、画が生気を失う。まぁギミックで見せるカントクはどうしても中盤アイディアが尽きてストーリーを追ってるだけになってしまうようだけど。しかしアンノには他のカントクにはない、ギミックのシニフィアン的恣意性とその空虚さから滲み出る絶望と焦燥さえも、乾きを伴ってフィルムに定着出来る数少ないカントクの一人(北野が今あんなだから、事実上今の日本で唯一人じゃないかな?)なのだし、事実最後のスタッフロールの空を延々コマ落としで見せてしまう所から見てもそれはちゃんと証明されているのだから、この辺の葛藤が今後どう生かされて行くのか、楽しみでもあり不安でもあり。
しかしこのヒト、結婚でもしようものなら、ガラリと芸風変わるやろねぇ。一万円賭けてもええぞ。
あ、そうそう、例の#8ね、最後にグゥが「せいやっ」って言ってたの、気付いた?
(05.28)
最近ヒット数が(各ページをクリックしている数の総計だけど)倍増して、気持ち悪いのじゃよー。
何か悪い事したかな?
まぁ三度のメシよりweb上のケンカが好きなので、今度2ちゃんねるデビューでもしようかと思っとります。
あぼーん。
(05.30)
難儀しまくりのコンテ作業ですが、漸く打開策が見えて参りました。
まぁこれでこのシリーズ最後やし、もうひと勝負やっか?
(05.31)
という訳で、web上で最も早く「モーレツ!オトナ帝国の逆襲」を絶賛した(ていうか反則)ヤマモトです。
でも実は、劇場で観てないのですよ。TVでやってた予告観ただけ。
次の日曜、まだやってる館探し出して行って来るか?責任もあるし。
シンエイ動画ばんにゃーい!!半分本気。
今月の一枚:
One look at love
and you may see
it weaves a web
over mystery,
all ravelled threads
can rend apart
for hope has a place in the lover's heart.
Hope has a place in a lover's heart.
・・・最近ずっと鳴っているので。いや、先月との絡みなんだけど。
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2001年06月
(06.02)
映画は未来のない発明だ。 ルイ・リュミエール
映像の理想を語る、いや、騙る愉快な仲間達と呑む。
そういう御友達が産み出す「結果」は必ずと言って良い程、笑っちまう位の絶望に満ち満ち溢れている。
・・・当たり前の話だが。
映像を糧とする以上、映像という言語で語れ。
(06.06)
前に書いた、アンドレ・パザンの
遠近法は西洋絵画の原罪だった。
ニエプスとリュミエールは、その贖い主だったのだ。
という一節、正直実は完全にはピンと来ていなかったのだが、最近構造主義の本を読み直して(と言っても橋爪大三郎の「はじめての構造主義」だけど)、ぼんやり見えて来た気がする。
そこで、無謀にも私なりにアレンジ。
遠近法は西洋絵画の原罪だった。
映画は、その贖い主だったのだ。
そして、その断罪と救済を担うのが、アニメーションなのである。
これ結構、残るかもよぉ。知らないけど。
<色と光と、音と言葉と、そして・・・>
日曜、半ば諦めていた原恵一「クレヨンしんちゃん 嵐をよぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」、関西でまだやっている所が一つだけ!慌てて会社へ行く途中を引き返して急行。@城陽アルプラ劇場。・・・何処?
ていうかビデオシアター??あ、プロジェクターだ!スピーカー音割れまくりだし。最悪の環境でしかも日曜なのに子供連れ3組合わせて10人弱?・・・まぁ、しゃあないか。 今回もまた途中から入り途中から出るという愚行を犯す。仕事あるしね。でもそうやっても作品の連環が把握出来るのがプロなんじゃないの?ゴダールもよくやったらしいし。
感想はやっぱり先ず、絵が付いてってないなぁ。もうこれは諦めてたけど。スタッフ編成も決して良いとは言えないし、劇しんには欠かせない湯浅政明はいないし、演出のM島さんは「HレのちGゥ」と掛け持ちだったし(もうあの忙しさは経験したくない、とか)、いやだから、彼がコンテから担当したC、Dパート(サトーココノカドーからカーチェイスまで。それ以外は原さんのコンテの筈)はレイアウトも原画も、いや特に中割りの入れ方とシートの打ち方で、あれーこれで良かったんスか?と思えるカット続出。1、2、3コマ打の使い分けが中途半端で、「しんちゃん」らしからぬ不備。それと、確かにあのCGの使い方はイマイチ・・・。その直後見せた背動の方がダイナミックやったしね。
それ以外にもAパートのひろしSUNシーンにしても、コンビニでの追っ駆けっこにしても、兎に角動きにキレが乏しい。レイアウトの広角パースが眼に刺激を与えてくれない。観れば観る程「ああ、コンテじゃこんなモンじゃないのに・・・!!」と、不毛な苛立ちが募って来る(ウチが参加したからだって?いやいや、ウチの面子のカットは良い方でしたNE!)。取り分けなのが例の、しんちゃん階段駆け上がりカット!!嗚呼、ここを湯浅さんがやってくれれば、とどれ程祈った事だろう!!・・・声は天には届かなかった。
しかし、いやもう、揚げ足取りはこれ位でいいや。それでも、この作品が現今の日本アニメ界に登場してくれた事を、今は無邪気に喜ぼうではないか、いや、その登場の意義を考えると、無邪気だなんて全く言ってられないのだが・・・。
いきなり結論。
「湯浅政明の不在を受け入れた『オトナ帝国』は、同時に、アニメの20世紀と21世紀を、痛みと共に傍観する立場を受け入れた」
今回はこれだけでも充分解るんじゃないかな?でも一応、細かく述べておこう。
「オトナ帝国」が20世紀のノスタルジィから21世紀の「ぼんやりとした不安」へ、大きな葛藤の揺らぎと確かな強度の意志を以って人々を誘う作品となったのは、最早言うまでもない。それは例えば戦後日本に準えても、例えばここ20年位の日本アニメーション史、ていうかオタク文化史に準えても良いだろうし、また実際かなりの論評や憶測が某2ちゃんねるなんかでも賑わっている。ただ、仕方ない話だが、ここにアニメーション自体の、即ちディスクールとしてのアニメーションの戦後史を読み取る向きは殆どいない。
かと言って、この当て嵌めの作業自体は決して複雑ではない。つまり97年を持って「死んだ=過去となった」日本のアニメーションが、たとえ死に体になろうとも、21世紀を「生き」続けるという意志がある限り、その「死」はあくまで「再生=復活」の為の「死」に相違なく、死に続けながらも生き続けるというアニメの「21世紀」が開始される。正に21世紀最初の年に、アニメの21世紀も開始された事となる。
が、しかし驚くべき事に、この「オトナ帝国」は、アニメのその「懐かしい20世紀」も「痛みと共に受け入れる21世紀」をも、「描写してない」のである。つまり「オトナ帝国」自身は、「20世紀」のアニメからも「21世紀」のアニメからも距離を置いた、一種特異な立場に甘んずる事を良しとした、類い稀なる作品となったのである。
「描写していない」とはどういう事か。観た人は思い出して欲しい。「オトナ帝国」は、20世紀と21世紀の双方を、「ニオイ」に置き換えてしまったのである。
20世紀に大人達を誘惑する懐かしい下町のニオイ、そこからひろしがしんのすけと自分の今の家族を涙と共に思い出す自分の靴の中のニオイ、本作において20世紀と21世紀を発現し得る鍵となるもののその双方が、実は「描けない」ものなのである。勿論「ニオイ」は眼に見えない。耳にも聞こえない。そして決定的なのは、そういう特徴を持つ「ニオイ」は、視覚と聴覚を介在する事でしかディスクールの発現をなし得ないアニメーション(まぁ映像全般だが)にとって、どうあっても存在させ得ないものなのである。
ならば我々の涙を禁じ得なかったあの名シーン、あの名曲の数々は何だったのか、という事になり得る。そこで先の結論に立ち返ってみる。
何を描けば21世紀のアニメになるのか、それは今でもなかなか思い付くのが容易ではないだろうが、詳細は別の機会に書くとして、私は一応こう整理している。一つは冒頭に述べた、絵画を始めとする総ての視覚表象の「原罪」とも言える「遠近法=パースペクティヴ」の「変換(否定とはまた違う)」、それともう一つは、戦後のアニメ界が拒絶した、あの日本アニメーションの「完成期」を形成した二人の偉人、政岡憲三と瀬尾光世のアニメート表象を、現代に蘇らせる事である。
念を押すが、こうすれば新しいという訳では決してない。アニメの21世紀とは何と言っても「死を生き抜く」100年なのだから、要はその「死」を意識して且つその「死」に飲まれないよう生きる、という事を言っているに過ぎない。しかし、意外にこれ程難しい事はない、という事は、今巷に転がっているアニメがいくらバカの一つ憶えみたいに「全く新しい!画期的!」と嘯こうが、その作品自体からは反吐が出そうな位下劣な腐乱臭しか立ち込めて来ない、という惨々たる有様を見れば一目瞭然だろう。
事実、この二つの条件を充たす作品もまた、意外にない。パースペクティヴへの反旗となると皆無に等しく(ヘタクソで崩れている、というのなら幾らでもあるが)、その唯一といって良い例があの「湯浅政明」その人なのである。いや、それを言うなら「THE 八犬伝」新章の大平晋也も忘れてはならないと思うが、「アニメスタイル」の取り上げ方や近年の湯浅の活躍を考えるに、湯浅一人でもまぁ、罰は当たるまい。そして政岡・瀬尾の衣鉢となればもう、「デジモン」の細田守しかいまい。これもここに湯浅や大平を挙げても良いのだろうが、政岡や瀬尾の洗練はここにはない。言わば「八犬伝」のアニメート表象を政岡や瀬尾のレヴェルにまで洗練したのが細田であり、例えばヒカリが笛を吹こうとしてケホッ、ケホッとやるあの戦慄が走る程にエロティックな描写に比べれば、湯浅の「天才的」アニメート技術は流石に些かこけおどしの印象がある事を否定出来ない。
さて回り道して「オトナ帝国」だが、もう御解りだろう、湯浅をメインに擁してその天才をまざまざと見せ付けて来た「クレヨンしんちゃん」は、その大きなメルクマールとなるべき「オトナ帝国」において、敢えて湯浅を「拒絶(スタッフが、ではなく、作品が、と言った方が良いか?)」したのである。同時に彼等は、アニメの20世紀を描く事も、また21世紀を描く事も、「ニオイ」という不可視の事象の中に封印してしまったのである。
(尚、「アニメの20世紀はアニメート描写として描いてあったじゃないの?だってパースも常識的にちゃんと合わせてたみたいだし」という御意見も出よう。しかしそれは当然ではないか。われわれは、20世紀のアニメならもう既に知り尽くしているのだから。肝要なのは、その「20世紀的アニメ」の素晴らしさを強烈なインパクトで見せ付けるカットが殆どなかった事、そして「ニオイ」というモティーフで、「想い出のの20世紀」を視覚的に描写する権限を「20世紀的アニメ」に与えなかったという事にこそある)
こうして「オトナ帝国」が獲得した「痛みを以って総てを傍観する視座」は、その感動的なドラマドゥルギーとは裏腹に、最もクールな視線でアニメの二つの世紀を総覧すべく、その歴史的意義を携えて立ち現れたのである。それは言わば、「エヴァ」「もののけ」によるアニメの20世紀の「終焉」以降、未だ来らないのにとっとと来てしまった21世紀において、なくてはならない「視点」(一寸憶えたての単語で言えば、正にアニメの「構造」として)をわれわれが獲得した瞬間に相違ないのである。<第一部・完>
・・・さて、音に関しては、アニメは視覚芸術だしいいや、とも思ったが一応。至る所で多用されたかに見えたあの「想い出のポップス」だが、実際良く見て(聴いて?)みると、パッと聴いただけでは解らないインストゥルメンタルアレンジがかなり多く、作品の本質を出現させる手段として「なつメロ」に頼ろうとしている向きはほぼない(「時には母のない子のように」は是非カルメン・マキで聴きたかった!)。本作における音楽の役割は、結局パロディとしての世界観のリンクの一環に過ぎず、「ニオイ」に対しても絵に対してもその優位を示し得るものではないと言える。
やたらな長文になってしまったが、最後に一言。眠田直が語ったとされる(まだテクストはあたってないんだけど・・・)「この作品は『エヴァ』の延長上にある。オタクの中で仮想にしがみ付きたい欲望と現実に還らねばという切迫感は今も交錯し続けているのだ」ていうアレ。何か如何にも情けないオタクを哀れんでいるかのようにも聞こえるが、「エヴァ」にしても「オトナ帝国」にしても、その奥で怒涛のように蠢いている細部が「答えのない質問」に向かって一心不乱に突き進んでいる様を見る事の出来ない、或いは見て見ぬフリをする輩に、オタクを哀れんでやる資格はなかろうが。そんなヤツはとっとと「虚構と現実がぁ。アレどっちがどっちだっけ?ウヒヒヒ」と囁き合っているモーレツ!オシイ帝国で幸せに暮らすが良い(オシイ、トンだ飛ばっちり!)。
・・・あ、ゴメン、これでホントに最後の一言。ラストでうずくまるチャコをケンが抱き留めるあの感動的なアクション。・・・原はちゃんと、そしてこっそりと、アニメの「21世紀」をわれわれに示してくれているではないか。この心憎さ!!憎いよコノォー!ど根性ガエルゥー!!<第二部・完>
(06.08)
<Dies irae>
怖気付いて沈黙してはならない。
沈黙は恐怖と空白を喚起する毒薬である。
今は奮い立って語らねばならない。
何かを、何らかの言葉で。
語り掛けなければならない。
先ずは合掌せねばならない。
「いま」がこの狂気を孕んだのではなく、
ヒトの狂気に対し、「いま」が(いや、「いま」でさえ)無力であるという絶望に
恐怖し、狼狽しなければならない。
ヒトに就いて考えねばならない。
狂気に就いて考えねばならない。
語り続けなければならない。
これからである。
「キチガイだから」で済ませる余地は、もうあるまい。
日本語解る?もう一回言うよ、「キチガイだから」では済まないよ。
深読みせよ。
(06.09)
一寸あちこちで頑張って書きまくったから、ここで書く事なくなったよ。
まぁいいか。もう正気も狂気も含めて兎に角言葉を連ねている。
これ見てくれてるヒトいたら、聞いて。言葉を枯らしてはダメだよ。
語り続けるんだよ。
かつて半年間言葉を失って生死を彷徨った俺が言うんだから間違いない。
(06.11)
・・・。
やっぱり忘れたがってるんだよな・・・。
そういうヒトの首根っこ捕まえて思い出せ!!ソラ思い出せ!!という権利は流石にない訳で。私には。
難しい。頭を抱えても答えのきっかけすら出ない。
苦しい。
それでも語る。でも結局他で書くのは憚って、ここで。って誰か見よるのかな?
明日からも、出来るだけ多弁である事を心掛けて欲しいです。
黙ってはなりません。肺の空気を目一杯入れ返るように、話し続けると良いです。
無理して明るくする必要はないと思います。
みんなで何度も泣き続ける事だって良いと思います。
吐き出して、吐き出して、
でなければ、体内の毒素を持ったまま今後を乗り切れる訳がないからです。
恐怖は毒です。不安は悪魔です。今回それをみんなが学んだ筈。
語り続けて下さい。
希望は語り合う者同士が綾なす信頼の場にこそ生まれる筈です。
・・・ってワシゃカウンセラーか。
まぁ良い、偽善者呼ばわりも結構。おーいここに偽善啓蒙ヲタークがいるぞー!!これ見てる2ちゃんの良い子たちー!石投げろー!!そろそろヤマカンスレも夢ではない??
・・・バカバカしい・・・。
冒頭のエンヤ、当たっちまったなぁ。気分として。
(06.12)
行って来た。
花を添えて来た。
何も変わっていない、記憶にある通りの校舎だった。
通わなきゃ。
あそこを陸の孤島にする訳にはいかん。
(06.14)
アレ以来どうも興奮状態から抜け出せないので、気晴らしを。
チャン・ソヌ「LIES 嘘」@テアトル梅田。
・・・ただのAV。2時間の。1800円の。
これレンタルで家でコスコスしながら観るなら腹も立てないだろうに。しかし女性客多いなぁ。これ上映終わって声掛けたらOKって事?恐くて出来なかったけど。
撮り方も何も、こんなにAVなのも珍しい。もー、こんななんやったら俺が撮ったろか?と思ってしまう。カメラが気にしてたのは陰部の隠し方位か?
キム・テヨン脱ぎ損。でも彼女は良かった。イ・サンヒョンも及第。
パンフにあったサエキけんぞうのコメントも吃驚。
「僕は韓国映画のセクシュアリティをナメていたのだ」
・・・ロマンポルノで終わってるの?このヒトのH映画体験。
(06.15)
・・・一息。
仕事しなきゃ・・・。
書きそびれたF.W.ムルナウを二本。
「吸血鬼ノスフェラトゥ」。
すっげぇメイク!これだけで充分。マジこわ。
吸血鬼と言えば真夜中活動する訳だが、サイレントの当時は所謂「アメリカの夜」。
これが何とも異様。白昼のトランシルバニアの森にポツンと立つ吸血鬼の強烈な不気味さ!
そしてあの影!元祖やなぁ。あの爪の長いのが効いてるんやね。・・・パクらせてもらいましたけど・・・。
それ以外は人物描写とか、もう一つ組み立てが未完成の感。
「サンライズ」
傑作である。何度も泣いた。
冒頭の多重Expは何とも演出過剰やなぁ、と思ったがジャネット・ゲイナーの妻が、まぁ可愛い!街から来た如何わしい女に自分のダンナを横恋慕されてる時の哀しみ。それでもダンナに愛と信頼を捧げようとするけなげさ。そしてやがてダンナと和解して図らずも街でデートする事になった時の、正に子供のような溌剌振り!本当に愛らしい。教会の結婚式を覗いて本当の愛に気付き号泣するダンナを膝へ招き、頭をなでなでしてやるその慈愛!もうこんな女はいないのか。ヒトはヒーローやヒロインたる事を忌避して、一体何処へ向かおうとするのか。・・・それで賢くなったつもりなのだろうか?賢くなったんなら、ねぇ・・・。
信頼というものの強度をグリフィス顔負けの強烈なカッティングでグイグイ高めて行くムルナウの力技に感動。遊園地での子豚の追いかけっこのシークエンスでしたたかに見せる卓越した技巧、ダンナに殺されかける行きの舟上シーンでの不安な細波、それと対比を成すかのように和解した二人を襲う帰りの舟上シーンの嵐!助かった妻とダンナが真の愛を確かめ合う姿にディゾルブされる、あのサンライズ!素晴らしいショットは枚挙に暇がない。この確信、この映画への揺るぎない信頼の強度は、当時だからこそ可能だったのか?今や映画を無闇に信じたら、映画に見捨てられ続けているにも関わらずまだ映画を自分のモンと勘違いしている哀れな亡者供に足を引っ張られるのがオチなのに・・・。
信じるという行為のハウツーを忘れてしまったヒトは、是非観て下さい。
信じるという行為は愚行である。しかしその愚行に身を浸す事の出来ない賢しら心に、この世を行き抜く強度は生まれない。
それを証明したのが、今回の事件でしょ?強引にリンクさせておしまい。
(06.18)
あれ以来、ずっと吉松隆が鳴り響いている。
交響曲第二番の第三楽章とか、交響曲第三番の第一楽章とか。
特に「朱鷺によせる哀歌」。
これと同タイトルで一本撮ろうと、最近思い至った。
これで私は、「彼」と同じ大罪を背負う事となるだろう。いや、寧ろその為に、やる。
出来れば今日も仕事行きたかったのだけど・・・。りんたろう「メトロポリス」@三番街シネマ。
凡作である。期待外れ。何より、上手さを全く感じさせない事に失望した。「X」もアレだったから、もしや、とは思ったんだけど・・・。
本当に上手くない。テクニックを感じさせない。カネと時間があればどんな凡人でも創れてしまうような、そんな程度。あっと思わせるカットが一つもないのは逆に驚きですらある。
脚本・演出・作画・美術・デジタル・編集・ダビング。総てに対してツッコミ所満載。誰かDVDとか買ったら私を呼んで下さい。総てのカットをどうヘタクソなのか丁寧に説明して御覧に入れよう。ていうか、それが出来てしまうフィルムなの。
特に「リアルさ」?を目指した作画。詰め指示の杜撰さと言い中割りの稚拙さと言い、目も当てられん出来。モブでちょこまか動かしても、何だかセルゴミに近い、邪魔にしかなってないセルすらあって、何という統制の悪さ。喋ってる時に人差し指立てたり両手を広げたりするのを「リアルな芝居」とはどの口が言うか!?往年の手塚アニメ独特の癖というか、それへのオマージュと言ってしまえば聞こえは良いが、本当に枚数の無駄遣いの典型で、しかもスローモーションの処理で(4コマ打ち、5コマ打ちにこそしていないとは言え)枚数的に日和ってしまうヘタレ振り。
それ以前に、スチールで見た「光と影」の繊細さは何処へ行ったのか?無秩序にぶちまけられた色彩の汚物。美術、良くない。これをモノクロに変換して観れば一発で解ってしまうだろう。時代掛かったワイプやアイリスを多用している所から、恐らく「本家」フリッツ・ラングを始めとしてサイレント映画の陰影を意識したに違いないが、全くの無策。そうるていかぁの二の舞。そう言えば当のワイプ・アイリス、溶明溶暗の場違いさは如何ともし難い。これくらい私の所に訊きに来てくれれば解る範囲で教えてあげられたのに。
そしてデジタル・3D。全くやかましい。3Dの特権を生かそうと絶えずカメラが動いている非倫理的演出はまだこんな事してるか。プレステ2でやってろ。あの雪!物量に物を言わせてるのは良く解ったが、手前のレイヤーの透明度やフォーカスまで考えてないから、ただやかましい。こんなの来てくれたら俺が教えてあげるのに・・・。あ、フォーカスと言えば、BGに3Dを置いた時にデフォーカスが出来ない臆病振り!その時点でもう、早く帰りたいとしか考えなくなった。
まぁそんな中で、ラストの大崩壊シーンだけはりんの御家芸だけあって流石に良かったが、前日「999」劇場版二本を部分的に観て、その出来に改めて感激した者としては、何ともやるせない作品である。ホントに最近はIGと言いマッドハウスと言い、どうなってんの??もっと上手くなってよ!!
(06.20)
<八つ当たり>
かの天安門事件の時は「中国政府は殺戮を止めろ!」とデカデカとスタジオに張り紙し、
かの阪神大震災の時は「テレビで不毛な議論してる暇あったら現場へ行け!」とスタッフを遣し、
第一、「幼き少女達への手紙」と公言する作品を現在制作中である筈のあの「巨匠」が、
今回の事件に対し何らアピールをしていないのには呆れてモノも言えん(ジャイアンツですらやろうとしてるのに!)。
もし封切りまで何ら触れられる事がないなら、その耄碌振りと金の亡者振りに、みんなで手を合わせてあげる事にしましょう。南無。
・・・しかし、全く不毛な仕事ばかりが増える。
アニメとは本当に、何て役に立たないんだろう!
恥でこそあれ。
恥だ。
(06.21)
・・・「メトロポリス」繋がりではないが。
フリッツ・ラング「暗黒街の弾痕」。
「M」にしても、ラングのフィルム・ノアールはどうも居心地が良くない。悪くはないんだけど。やっぱり「メトロポリス」とか「ニーベルンゲン」とか、審美的な大作こそ彼に相応しいのではないか。それにドイツ語でなきゃ。
元総長が言う程嵌れなかった。あのカエルにしても、・・・使い方ヘン。
カット割りのテンポはグイグイ来るし、トラヴェリングはシャープだし、影の使い方は流石、と思わせるのだが、意外と印象的なショットは少ない。何だか妙に当時全盛のハリウッドに合わせた格好に見える。悪くはないんだけど。
後半ヘンリー・フォンダが刑務所を脱走しようとするシーンで立ち込める霧も、御家芸だが些か場違いの感。最後の主人公夫婦が車で逃走し警官に妨害され転倒するシークェンスには驚くべき大胆なカッティングが登場するが、斬新というよりかは杜撰という印象を持ってしまった。ゴダール辺りが範とするのは無理ない事だが。
(06.22)
うただが曲を附小の一人に捧げるそうだ。
エエやっちゃなー。
ほんに、アニメの役立たなさがますます浮き彫りに・・・。
これで「子供に夢と希望を」なんてモノとは全く無縁のメディアである事が解っただろう。
アニメにこそ鎮魂歌を。
ついでに。
常々思っていたが、
「偽善」という言葉を平気で口に出来る白痴サンは、善か?悪か?偽善か?
そもそも自分をどれだと思ってらっしゃるのだろう?
偽物だ!と決め付けられるんだから、勿論ホントの善を知っているんだろうな。え?白痴サンよ。
(06.26)
<こじつけ>
最近欠かさず新聞を買って、携帯でNHKと時事通信をチェックしているのだが、
遂にNHKが気付いた。
「付」にこざとへんが付いたのだ。
実にバカバカしい話だが、「付」が「附」になる日が、大きな前進の日であるという思い込みが、兼ねてよりあったので。
何ちゅうのかな、願掛け?いや違う、おまじないみたいなモン。
でも、裏腹に、後退する一方のような気がするようなしないような・・・。
もう、眼が辛い。限界。
やんぬるかな。
(06.28)
闇雲に疲ればかりが溜まる。
眼が辛い。
「アニメを如何にして食い物にするか」の会に出席する。クソ忙しいのに。
ぽっかーんと口開けながら聴く。
大の大人がアニメについて語るという行為自体が如何にカッコ悪く破廉恥であるかを痛感する。・・・嘗て私もやった通り。
良い子のみんなー!アニメの未来は明るいなんて言う偽善的なオトナには騙される事なく、これからも民族浄化の為にどんどん汚いヲターク達を駆除して逝こうね!あぼーん。
(06.30)
雑記三つ。
スタジオ「火の車」ジブリが遂に出した!「ナウシカ」以降の絵コンテ全集!!
もう首をなが〜〜〜〜〜くして待っとったーよ!!早速「トトロ」購入。
溜息が出る。素晴らしい。
技術・体力共に全盛期の宮崎御大の漲るパッションが伝わって来る。躍動感と節度の最高次のバランス!あのレイアウト!
傍の後輩が、
「やまもっさんも、この位描ければね?」
ここまで描けたら、演出辞めて原画やっとるわい!!
「もののけ姫」の疾走するアシタカに涙出来る者は、
21世紀を生きる資格を授与された事になるだろう。
終焉と開始を同時に示し得た「もののけ姫」、やはり稀有の作品なのであって。
いや、いいから、仕事させろヴォケ。
今月は、ローポジとの闘い。他にも一杯あるけど・・・。
妄想ノオト
今月の一枚:
1971年春、能登で捕獲された本土最後の朱鷺が死んだ。
その時、青空を飛翔する朱鷺の姿を初めて写真で見た。
泣きたいほど美しかった。
それ以来、淡い白色の鳥たちの嘆きの歌が
空のどこかで鳴りつづけているような気がする・・・
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2001年07月
(07.02)
実家からタクシーで行こうと思って運転手に、
「だいきょーだいふぞくいけだこーこーまで。あ、こーもんまででいいにょ」
と言っておく。向こうも
「あ、こーもんまででいいりゅん?なかにはいらなくていいんりゅん?」
「いいにょ!」
附小の正門に辿り着く。
さっきの会話は一体・・・。
花束が千羽鶴に代わっていた。
高校の校舎に張り紙。
中止になった文化祭の代わりに興そうと躍起になっている「特別行事実行委員会」。
略称「特行」。
・・・。
丁度買っていた「最終兵器彼女」5巻と哀しくも見事にシンクロしてしまった。
あたし達の街は平和ですか?
疲れた。イカレそうだ。
前の晩サンテレビでやってた佐藤雅道「はいからさんが通る」。
頭20分位の時点で偶然見付け、バカにしながら観てたら最後まで付き合ってしまった。
演出はいたってオーソドックス。マスターショットとクローズ・アップの切り返し。アクションのあるカットは引きのドリーでじっくり見せる。東映特有のハイキー気味のローコンな絵創りは本作の大正浪漫には丁度良い。白をベースとしたすっきりとした色彩感も然り。
それより何より南野陽子が良かった!こんなに上手い役者だとは思わなかった。紅緒のおきゃんで凛とした身振りを存分に演じている。表情のひとつひとつが実に多彩で「素」が入らない。それが色とりどりの衣装の艶やかさで更に助長される。特に伊集院の葬式の時にまとったあの純白の留袖!譬え様もないエロスが存分に漂い、威厳すら感じられる。もうオリヴェイラなんか観なくてもこれで充分やん!
更にもうひとつ、ラストに感動は容易されていた。本田博太郎の配役は伊達ではなかった!「北京原人」は東映の御家芸なのだという事を実感した次第。しかしそれまでかなり奇麗にまとめてたのだから流石に勿体無いの感もひとしお。
(07.03)
癒されてぇー!!
癒し系グゥ。
ばんにゃ〜〜い。
(07.04)
メフィストフェレスに打ち克つ為には、
人はファウストにならなければならないのだろうか?
七夕には天空を見上げる。
(07.06)
「SAPIO」買う。
概ねにいさんと同じ感想だが、異論も有り。
詳しく書きたいが、・・・後日。
近頃密かなブームっぽいジャン・ユスターシュ「ぼくの小さな恋人たち」。
「最後のヌーヴェル・ヴァーグ」とゴダールの評。そう、だから、眠い。観る為に起きてるつもりがやがて起きる為に観るという羽目に。何が哀しくて腹筋しながら映画を観にゃならん?
登場人物の背後にある壁。タイトなフレーミング。余韻を残さないカッティング。いずれもヌーヴェル・ヴァーグそのものだが、さて果たして、あの頻出するF.Oはさほどの意味があったのか?それと北野以上に徹底したリアクションの欠落。誰も眉をピクリとも動かしゃしない。・・・だから良いって訳でもない。こういう「手法についての手法」ならゴダールに任せとけば良いんじゃないの?何だか、それ以上のものを感じさせない退屈さ。
出て来る少女達がみんな異常に可愛かったのがせめてもの救いか。その為の作品だったりして。
信じるという事の困難さに、
打ち克つ事の出来る勇気が
育まれて行きますように。
短冊にはそう書く。
なかなか痛い文言である。色々とね。
(07.07)
批評なんてみんな思い込みと勘違いの産物にょ。
(07.08)
一ヶ月経った。
その一ヶ月で信頼の度が遥かに増した産経・毎日は1面を始め紙面を大きく割き、
一方「わざとなんじゃないの???」とすら思える程のヘタレ振りでわれわれを楽しませてくれた朝日・読売の内、朝日等は案の定参院選に気が気でないらしく・・・。
考えてみれば、TVに置き換えたら一目瞭然だよなぁ。フジ・TBSにテレ朝・日テレでしょ?
ま、いいけど。たかがキチガイが8人のガキ殺しただけだもんな。
でしょ?
そう、人は日々死に行き、
次の日また甦るのです。
今日の映画と明日の映画は
別のものになっているはずです。 マノエル・デ・オリヴェイラ
待望のオリヴェイラ!!会社で宣伝したからには行かねばならぬ。今日会社に行く筈がそのまま梅田まで(いや会社にはその後行ったんだけど)。
マノエル・デ・オリヴェイラ「クレーヴの奥方」@テアトル梅田。
冒頭の数ショットで、「世界最大」オリヴェイラの強烈な閃光に貫かれる。あ、違った。冒頭のライヴ会場は別にいいや。いや待て、あのタイトルバックの控室のカーテンがゆらー、ゆらーと微妙ななびき方をしている所からしてもう、あ、こりゃやられたな、と。
カトリーヌとクレーヴが接近するコンサート会場は堂々たる横綱相撲。構図、照明、カッティング、台詞や演技のタイミング出しまで、「これがエイガよ!!どうよ!!」と圧倒的な力感と恐ろしいまでの余裕で見せ付けられて、たかだか26歳の御子ちゃまであるこっちはもうへへー、これぞエイーガでごじゃりまするぅぅぅぅ、と平身低頭するばかり。ゴダールなりエリセなりヴェンダースなり、このテの映画を撮るヨーロッパの「若手」の監督は、どうしても自分の「遅れて来た」世代としての限界とコンプレックスを自覚する余りか、画面に過度に「個」を植え付けようとするきらいがあり、しかしそれはもう仕様がない事。ところが一方、今年御歳93歳の老巨匠は正に「映像=運動」だった頃の生ける証人!小賢しい個性付けとは全く無縁の映画の剥き出しの姿がそこに顕れているではないか!
キアラ・マストロヤンニ!オヤジそっくり!彼女が独特の片フレームで凛と立つその姿!ナンノで充分と言った先日の妄想、反省致します。やっぱりオリヴェイラは格段にエロいです。だってあの黒髪に黒服!黒!この黒の官能はどうよ!黒!「黒は女を美しく見せるのよ」と自覚的ではあったミヤザキだってちっとも再現出来ていない、この深遠なる黒!映画は闇なのだ!この闇を表現できたのは最早溝口一人であろう。逆光!嗚呼、こういう風に画を創りたいのに!!何度言っても口で伝えるだけじゃ誰も解ってくれない。これ観てよ!自分が如何に色を知らないかがよーく解るから。
別荘の美術がまた素晴らしい。ドアの白、廊下の壁紙の金、家具のくすんだ褐色!そしてそこに忍び込む、黒!またその色彩と方形的デザインを存分に生かし切るフレーミングにトラヴェリング!これ観て勉強しようね。無駄かも知れんけど。
全く弛緩しない長回し。延々続くダイアローグの切り返し。ダイアローグ・ショットをこれでもかと引っ張れる演出は信用するに値する。バカは映画の堅牢なる姿には怯んでしまうものだからだ。並木道の落ち葉の落ち方までもう、すっかりエイガ!紙飛行機落として喜んでる場合じゃないっすよ!殿!
しかし、唯一にして最大の不満は、何と言ってもあのブッサイクなロック歌手!!至る所で雰囲気丸潰し。パンフの河原晶子は一生懸命好意的解釈を施しているが、でもこれってどう観ても、「ワシだってナウなヤングにトレンデーな映画を撮れるんぢゃよー!うしゃしゃしゃ」というオリヴェイラの意地にしか見えないのだが・・・。まぁそうやって素直に感動させる事を拒む若々しい反抗心かも知れないが・・・。せめて顔で選んで欲しかった。
(07.11)
詰んだ!
これじゃ虻蜂とらずだよー。
身体が附いて来ん。はひゅー。
愛を下さい。ZOO。
(07.12)
苦しむ人を撮るには、
先ずカメラが苦しまねばならない。 クロード・ランズマン
(07.14)
最近「妄想」のカウント数が芳しくないのだ。インデックスに比べて。
何かマズい事書いたかなぁ。いやマズい事しか書いた記憶がないのだけれど。
エイーガ評、短めに二つ。何れも資料用に観たやつ。
小津安二郎「秋刀魚の味」。
小津映画なのだから、他の作品といたって同じ。ローポジ、ダイアローグ、独特である。ただこの松竹初期の安っぽいカラーは何とか出来ないものか。
それに冒頭の煙突群からして、少し変化を付けようという意図が見られるのは気のせいか。トラヴェリングこそなかったとは言え、あの岸田今日子(!)を交えての軍艦マーチ等、小津らしからぬあからさまな大胆さを感じるのだが。それに最後出て来るあの階段!確かにゾクゾクっと来たねぇ。
それにしても若き日の岩下志麻!可愛く品があるのは良いけど芝居の下手な事!如何にも「ここで何秒喋って、それからイチ、ニ、で振り向いて」と指導されたかのような所作。・・・でもヘタなのは今も一緒か。
アレクサンドル・ソクーロフ「静かなる一頁」
・・・言ってしまえば、タルコフスキー?そんな粘り強いカメラワークと陰鬱な画面が支配する些か如何わしい世界。ていうかやはり眠い。
ドフトエフスキー的世界が確かに広がってはいるのだが、映像そのものの如何わしさに遮られてどうも、のめり込めない。フレームの存在を感じさせないフレーミングやピント等観るべきものはあったのだが。あ、この感じ、ブレッソン?
光るように美しい娼婦の少女は確かに良かったが、もっと弄りようがあったんじゃないの?
(07.19)
総てのアニメが無駄なスライドやパノラマから解放され、真の「生気宿る=animational」フルアニメーションとして今こそ生まれ変わらなければならない。
時は来た。眼を逸らすな。
・・・「フルアニメーション」ていう言葉、使い方間違っているのは解ってるんだけど。・・・何か良い用語ないかな?あ、ついでにanimationalなんて単語もないYO!
(07.21)
このクソ忙しいのにレンタルビデオ返し忘れるやらビデオデッキ壊れるやらカバンのチャック壊れてガバガバやら社長に食事に誘われるやらモー散々!!
こういう時って、最悪の事態の前触れなのだが・・・。せめて「ぐー」くらいは救われてくれる事キボンヌ。
(07.29)
久し振りに家に還る。
・・・言葉にならない疲労感。
見事なまでに、必死にもがけばもがく程手から零れ落ちるものが余りにも多い。最近だけじゃねぇや。この3年間ずっとそうだったーよ。
もう、疫病神がいるとしか思えんなぁ。すぐ近くに。
ただ、疫病神如きに負けるのは生きとし生けるものとして死よりも辛い恥なので、まだやります。
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2001年08月
(08.07)
・・・夏が終わる・・・
面倒な事が次から次へと・・・。
また塩でも蒔くかぁ。
毎年これか。
しかしねぇ、こっちが折角打ち合わせの時「小津で」「三角構図で」とクドクド言っているのだから、その言葉に込めたレイアウトとの、フレームという四方との覚悟ある闘いの意志を一人位読み取ってくれても罰当たんないんじゃないの?
・・・まぁハナから諦めてたけど。
絵描きなんだから、中学美術の教科書程度のものは読んどこうぜ。プロなんだし。
(08.08)
訃報が次々と飛び込んで来るこの小愉快な厳戒態勢の中無理して抜け出して旧友と会って、またヘコむ。
自分探しの旅に出ます。いいんです、ほっといて下さい。
(08.10)
家に帰らせろゴルァ!!!
(08.17)
<伝説を作りたかったんだって>
ふ。
・・・奇跡が起きたのですよ・・・。
「ルサンチマン」でも観て一から勉強し直したまへ。
<追記>
あ、いるね。嗅ぎつけたヤツ。
別にいいよバラしても。盛り上がりそうだし。むふふ。
・・・ってまた当分こんぴーた触れそうにないんだけど。
(08.24)
つーか寧ろ日曜梅田ディスクピアにぞぞぞぞぞぞぞZONEが来るぅ!!!!?
今世紀最大のイベント、真の預言者降臨に君も立ち会おう!!
結局これくらいしか楽しい事ってないからねぇ・・・。
(08.25)
努力する程、
反動が大きいのが俺の常。
まぁいいよ。いつもの事だし。
(08.26)
2ちゃんが潰れかけてるねぇ。
う〜ん、何か不思議な因果・・・。
取り敢えず今TVに出てるTOMMY Feb.6のメガネに突如萌え。
(08.29)
<取り敢えず小倉優子マンセー>
三連休。・・・今となっては夏の終わり。
静養すら出来ず。
・・・毎年こうですから。死ぬまで。
<水の記憶、闇のエロス>
批評そのものが創造である。 ブルーノ・ワルター
日本の文化に最も疎いのは日本人である、というのはもう仕方のない事。それはどうやら日本に限った事ではないらしい。だから日本のアニメをちゃんと観る事の出来る視力を持った者がそうそういる訳ではないという事態を今更嘆くのは止めよう。何せ創り手の眼がここまで腐ってしまっているのだ。何もかもメクラの愚民供のせいにするのは所詮大人気ない所作。
しかし、それでも、日本には、「いてしまった」のだ。アニメに祝福された男が。どれだけ齢を重ね心身共に時代との齟齬を生んで苦悩しようが、メジャーネーム故に有象無象の盲目の餓鬼供の醜い嫉妬に苛まれようが、彼はアニメーションに愛されてしまったのだ。彼の創作は、そのアニメーションの強圧的とも言える愛に、ただ誠実に応えているだけなのだ。それは何より悲劇である。だが、それは創作に携わる者ならば誰もが夢見る、「悪魔との契約」という甘い果実なのだ。
宮崎駿「千と千尋の神隠し」@三番街シネマ。最高傑作である。
宮崎アニメの為の宮崎アニメ。日本アニメーション史の為のアニメーション。ゴダールの「映画史」に匹敵する最高級のドキュメント。正直言って子供に見せるのは惜しい!ていうか見せるなよ勿体無い!!これは宮崎アニメの20年史(それ以前は取り敢えず忘れて)を共に生き抜いた者が、ひとりこっそり、酒でも片手に涙して観るくらいのほろ苦いレトロスペクティヴなのである。勿論本作はそれに留まらず、「もののけ姫」によって自ら終止符を打ったアニメーションの半世紀を自ら復活させるという奇跡的偉業には相違ないのではあるが、冷静に見ても矢尽き刀折れた感のある21世紀の日本アニメーション界を生き続ける者達が、万感の想いでその眼差しを向けるというそのセンチメンタリズムは、今や許されて罰の当たるものではあるまい。
アニメの今が、それ程までに絶望的だというのは、誰の眼にも明らかではないか。
冒頭。全く期待してなかった(あの予告篇の不出来は確信犯か??)観賞前の気分にピタリと嵌る。良くない。妙にごわごわ動く車の内部。いてもいなくても良い両親のデザイン(どうせブタになるのだ!)。ただ使いたかっただけのCGフォロー。その割に車窓の外は古めかしいBG引きで、こういうのこそ3Dにせんかい!!縦構図のフォローは殆ど3Dで処理されていたが、長年の夢が叶ったのか嬉しそうに多用して、悉く失敗。何より速過ぎるよ!
眼前に見晴るかす湯屋の全景。レイアウト悪ぃー。ここに限らずカメラが安定しない。計算が成り立っていない。高畑なら異世界に飛び込むまでは千尋の眼に寄り添う様にローポジションで押すだろうに、妙な所で登場する俯瞰ショット。これがまた画単体としても決まらない。「三千里」で見せた天才的な俯瞰レイアウトすらここにはない。無理矢理リズムを作ろうという目的以外に何の意味もないズームにパン。天才故の不備。宮崎の弱点が出てしまった。それにしても湯屋の橋や柱の朱は折角なんだからもっと往年の大映みたく極彩色にすべきじゃないか!!この地を「失われし場」として表現したかったのかも知れないが、亡者に合掌する聞き分けの良さは果たして本作に必要だったか?ジブリの御上品さ(その実そうでない事は誰もが知ってるのに・・・)が裏目。
それが突如、劇的な変化を見せる。闇が姿を見せたのだ。忽ち活気付く湯屋。魑魅魍魎のイマジネーションの洪水。それを支えるべきカメラが本調子になるには若干時間も掛かったが、生気を取り戻したアニメート表現は尻上がり!何よりあの闇!中盤から後半の大部分を占めるこの「闇」が語るものは如何に大きいか。「闇のファンタジー」とはル・グインだったか、何かを指して羨むように宮崎が附した称号だったと記憶しているが、遂に宮崎自身がそれを表現し切ってしまったのだ!IGの御友達もマッドハウスの御友達も、これを観てアニメにとっての「闇」とは何なのか、しっかり学びましょうねー!そのアタマがあればの話だけど。ただ暗くしただけでは見えなくなってしまう。明るくすればリアリティが減ずる。アニメは適当に光源を置いたりセルとBGとの明度のバランスで逃げようとしたり苦心して(「火垂るの墓」のセルの暗色が異様に明るかったのは改めて吃驚!)、結局「ジャパニメーション」とアメ公がバカにするに至るどうでも良いが一応は独特な陰影の表現を漸く獲得したのだが、それを宮崎はとうとう飛び越えた!「もののけ姫」の森厳たる夜すらここにはない。暗く、おどろおろどしく、卑猥で、そして静かな「闇」が、そこに広がっているという何たる快挙!新しい宮崎のエロス、「闇のファンタジー」の誕生である(それにしてもやはり湯屋の内部は「総天然色」でギラギラにして欲しかった!)。
闇のエロティシズムに誘われて、もう一つのエロスが顔を出すのをわれわれは見逃すまい。「水」である。ガラスから何から、セルにごちゃごちゃ付けられたハイライトや二号影が時代掛かって五月蝿いなぁと鼻白むもやっと納得。総てはこの水の生々しさの為。ここで宮崎アニメの、特にオールドファンが涙すべきなのは必定の事実。「水の記憶」と評された(誰が評したんだっけ?)あの「カリオストロ」以前の、生々しく淫靡な宮崎アニメの復活が、ここに強い批判性を以って甦った瞬間に立ち会える喜び!これを自作の使い回しとはどの口が言うか!?アニメへの無知、その野蛮な心性を心底怨むが良い。アニメにとって「闇」とは何か?「水」とは何か?それはアニメート表象の20年を作り上げた創造主自らが立ち向かった、アニメート表象自身への厳しく激しい問い掛けのプロセスなのだ。それすらも解らないバカが、おにぎり食べながら千尋が涙するその異様に大きく黒い涙の素晴らしさに気付かないのは至極当然。もうええやん、知識人ヅラしたいのか何なのか知らないけど無理してアニメ観なくてええやんか。少なくともアニメがアンタ如きの為に作られている訳ではないという事くらいこれで解ったでしょ?後は大人しくシスプリか何かでハァハァやっといてよ。悪い事言わんし。
それにしてもこの水の強度はどうだろう!水の猥雑さを空への飛翔感へと転化して、同時にロリコンの如何わしきエロスから(ある程度・・・)解放された宮崎アニメが、今や開き直ったかの様に様々な液体や体液をどうよ!どうよ!とばかりに千尋に浴びせ掛ける!体液浴びせ掛けと言えば確かに「もののけ姫」のサンとて同様だが(「もののけ」で唯一印象的なのはポスターのサンの口に付いた血の生々しさだ、と私に語った某教授の言葉が懐かしい)、本作では多種多様の水のヴァリエーションでそのモティーフの主張は比ではない。あの海をCG処理したのはデジタル大成功例の一つ。その質感の違いを云々する者は結局あの「河内山宗俊」の雪を「なんや、ただの紙やんけ」とのたまえる愚か者である。その紙の雪を降らせるタイミングやスピード、カットワークの中での役割等を知り尽くした者のみが果たし得た映画的奇跡を、今この場で味わえようとは!勿論あのデジタル海の泣きたいくらいの透明感は、オクサレさまの臭い垢やカオナシのゲロ(笑)、そして何より千尋自身の涙の雫にまで執拗に付けられたハイライトと二号影のエロティシズムと完璧なまでの対比を成せばこその劇的効果である訳だ。動画の鉛筆線やセルの絵の具そのものに質感等ないというのと全く同様に、CGそのものにも質感等ある筈がない。質感とは、あくまでコラージュの産物なのである。
夥しい「水の記憶」と共に立ち現れた「古き良き」宮崎アニメの歴史は、同時に日本アニメーション史への記憶へと帰着する。宮崎はその事を十全に意識していた。これ以上ないという程の批判的分析を経て、しかもそれを感じさせない程の躍動感を得て復活する「宮崎的」モティーフの数々。コナンのあのダイナミズムの象徴だった「壁伝い」のモティーフは、前以って階段から下を臨む主観ショットを腰が抜けそうに一段一段降りて行くシークエンス(某美容師のにいちゃんが「ああいうコワさって誰もが一度は夢で見るモンですよね?ああいうリアルさを描くって上手いなぁ」と言ってのけたのには脱帽。髪切りも流石にアートである)を伴わなければ、この21世紀には成立しなかった筈だ。「エ!!千尋にやらせるか??」とさえ思わせた縦構図を奥から手前へ2、3歩でダダダッと駆け抜けてしまう所謂「コナン走り」も、こういった入念な批判性があってこその爆発的ダイナミズムであり、これがなれば確かに文字通り「宮崎アニメのパロディ」で終わっていただろう。しかしここまで来れば最早宮崎一人の天才を褒めそやす訳には行くまい。「もののけ姫」の壮絶なる死闘を演じた安藤雅司のIG的リアルさに重心を置いた作画技術がどれ程貢献しているか。ジブリはこの安藤一人を育てただけで充分役目を果たしたのでは、とは言い過ぎか(ところで動画酷かったか?韓国の手が入ってたとは言え、良かったよ。少なくとも何処かよりはNE・・・!)。
もう一度観直してみよう。散りばめられた「宮崎的」モティーフはまるで小津映画の豊かな細部のように動的に戯れる(小津映画こそはワンパターンじゃ!!だからこそ日本最高なんじゃないか!!!)。解り易い湯婆婆はドーラ(声まで!)、釜爺はモトロと「ラピュタ」コンビ。少女の成長を助けるには相応しい人選か。ススワタリに到っては最早スター・システム。オクサレさまのドロドロ感は「ナウシカ」の巨神兵。庵野の牙城を切り崩したヤツは誰だ!?一方「トトロ」のモティーフは言わずもがなのススワタリ始め、おしらさまやカオナシ等のもののけ達に分散されてほのぼのと息づく。もののけと言えば元祖「もののけ姫」の造形はハク竜の獰猛な姿にモロが重なる。という事はハクを全身で抱き締める千尋の姿は「もののけ」の抽象性から解放されて「コナン」「カリオストロ」の甘酸っぱいエロスにまで遡り、その20年の時を越えた作品同士の熱い交流には胸打たれずにはおれようか。
そして極め付けは終盤。畳み掛けるような独特のドラマトゥルギーに絡め取られ、昇華させられるモティーフ達。電車に乗ってカオナシと揺られる千尋、降り立った駅の周辺の情景まで「トトロ」!そこから一転して銭婆の家に辿り着けば、ア!ウルスラの家!!そこで千尋の成長に最大の助力をする(って大して何もしてない所までウルスラそっくり!)銭婆!そこへ迎えに来たハク竜の背中に乗って、ア!飛んだ!遂に飛んだ!空!!「もののけ」で痛みを伴って封じられた「空」の記憶が、「水」の淫靡なエロスの代償として些か偽善的で現実逃避的な「空」が、2時間近くの上映時間を経て、辛抱に辛抱を重ねて、トンでもないスピード感で(メーヴェやキキの穏やかさはもうここにはない。「疾走する哀しみ」さえも抱え込んだその感動的なスピード!)大空を舞う千尋と共に甦った。何と言う僥倖だろう!どれ程この瞬間を待った事か!オマケにこれでは終わらない。その大空で「水」の記憶(=川で溺れた記憶)が「空」の記憶と絶妙なコラボレーションを成した末、どうなったか?落下である!また御丁寧にハクと手を繋いでの落下(これも凄いスピード感!)!ダメ押しとも言える「ラピュタ」の落下のモティーフで完成した、もうこれ以上にないクライマックス。ただ涙が出た。何だか哀しさまで喚起されたような、不思議な涙。何とも一言では言い表し難い、正にキリストの復活を眼の前に見てしまったかの様な、愕然とも言えるその衝撃。もう一度言わせて戴くなら、「奇跡」。私は奇跡を観た。
願わくば、ここにモティーフの羅列という表層的な意味では済まされない壮絶なドラマを感じない者に、醜くもありながら、それでも「生きたい」という想いを込めて、渾身の力で「今」を越え1日でも長く必死に生き延びようとするアニメーションをいともた易く、その腐り切った眼と溶け出した脳味噌で面白いだのつまらんだのほざく権利を、どうぞ与えないで下さい。無用の輩を、どうぞアニメーションの邪魔にならない所へ駆除して下さい。
アニメーションが、余りに不憫じゃないですか。
確信を以って言うが、この作品の後も、アニメは変わらず観る価値のないものであり続けるであろうし、アニメ業界の幼稚さは目に余るものであり続けるであろう。革命的変化は、少なくともこの国家ではあり得ない。少なくとも過度の期待は出来ない。これからも。
だがその中で、死に行くアニメが、渾身の力でその生命を燃やし尽くそうとしている瞬間が、少なからずあるだろうという事だけは、信じるに値する。見捨てるも良し。その無様な姿に笑うも良し。後は各自の「倫理観」に従って行為するしかない。しかし、アニメーションの愛を全身で受け止め(それは正に千尋と、それに代表される宮崎ヒロインの様に!)、想像を絶する意志と「倫理観」でその行く末を看取ろうとする宮崎を深い感慨で見守る事をこそすれ、軽薄で非人間的な視線を送る事が、誰に許されようか?
