IT & Economics
池田信夫 blog
拙著
なぜ世界は不況に陥ったのか |
ハイエク 知識社会の自由主義 サポートページ |
過剰と破壊の経済学―「ムーアの法則」で何が変わるのか? |
ウェブは資本主義を超える |
電波利権(新潮新書) |
おすすめの本
Animal Spirits: How Human Psychology Drives the Economy | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
市場の変相:サブプライム後の「金融適者生存」の法則 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
致命的な思いあがり | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
The Venturesome Economy | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
世界経済危機 日本の罪と罰 |
Monetary Policy, Inflation, and the Business Cycle |
CIA秘録:その誕生から今日まで | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スティーブ・ジョブズの流儀 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
クラウド化する世界 |
生政治の誕生 ミシェル・フーコー講義集成 8 |
すべての経済はバブルに通じる |
Gridlock Economy |
Against Intellectual Monopoly |
なぜ、アメリカ経済は崩壊に向かうのか |
最底辺の10億人 最も貧しい国々のために本当になすべきことは何か? |
オークションの人間行動学 |
地球と一緒に頭も冷やせ! |
禁断の市場―フラクタルでみるリスクとリターン |
暴走する資本主義 |
市場リスク 暴落は必然か |
The Illusions of Entrepreneur ship |
現代の金融政策 |
資本主義と自由 |
さらば財務省!―官僚すべてを敵にした男の告白 |
テロと救済の原理主義 |
秘密の国 オフショア市場 |
まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか |
財投改革の経済学 |
中山信弘:著作権法 |
The Black Swan: The Impact of the Highly Improbable |
goo ブログ
gooID: | |
ブログの作成・編集 |
gooおすすめリンク
最新の記事
丸山眞男を読みなおす |
われわれはみんなケインジアンか |
バブルを生んだのはFRBではない |
労働者派遣法を凍結せよ |
オバマの財政政策はきかない |
診療報酬をごまかす権利 |
イノベーションの経済学 講義録 |
迂回献金と「逆国策捜査」 |
記者クラブの2ちゃんねらー |
クルーグマンの結論 |
プロフィール
検索
最新のコメント
ya/丸山眞男を読みなおす |
bokujinsei/丸山眞男を読みなおす |
IT土方/丸山眞男を読みなおす |
Taro/丸山眞男を読みなおす |
e-名無しさん/ハンコ・元号・縦書きをやめよう |
Y-BAT/バブルを生んだのはFRBではない |
まさき/丸山眞男を読みなおす |
臨床心理士/不可能な経済政策 |
loghouse/労働者派遣法を凍結せよ |
ひろ”ゆ”き/不可能な経済政策 |
最新のトラックバック
グリーンスパンの謎 (佐藤秀の徒然\{?。?}/ワカリマシェン) |
【コラム】准医師について (MultiPCMシアター&CHP「AMOKの庵」) |
丸山真男 (車輪を再発見する人のブログ) |
ケインジアンとは (英訳んドットコム) |
迂回献金を常態化さすことによって検察に政局を左右する権限を与えているのは政治家な件 (Atom III) |
【コラム】医師の絶対数が少ないわけではない (MultiPCMシアター&CHP「AMOKの庵」) |
レセプトの電子化で考える (つれづれコンサル) |
「レクサス問題」マトメ? (TYOスクラッチ) |
需要がない製造業からの勇気ある撤退を (肉団子閑居為不善) |
YouTube講義 『イノベーションの経済学』池田信夫(SBI大学院大学) (ZEROFACES) |
カテゴリ
IT(309) |
Economics(352) |
Media(180) |
Law/Politics(190) |
Culture/Science(79) |
Books(375) |
Misc(107) |
