明治戊辰戦争134年
私は、会津人として、134年前の戊辰戦争にこだわっている。会津にとって悪夢の明治戊辰戦争はについて述べてみたい。
明治戊辰戦争における会津武士の勇戦ぶりは、会津土魂として江戸幕府体制に培われた武士道の神髄を表したものである。会津藩の藩祖でもある保科正之は皇室尊崇と徳川家への絶対髄順をもっていた。
京都守護職であった松平容保は孝明天皇から御宸翰を奉った。京都の治安を守ったからである。徳富蘇峰は昭和12年、会津における講演で、若し会津が居なかったならば、その時の京都は応仁の乱のようになったに違いないとしている。
明治戊辰戦争で会津は新政府「薩摩・長州」のスケープコードにされた。会津藩は戦争をのぞまなかった。新政府にたいして恭順の意を表したのに許されなかった。
私は長州を許すことができない。戊辰戦争では武士だけでなく婦女子までが西軍によって虐殺された。そして、斗南藩での出来事、明治、大正、昭和の初期まで賊軍として会津が痛め付けられたこと、明治戊辰後の藩閥政治が行われたことを忘れることはできない。
会津の多くの人は良識人となり、大人になって過去のあつれきを指摘するのはどうかという意見が多くなっているが、私はあくまで明治戊辰戦争を批判していきたい。
この写真は、現在の
会津の殿様松平保定
さまです。
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