「千と千尋」は、実像から虚像(=偶像)へと変化し行く、その避けられない宿命を十字架の如く背負ったアニメーションの、やはり文字通り「復活」の瞬間だったのかも知れない。
生まれたものは滅びなければならぬ。
滅びたものは甦らねばならぬ!
おののく事を止めよ!用意せよ!
生きる為の用意をせよ!
(08.30-1)
「千と千尋」の衝撃の影にすっかり隠れてしまったが、こちらも正真正銘の傑作を二本。
小津安二郎「浮草」。
個人的な小津のベスト。つまりMY FAVORITEだなぁ、これ。
兎に角カメラの宮川一夫!凄い!小津の画なのに立派に宮川の画!宮川の色!カット毎にせめぎ合う両巨匠!あの路地の俯瞰!あの大雨!ドキッとしたねぇ。
京マチ子と若尾文子の大映コンビ、見事な美しさ!特に若尾と川口浩のキスシーン!ドキドキしたねぇ。杉村春子まで何だかいつもと違って艶っぽい。そう、本作は大映的エロスに満ち溢れているのだ。ネタ的にもそうだし。新しい血を入れて沸き立った小津の感性に乾杯。
マキノ正博「鴛鴦歌合戦」。
またしても宮川のカメラ!ホント凄ぇなこのヒト。やはり闇の凄み。映画の闇を知りたければ宮川に訊け。あのアクション繋ぎは確かにマキノが元祖と思ってしまう程の鮮やかさ(ホントはエイゼンシュテインもグリフィスもやってる筈なんだけど・・・)。寸分の狂いも緩みもないアクションとカッティングのリズムにただ溜息。しかしこれをたったの7日で撮るとは昔の映画人は超人か!?
(08.30-2)
ホンマにオレ女運ないなぁ。そう思った三連休でした。
ZONE結局見られませんでした。三時間も待ったのに!絶対許さんぞディスクピア!!もうアソコで何も買わない事けってーい。
「♪みんなの事愛している」ってのは嘘かいゴルァ!!!
アイドルにまで見放され・・・。オレは何を頼りにすれば・・・。
その翌日。
犯行現場の10メートル手前という生々しい空間でひたすら線のトレス。ていうかこれじゃ仕事と一緒じゃゴルァ!!!
イマイチ不透明な活動構造。こういうものには付き物の裏事情か。しかし愚痴は言うまい。
曇りなき眼で見つめる。何よりそれが目的の総て。
何が見える?
取り敢えずTシャツだけ貰った。やたー。
今月の一枚:
結局、このヒトの後塵を拝して行くのか・・・?無念。
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2001年09月
(09.05)
<また言い訳>
小津が眼くらましになってるんだろうけど、
例えばアレはブレッソンにも似た「手の映画」だったんだ!とか、
そういうオモロイ意見って出ないものかしら?
それを期待してるオレもタイガイか。
(09.06)
誰や無闇にアクセス数上げてるヤツはゴルァ!!!
(09.09)
空っぽだ。
寝る。
(09.10)
NHKでやった「千と千尋」のドキュメントを観る。
その理屈の是非は兎も角、彼の中でなら間違いなくアニメは生きていられる。
今も。
アニメはその語源から言っても多分に宗教的な表現手段である訳で、
もし中世にフィルムがあって、アニメーションが発明されていたら、
世界の芸術史は全く塗り替えられていただろう。
神無き時代にアニメは必要か?
いや、寧ろ?
(09.12)
<これは眼の前の現実です>
驚天動地である。
あの「世界の軍隊」が、である。
それより何より、なんでこんなに防備手薄なの??
世界の歴史が動く。動くぞぉ。
参ったなぁ。
(09.13)
アカン、今回ばかりは何もリアリティある言葉が出せないよ。
まるでマンガだ。
(09.18)
丁度二年振り(!)に三鷹のサーカスを訪ねる。
二年のブランクが嘘の様に鮮明に憶えていた。悪夢には想い出のフィルターは掛からないものだ。
今度やって来る時は自爆して制作部ごと吹っ飛ぶのだ、とあの時血の涙を流して誓ったのにいざとなりゃあそれも水泡に消え愛想笑い。へっ。
何しかジブリ美術館には行き易くなった。やたー。
久し振りの映画評。二本短く。
溝口健二「祇園囃子」。
「浮草」と共に輝く若尾文子全盛の美しさ!宮川のカメラ!しかしそれに引き換え溝口はどうだろう?何でそうもカットを割るの?パンやドリーもせわしない。って「西鶴一代女」「雨月物語」のイメージ強過ぎるのかねぇ?
深作は恐らくこれを翻案して「おもちゃ」を撮ったに違いないのだが、色や照明こそアレとは言えカメラの気品は「おもちゃ」に軍配を挙げてしまいたくなる。富司純子の貫禄だって木暮実千代にそう劣るモンじゃないよ。ダテに任侠映画出まくった訳じゃなし。
祇園から離れるとセットから何から途端に得手勝手が解らなくなっている様な狼狽振りも興冷め。そりゃまぁ、それでも他の凡百の映画と比べりゃ祇園シーンの強度は確かなものだが・・・。
鈴木清順「殺しの烙印」!!
ジョぉぉぉぉぉぉ!!男前ぇぇぇの、殺し屋うぁぁぁぁー、どきゅぅぅぅん!!大和屋竺のちゅーとはんぱにデカダンな歌声で不意打ち食らって、後は鈴木の映画はね、フツーじゃ、面白くないんだYO!ってフツーじゃねぇぇぇ!!ブルゥゥゥム!ガッ!バタッ!コツコツコツバキューン!!って音でしか繋いでねぇぇぇぇっ!!!
そのカッティングの運動性にゴダールの影響を見るのはた易い(ジャンプ・カットはなかったよな?)が、同じくゴダールの影響下にあったとされる同時代の、例えば大島渚の「青春残酷物語」とか市川崑の「黒い十人の女」とかに比べて、鈴木はペテン師だ!!こんなのエイガじゃないやい!!どうでも良いが真理アンヌは幌も付けずに雨の中オープンカー走らせんな!ショットガンに止まった蛾がホバリングするな!いきなり殺し屋同士が共同生活始めるな!ていうかアドバルーンに乗るな!!クソー、カッコいいじゃねぇか!!
フォルムがどうだこうだと鈴木について蓮實が書いた過去の文章が例の最新刊に載っているのだが、まだ読んでないのでどうでも良くて、兎に角映画は嘘付きであって、スペクタクルなのだという、これまたごく当たり前の事を鈴木は丁寧にやっているに過ぎないのだ。しかしたったそれだけの事を成し得た映画が今の世に幾つあるだろう?あのハリウッド映画にそれが期待出来ようものか!?どれだけ「御前にハリウッドの何が解る?」と言われようが、今のハリウッドに背を向けるのが、曲がりなりにも演出と名乗っている者としての最低限の「倫理観」だと思っとりますばい!だって、つまんないんだもん!!
見世物としての映画、興行としての映画、まぁ何でもかんでも言葉に頼って左脳で理解しないと気が済まない「一億総ストーリーランド化」の時代では、解んないのかねぇ。映画はバカの観るモンだよ。御利口さんはあっち行きな。真理アンヌの火あぶりに勃起出来ないフニャチンに映画観る資格ないよ!その点でもやっぱりジョーはカッコいい。(つーか長くなったな・・・)
その出張の帰りの中央線で聞いた、大学生のアベックの会話。
「戦争だってね」
「コワイねー、防げないかな?」
「いやぁ、ムリだろうNE!」
「第三次世界大戦?」
「日本にも飛び火するよねきっと」
「東京なんて真っ先に狙われるよNE!(藁」
「一発DA-YO-NE!( ゚Д゚)ウマー」
この会話を槍玉に挙げる以前に、「こんな平和ボケのバカップルと同じ豆腐質の脳味噌だと思われたくないYO!」とばかり雨後の筍ならぬ雨後の軍事評論家がニョキニョキ生えて来たのを見て、ああ、平和だねぇ、と思っているだけなのですよ。今は。
戦争を知らない子供達でしょ?それは抗えない真実。
(09.19)
ごめんなさい。
書こう書こうと思いながら、こってり忘れていた私の軽薄さ、映画的不誠実さをどうぞ罰して下さい。
私に長回しの暴力的悦楽を教えてくれた天才、相米慎二監督の御冥福を御祈り致します。
「監督なら掃いて捨てる程いる」今の充実した日本映画界なら、そう痛手に感じることもなかろう。でも、でもね、余りに惜しい。悔しい。
(09.22)
アニメ業界人にアニメが解る筈がない、というのは今や子供でさえ知っている事実ではあるが、
あのサーカスに行く度に改めてそれを痛感し、怒りに気が動転してしまう。
この世界とそこに住まう人間の自由なる精神に対し、害悪以外の何物も及ぼさないアニメにこそ鉄の制裁を。
(09.24)
人間は、どうやったら理解出来るのだろう?
酒量が増える。
仕事の都合上黒澤の「用心棒」観直しているのだが、やはり良くない。その後の時代劇史を塗り替えた「斬殺音」とか、解るんだけど、要らんカットが多く、脚本が悪い。最近になって宮川の撮ったショットが3割くらいしかないのを知って、納得。
いや、勿論もうすぐ始まる風邪の「用心棒」は、こんなものにも遠く及ばない、枠の穴埋めにすらならない出来でしょうが。
更にその「用心棒」の参考、鈴木清順「野獣の青春」。
今度は例のハスミの文章を読んでから。・・・いやー、「殺しの烙印」はまだしも、こっちは相当強引なんじゃないの?消失点?遠近法??なんだかなぁ。
まぁそんな事は関係なく、やはり面白い。ジョーはカッコいい!「ハート」に出てるジョーは見る影もないなぁ。
パートカラーの赤は、まぁ当時の流行りだと思うのでそう印象的ではなかったのだが、いきなり無音で踊るキャバレーのダンサーとか(その息苦しさは勿論「はなればなれ」以上!)、こういう映画の首をぎゅうぎゅう締めて「仮死」にまで持って行く瞬間ていうのが鈴木映画には必ずあって、パッと手を離された時のゼイゼイ感というのか、その解放感がタナトゥス的快楽と相俟って良いのだなぁ、これが。
ただ「殺しの烙印」に比べると大きなギミックもなく、純粋なギャング映画として楽しむべきなのだろうか。「用心棒」の翻案というのも何か、媚びてる気がするし。カットの飛ばし方は相変わらず素晴らしくシャープ。
また1ルート出来て、更に忙しくなる予感。もうバテバテなのに・・・。
(09.25)
嫌がらせの様にプラネットからVが返って来る。
これまた嫌がらせの様な審査員のコメント付きで。ていうか俺より年下!?
豪快にアタマに来たので懸案の「R2」ともう一本、ホンだけでも着手しようと魂の決意をする。
という訳で身なりは美人系だがどう考えてもオトコ踏み台にしてそうな25歳までの女性と、外見は敢えて問わない13歳程度の女子、改めて大募集!
え!?「アウフタクト」?
(09.28)
枯山水HP、妄想ノオトが2周年を迎えました。
今の職共々いつ辞めても悔いはない程愛想の尽きたアトモスフェアで続けていますが、ただ止めるのも芸がないので2ちゃんねらーのウィルス攻めとかそういう愉快な展開にでもならない限り、まだ続けようとは思っております。
今後も宜しく。
で、今日までの一年間、紹介した作品は74本、PFFのを合わせると78本になりました。
やっぱり本職が軌道に乗った分、減ったなぁ。
(09.29)
<ミスターが去るよ>
あー、遂にこの時が来た。
というより次の監督がもう、あー、遂に・・・。がっくし。
しかし、これいつも言ってることなんだけど、
あの全員4番打線を、御山の大将軍団を、率いてマトモにチーム足らしめるだけでも、
古今の監督にそれが可能なヤツがいるか?
いろんな意味でおもろい野球やった。おもろい巨人やった。感謝。
今月の一枚:
このアングルは難しい・・・。ていうかシネスコだしなぁ。
2001年10月
(10.11)
いい加減嘘でも更新しないと見てくれなくなるので、忙しいけど。
やっと浮かんだ!これなら大丈夫という企画が!
ベタでポップでキャッチーでっせ!どの映画祭に出しても取り敢えず恥ずかしくない13歳少女物!!
あとはキャスティング・・・。あぁあと時間。
取り敢えずタイトル。「白暮」。
「R2」と並んで二本、やっと出来そうやで。あーもうバカバカしい仕事ほっぽり出してやろうかなー。
という訳でなけなしの映画評二本。
小沼勝「NAGISA-なぎさ-」
少女の生々しいエロスを最大限に生かし切るにはどうするか。少女の美の何たるかを知っている表現者にとってはこんな問題いともた易く解いてしまうだろう。
走らせれば良いのである。
その四肢に漲る力感と躍動感、そこに滴る汗と熱気の充溢が画面を支配する時、映画は少女を描き切る。そんな事は「となりのトトロ」や「お引越し」等の例を挙げるまでもなく、当たり前の話である。
そのコードをロマンポルノの巨匠・小沼が知らない筈がない。主人公なぎさが全篇に渡って心地良い疾走を続ける事で、ただそれのみで、これが映画であり、少女のエロスを画面に漲らせた傑作である事は、もう眼をつぶってでも(いやつぶったら画が見えんが)解ってしまう。オマケにスクール水着で荒波をジャブジャブ、海岸の人ごみの中で堂々とザ・ピ−ナッツと、心憎いまでに必要なものを過不足なく拾い集めては来る。
しかし、そうなると、このコードでは一枚上手の相米作品との比較に、どうしてもなってしまう。小沼のカメラには少女を嘗め尽くす粘りがない。また少女を突き飛ばす残酷さもない。どうもプログラム・ピクチュアの悪弊が出たのか、このカッティングのテンポはエロスの充溢には寧ろ邪魔となってしまう。(逆に少女の疾走を作品のリズムの中に見事組み込んでしまった深作の「おもちゃ」という好例もあるのだが)。あくまでこれは相米との相対評価で導き出される結論ではあるのだが、ザ・ピ−ナッツの時代という設定は、決して台詞回しの古めかしさと音韻的強引さを補填し得るものではない。要はやはり、オトナの視点で描いてしまっているのだ。でなければあのキスシーンがあの様な悔いの残る処理で終わる訳がないではないか。ラストのなぎさの涙が、あんなテイクでOKになる訳がないではないか。
エンドロールで超長尺ズーム・バックの粘りはちゃんと出せたのだから、悔やまれる部分は多いのだ。
<大いなる遺産、あるいは遺物>
では真打ち登場、渡辺信一郎「COWBOY BEBOP『天国の扉 - Knockin' on heaven's door 』」@新宿シネマミラノ。
そんな意味のある命題かと言えば、そうも思わない、アニメは単に面白くてカッコ良ければいいジャン!そう言い切って悦に入る者がいるのなら、敢えてそれを批判しようとは思わない、ただやはり、「カウボーイビバップ」は「21世紀的」アニメか?と言われると、かぶりを振る以外に策がないだろうという厳然たる事実が、「ビバップ」を「とびきりカッコ良い!」アニメと認めたくてたまらない私の心情の大きな妨げとなってしまうだろう。市川崑の近作を観ても思うが、ギミックは完璧無類にギミックでなければならない。隙を見せる事は敗北であり、それを魅力と感じさせてしまう愛嬌は必要ない。隙を隙と見せない乾いた計算と設計のみが支配し、時代の新旧を超えたコードの巨大なアーチを築く事が出来なければ、瞬く間に時代という激流の中に飲まれ、崩れ去ってしまうであろう。残念ながら、本作はその激流の中に片足を入れてしまった。
そのトレス線の太さ等は、ギミックのアーチを築こうとする者ならば、真っ先に注意すべき事項なのだ。ロングの画を表現しようとする時にキャラが潰れてしまい、またそれをその場歩きのスライドで処理する事で「スパイクが歩く」という大事なギミックがガタガタとなってしまう、この失敗は決して「『ビバップ』らしさを失わなかったスタッフの余裕」なんかではない。その潰れたキャラのトレス線を巨大なスクリーンの中に晒してしまったという、寧ろ「ビバップ」からの退行を示す所業なのである。「ビバップ」が「ビバップ」である為には、「ビバップ」以上でなければならない。これは志の問題でも野心の問題でもなく、単にメソードの問題であり、技術論の問題なのである。
前半の動画が殆ど「泣き」の外出し(海外出しか、ワールドか・・・)をしている点も同様である。サンライズは「ガンダム」以来渇望していた悲願のマスターピースに充分自覚的であるべきであった。これは良心や倫理観の問題ではなく、経営学の問題である。あの「いにゅやちゃ」のリミットを3000に縮小してでも、いやこれは流石に暴論かも知れないが、バンダイグループの資本の総てとは言わない、あと10%でも、5%でも上乗せ出来る粘りを、プロデューサーは見せる事が出来なかったのだろうか。繰り返すが、これは創り手としての志云々の問題ではない、「ガンダム」後のグループ運営を真剣に考える上での、経営論の問題なのである。
これも繰り返しになるが、「ビバップ」に計算上の不備は許されない。一見すればスタイリッシュの極みとも言えるあのレイアウトだが、よく観れば安全フレームへの意識が過敏だったという事に気付くであろう。日和見主義とは言い過ぎだろうが、程良く収まりの良いレイアウトとは、言い換えればボール一個分ストライクゾーンに甘く入ってしまうピッチングの様なものなのである。その結果は推して知るべし。同様の不備が肝心のモノレールシーンにおける渡辺のカットワークにさえも露呈してしまったという事は、誰もが確認したであろうから、ここでは記さない。
ただ無論、その不備の中でも最上のものを創るプロとしてのバランス感覚が、渡辺に欠如していたとまでは言い難い。ラスト1パート30分の「まくり」方、それはまたしても板野一郎のカリスマ的作画に救われた(それでは「マクロスプラス」と何ら変わりないのだが・・・)とは言え、冒頭では3コマによる「ため」の多用で悉くリズムを失っていた格闘アクションが、1・2コマ主体の決然たるシートワークと安心出来る動画スタッフとのチームワークで見違える様になったのには、正直胸を撫で下ろした。やっと「ビバップ」以下ではない「ビバップ」を観る事が出来た。このラスト30分に持てる戦力の多くを割き、クライマックスの興奮を極限まで引き出そうとするのは勿論定石であり、何人たりとも侵してはならない戒律の様なものではあるが、反面、言ってしまえばエースをストッパーに使ってしまったかの様な違和感が残った。「ビバップ」は、そこまで追い詰められていたのだろうか?
追記すると、美術の素晴らしさは近年の大作の中でも群を抜いていた。何より抑制とフレキシビリティが効いている。自己主張が目立つ事もなく、画面トータルの設計として色を置いている。これぞ「ギミック」。初美監の森川さん、素晴らしいです。今後ともこの様なプロ魂を見せ付けてやって下さい!
あー、もう一本観たよ。スティーブン・M・マーティン「テルミン」@梅田ガーデンシネマ。
・・・肝心のテルミンの音色がどうにもこうにも耳障りで、映画どころではありませんでしたYO!
(10.17)
<はまみえ>
モーニング娘。はやはり、アイドル史の奇跡である。
それだけを、申し上げておこう。
(10.18)
次の仕事は来週月曜、深夜0時45分OAであります。
そんだけ。
もうルーチンワークだね。すっかり。
あ、関東限定です。スマソ。
(10.23)
大変だなー。
日曜、新居探しに不動産屋へ行った帰りに梅田で気付く。あ!プラネット行かなきゃ!
「アニメーション年代記Vol.1/アニメ誕生1908-1922」@PLANET+1。途中から。
念願のウィンザー・マッケイ「恐竜ガーティ」に感激!線画で一コマで動く事のえも言われぬ生々しさは私もかなり体験したつもりだったが、恐竜が主人に従い(また逆らい)足を首をジタバタするだけで沸き起こる不思議な表象世界には改めて心奪われた。グロテスクとも言えるその強烈な印象。そう、アニメは「線」に生命を与えるという、何ともグロテスクな作業なのだ。
続いての「ペット」でグロの極め付き!猫かメスライオンかよく解らない生き物が巨大化する際、身体中に無数の水ぶくれが出来て、それがゾワゾワブクブクと膨らんで・・・、!!!あー、今思い出しても鳥肌立つ。その後の巨大化ペットとの市街戦は「キングコング」にも劣らぬ見事さ。レイアウトが良いよ。
その他、史上最も美しい蝶を描いた「虫のヴォードヴィル」、ゆっくり、ゆっくりと余りに美しく客船が沈む様を事もあろうにオール一コマで描き切った「ルシタニア号の沈没」、それに「愉快な百面相」「野良猫とお猿」「誘惑のまなざし」「マザーグースの魔法のペン」、CGでは絶対出ないんだよなぁ、この感じ。やってる事は殆ど一緒なのになぁ。
更に二本。ジム・ジャームッシュ「ダウン・バイ・ロー」
何を以って正統な「アメリカ映画」とするかは、正直よく解らない。しかし脚本になってない脚本、画になってない画創りばかりをしている、正に日本のテレビアニメ程にまで堕ちた今のハリウッドの惨状は間違いなく正統ではないと言い切れる。そこからまた間違いなく抜け出せているのが本作である。ただ何を持ってこれを正統とすべきかはよく解らない。まぁいい。兎に角気持ちの良い映画である。
モノクロにしたというのは些か逃げの感もあるが、今のハリウッドが失った「黒」がここにある。そう考えると「シンドラーのリスト」のスピルバーグはやはり相当偉かったのではないかという気がするが。それにしてもパン・フォーカスはなんで?黒澤?あ、そうか、このワンカット・ワンシーンは溝口だ(湖面の描写なんかそっくり!舟の上からのドリーとか)。充分保つ画を充分な長さでじっくり見せる。ハリウッドではもう出来ない充実した画面。
そこで台詞一つ一つを今生み出しているかのように温もりを以って吐き出し続ける登場人物の男達。まくし立てるテンポは要らない。急転直下のストーリーも要らない。映画はただそこにある画面。それだけ。長回しでジャームッシュは証明する。もうひと押しのオチは欲しかったけどね。脚本上。
一期は夢だ。只、狂え。 鈴木清順
鈴木清順「ツィゴイネルワイゼン」。
レトロスペクティヴでも結局観逃した本作、DVD化で漸く眼前に。二時間二十分もの間陶酔し切ってしまった。本当にとろける様に、腐食しているかの様に美しい。
カット繋ぎの先鋭さで言えば「陽炎座」の方が上か。こちらも意外とダイアローグのイマジナリーラインを守っていたりと、うーんやっぱりイマジナリーラインって要るんやろか・・・。
ってこの際いいや、ドザエモンの女の股からニョキニョキズーム・アップして来る紅い蟹からもう、セイジュン!!アタシを好きにしてっ!!状態。光源等、色合い等知るかとばかりに散りばめられる絢爛豪華たるライティング、そして美術。
藤田敏八と大谷直子がどう考えても役者不足なのに、それを逆手に取って弄り回しているセイジュンのサディスティックな悦楽!その脇を原田芳雄と大楠道代という怪優が固めているのだから、作品としてはへっちゃらなのだ。
悉く魅せてくれる。原田の家に行った藤田が玄関を潜ろうとすると突如壁ごと開かれて行くセットのダイナミズム。また御丁寧に出て行く時閉まるのだから「こうしないと理解出来ないんでしょ?ボウヤ達」と言われている様で実に悔しい。一旦何かで隠して一気に「いないいない、ばー!」とやるのはいつもの清順節。しかし何が凄いって、やはりその「狂い方」「崩れ方」の巧妙さ、いや、天才的大胆さ、繊細さである。
それは例えば寺山修司の作品の様に「どんだー?おら、こんなにさ狂えるんだっべ。街のカワイ子ちゃん達にさモテモテだんべぇ」とばかりやっている御寒い茶番とは似て非なる、クールなエスプリの充溢した時空である。崩しては戻り、戻っては崩す。ストーリーに何らかの意味を付随しているかの様であって、何かしらのメタファーである様でいて、その実は、
「只、狂え。」
そこに尽きるという、甘美な残酷さ。
ラストの何が何だか解らない展開も、「エヴァ」みたく終了間際の苦し紛れの感は全くなく、正に内容にある通り、余分な肉が朽ちて、腐って、ずり落ちて行き、最後に美しい骨が残ったかの様な、何ともセックな、それでいて透明なファンタジー。ただ中盤から後半への構成が上手過ぎた分、「陽炎座」終盤の眼を見張るような鮮やかさがなかった、というのはないものねだりか。
あ、そうそう、#10は良くなさそう。色々あるから、ねぇ。
もういいんだけど。マジで。激マジ。
(10.27)
戦争です。
ジハードですよ。
御大の名を汚す訳には行かないんでね。
準備は万端です。ホントは気楽にやりたかったけどよぉ。
(10.30)
総ての映画は、二つの構図しか持ち得てはいない。
縦構図と、横位置構図である。
リュミエールが「列車の到着」と「工場の出口」のニ作によって映画を開始して以来、映画の構図はこの二つしかない。
それを熟知している映画作家が、日本にも二人いた。
小津安二郎と、高畑勲である。
今月の一枚:
・・・どっちかと言うとこっちなんだけど。テイストが。
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2001年11月
(11.06)
ジハード、苦戦中です。解っちゃいたけどよ。
アニメの神は必ず御覧になっていると信じて、映像の「倫理」に賭けて戦い抜くと誓う。
「視覚表象」そのものである筈のアニメーションを脅かし、エイゼンシュテイン・黒澤を始めとする映画史までをも改竄せんとする醜いけだものには死を。
という訳でまた忙しく、その間やっとの思いで観た映画評も極力短めに・・・。
セルジオ・レオーネ「荒野の用心棒」。
ビデオで借りたらスタンダードにトリミング!よって画面については言及出来ず。ただ馬はフォロー。やっぱり躍動感が違う。脚本は本家よりこなれているとの印象。ピントもロクに合っていないがかなり見せた。ラストの決闘で吹く爆風と煙!
ニコラス・レイ「大砂塵」。
対するこちらの馬は何とパン。これでも馬のあの肢体が持つ艶と優雅さは充分引き立つ事を発見。ならばやはり同じく馬をパンで撮った黒澤御大は免罪なんじゃないの?前総長。マドンナ役である女将の衣装が魔性の黒から純潔の白に変わる瞬間はやはり圧巻。そのパラディグマティックな意義を超えて、エクリチュールとしての強烈なエロスを感じさせる。ラストの処理はもう一寸何とかならなかったものか。
行定勲「GO」@千日前国際シネマ。
ふ、古くせー!窪塚をこんなにダサく撮ってしまうなんてある意味これも才能か。北野組の重鎮である柳島克己と高屋齋が脇を固めておきながら(そう言えば大杉漣も!)照明と撮影の連携が全く取れていない。マルチカムの3台の内2台が手持ちで1台が引きの固定、ってその1台要らんやん!なんやあの安宿丸出しのラブホは!?なんやあの某「Sトーリーランド」でもやりそうな勢いのナレーションは!?宮藤は誰に金掴まされてこんなヘボ本書いたんだ?どう考えてもどっかの某団体からの圧力があったに違いない。これだけのスタッフを揃えてこの程度の出来だというのは全く信じ難いのだ。
(11.12)
"aesthetic"という言葉はモーニング娘。の為に存在する。
(11.17)
映画は、女と銃である。 D.W.グリフィス
われわれは、今こそ、「美少女」と「メカ」へのコンプレックスを徹底的に恥じねばならない。
そもそも、この二つをちゃんと描けた作品が、一体幾つ存在しただろう?描く事の是否ではない。そもそも、描く才能がないのが、今である。
(11.21)
ここを見て下さっている某業界関係者各位。
御世話になって居ります。
何陰でコソコソ悪口言ってやんだいと御思いの方、いらっしゃいましたら、間もなく全面的に表面化させるという事で。
御了承下さい。ていうかもうかなり出ちゃってますが。
元々、こういうのが俺の役目だと思ってるしね。マジで。激マジ。
あ、一本だけ。小津安二郎「父ありき」。
戦時中の作品だけあって、状態すこぶる悪し。台詞聞き取れない箇所散見。しかしあの厳格なる様式と大胆かつ暴力的な自由さとが共存する映画の不思議に立ち会う。父と子が川釣りをしているその竿の動きがピタリとシンクロする時、全く、これは何で映画なのだろう?ていうか、このスタンダードの画面が持つ豊かさと森厳さを前にして、今俺がやってる喧嘩なんて一体何の意味があるというのだろう?と。いや、この夏小津との果敢なる格闘を演じた(・・・やっぱり惨敗だったけど)者とし手は当然行うべき、映像の自由で本来的な「生々しさ」への飽くなき挑戦、挑発なのだと言い聞かせる。映画は決して、でっちあげの「文法」に安穏とする怠惰な畜生に向かって開かれ得る筈がない。逆にバカのバカさ加減を惨たらしいまでに醜く露呈させてしまうのが映画の悪魔的本質ではないか。完成した画を観れば、何もかもが解ってしまうではないか。小津は今問い掛ける。二人を直線上に正対させるのではなく、対角線上に正対させねばならない時、さあ、どうダイアローグを撮るんだい?
その答えは、次の仕事で御教えしましょう。どうせその脳味噌じゃ理解出来ないだろうけどよ。
映画は何でも繋がる。映画は何も繋がらない。映画は何でも映せるし、何一つ映せない。その二律背反の恐怖に打ち震えながらも克つ意志の下に、映画は初めて生起する。笠智衆の性急過ぎる台詞回しの中に、小津はいつだって映画の甘美な罠を用意する。作品評になってないやスマソ。
(11.27)
幾多の重圧にも堪え、粘りに粘って#10、よくここまで出来たよ・・・。
ウチのスタッフがこんなに頼もしく思えたのってなかった。
でも、そうなると、目立ったよ。コンテの出来。ハッキリと。吐き気する程。
これまたプロにあるまじき女々しい言い訳ですが、言わせて下さい。
上には「コンテのロールを監督と連名にしてくれ」と言っておいたのですが、通りませんでした。
そこまで俺に恥かかせたいのかい!!え!?監督さんよ!?このサイト見てる事承知でのこの発言。
(11.28)
観てたの思い出したので一本。
セルゲイ・ミハイロヴィッチ・エイゼンシュテイン「ストライキ」
エイゼンシュテインが「教科書」だと未だに勘違いしているボンクラは、これ観て下さい。自分が実はアヴァンギャルド信奉者だったのだと気付くかも?何しか彼の実質処女作。まだクレショフとの共闘も成し得ていない筈だから(未確認)、「モンタージュとはリズム」という彼の真の側面が凶暴なまでに出切っている。ていうか出過ぎ。この俺でさえ追い切れない意味不明のショットが散見。ありとあらゆるアングルからのショットをジャンプ気味に12コマ以内で繋ぐものだから、これはもう今のPVやMTVに通じる凶暴さである。いや勿論、映画は絶えず凶暴だったというのが常識であるべきなのだが・・・。その若々しい勢いや良し!なのだが、正直附いて行けず。やっぱり後年の「ポチョムキン」や「十月」の方が上手さが光って良い。
会社午後休取って夕方眠りに就くと、起きたら朝の4時。ムシャクシャした気分を鎮めようと「木枯し紋次郎」のVに手を伸ばす。やはり良い。
市川崑の作品で最も好きなのは実はこの「紋次郎」なのだが、市川自身の演出はもとより、鍛冶昇(あのドスに照明を当てた、煌く一瞬!)や太田昭知(主題歌をバックに大殺陣を演じる渡世人達の泥臭い生命感!)等、本当に生気に溢れた演出がフィルムを突き破ろうとしている。ただ涙。こういった先人達に追い着こうと頑張ってはいるものの、障害は多い・・・。
さてここでクイズ。エイゼンシュテインにちなんで「戦艦ポチョムキン」から。あの有名な「オデッサの階段」のシーンで実は、「繋ぎ間違い」を(意図的にだとは思うけど・・・)しています。何処かを指摘して下さい。正解者には私が使った「風邪用」#10の絵コンテをサイン入りでプレゼント。だって要らないし。
(11.30)
想像力とは、記憶の蓄積である。 黒澤明
深読み?しなくていいよ。まんま。
今月の一枚:
・・・11月末に準備してたやつ。どうやらこうはなりそうにないけど・・・。まぁ「開戦」という事で。
2001年12月
(12.08)
<アニメ原理主義者宣言>
・・・とうとう懐柔策取って来やがった。
本社にまで殴り込み掛けたらまー、慌てた慌てた。流石に効いたか?いやー、さもしいねぇ。見てて鳥肌立つよ。
俺にどんな甘い言葉掛けても無駄ですよ。ヘタクソは徹底して信用しません。誰でも。
私はアニメーションを宗教的営為とみなします。
私はアニメーションと、それを含む映像・視覚表象の真の有り方を追究すべく活動します。
私はアニメーションに内包される暴力的熱狂と悪魔的幻惑の力を信じ、それをただ「有りて、有る」真理として断固支持します。
そして、私はアニメーションのその真理のより高位で充実した生起の為、その障害となり得る総ての夷狄に対し、手段を選ばず、命を顧みず「聖なる闘い」の名の下にこれを駆除し、殲滅します。
ここに以上の事を宣言致します。
平成十三年十二月八日 スタジオ枯山水 山本寛
ここまで書いときゃ大丈夫だろ。これ読んでもまだやりますか?じゃあ次の手考えておきますね。うひひ。
取り敢えず、そこまで自分のバカ晒してくれて有難う御座居ます。これでこの業界がまた更にクリアに見えるようになった。
(12.09)
太陽を最初に撮ったのが黒澤御大ならば、空を最初に撮ったのはジャン・ルノアールではなかっただろうか。
ジャン・ルノアール「河」。DVDの調子おかしくて何度もストップ!萎え。
インドの風景は私には極彩色過ぎてどうも馴染めない。赤と青と黄と緑の洪水でああ、半分くらいにしてくれっていう感じ。やっぱりアフロのオヤジが歌って踊ってウィンクしながらタオルをくるくる回して悪漢供をなぎ倒すくらいのケレン味がなけりゃちゃんと観られないなぁ。
と思って本作も観ていたが、やはり空の青さにやられた。主役の少女(服装は一貫して青!)が片想いの大尉と凧を上げる時に映った空。その空は間違いなくスタンダードフレームの息苦しさを突き破って無限に広がる、われわれの空であった。これがルノアールの真骨頂か。この大らかさ。この包容力。カット割りは決して緩やかではないのに、時はあの大河の流れに寄り添うかのように、悠久にしてしかし絶えず。ディゾルヴを「画を繋げられないヘタクソが多用する技法」と未だにぬかす野蛮人はとっとと死ね。映画の魔力を今こそ思い知れ。ていうか映画観た事ないんだよね、可哀想に。
三人の少女の初恋物語という俺的に格好の題材も相俟って、リラックスして観てしまった。「癒し」なんて使うのはバカバカしいが、それ。いや、映画とは五感を使って感じるものという、私が夢にまで見る究極形態を、彼は実現し得たのだ。そこには頬を撫でる風がある。むせぶような土と花の匂いがある。「トニ」を観た時はさほど感じなかったルノアールの魔力、ここに極まれり。万歳!
(12.14)
完全に放っておいた投票所「2000年度映画・マイベスト」ですが、目出度く「ゴジラVSメガギラス 」に・・・なんか中途半端やなぁ。
来年もやりますんでよろしく!それまで暫くは別の御題で御楽しみを。
取り敢えず一本。丸山誠治「二人だけの橋」@テアトル梅田。
レイトショーで待望の「ピストルオペラ」観ようとワクワクして劇場行ったら「日曜はやっておりません」なな、ぬわにぃ!?
心底ガッカリして帰り掛けてよう考えたら、あ、今日は例の「日本映画パンドラの匣」か、踵を返す。
1958年、東宝スコープ。先ず吃驚したのが伊福部昭の音楽!あのバーバリアリズムはどこへやら、実に繊細でクール!黛敏郎もそうだったけど、多彩なんだなぁ。
あのシネスコの無駄に横長のフレームを無理なく使っているセンスはどうだろう!橋の縦構図の的確さ、一気に入り込んでしまった。中井朝一のカメラまで御大の時とはうって変わってデリケート!御大に失礼。
恐らくオープンセットであろう夜の橋の上に積もる雪も良い。何よりあのラーメン!クリスマスに二人で食べるラーメンには湯気が。そのアップになったと思ったらチャーシューに箸が伸びてヒロインが主人公の丼にそのチャーシューをポイっ、と。感心するやら感激するやら、良い画だなぁ。
黒澤組は他に加東大介、千秋実 、三井弘次 、左卜全(笑)、皆丁髷付けずとも実に画面に映える。匂うような存在感。こんだけいればそりゃ楽だろう、画創りも。
工場の煙までモノクロ画面のグレースケールを充実させる。正に日本映画全盛期の一作に御腹一杯。
(12.17)
良いコンテと良い作監がいれば、演出など要らぬ。
「はなればなれ」DVD発売!ひゃっほう!
(12.22)
ジャン・ルノアール「フレンチ・カンカン」ジャン・ヴィゴ「新学期 操行ゼロ」ヴィム・ヴェンダース「都会のアリス」と書きたいのだが、忙しい!
一応メモっておく。多分来年。
眼精疲労と偏頭痛が酷い。病院逝っとくか?
来年の春は平穏でありますように。・・・。
(12.28)
・・・DVD購入記念。
カトリーヌ・ブレイヤ「本当に若い娘」@シブヤ・シネマ・ソサエティはパゾリーニも逃げ出すエロ・グロ・ナンセンスの極み!女が欲情して撮るとこうも凄いのか!神との対峙とか妙な理屈を付けずに真正面から下半身をぶつけてズカズカ撮って行くその潔さ!ヒロインが14歳にはとてもじゃないが見えなかったのが残念。
やっと今年が終わるよ。
(12.30)
http://www.asahi.com/obituaries/update/1229/002.html
とうとう、だし、遂に、だし、ファンならここン十年はずっと覚悟しているべきなのだったから、
そうショックを表に出すこともないし、出来ません。
しかし、幾度となくその時、その時の自分を叱咤激励してくれていた今日の第九は特別な響きとなって御大を天へ押し上げる事になるのだろうから、様々な感慨が一気にぐちゃぐちゃに押し寄せて来そうで、正直怖いです。
朝比奈隆先生に心からの感謝と哀悼の意を申し上げます。
やっぱり今年はタダでは済まへんかったよぉ。
某MLへの書き込みより。
今はこれ以上は書けない!・・・書けない!!
・・・。
皆様良い御年を。
今月の一枚:
一日でも長く生き、一度でも多く舞台に立つ。
朝比奈隆 1908-2001
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2002年01月
(01.03)
いつまでもメソメソしてたって御大に怒られるだけだろうから、早速通常営業で行きます。
今年一発目、ロバート・ロドリゲス「SRY KIDS」@梅田ピカデリーは予想通りの当たり!長蛇の列作ってる「ハリポタ」尻目に入る。
近年のアメリカ映画をどうして観ないかと言えば簡単で、それは90分なら90分、120分なら120分の尺をダレずに見せる力が今のハリウッドに欠落しているからであり、要するにウェル・メイドでも何でもなくなった、というそれだけの事。ただ、同じく観ないようにしている日本のアニメは最早網膜に刺激を与え、ある程度眼の記憶として残る画すら1カットも創り得なくなってしまったのだから、まだマシではあるが・・・。
本作はその辺のリズム感を損ねる事なく、一気に見せ切った。要は説明的な描写は一切省き、無駄な尺を詰めて行っただけであり、多少ストーリー面で処理の怪しい部分があろうが作品の出来には全く関係ないと割り切った上での、映画製作者としてごく当たり前の判断をしているだけなのだが、残念な事に、観客供は自分と同じ知能レベルであるという悲劇的な勘違いをしている一部の監督・プロデューサーには全く解り得ない発想であるようだ。まぁそれくらいの知能しか持っていないというのだからこれも当然なのだが・・・。
本作のもう一つの特徴は、「オリジナル」との距離感・パースペクティヴにあるように思う。総ての表現は引用の産物である事は歴史的な事実であるが、例えばガイナックスの真似事をしても恥ずかしさのカケラも見せないディズニーの、見ているこちらが眼を覆いたくなるような醜態振りを前にすると、今後アニメ・実写問わず、自らの「オリジナリティ」に対する距離の置き方が作品の「倫理観」を決定する事になるであろう事は、もう誰の眼にも明らかなのである。それを成し得た「千と千尋」や「クレヨンしんちゃん」は徹底して勝者なのであり、その頭脳を持てないディズニーは徹底して敗者なのである。パクリが悪いのではない。パクって何を創るかが問題なのである。その点本作はパロディ臭をプンプンさせながらそれに耽溺するオタッキーさをも露呈させず(「オースティン・パワーズ」もあるしね)、つまりクォーテーションからも微妙な距離を置いた場に作品を着地させた、実にプロフェッショナルな仕事なのであり、「マトリックス」もせめてこのくらいのアタマの良さで出来なかったものかと(でもその「マトリックス」のそのまたパロディの「M:I-2」が大ヒットするんだもんなぁ・・・)、いや、まぁアメリカ映画だって、選んで観たらちゃんと良作に出会えるという事で、一応まとめておくか。それにしてもアレクサ・ヴェガは良い。
曽根中生「わたしのSEX白書 絶頂度」。タイトル関係ねぇー。
ロマンポルノは初めて。エロス描けない作家など生きてく資格なかんべぇ!と思って次の仕事への意気込みも新たに観ておく。
このジャンルってカラミさえあれば何でも許されたのかしら?よくわかんないけど。いきなり陰部をスタンドで隠すレイアウトは今のエロビデオ観慣れちゃうとちょいとコミカルに見えるなぁ。しかし病院の近くの工事現場の瓦礫と騒音というモティーフ(「東京オリンピック」かい!)や看護婦の制服を着けている画と裸の画をダブらすという、一体何の意味があるのか解らない市川チックなショットもあり、やくざがヒロインの三井マリアに近付く時にカメラがドリーですーっ、とT.Uするそのブレの一切ない不気味さとか、音楽の入れ方とショットと一緒にぶち切るシャープなカッティングだとか、いろいろと楽しませてくれるのだが、いかんせんカラミのショットに意味が弱く、ていうかやっぱり余りムラムラ来ない。三井マリアは美人なのになぁ。AVのハメ撮りでカメラが肉迫する時のドキドキ感が恋しくなりました。
<恒例、2001年度ベスト5>
1.千と千尋の神隠し
2.はなればなれに
3.東京マリーゴールド
4.クレヨンしんちゃん 嵐をよぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲
5.クレーヴの奥方
一応「2001年に日本で初公開された作品」という基準で選んでます。ゴダールも本邦初だった筈。しかしちっとも観なかったなぁ。
さてその絶対の傑作「はなればなれに」を抑えた「千と千尋」は、井筒和幸如きには決して理解出来ない日本映画の宝であり、理解出来た方は相当自信を持って良いだろう。しかし「はなればなれ」二位は随分な評価!二作一位でも良いのだが、それはそれで失礼か。
三位以下は極めて流動的。「オトナ帝国」は人情の部分もあるから場合によっては次点でも良いかも。それに2001年は鈴木清純発見の年だったのだから、三位には「陽炎座」を入れたいところ。「ピストルオペラ」未観に陳謝。「BROTHER」は入らなかったなぁ。
今年も宜しく。
2002年01月
(01.06)
年明けから、ジタバタしてる割に見返りの少ない俺の生き様全開じゃい。
カンニンしたってや。
まぁいい。今は御大のアレグレットに浸っていよう。ビールもう一本欲しいな。
(01.11)
ひょっとすると、この世界に入って初めて、
「天才」と呼べる人を眼の前にして仕事が出来るのかも知れない。(あ、身近にもう一人いるけど・・・)
一度御会いしてみたいなー。
因みにインモーは出せません。ちぇっ。
エドウィン・S・ポーター「大列車強盗」グリフィス「オヤマの心」監督名不明「摩天楼の人間模様」等、サイレント作品を観る。やっぱり良かったのは「オヤマの心」。無茶苦茶や。
(01.17)
ねぇさん大変です!!