ブックマーク
カレンダー
2009年3月 | ||||||||
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | ||
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | ||
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | ||
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | ||
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | ||
29 | 30 | 31 | ||||||
|
過去の記事
URLをメールで送信する | |
(for PC & MOBILE) |
丸山眞男を読みなおす
丸山眞男は、おそらく戦後の思想家としてもっとも多く語られてきた人物だろう。彼の正式の著作は少ないが、その講義録や座談集まで数多く出版され、いまだに研究書が出される。そこには戦後の「進歩的知識人」の黄金時代へのあこがれもあるのかもしれない。本書もその一つで、これまでの多くの研究書とは違って、時事的な「夜店」の部分を捨象し、日本政治思想史という「本店」の部分に絞って丸山の思想の発展を跡づけたものだ。
しかし残念ながら、本店に絞ると、丸山の学問的な業績はかなり怪しげなものといわざるをえない。代表作である『日本政治思想史研究』も、彼の解釈は近代化論的な思い込みを荻生徂徠に読み込むもので、文献学的には疑問が多いとされている。むしろ丸山の本領はジャーナリスティックな「夜店」にあり、「本店」のほうはそれにアカデミックな飾りをつけたものと思ったほうがよい。
丸山が生涯を通じて闘ったのは、彼が晩年の論文「歴史意識の『古層』」で語った日本人の精神的原型だった。それは「つぎつぎに・なりゆく・いきほひ」と要約される、超越的な価値観をもたず、その場のなりゆきに流されやすいニヒリズムである。若いころの丸山は、こうした近代的主体の欠如が戦争になだれこむ原因だったと考え、受動的な「である」ことの倫理に主体的な「する」ことの倫理を対置した。
こうした信念の実践が安保闘争だったが、それは政治的には敗北に終わった。そのあと丸山は研究室にひきこもり、東大闘争で「戦後民主主義」の教祖として攻撃され、体調を崩して退官する。その後ほとんど著作を発表しなくなったが、1972年に出た「古層」論文では、一転して日本的ニヒリズムを評価するかのような表現で注目された。
もちろん西欧的な主体性というのもフィクションなので、どっちがすぐれているかはわからない。「古層」論文のあと、日本的ニヒリズムがポストモダンの先駆だという議論が、「日本的経営」礼賛とあいまって流行したこともある。しかし今となっては、それも思想的バブルにすぎなかった。近代的な主体性を理想化して日本を「遅れた」ものとする初期の丸山も一面的だが、日本が西欧近代に代わる思想を生み出したわけでもない。
明治以来100年以上たっても日本人の「古層」は変わらない、という晩年の丸山のあきらめにも似た宿命論は、おそらく正しい。進歩的知識人が、晩年にこうした「日本的なるもの」に回帰するのも近代日本の特徴だ。それが何の解決にもならなかったこともわかっているのだが・・・
しかし残念ながら、本店に絞ると、丸山の学問的な業績はかなり怪しげなものといわざるをえない。代表作である『日本政治思想史研究』も、彼の解釈は近代化論的な思い込みを荻生徂徠に読み込むもので、文献学的には疑問が多いとされている。むしろ丸山の本領はジャーナリスティックな「夜店」にあり、「本店」のほうはそれにアカデミックな飾りをつけたものと思ったほうがよい。
丸山が生涯を通じて闘ったのは、彼が晩年の論文「歴史意識の『古層』」で語った日本人の精神的原型だった。それは「つぎつぎに・なりゆく・いきほひ」と要約される、超越的な価値観をもたず、その場のなりゆきに流されやすいニヒリズムである。若いころの丸山は、こうした近代的主体の欠如が戦争になだれこむ原因だったと考え、受動的な「である」ことの倫理に主体的な「する」ことの倫理を対置した。
こうした信念の実践が安保闘争だったが、それは政治的には敗北に終わった。そのあと丸山は研究室にひきこもり、東大闘争で「戦後民主主義」の教祖として攻撃され、体調を崩して退官する。その後ほとんど著作を発表しなくなったが、1972年に出た「古層」論文では、一転して日本的ニヒリズムを評価するかのような表現で注目された。