もう逃げも隠れも出来ません!ていうか昔から出来ないタチだけど。
毒食らわば皿まで。
(01.22)
遂に#16ですが、実は一箇所ずつ、明らかなミスと明らかな繋ぎ間違いがあるのです。
では恒例のクイズ。それは何処でしょう?正解者の方には漏れなくみゆみゆの(略)をプレゼント!
理屈を飛び越えた「ノリ」の状態にまで持って行きたいのだが、なかなか上手くいかない。しかしいい加減「創作」と呼べるようなものをやらなくてはという危機感の下に、「下半身でする演出」の難しさに七転八倒する。
昔は、もっと楽に出来たのになぁ。
(01.24)
↑追記。
因みに今回のコンテは脚本が「例の」Y手女史だったので、特に気合入れて切りました。
これで許してつかぁさい、やっぱり科白とかかなりいじったけど。
今月の一枚:
わりぃな、また付き合って貰うぜ。
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つーか、こういうときのマルCって何処に行くんだろ?
2002年02月
(02.26)
2002年2月最初の妄想で御座居ます。
それだけで今月の壮絶な闘いの跡がうかがえましょう。
あーしかし、やはり天才は超えられなかったよ。
細かい落ち度はDVD時に直すけど。でもやはりダメ。
霊感の度合が違う。
アニメの神様にね、イマイチ好かれてない感じがします。
まぁそれにしても、こんなに粘ったのは某怨念戦隊以来やなぁ。
少なくともあのリズムが漸く戻って来ました。それだけで良しとすべきか。
ところで出張から帰って何気につけたテレビでやってた「御家人斬九郎」の異様な出来に吃驚!
こんなシャープな画を創れるヒトがまた現れたか・・・と思ってエンドロールみたら監督は渡辺謙そのヒト!
某紋次郎自身の演出とは違って、このヒトは出来そうだなぁ。
ついでに続・平成夫婦茶碗の芳賀優里亜萌え。
今月の一枚:
歴史に耳を澄ませ。
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2002年03月
(03.01)
歴史を学ぶとは、過去から仰々しく都合の良い定理や法則をでっちあげる事では決してない。
「何が出来たか、何が出来なかったか」から「何が出来るか、何が出来ないか」を探り当てる事である。
こんな事もいちいち言って差し上げないと、わかんないんでしょうね。ええ。私が悪う御座居ました。
(03.04)
二日くらいの休みじゃ休みにならんわい。
休職してー。
さて、三月の俺の幸運を象徴して欲しい山中貞雄「丹下左膳余話 百万両の壺」がプラネット+1で!!
屍となった筈の身体も狂気乱舞して直行。
行ったらマキノ正博と合わせて三本!すっかり御腹一杯。
マキノ正博「清水港代参夢道中」。
無駄のないカッティング、浪曲をベースにまたしてもミュージカルにまで振ってしまう懐の良さにリズム、パンや移動のソツのなさ、アクション繋ぎの確かさ、空を、花を存分に生かしたフレーミングに当時のカメラの被写界深度の浅さを逆手に取った画面の奥行き、そして終盤の轟夕起子と志村喬(ひでぇ役w)が森の石松の所へ急行する時に見せた、マキノ伝家の宝刀駒落としの疾走リピートショット!現代のバックステージものから妄想上の時代劇へという入れ子型の脚本と相俟って全くもって素晴らしい出来。片岡千恵蔵の大立ち回りは仰天の迫力。轟夕起子の色香!
マキノ正博「江戸の悪太郎」
こちらは出来以前に、シーン単位の酷いカット(だと思う。当時上映用に切られたか?)やフィルムの「飛び」が散見し、ストーリーすらロクに追えず残念。ドラマとしては「浪人街」寄りの重めの展開だとは思うが、やはりマキノは(省三の立場に立つ訳ではないが)ミュージカルや活劇で観たい。とは言うものの、星玲子の身投げシーンのあの橋の画だとか、轟夕起子の歌と踊りで(まぁカワイイ事!)場繋ぎしてしまう芝居小屋の活気とか、眼を見張るショットは充分。アラカンは意外としっくり来なかったなぁ。
そして今日のメイン・ディッシュ。山中貞雄「丹下左膳余話 百万両の壺」。
素晴らしい。もう、否の打ち所がない。完璧なホンに完璧な画。完璧なディゾルヴ。完璧なワイプ。そして完璧な芝居!「イチ筋、ニ抜け、サン動作」総てがベスト。天才だ!
もう具体的に挙げたら切りがないが、中でも一つ気になったのはカーテン(空)ショットの多用と手前に者をナメ込んで縦構図に持って行く空間造形。これって、小津ちゃうん?どちらが真似したかは知らんが、何か因果があるのだろうか?
これはもうビデオを買ってじっくり研究したい気分。兎に角演出の基礎を解った気でいる無知の塊のようなアニメ演出のバカ供には必須の教科書にしよう!どうです?オシイさん。
(03.05)
#22で、ある友人から痛い批評を受ける。
才能かなぁ。
まぁ、概ね喜んで戴けて胸撫で下ろしては居ります。
(03.10)
すっかりインスピレーションに枯渇したので今日明日とインディーズ映画漬けになる予定。
だってプロと関わってると頭腐るだけだし。
その第一段、元木隆史「プウテンノツキ」@テアトル梅田。
結論から言うと期待外れだが、許せる出来。久し振りに映画が俺を呼んだんだが、やはり勘が狂っているのか。
どこをどうこう言っても切りがない。文句は幾らでもある。何よりこの映画の主人公以上に作品自体が「後ろ向き」で、自分の殻から抜け出す覇気を感じない。小奇麗なのだが、この映画はもっと美しくなれる筈なのに、そこへの一歩が踏み出せないでいる、そんな感じ。
役者は演技と解ってて演技をし、カメラはカメラワークと解っててカメラワークをする。小手先の繋ぎ。時間がない上に頭の悪いと相場が決まっている局プロデューサーに止む無く妥協して創った深夜アニメじゃあるまいし、もっとフィルムと痛いまでのまぐわいを見せて欲しかった。とは言え商店街のダッシュとか彼女がキレた時の凄みのある後姿合わせて3ショットくらいとか、ラストショットの陽光の入れ方とか、ハッとなる画は撮れているのだから、惜しい。
矢張り実写が撮りたい。無性に。特に13歳。
(03.11)
<アニメが、空を見失ってから>
という訳で行って来たプラネット映画祭2002リバイバル特集@ジャングル・インディペンデントシアター。ならば先ず書くべきは、これしかない。
新海誠「ほしのこえ」。
予想通り長蛇の列で最初回は観られず。観たのは最終回。しかし本作のみ二回立てとはどれ程の集客力か。
とは言えこちとらだって本職だ。文句は幾らでも出せる。BG・CGに比べて作者のキャラ作画能力は若干劣るのか、もう少し動きを加えたら、と思うところでも止めが多く、合成も多用されて芝居が堅い。ロボット(トレーサーだっけ?)のテクスチュア処理も物足りない。カメラワーク含めてオール2コマ打ちというのはキャラ・CG・BG三位一体の質感統一には賢明の選択であるとも言えるが、その分運動感を減じてしまった。勿論庵野を意識したであろうカッティングのリズムにもやや乱れもあった、等々。
だが聴け、プロでのほほんとメシ食っている生きるに値しない業界人供よ。特にガイナックスとゴンゾの連中は、深く頭を垂れてこの作品の前に佇むが良い。最早、御前等にここまでの作品は作れないのだという事実を今ひとたび噛み締め、自らを呪え。97年を期にアニメの何たるかを忘却した亡者供には、もう過去の栄光にすがる自由すら与えられないのだ。
本作が「エヴァ」「トップ」を始めとする往年のガイナックス作品に対するオマージュだというのはバカでも解る(ていうかそれも解らない映像オンチはもう映像を騙るな)。だが、これは正に、「忘れ去られた」20世紀末のアニメーションに対する、21世紀からの余りに美しいアンサー・ソングなのだ。
89年に「まだ帰る所がある」と大粒の涙を流して呟いたタカヤノリコのオプティミズムを哀しみと痛みを以って全身で受け止めた「エヴァ」の碇シンジは97年、慟哭と共に「もうアニメは終わった」と吐き捨て、われわれの前から姿を消した。アニメは、自らアニメである事を捨てた。以降、総てのアニメ作品から「アニメ」が消えた。サブカル・アート系を騙ろうと背伸びする作品からも、オタクの下半身さえ満足させれば事足りると開き直った作品からも、「アニメ」は、跡形もなく消えた。
今、数あまたある粗品乱造のプロのアニメ作品群(無論、今のプロ作品に金を払うなんて恥ずかしい事をするくらいならインディーズのビデオを買いに走った方がマシという事くらい、アニメ・特撮系の映像に少しでも知識のある者ならば知ってて当然の話ではあるが)の余りの痴呆振りに本作のヒロイン・ミカコは両眼一杯に涙をためつつ、それでもうっすらと笑みを浮かべて、消え入るような声で、こう囁いたのだ。
「ワタシのコト、憶えてくれてるかナ・・・?」
その答えが、今のアニメファンの反応の広がりの中に、確かに見えつつある。これは退行ではない。自分を見失ったアニメーションが、手探りで自分の姿を懸命に見付けようとしている、哀しいくらいに美しい様なのだ。ミカコの消え入るようでしかし振り絞るように懸命の囁きは、凄まじい共鳴となって日本中を駆け巡る。アニメは、まだ忘れられてはいないのだ。忘れ去る事が出来ないのだ。
ここまで綴った私の言葉を疑う者がいるのなら、改めて問う。今のアニメーションにあの空はあるか。あの雲はあるか。ジブリすら見失った、美峰すら描けなくなった、密着多段引きで流れるあの雲が。私は途中堪え切れなくなった。大泣きして崩れ落ちそうになった。アニメは「空」を見失った。こんなに美しい空を、アニメは平気で見捨ててしまえる程、鈍感に成り下がっていたのだ。宇宙で瞬く青白い光。ゴンゾは果たして創立以来、バカ高いソフトを何本も駆使して、あれ程の美しい閃光を表現した事が一度でもあっただろうか?名前を出すのもバカらしいI.G然り!
いや、そこまで他人事のように罵るのは大人げない。かく言う私だって、すっかり忘れてしまっていた。慣れとは本当に恐ろしい。ミカコの言葉ひとつひとつが(しかし声優がよりにもよって「人狼」の武藤寿美とは余りに役者不足!オリジナルの声の方が確実に良いのは間違いない)まるでキリストに打ちつけられた楔のように全身を痛みと共に走り抜けた。アニメの「死に行く」姿を看取ろうとかつて誓ったのは一体何の真似だったのか。俺はもう傍らでアニメを見つめ続ける眼すら持てなくなったのか?
アニメが死んだとかもう描くものがないとか、そんな事をしたり顔で言う前に、先ずあの空を、雲を取り戻したい。今は無性にそう思う。痴呆が進んだこの世界でどれ程の事が出来るか解らない。しかし、放っておけば必ずどこかで、ミカコの囁きは聞こえて来るだろう。
「ワタシのコト、憶えてくれてるかナ・・・?」
新海誠には、確かにその声が、聞こえたのだ。耳を澄ませ。アニメの消え入るような切実な囁きを、ひとりでも多く、聴き取れ。アニメが本当に死んでしまう前に。
後の九作品は止む無く影が薄くなってしまった。だがハズレなしの実に観応えあるラインナップだった。こりゃ俺の作品なんか引っ掛かりもしないわな。PFFも少しはプラネットを見習いなさい!ていうか俺が先ず見習います!
では簡単に。
井上真邦「ハブ公」。マスターショットの絶妙さに抱腹絶倒。ネギの不潔さが良かった。
高松良彦「アブホ」。堤幸彦っぽいカメラ(ドキ・・・)もそこそこ決まっていたが、闇のコントロールに感嘆。コメディとのバランスをもう少しチグハグにしても良かったかも。
土居一公「がいな奴」。早過ぎるカッティングは明らかにメリハリを失い、切り過ぎている箇所もないではなかったが、こうにしか見えないという思い切りは見事。
中岡秀樹「パンチドランカービルディング」。上手い。完成度で言えば今回の中では「ニ花子の瞳」と双璧。モノクロという選択も良い。並列モンタージュには寸分の狂いもなし。
井村剛「いきもの図鑑〜スズキの生態」。読めてしまった。その分丁寧な作りでカバー。もう少しパロディ色があっても良かったか。
佐藤圭作「ニ花子の瞳」。この題材をインディーズでここまで出来るようになったのか!という点では「ほしのこえ」並の衝撃。山並みの情景からしてもう素晴らしい。漆黒の森に映える少女の青白く浮き出たワンピース!あの銃声!ここまでのおどろおどろしいエロスを画面に漲らせる才能はもう嫉妬の連続。ビデオ買えば良かった・・・。
田中見和「短編ドカン〜ノンストップ ファイブ・パンチ」。ひとつひとつの一発ネタは小気味良かったが、爆発力のある一本が欲しかった。
飯野歩「ハズしちまった日」。尺が長かった。やはり途中タルんでしまった。しかし流行りものの「揺れカメラ」「ブレカメラ」(ドキ・・・)も単調化する事なく、疾走シーンなんか「プウテンノツキ」の監督にも見せてやりたい程の切羽詰った緊張感。石井克人にも三池崇史にもないこのスピード感!
出遅れた。撮らねば。もう決断する時期なのかもな。三十路前に。
(03.13)
朝比奈隆「指揮者の仕事」(実業之日本社)読み終えた後親から奪ったPS2で漸く2001年「ブル八」DVDを観て、峻厳たる想いで一杯になる。
始めチェロとボントロがやかましいのにホルンやオーボエがオフ気味でどないな録音や?と思っていたらステレオの左右バランスが思いっ切り右に。・・・。
御大の棒さばきは2001年の中では活気だっていた方か。しかしやはり往年の粘りが作れない。パウゼが十分保てない。だが逆に言えば大見得が薄れただけの事。それがどうした。ここから鳴り響く音は正に私が何度も耳にした、天空を吹きすさぶ風のような、巨大にして深遠、あの響きがそのままの形で残っているのだ。これは朝比奈=大フィルでは(残念だけど)稀有の事であり(あとはザンクト・フォローリアンの「ブル七」くらい?)、ミスが全く気にならない(オーボエの浅川さんが珍しく連発していたが・・・)。御大の必死の棒に無我夢中で食らいつく団員達(終演後の梅沢コンマスのあの安堵の表情!)!壮絶にして堂々たる響きが駆け巡った。素晴らしい!
「一日でも長く。一回でも多く」の言葉が胸を突く。何を迷うか。人は自らの意志で生くるにあらず。自分の「意識」は自分を取り巻く様々な「意識」の干渉によってのみ立ち現れる。「共鳴」と「対立」、その弁証法的な不断の運動こそが「生」。ただそれだけなのだ。その感覚こそが人間の生に対する唯一のリアリティではないか。あー解ってるよ、そんな事!もう少し考えさせろって!
例のN響盤(?)との比較でも、やはりこっちかなぁ。我等の大フィル。ブルックナーが出来るのはこのオケだけなのだ。今だって。
(03.16)
芸術とは、技術を必要としない能力の事である。 W.フルトヴェングラー
やっぱり要るけどね。
D.W.グリフィス「嵐の孤児」。素晴らしい。夜中ねぼけ眼で寝転んで観てたら途中から興奮して正座して観てしまった。それはもうえも言われぬ興奮!
それはもう、リリアン・ドロシーの伝説的美少女姉妹の圧倒的美貌と愛くるしさに負う所が大きい。流石にアップになると朦朧と何処見てるか解らない瞳を作る演出は時代がかっていて異様だが、魂の兄弟供はこの天使達の一挙手一投足に大いなる感謝を捧げつつ謁見賜るが良い。正にクローズ・アップはこのギッシュ姉妹の為に生まれたのだ!
それはもう、あの「散り行く花」程メロドラマに傾かず、「イントレランス」程スケールの巨大さでごり押す事のない、真にグリフィス的な表現の結実なのではなかろうか。特に「散り行く花」ではオーバーアクションの目立ったリリアンの芝居も角が取れ、実に自然体で魅力が全身から染み渡る。恋の相手とのキスシーンで見せるあの恥じらいの味わいはどうよ!絶対リリアン以外には不可能、いややってはならない特権的な演技であろう。脚本も実にこなれ、カットの断面は相変わらず生々しくてかつスムーズである。やはりエイゼンシュテインよりもグリフィス。この一作で決定的となった。流石に革命描写はエイゼンシュテインに利があるのか処刑場やバスチーユ牢獄の門破りのショットには「十月」のような扇動的カットズームが欲しいとは思ったが、その分エイゼンシュテインには絶対出来なかった、下宿の窓からリリアンがドロシーを発見した時の、余りに叙情的な主観の俯瞰ショットは文法の陳腐さから解放された自由なる視線の聖化。クライマックスのラスト・ミニッツ・レスキューは御家芸でかつワンパターンとも言えるが、モブの圧倒的多用で埋め尽くされた重厚な画面に切れ味抜群のカッティングはもうそれだけで充分過ぎる程映画。夜や地下等の描写で闇への志向が見られたのも興味深い。表現主義の先駆け?
あまりいい写真じゃないけど・・・。
(03.20)
綿矢りさ「インストール」(河出書房新社)。珍しく小説。
このテの映画を撮りてぇーと常々言っている通り、梅田紀伊国屋で積んであるこの本を見つけて運命的な出会い。なんせ作者が17歳の俺好みキタ━━(゚∀゚)━( ゚∀)━( ゚)━( )━( )━(゚ )━(∀゚ )━(゚∀゚)━━━!!!!!
ヒッキー女子高生がHチャットのバイトで「ぬれて」ヌレヌレキタ━━(゚∀゚)━( ゚∀)━( ゚)━( )━( )━(゚ )━(∀゚ )━(゚∀゚)━━━!!!!!
それはさておき、オビで才能とか叡智とか散々持て囃しているような印象は特に持てず、女子高生の等身大、と言えば聞こえが良いが、やはり言葉そのものから発せられる霊感みたいなものは乏しいし、現代の若者の深層心理を抉って云々みたいなシチ面倒臭さもない。その反面、自然体かつスマートな文体でありがちなストーリーを一気に読ませてしまうしたたかさが目立った。民放深夜枠のドラマの本なら何本でもすらすら書けそうな雰囲気。ていうかそっち方面に進んで欲しいな。
こういうのイイなぁ。楽しそうだなぁ。これ権利取れないかなぁ。
http://homepage2.nifty.com/canalshore/number5/column/menya.htm
作品評はコレがそのものズバリ。でも充分に仕事してると思うよ。アニメ脚本家よりは遥かに。
(03.27)
何か特に最近、言い訳だらけの人生送ってるねぇ。
さもしいねぇ。
(03.29)
信じる者に祝福を。
裏切る者に哀悼を。
裏切られた者に慰みを。
あ、近々富野が出した「映像の原則」についてコメントします。
今月の一枚:
今月最初に観た夢がこれ。
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2002年04月
(04.01)
疲れた。
何もかも、終わったという事にしてもういいじゃないか。
ただひとつ、前言撤回させて下さい。
人間が歴史から学べる唯一の事とは、
人間は歴史から何も学ぶ事が出来ないという事実である。
終わったよ。それだけ。
(04.05)
体調が戻らない。
バチが当たったのかねぇ。
今日も早く寝ます。
あ、一本だけ。グリフィス「国民の創生」。
確かにモナコがグリフィスを「ビクトリア朝風メロドラマ」と批判するのも解るくらい、グリフィスの弱点が露呈。やはり彼にはエイゼンシュテインのようなロジックよりも寧ろ無勝手流であり、自由なのだ。さながらトスカニーニとフルトヴェングラーみたいなモンか?
冒頭からカット運びは単調で、印象が散漫してしまう。初主役のリリアン・ギッシュに対する後年の思い入れもここでは薄く、「嵐の孤児」の時のリリアンの方が余程若く見えてしまう。南北戦争の描写で少しスペクタクルを意識し始めるが、しかし何だあの分割画面?アニメはグリフィスから表象の正統を学んだ、なんて言っても何の得にもならんか。お互いにとってね。
ただ、また映画狂人と同じ所を褒めてしまって口惜しい限りだが、リンカーン暗殺のシーン、ラオール・ウォルシュ初登場のカットで見せたあのアイリスには戦慄と興奮。本作のアイリスも余り使い勝手が良くなかったようだが、ここでは顔と上半身以外を大胆かつ的確に絞って見せた。リンカーンを撃とうと背後に忍び寄る際も寄りの画を敢えて挟まず、それにより我々は反って劇場に居合わせたかのような生々しい衝撃に襲われる。
って、そんくらいだなぁ。後編のKKK編も各シーン、各カット共に他作でもっと良いものがあった筈。ただこれを差別主義的とまで言ってしまうのは幾ら何でも歴史への俯瞰構図が作れていない証拠。そりゃあ南京大虐殺もなくならない訳だ。
(04.14)
コンテ二本抱えてるのに、たるんどる!!
という訳で小津「生まれてはみたけれど」グリフィス「東への道」の評を後回しにして今からコンテやります。ばいちゃ。
(04.16)
Aパート、出すには出したが、また丸直しで返って来るんじゃなかろうな。
また開戦かよ・・・。
迷ってるのかは知らないけど、迷うなら独りで迷え。若手を巻きぞいにしないでくれ。もう巨匠なんでしょ?
仕事なんだから。
(04.18)
もう眠いけど書くかー。
小津「生まれてはみたけれど」
やはり小津。頭見切れても気にしないフルショットとか、凄く挑発的!しかしサイレント期の小津特有の移動ショットは何ともリズミカル!これは当時の海外でも真似出来ないんじゃないだろうか?移動でリバースを表現するあたり。
一両電車がしょっちゅう通るのも極めて運動的。ガキ連中のワラワラ移動する様も極めて運動的。映画とは運動也。かしこ。
グリフィス「東への道」。
またしても「ビクトリア朝風」の前半に対して後半は充実。正に「ラスト・ミニッツ・レスキュー」たるクライマックスの氷川シーンはなんちゅう無茶やらかすんや!これで我等のリリアンにもしもの事があったらたたじゃおかねえぞグリフィス!!
にしてもこれまた様式美と言うか、他のグリフィス作品と寸分違わぬ展開にああ、これじゃ当時の観客にも飽きられるわな、と。しかし同時にワンパターンで押し通すという決然たる身振りもまた大作家には必要なのであって、事実本作はワクワクして観られた。兎に角リリアン!求婚された動揺で針穴に糸を通す手がブルブル震えるリリアンのクローズ・アップ!映画とは正に美少女とサスペンス。ところで同カット内で溶暗・溶明したのがしょっちゅうあったのは何のこっちゃ?
(04.19)
結局、怨念こそが力となるのだよ。
ルサンチマンよ永遠なれ。
それはさておき、仕事にかまけてなかなか行けない大阪のシネマテーク、プラネット+1にいい加減行かないと。しかも今掛かっているのは「漫画映画」!
歴史歴史と言ってる以上は観ておかねば。
●政岡憲三「春の幻想(桜)」(1946)。
これ観るの5、6年振り。前もプラネットで。総天然色と記憶していたがモノクロ。しかし何度観ても素晴らしい。日本のアニメ技術の完成はこれを観ても政岡・瀬尾の活躍した戦中から戦後の時期である事は明らかであり、あの「ファンタジア(勿論2000じゃないよ)」に相対しても引けを取る事のない艶と生々しさ。舞妓がすっ、と佇むその容姿の色香をディズニーは未だ表現し得ていない。宮崎アニメの最大の弱点はやはりこのフルアニメのダイナミズムを東映から十全に学び取れなかった事であり、今こそこの「アニメ前史」の分断を世に問い掛けなければならない、という思いを新たにした。性懲りもなく日本のアニメの歴史を1958年から始めてしまうアニメを一本も観た事のないジャーナリズムの醜悪さをいい加減誰か正してやれ。可哀想だし。
●熊川正雄「魔法のペン」 (1946)。
戦後の復興がテーマ。焼け野原でこんなかわゆいメルヘンとは、何とも痛々しい。科白に不自然に入る英語も。広角を狙ったパース感覚は手塚の先駆けか?
●前田一「森の騒動」(1947)。
こりゃフライシャー兄弟の亜流。しかも二回観させられた。ギャフン!
●大藤信郎「雪の夜の夢」(1947)。
大藤の影絵作品。やはり何だかイメージが散漫。次の「マッチ売りの少女」に比べかなり見劣り。彼の代表作「くじら」を観てないのに敢えて言ってしまうが、大藤って賞の冠に名前を使われる程の存在なのか?ならば何故「政岡賞」がない!?
●荒井和五郎「マッチ売りの少女」(1947)。
今日の掘り出し物。雪の降らし方からして断然上。構図が雄弁。少女の横顔に溢れる情感。少女とおばあさんの再会にBGT光は圧巻。
●古沢秀雄「まさかりかついで」●古沢日出夫「スポーツ子狸・競馬篇」「ありとはと」。
・・・水の描写に「白蛇伝」の勢いを垣間見たくらい。あとは・・・。
●進藤進「蜂のお国」。
モブカットに当時の線の単純で太いデザインが醸し出すグロテスクさが出ていてゾクゾク。線画とはエロとグロ。
●藪下泰次・熊川正雄「動物大野球戦」。
アメをなめるそのねちっこさ!モブに止めの画があったのは残念。
明日から頑張ります。
(04.22)
という訳でここでもD地A太郎祭りワショーイ!!
もう遅いか。
<映画とは、美少女とサスペンス>
人が忙しくなったと思ったら観るべき映画が増えて来るという近年の傾向にウンザリしているのだがそうも言ってられない。今日も休日返上のアフレコ終えてまだ時間ある!
東京はすっげぇ街だからゴダール先生の「愛の世紀」だってオリヴェイラ先生の「家路」だって掛かっているし、ユーロスペースの隣の館では上海アニメ(海外出しじゃないよ)特集もやっているが、私が行ったのは勿論これ。
塩田明彦「害虫」@渋谷ユーロスペース。
偉大なる指導者にして永遠のヴィーナス・宮崎あおい先生に持てる総てを捧げます。
これは凄い。期待以上のものを見せてくれた。全篇ドキドキしっぱなしで、こんなのは「はなればなれ」以来!素晴らしい!!
勿論素晴らしいのは宮崎あおいその人なのであるが、その宮崎のエロスを搾り出すようにして撮った塩田のテクニシャン振りに感服。少女を撮るにはまず走らせろ、とは「お引越し」の際に書いたが、塩田はそんな事をせずとも充分少女の湿り気が表現出来る事を映画史上に証明してみせた。ふくらはぎを撮ったのである。そう、これは正に「ふくらはぎ」の映画なのだ。初潮を迎えたばかりの少女を撮るにその紅く如何わしいエロスの匂いを感じ取れる部分はやはり少なく、顔や胸を撮っても効果は薄い。かと言って勿論ここで性器を見せたところで、触覚的な情欲の対象になるとは言え、われわれの視覚が疼きをもって欲する芳醇なエロティシズムに到達する事は出来ない。そこでその性器から放散せられる紅いエロスを受け止め、外気と触れ合わせて芳醇な色香を生み出す場としての「脚」が注目せられるべきなのである。そしてその武器としての「脚」の効用を充分理解しつつ、不敵にも少し大股めにわれわれの前に立ち濃厚なエロスを振り撒く宮崎はやはり不世出のディオニュソス的な女優なのだ。勿論ふくらはぎばかり褒めるフェティシズムでは宮崎と本作の魅力の総てを語った事にはならないだろうが、それにしてもここまで撮れる監督と女優の関係というのはもう、山中貞雄が16歳の原節子を撮り得た奇跡に近い愛の成せる技で、それを「御前、惚れとるな」と揶揄した小津安二郎が後年の完成期にその当の原節子を「惚れ切る」事により「晩春」等数々の作品を完成させたという事実を知るわれわれは、宮崎あおいという存在から21世紀に溢れ、広がり行くであろう日本映画史の大きな荒れ狂う流れを想起せずにはいられない。
それを直観したに違いない黒沢清が作品・監督・女優のそれぞれを「西鶴一代女」・溝口健二・田中絹代に置き換えて並び称したのは極めて合点の行く話ではあるが、ならばそこまでマニアックな視点を持たずとも、もっと比較すべき作品が他にある事を誰もが知るであろう。そう、トリュフォー「大人は判ってくれない」である。冒頭雪のように振る羽毛(やっぱりジャン・ヴィゴか?)から一気に教室の少女達の噂話にまで繋ぎ、宮崎の登場を待って冷淡かつシャープにタイトル・インするカッティングにヌーヴェル・ヴァーグを感じる事は実に容易であるし、第一あの宮崎の歩調が奏でる靴音!正にアパートの階段をリピートで駆け下りるジャン・ピエール・レオの靴音のリズムを意識しているとしか考えられないではないか(リピートと言えば後半、火炎瓶投擲!?で民家を燃やしてしまって動揺する宮崎の後ずさりにしっかり使われていて、そこまでしてしまうと何とも意図が解り易くなってアレなのだが・・・)。となるとラストの処理は黒沢みたく人生への肯定だ何だと見当違いな解釈を介する必要もなく(ていうか黒沢のボケ振りはわざとか?盟友への皮肉か)、寧ろ誰もが予想し得るものであったと言える(そもそも中一のガキに人生の肯定だー否定だーなんて言わせてどうする?)疾走する少女。「われ思う、故にわれあり」と自らの実存の優越を声高に叫ぼうと明日は必ず訪れるという絶望を前に、その絶望を体内で中和する事の出来ない少女はただ、疾走するしかないのだ。だがその疾走がまるで「確信に満ちた迷い」の如き凄みを以って宮崎の肢体に立ち現れたが故の戸惑いの結果として黒沢のような評も出て来る訳であって、やはりラストの宮崎の決然たる眼差しは同じくジャン・ピエール・レオのラストカットの眼差しを超えたコンテンポラリーな強さをたたえているのである。つまりここで言える事は、「大人は判ってくれない」を現代に甦らせたのは決して「小さな泥棒」のクロード・ミレールでも「動くな、死ね、甦れ!」のヴィータリ−・カネフスキーでもなく、この塩田の「害虫」なのであり、ましてやロリコンオヤジによって幾分作られた感のあるシャルロット・ゲンズブールなんかよりかは宮崎あおいのタナトゥスの微笑なのだ。そう誇らしく宣言しようではないか。これは紛れもなくトリュフォーを超えた疾走する魂の一大ドキュメントなのだ。
とまで書いて、それでも何処かで重箱の隅つついてしまう私の悪い癖。宮崎が学校へ戻って来てから急に暫くTBSドラマ(藁に堕してしまうのは御愛嬌程度とは言え気になった。あのキスシーンも要らないでしょ?じゃああるだろうなぁと思ったレイープ祭りワショーイ!!ヤパーリキタ━━(゚∀゚)━( ゚∀)━( ゚)━( )━( )━(゚ )━(∀゚ )━(゚∀゚)━━━!!!!!(どうせなら児ポ禁と闘うくらいまで行ったら納得もしたのだが・・・)でも私はその時既に術中に嵌りまくり状態。思わずドキドキしてしまった。フィルムの方は例の火炎瓶辺りでア、イカンイカンとでも思ったのか調子を取り戻すのだが、まぁ、傷にはならないだろうからいいか。
えー最後に、本作を観てしまった事により私の13歳企画は頓挫しました。またやられた。うーんこれじゃあイカン。時間は待ってくれない。
(04.25)
荒唐無稽さと人間性。わたしが思うに、
映画とはほとんどこれらのために生まれたようなものだ。 ジャン=リュック・ゴダール
「東への道」のクライマックスは何とリリアン自身のアイディアだったとか。ショック!
(04.28)
某監督と話をしたり話聞いてたりすると、俺と似たような愚痴をタラタラと、まぁそういう商売なんかねぇ。
もう一本の方で表現上の飢えをしのげれば。いや、無理か。
#3はいたって普通です。当分マターリやります。しゃあないやな。
追伸 発泡酒よりビールの方が確実に美味いという事に最近漸く気付きました。クソッバカにしやがって!
(04.30)
ゴダール先生へのせめてもの罪滅ぼしに。
ゴダール「マリアの本」「こんにちは、マリア」
「マリアの本」の方は今の嫁ハン、アンヌ・マリー・ミエヴィルの監督。道理で素直で優等生的。劇伴でマーラー(しかも第九のフィナーレ!)を使うところなどまぁ、過不足ない出来。それをバックに踊る少女の姿は何だか相米慎二を思い出して悪い気はしなかったが。
対するゴダールの「こんにちは、マリア」の方はまぁ、見事にソニマージュ!CUT最新号でも「ゴダール神話」へのささやかなアンチテーゼが示されているが、史上最も映画にバカ正直な作家・ゴダールを観るにはただ、素直な心があれば良いのだ。結局ゴダール映画の50年史は「如何に愛するか」、これに徹していたという事は素直に画面に向き合えば(余程のエセインテリのどメクラでない限り)誰にでも解る事であり、故に最新作のタイトルが「愛の世紀」というミもフタもないものであろうと、その内容が徹底してハリウッド批判であろうと、何も驚くことはない。総てが、彼一流の「愛の形」なのだ。
本作も処女受胎して苦悩する少女と彼女にすがり付く様に愛を求める男を中心に、途方に暮れたように仰ぎ見る空の途方もない広がりを随時想起しながら、「愛」そのものが綴られて行く。あの空、あの夕焼け。あの画面にこそ「愛」の痛みを噛み締めた者の包み隠さぬ万感の想いが詰まっているのだと、それくらい解ってやらねばいくら無知蒙昧なわれわれとは言え余りに映画に対して失礼ではないか。
無作法極まりない消しで訳が解らなくなったマリーの陰部が頻出するが、勿論カメラは性器ではなく(いやそれも捉えてこその「下半身の演出」なのだが)子宮を捉えているのだという理解さえあれば、誰もが、受胎して「しまった」という衝撃と生ま「ねばらない」苦渋の先に、愛と生誕を尚も求めようとするゴダールの覚悟の深みに圧倒され、自らの野蛮さを恥じる事となるだろう。だが、たとえそんな事すら解らない人類だとしても、止むを得まい。そう、その事をこそ痛みを空白を以って受け入れよと、余りに劇的なドヴォルザークのチェロコンの調べを痛々しく断ち切って、ゴダールは空白と共に、静かに語りかけて来るのだ。アモール・ファティとも言い難い、そんなものですらない、より高貴な沈黙が、寄せては返す波の彼方に存在するのだ。
そう言えば今回はバッハとドヴォルザークなんて、選曲ベタねぇ。このベタさ加減こそが狙いなのかしら?あ、某「エヴァ」のクラシック曲の選び方がベタ過ぎるとしたり顔でのたまってたヒトがいたなぁ・・・。
今月の一枚:
ヒトは映画に挫折し、それでも映画を愛す。
2002年05月
(05.08)
拝啓 D地様。
どんな理由があろうと、貴方のは「逃げ」だと思います。
何度も逃げかけてそれでも踏ん張って来た私が畏れ多くもそう申し上げましょう。
ねぇ、俺がむばったよねぇ!D達さん?え、結局逃げたやんかって!?
極めて鬱です。
(05.13)
青山真治「EUREKA」周防正行「Shall we ダンス?」と役所広司二部作?を相次いで観るが反ってヘコみが増したので評は出張以降で。
俺もヒトの事言えんなぁ。
どっち向いて創って良いのか全く解らん。
アカン、スランプ。
(05.14)
西武田無駅周辺を撮りまくる。小学校とかその前にいた以下自主規制。
しかし、みんな何を期待しているのだろう?この反応はどうも解せん。
色々と言えるところは勿論あるのだが、しかしこれ潰したからもう今後「コボちゃん」にしかならないぞ嗚呼最悪だぁぁぁウワァァァン折角読売でなく朝日なのにぃぃぃとかいう危機意識と政治性くらい持てないものか。
とここまで書いて即座にアニメ観るヤツにそんな知能ある訳なかと気付き以下書く気喪失。
それにしても当の元カントクの日記はなかなか「妄想」以上の以下自粛。
ホンマ萎えた。同じ日にM島さんに会っといて良かった。
癒しに。青山真治「EUREKA」。
言ってしまえば「ベルリン・天使の歌」だし「都会のアリス」だし(ラストショットの空撮なんかまんまやんけ!!)、小津への近親性(青山自身がある対談で否定しつつ意識しているのモロバレさせているところ等は微笑ましくもあるが)も含めまるで、なのだが、この事をそう否定的に捉える必要もあるまい。青山真治は日本のヴィム・ヴェンダースであり、田村正毅は日本のアンリ・アルカンだ、と言ってしまっても何も恥ずべき事ではあるまい。実際本作はスタッフ・キャストが充分に仕事を果たした逸品である。
だが、それにしても、本作が宮崎あおいを欠いていたなら、という”if”にどうしても思考が辿り着いてしまう。勿論、シネスコを大胆且つ自然に使いこなし、ショットに独特の呼吸を与える青山(北野の真似とは言い過ぎ。同系だが似て非なるもの)の演出が、この世界に満ち溢れる光の粒子を一粒も落とすまいとするかのような、触感的とさえ言える程繊細な(アルカン以上!)田村のキャメラが、はたまたやはりこのヒトは凄い、どう切っても凛として画架に収まってしまう役所広司の存在感が、欠けてしまったらという”if”は同様に成立する。しかしそれと宮崎あおいの存在とは最早、レヴェルが一つ違うのだ。現に見よ、長尺である三時間三十七分を見事だれる事なく描き切ったとは言え、肝心のラスト一時間の決してツボに嵌ったとは言えない展開を埋めたのは、正に21世紀のヴィーナス、宮崎あおいの身体と、そこで戯れる光の粒子の淡いまばゆさであった筈だ。これに疑いを持つ者も、次のように言えば誰もが納得出来よう。本作のクライマックスは役所が自転車に宮崎将を乗せてグルグル逡巡する、長く緊張感漲る1ショットですらなく(「キッズ・リターン」はその画だけでクライマックスを築けたのだ)、やはりラストの、貝殻をひとつ、ひとつ、決して張りのあるとは言えない声をあげながら放り捨て、役所の声に応えて振り向く宮崎あおいのクローズ・アップのそのまばゆさだったのだ(でなければあのようにハイキーで処理出来まい!)。ファーストシーンとラストシーンを宮崎のクローズ・アップで締めたところに、本作の総てがあると言っても過言ではない。勿論青山他が無策だったと言う訳ではない。これは宮崎の禍禍しい存在が映画そのものを食らい尽くした瞬間なのだ。こんな女優は正に稀有。その思いを新たにした(だからどうしてカンヌは主演女優賞を彼女に与えなかったのだろう!!)。
本当に恐ろしい女優だ。
で、周防正行「Shall we ダンス?」。えーと、面白かったです。「EUREKA」で書き疲れてもういいや。
(05.16)
正に一年振りの更新、「AUFTAKT」はまだ連載しております。
何とかせねば。創らねば。
(05.17)
色々見て来て最近になって漸く気付いたのだが、
「良い作品で最も良いのはコンテ」
「駄目な作品で最も駄目なのはコンテ」
コンテが総てを決する。叩き台なんて悠長な事言ってるヤツは誰だ。
(05.18)
と思ったら鶴巻和哉がちゃんと「コンテが8割」って言ってるじゃないか。
だよなぁ。だって富野のコンテなんかやっぱり以下武士の情けで略。
(05.23)
アニメーションに過度の情報量は要らない。
アニメーションとは「線」そのものが語り掛ける表象である。
「アニメの品格を決定するのは背景」などと逃げの発言を続けていた宮崎駿のような改竄された歴史観に終止符を。
(05.24-1)
吹奏楽とはコラボレーションである。
(05.24-2)
給料上がらないと分かって無性に腹が立ってとっとと会社抜け出してヨドバシでビデオデッキを衝動買い。
「生きる為にアニメをする」なんてのうのうとほざくのは最早社会的動物たる人間として最低限のコモン・センスすら喪失した犬畜生にも劣る証だと常々思っては来たが、こうなりゃもう萎えも通り越して愉快ですらある。
あ、これ読んだ関係者各位、これだけはお上にチクらないように。他の罵詈雑言は構わないけど。
その帰りに寄った旭屋書店で山田宏一「友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌」(平凡社ライブラリー)と宮崎あおい写真集「happy tail」(ソニー・マガジンズ)のどちらを買おうか散々迷って結局前者に手を出してしまい、日本映画史に唾したかのような深い自責の念に捕われる。
という訳で、ツタヤに行ってもどうしても「月光の囁き」と「ギブス」が借りれない塩田明彦「どこまでもいこう」。
例えばラストシーンで野原に寝転がる主人公鈴木雄作の隣に芳賀優里亜が不意に座り、色の違うビスコ二袋を置いて去り、その去り際にくるりと振り向き、それをカットズームで繋いで「あげる」と微妙な笑みを浮かべ、幾分ジュニアアイドルを意識した歩き方で構図の中を奥に進んで行く、そんな「不意打ち」とも「偶然性」とも、さりとて「伏線」とも「ベタ」とも言い難い、奇妙で快い宙ぶらりんな浮遊感こそが塩田のユニークさであり、才能なのであろう。彼はそれを十全に知り尽くしたシャープな映像技法とサービス精神で、絶妙のバランスで描き切る。つまり、限りなく私の理想の方向性なのである。
ただ惜しむらくは「害虫」同様、そのバランスが全篇取れている訳ではないという所であり、本作でも中盤から後半にかけてがどうも甘い。少年達の「走り」を乗り物を使ったフォローから固定カメラによるパンからはたまた手持ちカメラから、見事なリズムで刻んでいたにも拘わらず、クラスメートの鈴木優也が絡み出すと途端に画面が良く言えば落ちつき、悪く言えば生気を失う。やはりストーリー上大事な箇所は慎重になってしまうのだろうか?そういう箇所こそ自分の凶暴さと存分に対決出来る絶好の場だというのに・・・。
生きるとは「事件」だ。「ストーリー」ではない。「ストーリー」を形成する為の「事件」ではなく、「事件」の集積としての「ストーリー」、それこそが映画のダイナミズムだ。ゴダール程の過激さこそないが、塩田のしたたかさはそれ故に不気味なまでの興奮に襲われる。ところでこんな当たり前の事に未だ気付けない押井守は、一体映画を何本見続けたらそこまでバカになれるのだろうか?
(05.30)
映画作りの経験もなく、ただひたすら他人の作品を見るだけで満足している映画ファンというのは、なんとしあわせなことだろう。 ジャン・ルノワール
今月の一枚:
絶望の後に。
2002年06月
(06.05)
作品とは世界だ。
曝け出された世界だ。
そこには意図も思想も存在しない。
私はただ、この近視的な眼で、茫洋で混沌たるひとつの事件に立ち会っているだけなのだ。
ストーリーとは事件の集合だ。
偶然性だ。
そして、もし世界の中心が愛であるのならば、
私はただ、この近視的な眼で、その世界を愛を込めて見つめていたいだけなのだ。
愛とは、諦める事。そして、信じる事。
映画。三連敗。短めに。
斎藤久志「フレンチドレッシング」。恐らく大学のシネ研でこんなものを散々撮っては女の子を引っ掛けるネタにしていたのだろう。模範的な学生映画。せめてラブホに入った女子高生二人がやおら主人公と3Pを始めるとかの勢いはなかったものか。
チャン・イーモウ「初恋のきた道」。アイドル映画。この監督にはクローズ・アップの撮り方を一から学んで欲しい。だったら引きの画なくてもいいよ。
森淳一「Laundry〈ランドリー〉」@扇町ミュージアムスクエア。脚本のベタさ加減をどうこう言う以前に、カット数多過ぎ。半分に減らして各々の尺を倍にすればまだ観られたのに。
J=L.ゴダール「女と男のいる舗道」。
確かにここのアンナ・カリーナも存分に美しく、それはもうOPのタイトルバックの逆光シルエットに近い彼女が唇を舌で湿らせている仕草一つ取ってもそうだし、キューの前から回しているフィルムのその前の部分から始めてしかも明らかに振り返るタイミングを間違えて動揺の余り苦笑してしまったアンナのその一瞬を捉えた貴重なNGテイクを使ってしまう1ショットはゴダールの愛以外の何ものでもないのだが、反面タガが外れたというのか、締まりがない。でもやっぱりジュークボックスで踊り狂うアンナ!
(06.08)
たかが一年経って何かが清算出来るのならヒトの生なんてその程度のものなんだよ。
闘いはこれからじゃないか。
他人事なのにって?そうは済まないのが俺の人生。
「アウシュビッツ」に「間に合わなかった」映画の「宿命」を万感の想いで見守り続けるゴダールを想起せよ。
合掌。
(06.11)
某ちゃんねるの「あた」スレッドはけなすもけなすもどうやら関係者ばかりやないけ!と昨日漸く気付く。
これじゃ作品が可哀想過ぎます。あんまりです。
んな事はほっといて次週はいよいよ溝口二本に御待ちかね「月光の囁き」だよ!今日はもう寝る。
(06.20)
「大文字の映画」から「小文字の映画」へ、ある種のノスタルジーと諦念をもって移行させたヌーヴェル・ヴァーグを踏襲する事にはなろうが、
「大文字のアニメ」から「小文字のアニメ」へ、これがアニメーションの21世紀に課せられた最大の課題であると強く断言しよう。
深く観念的な「もののけ姫」の作者はやがて「少女のエロスとその成長」を描く物語を紡ぎ出したように、
インディーズアニメ最大のヒットを飛ばした作者は「携帯メールでの遠距離恋愛、それを通した成長」、ただそれだけを描き切ったように、
「夢」を求めて「夢」に裏切られ、再びその「夢」で世界を支配しようとした「少年達」はやがて、涙と共に「夢」を剥奪され続けながらも「現在」を生き、そして「家庭」という「未来」を手に入れた四人の家族の切実さに敗れてしまったように、
われわれは愚鈍で大らかであった先人の「大文字のアニメ」に最大の敬意を払いつつも、もう二度とは戻らないノスタルジーからは背を向けよう。
「観念」や「イデオロギー」や「テーマ」はもとより、「アニメらしさ」という言葉さえも、たまに懐かしく思い出す程度にしよう。
未来は「アニメの自由」の為にある。アニメは何でも描けるし、何も描けない。
まずは「実写で描けるものがアニメで描けない」という理不尽な抑圧からアニメを解放しなければならない。
アニメは何を描いてもアニメにしかならない。
結局滞っている映画評、溝口は「近松物語」と「瀧の白糸」、塩田は「ギプス」を追加。しかし今は書く時間も気力も・・・。
酒がないとテンションを上げる事すら出来ない。
(06.24)
おすぎです。
とうとう観て来ました「翼をください」@シネ・リーブル梅田。
もう奇麗!スッゴク奇麗!ミーシャ・バートン!!
もう理想的な育ち方にホッとするやら感激するやら嗚呼、神様有難う!!特に胸!!それにあのそばかす!!
いや違うのそんなんぢゃないわ、違うのよ!痛々しくも美しい少女の愛!そして葛藤!如何にもタチとネコといった理想的な顔立ちのパイパー・ペラーポにジェシカ・パレ!その関係が逆転してしまう所も最高!
ソフィア・コッポラにも見せてやりたい完璧な語り口で見事に運んだキラキラした思春期の激情!貴女も今すぐ激情、ぢゃない劇場へダッシュゴー!!
それはさておき、こういった「ソツのない映画」はヌーヴェル・ヴァーグなら真っ先に嫌うところだろうが、やはり宮崎駿とゴダールを同時に肯定せねば自分のスタンスが保てない者としては、これで充分。持ってる駒の使い方を完璧に解っている演出。
「ルサンチマン」三役で久々に飲む。こんなに大笑したのは四年振り。時は過ぎた・・・。
(06.26)
何を何処へ向けて出せば良いかさっぱり解らん。
やっぱ俺にはプロデューサーの才能ないわ。
とりあえずプチドル隊の中村静香さん(宇治市出身)。ここ見たら御連絡下さい。
(06.28)
「三本目の企画書」の関係上ここ2、3日スーパー戦隊漬けになっているのだが、流石昔取った杵柄、ふつふつと全身の血沸き上がり、この勢い逃すまいとツタヤで「百獣戦隊ガオレンジャーVol.1」を借りて、その色褪せる事のない圧倒的なフィルム的運動性に打ち震える。
「First Love」のディレクターの如きドシロウトが決して味わった事のない、映像の真の力に裏付けられた興奮である事は言うまでもない。
何しか偉大なる指導者にして新たなるミューズの申し子・竹内実生に祝福を。
今月の一枚:
せめてトップ絵くらいは無邪気なものを・・・。
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2002年07月
(07.01)
そろそろ血に飢えて来たので。
小林よしのりは、手塚治虫と並ぶ戦後最大の漫画家である。
・・・それでも、せめて「ニーチェ以来の思想家」とかそういうコピーすら付けられない臆病振りに我ながら嘆息。
なんでカミングアウトしたかって?いや、そろそろ要りそうなのだよ、仕事で。
勿論知恵遅れの観るもの以外は創る事を許されない今の業界ではかなり難しい話なんだけど。
しかしまぁ、ネットに膨れ上がった凄まじい数の賛否両論!2chの議論は最早日本語になってないから読めないし。
こりゃ勉強するのもひと苦労だねぇ。
因みに「単に漫画としてつまらないという事が判明した(判明って・・・)」とか言うて自慢気に断定したペェジもあった。
ああ、昔もあったねぇこんな論調。「まっちろ」の時。うひひ。
(07.03)
拝啓 宮崎あおい様。
貴女は立っているだけで映画です。
映画に貴女の居場所があるどころではない、貴女自身が絶対的に映画そのものなのです。
前田哲「パコダテ人」@テアトル梅田。
この監督は如何にも関西人らしい、余程の気ぃ遣いでサービス旺盛なのだろう、「まぁ、しゃあないか」でやり過ごしたテイクが多々ありそうだし(ピントは特に酷かった。風呂場で涙ながらに話す松田一沙のショットは絶対に付けてやらねば!!)、粘りよりもダレるのを恐れて切り刻んでしまったシークエンスもかなりある。「エンターテインメント」への勘違いでよくあるのだが、ショットの尺を短くすれば画が保つと思ったら大間違いである。リズムが出来なければどうしようもない。SEの使い方(銭湯のカポーンって音!勿体無い!)、彼の音感は実は所謂「ウェルメイド」的なアップテンポには付いて行けないのではないか。
しかしそれと、この監督の映画作家としての「資質」とは話が違う。トホホなストーリーとそれに追随するかのようなベタベタなコンティニュイティの間から見え隠れするものは、紛れもなく映画の「匂い」であり、それは何も、今世界でも数少ない「匂う」女優、宮崎あおいの天性ひとつに負うものではない。何より前田のキャラクターとしての「優しさ」がフィルムをまるで羊水のように浸し、そこに宮崎が心からの安堵感で横たわっている様が、このフィルムの「匂い」を充分なまでに引き出している点はもとより、更にそれが前田のキャラクターひとつに拠るものでさえないというところを「嗅ぎ分け」なければ、最早映画に対する「嗅覚」はないに等しいとさえ断言出来よう。宮崎とメールのやりとりをする勝地涼の背中をすっとドリーでトラック・アップする様はタルコフスキーの「鏡」に匹敵、とまでは流石に言わないが、そこに通底する感触は誰もが絶対に感じ取らなければならないし、同じく勝地が宮崎を追って自転車をこぐ際に巻き上がったつむじ風は、この映画が如何に「祝福された」ものであるか自明の理と証明しているも同然ではないか。
そして極め付けは終盤、家を出て国の当局に投降する決意を固めた宮崎が銭湯をふと振り返り「さよなら・・・」と呟く長回しで、前田は今や日本映画界を牛耳んとする「映画美学校」派、青山真治や塩田明彦すら撮り得なかった、宮崎の最高のクローズ・アップを撮る事に成功する。それを「A.I」のパロディとして(それ以降は勿論「E.T」のパクリ・・・)軽やかに処理してしまう前田のパワーとしたたかさは、まるで爪を隠した鷹のような不気味ささえ感じてしまうだろう。少なくともこのクローズ・アップだけで、同じアイドル映画でもチャン・イーモウとはかくも違うのかと誰もが痛感しなければならないし、それをまた御丁寧にグリフィスと比較までして「初恋のきた道」を褒めちぎってしまった山田宏一の老眼には誰もが驚き、呆れ、映画に恋した者の盲目振りを嘆かねばならないのである。勿論チャン・ツィイーが宮崎より上だなんて口が裂けても言えない筈である。
15歳の宮崎の「匂い」を余す所なくフィルムに定着させた前田の次回作は、是非ゴーマンかまし放題で観たいものである。無理か。
(07.14)
細かいこと気にすんなって
もっといい加減に生きろよ!!!! グゥ
「死のロード」終わったー!
生き延びたー!
もうええわ。
あ、金田一センセマンセー!!
ワショーイ!!!
それはさておき、この一週間で書ける事は二つくらい。
一つめー。中原俊「富江 最終章 −禁断の果実−」@銀座シネパトス。
・・・「テーマはロリータとレズビアン」とか自信たっぷりに言ってる時点でダメ。あ、これ書く価値ないや。
ロマンポルノでデビューしたというのが信じられないくらいの中原のエロスに対する鈍感振り。不能振り。それなりに成長した安藤希と我らが宮崎あおい御大を擁してこの程度の画にしかならないというのは逆に才能なのか!?東大出監督の本領発揮か。
二つめー。
「JングルはいつもHレのちGゥデラックス」はアニメ史上最高のEDを創ってしまいました。
みんなアニメへの愛を少しでもアピールしたいのなら、このOPEDの為だけでもDVD買え。観て泣け。買わきゃ死ね。
次の話数は本気だしちゃる。
(07.19)
演出に必要なもの。
リズム感と嗅覚。
これだけ。
(07.21)
しょうがないよ。
(07.23)
この世にヒロイズムはない。
もしあるとすれば、それは現実を直視し、しかもそれを愛することである。 ロマン・ロラン
某連載、取り敢えず更新しときます。
校正は明日します・・・。
(07.24)
御記帳参照。ここに無断引用。しかし意外と良く描けてるなぁ。「タイムボカン」時代の天野義孝系で。
しかし筆者氏の御指摘にもあるように、仮にもオタクの分際で「ナンパ」だとか「同棲」だとかぬかすのは社会通念に照らし合わせてみても「非常識」であり、狂気の沙汰に近いアフォの妄言であると言えよう。なぁ、委員長?
「藍より青し」は現実じゃない!!なんて言い切ってる時点で、君は立派な「ルサンチマン」だ!何となくがむばれ!!
という訳で明日はまたしても私には「あるまじき」「非常識な」場所へ行って来ます。いや、別に何もないけど。何もないって!
(07.29)
ナターシャ・キンスキー結構(・∀・)イイ!!
最近「ガオ」漬けでかつ他色々雑事もあって色々疲れもして、それでもいい加減観とくべきだとサミュエル・フラー「鬼軍曹ザック」@PLANET+1。
スタジオの角のラインがばっちり見えてしまうくらい(狭っ!!)の安上がり振りで、後半の寺院のセットも相当アイヤーなのだが、そんなのが不満にならない程の充実振り。
戦闘シーンも含めてやはり、時代が時代だけに芝居の設計の生々しさは現在不可能なのではなかろうか。イデオロギーに振り回されない正に「現場の視点」によるB級映画の運動性に乾杯。
(07.30)
「私立探偵濱マイク」#5、マトモに観たのは初めて。やっぱりイマイチ。「Grasshoppa!」でもよくあるが、映像に遊ばれている感じ。永瀬はそんなに気合入っているのか?全部須永秀明のせいなのかな?まぁ来週は青山の回なので観ます。
今月の一枚:
Veni, creator Spiritus, Mentes tuorum visita, Impre superna gratia.
2002年08月
(08.01)
<来たれ、創造の主なる聖霊よ>
ZONEが現代の唯一神である事は最早周知の事実であるがそれでも今尚そのサンクチュアリにワショーイする事は美とタナトゥスのエクリチュールからそれ逝けびゅんびゅんびゅーんの内面に潜むGerettet ist das elde Gliedなディスクールがディオニュソス的なエイドスを以ってアンガージュマンする時Wissennshaftlehreと共にMIYUのソロが最大幸福の原理となってアレーティアするのではあるがそれはピュシス本来のばばんばんばんばんばんばばんばん化として僕はマグマダメ我慢出来ない演繹法ではなく寧ろAre you ready?的帰納法で説明出来るソニマージュ的な試みとも言えるがそのポリフォニックなアキレスのパラドックスは総てのDaseinのコントラプンクトにおいてパラディグマティックではなくサンダグマティックな選択を迫るエピキュリアニズムであり且つその溢れんばかりのエロースは最早パトスが世界をゲマインシャフトとして企投せしめるFair is foul, foul is fairな弁証法だけでなくそれをただZONEのポイエーシスとして理神論的にゲバルトせんとする極めて形式主義的なシニフィエのように捉えてしまうと誠にアンシャン・レジーム的なサスペンスに身を預けてしまう原宿系の(;´Д`)ハァハァにも換言出来る一種グリフィス的なみゆみゆキタ━━━ヽ(゚∀゚)ノ━( ゚∀)ノ━( ゚)ノ━ヽ( )ノ━ヽ(゚ )━ヽ(∀゚ )ノ━ヽ(゚∀゚)ノ━━━!!!でもある訳でその造反有理をパリンプセストせんが為のトリエテス・アラントがマターリと世界同時革命に向け生起して行くさまはMAIKOは実物の方が可愛いという一種のネクロノミコンでありミルクと混ぜなきゃ唯物史観である筈で、つまり、ZONEは存在しない存在なのである。
最後まで附いて行きます。 (08.02改訂)
(08.02)
興奮冷めやらぬ今日CDやらビデオやらを整理していて偶然手に取った某N村の「イリシッド・オークション」を戯れに観て愕然とする。
これは立派なまでに歪み切ったフィルム・ノワールであり、その徹底した映画への不信はまるでメビウスの輪のようなねじれで映画への肉迫を果たしているではないか!これ凄いよ・・・。本人も自覚してないだろうが、本作はクライマックスにドンデン返しがあるのではない、総てのショットが無数のドンデン返しを繰り返し、夥しい摩擦熱で火花すら散らしているのだ!アニ同のエキストラ投入は正に彗眼!
やっぱり昔は映画観慣れてなかったんだねぇ。もう手遅れやろか?せめて彼にもう一本撮らせる事が出来れば・・・!
(08.04)
知性は、真の偉大さの為に畏敬を、愛情を、熱狂的に捧げられる愛情を無条件に再び習得せねばならない。
ヴァーグナーの『パルジファル』に見られるように、傷を癒すものは、その傷を与えた槍だけである。 W.フルトヴェングラー
(08.06)
遂に観た!
百瀬義行「ギブリーズepisode2」@イオンシネマ久御山。
・・・その前に森田宏幸「猫の恩返し」@イオンシネマ久御山。
ぐだぐだ。何がぐだぐだって、途中で寝かけた。やってくれるぜジブリ!「千と千尋」と同じく昼間から酒飲んで観たのだが実に良い子守唄。
何よりもう、ヘタでしょうこれは。後述の「ギブリーズ」と観比べて、監督ひとりの力とはかくも大きいのかと実感。ていうか、若手を晒して潰して保守しようというのがジブリの魂胆なのか?どうせ某「ハウル」の監督降板劇も計算済みだろう!いや、何がって、あの太くジャギだらけの線を冒頭に見た瞬間にああ、これは85dpiではないかい、「あた」と一緒ではないかい、ていうかこれはTVシリーズなのかい?と気付いた瞬間にもう、上半身直立のまま走るハルの不自然さに(繰り返し言うが、少女をちゃんと走らせられない者は演出失格。ミニスカにアオリショットを多用しても騙されないぞ!!)もう、ああ、これはやっぱりTVシリーズなのではないかいと、もう、俯瞰のBGで上下パースが下に向けて広がっているカットをよりにもよって同ポ兼用にしてしまうところでもう、いやぁ2,3週で仕上げたんだろうなぁこのTVアニメと、もう、・・・そんだけ。
吉田玲子が月島雫に成り代わって書いた恐ろしくリアルな同人児童小説も、「千と千尋」観てからコンテ描けよ(ひょっとしてこれこそ宮崎の入れ知恵!?)と言わんばかりの最後の落下も、もう、・・・いやぁ、「アメリカのガイナックス」ディズニーが「ピーターパン」やる御時世だから、何が起きても不思議はない、アニメの怪をここに観た。
久々に「こんなんだったら俺にやらせろ!」と思った作品でもありました。まぁ、そういう事で。
一方「ギブリーズ」は対照的なくらいやりたい放題!きっとジブリはこっちをやりたくて森田を噛ませ犬にしたに違いない。何てさもしい!あのカレーの質感といい大平晋也・うつのみやさとるの御家芸といい、「猫恩」同様ぐだぐだな「Grasshoppa!」観るくらいならこれ観てアヴァンでポップな映像を感じなさい。
「濱マイク」#6。流石青山真治。ゴダールを唯一のオプティミズムとする男。堂に入ったアイリスにワイプの遊び。主人公以上にクールなBGM(やっぱりアコギ!)、ノーブルなドリーにパン(しかしこの監督、言ってる事とは裏腹に移動多いな・・・)。ラストに至るまで繊細さと大胆さで怪しく色付くフィルム。アップの一切ない倫理観と自信。
(08.09)
最近全共闘研究を進めてあ、そう言えば、と思って慌ててツタヤで借りて来た大島渚「日本春歌考」。
交錯する軍歌に革命歌、そして春歌。反戦歌。虚ろな学生達の眼差しに映るものは勿論戦後日本の「再度の」敗北だけでなく、映画そのものの敗北感ではなかったか。虚ろに歌う事を止めない若者達。大竹は死んだのか。少女達は誰に犯されたのか。流れる涙は何の為か。総てのショットが敗北の眼差しに薄曇りながら、夥しい「歌」の中にかき消されて行く。
最早「戦後」ではなくなったのだ。その一瞬が一瞬という名の「死」としてここに焼き付いている。
(08.12)
ゴダールに言われなくとも、21世紀は「愛の方法」について煩悶し続ける100年となるだろう。
<おかえり、ヒーロー。>
曽利文彦「ピンポン」@テアトル梅田。
結果から言うと、非の打ち所なし!サイコー!!久々に90年代アート系映像派で切れ味抜群のフィルムを観た。いやはや今年は北野の新作除けば「害虫」の一人勝ちかと思えば、やはり窪塚!宮崎あおいと並んで邦画界の時代の寵児、傑作と組めば凶暴なまでに輝く。
いやそれにしても、曽利である。行定勲にも見せてやりたいこの無邪気さ!まるで卓球台で飛び跳ねるペコそのままに、イノセントなまでに大胆なキャメラにクレーン。CGも含めてキャメロンの受け売りと言えばそりゃそれまでだが、冒頭のタムラ卓球場で見せた、球を打ってから台を跳ねるまでのカットの呼吸を観てあ、この映画もらった、と確信した。そこにはテクの押し売りなどない。フィルムが間違いなく登場人物と同じ呼吸、同じ鼓動で脈打っていたのであり、原作者・松本大洋の厚い信頼も正にペコとスマイルさながらの、「鼓動」のリズム感を共有し得た結果であると言えよう。ビギナーズ・ラックとも言えなくもないが、ショットの殆どにCGを使った言わば計算の塊のような匂いは殆どなく、逆にCGであるが故にピンポンの球は製作者の想いを乗せて飛翔したのだ。これこそアニマ。ウォシャウスキー兄弟もたまにはこんなの観て賢くなろうねー。
宮藤官九郎も漸く自家薬篭中の題材で横綱相撲。正に三位一体の奇跡で後半は涙。ただ一点だけ非の打ち所のない作品に非を打ってしまうと、球を打つアクションをカットで繋いでいる箇所が余りにシャープであるが故に、ラリーをワンショットで見せている部分は球をCGにしているという利点に反してリズムを欠いた。皮肉ではあるがこれは「計算」で何とでもなっただろうから惜しいのは惜しい。でも久々に血沸き肉躍る活劇を観た気分で晴れ晴れと劇場を出た。「エピソード2」観る前に観ておいて良かった!万歳!
(08.14)
とあるHPに感化されて、俺も勉強がてらやるかなぁ、といきなり写真。本日は、
「やっぱ私学にしとこかな・・・」
「写真で一言」のコーナーではありません。念の為。
(08.16)
一日遅れましたが。
<終戦に当たって>
戦争を忘れろ、と言いたい訳ではないが、
今我々が総括し、反省すべきなのは、「戦中」ではなく寧ろ、「戦後」であろう。
歴史がそれを要求している。
(08.18)
附小のガキ供に捧げた花火のバックに流れたモツレクのラクリモーサには流石に辟易。
後ろにいた子猫ちゃん達が
「なんかクラーイ!」
今度このテのイベントやる時はマーラーやろマーラー!八番とかw。
誰だ「亡き子をしのぶ歌」とか言ったヤツ!!
(08.21)
金がないなぁ。
食えないなぁ。
これを御覧の業界人の方、仕事下さい。コンテ希望。18禁でも何でもやりまっせ!
(08.25)
こんぴーたとネットの知識もっと溜め込まなきゃなぁ。
現代とは正に「情報戦」だぞい。
これ、伏線ね。
(08.29)
演出の勉強とは、自分が立ち、歩くこの場所にある。
(08.30)
一本だけ。大分前の「シネマダイスキ!」でやってた千葉泰樹「秀子の應援團長」。
1940年制作とは思えない明るさと軽快なリズム。嗚呼、まだ「アウト」「セーフ」って言ってるよ・・・。
高峰秀子は当時の綺羅星の如き大女優達の中ではあまり好きでない方だが、彼女の「アイドル映画」としては存分な艶をたたえた出来。しかしその分野球シーンは記録映像のアングルの域を出ず、もっと踏み込んで撮って欲しかったとの思い大。
(08.31)
いつまで文化大革命を続けていれば気が済むのだろうねぇ、ここは。
客が観たいのは単に「おもろいアニメ」です。単純な市場原理なのだが、あ、ここは経済システムが違うからなぁ・・・。
今日の一枚。
妄想ノオト
今月の一枚:
線一本の闘い。
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2002年09月
(09.02)
私はデッサンというのは手が描きやすいから手で描くのであって、感覚的には身体全体で描くことだと思うのです。(中略)
イメージというのはそういうものでしょうね。頭の中にある有るようで無いもの、それをつかまえて身体で表現しようとする。
平山郁夫
(09.05)
我慢すればする程、負けがこむな・・・。
横浜の森監督の心境とはこないなものか。森に関してはザマァミロと思っていたのだが。
我慢しかないよ。手がないやないか。
あ、仕事に関しては今攻めの一手です。
星野監督くらいw。
息切れが怖いな。
(09.06)
ていうか漸く「あた」#24のコンテ終わらしていよいよ「Gゥ」#5だぞィヤッホー!!!
ヤってやるぜ!!!
「Aベノ橋」のI石Y之の回観てアホ程テンションが上がる。
(09.09)
「売れ線」の解釈が微妙にずれてると感じたなぁ。
少なくとも「ほしのこえ」に否定的である以上、「売れ線」という言葉がかなりラディカルに聞こえたのだが。
それこそ俺は「R−ゼフォン」くらいでもいいやと思っているのだが。ダメ?
山が撮れ、水と緑が撮れれば、
人は撮れる。
エルンスト・ルビッチ
何故渋谷ユーロスペースばかり行くかというと、駅から近いのと、下にアニメイトがあるからさっ!!
J=L.ゴダール「JLG/自画像」@渋谷ユーロスペース。
・・・バカ正直に撮っていればイイってモンじゃねぇだろ、なんぼカモフラージュしてもこりゃ言い訳臭いやな、と。まぁ「もののけ姫」に向けての「紅の豚」みたいな位置付けで、「映画史」に向けてのステップアップとして機能したのかも知れないが、これを「最高のゴダール入門」とは浅田彰はどの口で言うかゴルァ!!「千と千尋」見せるくらいならまず「カリ城」だろうがぁ!!と、まぁそんだけ。
ハスミっちもちくりちくりとやっているが、そこまで映画への「鬱」を赤裸々に語られても困る。少なくともレマン湖やアルプスの絶景とか尊敬する作家の作品まで巻き込んで引きこもるなって。
いや、誰だってそういう時期はあるよなぁ。同情してる場合じゃねぇって。
(09.10)
ニナモリはどうして学芸会本番に伊達メガネで舞台に上がったのだろう?
んなところにドキドキしながら「フリクリ」#3を観ている俺ってやっぱり「構造主義的だ!!」とかいって批判されるのかねぇ。
いいじゃん。アニメって結構楽しいもんだよ。
(09.12)
そろそろwebデザイン変えたいなぁ。
(09.18)
俺も進歩がないねぇ。
組み立て悪過ぎたねぇ。
何度反省しても、ヘタだねぇ。
「Gゥ」#5A渾身の力で脱稿。
いじれるモンならいじってみろ。
終わって家帰って寝込んで今日の午前寝倒す。
今北朝鮮を敵国扱いで映画撮っても「生々し過ぎる」とか言わないとインテリとして失格なのかねぇ?
「鬼畜大宴会」なんてもってのほかなんだろうな。
#5Bも頑張ろっと。
(09.19)
ヒトを信じるって、何と難しいのだろう。
この言葉、何度書いても書き足りないよ。
しかも書く度に対象が複数あるのも何とも皮肉な。
もう退かんぞ。
ミューズは我と共にある。
という訳で妄想ノオト、遂に三周年キ━━━タタタタタ(゚∀゚)タタタタタ━━━━( ゚д゚)・∵.ヒデブッ!!!
有難う御座居ます。
この一年でますます各方面から監視の眼を感じるようになりましたが、自爆テロなら絶対負けない自信の下にこれからもヤる気マンマンでがむばります。
で、今日までの一年間、名前だけでも出した作品49本。また激減!
月4本は少ないなぁ。忙しいからしゃあないか。
因みに紹介していない作品や短編等を含めてやっと79本。やっと去年並・・・。
あ、80本目!原恵一「クレヨンしんちゃん 爆発! 温泉わくわく大決戦」。
実は「劇しん」これで二本目!ちっとも観てないなぁ。食わず嫌いじゃないんだけど。
制作の実情を結構知っているだけに、前半はアラばかり見えて乗れず。それだけに後半の「怪獣大進撃」からは燃えた。実はこのパートの原画マンこそ私の師匠です。久々に師匠に頭上がらなくなったなぁ。
併映の「クレしんパラダイス」は最近観たので二回目だが、思ったより俺でも何とかなりそうだなぁ。なんちて。
(09.21)
≪「リアルだけが」≫
岩井俊二「リリイ・シュシュのすべて」。
東浩紀が「談」で語り散らしているのを読んでああ、やっぱりこいつ押井守シンドロームじゃねぇか、「ビューティフル・ドリーマー」じゃねぇか、と鼻で笑う私のその鼻に岩井は奮い立った拳をぶつけて来た。
公開時「ぴあ」に載った岩井のインタビューに血生臭い匂いを感じてはいたが、結局今になってビデオで観る羽目に。
美しい。
貧困な語彙を何度も搾り出しても、この言葉しか浮かんで来ない。
暴力的なまでの美しさ。
いや、これこそ、総ての「思春期」が持つ「陵辱され続ける事の美しさ」。
同じ「中学生」というテーマでこの作品は塩田の「害虫」と並置する事も出来よう。まるでネガとポジ。勿論、宙ぶらりんの天才・塩田明彦と映画の娼婦・宮崎あおいが組んだ「害虫」こそネガであり、この「リリイ」がポジである。「害虫」は闇という胎盤に宮崎の肉体と血の匂いを染み込ませる。「リリイ」では、光が射精時の噴き零れる体液のようなハレーションで一片たりとも世界にその身を晒すまいと恐怖に打ち震えるシルエットに狂ったように襲いかかる。情け容赦ない光の陵辱を受ける少年、少女達。ストーリーを追うまでもなく、これは何人もの中学生達が男女問わず光にレイプされ続けている、その記録に過ぎない。
手持ちカメラから伝わる欲情のたぎり、震えと共に、光という名の異臭を放つ精液を、「映像美」だとか「同時代的」だとかいう逃げ場から飛び出して、岩井は遂に映画に浴びせ掛けた。
とある評で、「これを映画というならば、これまで作られてきた数々の作品は全て”ゴミ箱”に捨てられてしまうような感覚です」 とあった。しかし、仮に映画が100数年前「映画」となってしまったが為に「映画」で「あり得なく」なってしまったというのなら、それを「ゴミ箱」に捨てる事は当然の帰結。つまり、遅過ぎたのだ。
この映画の中で唯一、光のレイプから逃れられたもの、それが「文字」。
知覚の七割を占める筈の視覚が最早おとぎばなしと化し、インターネットやデータベース上の「文字」のみが≪「リアル」≫。そう論ずる事で岩井の「同時代性」を指摘するのはまた、実に易しい。
しかしこの「リリイ」が結局、視覚そのものの生々しく痛々しいオーガスムスに痺れている様を誰もが感じ得るのならば、これは正に東の論じる「見えるもの-見えざるもの」の二元論からの解放であり、現実とサイバースペースに「染み渡る」自我を生々しく捉えようという試みである筈だ。映画からの解放。それは「視覚」そのものからの解放。何もサイバースペースに逃げ込む事ではない。「染み渡る」自我が世界の隅々まで「触覚的に」触れ合う瞬間なのである。それが丁度恰も超時代的だと叫ばれている昨今、いや、それは実は、みんな体得して来た「当たり前の技術」なのだと、岩井は映画の肉体を貫きながら、不気味な程静かに諭すのだ。
≪「リアルだけが」≫。
今年は先を越される屈辱ばかり味わう。いや、創作は絶望だけが、愛だけが、と今は言い聞かせるしかない。
(09.22-1)
「証」でみゆみゆがパクッている所は「死んでもいい」と言っていると見た!!
これ当たったら何かくれるのか?
(09.22-2)
あーそっか!「あなたのため」か!!
(09.23)
忙しくなる前に観ておくかと。
今敏「千年女優」@千日会館。
画面小さし。音響悪し。隣のオタクの笑い声五月蝿し。
しかし久々に劇場でアニメを楽しんだ。マッドハウスとしても久し振り。「YAWARA!」以来か?
不満は確かに残る。映画女優を主役にしておきモティーフとしての日本映画史をこれ見よがしに提示しながら、画面はあくまで「アニメ」であった事。アングル、レンズの選択、我慢の出来ないカット割や無駄なズーム、目盛が一目でトレース出来てしまうような付けPANなどなど、やはりもっと拘っておかないと映画としての品格が出て来ない。アニメだから、という訳ではないが、余りに「映画」に対し無防備なのだ。
さりとて単にアニメとして観ても相変わらず旧世紀的な動きの詰めやタイミングなど、上手い連中使っているのは解るがそろそろ眼の刺激に十分な画面創りにもう少し気を配ってくれはしないか。あと空。美術全体で言えばタイトルバックの現代の東京の色味など素晴らしいバランスだったが、空がいけない。暗過ぎる。雲まで暗い。モノクロを意識したであろう色指定の拘りがあるのだから、単に彩度を落とすだけではモノクロにはならない事を学んでおかなければ。ていうか、最近特に空を撮れない監督を信用していないので。
それを補って余りあるのが今敏の「現実-虚構」に時空を超えた緻密なモンタージュ技術であり、「パーフェクト・ブルー」よりも更に大胆さを増した。押井もこれ観て勉強しなさい。加えて彼自身が筆を入れた芝居の部分は正に入魂、「1スジ・2ヌケ・3ドウサ」は何とかクリア出来たと言える。藤原千代子をひたすら走らせ続けたのは彼女のエロスと作品の説話論的運動性を際立たせる為にもこれしかない決定打!ただ上半身のみのフォローが多かったのが些か粘り不足の感。
やはりもう21世紀なのだから、このくらいの作品が当たり前のように巷に溢れて来て欲しい。そんな期待をさせる一作だった。I.Gの特に演出スタッフは死ぬ気で勉強しなさい。でなきゃ回線切って以下略。
(09.29)
表現とは、歪んだ狂気の裂け目から噴き出る膿のようなものである。
(09.29-2)
「Gゥ」#5Bのコンテ中「証」を掛けっぱなしだった。
思えばTV#8のコンテ時も田無のファミレスで「GOOD DAYS」を一晩中掛け続けた。
またZONEに救われた。
今月の一枚:
ドラマだけが。
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2002年10月
(10.06)
色々ありますが、まぁ「証」オリコン初登場三位というだけで総て帳消しにしようやないか。
闘いはこれから。
(10.09)
「あと一本」・・・。
嗚呼何度味わったかこのもどかしさ、この絶望。これも才能なのかねぇ。
いや、まだ終わってないよ、まだもひとつ大きいのが控えてるし。
結果は再来週観て下さい。まぁ例によってあまり期待はしないように。
合間に映画二本捻じ込んだった。
磯村一路「群青の夜の羽毛布」@新宿東映パラス2。
そう、あの「がんばっていきまっしょい」の磯村久々の・・・って何じゃこりゃあ!!?何じゃこの思わせぶりな家ん中の暗さは!?何じゃこの思わせぶりなスローモーションは!?熊井啓かよ!?
まるで「愛する」の再来かのような前半に思わず席を立とうかとマジで思ってしまったがそこはあの「がんば」の磯村、事ある毎に画そのものの力で私を椅子に拘束する。本上まなみの喘ぎ姿が拝めるだけでも、ってこりゃ酒井美紀のベッドシーン並の艶のなさ!その一方で図書館前のベンチでのショットなんかまるで「クレーヴの奥方」のキアラ・マストロヤンニのような青白き気品と漆黒の翳りを出し切っているし、うーんこの清濁ぐちゃぐちゃな感じがこの作品のミソなんかいなぁと思ってたら後半漸く氷解。これサイコホラーだったのか!藤真利子が猛獣の如く玉木宏を食らい尽くす濡れ場は正に恐怖!!(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
終盤はもう本上の独壇場で、ストーリー抜きに映画を勢いづけて見せ場をかっさらってしまった。カメラに向かって「クソババァ」と叫ぶそのクローズ・アップのエロスは最高でっせ!!
しかし最近は「真珠夫人」といいこれといい、こういうテンションの作品が流行ってるのかなぁ?「北京原人」再評価の日も近い!?
バフマン・ゴバディ「酔っぱらった馬の時間」@渋谷ユーロスペース。最近月イチで通ってるなぁ。
カメラドールに凍て付く大地に震える少年少女、って思い出すのはやはり「動くな、死ね!甦れ!」なのだが、アジア映画ってやっぱりカラーでギラッとした色彩を見ないとなんか観た気がしないなぁ。どうでもいいけど。
しかし同じ手持ちのテンションならこちらの方が上。雪が良い。引きのフィックスも入っている分息抜きが出来るせいか?しかし不必要なラック・フォーカスとか、あざとさも残る。クローズ・アップはやっぱり全部切っちゃうべきだったのでは?その分ミドルとかフル・ショットでもっと良い画が撮れた筈。
・・・なんて技術論ばかり言っててもしょうがないが、しかしクルドの大自然の美しさが人々に何の慈悲も与えない徹底ぶりと、上の姉が嫁入りする村の長老級?の女が障害者の弟なんか要らねぇ!と突き返すシーンを望遠で押し通したのは見事。あとお金が大事なタームになったんだから、もっと紙幣を見せるべきだったとか、まぁ色々あるが、この子供達を見ててつくづく生きるのは大変難しいもんだなぁとしみじみ思ったのでした、って何じゃこの夏休み感想文みたいなシメは?
(10.11)
「愛」だけが総てを統べる。
(10.16)
狂人ほど筋を通したがる。
愛だけが。
アニメだけが。
(10.18)
某「Hカルの碁」の監督は「実写=望遠」と思い込んでるらしい。
気持ちは解るけど、それってねぇ・・・。
(10.22)
早目に謝っとこ。
;y=-( ゚д゚)・∵;; ターン
まだ自決する事も出来ません。
(10.28)
生活の為にアニメを作る者を、
俗にアニメの「寄生虫」というのではないのかい?
これ以上アニメを軽蔑させないでくれ。
今月の一枚:
「99匹群れのしきたりに従っていても、必ず1匹の迷える子羊は出て来る。」
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2002年11月
(11.02)
O Freunde,nicht diese Toene!
Sondern lasst uns angenehmere anstimmen,
und freudenvollere!
(11.07)
作品の重さを語っている時「Hレグゥは別」と語った演出がいます。
そんなヤツが平気で監督とか出来るんだから、今のアニメ界の惨状は容易に御理解戴けるでしょう。
そこまで解らんモンか?
(11.11)
神は神のみに忠実な者のみに微笑む。
(11.18)
映画観させろー!!
ていうか「2002遺言」観させろー!!
明日も出張です。トホホ。今月何回行くんや?
(11.21)
ZONEの戦略性は、MIYUのHi-C#が何処に出て来るかに集約される。
いやマジで。
(11.22)
「初号試写とは死刑宣告のようなもの」とは宮崎駿の言葉だっけ?
まるでアニメと戯れているかのような幸福を初めて味わった#5だが、結果が出ると辛さばかり。
「コンテからやり直させて・・・」とは気合の入った作品に限ってよく思う事。
しょうがないか。
あ、失敗作ではありませんので為念。ここまで来たら狙うしか。
(11.23)
あれじゃ荒らしじゃねぇかYQ\(`Д´)/!!
久々の映画!しかも初成瀬!
成瀬巳喜男「浮雲」。
やはり成瀬。唸った。二時間近くあるのも知らないで会社から帰って0時回って観始めたが睡魔は寄り付かず。多用される素晴らしきディゾルヴ(21世紀にもなってディゾルヴを「カット繋ぎの出来ない者が頼る手段」とかいう香具師、もっと映画を観なさい)。大胆な回想インサート。小津と溝口の間を軽やかに通り抜ける偉大なる中庸。虚無へと誘うかのような消失点を意識した縦構図。そして高峰秀子!
実はデコちゃん、原節子や若尾文子や香川京子ほどは好きになれない女優だったのだが、ここのデコちゃんは田中絹代や山田五十鈴に匹敵する「猥雑さを超越した高貴さ」で圧倒的に美しい。全篇通して森雅之と交わす余りにセックな会話に痺れ、やおらその森に寄りかかって「私も連れてって・・・」と涙ながらに呟くそのクローズ・アップはデモーニッシュとさえ言えるアウラ。このショットまでデコちゃんをピンで抜いてもバストショットまでで堪え抜いた成瀬の計算は勿論小津をも黙らせる映画の倫理。
邦画とは正に小津・溝口・黒澤そして成瀬。やっとこの四点で映画を観る事が出来るようになって満足。ただ終盤屋久島行ってからは森の科白の通り「蛇足」だったか?
(11.24)
二年振りのNFに行って歴史を知る。
焦る焦る焦る。
(11.27)
体調良くない。
また最近寝付けないので観る映画が増えて行き・・・。
溝口健二「噂の女」。
溝口の現代劇と言えば「祇園囃子」と「雪美人絵図」と本作くらいしか観てないが、時代劇での病的なまでのワンシーン・ワンショットに比べ現代劇は性急なカッティングが多く、どうも物足りなく感じていたが本作はその中でベスト。溝口のテンポは何もダラダラ続くのではなく実は演技とキャメラで相当にスピーディなのだという事を確認出来る一作。しかしこのリズム!黒澤はひょっとして溝口を意識しながら撮り続けたのではないかと思うくらいの激しさ。しかし中井朝一は遂に宮川一夫を超えられなかった。役者の呼吸を完全に読み抜いた完璧なパンニング(そういやどうして現代劇にはクレーンを控えたのだろう?)!
それにも増して光ったのが我等が田中絹代の妖艶さと気品!深いグレースケールの中に浮かび上がる明と暗の壮絶なまでに淫靡な死闘。祇園は一度舞台にしてみたいなぁ。
(11.28)
どんなに電波を流し続けてもアイドルだけは絶対に論じられないし、論じてはいけないと堅く心に誓っていたが、やはり一度は挑んでおかないと京大美学をアニメで卒業した者の名が廃る。
ZONE「白い花」。
という訳でアルバム「0」と一緒に発売日に買って国民の三大義務の一つを果たす。皆も人間として最低限の節度を持ちたいのなら今すぐ買い給え。
でも旦サン、ウチには音楽のオの時も解りゃしまへんのやから何か語れ言わはっても殺生え。和声なんか先輩のねぇさんや同僚から教わりかけてもずっと逃げてたさかいチンプンカンプンどすえ!
そんなドシロウトの私でも一つ気付いた事があった。それが先述の通り、ZONEの楽曲における「Hi-Cis」である。
SPEEDに比べれば幾分か劣るもののアイドルグループとしての歌唱力としては及第点と言えるZONEのデビュー曲「GOOD DAYS」の最高音はH(以下総てドイツ語表記)、しかも四人同時に発声と、スタートを飾るに相応しい確実な纏まりを見せ(それ故に私にとっては一、ニを争うお気に入りなのだが)、次曲「大爆発NO.1」では一気に弾けたかったのか、最高音を歌詞の「ダいばくはつ(片仮名表記部が該当)」に合わせHi-Cisにまで上げ、文字通りの「大爆発」振りを表現した。しかしこの時もやはりメンバー全員の同時発声で、唯一MAIKOが曲中一度だけの短いソロ(「どきどきしたいノです」)で聴かせたがこれは刺身のツマ程度。そのHi-Cisへの「全軍突撃」の姿勢は続くヒット曲「secret base」でもサビの柔らかなAis-Cisの三度跳躍で継承される。
それが一変するのが続く「世界のほんの片隅から」であり、この曲を以ってZONEはMIYUへの音楽的依存を強める戦略を採る。それは偏にこの「Hi-Cis」の戦略性から生じたものとしか考えられないのだが、その証拠にこの曲ではMIYUがHi-Cisを占有している(但しオーラス「わすれたくなイ」だったためにその効果が減じているのは否めない)。
ところがその後「夢ノカケラ・・・」「一雫」とまるでZONEはその爪を隠すようにHi-Cisを封じる。MIYUへの依存は大差ないとは言え「一雫」ではMAIKOにソロを分担させる等、模索とも言える変化が顕れる。
そして「証」。ZONEとしては初のハード・ロック調(あくまで「調」だが・・・)の曲想の中でMIYUが後半、ソロとして久々のHi-Cisを聴かせる時、その舞台は「無音」だった。文字通り虚無への「叫び」となったこのGis-Hi-Cisの跳躍は歌詞の陳腐な直截性とは対照的なまでに戦略的であり、満を持したその一策はオリコン初登場三位という戦果をもたらす(しかもあゆと古時計の次だからねぇ。スゲェや)。
以上を基に本作「白い花」。遂にヴォーカルはMIYUオンリー、浜崎あゆみを思わせる曲想と更なる挑戦状を突き付けて来たZONEだが、それ以上に驚かされたのがMIYUがサビで見せたオーロラの如き「Hi-D」!
「風」は今ひとたびはじまるのだ。
したたかにして千変万化。大航海に乗り出すZONEはMIYUの発する最高音を南十字星の如き指針として帆を進めるのであろう。(了)
「やんパパ」#8観る。快いベタ。ごっちんと未来タソの親になれるんなら漏れもアニメ死ぬ気でヤルのになぁ(; ´Д`)ハァハァ。
続いて三谷幸喜「HR」。アメリカン・スクリューボールコメディのテイストを更に強めて流石にアク強過ぎかな・・・とも思ったがキメ細かなカット割りで見せた。酒井美紀ヤパーリ(・∀・)イイ!!
(11.30)
感動とは極私的であるが故に儚い。
極私的であるが故に尊い。
今月の一枚:
美とは実存の虚構性に向けられた本能的な畏怖である。
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2002年12月
(12.02)
今年の大本命に間に合った!
北野武「Dolls」@心斎橋シネマ・ドゥ。
数年前からこの恋愛映画の企画を聴いてまだかまだかと待ち続けていたが遂に出た!しかしなんでカンヌでなくて一度制したヴェネチア出品?とか思ってたらやはり無冠。どうでもいいけど。
さて、一言で言って、編集。北野自身がぽつりと漏らした不安が的中。これでは辛い。しかも意図せんとした「本来の形」が亡霊の如くそこかしこに滲み出てしまうのに地団駄の連続。前半は特にガタガタ。テンポを作りたいんだか何だか、要らぬショットが続出。特に回想ショットはほぼ全滅。って「あた○ンち」!?狂った菅野美穂を結婚式場飛び出して迎えに行く西島秀俊の回想はそれ自体ベタだが、せめてジュースを盗み飲みする幸せな頃のワンショットだけに出来なかったものか。そして三橋達也の回想に関してはエピソード自体最もトホホな展開だったが特に若かりし頃の「弁当」の回想モンタージュ!もうここまでゲロ甘に作りたければ何も言う気にもなれんが、しかしそれでも「イージー・ライダー」だかデヴィッド・リンチだかを意識した「先行モンタージュ(だっけ?名前忘れた)」を試みたのだから思い切って回想だけ切り離して序盤にでーんと持って来るくらいの大胆さはなかったものか。ていうか纏まり中途半端過ぎ。一体どっちに振りたいの?「HANA-BI」では模範的とも言える回想モンタージュを見せた北野がこれではいただけない。編集だけではない。やたらにズームを使ったキャメラ。近年の北野は兎に角サービス過剰な画が多い。そこらのTV演出家気取りか?w
それが後半、フカキョンのエピソードが絡み出すと途端に歯車が噛み合い、本来のキタノの落ち着きを取り戻す(ていうかアイドルオタクの話で落ち着くなんて・・・(′・ω・)ショボボーン)それは偏に西島と菅野がただひたすら「歩く事」に専念し始めたからである事は一目瞭然なのだが、ここからフィルムが一方向を目指して一心不乱に(いや、「つながり乞食」の歩調に合わせた穏やかながらも不気味なテンポで)突き進む集中力を獲得しただけに、前半はもっと如何様にでも料理出来た筈だ。
まぁその分、後半のモンタージュは確固なまでに意志的である。それは文字通り「虚構」への旅だと言って良いだろう。あの紅葉の赤。勿論本作が北野映画のメルクマールとなった大きな要因はこの「赤」に尽きる筈だが、葉のフォルムが潰れてしまうほど鮮烈に赤を強調せんがために徹底してデジタルを通したのだろう。引きの画なのに西島の輪郭にマスクばれのような不自然なラインが・・・(何のラインだろ・・・まさか合成!?)。
そこから冬へ向け、映画は照明から衣装から病的なまでに「虚構」への突進を始める。元々山本耀司の衣装で冒頭から一貫してインスパイアされていたのだろうが、雪の中に乾してあるどてらを着て一気に加速。だからこそ説明臭のする文楽の画がインサートされてしまうのが本作の不調を象徴した。これでは文楽に映画が敗北しているのを認めているも同然だ。そう、文楽の画は冒頭一発で充分だったのに!
だが、それを考慮しても後半の「乞食の逍遥」は素晴らしい。そう言えばアイドルという「虚構」の象徴とそれに突き進む「オタク」という構図は後半の展開を彩るのに相応しい訳だ。弁当を持って三橋を待ち続ける松原智恵子の鈴木その子の再来のような肌のハレーションもその一環と言えばまぁ、合点が行く(しかしねぇ・・・)。
そして辿り着いたラストは正にこの旅を締め括るに相応しい、酷いミニチュア合成!!内容こそ違えどそこから沸き上がるアウラはあの「恐怖奇形人間」と響き合うだろう。そうまでしてこの「虚構への旅」を完結させた北野の力技に驚き、呆れた。「荒唐無稽さと人間性」とゴダールが語ったその映画の剥き出しの姿が北野の中でかくも消化されてしまったのかと気付く時、「ソナチネ」の銃撃シーンで直立不動に撃つ北野自身が象徴的に見せた「無防備」さ、「HANA-BI」以前に見せた北野の映画への「無防備」な姿勢は「菊次郎の夏」や「BROTHER」のような「無邪気」さを経て遂に映画の「武装解除」までを迫って来た事を知るだろう。今や北野が無防備なのではない。映画自身が無防備たる事を迫られているのだ。
映画がその最後通告に屈した事は一度しかない。勿論ゴダールである。北野の手で二度目の無条件降伏が行われるのか。それは映画が彼をあと何度愛してしまうかに懸かっているだろう。言うまでもなくこれは容易な事ではない。しかし今この試みが可能なのはやはり世界中でゴダールと北野だけなのだと誰もが認める時(オリヴェイラも??)、この偉大で最美の失敗作が映画の未来の苗床たりうる事を期待し、また確信するだろう。
それにしても素晴らしい赤だ!そして青!黒澤御大にも見せてやr・・・y=ー(゚∀゚)・∵. ターン
(12.03)
けふいち氏のホン、遅れ馳せながら読ませて戴く。
アニメに脳髄まで蝕まれた哀れな現代人がアニメ如きの脚本にどんな崇高な理想を抱いて居られるのか想像するだに寒気がするのでどうでも良いのだが、彼の筆致は読み書きも出来ないそこらのライター顔負けの完成度だった。
ま、この学歴なんだからこれで当然なんだが。と露骨にイヤミっぽく。
あとはアベレージと、それと精神力かなぁ。プロの半分以上は面の皮の厚さでもってるようなモンだし。才能抜きにねw。
(12.05)
という訳で基地外でコワレで知的障害者で身体障害者でブラクでチョソで最下層民で「10円55銭」と明瞭に言えない(←これ意味よう解らん)鬱で童貞で包茎でホモでデブオタで日々オナニー野郎でプロの誇りを自ら汚した2ちゃん会話の・・・えーとあと何だっけ?のヤマモトです。
解り易過ぎる反応で充分楽しませて貰ったが、こっちの煽りには乗らないねェ。
まぁいいや。所詮この程度の芸しか出来ない香具師らだろうし。
シロウトさんにこれ以上求めるのも可哀想だしNE(・∀・)!
どうでも良いが「やんパパ」ベタベタやなぁ。気持ち良いなぁ。
(12.06)
無性に惹かれてしまって無断引用がてらチャレンジ。
因みに元ネタは・・・この情勢だし止めとくか。
▼「なんだか電波を受信してるなあと思っているあなたに100の質問」
1:豆腐好き?