「神は死んだ」とニーチェがくちばしってから一世紀たって、そこでの様相はどうやら右のような日本の情景にますます似て来ているように見える。もしかすると、われわれの歴史意識を特徴づける「変化の持続」は、その側面においても、現代日本を世界の最先進国に位置づける要因になっているのかもしれない。これは文化的決定論だという批判もあるが、丸山の指摘はウェブ上の言論によく当てはまる。匿名掲示板に見られるのは、主体性が欠如し、空気を読んで多数に同調する古い日本人である。彼らは表の世界では、民主主義とか市場経済などの主体性を原則にした制度を受け入れているが、本当はそういうシステムはきらいなのだ。何かあると「市場原理主義」を攻撃して政府の温情主義を求める人々にも、主体性への嫌悪がみられる。
もちろん西欧的な主体性というのもフィクションなので、どっちがすぐれているかはわからない。「古層」論文のあと、日本的ニヒリズムがポストモダンの先駆だという議論が、「日本的経営」礼賛とあいまって流行したこともある。しかし今となっては、それも思想的バブルにすぎなかった。近代的な主体性を理想化して日本を「遅れた」ものとする初期の丸山も一面的だが、日本が西欧近代に代わる思想を生み出したわけでもない。
明治以来100年以上たっても日本人の「古層」は変わらない、という晩年の丸山のあきらめにも似た宿命論は、おそらく正しい。進歩的知識人が、晩年にこうした「日本的なるもの」に回帰するのも近代日本の特徴だ。それが何の解決にもならなかったこともわかっているのだが・・・
前の記事へ | 次の記事へ |
いわゆる「近代」の誕生後、それが産業を形成発展させ、やがて20世紀になって集産主義的傾向が強まるにつれ、自由を国是とする米国でも「議会制民主主義」やそれを悪用するだけの「政府」によって、米国における市民的自由は大きく傷つけられてきました。明治の一時期を除けば、日本では、左右の思想傾向を問わず、恐るべき集団主義的イデオロギーが個人の精神と行動を抑圧し続けて今日に至っています。しかし、それはたかだか20世紀の一時期のことなのかもしれません。やはりリセットが必要でしょう。
まずは、大規模な法人税と所得税の減税です。それによって小さい政府を実現するべきです。
個別の事例を挙げて、全て政府に結びつける。
何の証明にもなっていません。
リバタリアンは手段です。
目的ではありません。
小泉も竹中もリバタリアンとして中途半端なのではないのです。
リバタリアンを目指していたわけではなく、今ある現象を解決するためにリバタリアン的手段を取ったのです。
Taroさんの書き込みからは、まったくリバタリアンのメリットが見えてきません。
思考停止になっていると思います。
切腹とか、忠臣蔵もそうでっせ(無能な経営者の経営責任をあだ討ちで返すなど--本当はもってのほか)、平家物語(単に同族会社の経営が有能な経営者の死去によりうまく行かなくなってアボンしただけでしょ)。
「盗人にも三分の理」はありません。
滅びに美学はありません。
それは残念。;-)
「個別の事例を挙げて、全て政府に結びつける」
別に映画やエンターテイメントの話を、政府に結ぶつけた覚えはないので、「個別の事例」というのは、それなりに選んでいるつもりなのですが。
だけど、逆でしょ? 我々の生活のあらゆる局面にしゃしゃり出てきては介入するのは、むしろ「政府」の方ではないのかしら。:-) 結び付けられるにはそれなりの理由がないとも言えないのです…。
「リバタリアンは手段です」
いいえ。思想です。論理的帰結です。(かつてのマルクス主義者の二の舞を繰り返さない、しかし今日の四商品生産社会にあって、唯一理想主義の生きながらえる余地のある、思想的な拠り所です)。
「小泉も竹中もリバタリアンとして中途半端なのではないのです」
そのとおり。国家主義者(statist)として完璧なのです。リバタリアンとしてではなく。彼らにとって、リバタリアニズムは手段でしかないのですから。
「今ある現象を解決するためにリバタリアン的手段を取ったのです」
だから、便宜主義なんですよ。リバタリアンを詐称しているに過ぎない。彼らは、国家主義者に過ぎないのですよ。
「まったくリバタリアンのメリットが見えてきません」
それは、政府の教育とイデオロギーとマスコミの情宣活動によって、完全に洗脳されているから、そう思うだけですよ。
まず、法人税と所得税を廃止すれば、投資や消費の機会が増えるでしょ?
それだけではない。「納税者」と「税金に寄生する連中」との階級差が消滅するでしょ?
つまり、市場経済において、すべての人々が等しく生産者であると同時に消費者になりうるわけですよ。
強権を用いて、個人の経済活動を諜報し、詮索、暴露して、強制的に「徴税」という名の強奪行為を行う権力機構が不必要になって、個人の自由が保障されるだけでなく、それらの馬鹿げた国家機構を維持する社会的なコストも不要になるでしょう?
客観的に存在しうる以上の富を先取りして、濫費しつつ、輪転機を回しては、将来の世代に莫大な負債を負わせるような、「政府」という名の愚かな権力機構を最小化することも可能になるでしょ?