どっちかというと納豆の方が好きです。
2:ああ忘れてた。お名前と年齢、性別、血液型をどうぞ。
ヤマカン。28歳。男。O型。
3:UFOは宇宙人の乗り物だと思う?
未来人がタイムスリップして来ているのだよ。ってこれが一番しっくり来る。
4:好きな歌は「Say Yes」ですか?
ZONE以外は歌ではありません。
5:統一場理論について思っていることをどうぞ。
なんだそれ?食えるのか??
ちょっと古いか。
6:会社辞めようかなあとか思いますか?
それでも辞められぬこの辛さ・・・。
7:好きなカロリーメイトは何味?
チョコレート味だっけ?あれ一筋。
8:山手線で地味な駅はどこだと思いますか?
品川駅は降りてみて無性に寂しかった記憶があります。
まぁ最終だったんだけど。
9:女装したことある?ある人はいつどこでどんな格好を?
変装はヤだなぁ。
10:いまあなたのパソコンのシステムは不安定ですか?
馴れました。
11:持っている資格・免許は?
普通自動車と珠算3級。
少なっ!
12:コモドール64って知ってる?
任天堂がまた出したんですか?
13:好きなドラクエシリーズは?
U。
14:その理由を教えてください。
全員最高レヴェルでハーゴンの城に辿り着けなかったのはショックだった・・・。
やっぱりゲームはシンプルが良い。
15:織田裕二さんへ一言どうぞ。
キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!
2も頑張って下さい。
16:つんくさんへ一言云わないでください。
ハロー!プロジェクトはあれでええんかあぁぁぁぁぁぁ!!!!?
17:麻雀で好きな役は?
麻雀解れへん。
18:あなたにとってサイババはどんな存在ですか?
ゲロッパ!
19:あなたの思い出に値段をつけるとしたらいくら?
思い出したくないなぁ。
20:その理由は?
せめて高校時代に彼女作っておくべきだったなぁ。
21:好きな女の子のタイプは?
宮崎あおい。
22:6番の答えについて理由をどうぞ。
匂うから。
23:あなたはWindows派?Macintosh派?
Windows98派。
24:いま一番欲しいものは?プレステ2以外で。
宮崎あおい。
25:スカートめくりしたことある?
小学一、二年でイワしたタチです。
なんで六年まで続けなかったかなぁ。
26:探し物はなんですか?
探すのめんどい。
27:実はあたしのこと嫌いでしょう?
プロでもないヒトを嫌いになるのは気が引けます。
28:時々誰もいないところで話し声が聞こえたりしますか。
自分のモノローグはよく聞こえます。
29:踏み切りから5メートル以内の場所には、駐車も停車もできない。
出来ない。かも知れない。「かも知れない」は業界用語で緩やかな断定。
30:理想の女の子像を想像すればそれだけで3時間は浸れますか。
MIYUたんとあおいたんなら何とか・・・。
31:煙草は吸いますか?麻薬は?
酒さえあればOK。今は。
32:好きなおでんの種は?
じゃがいもとちくわ。
33:ゼビウスのバキュラって倒せると思う?
愛さえあれば。
34:いま一番行きたい場所はどこですか。仙台以外で。
富良野。
35:話の腰を折るのは得意ですか?
結構気を遣うなぁ。時々やります。
36:おみくじで「大凶」引いたことある?
正月に大吉引いて大凶の一年を過ごした事はあります。
37:こみっくパーティで一番好きなキャラはやっぱり彩ですよね。
よく知らない。
38:今考えればあのとき人生を変えられたなあと思ってしまうような出来事はなんですか。
全部「ラピュタ」のせいだ!!!
39:初恋はいつですか。
小五。五年間片想いで結局振られた。
40:特急はくたかレベル5のくびき駅で定通を取る方法を教えてください。
文節がよく解りません。
41:給料は20万オーバー?
んな訳ねぇだろ。
42:生命保険入ってる?
ない筈。
43:実は「一太郎」をまだ使ってますか?
ワードです。
44:ケーキ好き?
チーズケーキは好きです。
45:中学時代に嫌いだった先生の名前を教えてください。
中学と高校にはいなかった。幸か不幸か・・・。
46:椎名へきるはどう?
今日まで四十前だと本気で信じていた。おないとは!!!
47:ちっちゃな頃から悪ガキで15で不良と呼ばれましたか?
15でオタクと呼ばれました。
48:いま幸せ?
「WONDER ZONE」をやってる間は。
49:最寄の駅は何駅?
JR六地蔵駅。
50:プロ野球はどこのファン?
巨人と腐れ縁。因みに松井ともおない。
51:あなたが今乗ってる愛車は?
車欲しー。
52:初恋の女の子の名前を教えてください。
恥ずかしくて言えない・・・。ぽっ。
53:幽体離脱したことある?
幽体離脱した夢を見た事がある。これも一種かな?
54:タガログ語話せますか?
カタコトの2ch語が精一杯。
55:四角い電池を舐めてぴりぴりしたことありますか。
あるある!ビビッた。
56:東北自動車道へ一言!
この東北自動車道!!!!
57:もし一日だけ誰か好きな人に変身できるとしたら、好きなカロリーメイトの味は?
あおい味かぁ・・・ハァハァ。
58:ナゴヤ撃ちって知ってる?
元ネタはゲームセンターあらし。え、違う?
59:コミケ行ったことありますか。
実はないんです。某作品に使ったビッグサイトの画も後輩に頼んだし。
60:昨日の10時頃、あなたは何をしていましたか。
2ちゃんねらの煽り。いや、もう少し後か。
61:ドモホルンリンクルの電話番号云える?
0120-333-906。
62:あなたの座右の銘と、好きなカロリーメイトの味を教えてください。
座右の銘は「まぁいいですがね、好きなように生きたらイイんじゃない?はっは」。カロリーメイトはさっき訊いたやないか。
63:ワンダースワン持ってる?
いいえ。
64:好きな太宰治の小説を教えてください。
「走れメロス」を中学の時芝居でやって恥かきました。
まぁああいう嘘臭いものの方が好き。
65:実はいま霊が憑依してるんだよ、とかそんな状況ですか。
絵コンテ切る時は降りて来て欲しいですね。なかなかないですが。
66:円周率何桁まで云えますか。
3。
67:好きなアメリカ大統領は?
だいとーりょーは遅れてなんかいないダス!!!
ハワイアンジュエリーだって持ってるダスよ!!!
68:小柳トムの髪型ってすごいとおもいますか。
下条アトム?
69:好きな霊能力者は?
宜保愛子。
70:最近どう?
馴れ馴れしい口きくな!!!!
71:馬場と猪木ってどっちが強いと思う?
折ったどー!!!!
72:裸エプロンってどうですか。
ソニンは反則です。あれは認められない。
73:裸エプロンをしてくれたらいいなあ、と思う小柳トムは誰ですか。
ソニンは反則です。
74:家に帰ったら大好きなあの娘が裸エプロンで出てきました。さて、あなたの好きなカロリーメイトの味は?
あおいエプロンならチョコレート味一筋。
75:次のオリンピックってシドニーだっけ?
アテネだよな?冬季は?
76:宇宙はエーテルで満ちていると思いますか。
宇宙の海は俺の膿。
77:もしもピアノが弾けたなら?
ピアノ習いたいなー。
78:「タイタニック」で好きなシーンはどこですか。
窓ガラスが曇るカーセックスシーン。
79:茨城県民ですか?俺違うけど。
出身は大阪です。
80:MMRに復活して欲しいと思いますよね。
「マジでムカつく松浦亜弥」?あ、これじゃ駄目だ。
81:俺こいつとなら付き合ってもいいや、と思える男性芸能人/男性キャラは?
キムタクとタッキー。
82:スピード違反でつかまったことある?
いいえ。
83:ねえ。「バラ」って書ける?
薔薇。一発変換。
84:最近感動して泣いたことはありますか?
昨日の「やんパパ」で泣きました・・・。・゚・(ノД`)・゚・。 。
85:ジャイアンの「心の友」と「親友」はどっちが上のランクですか。
ジャイアンが「親友」という言葉を知ってるかどうかが疑問です。
86:心霊写真撮ったことある?
ないなぁ。
87:最近、どこかで誰かが自分を呼んでいる気がする?
だれかが風の中で。「木枯し紋次郎」はやはり良い。
88:明日起きたら世界が滅びていればいいのになあ、と毎日思いますか。
滅びてようがなかろうが知ったこっちゃないです。
89:見る夢見る夢なぜかみな人を殺す夢ですか?
殺される夢なら一時期かなり観たなぁ。
90:しかも起きたら血に染まった包丁を手に持っていることもしばしばですか?
シミュレートした事はあります。
91:夜道を一人で歩いていると、なんだか無性に叫びたくなりますか?
鼻歌と指揮の真似はよくしてます。気が付いたら。
92:気が付いたら知らないところにいた、というのが何度もありますか?
幼稚園の頃一回あって当時中学生くらいの知らないお姉ちゃんに助けられた記憶があります。
名前聞いときゃ良かったなぁ。
93:どうにもこうにも憎くてたまらない人がいるのでついついお百度参りをしたりしますか。
それくらい憎ければやっぱり自ら殺しに行ってるだろうなぁ。
94:最近どうも偉大なる宇宙意思が自分に地球を救えと呼びかけているような気がしてなりませんか。
それよりも絵コンテ手伝って欲しいです。
95:「ムー」あたりの雑誌に、「前世でともに戦った仲間を探しています」などという手紙を出したことがありますか。
仲間は何処にいるのだろう?
96:ふと気が付くと何年も前の自分自身が目の前にいた、ということがありますか。
それは怖いなぁ。いて欲しくないなぁ。
97:この世の中がすべて思い通りにならないのは、誰かの陰謀によって自分は貶められているのだと思いますか。
おお!!やっぱりそうなのか!!!
98:明日世界が滅びるとしたら、何味のカロリーメイトを食べますか?
あおいたんかMIYUたん。
99:最後に一言どうぞ。そして次はお約束の質問だ!
あおいたんかMIYUたん。
100:童貞ですか?
童貞の時の方が気持ち良かった気がするなぁ。
(12.07)
さいたまです。
かなりアレンジ入っちゃったけど。
また余計なサービスを・・・。
(12.10)
けだし、愛においてのみ、魂は自己自身に対する明晰な、自己を分析し蔑視する眼差しを獲得するのみならず、自己を越え出て直観し、どこかまだ隠されているより高い自己を全力を挙げて求めんとする熱望をも獲得するのである。
ニーチェ「反時代的考察」
つまり、こう言いたいんでしょ?
(12.11)
「北の国から2002 遺言」はドラマかと言えば、それはもうドラマであるとしか言えない。
ドラマとはドキュメンタリーだ。
アクシデントだ。
幾分か時代遅れで説教臭く構成力に欠ける脚本とベタな演出、機動力の衰えたカメラの先に捉えられていたもの、それは世界という名の禍禍しい怪物が夥しい光と闇を身にまとって襲い来る様に過ぎなかった。
21年もの永きに亘って無謀にも果敢にこの怪物に挑み続けた者達の誰もが、21年もの間この怪物に敗れ続けた。蹴散らされ続けた。その21年間の敗北の記録こそが、正に「北の国から」なのである。
だからこそ、彼等は最大級の「誇り」を以ってこの闘いを終わらせた。
ドラマとは事件の集積だ。
人間性だ。
(12.16)
最近観たものを幾つか。
市川崑「黒い十人の女」(TV)。
生涯の盟友・和田夏十のシナリオはどうしてもいじれないのだろうが、しかしカット割まで旧作とほぼ同じというのはどうだろう?何のためのリメイクか。だったら60年代を闊歩した美女・艶女・怪女達にアサノやキョンキョンでは歯が立つ訳もない(あ、フカキョンだけは玉緒さんとええ勝負か?)。それ以上に気になったのはVTRの画調に未だ慣れてないかのような照明(ってこの市川こそがTVドラマのパイオニアなのだが・・・)。元祖「銀残し」の画がこれでは安く見える。更に気になるのはカッティング。鈍重!!流石にもう往年のリズム感は宿っていないのか。
市川崑「愛ふたたび」。
一方こっちは「木枯し紋次郎」前夜の最盛期。ああ、リズムが全然違う・・・!!冒頭から「リズムの聖化」、総てのショットが最も豊かなデュナーミクで鳴り切っている。スキー場でルノー・ベルレーと浅丘ルリ子が束の間の愛の交わりを回想の画と繋ぐその余りに官能的な呼吸!スキーシーンの寸分の隙(シャレちゃうよ)もない完璧なまでにスマートなアンサンブル!そしてその後浅丘を追ってベルレーが金沢までおんぼろ車で飛ばす際の、現代のPV監督が束になっても勝てない強烈なスピードとパンチ!
行定勲「贅沢な骨」。
これで「GO」の時の酷評が翻った。やはり何処かの圧力があったのか・・・。シンプルでまったくストレスのかからないナチュラルなモンタージュ。終始無駄にためる事も煽る事もなく、役者の心情にキャメラをピタリと添わせる所謂「溝口型」。劇伴の薄さも良い。100球ちょっとで完投してしまえる驚異の制球力。だから「GO」はなんであんな(略)。
(12.18)
結構ノリノリで作っていた某予告篇のビデオコンテがBGMのマルC(てか著作隣接権)の都合でパー。
著作権なんてそんなに要るモンなんかねぇ?みんなオリジナルだオリジナルだと嘯きやがってヴォケが。
(12.19)
一晩中アレな方々とアレな祭りをワショーイやって二日酔いで会社に戻り、ああ、アニメってのはやっぱり雲を掴むような世界なのだなぁ、と雲を掴むような頭脳コンディションでしみじみ。
まぁいいですがね。好きに(略)
という訳で今年度の意趣返し、「DX」#5買っておくんなまし。俺は多分買わない。
適当に音差し替えたコンテを師匠に見せたらいつもの褒め殺しに遭う。けなされ続けるのは確かに嫌だがこれも困る。
(12.27)
http://www2.odn.ne.jp/~ccs50140/beyond_cloud/index.html
会社でコッソリ観て頭を抱えてしまった。
凄い。圧倒的な世界の広がりと輝き。
ここまで目の当たりにしてまだストーリーと設定にこだわってるの?何のフェチ?野暮だねぇ。どっち向いてアニメ観てんだか。
また突き放された。追い付けない。
心地良くも深い絶望。
(12.30)
恐らく今年最後の更新。
<紀伊国屋書店>満を持してゴダール「映画史」30240円(一割引)遂に買う。やたー!!!!
でもこの年末年始やたら忙しい(いつもの事?)ので観る機会なさげ。
<フェスティバルホール>朝比奈隆追悼文集(大阪フィルハーモニー協会)買う。
最終ページにあのラスト公演の「チャイ五」のCDが・・・。思わず言葉を失う。
これも居住まい正して聴きたいから当分後だなぁ。
井上道義での年末の第九。ミッチーのコントロールが良過ぎてやはり響きが広がらない。
ないものねだりは良くないが、やっぱり今から御大の録音聴いて追悼しよう。
あれからもう一年です。
皆様良い御年を。
今月の一枚:
あーそういや宣伝してなかったなー、と。まぁ細かい事言うな。俺も言わん。
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2003年01月
(01.03)
謹賀新年。
初詣先でおみくじ引いたら大吉でした。
因みに過去一回だけ引いた時その年は散々でした。
まぁ何かに期待して生き続けられるほど21世紀は甘くはないという事で。
そこで恒例!!!2002年度映画ベスト5!!!
1.害虫
2.ピンポン
3.ほしのこえ
4.Dolls
5.パコダテ人
ホントにロクに劇場に足を運ばなくなったのだからベスト3に絞ろうかとも思ったが、過去の妄想さらって選ぶベきものが五つみつかったので、まぁこのラインナップ。ゴダールもオリヴェイラもルーカスも結局観なかったが、まぁ大差ないだろうし。
一位は文句なし、文字通りの「千年女優」宮崎あおい御大との記念すべき出会いの年となった2002年を代表するに相応しい塩田の「害虫」。エイゼンシュテインを観た事も読んだ事もないが故に映像文法を知ったかぶりする言葉すら持たないバカには到底理解出来ない「ピンポン」は二位。ここまでは不動。続く三位は短編なので反則だが、アニメを観る気も創る気もない者供がしぶしぶ観たり創ったりして下らない自己撞着に陥っている昨今、「アニメとはメカと美少女とでっちあげのSF」という歴史的にも常識とも言える戒律を実に久方ぶりに守り抜いてアニメの本来性を暴いてみせた、余りに美しい「古典」の「ほしのこえ」。本命「Dolls」は惜しくも四着。でも北野映画は堪能出来た。五位は当然あおいイヤーを締め括るべく、「富江」なんて入る訳ないからマクドのハンバーガーにこっそり神戸牛を使ってしまったかのような佳作「パコダテ人」が五位。それにしても洋画ちっとも入らないなぁ。
ついでに映画始めはこれ。市川崑「おとうと」。
噂の「銀残し」だが市川特有のハイコン画面では黒の深みが上手く出ていないようで、宮川のキャメラならどうして「雨月」ばりの厚いグレースケールを作らなかったかなぁと、でもまぁシネスコの市川は正に水を得た魚で、画面の横三分の一をわざと潰して世界の奥行きを不気味に彫り上げるフレーミングも、ダイアローグがいちいちスピーディーなカッティングも全盛期。
今年も適度なやるせなさで頑張りましょう。
(01.09)
私には、私の歴史があるし、他の人たちにもそれぞれの歴史がありますが、その歴史はわれわれの間にあるんです。
映画は「間において語る」のに向いている。
生き生きとしたひとつの歴史を持つには、そこから、複数の歴史を語らなければなりません。
(「新ドイツ零年」より)
新年一発目の妄想書いたは良いが暫く何も書けなかったのは何も風邪ひいたりアウトルックが反乱したりというせいではなく、偏にJ=L.ゴダール「映画史」を四日がかりで観てしまった事への余りのショックと軽い鬱状態によるものであって、何しろゴダールなのに涙をぼろぼろ流してしまった(しかもはすみっちとおんなじトコ!)自分の心性に今も全く整理がつかないからであって、ましてこの作品を語るに最早単語の一つも出ない殆ど失語症のような苦痛を味わっている状態な訳で、しょうがないから苦し紛れに買ってあった「ユリイカ」の「特集 ゴダールの世紀」をぺらぺらめくって相変わらずゴダールの言う事なんか何一つ信じちゃいけねぇだぁぁ(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル一点張りのはすみっちの文章には些かウンザリして御前「映画狂人」であんだけ宣伝しといてそりゃないやろ30240円返せやヴォケが!といきり立つ気持ちをグッと抑え、いやいやはすみっちの妄言でこの胸のモヤモヤが解消出来る筈もないのだから所詮宮崎駿を語る言葉すら持ち得なかった「ユリイカ」なんて非文化的な書物に頼ってはいけないのだ、と思うに自分の頭だけで何とかしようにもどうにも堂々巡りでどうしようもなく、しょうがないから同じヌーヴェル・ヴァーグやったっけなと思いルイ・マル「地下鉄のザジ」観てああ、これはまさしく魂の映画だなぁ、ザジの魂の兄弟ぶりを的確に描いてはいるけれどもこれってどっちかと言うとヌーヴェル・ヴァーグっちゅうより星護じゃねぇか!ていうか終盤のドタバタは長過ぎて飽きた、とか思ってる内にやっぱりどうにもこうにもゴダールな訳で、来たる「ゴダールのマリア」無修正版もかなり気になる昨今であります。
こんなに思い悩んでいても仕事は無邪気にやって来ます。映画が「芸術の幼年期」ならアニメはさながら胎児か?
だろうな。だと思う。
(01.15)
行定勲「ひまわり」観て手ブレとフィックスの違いに疑問を持ちつつも締め付けられるような想いで胸一杯になる。
映像であろうが文章であろうが、絶えず「間(あいだ)」を意識していない表現に何の力が持てるだろう。
「間」を「描く」のではない。「間」に「立つ」のだ。単純で且つ肝心なここを見誤る者もまた多い。
(01.18)
人間とは神の不機嫌な一日のようなものだ。 フランツ・カフカ
(01.21)
創り続けるという事は、絶望し続けるという事だ。
(01.28)
な、長かった・・・。
三年間取るに足らない事ばかり酒を片手に書き続けた妄想ノオトをこんなに遠く感じた事はなかったよ。
いやぁ、こんぴーたーの知識って要るね。要るよ。
さてこれからまだいろいろアプリ放り込まなあかんので失礼。
あそうそう、J=L.ゴダール「東風」観てやっぱり先生は共産主義ちっとも信じてないじゃないか!と思いますた。やっぱり取るに足らない事。
「キングゲイナー」ツタヤから消えてるぞ!!?
(01.31)
ほんっっっっっとに、
やるせない・・・。
まだ某ちゃんねらーの方が茶目っ気がある。
それはそうと30日放送の「美女か野獣」は共同テレビ演出陣でも大好きだった松田秀知ならではのリズム重視のタイムサスペンスを堪能。ベタでも良い。やるべき事をちゃんとやった仕事に祝福を。
今月の一枚:
Easy going cause easy going
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2003年02月
(02.02)
悪をアジテートする悪はいない。
悪はいつも楽園を約束する。
(02.05)
二日がかりの某「Mント」のアフレコ終わってクタクタになって帰ってこんぴーた立ち上げたら偶然学生の頃書いた論文やら何やらがワンサカ出て、ショックだったのが殆ど受け売りだとは言え何だかどてらく知識人ぶった文章を臆面もなく書いている訳で、ああ、勉強せなアカンなぁ、と。
会社入って二年目くらいに暇潰しに書いた某「Mント」の小説版(!)の書きかけまであったりして。(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル
(02.06)
二本。
ヴィム・ヴェンダース「東京画」。
小津マンセーのヴェンダースがあの映画通りの東京を期待したらえらい変わっててショボボーン、ってそんな映画。まぁ80年代の東京の風俗は楽しめたし、何より厚田雄春がキャメラを覗く様は感動的だ。
黒沢清「ドレミファ娘の血は騒ぐ」
まぁ露骨にゴダールであり、「ウィークエンド」であり、「東風」であり、「リア王」である訳で、引用も露骨。「気狂いピエロ」のあの「戦場と感動」の一節からいきなり「東京暮色」のメインテーマが流れ出して吃驚。他にも「散り行く花」とかまぁ、自分の映画知識をひけらかす為だけにこぞって撮りまくった(今もそうだろうが)「学生映画」というアニメ以上にアイタタなジャンルの正に雄。別にここまでやればそう揶揄する気にすらなれないが、洞口依子のマイエンジェル振りを見事にキャメラに収めた黒沢の手腕だけは大いに認めよう!!(;´Д`)ハァハァ
(02.07)
偶然高校時代の六歳下の後輩の女の子(こう書くと何だか計算おかしく見えるな・・・)に出会い、そのすっかり変貌した大人びた色香にただ圧倒され、色欲やノスタルジィを超えた不思議に大きな何かが込み上げて涙する。
何か歳食ったねぇ。
キーボードで音確認したら、やはり「白い花」のMIYUの最高音はとDisだと判明し、慌ててこっそり訂正しておく。
解ってはいたが、ちっともあてになんねぇなこの耳。
(02.09)
音楽はヒトとヒトとの間にあると、
ベートーヴェン先生も仰っておる。
それにしても、ミューズは気紛れだ・・・。
(02.11)
もし手塚治虫が「アニメは未来のない芸術だ」と呟く事が出来たなら、
アニメは苦しむ事なく1997年でその命の終焉を迎えられたであろう。
残ったのは苦悩である。それを今証明するのが新海誠しかいないというまた皮肉な事実。
まだ書いてないのを忘れていた。
「Jam Films」@梅田ガーデンシネマ。
北村龍平「the messenger―弔いは夜の果てで―」。散々色調調節をしたらしく階段のシークエンスは人物のシルエットが浮き出しつつも溶け込む極上のバランス。ここまで画がしっかりしているのだから余計なセリフは削るべきだ。惜しい守じゃないんだから藁。
篠原哲雄「けん玉」。篠原涼子が自分のスカートを触る仕草が異様にエロくて興奮。俯瞰に広角レンズを使うのはどうもアニメチックだが・・・。
飯田譲治「コールドスリープ」。堤幸彦もベタっぽくなったなぁと思ってたら飯田譲治だった。納得。
望月六郎「Pandora―Hong Kong Leg―」。吉本多香美の黒パンツは良かったが、中国四千年の美術がどうも段取り臭い。
堤幸彦「HIJIKI」。一方こちらは天井の低いアパートのセットで美術の勝利。何故かCGの涙などは正に彗眼!
行定勲「JUSTICE」。ブルママンセーの大傑作で言う事なしだが、RGBの三色に分けられていたのは日和見っぽくて残念。
岩井俊二「ARITA」。目の粗いDV画像に黒の滲みと御馴染みと言えばそれまでだが、ヒロスエはここまで美しく撮れるのだという事を証明した逸品。
未来を信じるなと言っているのではない。未来を信じるのも信仰の一種だと言いたいだけ。
信仰を嘲るバカに限って無条件に信仰に浸れるこれもまた歴史の皮肉。
(02.13)
今日の「美女か野獣」演出若松節朗。上がり30分だけ観るもフジ=共同の最も美しい形を目の当たりにして涙すら滲む。
今腐っているのはドラマじゃない。テメェらの眼だ。
(02.14)
<餅は餅屋>
最近買ったお子様向けキーボード(なんで三和音出んのじゃゴルァ!)を弾きながら夜中慣れない譜面書きをしていて不意に嫌な予感が走ったので慌ててCD引っ張り出して逐一確認していって顔面蒼白!
「白い花」の最高音はDや!丸々全音ちゃうやんけ!!
これじゃいつぞやの妄想が根底から崩れて赤っ恥もええとこなので各曲調べてみたら、「白い花」以前の最高音とした「大爆発NO.1」「secret base」「世界のほんの片隅から」「証」は共にCis、「GOOD DAYS」はHで正解、「風のはじまる場所」はCと、何とまぁバラバラな事・・・。
・・・それでも一応論は成り立つので(それがまぁ俺の音感レヴェルをよく表してるんだな多分)またコソーリ訂正しておく。しかしいやぁ、やっぱり素人が知ったかするもんやないねぇ。
ところで件のDを最近MIYUは随分当て難そうにしてるな・・・。こ、声変わり!?
(02.15)
歴史歴史と騒いでるからにはそろそろ。
原田眞人「突入せよ!『あさま山荘』事件」。
単純に気になったのは、撮り方。イマジナリーライン越えは別に気にはしないが、余りに雑然過ぎはしないか。ましてや捜査本部の喧騒と緊張を表現するのならまだしも、序盤の後藤田長官のシーンまで同じ割り方をしてはもう、知らないんじゃないの?と思われても無理はない。同じライン無視でも「踊る大捜査線」の本広克行はドリーとステディを駆使してあれだけのリズムを作り出せたのだから、観劣りは否めない。
それと予想はし得たが、この大事件にまつわる多くの劇的なエピソードを収拾し二時間に纏める上で、やはり脚本に無理のある箇所がある。カップヌードルの登場もぞんざいだし、ジェラルミン盾一枚では弾が貫通してしまう事実、モンケーン導入の際の民間人の活躍など、ちゃんと目配りしているのは見て取れるがやはり「プロジェクトX」始めドキュメンタリー作品の充実振りに比べると物足りない。
それに加え、佐々淳行の原作への揶揄に用いられる「自慢話」という語の印象はかなり薄められたと言え、ヒロイックな要素はやはり意図的に盛り込まれていたと言わざるを得ない。その原作は未読だが、最近某作品の資料にと「あさま山荘」関係はかなり当たった。このサイトなどは客観に徹したが故に圧倒的な名文であるが、やはり左翼・右翼に捕われない、真に現代的な視点から「あさま山荘」の中を「生きる」事こそが、このような「歴史を語る」行為には必要不可欠なのだ。ドラマの主眼をありがちな「当時の思想闘争」にではなく「当時の中央・地方公安の危機管理」という問題に絞ったというのもまた確かに本作の倫理観(ていうかバランス感覚)を証明しているものだと言えるが、長野県警の腰抜け振りはやはり「危機管理」の構図以上に本作における佐々の「ヒロイズム」を装飾するという思惑を仄めかしてしまった。しかしだからと言って本作がヒロイックな「エンターテインメント」であるが故に非倫理的であるかのように未だ平気で鼻白む事の出来る旧世紀の化石達(何人か浮かぶが・・・)は、最早大河ドラマを観る資格すらないのだから、どうか30年前の価値観に埋没したまま何処かで静かに生きてて下さい。「シンドラーのリスト」とそれに対するゴダールの距離感を上げるまでもなく、そんな中途半端な根性で歴史(=「映画」!!)を語れると思っているのだから笑止千万、「妄想」ではとっくの昔に相手にしていないので宜しく。
さて閑話休題して、クライマックスの突入シーンはそのヒロイズムの後押しがあったにせよ、流石にドキュメンタリーでは語り切れない充分な生々しさを獲得した。でもやはりこの感動というのは、あのサイトを予め読んでいたからこそだろうと思い直すと、複雑さに苛まれる。ここで唐突に結論の如く言ってみるが、私の本作におけるヒロイズム批判とは、「それでは汲み取れないもっと大きな熱いドラマの交錯」がその背後に控えている筈だという、それこそが「歴史」なのだという、実に単純なその一点に過ぎない。ただそれをマトモにやったら四時間の四部作でしかも煙に巻くような怪奇で卑怯なモンタージュを使わねばならんのだ、とは「妄想」を読んで戴いている方々には勿論周知。
取り敢えず役所広司は流石。
実はこれ、高橋伴明「光の雨」と並べて語りたかったのだが、あっちがいつも貸し出し中で・・・。後日合わせてみっちりやります。
(02.19)
「Mント」遂に完パケ!
やたー!
ここ数日いろいろとえらい疲れたので寝ます・・・。
(02.25)
実働時間以上に疲労が溜まって困った。
内容もアレだが、いろいろ抱え込み過ぎてるんだな。
絞り込んだ方が良いのだろうが・・・。
(02.27)
今日の一枚。
散っては咲く、咲いては散る・・・。
今月の一枚:
ただ空が。雲が。
2003年03月
(03.04)
最近何とかの一つ覚えで歴史歴史と五月蝿い私だが、案外この妄想を書き続け、読み返し続けているのが原因かも知れない・・・。
また春が来る。来たからどうだというつもりもないけど。
早速三本。異種格闘技戦。
エルンスト・ルビッチ「生きるべきか死ぬべきか」。
某所で問題?になった本作。やっと観た。息が詰まりっぱなしだった。息が詰まる程のシットコムを久々に観た。それはもう、最早三谷が観られなくなる程の衝撃!
一言で言えば、三谷幸喜より三谷的、ビリー・ワイルダーよりワイルダー的!この二人の求めるべき極北が大戦中のアメリカで亡命したばかりのドイツ人監督によってしれっとこなされてしまうのだから、今映画が如何に重き絶望を背負いて立ち向かわねばならないか赤子でも解るというモンだ。尤も三谷が範としたワイルダーの師がルビッチなのだから、私が喚かずともこの程度の「歴史」は誰もが解って当然なのだが。
兎に角某所で指摘した「倒錯性」、倒錯なんてものではなく、この作劇法的な完璧さを嘲るかのような出鱈目さはどうであろう!この作品ウパー氏に絶対見せねばならないのでネタバレ含めて内容の言及は極力控えてしまいたいのだが、冒頭のシークェンスの文字通り「問答無用のドーン」(←I木氏からの引用と考えて下さい・・・)としたインパクトに初っ端脳天ぶん殴られるや否や一気に途轍もないテンポのダイアローグと全く無駄のないカット割りでそれはもう三谷の方程式の整然さを遥かに凌いで、最も簡潔でありながら最も「倒錯的」であった「E=MC2(二乗)」の公式をやにわに「ドーンと」見せ付けられた当時の人類の驚きと狼狽振りが、映画では恰も今始まったばかりであるかのように再現されるのだ。これこそ「歴史=映画」。かたやアインシュタインがいて、かたやルビッチがいた。いずれにしても、やはりナチス・ドイツは20世紀最大の芸術作品であったのだ。最大故に大きな傷を「歴史」に残して破滅したのだ。
という訳で暗号のような文章でおしまい。後々小出しにします。今語り切るのも勿体ないし。
<又兵衛は何故死んだのか?>
原恵一「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」
二年前の夏、某M島監督の車にて。
M島監督「原が、次の『劇しん』で時代劇やりたがってるんスよ」
オレ「時代劇ッスか!!!?」
M島監督「しかも合戦物らしいんスよ」
オレ「合戦ッスか!!!!?」
一年経ったらこないなモンが出て来よった。
残念ながらあの準備・制作期間の短さで「合戦」を表現出来る訳がない。それは誰もが覚悟してこれを観なければならないし、恐らく原以下スタッフも重々承知の上だったのだろう。「影武者」「乱」いずれも五年、「もののけ姫」の実制作ですら二年である。騎馬を走らせ鎧武者達を立ち回らせるためにそれくらいの時間を試算出来ない制作者はただのアホである(だから「犬夜叉」は以下略)。
しかし、その分、原はマキノ正博のような、はたまた山中貞雄のような「早撮り」の身軽さをも意識してこの一大事に臨んだのであろう。「歌謡映画」もちゃんと作ってしまっていた「劇しん」スタッフに、黒澤とマキノを軽やかに横断するなど造作もない事であった筈だ。
と、かように「時代劇」論を騙ってこの評とする下衆な目論見も、冒頭の廉姫、涼やかな風に身を任せながらひたすらに空を見つめるその澄み切った面持ち(末吉裕一郎キャラの凛とした佇まい!因みに自筆原版は更にイイ)を観たが最後呆気もなく崩れ去り、私の脳内デムパは、即座に「ほしのこえ」と本作とがひと続きの空の下その大気を震わせ響き合う様を見てしまってもうしょうがない。その間違いなく続く空の下にいる二つのアニメーション作品を隔てる唯一のものと言えばそれはもう「雲」である事は自明である訳で、臆面もなく雲海をだだっ広げてその点は確かに「守旧的」(時代錯誤的?)とも言える「ほしのこえ」の無節操を戒めるように、廉姫は、たったひとつのはぐれ雲を見つめ続ける。それをアニメの今の姿だとか未来だとか、まぁ御得意のアニメ終焉論に持ち込むのはひとまず置いて、過去の住人たる廉姫と又兵衛が共に見つめた「はぐれ雲」を最後、現代の住人であるしんのすけ一家が見上げる時、既に又兵衛は「存在しなかった」。ここまで騙れば(←今回これで通したろ)「オトナ帝国」と本作とのパースペクティヴが自ずと見えて来る訳だが、勿論現在の映画にとって、「空を見上げる」という行為は総て「存在しなかった」事への代償として要求される筈なのだから、何もここで取り分け現代における喪失だ絶望だとネガティヴに捉える必要はなく、寧ろ「歴史」に対する最も真摯な態度にただ敬意を表すれば良いだけなのである。
「千と千尋」を「日本の緩やかな死へと子供達を誘う悪作」と騙る佐藤健志の厚顔無恥を誰が許すというのか。父の世代が行った忌まわしい「先祖殺し」を今こそ自分達が行う番だとばかりに息巻く「彼ら」をどう扱ってやれば良いというのか。嬉々として「父殺し」を進める彼らは、やがてその下の「我々」に「殺される」日を夢見ているというのか。ならば、一体誰が「歴史」を「ひと続き」にするというのか。
歴史は今も、見果てぬ空の向こうに横たわっている。それがひと続きである事を今は「信じる」以外に法のない我々は、今日も空を見上げる。地上に立つ者総てが等しく空を見上げれば、確かにその空はひと続きになる筈なのだから。
前田哲「sWinG maN」。
どうしてもこの人はサービスし過ぎてしまうタチらしくて、しかも相当の野心作だったのだろう、思いついた事片っ端からやってみて結局何処にでもあるサイコホラーになってしまった。黒沢清っぽさは私の好まざる分野なのだが、それにしても木下ほうかをただ立たせても画にはならんでしょ?但し、我らが宮崎あおい御大の皮膚から沸き立つ濃い蒸気を定着させる術だけはやはり誰にも負けていない。この二人はコンスタントに組んでやっていって欲しい。
(03.12)
毎年恒例の東奔西走の日々がやって参りましたよええ。
しかも今日師匠に追い討ちの指令を下されて・・・今年はこれノンストップ・・・?
アニメに未来などある筈もない昨今取り敢えずは今月21日に賭けます。一人一殺の精神(なんか意味おかしい)は変わりません。
しかしまぁ、もうすぐコンテに入る次の仕事はよりにもよって某フルメタル「ミリタリーコメディ(まで行かんか?)」。ようでけてある。
(03.15)
今日の一枚。
(03.17)
アメリカのヒステリーは嬉々としてこの「テロの世紀」の幕開けを相応しい形で成し遂げる事であろう。
そして21世紀を象徴する「テロ国家」としてアメリカの名が永遠に歴史に刻み付けられるであろう。
ベトナムから何一つ学べなかったアメリカの病的な無邪気さに今は呆れる他ない。
しょうがない。
(03.19)
一寸反則だが、やたらアニメを知らない野蛮な虫が湧いて来たので。
木上益治「munto」。
別に某首相のように無条件全面支持を断言するつもりはない。実際本人には某大統領のように面と向かって批判をぶちまけてしまっている。要は湧いた虫共を明らかなる「悪の枢軸」と見做し、神の名の下にジハードを挙行せんとする「アニメ原理主義者」として当然の振舞いである。
一言で言えば、「潔い」。様々な制約や「観客」、そして自己の映画的欲求など幾多の隔靴掻痒たる葛藤を超え、ここまでの芳醇さを画面に定着し得た本作には驚きを禁じ得ない。また生意気にも「ここまでアニメに愛されているのにアニメへの返答をロクにしていないアナタは絶対罰当たりだ!!」とか吐いてしまって苦笑を買ってしまったのだが、ただのクソなら諦めもつく。しかし本作を満たす「落下−飛翔」の一対のテーゼ、そしてその「上下」の運動性を後半若いアベックの「川の踏破」そして少女の「走り」という「縦横」の運動性へと変換し、恰もモーションの糸を交差させるようにして強固なタペストリーを完成させてしまったその映画的才能に気付かないバカが、やはりアニメを腐らせる蛆として今日も闇夜を跋扈するのだ。
これでアニメの「倫理」が学べるのだから、アニメを本気で愛する者ならこんなに安い買い物はないと常識的に思いますが、何か?
(03.25)
ディズニーと提携した時点でまさかミッキーマウスの「噛ませ犬」のような役割が求められていたという憶測は流石に成り立たないと思われ、やはり何らかの商業的価値を期待されていたと考えるのが映画的常識に照らし合わせてみても妥当だとは思ったし、ならばこのスタジオジブリと宮崎「ゴールデンベア」駿が米アカデミー賞なんぞに祭り上げられる事も容易に予測のつく事であり、ましてこのアカデミー賞は決して「国際映画祭」ではないのだし世界三大映画祭の中にも入っていない訳で、そこで賞を獲る獲らないなど日本アカデミー賞並に大して意味もないのだから、そこで何らかのオスカーを貰ったとしてもまぁ今や幼稚な戦争ヒステリーに成り下がった米帝国民共に一泡吹かせてやったという程度の痛快さしかない筈なのであるが、それにしても「千と千尋の神隠し」が長編アニメ賞を獲ってしまったという事実には何だかイラク侵攻の最中に真珠湾攻撃を仕掛けてしまったかのような倒錯的な快感を感じてしまってどうしようもないのだが、勿論こんな事でアニメの文化的地位や社会的評価が上がるなんて早合点してしまうには及ばず、寧ろアニメの現状を考えるなら宮崎本人と話を合わせて、(システム自体からは)何も生み出し得なくなったアニメ界の惨状を嘲り笑ってみたくもなるのだが、残念ながら今や自分が何を作っているのかすら理解出来なくなって白痴を遥かに通り越して最早人間とは別の生き物ではないのか?とまで思ってしまう日本のアニメ界を見るにつけそんな嘲笑の余裕すら持ち得なかったというのが正直なところであり、何せあの「munto」を傍から見ていたれっきとした自称「プロ」共が、ストーリー展開が唐突で解り難いだの説教臭いだの声優ウザイだのキャラデザ寒いだの音楽ヘボイだの、明らかに素人なら誰でもが口に出来る稚拙な言葉の羅列で自分がアニメの総てを語れたように満足し切っているその余りの醜悪さには思わず眼を背けたくなるのだが、まがりなりにもアニメーター風情を気取って大手振って社会渡り歩いてますという身振りで臆面もなく生き続ける彼等には少しでもそのアニメート表現に言及して自分のプロ意識をカタギの連中に示してやろうなどというプライドすら微塵もない訳で、これはもう醜悪さを遥かに超えて犯罪だとさえ言える訳でまた言い切らなければならない訳なのだが、結局アニメはこのような虫達の温床でしかなかったと言うのもまた歴史的に見れば納得の行く範囲であり、ならばここで粛清か総括かのようにヒステリックに喚いてしまうのもまた同じ穴のムジナである訳で、ならば今私に出来る事と言えば、ひたすら「munto」の弔い合戦の為に力を蓄える事くらいなのだろう、と気を引き締めた本日でした。おしまい。
(03.27)
本当のアニメーションが一般人の言う意味での「面白い」ものになる筈がないし、そうあってはならない、アニメーションとは実は「面白さ」と無縁の領域にあるのだ、という事を日本で初めて決然と口にしてしまったのが「もののけ姫」であった訳で、多分にハッタリ臭さが残るとは言え宮崎駿の弟子を自認して来た庵野秀明が及び腰ながらもそれに続けとばかり奮闘した「劇場版エヴァ」がこの「もののけ姫」と揃い踏みを果たした所で1997年は「アニメが死んだ年」として歴史に刻み付けられたのであり、事実それ以降五年間に亘って日本製のアニメはたったの一本も製作されなくなってしまった訳なのだが、「神殺し」を終えてホッと一息ついてしまった不甲斐ない弟子を尻目に、師はどうも形ばかりの「死」ではなく某大国のように「根絶」を達成しないと気が済まないらしく、再び「千と千尋の神隠し」という、タイトルからして何とも不穏で如何わしい作品を以って進撃を再開してしまった。その「千と千尋」が死に体のアニメーションに猛攻を加え大人気ないとも言える大勝利を収めたその陰で、その「大国のエゴ」や「グローバリズム」に背を向けひっそりと過ごしていた小国が突如牙を剥き、「munto」というこれまた如何わしい大量破壊兵器を以ってこの「テロの世紀」に相応しい振舞いを演じる事となろうとはどうやら事を起こした本人もまだ気付いていないらしく、これがまた何ともアニメーションらしい呑気な気分を感じさせてはくれるのだが、将来の潜在的なものを予測するしないに関わらず、今「アニメーション」という戦争のさなかにいるのはどう見間違えてもこの「千と千尋」と「munto」の二つしか存在する筈がなく、「面白さ」という名の「平和」ばかりを望む臆病な他の作品達に到底期待出来るものではない、という事を重ねて確認した上で、このはすみっち臭い句点なしの文章で「木上益治」という作家を世界で初めて「発見」した者としての自画自賛に酔いしれた試写会でした。おしまい。
という訳で「『munto』販促キャンペーン」と見せかけた「アニメに湧くゴキブリ撲滅キャンペーン」も今回で最終回です。一応。
(03.31)
ヤマ場を前にしてはやバテる。
徒労なのか?
芸術とは考えられないものを考える手段だ。
ミンモ・カッタリニッチ「小さな唇」ルイ・マル「プリティ・ベビー」スタンリー・キューブリック「現金に体を張れ」フランシス・F・コッポラ「地獄の黙示録 特別完全版」に加え珍しく(何年振り?)TVアニメをしっかり観てしまった千明孝一「フルメタル・パニック!」など多忙の中でも必死に観る。が最早語る気力もなく。次月。
今月の一枚:
憧れ続けた「空」を敢えて手放した勇気ある少年と少女の深い哀しみを、遂に誰も理解出来なかった。
2003年04月
(04.07)
つまり、そういう事だ。
ってこんな事ここでしか言えん。
アニメを語る場など誰も用意してくれはしないし、誰も聴く耳を持ってはくれない。
「空」はただ広がり、たゆたう。
(04.11)
久々のフライング。
<アニメ史に明日を刻むかけがえのない人類の秘宝w、水島努「クレヨンしんちゃん 嵐をよぶ栄光のヤキニクロード」に再度連帯せよ>
やはりこの世には「アニメに愛されている人」と「アニメに愛されていない人」の二種しか存在しないのだ。前者はあれこれ悩まずとも実に呆気なくアニメーションの本流に我が身を放り込めてしまうのであり、しかも「ヌーヴェル・ヴァーグってより寧ろニュー・シネマなんですよねぇ」とかつて仰った通り、これは正に「ニュー・アニメ」!その「ヤサグレつつもオマージュ」というちょっぴりヘタレな姿勢まで存分にアニメを味わい尽せる出来となるだろう。「地獄の黙示録」を超え、アニメの向こう十年の幕開けを高らかに告げる瞬間である。
しかしM島さん、絵上手くなったなぁ・・・ってこりゃ失敬。
(04.12)
林徹「みにくいアヒルの子」再会SPでノスタルジィをも超えたグシャグシャな感慨に涙した後、改めて篠原哲雄(あっコイツだったのか!)「ふたりのアリス」放映orソフト化を映像の神に代わってここに要求する。
学生物したいなー。
(04.17)
この時期と言えば体力もないのに方々駈けずり回って心身共にクタクタになったこの身の無力にその方々から断罪の石つぶてが投げられる頃であり、過去の妄想を見ても例外なくその痛みに悲鳴を上げている訳なのだが、今年もやはり例外なくそのワンパターンを繰り返す羽目になり、一体ヒトというのは継続してコツコツ積み上げて来た努力や成果や評価の数々とは全く関係なくただ積極的に徹底的に無力なのではなかろうか、と思ってみたりするのもまたこの頃なのだが、少なくともこれだけは言っておきたい二点とは、闘争には目的などないという事であり、そして闘争には手段などないという事である。
ミューズが人間どもの醜態にうっすら微笑みかけつつ自由に飛び舞う瞬間を何度か目撃し、言葉を失う。
(04.29)
歴史を変えるのはた易く、
歴史を見守り続けるのは難しい。
ソクーロフ「エルミタージュ幻想」山村浩二「ヤマムラアニメーション図鑑vol.1」そして「嵐をよぶ栄光のヤキニクロード」いつか書きます。今は無理!!
今月の一枚
2003年05月
(05.09)
後悔はほほえみ、
ほほえみは後悔する。
仮にこれが、「ほほえみは後悔し、後悔はほほえむ」ならばどうなのだろう?とかいう、傍から見れば無上に馬鹿馬鹿しいであろう事を、
偏頭痛がするまで悩み抜くのが演出の仕事じゃないか。
J=L.ゴダール「右側に気をつけろ」@テアトル梅田を観た感想の代わりに。美しい映画だった。
総ての絵に自分の手を入れられない人間がアニメーションと触感的に戯れる資格など持ち得る筈がなく、
よって富野由悠季も押井守も原恵一も水島努も、そして山本寛も「アニメ作家」足り得る筈がない。
一方で宮崎駿や山村浩二や、そして木上益治ら「アニメ作家」の絶対的優位がある訳だが、その中でやはり新海誠の存在が興味深い。
眼を失っても手は失いたくない、とはこれもゴダールの言葉。
(05.10)
小中和哉「ASTRO BOY 鉄腕アトム」
ZONE「true blue」
吉松隆「『ASTRO BOY 鉄腕アトム』の音楽」
まさか、と思えるような事態が起こってしまうのが21世紀なのかも知れない。いや、映画を始めとしてあらゆる芸術表現は正にその「まさか」をわが身に手繰り寄せるべく奮闘するものなのだから、さして驚くべき事ではないのかも知れない。それにしても手塚治虫とZONEと吉松隆を一息に語る羽目になろうとは、正に「アニメの神様」の悪戯としか思えない。いや、確かに「神」の「悪戯好き」など、その眩い姿を一度でも眼にした事のある者なら知っていて当然ではないか、と自分に言い聞かせて少しでもこの昂まる気持ちを抑えようと努力する。
それにしてもあのデビュー曲「GOOD DAYS」への回帰を図ったかのような、いや、それより遥かにシンプルでストレートな力強さが際立った「true blue」の開き直ったかのような潔さは、勿論決して「いつも君の側にいるよ」などという町田紀彦の余りに官僚的な文字群によるものではなく、恐らくイントロのモティーフを提供したくらいであろう「新世紀開き直り主義」音楽の大家、吉松「旧世紀末叙情主義」隆の手塚治虫への愛とゼーレが偶然とも奇跡とも言える化学反応でこの曲とZONE四人の張りのある歌声にかつてないパトスを与えた結果なのだろうから、いやはや成程、21世紀とはネオ・コンとテロリズムの世紀であるのだし、アニメーションも丸40年という歴史を経て、今初めて「起源」へと還る瞬間を迎えるのだ、映画と同じくアニメもまた絶えず「誕生し続ける」表象行為なのだという事を世界に知らしめる一大事件として、この「鉄腕アトム」は今正に、「三度目の誕生にして最初の誕生」を成し遂げるのだ、というただそれだけでわれわれは歓呼を持って三人目の「アトム」を迎えなければならないのだが、しかしOPのタイトルバックの画に一抹の不安を抱いてのち、本編へと眼を向けてしまうと、その前に広がる「誕生した」ばかりの筈の三人目のアトムは、ここ十数年来着実に培って来た手塚プロダクションの「血」と「血統」の豊かな絶対性を余すところなく証明し得ているとは言え、その「血統」がアニメの「大政奉還」とも言えるこの歴史的瞬間にどれほど自覚的であったか、あるいは戦略的であったかについては、疑問を投げかけずにはいられない。
少なくとも「フルアニメーション」と「リミテッドアニメーション」の「誤訳」を世界に蔓延させた「元凶」として宮崎駿などに「神殺し」を遂げられつつある「始祖」を、その忌まわしき暗黒の歴史の封印から解放するべく振舞ってこその「ネオ・コン」の政治的・戦略的なファナティシズムなのだし、ましてやここまでの「御膳立て」は手塚自身の霊魂か何かが共振を伴って吉松隆とその拙い楽器の一つ(と敢えてここでは言っておこう)であるZONEまでを召喚し得た上での奇跡なのだ、という事を、当の「手塚の子供達」は充分認識し察知し得たとは言い難い。勿論、ここで言う「ネオ・コン」として強大な権力を得る条件というのは、「1コマ打」「2コマ打」「3コマ打」と「フルアニメ」「リミテッドアニメ」の意味的混濁からアニメを解放する、というよりも寧ろ、その混濁に進んでアニメを投げ入れる事によって、アニメが内包する時間と空間を徹底的に分節し、その末に生成された強大な原子核を一気に融合し、人類を繁栄にも破滅にも追いやる途轍もないエネルギーを放出せしめる事なのだが、そこまではさしもの「死せる手塚」でも「生けるアニメ界」を走らせるまでには及ばないのだろうか。
「神」の死を前に、アニメの「誕生」はあり得ない。「ツァラトゥストラかく語りき」の狂人は今こそ「神」の復活を叫ばなければならない。がしかし、だのに、一体誰が手塚の「復活」を世界に告知する「狂人」足り得るのだろうか?
(05.19)
ところで、特許請求が出されたときには要求項目のリストを加えるのが慣例である。ちょうど、金脈の独占開発権を要求する申し立てのときに“請求権”を加えるように。そして、特許の“請求権”の数が多いほど、その発明は重要なのだ。
だが、アニメーションの“請求権”、つまり多様な可能性そのものがアニメーションの定義を難しくする。アニメーションという新しき葡萄酒を、映画・画廊・テレピ・美術館といった古き革袋にどうやって入れろというのだろうか?
アレクサンドル・アレクセイエフ
http://homepage1.nifty.com/gon2/index1.html
先日書いたフルアニメとリミテッドアニメについて調べてみたくなってぐぐったら見つけたサイト。その濃さは勿論「アニメスタイル」の比ではない。
ロマン・ポランスキー「戦場のピアニスト」@ナビオTOHOプレックス。なんかバカ正直に映画を観たり研究したりしてもアニメの演出如きには一切役に立たないのではないかという思いが今猛烈に強いのでマトモに書く気にはなれないが、やはり「シンドラーのリスト」の薄めのパリンプセストを今やってそれにパルムドールまで与えてしまう21世紀というのはそんなに対イスラムのプロパガンダがしたいのか?という思いが仄かに。ポランスキーらしい色調とあの雪には惜しみない拍手を送りたいが。
(05.27)
数日前観たヤツだがJ=L.ゴダール「勝手に逃げろ/人生」@テアトル梅田。
劇場で観るゴダールが全く眠くならないのはスクリーンでこそ輝くゴダールの魔術か、はたまた単に私が慣れて来たためか(現に隣のオッサンはイビキかいてた)、しかし冒頭の御馴染み「空と雲」から一気にその緊張感に飲み込まれてしまう。
ゴダールにとっての再出発は、まるで今までの「反抗期」を反省するかのような、官僚的なまでに「フツー」の映画!例の二頭の馬のショットは紛れもなく「カーテンショット」だし、娼婦イザベル・ユペールが娼婦志願の少女のアパートを訪ねるシークェンスなどは見事なまでに単純な切り返しで、逆に呆気に取られてしまう。ていうかやはり女性をマトモに撮らせたらエリック・ロメール以上の気品と艶かしさを画面に湛えてしまうところはもう流石としか言いようがなく、溜め息。
ポスタリゼーションによるスローやストップモーションも決して技巧のみの一人歩きではなく、物語の説話論的緊張にぴったり添った形の非常に合点の行くもので、ある意味、ここまで大人しいゴダールのショボボーン感を味わうのは何とも複雑な思いがするが、しかし「フツーの」映画を撮らせたら凡百の監督など一気に蹴散らしてしまえる底力には改めて驚嘆。
今日新宿・青山ブックセンターで「ルパン三世 カリオストロの城」「じゃりン子チエ」の絵コンテを差し置いてジャン・ルノワール「ゲームの規則」DVDを買ってしまった自分に対する天罰か、いきなりやたら長い地震!俺もいい加減ヤサグレてる場合じゃないのか。
(05.31)
けふいち氏に教えて貰った某東映系の若手演出家のサイトを見て、みんな履歴をあっけらかんと公表してるんだなぁ、と思って俺もおもむろに大公開。演出助手時代含む。
<1998年>「ジェネレイターガウル」#7(ノークレジット)・#11演出助手
<1999年>「POWER STONE」#4演出助手、#10演出、#18絵コンテ・演出、#24演出助手、「天使になるもんっ!」#17(ノークレジット)・#20演出助手
<2000年>「週刊ストーリーランド」『季節はずれのクリスマス』演出、『お父さんの靴』絵コンテ・演出、『母ちゃんの屋台』演出
<2001年>「週刊ストーリーランド」『最後のリクエスト』『ぼくたちの卒業式』『母が残したアルバム』演出、「ジャングルはいつもハレのちグゥ」#4演出、#8・#20絵コンテ・演出、「リアルバウトハイスクール」#7演出助手、「旋風の用心棒」#4演出
<2002年>「旋風の用心棒」#10・#16絵コンテ・演出、#22演出、「あたしンち」#3・8・13・20・24・30(制作話数)絵コンテ・演出、「ジャングルはいつもハレのちグゥデラックス」#2・#5(巻数)絵コンテ・演出
<2003年(現在まで)>「あたしンち」#36・42・48・54・60(制作話数)絵コンテ・演出、「munto」演出助手、「フルメタル・パニック?ふもっふ」#2・#9絵コンテ・演出
なんだかんだ言って、結構仕事してるなぁ。本数が実力に結びつく訳では全くないのだが。
今月の一枚
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2003年06月
(06.09)
遮二無二善人であり続けようとするのも立派なエゴイズムだ。
無駄な善意と無駄な良心と無駄な良識があの丘陵を跋扈し始め、新たなトラウマと怨念の温床となりつつあろうとも、人間とは正に、無駄な善意と無駄な良心と無駄な良識との狭間でトラウマと怨念を生み出し続けるものなのだ、という事を今一度頭に叩き込まねばならない。
あれから二年。狂気と対峙せよ。
(06.22)
風邪で会社寝倒したのを良い事にF.トリュフォー「思春期」を寝ながら観て、「物語」(=脚本)から解放された子供達の表情の余りの豊かさに思わずドキがムネムネして、あー確かにこれを前にしたら「みにくいアヒルの子」なんかオトナに媚び売る少女ポルノみたいなモンだよなぁ、としみじみ思ってしまった矢先に「3年B組金八先生(3)」の再放送に出くわし、受験のイライラを教室でぶつけ合う少年少女達が次第に台本や進行を超えた一種の「憑き」の状態にまで至った瞬間を目の当たりにして金縛りのような昂奮と恐怖にも似た涙が込み上げて来るのを抑えられず、それに武田鉄矢が絶妙の丁々発止でむき出しの思春期を全身で受け止めるさまは正に圧巻という他なく、つまり、「映画にとって子供と動物は卑怯だ」などと吐いてしまえる無能なオトナは勿論徹底して無能なままオトナになってしまった自分の絶望的な無能さに責任をとってさっさと死ねば良いと思った訳です。まぁ心配しなくても、こんな分析アニメ如きには何の役にも立ちません。おしまい。
あ、ジャン・コクトー「美女と野獣」もついでに。スローモーション他所々のトリックショットは面白かったが、如何せん物語が脱構築?ていうより単に「語り下手」。
(06.23)
「ふもっふ」御手上げ。もうアカン。
ここまで自分の力を発揮出来ないシリーズは某「Pワーストーン」以来か、いやこれでもそれなりにキャリア積んだのだからそれ以上か!!と動揺し続け一週間、よくよく考えればウチが元請なら当たり前の話じゃあないか、と今更ながらに気付いた自分の馬鹿さ加減に尚更苛立ち、酒量ばかり増える。
まぁ、ウチの「真価」が隅々まで晒されるシリーズとなるんじゃないスか?そんなに観たけりゃ止めはしないが。
妹の結婚式でカメラ係となって撮りまくる。こんなことでしか役に立たない兄。トホホ。
今月の一枚
死せる深作、生ける日本を走らす。
2003年07月
(07.23)
映画はお祭りだ。
お祭りは、人がたくさん集まった方がいい。
お祭りは、なるたけ若い人が多く来た方がいい。
そしてお祭りは、できたらちょっと大人が眉をひそめるくらい過激な方がいい。 深作欣二
遂に一ヶ月空いてしまった「妄想」だが、単に忙しかっただけでなく、本当にこの業界ってのはそんなに勉強している訳じゃあないが少しでも仕事の足しにしようとやっている勉強の悉くが全く役に立たない程日本語の通じない相手ばかりで、にも関わらず臆面もなしに「ちょっとはイケてる映像作れるんだぜ」とは聴いてる俺が死にたくなるくらい恥ずかしくなるから御願いだから言わんといてくれ、と切に祈っている内にもう映画観る気力も語る気力も失せてしまった一ヶ月だった訳なのだが、それでもチャールズ・チャップリン「キッド」とかセシル・B・デミル「男性と女性」とかをボケ防止の為観てはいたのだが、そんな悶々とした気分を吹き飛ばしてくれたのはやはりこれだった。
深作欣二=深作健太「バトル・ロワイアルU」@渋谷東映。
出張の合間を狙って捻じ込む。殆ど寝ていない身体だったが冒頭から完全に映画に引きずり込まれた。冒頭の空撮、大深作自らがヘリに乗り込んで撮った渾身の夕映えは深作最高の美しさ、それが一転ビル群の崩落へ、そして「ヴェルレク」を高らかに鳴らしてタイトルバックへ。ここでもう参ってしまった。晦渋と倒錯の奇跡的コラボレーション。無条件に映画。素晴らしい。
本編始まって東映独特の眠いライティング、時代がかったSEに少し引いてしまうも、「新」3年B組が拘束されわれらが「先生」竹内力覚醒のシーンに至って戦慄が走る。旧作には見られなかった暴力的カッティング、JACからの呪縛から逃れ本能を以って暴れ廻る少年少女達、そしてやり過ぎなまでに煽りまくる竹内RIKI!!総てが旧作を遥かに上回り、まるで大深作が初めて「仁義なき戦い」を撮ったかのような居ても立ってもいられない昂奮が画面に満ち溢れる。これは勿論、先ずは小深作の偉業。東映戦隊シリーズの現場を経験した彼が自分なりに大深作を読み込んだ結果としての最高の結実であり、ある意味「BRの本来あるべき姿」だったのかも知れないが、いやしかし、その背後に見え隠れする大深作の魂は誰もが感じ取ったであろう。重く鈍くなった自分の肉体を捨てた深作欣二の魂は、これほどまでのスピードとダイナミズムを持っていたのか!と、誰もが驚嘆するであろう。正に一生に一度しか出来ない大技。肉体が滅びても映画は撮れるという事を証明した映画史で唯一の監督として、彼の名をわれわれは永遠に記憶せざるを得ないだろう。
「戦艦」島に向かってからの戦争アクション!それは小深作の言うサム・ペキンパー的な描写というより明らかに「プライベート・ライアン」+「フルメタル・ジャケット」のパリンプセストだが、デジタルと馴染ませる為にポスタリゼーションを掛けたのだろう少し残像感の多い画面は黒味の十分な主張で不気味にハリウッドへの「聖戦」を開始する。カッティングはますますシャープさを増し俄に判別するのが難しいショットすら散見されるが気にするな!21世紀の日本人の眼にはこのくらい屁のカッパよとばかりにテンポを煽りに煽る。最大の殺人ゲーム=「戦争」が映画の体躯を借りてここに再現されるのか、はたまたサミュエル・フラー曰く正に「映画とは戦場」なのか、いや、その両方なのだろう。少年が幼児を辱め高みから突き落とそうが、精神疾患を装った大のオトナが小学生を次々に串刺しにしようが、そんなもので右往左往する人間共は結局有史以来の「殺人ゲーム」の長き歴史に何ら学ぶ事が出来なかった犯罪的無知のお子ちゃま達なのだと、深作親子は武装した少年少女達と狂喜乱舞しながら歓呼する。この激しく官能的な「祭り」に参加せずして何がニンゲンだ、と。本作を観て「イデオロギーの押し付けに過ぎないオナニー映画」と決め付けた犯罪的バカはやはり今後一度でもオナニーをしたら即射殺すべき非生物だし、事もあろうに「少年犯罪ならまだしも戦争なんて俺達には関係ない」と言い切った絶滅寸前の貴重なバカは真っ先に北朝鮮への盾として日本海沿岸ににずらり並べるべき有効な資源だ、となるとやはり犯罪的バカの有効利用の為BR法は今の日本に絶対必要なのではないだろうか?と本気で考えてしまった程だ。
それにしても大深作の旧式なアクションから解放されたせいか、若い役者達の爽快な暴れっぷり!その白眉は前田愛!完全に見直した。妹が前作でブレイクした嫉妬とルサンチマンを一気にぶつけたのだろうか、銃の構え方といい身を屈めた前進の仕方といい一挙手一投足が素晴らしい殺人マシーン!現場で脚本を破り捨て彼女の活躍するショットをもっと増やせなかったのかと悔やまれる程の出来栄えだ。そして忍成「リリィ・シュシュ」修吾は納得の完成度、無人島に立て籠もって半年なのにその太り方はなんだ!?の藤原「カーツ大佐」竜也も潤んだ眼で応戦、更には酒井彩名、末永遥や端役に至るまで、ここまで多くのガキ共の弛緩しないベストの表情を拾えた映画も珍しかろう。奇しくもトリュフォーや相米慎二へと接近する本作の驚異的な親和力!
途中で見せる藤原の回想や「新」3年B組の葛藤など、これまた東映臭い説明臭のするシーンが中盤挟まるも大きな傷にはならない。自衛隊総攻撃前の藤原のビデオ演説をオフで置いた、束の間の平穏の瞬間の描写はどうであろう。ああ、やはり空!映画を観る能力のない者はこの空を観ずして藤原の演説に腹を立てているのか(しかもそのイデオロギッシュな側面はあらゆる所でパラレルになるようちゃんと作劇上の細工がなされているというのに・・・)!そんな御前の眼は一生役になんか立たないから今すぐくり抜いてしまえ!!と、いやいや流石に今回は俺もヒートアップし過ぎだな・・・。
そんな熱い「戦争ゴッコ(「戦争とは戦争ゴッコである」というテーゼをアメリカ始めとした今の全世界に突きつけたというのも本作のコアの一つである、なんていくらなんでもみんな解るでしょう?)」の果てには何と、アフガンロケでイスラム民族衣装を纏った前田亜季!もう口も塞がらない程の唖然。それは「反米」なんていうチンケなテーマに拠るイスラムとの連帯などではなく、「テロ」=21世紀の「喧嘩の作法」そのものに深く共鳴したヤクザ・深作欣二の最大級の「義理立て」だったのだ。遂に彼は自らの死を以って国境を越え、世界を相手にした「仁義なき戦い」を行う愉悦を手にしたのだ。それは正にハイテク大国・アメリカ如きには味わえない、自爆テロで散って行く「鉄砲玉」にしか味わえない、最高の愉悦ではないだろうか。
映画という戦場を豪快に駆け抜けた深作欣二、そしてその魂を自らに憑依させ作品を完成させた深作健太に最大級の讃辞を。
今月の一枚
何も足さない。何も引かない。
2003年08月
(08.08)
「トリビアの泉」のチーフディレクター二人のうちの一人は、
ヤマカンの高校の同期生である。
( ・∀・)つ〃∩ヘェーヘェーヘェーヘェーヘェ
「日経エンタテインメント!」で5、6年振りに顔を見て、わが事のように喜ぶ。いやー、すっかり同期の出世頭やなぁ。キワモノ系の。
すっかり筆不精となる。「踊る2」評も結局まだ書いてないがもう何かを表現する事がつくづく億劫に感じる。ここまで現場の表現意欲をもぎ取っておいて「向上心」とはどの口が言うか。
実に3年振りにコンクールとやらに顔を出す。いつもいつもいつもいつもいつもいつも思うのだが、一体どっちが「表現」だ?
(08.10)
芸術には美と崇高の両方の側面がある。つまり芸術は「美しい」ことによって直接人間に幸福感をもたらし、社交的な世界に人間を招く。だが同時に、芸術はわれわれがあらかじめ持っている知覚の枠組みを破壊し、社交的世界を拒絶して人間を孤独にする側面をも持っている。そして互いに矛盾するこうした両面を持つことによって、「芸術」に体現される美的=感性的なものは、人類の文明においてきわめて大きな力を持ってきたのである。
吉岡洋(カント「判断力批判」の解説より)
「社会におけるアニメーションの価値」とかいうくだらない質問への、取り敢えずの回答。これ自体突っ込みどころはあるのだが。
気が付きゃ最近、朝比奈御大の演奏しか聴いていない。何より、「彼の音」の後に「他の音」を聴くと、汚くてしょうがないのだ。音程すら覚束なく聴こえる。
「ピッチとは協調性」と言ったベームを信じられなくても、七年前に聴いた御大の「くるみ割り人形」は正に百見は一聞に如かず、だった。世界が流動的である事を恐れる者ばかりが定規にすがり、「絶対」音感にすがる。
(08.13)
http://www.mube.jp/index.html
なんとハスミンのHPハケーン!!(趣旨は若干違うようだが)早速キャサリン・ヘップバーンの追悼文を読んで萌える。愛と憎しみとは表裏一体なのだという事実を、キリストのルサンチマンを知る賢い貴方なら今すぐ確認しなさいよヴォケ。
(08.15)
日曜に「踊る」二回目観る。そろそろ文章にしたいのだが、現状では長文が書けず。未だに「踊る」をけなせば映画通であるかのように振舞える松本人志のような野蛮人がこれ見よがしに湧いて出ているのには我慢ならんのだが・・・。
んでもって息抜きに富野由悠季「オーバーマン キングゲイナー」#1。やっと観る。
話題のOPには些かながらも昂奮。某所で「∀(モナーの口にしか見えん・・・)」批判をした際に「ロボットアニメにおけるリアリティの希少さに抗って倒錯というフィルム的正当性に持って行くには、余りにその希少なリアリティに甘え過ぎているのではないか」と言ってやったのだが、これなら納得が行く。ロボットにゴーゴーくらいやらせないと彼の「狂気」は見えて来ない。それには勿論、彼が漸く見つけた悲願の「アニメーションディレクター」、吉田健一の確かな作画力に支えられての事であるのも忘れてはならない。
本編に入っても2コマ打ちを多用した安定したアニメート技術で安心して観ていられる。思わず「富野という指揮者は漸く自分の表現をし切れるオケとコンマスを手に入れた!」とか書きたくなるのだが、そんな気分も束の間、凡庸なパンとズームにああ、しょうがねぇなぁと、説明なんかクソ食らえとばかりに観客を突き放す富野語録にああ、やっぱりなぁと、一本観終えた時には結局、このヒトって惜しい守同様、「画」にも「言葉」にも頼る事の出来ない宙ぶらりんな放浪者なのだなぁ、それはやっぱり多かれ少なかれ、「絵の描けない演出」という、実写とはまた違う演出の特異面をある種剥き出しにしているのだなぁ、と、そればかりが痛感として重く残った。
ただ言っておくが、れっきとしたアニメーターが監督した筈の「なんとかパニック」(二作どっちも!)如きよりかは遥かにアニメの刺激に富んだ作品である事は間違いない。「ザンボット3」「ガンダム」「イデオン」の監督は、その有り余る欲望と精力で更なる高みを目指す。かなり長くはあるが、今はまだまだその「過渡期」なのかも知れない。ならばわれわれは、あと数十年すればやってくる彼の「完成期」を今から心待ちにしておけば良いではないか。そんな意味でワクワクさせる一作であります。まぁしかし、二話以降を観たいとは思わないし(どうせ最後までこの調子・・・)、吉田健一はトミノの監禁から解放されてもっと自由に仕事して欲しい、とも同時に思いました。悲喜こもごも。
あ、それとあの雪をあれだけ多くのカットに(総てバンク素材ではあるだろうが)辛抱強く貼り付け、レンダリングして行ったデジタルのスタッフに最大限の敬意を。
(08.18)
まだ一本も作っていないのに、もう作り尽くしたかのような脱力感が最近暫し起こる・・・。
これも疲れか・・・。
なのに「終戦」処理まで任されちまったよ。ケッ。
まぁいいや。
明日こそ「踊る」評書くぞ!!映画に申し訳立たねぇ。
(08.20)
とゆー訳で結局一日伸びた・・・。
しかしこれだけは言わせてくれ!富樫森「ごめん」は正にカットを割った相米慎二!!持ち駒を豊富にちらつかせながらもアート系を気取らない隅々まで抑制の効いた傑作だ。
ホンマはこっちも存分に語っておきたいが。・・・「逃げてるの?」とか言われそうなので優先。
<イマジナリーライン、というドラマ>
本広克行「踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」@新宿武蔵野館2、ナビオTOHOプレックス
本広は映画の編集の際、どうやらラストパートから切っていくに違いない。かつて「スペース・トラベラーズ」評にも書いた通り、前半三分の一のリズムはガタガタである。数フレ単位のズレが全体に影響し、観てられない。アヴァンタイトルのシージャック演習はステディカムの杜撰さも手伝って無残!タイトルバックも(キャストの顔を見せないのは小粋だとは思ったが)ちっとも調子が出ず、シリーズ最低の出来。しかし転んでもただでは起きない。あの茫洋に広がったシネスコの水平的世界を充分に使い切ったレイアウト!庵野の「式日」ほどグラフィックに固執する事なく軽やかに両端を締めるフレーミングで不調の中にも作品の提示部として気を吐く。それにしても「式日」やら「エルミタージュ幻想」やら、こないだ流しで観た「スリー・キングス」やら、最近は1:2.35がブームなんやろか?
それと今回はフィルムレコーディングの際1コマずつ丁寧にスキャンしたらしく、前の映画版に比べ格段に色が良くなった。湾岸署の中も純色のバタ臭さが取れてテレビと同じすっきりした輝度を回復、そしてシネスコがここで生きる。例によって署内を踊り廻るステディの動きにパノラマの大画面が相俟ってもうそれだけで気分はアトラクション!漸く乗って来たかと思いきや、最初の殺人はなんと「ケイゾク」か「QUIZ」か!?の植田博樹テイストで再度ガッカリ。そして細かいが、ヤサグレてる青島が署内のラブメール騒動にのめり込むのをツッコんだ和久のOTSショットをリバースで何度も何度も何度も!うーん、まだリズムにならない。
脚本面を見ると前作では絡み方がいちいちチグハグで中途半端だった「同時多発」の事件を今回は取り敢えず纏め上げ、「大きな事件−小さな事件」という「踊る」的図式も利用して何とか収めた。しかしながら君塚のホンに遮二無二整合性の不備を指摘して罵る映画音痴が何故21世紀となった今を平気で生きていられるのだろう?欽ちゃん門下でコメディを書き続けた君塚が(その後どんな色気を出して来たかは詳しくは知らんが)「スクリューボール・コメディ」をベースに作劇法を組み立てているのは至極当然の話であり、「踊る」のモティーフのひとつである警察機構のリアリティもより「欽ちゃん的」なコメディ(ファルス)を充実させるためのツールに過ぎなかった筈だ。だから「踊る」での君塚を三谷幸喜の亜流と批判した某ウパー氏の言説くらいにこそ映画的な価値が認められるものなれど、一体全体「何の不備もない」整合性や「現実にあるものしかない」偏屈なリアリティを事もあろうに映画に対して求めてしまおうという可哀想な者共には、悪い事は言わないからルビッチの「生きるべきか死ぬべきか」を死ぬ前に一回観てそれから自分の生物学的な無価値を呪いながら息絶えてしまって良いですよとでも声を掛けてやればそれで事足りる筈だが、ともあれ、君塚が「コメディ(シットコム)」としての「踊る」シリーズの本道を今回全く外れる事がなかった、という潔さが、「踊る2」後半にじわじわとボディブローのように効いて来る。
「踊る」とは紛れもなく「シットコム」であり、状況の重層的な変化に登場人物達が翻弄される事によりドラマのダイナミズムが大きくうねる。「踊る」はそのうねりを「カットバック」で的確に映像化して来た。二人目の被害者の部下の女性が出席するパーティ会場での「小さな事件」の進行とそれぞれに関係する青島、すみれの葛藤、それと対になる「大きな事件」とそこに固執する沖田管理官ら本部との軋轢、「調停者」として苦悩する室井、この三者が幾つもの事件の進行と共に壮大な対位法を奏でる時、映像ははたと「カットバック」という最も先鋭でリズミカルな映像文法を思い出し、凄まじい息吹で我に返る。ここでやっとひと安心。
ところで「踊る」始め本広演出の信者もアンチも、意外と指摘しないのが前回も書いた「イマジナリーライン」の確信的な放棄、なのだが、今回もやはり当てつけのように濫発。しかし主にOTSショットで組まれたその「ライン越え」リバースは徹底して小津を思わせる「構図の一致」を意図しているものである事は明白であり、これって本広の反骨魂なのか?(いやはや、日本映画学校の卒業生は身近にも何人か知ってるが、みんな癖強いねぇ・・・)と思うも、いつの間にか映画はすみれの白いコートとそれに向けられた銃口!勿論「踊る」が「踊る」である以上誰かが撃たれるのは紛れもなく「文法」なのであり、これまたここを批判して悦に入る馬鹿は小津もブルックナーもドリフもしらない文化の大敵な訳であるが、ここでとっておきとばかりに、雲ひとつない空の青とすみれのコートの白、そしてそこから吹き出る血の赤を仰角で見事捉えた素晴らしい画をしれっと入れてしまう、本広もまたなんといういやらしさ!スローモーションは勿論些か官僚的なのだろうが、すみれが倒れる際のバストショットが飛び気味の地面と飛び気味のコートと、そして深津絵里の白肌とでオーバーエクスポジャーになるのを知ってか知らいでか、恐らく撮影の段階でぐぐっと絞っただろう結果の、何とも言えない儚げなすみれの寝顔!そのあとに俯瞰の大ロングを持って来るあたりはもう、これまでの論調とはうって変わるが、ただ完璧。ただ素晴らしい。
それに業を煮やした青島(流石に今となっては狼狽しない)が室井に向かって叫び、遂に室井が重い腰を上げる。本部室へ向かう彼の歩が意を決して駆け足に変わる瞬間は余りに感動的だ。それは勿論前作の、刺された青島を抱える室井の縦構図のパン・アップに呼応するものなのだろうが、「踊る」は青島と室井の「歩み寄り」や「行き違い」を、絶えず互いに「歩かせる」事によって表現して来た筈であり(巷で指摘されてる、休憩室のベンチに「座る」というモティーフは寧ろ御愛嬌)、それを「歩く-走る」という切り替えによって表現したのはこの瞬間が初めてであり、青島に「歩み寄って」来た室井が文字通り「駆け寄り」、眼前の難題にがぶり四つに取り組もうと覚悟した証なのであり、それこそは何も「変えなかった」「踊る」が不変の「シットコム」の作劇法の中で成し得た、シリーズ物としては最上級の「文法」なのである。
そして忘れてはならない、この直後、青島と向き合う室井をいつものように切り返したその先にあったのは、何と「イマジナリーライン通り」のOTSショットだった!それまで癖とか何とか言って自分の中で誤魔化そうとしていた私の中で何かが弾けた。ああ、この為にイマジナリーラインはあったのか、映画にとって「視線の一致」とは如何に壮絶なドラマを孕んでいたのだろう。この程度の事に本広はある種「当たり前のように」自覚的であっただけなのだ。その結果としての「イマジナリーライン」の形成(形成とは誕生の事である)という、極めて映画に誠意的な振舞いに対し、だから、恥を知る者ならば「これは映画ではない」と一言も口にするな。どんなアホでもいい加減解りなさい。解って下さい。俺が言えた義理ではないが、もっと映画を観なさい。映画が不憫だ。
映画が21世紀を生きるというのは、「新しさ」というカモフラージュの内で、実はこういった目配せを繰り返す事なのだと、「踊る」は教えてくれている。臆面もなく言うが、いい加減みんな「踊る」で「映画」を学びなさい。映画が余りに不憫じゃないか。
「BRU」に「踊る2」、実に高レヴェルな「パート2」対決だった事を今思っても昂奮する。今年の「マトリッ( ´,_ゝ`)クスッ」風情がこれらの足元にでも及ぼうものならいつでも抗議のメールを送って欲しい。あ、そういや今年の「( ´,_ゝ`)クスッ」はまだ観てないからもうちょっと後で・・・。
(08.26)
結局「( ´,_ゝ`)クスッ」とタイミング合わずに観た二本。
清水崇「呪怨2」@梅田ブルク7。
ポスターが良い。観た瞬間「おおおこれはひところ流行った恐怖フラッシュやないか!(多分こっちが前作からのパクリなんだろうけど)」。かつてサム・ライミが「死霊のはらわた」で築き上げたホラーが「白眼」のホラーならば本作は「黒眼」のホラー。そのコペルニクス的転回にライミも驚いたのだと思う。因みに私、前作観てません。
本作が挑戦的なのは、画面に明るい部分を増やした事。白昼堂々と霊を登場させるなど今までの和製ホラーでは考えられなかった事だ(ってあまりホラー観てないんだが)。霊という作り物の質感をごまかす為の闇ではなく、闇そのものに霊的存在感を施そうとする照明。画調のざらつきがまた良い。無闇に純色を用いないのもまたリアルで、思えばそうだよ、われわれが廃屋とか暗い夜道で感じる「何か出そう」なリアリティとは確かにこうだよな、とはコロンブスの卵。
流石にそれだけでは、と思ったのか心霊番組の撮影と称してVTRの荒い画面も利用してはいるが、そこは「リング」と差を付けたいプライドなのか、なるたけメイクと照明の力だけで伽椰子や俊雄を登場させる。ただ自信余ってか時間切れか、一歩間違えればギャグのNGテイクも散見されたが・・・。
それにやはり、霊出現までがどうも段取り臭い。客を吃驚させるアトラクションではなく、霊的・神的な世界との呼応をも考える和製ホラーの倫理観だとは思うが、やはり「ワー!!」とか「ギャー!!」とかで満足して映画館を出たい気分には物足りない。伽椰子のアップは勿体ぶらずにもっと見せて欲しかった。
<「イヅツ、悪くないぞ!!みんなが言ってる程悪くないぞ!!」(声:オットー・クレンペラーで)>
某ちゃんねるでやたら大人気?のこれ。物見遊山で行ってみた。
井筒和幸「ゲロッパ!」@新宿シネマミラノ。
「踊る」へのイチャモンを上手く利用して宣伝・・・とも言われるが、よくよく考えれば「踊る」や「千と千尋」を大絶賛する井筒なんて面白くも何ともない訳で、それは「エヴァ」に対し露骨に悔しさを表す富野のように、映画監督たるもの商売敵に無闇に媚を売るべきではない!とかいうポリシーで彼が批評活動をしているのかどうかは不明。まぁどうでもいいや。実は井筒初体験。
タイトルに脚本・羽原大介の字を見て「ゲ!!ハバラ・・・!!?」とつんのめり井筒関係なしにとっとと帰ろうかと思った矢先、かおりの回想する銭湯シーンは幼いかおりのローポジションを徹底してそれだけでもう、フィルムから仄かな優しさが伝わって来てああ井筒って見かけによらずエエヒトやん、と思ってはみたが気が付くと何ともかんともカットを割って割って割って、あれぇこんな所で「踊る」に対抗してんのかな?とは思うがシーン尻の切り上げ方などはやはりTVドラマを思わせる勢い、というか粘りのなさで、ダイアローグはセリフ単位で律儀に切り返してしまう(勿論イマジナリーライン厳守)わ、ワンショットで押せるところをポンポン割って(しかも殆どが2カメで単調)しまうわ、映画としての志と倫理に欠ける、とまでは言わないが自分の画では長尺が持たないと思っているのかその割には「踊る」のようにリズムの為ならどんな出鱈目な画でも入れちゃる!とかいう押しの強さもなく、一番的確な言葉で言えば「お役所仕事」的というか、大衆に媚びている割りに変なところで謙虚というのか、弱腰というのか、やっぱりTVだよなぁこれ、と。にもかかわらずストーリーの要となる、組長・羽原大介(なんじゃそりゃ!!)のJBへの想いは現在の時制で説明的にさらりと語られ、だったら例の銭湯シーンで若き羽原が娘にJBの鼻歌でも聞かせてやれれば、この親子とJBとの重層的なドラマが膨らむというのにそのチャンス(ていうか「文法」でしょこれこそ)をまんまと逃している本作を「本物の娯楽映画」とは高田文夫はどの口が言うか!とでも叫んでとっとと帰ってしまいたくなるのだが、どうもそんな気にさせない空気が画面から滲み出て来るのに暫し戸惑う。それこそ井筒の映画作家としての天性なのだ、と言ってしまう事も出来ようが、やはり関西弁で独特の音韻を作っている俳優陣にかなり助けられた感もあると言えるだろう。サービス過剰な西田敏行は数打ちゃ当たるで外す瞬間も多いが、岸部一徳や山本太郎、桐谷健太そして藤山直美(!)と、信頼出来る関西弁の使い手がしっかりとリズムを整え、官僚的なカット割を補う格好になる。その最たる例がレストランでの解散宣言だが、折角大声張り出してヤクザがダイナミズム作ろうとしているのに何故割らずに辛抱出来ない?あるいはクローズ・アップとかも差し挟んで彼らの「ぶち壊し」の作業を手伝って大騒ぎしてやれない?まるで書類を見ずに判子を押すような井筒の演出にこの辺で怒りを覚える。
しかしその怒りがどうも席を立つまでに至らない理由が段々解り始める。単純に、画自体に力があるのだ。決してアート系を気取らない、奇異な色使いはしていないが程良く抑制が効き、黒も存分に映えている画調。またここぞというところでは俳優を逆光で捉え、えも言われぬペーソスを漂わせる。羽原がかおりの娘と初めて会う道端も、かおりと(お互い正体を知った上で)再会する泉のシーンも総て逆光と影中で、そこで見せる太田琴音(井筒のリズムを良く捉えていた。凄い!)と常盤貴子(一方彼女の芝居だけは結局井筒のリズムと終始合わなかった。単純なキャスティングミス・・・)の女を匂わす表情はまるでヌーヴェル・ヴァーグへの挑戦でフレーミングもバッチリ。だからこそその泉のシーンの冒頭近くで安易に俯瞰のロングを持って来るあたり(支配人とかおりとの対話でも意味なく使っていた。鈴木清純の教えを受けてなくても本能的に知らねば!)の鈍感さは隔靴掻痒の極み。これは勿論娯楽かアートかの問題ではなく、技術論なのだ。
そのツケはクライマックスの「ゲロッパ!」熱唱シーンで一気に被ってしまう。つーかそれまでと全く同じカッティングでどうすんねん!!なんで羽原のミドルばっかやねん!!なんでカメラワークそんなに鈍いねん!!冒頭で使った空撮はこのシーンに取っておけば良いのに、エキストラが少ないのも構わずロングをどんどん入れて暴力的なまでのファンクを見せ付けてやれば良いのに、まぁ、なんという小心者!大口は映画の中で叩け馬鹿者!!
その後かおりが駆け寄ってのふたりの和解シーンも二人を同じ画面に入れて、せめてOTSにして見せてやる優しさが欲しいのに、またもや官僚的な切り返し!最初の気遣いは何だったの?と怒ってるのやら楽しんでるのやら解らないぐちゃぐちゃな気持ちで、ああでも夜が明けた次のホテルのシーンはやっぱり逆光だ。親子の離別を示唆して儚いなぁ・・・。
ここまでの技術的不備は最早「娯楽映画」として全く成立しない致命的なもので、まるで「踊る」へのひがみを顕わにしただけの井筒の情けない小市民振りが結果として目立った。しかしそれを、彼の「作家性」の、もしくは「プロ性」の否定に結び付けるには、余りに勿体なさ過ぎる画が多いのも事実だ。ならば変にエンターテイナー気取らずに、もっとズカズカゴリゴリ撮って「踊る」なんかより相米や北野と張り合えば良いのに・・・。とは言え中盤で見せた羽原と孫娘、かおりと山本太郎(役名忘れた)の電話を通したカットバックなど、「踊る」なんてナンボのもんじゃい!と言わんばかりのテンションで見事に繋ぎ切ったのだから、本作は諸処の事情で井筒が調子を出し切れなかったものだと信じたい。そしてコテコテの主役から子役まで、役者ひとりひとりの温かみのあるベストの顔を、全ショットではないだろうが各人ワンショットでも収め得た井筒の愛情と映画への親和力は、次回作で(もっと勉強して!)更に花開くであろうと期待まじりに思っておきたい。
最後に不躾ながら、不肖私めが井筒先生に再度エールを。
「大口は映画の中で叩かんかい!!」
(08.29)
ゴキブリのような人間一匹死刑にしようが何も変わるまい。何も終わるまい。
「残ったもの」の戦いは正に始まったばかりだ。
取り敢えず死刑制度反対論者は今すぐ家からゴキブリホイホイと蚊取り線香と殺虫剤の類を一切破棄するように。
今月の一枚
2003年09月
(09.03)
この世では私は理解されない。
いまだ生をうけてないものや、死者のもとに私がいるからだ。創造の魂に普通よりも近付いているからだ。
だが、それほど近付いたわけでもあるまい。
パウル・クレー
資料探しでクレーの「忘れっぽい天使」を久しぶりにみて胸が一杯になる。
その時脳裏に響いて来たのがラヴェルの「逝ける王女のためのパヴァーヌ」だったのだが、それを「守旧的で後ろ向きな作品」と言い散らしたラヴェルはやはり、ただの器用ビンボーだったのだろうか。
ニーチェを持ち出すまでもなく、超人の果てにあるのは白痴であり、無垢である。
・・・とうとう29歳になってしまった訳だが、
早く処女作を撮ってしまわないと映画に見離される・・・。もう無理かな・・・。
(09.19)
大山鳴動して鼠一匹・・・。
もう解り切ってはいたが、#9(放送#8)、負けるべくして負ける。
もう御勧めは出来ません。良心が痛む。
憂さ晴らしに相米慎二「ションベン・ライダー」「雪の断章 情熱」を観て震える。
そりゃあ溝口以来とも言えるこの脅威のカメラワークの前では、本広も小深作も赤子同然だ。当たり前じゃないか!
おお忘れてた!妄想ノオト4周年です。
元々映画マニアとは決して言えない身分だったのだけどこの一年で紹介した映画は短編込みで47本。また減った・・・。触れてないのも合わせてやっと昨年並みか。
これを機に映画ファン気取りをやめます。気取ってても仕事に何の役にも立たんし。
(09.20)
あ、2本忘れてた。
紹介した映画は一応49本となりました。
どうしてこう、誰もかれもが映像に背を向けた所で果敢に奮闘するのだろう?
(09.30)
月換えるの面倒なのでここで。
酔った勢いで師匠に向かって「貴方はヌーヴェル・ヴァーグなんだ!!」と吐いた翌日、考えてみれば21世紀に登場した「次の世代」は正にアニメ界のニュー・シネマと「73年」世代じゃあないか、コッポラとライミと「イージー・ライダー」の水島努は言わずもがな、原恵一はヴェンダース的なロード・ムービーだし、細田守の「デジモン」は本人の言う通り「ミツバチのささやき」だし、いやビクトル・エリセでいうならその寡黙さと神秘性は新海誠に通じている気がするし、じゃあ俺はどういう位置付けになるのだろう?やっぱダニエル・シュミットか?それともその次??などと妄想に耽るが、やっぱり今の仕事には全く役に立たないのでやめる。
今月の一枚
2003年10月
(10.04)
枯山水の会合に久々に出席。最早蚊帳の外の感。今日ももう少し時間があればなぁ。
やっぱどんな形でも制服少女を!!とはとても言えなかった。
でもマジで、今は呆れる程シンプルなラブ・ストーリーが無性にしたい。
世界だ運命だなんだと分不相応なモノを一切背負い込まない、それが故に「強い」物語を。
・・・ってまた宮崎翁と言ってる事カブてくるのだが。
ここで喚いても何の意味もなく、結局はかの「最終兵器彼女」の時のように血と肉に溺れたオトナ共の臭い体液に塗れて行くのを指を咥えて見ているだけであろうとは百も承知だし、事態が好転する可能性は毫もないのだろうが、それでも表現し、創るという立場に曲がりなりにもいる者として夢想家と罵られるようと恐れずに敢えて申し上げるが、吉田基已「恋風」のアニメ化を今時ときたひろことか下田正美とかに任せるくらいならどうぞ私にやらせて欲しい、寧ろそれが、アニメに残されたなけなしの倫理なのではないか、とだけ言っておこう。
(10.08)
今日「控訴取り下げを要求する直筆の手紙」を読んでしまい、その狂気と対峙し続ける事の難しさを改めて痛感したが、それに時を合わせるかのように、最早狂気とすら言い難い、人智を超えた「脅威」に遭遇し、ひたすら身を震わせた。
その後「とある」書物の抜粋をネット上で読み、改めてその「脅威」の大きさに、思わず涙を流してしまった。
全く人間とは、これほどまでに度し難いものなのか・・・!
それはさておき、「Final」Aパート脱稿。今回も守りに入る事なく際どいネタ連発なのだが、未だかつてないほどすんなりOK!
M島監督の度量も去る事ながら、「HレGゥ」という作品そのものの懐の深さを改めて感じた。かの「ふも」と比べて、なんて言うのはやはり野暮なのだろうが、しかしつくづく創る事の幸福感を味わえる作品である事は確かだ。
それとやっと観た「座頭市」!!やはり(現時点での)本年度ベスト!!リズムの聖化!!北野が「エンターテインメント」を撮るとここまでになるのか!!「ゲロッパ」と「ゲタップ」はなんという違いなのだろう!!と昂奮して劇場を出たのだが、・・・如何せん今のこの気分では詳述出来ず。暫しの時間を。
あ、それとメモ程度に。エルンスト・ルビッチ「極楽特急」。ハーバート・マーシャルの台詞回しのテンポにただ感激!「テンポがゆったり」=「古典的」という馬鹿はどこのどいつだ。
そしてスティーブン・スピルバーグ「1941」これが戦時中に撮られていたなら、正に「生きるべきか死ぬべきか」に拮抗したであろう異常作!ただ観て行くにつれ「地下鉄のザジ」的な冗長さが付きまとったのだが・・・。
(10.15)
体調が戻らない。
今が我慢だ。頑張らねば・・・。
もう一度言いますが放送#8、保証しません。
プロとして屈辱的な逃げですが、客を騙す訳にはいかねぇ。
(10.19)
映像は決して生理ではない。
倫理だ。
”Point of view” だ。
(10.23)
ここ数週間余りにイライラしていたので、落ち着くにはこれだと「その男、凶暴につき」「3−2×10月」「菊次郎の夏」と相次いで北野作品を観直す。
特に格下と思っていた「菊次郎」の瑞々しさを再認識して涙。愛情と照れが画面に透明感を与えた実に愛らしい小品だ。
その後観たのが悪かったか、久しぶりに観た黒澤先生の「羅生門」はクローズ・アップの多用にイマイチ乗れず・・・。
(10.25)
今日こそ早く寝よう・・・。
あ、一つだけ。買ってから五ヶ月経ってやっと観たジャン・ルノワール「ゲームの法則」。
ルビッチのようなセックス・コメディを思わせるもルビッチほど造形美やテンポがある訳ではない、かと言ってその無勝手流の姿勢は正にトリュフォーやゴダールの範なのだろうが、やはりトリュフォーやゴダールほど挑発的ではない。私がどうもルノワールを掴み難く感じるのは概ねそんな理由からなのだろうが、その中でも大好きな「フレンチ・カンカン」を除けば本作はかなりいい。
頭の絵を眼前で形にする「演出」ではなく、眼前の出来事を愛でるようにフィルムに焼き付ける「撮影」の作家、とはいうのだけれど、その割りにカメラワークはかなり計算づくで細緻なのだから、やっぱりもう少し細かく切っておくべきでは、と思うところもないではないが、ただ後半の狩りのシーンから晩のランチキ騒ぎに至ってはその計算と大らかさが何とも言えない特異なドラマとなって現出し、その体臭はフィルムを超えた熱気となって伝わって来る。舌の根乾かぬ内に次から次へと異性を口説きまくるキャラクター達の天衣無縫さは映画表現の倒錯性と相俟って凄まじいうねりを作り上げる。それでもやはりしっくり来ない点もあり(前半はかなりスロースタート気味で中途半端、暖まってないように感じる)、そこらのシネフィルみたくしたり顔で映画史上のベスト!と呼ぶ気にはなれないのだが、この愛らしさ、愛くるしさ、そしてそれと表裏一体の、どこかオプティミズムになれない一抹の寂しさ。強く胸を打った。
(10.26)
・・・久しく枯山水公式HPの機能を果たしていなかったので。
いよいよ皆さん御待ちかね!枯山水3年振りの新作、
士反伸和監督作品「永遠の青春」「終わらない夢」「青春28切符」(仮)(プラネット映画祭出品予定)
遂に始動!!俺がどう絡むのかは解りません!!
(10.28)
「Final」Bパートコンテ青息吐息でやっと脱稿。M島さんゴメソ!!・・・しかし出来はかつてないほど「面白くない」もので非常に満足。これで「Gゥ」でやるべき事はひととおりやった。
・・・星野勇退が噂どおり「喧嘩別れ」だったのなら、チームの士気を考えるとここまででいっぱいいっぱいだったのでは?
巨人といい阪神といい、業界にとって害悪な存在ばかりが権力を持つのはどこも同じか。
その「権力者」の無駄話をいろいろ聴いていて、共通して出た一言。
「アニメバブルはじきに弾ける」
弾けない方がおかしい。
(10.30-1)
・・・二日ばかりここのアクセス数が倍増しているのだが。
何も喋らんぞ!!もう終わった事や。
その代わりといっては何だが、前述の「Final」Bパート、とある事情により「あるべき」1カットが監督の手により削られる。
そこでM島さんの口からぶちまけられた話で心ならずも爆笑で納得。そうか、やっぱりあそこはサティアンか・・・。
ところで「てるてる家族」は久々に帯で録る気になった魂のドラマ。フルサイズとワンシーン・ワンショットベースの組み立ては何より少女の体臭を掬い取る描写としてやはり必要不可欠。勿論散々走らせているし。
(10.30-2)
あーもう、じゃあ釣られとくか・・・。
作品を嫌いになった事は今まで一度もない。
作品を駄目にしようとする者達に殺意を抱いているだけだ。
はい、これでもうおしまい。堪忍してや。
(10.31)
久々にコンサートに行く。大植英次=大阪フィル@シンフォニーH。
・・・先日NHKでやってた「復活」を聴いた時の印象とぴったり一緒。実演ではまた違うかも・・・と思った私がバカだった。
前半の二曲、アルジェント「ヴァレンティーノ・ダンス」バーバー「ヴァイオリン協奏曲」は無難な出来。どうもリズムに切れがなく雰囲気優先かとも思うが、レパートリーの拡充や合奏力向上の為の選択か、と思い直す。弦の和声にはまだしっかりと大フィルの透明感が。
しかし待望のブラームスの二番、勿論御大がブラームスの中で最も得意にした曲、そこへ音楽監督就任後大絶賛の中にいるエイジ、どう立ち向かうのか期待半分不安半分、しかし鳴ってみれば不安の方が的中。
素人でも判別出来る「ツボ」のような所は確実に押さえるエイジの棒、確かに御大がしでかすような大きな事故はなく、だからこそファンに「アンサンブルが向上した!!」などと平気で言われてしまうのだろうが、まるで各声部を引き出しや整理棚に仕分けしてしまったかのようなバラバラの響き。「ツボ」を過ぎたら途端に緊張感を失う響き。エイジの性急なザッツの振り降ろしに戸惑い、鳴り切らず、伸び切らず(オーボエの浅川さんの呼吸があんなに浅いとは!)、重心が軽くて覚束なくパサパサと聞こえる響き。何より弦がリズム・ハーモニーともに崩れに崩れ、御世辞にも「良いアンサンブル」とは言えない。そこにエイジの余計な味付けが相俟って、何だか力ずくとすらも言い難い、奇妙な音が連なってそのまま終わった。
終演後よくよく考えてみれば、最近のそこらの有名オケによくある音に変わりつつあるだけの話だけなのであり、鳴る所は鳴らし、タテが気になりそうな所はしっかり締めて「アンサンブルの向上」を評価されるような演奏になりつつあるのだろう、と。だが、今後白い眼で見られるのを覚悟して申し上げるが、御大が50年かけて築きあげた「大フィルサウンド」とそのアンサンブルが、文字通り「音を立てて」崩れて行くのを聴いて、泣くに泣けない気分で家路についたのだけは確かだ。
今となってはもう、こんな意見は「盲目ツンボのヒナオタ」の意見であり「素人信者」の意見なのだろう。確かに私の耳が悪いだけなのかも知れない。しかし私は、どうしても今の大フィルの音が向上したとは思えない。色々考えたがつまり、かつて私の先輩で音楽を仕事にしている方が「もうアニメは卒業した」と仰ったのだが、そのように私もまた、そろそろクラシック音楽を卒業する時期に来たのかも知れない。それだけなのかも知れない。そう思って自分を納得させた。
ただ、それでも敢えて、最後に再度訴えよう。今の大フィルが上手くなったとは思えない。
まぁいいや、もう。最近こればっか。
今月の一枚
2003年11月
(11.02)
仕事午前で切り上げてお忍び?でKYOTO映像フェスタに行ってそこで仕事中?の後輩とバカ騒ぎして後二人の子猫タソ(内ひとりはクライアント・・・)と恋のから騒ぎをして帰る(; ´Д`)ハァハァ。
それはどうでもいいとして本来の目的だった山中貞雄「人情紙風船」@京都文化博物館別館ホール。
前述の子猫タソ(; ´Д`)ハァハァと一緒に観たのだが二人の感想は「台詞が聞き取れない」「映像が暗くて見えない」と冴えない顔。フン魂の眼で見られない田舎者め!
いや確かに響き過ぎるホールで前進座の速い台詞回しはかなり辛かった。サウンドトラックの状態自体は悪くないと思ったがこれではイカン。私も正直不安になったが、こういう時サイレントやトーキー初期を観慣れているとなんとかなるもんだ。ていうかそんな悪条件を微塵も寄せ付けない画面の圧倒的な強さに瞬く間に引きずり込まれた。
山中曰く「これが遺作ではちとさびしい」との本作だが、その悲観性・悲劇性は決してセンチメンタルなペシミズムと堕する事なく、素晴らしい叙情と広がりを持って画面を満たし、観終わって清々しさすら感じる程の感動を得た。紛れもなく(三本の中では)山中の最高である。
長屋とそこに住まう貧窮しつつも明るく振舞う人々、というのは真っ先に黒澤先生の「どん底」を思い出すのだが、他二作を観て思っていた構図・カット割の小津への接近(室内の画は殆ど小津ローアングル!)を確信。アクション・カットの多用も然り。そして艶と翳りの深い照明はまるで溝口で、思えば本作はクロサワ・オヅ・ミゾクチという日本の三大巨匠の個性を結集したかのような奇跡的な高貴さを漂わせているとさえ言える。これが天才・山中なのか!
それだけではなく大胆なオフ・ショット、驚くほど流暢で現代的な芝居やダイアローグのテンポ、北野を思わせる省略法、そして二カット差し挟まれたあの「空」!ストーリーの描出という点ではどちらかと言うと抑制的とも言える演出の中でそれらの細部が強烈なまでの輝きを発している。絶望の余り立ち尽くす河原崎長十郎の全身を叩きつけるあの雨!一日の不在から帰って来た妻の抜け切った疲弊を背中から描き切ったあの佇まい!静物のアップも随分あった一方でタイトルロール?の紙風船はまるでこの世界に対する山中の視座を確定しているかのように絶えず寄せ過ぎず引き過ぎず、絶妙な距離感でラストを締める。余りに倫理的で自然。自らの「神」の視座を確保しようと欲してその卑しい野心が匂って来てしまうカメラは巷に掃いて捨てる程あるが、この山中の視座の余りの自然さ、素っ気なさは最早「ベルリン・天使の詩」の空撮をも超えて、正に「天使の眼」として世界に微笑みかけているようだ。
これが映画だ。
(11.03-1)
http://www.google.co.jp/search?q=cache:Qm-iAaOKHmgJ:kyoto-np.jp/kp/topics/2003nov/01/K20031101MKJ1Z100000003.html+%E5%8C%97%E4%BA%AC%E3%80%80%E3%82%8F%E3%81%84%E3%81%9B%E3%81%A4&hl=ja&ie=UTF-8
理性と常識を欠いた「正義感」が最も野蛮である事の証明。
(11.03-2)
休みって素晴らしい・・・。
夕方起きてまた京都へ。「座頭市」二回目観る。
<エンターテインメントという倫理>
という訳でやっと北野武「座頭市」@梅田ピカデリー、MOVIX京都。
なんせ今日はあの山中を観た直後だ、北野の後に観た「羅生門」のような印象もあるのでは、と思ったがとんでもない!逆に山中と北野が70年の時を越え共振し合うかのような光景を目の当たりにし、身震いした。またもハスミンが「こんなのボキリンのキタノじゃないやい!」とゴネてるようだが、勿論おすぎに決して騙されないわれわれはハスミンにも騙されてはならない。
要は「浅草芸能ショー」としての「時代劇」に立脚した、誰かが言った「北野武一座興行」なのであり、雇われ仕事と言っている割には北野も、本当の「御家芸」をノリノリで撮ったのではあろう。それにしても遂に彼がプログラム・ピクチャーを撮ってしまった!「BROTHER」「Dolls」で散見された「なくてもいい、寧ろバッサリ切って欲しい」カットの数々はやはり北野の照れとツッパリだったのだと今や誰もが納得するだろう。1カットたりとも隙のない、隅々まで映画の血を通わせた完璧なコンティニュイティ!最早このレヴェルには黒澤や市川、深作などでは太刀打ち出来ず、それこそ山中やマキノまでを引っ張り出さなければならない、日本映画史上久方振りの「緊急事態」なのだ。
その当の北野は黒澤への意識を仄めかして後進の謙虚さを示してはいるが、やはり本作は山中やマキノと同様、堅牢な造形性と先天的煌めきとの壮絶な死闘としての「映画」として同列に評価し、その「頂上決戦」に臨まなければならないだろう。まぁ私も時代劇の権威を騙るつもりはないので今回そこまで言及するのは避けたいが、表面だけ追うならば例えば、寧ろ市川崑にも接近するだろう。冒頭いきなり見せる市の居合い(最初マジで見えなかった!)、殺陣の余りにシャープなカッティングは正に市川のヴィジュアリズムを想起させるが、やはり観進めると格の違いをイヤというほど見せ付けられる。「BROTHER」辺りから「キタノ・ブルー」を抑え、その代わり黒の艶と深みを追求し始めた画面の硬質な透明感。さりとて北野はあくまで構図やカッティングにフェティシスティックな関心など一切ないかのようにぶっきらぼうに画を繋ぎ、まるで「普通の」時代劇であるかのような錯覚を与える。しかし服部とおしのの夫婦が朝のひとときを過ごす画の照明の入れ方、おしのの白い着物の淡く儚い輝きと影中の服部の深い翳りのパラディグマティックな対位法はもう、時代劇の照明をちゃんと勉強しましたよ、と言い訳出来る程度の成果とは遥かにかけ離れた、それこそ批評としては敗北的な科白ではあるが「才能そのもの」が「時代劇の照明」という足場をしっかり組んだ上にでん、と居座っているのである。室内の美術・照明はここ数十年の中でも完璧の部類(数カット気になる所はあったが・・・)と確信する出来で、変に個性を気取らない、「基本」への謙虚な姿勢を見せながら隙を見計らって出し抜こうとする、・・・そう、まるでこの演出設計自体が正に「座頭市」のキャラクターそのものだったのだ、とここで気付く。なるほど、あの殺陣の余りに鋭い、それでいて凍てつくようにクールなカッティングもそれで説明がつくのだ。
そのカッティングだが、殺陣シーンでその特徴を掴むのは理解も容易であろうが、その刃の鋭さが最も増したのは実は中盤、市と旅芸者がおうめ(どこかで見たような・・・と思ったらあの大楠道代!!?なんでこないな事に・・・!!)の家で匿われている際に見せた、おせいの今と過去とを踊りのマッチカット・カットバックで繋いだあの感動的なシーンではないだろうか。なんでもない単純なカットバックだがそのカットの断面の鋭さ、カットの瞬間は死の瞬間だとはよく言うが、絶えず死を迎え、忘却の彼方へ消え去ってしまいそうなおせいの過去と今の実存に市の抜き身が入ると、まるでその切れ味で断面が再び接着してしまうかのような印象にわれわれは否応なく驚き、涙するのだ。余りに単純。余りに先鋭。とうとう市川の全盛期までもが及ばない瞬間となってしまう。
リズムについては鍬・雨垂れ・大工道具などを使った音楽的な試みは誰もが理解出来るだろう。しかしそういった「狙い目」の所以外でも、実に綿密なリズムの計算がなされている事が解る。SEの素晴らしさ、緻密さは正にその代表で、例えば服部の回想で剣術の試合に向かう時のたすきがけひとつにも、衣擦れのSEが巧みなバランスで配置され、本編全体の巨大なソナタを構成するモティーフ(更にはその断片)として充分機能しているのだ(ああ、こんな事「ルサン○マン」でもやったなぁ、としみじみ)。勿論殺陣の渇いた響きは言うまでもない。
そしてリズムと言えば当然ラスト。ゲタップダンスはこれまで述べて来た事を一気に集約したかのような最上の出来であり、このような音楽シーンをしれっと撮ってしまって尚も素っ気なくいられる北野のあり過ぎる才能には嫉妬すら忘れ、ただ呆然とするだけだ。まさかこれと「ゲロッパ」を比較する気になるバカはもういないだろうが、黒澤から日本映画を託されてしまった彼は、照れの余り「そんな事言われても興味ないよ」とでも言いたげにひたすら眼をつぶりつつも異常な速さで映画に斬り込み、本当に時代劇の「正統」をマキノから黒澤まで一気に叩き斬って、ハスミンの言う「オイラは強い、なぜならオイラは強いからだ」という傲慢な循環論法で映画界を黙らせてしまったのだ。しかし、だからといって北野は映画界に君臨する事で悦に入るようなバカではなかった。彼は物語の終局に至って突如かっと眼を見開き、今まで直接対決を避けて来た映画そのものを今度は逃がすまいと睨み付け、今後もひたすら「切り」続け、血に染まって行くであろうわが手、わが刃の業をその眼でちゃんと確認し、あまつさえそれを世界に誓約しておこうとするかのように、その眼で相手をしっかと見据えて、一気に斬ってしまったのだ。
かつて大島渚が「御法度」に臨んだ時の眼差しを、北野は役者として見ている筈だ。その志を好んだか好まなかったかとにかく引き継いでしまった彼は、自分でも制御し切れない凶暴な力を以ってして、戦い挑む覚悟を遂に表明した。今後も眼をつぶったままばっさばっさと薙ぎ倒す彼の姿をわれわれは拝見する事になるのだろうが、ひとつだけ忘れてはならない。彼の眼はいつだって「見えている」。
(11.08)
「真実などない」。
これもまた、真実ではない。
誰もが知っている筈なのに、誰もが思い出せない不思議な文言。
塩田明彦「黄泉がえり」。
恐らく今年度のベスト1は(例のパート2対決を勿論差し置いて)北野と塩田の一騎打ち、しかも両方が「プログラム・ピクチャー」とは!と楽しみにしていたが、結局一方の本作は劇場で観られず。漸くビデオを借りる。
結果としては、まぁ見事に、宙ぶらりんの作家・塩田の宙ぶらりんさが裏目に出たというか、好きでもない事を商売目的に苦笑いながらこなしてしまったというか、「ちゃんと基本通りに撮れるんだZE!」というアピールにはなったのだろうが、本当に基本以上のものを感じさせないというか、半分以上のショットが何らかの形で間違いなくNGの筈なのに「まぁいいや、編集で何とかなるし」と割り切ってOKを出してしまったものの積み重ねだというか、いやはやもう、映画に愛され続ける男・北野に対して苦労人・塩田の半生が浮き彫りになってしまったというか、兎に角、徹底して「フツー」であり、それ以上何も言う事が出来ないし、言う気になれない。
・・・とは言うものの、やはり塩田の個性は10パーセントくらいは見え隠れして来るものであり、草薙と竹内が絡むシーンの幾つかは長回しにして付け焼刃的な二人の芝居の危うさを暴いて逆に生々しく見せてみたり、そこに伊勢谷(だっけ?)も交えて浜辺を歩く画などは「北野には撮れまい!」とでも言わんばかりの素晴らしい意地のショットとなったが、所詮はほんの刺身のツマ程度、後は様々な外圧?に屈したかのような甘くも辛くもない画を並べただけに終わった。
あ、それともう一点、長澤まさみを撮る時は正に塩田節全開!葬式シーンこそ抑えめだったが後は脚フェチ(ていうかふくらはぎフェチ!)の本領発揮!「月光の囁き」を巡っての対談で「脚から撮るのはおかしい。脚が大きく見えてブサイクだ」と言ってしまったハスミンの見る眼のなさを今こそ哀れんでしまおう。
うーん、しかし次回作は、是非長澤まさみか或いは宮崎あおい御大の再起用で、何とか「魂の巨匠」として息を吹き返して欲しいものである。今回は本人が儲かったのなら、別にいいや。
(11.10)
枯山水40000ヒット、有難う御座います。
妄想ノオトもじきに30000ヒット、どこのどなたががどんな気持ちで読んで戴いているのか解りませんが、まぁ今後とも舌打ちしながら読んで下さいませ・・・。
因みに投票には行かずじまい・・・。画ヅラばかりが解り易くなったが、やはり解り難い・・・。これで政治に物申す権利もなくなるだろうが・・・。
(11.17)
傷ついたほうが偉いと思ってる人は あっちへ行って下さい 加藤千恵
枯山水最新作「サラリーマンびんびん物語」撮影快調!顧問の東京転出にもめげずに頑張っております!刮目して待て。
ラッシュを観て久方振りにフィルムの手触り(DV撮影なのだが)のようなものがビリビリ感じられた。やっぱやろう!何足の草鞋を履こうがやろう!向こう見ずにやろう!
・・・とか思ってるうちに何故かカルロス先生のニューイヤーコンサートなんかを観返してしまう。ハッッどうしてこんなものを!?
ヴィム・ヴェンダース「時の翼に乗って ファラウェイ・ソー・クロース!」。後半の「物語への偏向」は確かに、無理してるのかな?と。しかし「見つめる事」しか出来ない視線の空疎さとそれ故の目一杯の優しさを充分に表現したオットー・ザンダーのカメラ眼線は、正に小津から学んだヴェンダースの祈り。
フリッツ・ラング「ジークフリート」。仕事の資料にと思い観る。大胆な特撮や黒澤に先行する「霧」(それと「蜘蛛巣城」の完璧な元ネタたるジークフリートを刺した槍!)など確かに審美的だが、「メトロポリス」などに比べるとイマイチ空間設計が安っぽく、セット臭い。
(11.18)
及川中「ラヴァーズ・キス」。
全く以って宮崎御大のみを目当てに観た訳なのだが一分の望みも虚しくまたハズレ!「害虫」「パコダテ人」が嘘のような最近の御大の不遇振りには流石に不安を隠せないのだが、まぁ同じく作品に恵まれなかった裕木某とか酒井某とかとは圧倒的に格が違うのだからそう未来を案じる事もあるまい。確かにこの貴重な十代の咽ぶような濃厚な匂いを一フィートでも多くフィルムに焼き付けたらまずはそれでも良いのだが、それにしても仕事の選びようはないものかとヒラタオフィスの重役一同を小一時間問い詰め(ry。
何せ映画観るのを尺半分で断念しようと思ったのは久し振りの事で(アニメなら5カット以内が殆どだが)、作品の同時代性やら若者の感性やらは何処吹く風とばかりの威風堂々完璧無比たるヘタクソ!!もうカット割りはおろかカメラの動かし方、明かりの入れ方、編集、音楽の出のタイミングに至るまで、これくらいの事なら恥ずかしがらずに私の所へ御越し戴ければ、アニメ演出の私で良ければ前以って知ってる分だけでも教えてあげられたのに、と悔やんでも悔やみ切れない。それが出来なかった今となってはせめて彼に「てるてる家族」を明日の回からでも観始めて勉強するくらいの事は是非して戴きたいと切に思うのだが、それを進言する手立ても最早ない。まぁそもそもこんな監督この後どうなろうが知ったこっちゃないが。
そんな中改めて驚いたのが、構成上何の効果も成し得なかった同時並行エピソードの中でわれらが宮崎御大のパートに来た瞬間、画が別物のように引き締まった(と言っても水準程度だが)事であり、これにはさしもの私の贔屓目もうろたえるしかなかった。もうまるで彼女がアングル・フレーム・照明・カットのタイミングの総てを決定しているかのような恐ろしい程に意志的な素振り。スタッフが彼女の立ち居振る舞いに従って撮ればそのまま映画になるという、それは正に「ユリイカ」で起こったあの出来事の再現(勿論「ユリイカ」とはかなりレヴェルに差があるが)なのだ。いわんや他の俳優との掛け合いとなると、平山「きてきてあたしンち」綾始めこの「学生映画」を満喫する文字通りの「若者」達に優しく演技指導をしてカットを処理する余裕、主役でない分多くの役の間を動き回って少しでも自分が映る事で「映画」として成立するカットを増やそうと努力しているようにさえ見える。その彼女に市川実日子だけが何とか拮抗し得たという有様だ。
言っても言っても誰もが小馬鹿にしてマトモに聞いてはくれないのだが、世界三大女優とはリリアン・ギッシュ、原節子そして宮崎あおいの事であり、そしてこの定義が例えば顔を真っ赤にしながらZONEを語ってしかも音を間違えて更に赤面するといった小っ恥ずかしい若気の至りとは全く別次元の話なのだという事を、ここに重ねて申し上げておきたい。その為には本作は格好のサンプルになるだろうし、またそれくらいしか使い道がないのも事実だろう。
(11.21)
岩井俊二「花とアリス」(ショートムービー版)観る。「リリイ・シュシュ」以前にあった思わせ振りな匂いが驚く程排されてただ自然な息吹がフィルムに更なる生々しさを与える。イワイ完成期の予感。鈴木杏のブサイクな三枚目振りに讃辞を。
http://www.breaktown.com/cinema/
(11.22)
件の「てるてる家族」、当初の引き・長回しは恐らく御上の余計な圧力が入ったのだろう、すっかり影を潜めてしまったのだが、遂に登場したわれらが偉大なる指導者にして同志・石原さとみ先生の東京出身とは思えない自然な関西弁ともっさりした立ち居振る舞いには改めて吃驚する一方、その余りの自然さは前述の鈴木杏も真っ青のブサイクさを充分以上に醸し出してしまっており、これは流石にまずい、もっさりしたうざったさを極力排して自然さだけを残す為に今こそ引きを多様すべきだ、でなければこの画では視聴率が危ういぞ、と判断し、ディレクターに命令する事こそがプロデューサーの仕事である筈なのだ。
妄想ノオト30000ヒット、驚異的な伸びです。有難う御座います。今後も渋い顔で応援下さい。
(11.23)
NFへ。枯山水顧問解任決議(ウソ)を済ませて「びんびん」のラッシュを拝見して教室でけふいち氏・とよ氏と話し込んで某F田M津央監督が来る前に逃げ帰る。
・・・ってNFと殆ど絡んでないやんけ!
「書き続けなければ・・・」というけふいち氏の低い呟きが印象的だった。何が目的であれ、この科白が出る以上彼もカタギでは生きて行けない性分なのだろうなぁとしみじみ思う。
ヴィム・ヴェンダース「まわり道」。ゲーテ原作のせいか何とも沈鬱で救いようのないさすらい。勿体振った言い回しでディスコミュニケーションが語られて行くのだが、「都会のアリス」を愛する者としては些か詩情を失っていたきらいが。駅の証明写真機で撮ったフィリップとのツーショットを眺める時のアリスのえも言われぬ表情から湧き出る「言葉にならない言葉」はここにはなく、ひどく観念的・言語的である。ナスターシャは流石に良かったが。
創作する事自体が既に「まわり道」じゃないか。
今月の一枚
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2003年12月
(12.05)
今年最後のヤマを抜ける。「FINAL」は別としても、正に今年を象徴する絵に描いたような徒労を心行くまで味わった数日だった。
早く忘れよう。悶々とする時間が惜しい。
(12.08)
虚脱感覚めやらぬここ数日だが、ツタヤへふらりと寄ってみれば眼の前に新入荷の「日本映画傑作全集」がデデンと構えておりその中に大量の成瀬とか大量のエノケンとかあの「人情紙風船」!とかが含まれているものだから酒の酔いと昂奮でフラフラになりながら取り敢えず「阿片戦争」と「乱れる」を借り、かと思えばその翌日「FINAL」のアフレコを終え、どうせ翌日日曜だし東京でぶらついてもいいんだよなーと品川駅でぴあを捲ってみたら見事に渋谷で噂のドライヤー特集が組まれているのに突き当たって慌てて急行したり、その翌日泊めて貰ったD口氏の「どっか逝きまつか?」のひとことでいきなり北鎌倉で念願の小津の墓参りを果たしたりと、映像の神様には見放されていないんだ!ボクはここに居ていいんだ!と思い込む勇気が俄に漲って来たのだった。
まだ黒澤の墓も山中の墓も況や政岡の墓も詣でていないのに小津の墓だけ(近くに木下恵介の墓も・・・)訪ねて映画ファン気取りとは陳腐極まりないのだが、前日のドライヤーと合わせて身を切り裂くような映画の厳粛なる姿を垣間見たような気がして、ああ、映像を作って流していい気分に陥るなんざ下衆の蛮行だ、今年の一連の仕事っていうのは正にそれを俺に教えてくれるためにあったんだ、と何とか自分を納得させて帰って来る。
ほっといてもチャンスは来るがな。きっと。
カール・Th・ドライヤー「奇跡」@渋谷ユーロスペース。
仕事終わって観たから、とはいかにも言い訳臭いが、頭30分は睡魔が襲って筋を追うのがやっと。最近映画を観ると眠くなる・・・。だがやがて文字通り「塵一つない」画面の硬質な光沢に吸い込まれるように観入る。多用される長回しは溝口のようなダイナミズムを作ることなくアングルすら変わらない。役者の計算され尽くした落ち着いた所作は儀式的ですらある。しかしその不気味なまでの静謐さが物語の余りの胡散臭さを遥か突き抜け、身を凍らせるほどの透き通る緊張感を画面から「抉り出す」。それは確かに、もう「聖性」としか言えない。それは映画そのものが持つ「聖性」。ラストの告別の儀とそこに起こる「奇跡」が観客にもたらすものとは、例えば前の席でひたすら涙を流していたアベックのその涙であったり、渋谷駅の前で歩きながら話していたパンクな連中の「大団円かよw!?」というシラケたコメントであったりするのだろうが、そのどの感想すらも、この作品の「聖性」の前ではただ無力なのでは、と今は思う。映画とは人を楽しませるものでも教示するものでもなく、寧ろ人を寄せ付けない、人を畏れおののかせる何かなのだ。前にも書いたが、美とはやはり、実存の虚構性に向けられた本能的な畏怖の事なのだ。ラストカットで見せるインガーの涙が忘れられない。
ヴィム・ヴェンダース「アメリカの友人」。
やっぱりアメリカ映画にはとんと疎いので、ニコラス・レイやサミュエル・フラーが登場しても知識以上の感慨が湧かない。とは言えどもゴダールの意識がありありのカッティングやら深い純色の画調やら、アメリカン・ニューシネマとは一線を画したるぜ感マンマンのヴェンダースの面目躍如。ダイアローグを几帳面に切り返していてもヴェンダース節は濃厚。ただブルーノ・ガンツが素人で殺しを働くというのは多少の無理が・・・。
(12.09)
ヤマカン 2003年12月09日 朝比奈の覇気、ここに極まれり!音色こそ晩年の透明感がないにせよ、居ても立ってもいられない凄まじいテンションと圧倒的造形力。テンポのゆらめきも堂に入って、こんな朝比奈があったのか!と目からウロコ。今後発売される70年代の録音は朝比奈の評価をガラリと変えてしまうかも知れません。
・・・いや、凄い・・・。期待はしていましたが度肝を抜かれた。
その直前に丁度フルトヴェングラーのワーグナーを聴いていたので、(コーホー先生みたいで)月並みな表現で恐縮ですが、まるで「フルトヴェングラー的」。それでいてしっかりと朝比奈。最早今聴いているのは朝比奈の音なのかフルトヴェングラーの音なのか、はたまたブルックナーそのものの音なのか、簡単に言ってしまえば「とんでもない」音が鳴り続く。四楽章コーダは金縛りに遭いました。凄い。
「ブル8」は01年盤を漸く最近聴いてこれで打ち止め!と思っていたのですが、70年代のこの御大の充実振りを目の当たりにすると、予定されている新日フィルとの77年の「ブル8」も買っておかねば、と心に誓ってしまいました。ともかく今後出て来るであろう70年代の録音は朝比奈再評価、再発見の大きな手がかりになるのだろうと確信しました。・・・ハッいけない!出過ぎた真似失礼・・・。
勿論6枚所有する御大の「ブル5」の中ではダントツのベストです。改めて凄い。
あの先生に「京大美学出はロクな就職が出来ない」と断言して戴いて、本当に誇りに思う。
(12.12)
http://news.fs.biglobe.ne.jp/entertain/sn031211-120031211009.html
いよいよ小津の生誕百年を迎えてあれやこれやと考えていたら突然の報。本当に今年は嫌がらせのような一年だ・・・。
年末は喪に服そう。ミューズの名に賭けて誓った以上は絶対最後まで附いて行くのだ。
(12.15)
・・・小市民の素朴な疑問。
捕まえて処刑したからゆうて、だからどないやゆうねんな?
テロ大国が見え見えのウソの上塗りをしているだけにしか見えないが。
民主主義・自由主義という名のカルト宗教が世界を蹂躙する、恐ろしい21世紀は始まったばかりだ。
(12.16)
前述した二本。
マキノ正博「阿片戦争」。
あの原節子と高峰秀子がリリアン・ドロシーに成り代わって「嵐の孤児」のパリンプセストを演じていた!という本作の噂は聞いてはいたが、まさかこんな簡単に御眼にかかれるとは!!しかも監督がマキノ、面白くない訳がない。
流石に大英帝国側を演じる日本人役者が必死に小粋なパーティジョークを捻り出す様は微笑ましくもあったが、後半のパーティから阿片焼却、広東住民の大混乱にかけてのたたみ掛けは有無を言わさぬリズム感。舞踏のシークエンスでは三つのアングルを順繰りに切り替えているだけなのに恐るべきデュナーミクの膨らみ。そして駈ける馬の付けパンをリピートで!「よっ待ってました!」と思わず掛け声したくなるマキノの伝家の宝刀。
それでも何より原、そしてデコちゃん!二大ヒロインが画面内での覇権を争い火花を散らす様が生々しく伝わって来るようでそれだけでも昂奮。デコちゃんもここでは絶品。グリフィスばりのクローズ・アップ(明らかにパロディらしき撮り方も・・・)は本家顔負けの気品とエロス、しかも二人の美しい歌声まで聴けてしまうのだから(デコちゃんは言わずもがな、原の歌も吹き替えでない事は直前に観返した「晩春」で確認済み)もう贅沢の極みで御腹一杯。そこへ更にクライマックスの牛車で連れ去られるデコちゃん!それを追い掛ける原!原が追い付いてしまうのだからさほどのスピードでもない筈なのに、マキノが撮るとジョン・フォードも泣いて逃げるスペクタクルになってしまう。思わず「アメリカのマキノ」などという称号が浮かんでしまった。それにしても二人は文句なしに美しい。マキノは文句なしに面白い。
成瀬巳喜男「乱れる」・・・はまだで、「まごころ」。
戦時中の教育映画?の空気漂う。成瀬も軟調の画面でやんわり撮っているが、前半はどうも無駄なドリーが多くイマジナリーラインも無視というよりは無関心。しかし後半は素晴らしい。入江たか子を問い詰める悦ちゃん(なんちゅう芸名や)の緊迫感はクローズ・アップの切り返しでぐいぐい押し、水浴びに川へ行く時の奥行きも翳りも深いショットの積み重ね(勿論美少女は走っていなければならない!)、それを今度は入江もまじえて丸まま繰り返すなど、ラストの大胆な省略とは対照的な粘りが随所に見られて、愛らしい小品ながらも既に後期の凄みを垣間見せる。
(12.21)
・・・ますますビミョーな立場になって来た感が。
志を一にする仲間達の為にも、今は踏み外しが出来ない。薄氷を踏む思いで来年は、・・・ますます苦しくなるんやろな・・・。しんどいわ・・・。
しかしもう、今までは余りに厚顔無恥の謂いなので恐ろしくて言えなかったが、もうこれを宣言する時に来てしまった(と勝手に思い込んでしまった)。仲間の為にも、多くのアニメを愛する人々の為にも、そしてアニメ自身の為にも、もう言ってしまわないと天罰を食らう事だろう(と勝手に思い込む)。
やがてわれわれの時代が来る。絶対呼び込んでみせる。
以上の誓いを以って本年度の妄想は締めさせて戴きます。うそ。
(12.28)
年末年始に自宅作業が入るのは望む所なのだが、今年と同じく年季の入った餓鬼共の権力ゲームに「私の仕事が」、ではなく、「生まれ行くアニメそのものが」利用されてしまう事に不安を感じて仕方がない。
昨晩の部署別忘年会で演出希望の後輩達に「監督・演出は政治力が総てや。実力なんか全く関係ない」と言い切る。少し大人気なかったかな?
来年もアニメのための一年でありますよう。
短く二本。
成瀬巳喜男「乱れる」。
ドライヤー特集ブックレットの「ナイトレートフィルム」の項にも本作が名指しされてあった通り、素晴らしいグレースケールの厚み。特に本作はフィルムそのものの状態が良いのだが、その後「浮雲」を観直して、成瀬における照明の奥行き、翳りの演出に舌を巻く(溝口の「幽玄」に対して成瀬の「業」!?)
その硬質で痛々しい光と影を打ちつけられつつも人間の尊厳を懸けてそれに堪え忍ぶかのように佇む熟女・高峰秀子には脱帽・最敬礼。彼女の引っ掛かるような声色がどうしても好きになれなかったが、自分がカメラの前に立つ事、ただそれだけが映画を映画たらしめる必要十分条件となるのが大女優なのだから、確かに彼女は見紛う事なき大女優なのだと改めて痛感し、自分の無知を恥じる。終盤加山雄三に迫られてニヒリズムさえ漂わせていた近寄り難い風格と緊張感を一気に崩して泣き落ちる姿は正に圧巻。その後やはり「浮雲」で例の「私も連れてって・・・」を観て更に驚愕。
アンドリュー・スタントン、リー・アンクリッチ「ファインディング・ニモ 」@梅田ブルク7。
休日「あたしンち」と迷ってこっちを選ぶ。そう言えば吹き替え版はDLPだったのになんで字幕版は違うの?まぁそこまで画質は気にしないが(でもフルCG・・・)。
にしてもピクサーの3D技術の異常な発展振りには逃げ出したくなるくらいに圧倒された。遂にボーンやテクスチュア、ライティングやパーティクルに到る総ての3D技術のピースが、絵の具のように自然な溶け込みとダイナミックな対比で絵画的な映像に昇華される時代となった事を確認し、確信した。その最たる例があの「アニメ史上最も美しい海」である。パーティクルの塵やゴミが何と雄弁なのだろう!リアル一辺倒ではない実に繊細なフォーカスワーク、ライティングの色彩感は決して実写には出来ない「海の真実」の忠実な再現をなし得ている。
・・・ただ反面、ただでさえ位置関係の解り難い海の中でカメラを振り回し過ぎた感も。リズムはだれなかったのでまぁ良しとすべきか。あと表情のデフォルメと生物本来の運動性を見事に融和させたキャラクター描写も最高。テクスチュアが実に良い。
(12.31)
年末に二ノ宮知子「のだめカンタービレ」(講談社)を読み耽る。
このサイトで細々と書かれている某小説と違って、商売にするにはこのくらいの味付けが要るのだろうな・・・。
とは言えこの漫画のアニメ化権を戴いたら凄い事にしてみせますので、このサイトを見た講談社さんは即連絡下さい。
黒沢清「アカルイミライ」。黒沢の充実振りに驚く。どうしても北野と比べてウェットで技巧的なのが気にはなるが、黒沢を観て緊張感が抜けなかったのは初めてではなかろうか。「苛立ち」というサスペンスと「癒し」という緩和のドラマトゥルギー、言い換えるなら「同時代性」という官僚制の誘惑から一歩(まぁ一歩だけだが・・・)抜け出た、映像そのものの晦渋な解放感がここにはある。
漸く忌わしい2003年が終わりです。皆様良い御年を。
今月の一枚
2004年01月
(01.02)
当HP初のリニューアルに向け妄想から試運転中。・・・とにかくすっきり出来ないものか。
明けまして御目出とう御座居ます。私はI WiSH「ふたつ星」を聴きながらしみじみと年始を過ごしております。
さて何と言っても新春のmy favoriteほのぼのエピソード堂々ベスト1は勿論、元旦の読売新聞の12大付録のひとつとして載っていた鈴木敏夫・押井守というアニメ界をリードする二大映画オンチ先生の対談だったのだが、まぁ惜しい先生の放談はいつもの事ながら微笑ましく読ませて戴いたとは言え、鈴木先生の次のひとことには正直おとそが逆流しそうになりました。
「(要約)現代人の身体性の喪失は甚だしいサ!新人類サ!吃驚サ!『踊る大捜査線』なんてサ、あのサ、どっこいサ、吃驚サ!誰も汗をかいてないんだからサ!」
冬が設定の映画で汗なんか描けるか!!!
コート着てんだぞコート!!黒澤=三船の「滝の汗ボタボタコンビ」でもやらんわいそんな演出!!!
・・・妄想始めて以来フォントサイズを上げたツッコミはなるべくやらないようにしているのだが、これは辛抱たまらんかった。性懲りもなく「踊る」を腐して正月から映画人・文化人ぶる男が全責任を負っているその年公開(の筈?)の作品が4ヶ月も延びてしまうのが今のこの世界なのだ。まぁスケジュールに関しては余り大きな事は言えないが・・・。
今年も楽しくなりそうです。どうぞ宜しく。あ、因みにおみくじは凶でした。
(01.04)
恒例!これも性懲りない2003年度映画ベスト5!!
1.座頭市
2.アカルイミライ
3.バトル・ロワイアルU
4.踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!
5.クレヨンしんちゃん 嵐をよぶ栄光のヤキニクロード
2003年は「人情紙風船」やら「奇跡」やらゴダールやら、劇場ではかなり御腹一杯になったのだが、まぁこれでも不満のないラインナップ。・・・なんか某ちゃんねるでやってた邦画ベストそっくりなのだが。つーか邦画ばっか!
さて1位争いを演じた北野と黒沢だが、出来で言えば互角か。しかし北野は言わばエンターテインメントという「ハンデ」を背負っての勝負なので、やはりこのワンツーフィニッシュだろう。その後に「史上最高のパート2対決」が揃うのだが、これも一世一代の反則技を使って映画史をあっと言わせたフカキンの勝利。そして5位には堂々とM島さんの「ヤキニク」が・・・ってそう言えばこれ感想書いてないやん!まぁ本人に言ったのでいいや。
因みに次点は「ファインディング・ニモ」。
新年から三本。忙しいので短く。
成瀬巳喜男「秀子の車掌さん」。終結に思わず「なんじゃこりゃ!?」、成瀬独特の省略法と言うよりこりゃ単に投げっぱなしだろう、と思われる脚本。しかし成瀬・高峰の名コンビはこの時生まれたのだと言わんばかりの、見事なデコちゃん17歳のエロス!勿論浴衣にしたらうつ伏せで寝っ転がる。ガイドの練習で指差す仕草の無上の愛らしさ。クローズアップとは正に愛する人にかぶり付くためにある。
カール・th・ドライヤー「ゲアトルーズ」@シネ・ヌーヴォ。現実にいたら私など逃げ出してしまいそうな「愛に生きる」女性が研ぎ澄まされ尽くした神秘的な光彩の中で静かな炎を発する。やはり観ていて思わず逃げ出してしまいたくなるのだが映像の魔力が私を十字架に縛りつける。その神秘性は正にゲアトルーズと自身を重ね合わせたであろうドライヤーの映画への強い信条、信仰が、狂気をも孕んで結晶化され尽くした結果なのであり、狂気とは不可分、いや寧ろ合一され昇華された末の神々しさなのだ。奇跡はいつも光と影、正気と狂気の狭間に生まれる。
石川寛「tokyo.sora」。観るからにゴダールからヴェンダースを経て、みたいな、「空気そのものを描き切る」映画に徹していて、例えば自然光撮影だとか自然音の積極的な取り込みだとか、脚本抜きの芝居だとかである程度成功はしている。だがその割には本上と孫の住むアパートの階段には夜だからと言ってそれらしい照明が加えられていたり、本上と孫、板谷と井川の関わり合いを示すのにやたら律儀なカットバックを徹底したりと、全体の崩れを恐れたのか官僚的な判断もちらほら。何より空の画をインサートするタイミング悪すぎ!ジャケットから何からとにかく「空」で印象付けようとしているのに(つーかタイトル・・・)、これだけでもゴダールに遠く及ばない。いや、ていうかやっぱりこの演出法難しいんだろうな・・・。
夜に「最後通告」受ける。今年も楽しくなりそうです・・・。
(01.06)
また徒労か・・・。
いや、徒労でも良い。言わば「あさま山荘」の佐々淳行の葛藤は望む所だ。
・・・しかし・・・後藤田長官がこう弱いとなると・・・。
以上、自棄酒の末の誰も解らん愚痴。
今年も楽しくなりそうです・・・。嫌んなるくらい!!
(01.07)
http://www.sonymusic.co.jp/Music/Info/Chuels/
ZONE新メンバーは真ん中。
嘘でも一安心した途端に今度は加護辻か・・・。本人の意思ならまだしも、土地転がしならぬアイドル転がしをして喜んでいる関係者がいるのなら今すぐ死になさい。人類の邪魔だから。
(01.08)
行定勲「閉じる日」。これ程までに猥雑な(卑猥ではない)素材をここまでデリケートに画面に塗り込める行定の才能に改めて驚嘆。「GO」から観始めて彼を完全に見くびり過ぎていたようだ。ラストの処理を少し焦ったきらいもあり、前田綾花の台本そのままの(撮影時に変更してやれなかったものか)台詞回しとか気になる部分もあるが、やはり親方・岩井譲りの「光のレイプ」には好みを超えてただ圧倒される。ていうか大野麻那・・・!!
(01.10)
学生時代から商売を経て常に思う事だが、物作りをする上で絶対避けなければならない最悪の判断とは、観客が自分と同レヴェルの理解力のなさだ、と思い込む事である。
理解させるためだけの創作こそが最も醜いと知れ。プロなんでしょ?
(01.13)
いざゆかん 雪見にころぶ 処まで 芭蕉
(01.17)
りさタソ芥川賞*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)ηキター゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*
しかし、それにしても・・・。デビュー二作で文藝賞と芥川賞ってね・・・。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~ass/game/portpia/port_hayatoki.html
↑これ見てじゃないけど、冒頭から「なにかとれ・ふく」コマンド三連続でヤスがまんまと脱いじゃった、つまんねー。みたくりさタソ萎え気味なのに1500ポートピア。↓
http://news.fs.biglobe.ne.jp/social/tm040116-889840.html
という訳で二年越しの「綿矢先生にアニメ脚本を書かせちゃる計画」いよいよ正念場です。このサイトを読んだ綿矢先生は今すぐ御連絡下さい。
(01.18)
勿論「ちょっと待って、神様」は欠かさず観ている訳だが、泉ピン子すらモノともしない宮崎御大の映像的親和力の驚異も去る事ながら、脚本の浅野「ミセス シンデレラ」妙子がやはり素晴らしい。ファンタジックでケレン味たっぷりの設定を安易にコメディや少女マンガの色に塗り固めない自然で流麗なドラマトゥルギーは流石の魔術。別に気の利いた名言金言が並んでいる訳ではなく、寧ろ台詞の単語ひとつひとつをパズルのピースのような、あるいは(奏された)音符のような「形のある」記号=エクリチュール(とするとデリダに反するのか?)として全体に構成・配分して「言葉のコラージュ」を造形する、脚本としては当たり前の技術の筈なのだが、全く同じ事をしていてどうしてこうも違うのか?これも総てアニメが悪いのか?
(01.25)
・・・「恋風」アニメ化です・・・。
幾つもの愛する作品が眼の前で輪姦され、廃人同様に捨てられる様を私は見て来ました。これを読んでる皆さんにも経験がお有りでしょう。そして、・・・今度も私は何も出来ません。
自らの無力さに慟哭する前に、多くの「恋風」ファンには関係者に代わり、御詫び申し上げます。すいません。アニメ如きに何も期待しないで下さい。
本当に申し訳ない。
(01.28)
二本。
山本嘉次郎「馬」。前半は田舎の母屋しか映らず密室劇かよ!?とも思ったが次第に元祖「北の国から」を思わせる濃厚なドラマが展開。ぶちぶちに編集したB班監督・黒澤明(!)に「ここはもののあわれじゃないかね?」とアドヴァイスした「仔馬を探す親馬」のシーンの叙情は確かに素晴らしいが、些か全般ディゾルヴに頼り過ぎかな?という面も。しかし夜の母屋の陰影、後半ロケベースに切り替えた時の大自然の温かみ、そしてデコちゃんの愛らしさ!のどかさと落ち着きの中で丹念に物語って行くヤマカジ先生の本領発揮か。デコちゃんは確かに大女優だよ、これは。
小津安二郎「風の中の牝鶏」。こ、これは正に「東京暮色」に並ぶ小津のダークサイド!照明から何からもういつものオヅとは打って変わった陰鬱さが支配する。やはり階段がカメラの前に臆面もなく立ち現れている様はあまりに不気味で、案の定田中絹代(見事!)がそこから真っ逆様に落ちる(これはスタントだけど・・・)シーンはそれまでの階段ショットと同ポのフィックスなのがかえって戦慄を呼び起こす(・・・だからと言って某前総長みたく深作の「蒲田行進曲」のあの階段をボロクソに言う道理もないと思うのだが)。あとはひたすらOZZマジックに酔いしれるのみ。ただラストの佐野周二演じる夫の対応はなんかいやらしかったなぁ。
ここ数日色んな人と話して、「信じる」という行為を改めて省察せざるを得なかった。何を以ってして人は「信じる」という行為を自己了解するのか?
信じなければ。21世紀は「信じる」意志の世紀とあらねばならない。
(01.31-1)
ここ数日のアクセス数が異常に高いぞ!
誰や!?誰に見張られてるんや!?
最近疲れと脱力感で書くべき事もありません・・・。
(01.31-2)
月変えるの面倒なのでここで。
http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2004_01/g2004013113.html
久々に血沸き肉踊る奇蹟のビッグニュース。DVD化切に切に希望。
今月の一枚
2004年02月
(02.06)
瀬戸際はいつも同時多発だ。
必ず勝たねば。
という訳でZONE「卒業」を他のアイドルソングと違って憑かれたようにまた聴き込んでしまったのは町田の楽曲のあられもない直截性が実は21世紀を体現する四人の少女の行くあてすらない一心不乱の疾走の運動性と直結していて、だからこそつんのめったこの世界に不思議なヴォリュームで響き亘るのであり、という事はこれはひょっとすると同じくあられもない説話論的構造と「ただ読むしかない長い」説明語句とを併せ持った片山恭一の「世界の中心で、愛をさけぶ」と共振し合って現代に広がるシミュラークル空間をまざまざと浮かび上がらせるのではないか、と一瞬思ったりもしたが、後者に関しては「泣きながら」も「一気に読みました」も出来なかった私にはまだまだ謎の多い空間である事もまた確かである。どうでもいいけど。
(02.08)
さっき「EZ!TV」で「ジャパニメーション(いい加減この名称止めようよ・・・せめてJ−アニメとか・・・)」特集を偶然観て余りに頭に来たのでここに書く。
「日本が誇るソフト産業の振興を!現場の権利の保護を!」なんていけしゃあしゃあとのたまうんだから、
お た く は ど う さ れ る ん で す か ? C X さ ん 。
そう言えばD地さんはちゃんとテレビ局批判やったのだろうか?
(02.15)
えらいこっちゃー。
ねぇさん大変です!
また長期戦の悪寒・・・。体力がかなり心配・・・。
まぁこんな私でも見続けて下さる方々がいらっしゃるので、少しでも皆さんを満足させる仕事をするだけです。・・・って珍しく謙虚!さぶ!
本当は先日観た「10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス」も書いておきたいんだけど・・・。後日。
(02.20)
http://www.geneon-ent.co.jp/rondorobe/anime/koikaze/
よりによって・・・_| ̄|○
しょうがない。ちっぽけな自分が命張っても守れるものなんか砂粒程だ。解っていたじゃないか。
守る「べき」ものは余りに膨大なのに。
(02.25)
ふと気が付くと、ここ一週間くらいずっと夜の京阪特急の中でビール片手に角川スニーカーやら富士見ファンタジアやらを読み耽る自分がいる訳で。
・・・・・・。
神は見ていてくれるさ。頑張ろう・・・。
(02.29)
という訳で今月は4冊も本を読んだよママン!
まぁラノベですがね・・・。
富野喜幸「機動戦士ガンダムT」を観てみる(劇場版は未観)。流石に作画が観ていて辛く、名場面集みたいな繋ぎ方が忙しない。同じ作画レヴェルでも「ザンボット3」はぐいぐい引き込まれるのだが。
それでも「再会,母よ…」のシークェンスはやはり感動的だ。
今月の一枚
2004年03月
(03.08)
本当はもっともっと語っておきたかったが、悔しい。短めに。
犬童一心「ジョゼと虎と魚たち」 @心斎橋シネマ・ドゥ。
期待もしていたが、それ以上に素晴らしい。やはりCM出身だけあって人間のクローズ・アップを美しく撮るのは造作もなさげのようだが、市川準や岩井俊二と違って犬童はひたすらカメラを構えて待つ。じっと被写体とカメラがシンクロナイズするのを待つ、言わば行定勲タイプであり、しかも行定ほど湿気を感じさせない。
いや、それにしても、まず妻夫木だ。そしてちーちゃんだ!もうこれに尽きる。本作と似た感触でピンと来たのが成瀬巳喜男だ。となると妻夫木は正に現代の森雅之であり、そしてちーちゃんはデコちゃんか!!なんとまぁようでけてある。
ちーちゃんに大阪弁を喋らせたら世界最強、というのは映画界の常識だが、今回はまたドキモを抜かれた。低く唸るような汚い大阪弁。ヒッピーな衣装と相俟って独特のファンタジックな世界を醸し出す。それが後半、妻夫木にぐっとしがみつきいかんといて!と泣きじゃくる、まるで「浮雲」そのまんまの(多分参考にはしたんだろうが)壮絶な演技、そのあとの濃厚なキスから漏れた世界の深遠に届くかのような深い溜息、そして皆さん御待ちかね、全国1000万人のちーちゃんファンが血の涙を流しながら自らの眼を潰した初濡場(パンフによれば本人の志願だったとか!)での美しい所作。そこでこの作品が、美醜飛び越えた恋愛の最もありていの様を曝け出したものだと気付く、なんて書き始めたらまぁなんて分不相応な!と自らサムくなったのでこれ以上は書かないが、それにしてもその後水族館でちーちゃんの我侭(というか変人ぶり)に表情を豹変させる妻夫木の繊細過ぎる演技と自らをシンクロさせてしまった哀れな男子なら絶対解るだろう。いやまぁそれはこの際どうでも良い、つまり言いたいのはちーちゃんはデコちゃんだ!!と。まぁそんな所で。って結局長っ!
大林宣彦「あの、夏の日−とんでろ じいちゃん−」。このヒトの「映画はおもちゃ箱」的な発想はどうも好きになれない。「カレカノ」みたいなテクニックのデパートにしているのはそれでも良いがそれで何故ノスタルジィをこれでもかこれでもかと語るのか。「ジョゼ」ではないが被写体の情感に寄り添うような優しさはないものかと思っているいる内にこれも終わった。まぁ全編比較的ドライに仕上げていたので悪くはなかったが。それに宮崎御大目当てで観たんだし。
犬童一心「金髪の草原」。伊勢谷友介のどうしようもないロレロレの芝居は役作りなのか?ちーちゃんは堂に入ったものでしかしながら手ぶれ中心の犬童のカメラは岩井や行定ほど決まってはおらず技術のみを感じさせてしまう。ラストの処理ももうちょっと何とかならなかったか。
やっぱり邦画はいい。
(03.15)
脳のキャパが大してある訳でもないのにあれやこれやとジャンルを問わず詰め込み過ぎてもう未だかつてないほどいっぱいいっぱいで知恵熱が出そうなのだが、気が付けばまたレンタルビデオ二本期限日にも関わらず手すら付けていない有様・・・。
今はくじけたらアカン・・・。
岩井俊二「四月物語」。シネスコの画面に違和感を感じまるで「東京オリンピック」な大学入学式の風情は「また市川かよ!!」と思ったりもしたが、松たか子の反則とも言える表情変化に参る。カレーをひとり黙々と食べる長回し(しかもゆっくりT.B!)のカットには涙を堪え切れず。ただ相変わらずベタベタな撮り方も散見されてどうしてこう洗練し切らないかなぁこのヒトは、いやしかしクライマックス雨中の田辺誠一とのやりとりはまるで小津の「浮草」の向こうを張るかのような力技で圧倒。起承転結の起で終わらせた脚本のもどかしさも素晴らしい。「花アリ」観に行かなくっちゃ!
(03.28)
・・・この事態はもう妄想始まって以来のビッグウェーヴだといえよう。
負けない。私だけの敗北ではないから。
今月の一枚
2004年04月
(04.03)
いかりや追悼の「踊るTHE MOVIE1」観る。流石に無駄なカットの多さが気になったが、胸を張って映画を撮っている人々のその勢いやよし。志の輝き。
これを観て悔し泣きしたあの頃が懐かしい・・・。
ついでだからとってもステキな「踊る(2だが)」評を紹介。
昔ウパー氏を通じて山本弘に「そいつもこいつもとっ捕まえては『トンデモだ!!』と嘲り笑う自分が余程トンデモだと思ったことはありませんか?」と質問したのを思い出した。何もかもが懐かしい・・・。
(04.08)
「撮る」とは何にもまして「見る」ことにほかならず、間違っても「見せる」ことではない。ましてや、「聞かせる」ことでもないはずです。ところが、「見せる」こと、「聞かせる」ことで事態を説明しようとするテレビは、あの醜いマイクをあえて隠そうともしません。その意味で、テレビはつつしみのないメディアであり、そのことを恥じる気配もないし、またそれで成立するものなのかもしれません。本来つつしみを欠いているのが大衆消費社会なのだから、それはそれで仕方のないことなのでしょう。にもかかわらず、あるいは、であるが故に、撮るたびに「見る」ことが倫理として形成される映画の役割がかつてなく求められているはずだと思えてなりません。21世紀においてもなお映画が必要とされているのは、そのためにほかならないからです。
www.mube.jp/pages/milkhall_8.html。悔しいが首肯せずにはいられない。
<おいデートで「ホルス」なんか観るかよ!!>
岩井俊二「花とアリス」@新宿文化シネマ4。
出張途中に油売ってるのが会社にバレて謝ろうが、今映画を捻じ込むには無理をしなければ。一本でも観ておかないと・・・。
という訳で隣の箱でかかっていた「イノセンス」なんか眼もくれず飛び込んだ本作、体調も余り良くなかったが、のめり込めなかった。やはりショートフィルム版の方が出来が良いと確信。ていうか劇場で岩井観るの初めてやん!
ショート版の画を残して継ぎ接ぎの画を足すだけで(と言っても撮り直したものも多かっただろうが)パラレルなストーリーを作ってしまう曲技には驚いたが、まず何より、冒頭の駅のシークェンスから、早い。最初ショート版のダイジェストでも流すのか思ったくらい早い。ショート版では考えられない性急なカッティングで冒頭から本作のちぐはぐなリズム感を決定してしまい、致命傷となった。あれだけ少女の体内から(それは正に二人からでるあの白い吐息のように!)キラキラと生々しいアトモスフェアを搾り出し、フィルムに定着させていた岩井がこんな初歩的なミスをするというのは、やはり御前絶対何も考えずに撮ってるだろう?おい白状しろとでも小一時間程問い詰めたくなるのだが、いずれにせよ彼のような「理屈よりフィーリング」派は被写体との呼吸がワンテンポでも狂うと辛い。それに加えて今回「記憶喪失」をベースにしたサスペンス的要素を取り入れたのがよせばいいのにまた裏目。キャラがストーリーに引きずられっぱなしという(岩井では)最悪のパターンで更にリズムはガタガタ。前半はそんな感じでもうショート版をおさらいするくらいしか手があるまいと諦めて観ていたのだが、アリスが父と会う辺りで漸く、ああ、ショート版が花メインだから映画はアリスメインなんだなと気付き、だったらアリスさえ追っていれば何とかなると開き直る。実際父と別れる際「ウォアイニー・・・」と呟くアリスの表情は正直だれ気味だった私を一喝するかのような厳しさを湛えていた。蒼井優の面目躍如。
後半はひたすらにその蒼井=アリスがたったひとりで孤独にコンティニュイティを引っ張り続ける。ショート版では鈴木杏=花の圧倒的なブサイクさに心底参ってしまった訳だが、本作では改めて「リリイ・シュシュ」から続く蒼井の鋭く固い体臭こそが岩井のスタイリッシュでいい加減で暴力的なまでに淫靡な映像に程よく染み込むのだと思い知らされる。やたら出て来るカメオ出演の連中は確かに本作ならではの遊び心である事は解るが、折角アリスが懸命に送り込んでいる冷たく透き通る青白い空気感を悉く台無しにしてねっとりヌルい画面に塗り替えてはそそくさと去ってしまってその都度観ていて萎える。しかしアリスは負けない。崩れかけのコンティニュイティを支えると同時に画面そのものの温度をなるたけヌルく上げないよう奔走するさまは余りにけなげで、感動的で、まるで岩井はこの蒼井の奮闘を引き出すためにこのような茶番を仕組んだのではあるまいか?と勘繰ってしまう程だ。
しかし岩井の不調は最後までどうにもならない。クライマックスを飾るアリスのバレエシーンを、その前の花の懺悔シーンと全く同じリズムで、アリス−広末−大沢のカットバックにしてしまったのは余りに安易で杜撰。画自体は奇跡的とも言える輝きを放っているのにどうしてここで粘れない!?やっぱり御前は自分のテクに酔いしれているだけのオナニストなのか!?完全に機能停止していた鈴木=花、郭智博=宮本も含め、キャストの頑張りがなかなか報われないフィルムでありました。岩井はやはりショートのヒトなのかなぁと。
・・・それはそうと、タイトルクレジットどこにあったっけ?それともない?思い出せないナァー。
(04.14)
絶対何処かで死ぬっつーか何かフェータルな大失敗とか大事故とかをすると確信していたこの一週間でしたが、韓国で来たるべき更なる不幸を感じたにせよまぁ焼肉が劇的に旨かったので総て良しとしようではないかい。
戦いはまだまだこれからです。商売ですから。
(04.15)
ネタばかりにしているのも申し訳ないので。
押井守「イノセンス」@三番街シネマ。
ここでいきなり次の文を槍玉に。
http://www.ne.jp/asahi/shusei/home/special180.htm
もっとも哀しむべき誤解は、この映画が単純なストーリーを無理に小難しく語ろうとして失敗している、というものだ。
正にその通り。この映画は、単純なストーリーを「普通に簡単に語って」いるだけであり、それを小難しいだ失敗だというのはまるで筋違いなのである。
まぁ端的に言ってしまうが、古い映画だ。古いと言うのは語弊がありそうだから、「保守的」とでも書くべきか。とにかく21世紀になってむさぼる映画だとも思えないし、これを観てアニメの21世紀が語れる映画だとも思えない。
結局惜しい先生は「ブレードランナー」とキューブリックとタルコフスキーで事足りるのだと思っていたが、冒頭から余りにその通りなので一気に萎える。IGの3DCG部門の圧倒的威力は本作を実写映画ではなく特撮映画に接近させる。その質感はまるで完成度抜群のフィギュアであり、「その世界に足を踏み入れたかのような」錯覚にわれわれを誘うような意図は微塵も感じられず(あの頑ななパンフォーカス!)、そういう意味では特撮映画ですらない。かと思うと3Dの渦の中に不意に顕れる2D作画。その圧倒的な違和感に誰もが戸惑うだろう。まるで2D作画の限界を実証せんかのように、色指定からして意図的としか思えないほどに3DBGと馴染まない。動きがまた固く、シートワークは御世辞にも現代的ではない。時には完璧なデッサン力のみに総てを託した3Dモデルのような完璧に単調な動きによって不意に3Dとの融和が成されてしまうという皮肉。つまりズバリ所詮2Dは3Dに敵う筈もなく3Dは実物に敵う訳がないという絶望的なアフォリズムなのか?メカが3Dで人間(に近い)キャラが2Dで描かれてしまうという、現代ではスタンダードなアニメ技法も、押井の手にかかれば痛快なアイロニーとなる。あるいはギャグですらあるのか?そこまで皺や影を無駄にゴテゴテつけて立体感や「リアリティ(なのかねぇ?)」に拘るのなら某「アップルシード」みたくキャラも3Dで考えて当然なのだから、もう露悪的に2D作画の末路を「晒している」としか思えない。数多くの天才アニメーター達は押井にとってはただの「噛ませ犬」に過ぎなかったというのか?
にもかかわらず演出は見事なほど「アニメ屋」の仕事。5カットに1カットは広角パースを入れないと気が済まない、我慢の利かないコンティニュイティ。グラフィックに逃げて倫理観の欠落したフレーミング・カメラワーク。「持たないから切って」いるとしか思えない凡庸なカッティング。暗いシーンでのアクションは照明とカメラ割りとの連携が全く取れておらずただ稚拙。そんなこんなで開始30分で早くも席を立とうと決意する。これ以上観ても一緒や。無駄や。最初から話を追う気もなかったし。
いやしかしそこで、待て待てこれは総て、作品全体に漂う押井のペシミズムによって意図されたものだと。アニメの「守旧性」を余すところなく白日に晒し、批判するためのプロセスなのだと、ていうか今日は腐す事なくなるたけ好意的に観ようと決めたのだから最後までちゃんと観よう!と思い直し残り時間を気にしたりケータイのメールチェックをしたりしながら一生懸命観続けているとやがて中盤、択捉に辿り着いてその街並、祝祭風景の天文学的な物量作戦により画面が一気に生気付く(結局物量かよ!とは思ったが・・・)。このシーンだけでも観に来て損はなかったと思えるくらいの豪快かつ繊細な絵作りで十分なスペクタクルを形成する。
と思ったらまたその後クドクドと人形だ人間だとボヤき始めたのでまぁそれに付き合ってロクに台詞も聴かずにじーっと堪えていると遂に素子降臨。押井としては珍しくウェットに傾いて行ったので驚いたがこのシーンは感動的だ。裸の人形群の不気味にもエロティックな光景に散々コケにされた?2D作画陣によるアニメーション史上最高度のアクション、そして最早「情報」でしかあり得ない筈の素子とバドーのかりそめの再会。先のキムの説明(そういや「パト2」も竹中直人やないか・・・)なんか丸ごと忘れてしまってもここだけで本作のテーマまで接近出来るのだからやはり腐っても押井。「メトロポリス」と一緒にするな!という彼の声が聞こえて来そうだ。
・・・で、やっとおしまい。
「ビューティフル・ドリーマー」から連綿と続く彼の「現実−虚構」二元論は結局、実写で成功しなかった彼のコンプレックスとルサンチマンの産物に他ならない筈だと思っては来たが、それに抗い一時代を築いた彼の袋小路が完全に明るみとなったドキュメントとして本作は残る事になるだろう。3DCGのここまでの進化に対し何故2D作画を捨て切れないのか(あるいは何故ちょくちょく実写映画に走ったりするのか)?進化した3DCGを用いて接近すべきは「現実」か?「映画」か?それとも?いやそれ以上に、その技術を背景に「現実」やあるいは「映画」を探し当てる「眼」を彼が持ち得るのか?
いや・・・寧ろ、彼にとって作り続ける事は諦め続ける事、とも言えるのかも知れない。結局誰も、彼の深い哀しみを感じ取る事なく、不毛な毀誉褒貶の中に本作もまた沈み行くのかも知れない。それこそがアニメそのものの運命だと、はたまた人間にとっての知覚、認識そのものの真実だ、あるいは運命だと彼は言いたいのかも知れない。溜息混じりに、そう言い続けているのかも知れない。
無論、彼がそこまで考えているとは俄に信じ難いのだが。
あ、それとバゼットハウンドのガブちゃんは最高だった!「ガブを3Dで描いてたまるか!」という押井の愛情と執念がびしびし伝わって来た。映像とはやはり愛の産物・・・。
(04.28)
暇なのか多忙なのか解らん毎日。感覚が麻痺して来たか?
短めに三本。
行定勲「きょうのできごと」@心斎橋パラダイス。岩井譲りの「光のハッタリ」が随分消え、いよいよオリジナルな行定が見えて来たか!しかし問題は照明。実際の京都出町柳付近の一戸建て下宿を見続けた身としては、明る過ぎるのだ。西山大暴れのショットだけじゃなくて長回しももっと欲しかった。関西人の心をくすぐるユーモアと関西弁の馴染ませは見事で、夜明け前のドライブの気だるい感じはねっとり生々しい。
石井聰亙 「逆噴射家族」。これもまだでした。石井の初期はやはりビギナーズ・ラックなのでは?と思うくらいやる事なす事ツボにはまりまくって気持ち良い(まぁ田村正毅の素晴らしいカメラに負う所大だろうが)。最後変にまとめてしまったのがこの監督の精神的限界か。工藤夕貴に最大級の賛辞を。
水島努「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕日のカスカベボーイズ」@ナビオTOHOプレックス。
・・・直前にM島さんと色々喋ってしまったので何だかバツが悪いが、そんな事気にするタチでもないので言ってしまうと、手抜きが目立つ。処理が荒い(特にシート・中割りの点の打ち方)。やはり忙し過ぎたか?よく問題視されている中盤の長々しいマッタリ感は明らかに演出上の失敗。西部劇の時空を描くにまず地平線を意識しなければならないのは常識で、M島さんなら容易に気付くだろうに!終盤のリズムでやっとM島節炸裂だが、彼ならもっともっとギミックが仕込めた筈。「映画を終わらせるために映画が頑張る映画」というとっておきのニュー・シネマ的なモティーフが生かし切れなかった感強し。つばきの描写には惜しみない拍手(某「FINAL」4巻とエール交換?なんて何様のつもりだ俺w)。動画がやけに酷かったのだが、ひょっとして・・・。
(04.30)
更に三本。
行定勲「えんがわのいぬ」。いろいろやってはいるがどうもしまりのない画だなぁ、ワークショップで出来た作品だからかなぁ、VTRだからかなぁとか考えつつ、でもじじいと息子のかりそめの会話で手ぶれカメラはないだろとか思ってはいたがラストで泣けた。反則に近いが。
行定勲「恋した。〜ブルームーン」。こちらは比較的コンテのノリが良かった。「持たないから切って」いるにしか見えない切り返しは相変わらずだか、御家芸の逆光シルエットには充分の艶。そして何と言っても大野麻耶。
成瀬巳喜男「おかあさん」。教育番組のようなナレーションに淡々とした家庭ドラマが表面では進んでいるのだが、やはり成瀬一流の省略やフェイント(あの「終」にはビビッたよマジで!)、深みと翳りの強い縦構図等一筋縄では行かない(まぁ主役が田中絹代ではカラッとは行くまいが・・・)。そして香川京子の壮絶な愛らしさ!
国民の身体・生命を護るのが国家の最低限の使命なのだし、ここで国家が「自己責任」だなんだと抜かすのはまぁ「大人げない」としか言いようがないのだが、その国家が「行くな」と釘を刺しているにも拘わらずいけしゃあしゃあとと戦場に行って「俺等の行動何が悪い!国家は国民護って当然!」と平気でのたまえる方々もまぁ、どの面下げて言える科白なのか?なら私だって外野の分際で抜け抜けと言ってしまうが、貴様等互いに「逆のベクトル」で語るのが人としての礼節なんじゃないの?
しかも「自衛隊は話のネタにしか使えない」そうです。腹の底から「平和ボケ」を感じさせる一件でした。何かの「陰謀」じゃないならねw。
今月の一枚
2004年05月
(05.12)
やたら余裕がないのは何故だ!?
一気に五本。
ルイス・ブニュエル「自由の幻想」。なんだかやたら笑えないギャグを「笑ったら殺す!!」と脅迫されながら観ているようで不思議な緊張感を味わえて悪くない。しかしオチをQTUするのはどうかと・・・。
溝口健二「新・平家物語」。宮川一夫曰く「溝口には平安は解らなかった」らしいが、後述「地獄門」と比べるとかなり渋めに抑えた画面の温度は絶えず高く、いつもの神がかり的な粘りのクレーンショットはないにせよ娯楽としては申し分ないテンポで描き切る。市川雷蔵が僧兵に向かって矢を放つあのカッコ良さ!
今敏「東京ゴッドファーザーズ」。このちゅーとはんぱなカット割り前にも観たなぁ、と思ってたらあ、「ゲロッパ!」!今敏にこれ以上は無理なのか?リアルと見せかけて中に何気に凄い絵を入れてくる現代的なデフォルメには感嘆。流石に上手い。
衣笠貞之助「地獄門」。カンヌが喜びそうな極彩の大映カラー!それでもケバケバしくならないのは館の壁、柱の茶の部分をグッと落として衣装の豪華な色を乗せるカンバスのような働きをしているからだろう。それにしても色彩のフルコースだ。風に揺らぐ壁代の淫靡な半透明感、真っ青な夜の幻想風景、画面手前に絶えず置かれる影の混じりけのない艶、そして何より京マチ子!
アンドレイ・タルコフスキー「ノスタルジア」。やはり煩悩が噴き出して来るかのような水とその先の厳然と凍てつく雪。「ストーカー」の続編とも言えるがこちらはさながら「ゾーン」で生きる事を決意した者の嘆きか。ラストの蝋燭の炎運びは執念の長回しで、単体で観ても狂おしいまでの映画への「信仰告白」を聞き取れて感動的だ。案の定全篇眠かったけど。
(05.13)
偶然観た「クイズ!ヘキサゴン」時代劇特集。やってみたら3問も間違えてかなりガッカリ。
・・・しかしこれから調べなきゃならんのは時代劇でも平安だ。全くとは言わんが、解らん・・・。
そのそろそろコンテに入らなければならない某作品に向け北野武「あの夏、いちばん静かな海」を再観して泣く。「素晴らしい」と声に出すのが恐ろしくてたまらなくなる程の傑作だ。
映像とは倫理だ。
(05.14)
映画とは、何よりもまず光線に対する感性の問題である。 「映画狂人、小津の余白に」
更に小津安二郎「東京物語」再観。憶えていた以上の翳りの深さ、人間描写の厳しいリアリズム、そして俯瞰ショットの多さに驚く。
葬式後の終盤説明調になるのがどうしても歯痒いが、やはり「あの夏」と並んで澄み切った人間性の彼岸を映し出す壮絶なドキュメントだ。
まぁ、この二本だな。
(05.18)
「キッズ・リターン」「Dolls」とひとり北野レトロスペクティヴを催した後(「Dolls」はやはり一時も眼が離せない異様な怪作だ!)観たのはこれ。
行定勲「世界の中心で、愛をさけぶ」@千日前スバル座。
あの「ひまわり」の行定だ。「GO」以来の露骨な雇われ仕事で不安もあったが、圧倒的な仕事振りだった。
凡庸である事がこれほど尊いと思った事のない、積極的に凡庸な作品である。
まずは長澤まさみに尽きる。
勿論彼女は東宝シンデレラ時代から知っているが、デビューから暫くの(ノ∀`)アチャーな演技にはこれでどう売って行くのだろうか?と心配さえしたものだ。それがこの急成長振り・・・。パンツが見える(実際は見えていないが)事も厭わない積極果敢な動きっぷり、フィルムとの相性を逐一チェックしていたとしか思えない計算された表情、それ以上のがむしゃらなテンション、まぁそれでも全体としてはあの「世界三大女優」宮崎御大には到底及ぶべくもないが、ウェディングドレスを着て朔太郎と写真に写るその一瞬で見せた、あの悟りとも母性とも言い難い言うなれば正に「タナトゥスの微笑」、あればかりは余りに神がかりで度肝を抜かれた。彼女にとっても一世一代のカードを切った筈で、その勇気と根性には最大級の賛辞を惜しまない。
そして行定。デビュー時の長澤並の(ノ∀`)アチャーな原作を前にして恐らく途方に暮れたであろう彼が、この長澤=アキに勝負の総てを賭け、時にアイドルビデオを思わせるくらいカメラで執拗に彼女を追いかけ回したのは絶対に正しい。勿論現代に説話論的基盤を置く一方高校時代を「過去」へと置きやる解り易い二極構造を組む事で原作に対し省察的とも批判的とも言えるアプローチを企てたのも間違いなく正しいし、その回想シークェンスとのカットバックが雑然としないようカセットテープというギミックを採用したのも文法的に正しいし、そのカットバックの中で起承転結の承から転へのスムーズな移行を果たす為に初夜を過ごした無人島でアキは発病しなければならなかったのは当然であり、その死によって生涯アキを背負い込まなければならなくなった朔太郎が手っ取り早くその呪縛から解放される為にはその想い出を共有する人が伴侶となるのが一番良い訳だ。つまりアキの父に安っぽくぶん殴られようが無闇に婚姻届を押し付けてみようが無駄に交通事故に遭ってみようが、行定は「職人監督」として充分過ぎる敏腕を振るったのであり、相性の問題を考えても「GO」以降の行定の充実振りを心行くまで味わえたという次第だ。これは積極的な意味で凡庸な作品なのである。勿論彼は「ひまわり」で「死」と「残された者」に対する捉えどころのなさを思考停止に陥るまで真摯に告白しているのであり、死や死者の想い出を無闇に共有したり拒絶したりする事の浅薄さは百も承知だろう。しかし、であるが故に、彼はいともあっけらかんとその「後片付け」をこなして死と悲劇の恣意的な操作、あるいは宗教臭すらする「祀り上げ」に一切加担する事なく、死を共有する事も大気にばら撒く事も厭わないいけしゃあしゃあな「フツーの人間」の力強さを描き切ったのだ。これを「悲劇の誕生」と言うならば、確かにそう言う事も出来なくはないだろう。主知主義的に悲劇を見据えた気になる事の何たる浅はかさか!とか。
・・・とは言え、朔太郎と律子が同じ記憶を共有していたと「気付かなかった」という設定は流石に要らなかったかと。もうこういうホンだと解って観てはいたけどね。
(05.21)
コンテ大苦戦。またもや「菊次郎の夏」とか「HANA−BI」とかを観て血路を見出そうとするが五里霧中の四面楚歌。
流石にもうだめぽ、とかここで言ってしまうとこれまで協力して下さった方々を裏切る事になるので言えない。粘れるだけ粘ってはみるが・・・。
空と。海と。少女と。思えばこれだけ揃って絵にならないのなら最早プロの仕事にはなってないではないか!
なんとかしろ馬鹿(馬の方が馬鹿らしい)!
(05.22)
http://www.production-ig.co.jp/columns/inoue/extra001-2.html
会社の後輩が見ていたので改めて見てみたが、ブレヒトの異化効果なんて何ともイカ臭いなーと思ったりもしたが、その前の時間後輩と話してたりして思ったが、押井守が「不可能」と決め付けた「偶然性」、映画でいうと「ドキュメンタリズム」とも言えようか、それを何とかアニメーション表現に持ち込めないか、そう言えばゲッこのコンテそれ無意識に意識して描いてるがな、そりゃ無理難題に決まってるがな!と思い至って仕事投げ出して帰る。
苦戦中です。
(05.27)
小津安二郎「お茶漬の味」。な、なんだこの不気味なドリーの連続は!薄暗い空の和室にゆっくりT.Uなんて怖いっての!小暮実千代はやはり悪女役が良い。「ネコマンマ」で仲違いした夫婦が「お茶漬」で和解するなんざ粋の極み。そのお茶漬の仕度をするシークェンスの照明には小津のモダニズムが。印象以上に小津の画って暗いんだよなぁ。
そう言えばこないだの「東京物語」はDVDで観直したのだがデジタルリマスタリングが総て仇!!あの美しい熱海の堤防シーンではマッハバンドが出まくるわ他不自然なフリーズが散見。小津生誕100年で何もしなかったってのよりかはそりゃマシだが松竹には猛省を希望したい。
(05.31)
篠原哲雄「深呼吸の必要」 @シネリーブル梅田。
またシネスコか!まるで「世界の中心」と示し合わせたかのようなこの判断は被写体への21世紀的な距離感を顕す事になるのか。あるいは水平線への拘りか。それにしてもこのサイズで片フレ切り返しをするもんだからまるで60年代!そう言えばちょっと長ダマにした時の被写界深度も。
しかしまぁ沖縄の離島で自己啓発のきび刈りツアーなんてまたまた(ノ∀`)アチャーな題材でところが堂々たる映画的空間を作り上げる篠原の自信。やはり「さとうきびだけ狙えば良い!」という思い切りの良さが大正解。平良家を飛び出した成宮寛貴と金子さやかの金子はともかく成宮の戻ってくるタイミングや動機など随分端折り気味でしかも段取り臭くなろうが長澤まさみのリスカの痕を見せるカットワークが随分解り易いものでそれまでのリズムから浮いてしまおうが大森南朋が事故ってその場に居合わせたメンバーのふたりがこんな事もあろうかと看護婦と医者であろうが一番無口な長澤がどんどん前向きになって無理矢理メンバーの結束を固めて行こうがよりによってラストでこれみよがしなハイスピード撮影を使ってしまおうが、やはり「世界の中心」と好一対の、職人監督として「正しい」選択を着実にこなしている故の画面の充実振りなのだ。それでいて自発性に目覚めた長澤が長袖の腕をまくってリスカ痕を気にしなくなる瞬間は引きで周りのリアクションも徹底して抑制し(でも香里奈は確か一瞬視線を向けた筈)、自分の倫理観をしたたかにアピールして見せる所も正に行定とがぶり四つの大健闘。北野の「座頭市」以来やたら作家性の強い監督による「プログラム・ピクチャー」の成功が目立ってきたが、この辺のバランス感覚の良さを塩田明彦も「黄泉がえり」の失敗から学んで欲しい。
・・・それにしてもこの「職人芸」がお役所仕事に堕して危うく迷走しそうな所を要所要所で完璧にしめ、画面の輝きを維持するという神業を二つの作品で同時に成し得てしまった長澤まさみという存在には改めて身震い。そう言えば「黄泉がえり」にもしっかり出ていた訳で、何人もの巨匠達に二股三股をかけて乗りこなし美しさを増して行った往年の大女優達に彼女も連なるのだろうか?宮崎御大贔屓している場合ではなくなった。楽しみでしょうがない。
今月の一枚
2004年06月
(06.04)
月跨いでコンテ大苦戦。あちこちから話訊いてあちこち覗いてみてあれこれ観てみるがもうアカン、出られへん。最悪。
プロずれした駄作にはさせないよう頑張ります。
・・・あとここ。あっちこっちに張られて迷惑かもしれないので直リンしない。
http://www.geocities.com/lovelyaichan2000/02.html#2/11
あ、これ!ユリイカ!!ていうか俺の生き別れの双子の兄弟!?
(06.13)
いよいよコンテアップ前日の深夜、スパートをかけている最中にいきなり驚天動地の腹痛に襲われトイレの中で死を覚悟する。スタジオで遺体となって見つかった某氏のニュースを聞いた直後だけにマジ怖かった。
不思議なもので少し仮眠をとったらそれまでより異様にスピードが上がり一気に終わらせる事が出来た。これは一体・・・。
ともあれ日曜も平日も三本抱えて飛び回らねば。勝たねば。
(06.14)
コンテを終わらせた直後に別作品の構成会議に出席。しょうがないとは言え準備が出来ず後悔・・・。
しっかりと作品の研究が出来ない作業はしたくないし気分が悪いのだけど・・・。まぁ監督でもないし良いのかも知れないけど。
(06.18)
成瀬巳喜男「山の音」。この忙しい中4、5回に分けて観たので記憶がすっかり断片化!しかしやはり原節子がハッと息を呑む瞬間の絶美の佇まいやら翳りが深く不気味ですらある縦構図、「行間を感じさせる」とでも言いたい台詞間の長い呼吸等成瀬節は健在。ただデコちゃんの時みたく女の業全開とまでは行かなかったのが不満と言えば不満か。
「ベルリン・天使の詩」「パリ・テキサス」とまたひとりヴェンダースレトロスペクティヴを敢行。大好きな「ベルリン」ではラストのソルベイグド・マルタンの長台詞が意外としっくり来たのと、「パリ・テキサス」は一回目に観た印象とは遥かに異なり感動が全身に染み渡ったのと。それでもラストのナスターシャとハリー・ディーン・スタントンのダイアローグはちと長い。あと全篇に散りばめられたあの「赤」はアグファ・カラーなんじゃないかとか。
呼吸するように映画を撮りたい。まだまだ無理だろうが。
(06.26)
もう何度も何度も何度も何度も何度も何度も言葉にならない失望を味わったが、今回ばかりは本当に罵詈雑言の言葉すら出ない。こんなの、妄想始めて以来初めてかも知れない。
進路を考える時なのだろうか。
エリック・ロメール「緑の光線」ローランド・エメリッヒ「デイ・アフター・トゥモロー」@ナビオTOHOプレックス、そして待望のクエンティン・タランティーノ「キル・ビル Vol.1」と語る作品は数あれど、もう、・・・やはり無駄でした。
何遍アニメに期待すれば気が済むのか。愚かしさの極み。自分が情けない。
今月の一枚
2004年07月
(07.16)
かつてないほど本当に難しい仕事が続く。今までが如何に手を抜いていたかの証となるのだろうが。
原作がどうだろうが、これがアニメの新しい礎石となるのだと予感し、またそう信じたい。
自分が「得意」であるかのようにのほほんとクソを垂れ流す者には脇目もくれてはならない。そんな余裕はない。
という訳でまた何回もに分けて観たヴェンダース『ことの次第』。ヴェンダースには「思索的」「感傷的」「挑戦的」の三つのキーワードが当て嵌まると最近考え出したのだが、やはり私は「感傷的」なヴェンダースを『ベルリン』『パリ・テキサス』『都会のアリス』に見るのが大好きなようで、例えば「思索的」な『まわり道』や「挑戦的」な『アメリカの友人』にはイマイチ乗れない(それでも『都会のアリス』はこの三つのヴェンダースが最もシンプルな形で統合した完璧な傑作だと思うのだが)。そして本作は予想通り「挑戦的」「思索的」なヴェンダース。眠気が先行してかなり辛かったが、まるでドイツ表現主義に先祖帰りしたかのような凄まじい画調で何の変哲もないリスボン郊外がフリッツ・ラングを思わせるSF的な異様な光景に変容してしまうさまは圧巻。ラストで銃の代わりに8ミリカメラを構えて最期を迎える主人公の監督のフィクションをあざ笑うかのような倒錯に震撼。
(07.20)
http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20040719i514.htm
今や引退、そして余生・・・という印象があったから、さほどのショックはなかったが、やはり喪失感は大きい。
先日のエイジ=大フィルのコンサートでも痛感したが、私にとってクラシックを同時代的に聴く機会は完全に失われたようだ。
カルロス、有難う。さよなら。
(07.29)
総てが徒労に思えるのは毎度の事だが、もう身体が附いて来ない。やはりこれを徒労と思わない魂の強靭さが勝つのであろうか?
宮崎駿は意外と自分の境遇に「これはこれでいいや」と思う男だった、とは大塚康生の弁。出典忘れた。
小津安二郎「彼岸花」。山本富士子の壮絶な美貌や有馬稲子の薫香に酔う。早すぎるテンポの台詞と台詞の間に走るカットの戦慄的な断面には改めて驚かされる。ギャグとしか思えんあの赤いヤカン。また前総長の受け売りかとバカにされるだろうが、田中絹代が夫の脱いだ衣類を放り出した瞬間のあの禍々しさは何だ!?これを「リアリティがない」一点張りで腐す坊やは世界で井筒和幸ひとりにして欲しい。彼なら笑って許す。
そう言えばこれをなんで観とかなかったんや!と思い磯村一路「がんばっていきまっしょい」再観。観直したらアラもちょいちょいは・・・と思ったがこれが全く色褪せない輝き。あの水面。走るボートを追いかけるブレのないカメラはまるでジョン・フォードの騎馬のような映画的興奮。ベタだなんだと言われようがあの瞬間ハイスピードを使わずして何を撮れというのだ!という決意の表れが痛いほど伝わって来るクライマックスの5人の少女のアップ。そう言えばそれまでのボートシーンは徹底してロング。映画を愛し、人を愛する事の最も倫理的な距離感を的確に示し得た傑作。・・・だから今の仕事にゃ参考にならんわ!ケッ。
今月の一枚
2004年08月
(08.10)
赴いた先々で悉くいたたまれなさと切なさと苛立ちばかり感じるこの数週間・・・。いや、自分の責任なのだ。自分の責任で何とか乗り切るべきなのだと自分に言い聞かせる。
今マイナス思考は余りに疲れる。
一歩でも前へ。
(08.11)
いよいよ情報解禁なのでヤケクソ気味に一発。
最近朝比奈=新日フィルの新しいブラームス全集ばかり聴いている。素晴らしい。非の打ち所がない。
ブラームスをしみじみ聴く年代になってきました・・・。
(08.12)
11日の妄想一行カット。
ビビッたのではなく、解禁記念なので・・・。
音楽が最も純粋に精神的な芸術だと感じる。ヘーゲルが詩なんかを芸術の最終形態に挙げたのは贔屓の引き倒しにしか思えない・・・というのはともかく。
誰もが音を聴いているようで、脳内で全く違うものに変換されている気がしてならない。視覚以上のものを感じる。
何が言いたいのかと言うと、やはりアニメくらいで丁度良かったのかなぁと。
まぁ明日存分に聴いて悩む事にしよう。
(08.16)
とにかく忙しいし観たい映画は悉く逃して続けているし、スキップしようかとも思ったが、「御得意様」の手前もあるしやはり観とくのも仕事かなぁと。
<なんで「イノセンス」のCMに宮崎あおいが出とんじゃぁぁぁ!!!!?惜しい死ね>
大友克洋「ハウス名作劇場 スチームボーイ」もとい「天空の城スチームボーイ」@三番街シネマ。
さて「ジャパニメーションの最期を見届けようプロジェクト」の第二段、しかし実は某「ハウル」よりも期待してた本作。しかし周りの評判通り、前半は全く駄目。
作品のタイトルロールとも言うべき蒸気の表現がありきたりなセルのぼかしなのには一気に帰る気マンマンとなる。時には分厚い霧のように(舞台イギリスだもんな!)、時には猛獣のように生々しく不気味な存在感を出すべき大事なマテリアルがこれでは・・・。マンチェスターのシーンはもう、「父は死んだ!」とロイドに煽られる件といいその後の追いかけっこといい、学生アニメのようなコンテの稚拙さに辟易。せめて大友には「ラピュタ」と「名探偵ホームズ」を795回くらい観てコンテ作業に入れなかったものかと言いたい。この際無駄なカットが多すぎるとか被写界深度も解ってないのにフォーカスワークをするなとかは言わない。「冒険活劇」を目指すのならこの分野でのわが国での唯一の成功者、宮崎駿への敬意に満ちた目配せをしなければならないのだが(事実、それをきちんとした庵野秀明の「ふしぎの海のナディア」以降、日本に冒険活劇の歴史は途絶えてしまったのだが)、宮崎と同時代的に仕事を続けて不幸にも「ジャパニメーション」と祀り上げられてしまった押井守同様、彼にそんな謙虚さはある筈もない。そりゃもう細かく観て行けばTVアニメレヴェルのT.Uだの短すぎて何の効果を上げたかったのかすら解らない多層マルチT.Bだの、主人公レイの身長に合わせたのだろうがやたらめったら大人がタイトに食い込んでくる窮屈なフレーミングだの、またかと思われようがやはり、この程度のコンテなら私が描き直して差し上げるのに、と思って残りの時間寝てしまおうかと思ったりもしたが、後半漸くシズマドライブ、もといスチームボーイを駆使して幻夜、じゃないエディが遂に「スチームの動く城」くどいスチーム城を発動させるあたりから圧倒的な物量作戦(これも「イノセンス」と一緒・・・)で盛り上げ、確かに興に乗った。しかしこれは寧ろ「I.G唯一の演出家」高木真司の功績に拠る所大なのではないだろうか。3DCGの圧倒的な情報量に耽溺する事なく重量感やパースペクティヴを的確に描出していったのは紛れもなく高木の眼で、場合によっては自分のコンテか、あるいは大友のコンテを描き直した所もあったのでは?と思えるくらいの出来だ。これで何とか、余りに単純なのに何故か複雑に見えてしまう不思議なストーリー構成を補う形となった。意外と楽しんで劇場を後にした訳であります。あと小西真奈美はなんであんなにアニメ声なんだとかまだ色々あるが、面倒だしもういいや。
恐らく今が最盛期でもう10年もすれば衰退に向かうであろう日本のアニメート技術を生かすだけの演出は誰もいないのか?高畑勲亡き?今もうまともな演出家は原恵一他数名しか残っていないのか?先日の「ワンピース」で限界を見せた細田守や「約束の場所」の最新の予告は何の冗談だ?と思える新海誠なども脳裏をかすめ、ますます不安になる今日この頃です。
それでも、私は頑張ります。ひとまずは。
(08.19)
そう言えば読んでいなかった「DVDぴあ」7月号をぺらぺら捲って、「アニメやくざ」鈴木敏夫のインタヴューを見て改めて悪寒が走った。そのちっぽけな頭脳でまた「踊る」を腐している訳だが、相手が「踊る」である事を抜きにしてもその発想の貧困さ、想像力の欠如に鼻をつまんでしまった。
70年代に無目的に反抗する事を覚え、80年代に先人の築いた高度成長を浴びるように享受し、そして90年代から現代に至るまで、責任ある立場に就いている筈なのに何ら手を打てない(打つ気もない)醜い「団塊(なるほど、だからこう呼んでいるのね)の世代」=「全共闘世代」の悪臭には最早我慢出来ない。
テロ根絶とか言って海外出ている暇があったらこいつら根絶した方が良いのでは?って総理がこの世代だから如何ともし難いか・・・。
(08.22)
なんとか観た二本。
ジョン・タートルトーブ「フェノミナン」。こちらもカッティングは性急なのに某「進ぬ!蒸気少年」に比べ繋がりがスムーズなのはやはりしっかりとした映像文法の下地があるからなのか。それにしてもやはりリズムが優先されて被写体の心情への誠実さが欠けるところもしばしばで、特にレイス=ジョージの愛の軌跡が充分描けていないから、目当ての散髪シーンは思ったほどエロスを感じさせない。前半持っても後半限界を見せた感じ。
マイケル・ムーア「華氏911」@梅田ガーデンシネマ。興奮。エンターテインメント精神を忘れない所まで言わば「アメリカ版ゴーマニズム宣言」。イラク侵攻声明を読み上げる直前のブッシュの薄ら笑いには上記のアニメやくざ同様背筋が凍った。世界共通なのか?この世代は早く死に絶えてくれないものか。無論こんな暴君を平気で独裁者にする史上最悪のテロ国家に同情する気分には今はなれない、とは前々から言っている通り。
誰をどう悪役に仕立てても構わない。その分最後まで責任を取るという姿勢が21世紀の人類に備わらないものなのだろうか?ブッシュに限らず。
(08.29)
創作とは出産のようなものだ。
どんな苦痛を伴っても、「どうしても」産みたいのだ。「新しい命」を欲するのだ。
「楽しい」なんて言ってる連中の心中がどうしても理解出来ない。
某所でここを酒の肴にして戴いているようですが・・・皆さんに楽しんで戴いて私も光栄の至りです。
数年前までは考えられなかったのに・・・。それだけ有名になってきたのか。不自由さが増して来たか?
では今後は心を入れ替えて謙虚さと慎ましさと職人魂を持って仕事にも妄想にも・・・臨んだら酒の肴にもならんやないか!
今後も御贔屓に!
(08.30-1)
もうどれだけデムパ扱いされようが言っておこう。俺が何言われても構わん。
今平均的なアニメーターの給与は絶望的に不足しているのであり、それは質を上げれば上げる(=手を抜かなければ抜かない)だけ下がるという悪循環だ。
そんな話ここ20年以上言われ続けて来た常識なのに、懲りもせず侮辱的な予算を組んで来ておきながら、
因みに私の担当話数ではありません。別にそう思われても良いけど。
(08.30-2)
また一行カット。そこまでサービスする必要もないかと。
知りたい人はメール下さい。こっそり御教えします。
では明日から暫く日本を出ます。「もう帰って来るな」のシュプレヒコールを期待しつつ。
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2004年09月
(09.11)
冒頭にテンプレ追加。どうも勘違いしている方が増えているようなので。とかいいつつこれも某サイトからのパクリなのだが・・・。
自分が公明正大だと言うつもりは毛頭ないが、いやはや、いろんな人がいるもんです・・・。それもまた世界の面白さであるのですが・・・。
という訳で香港からおめおめ戻って参りました。無事です。ありがとう。またよろしく。
さて帰っていきなり観た加藤彰『野球狂の詩』に昂奮。シネスコのトリミングだからフレームがぐちゃぐちゃでどこ撮っているのかさえ覚束ないが(昔の人はよくこんなのテレビで観てたな・・・)、それにも負けないほどカメラ自身がぶんぶん動き回る。この乱暴さこそ潔い。さりとて木ノ内みどり=水原勇気を捉えるとそのカメラは自分の荒立った吐息を押し殺すかのように震えと共に被写体に食らいつき、そのねっとりとした情感を搾り取るようにフィルムに収める。流石ロマンポルノ出。勇気のアンダースローは思ったより美しく、それをカッティングが見事に支える。御世辞にも出来が良いとは言い難いが何とも羨ましい気分にさせる一作。武藤がメッツを出て行く時の夜明けの不必要なくらいの色彩感!
(09.15)
呆気ない。
8人殺してこの騒ぎなら2、300人の子供を殺しまくったチェチェンのテロリストはどうなるんだとか、天国で謝って欲しいと祈るのは勝手だが彼に天国に逝かれてはそこで待つ8人の不安は如何ばかりのものだろうとか、そんなしょーもない不謹慎な事しか浮かんで来ない。
またひとりのラスコリーニコフが救われずに死んだ。
(09.19)
総ての人間に人生があるように、総ての作品にはドラマがある。
カール・th・ドライヤー『吸血鬼(ヴァンパイヤ)』。またかなりの回数に分けて観てしまったが、それでも淀長先生のストーリー解説は余りに出鱈目だと解ったぞ!それでも前もって「これはお話で見せる怖さやなくて眼で見る怖さ」と言ってるんだからやはり流石。ストーリーは画調同様に茫洋として夢うつつの中で吸血鬼伝説が呟かれる。しかしながら夜?のシーンのきつ過ぎるフォギーは疑問。有名な「影」を含めた翳りの表現もラングやグリフィス程しっくり来ない。ってまぁスクリーンで観たら変わるのかも知れないが・・・。それよりも吸血鬼に噛まれた少女の豹変する表情のまぁ凄い事!人間にカメラを向けたらこの人は強い。
(09.21)
はい、頼まれもしないのに書き続けた「妄想ノオト」遂に5周年です。そしてこの一年に紹介した作品は『10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス』除いて54本。微増。
どんだけ忙しくても100本は観なきゃんらんと思っているのに・・・。
これからもからかい半分で宜しく。