「議会制民主主義」などという、多数決で少数者の自由を抹殺するための虚偽の制度を政府に濫用される危険もなくなるのです。
リバタリアニズムのメリットの一部を紹介しました。
便宜主義で満足していることのどこが、思考を十全に発揮しているのか、ぜひ教えていただきたいものです。
リバタリアニズムは単なる手段や、小泉某ら国家主義者が勝手に利用すべき空文句ではありません。それは、目的であり、目標であり、思想的な視点なのですよ。
もちろん、今日のリバタリアニズムは完璧ではない。しかし、その方向性は国家や政府や馬鹿げた似非「改革」に向かっているのではなく、自己所有権の認識(つまり私の体と意識は私だけが所有し他者から侵されないという認識)と私的財産権に基づいて、市民的自由の拡大を目指すわけです。
だから、その原則を妨害し、阻害するあらゆる要素、その最たるものが「政府」であり「国家」ですが、それらの廃止を目指すのです。当然、租税は暴力的な犯罪とみなされます。
だから、法人税も、所得税も大胆にカットするべきなのです。それは単なる「景気対策」などというものではない。根本的な要求なのです。
これだけ説明しても便宜主義者にはリバタリアニズムの根源的な意味が理解していただけないのでしょうか。
みずからを弱者を感じる者に、主体的=動的な生を作る自信は無い。できることは勝てば官軍(後出しジャンケンだけだ)。だが、これには優位性がある。
彼らは、弱者ゆえに(私もそうだが)、「市場」が嫌いだ。なぜなら「市場」では、弱者が弱者であることが暴露されるから。そして勝者は一握りの強者だけだからだ。(あるいはそう解釈するから)
彼らが政府の温情主義が好きなのは当然だ。弱者なのだから・・・
http://libertarian.up.seesaa.net/image/onlypath.pdf
日本人一般には主体性がないなどと、丸山真男のように、ことさら卑屈に卑下するものでもなく、どの時代のどの社会にも常に両者の対立があるというのが、ランドの考えでしょう。
しかしリアリストになるのは難しい。リアリストにはバランス感覚など必要だがそれだけでリアリストになれるわけではない。
僭越ではございますが、なぜ先生がリアリストになることが出来たのか。経歴は正直詳しくありませんが、想像するにNHKという半分腐った組織ながら、れっきとした大企業の組織で揉まれたことや、経済と実社会の関係に粘り強く理論を適用されたこと、通信や著作権など科学技術的バックボーンが必要な世界に首をつっこまれたこと、芸術や哲学・文学さらに音楽や映画等の娯楽方面でも多趣味であること、取材や交友などで多彩な分野の人々と交流を続けられたことなどなどが積み重なってこれだけの存在になられたのだと思います。
youtubeで拝見したのですが、議論をされる際の全然気取らない自由闊達で、まるで八百屋のおやじが商品を説明するかのような気さくでわかりやすい雰囲気はまさにリアリストの真髄を暗示していると思われます。
対照的に、今回遡上にあげられた丸山真男はどうかというと著作物から判断するに理想主義ではあるけれどリアリストでは全くないように思います。理想主義者の思想は空想的で観念的で鋭く先入観を植え付けるだけであるけれど、ときに宗教のように若者や大衆を虜にします。
主体性とか近代的自我を説明不要な金科玉条か基本法則のようにとらえ、1億人の日本人といえどもその文化的致命傷のため中流のフランス人・イギリス人にさえも劣るというような正気とはいえない発想が、戦争により歴史上かつてない未曾有の劣等感に落ち込んだ日本人に襲いかかりました。知的日本人にとって、学ぶことは日本人であることを恥じて猛省することというような滑稽な一大ブームをつくりました。生来の楽天的な気性や無意味な抽象的思考を嫌う傾向が日本人を救いまして、遂には映画やアニメ等の現実世界や企業による無数のプロダクト分野等では日本人の個性と創造が幸運にも花開きましたが、自称知識人が自虐的ナゾナゾをかけて多くの良心的日本人を苦しめたという戦後の歴史は振り返るたびに物悲しいものがあります。
つまらない逸話といえば逸話ですが、たとえば私は若いとき留学したイギリスで教授にこう問いかけました。「日本人はコーヒー飲みたいときも自分の好みをおさえて相手に合わせてお茶を飲むといったように、他人にあわせることを美徳として考える風習や文化があり、これが日本人の自意識や自立的精神の発達をむしばんだと言われるが、ヨーロッパ精神を熟知する立場からどう思いますか?」。するとコンピューターのアルゴリズム専門家であったが、その教授は「みんなが好きなことを主張したり実行できたらみんなハッピーだろうが、現実の世界ではそういうことは少ない。逆にいうとそれが通用する分野と通用しない分野を見分けることが大事だ。それがわからないうちは人のために自分の欲望やエゴをおさえることも大切。訓練することも大切。それを文化として組み込んでいるとすれば日本人はすぐれている。劣等感を感じる必要はないのではないか」と語ってくれた。今から思い出すと日本の馬鹿な知識人の繰り出す愚劣な妄想コンプレックスの破片によくぞつきあって自分もくそ真面目につまらない質問したものだと振り返るたびに思うのです。
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません