校長室からの風

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校長室からの風

平成21年02月23日

「異文化共生」という甘い誘惑

  

 甘い誘惑…と言うのは、それに乗ってはいけません!という時に使う常套句です。したがって、私は「異文化共生」という言葉に懐疑的だということがお分かり頂けると思います。いえ、もっとはっきり言えば、偽善的だとすら思っているのです(笑)。同様のことを、去る一月十二日の産経新聞「正論」で、長谷川三千子・埼玉大教授は『ホントは怖い「多文化共生」』と題して警鐘を鳴らされています。

 そもそも文化(文明)というものは、そう容易(たやす)く「共生」できるシロモノではないと私は思います。それは一朝一夕に出来上がったものではないからこそ、共生が難しいのだと言えます。しかしそれを、変えようと思えばすぐにでも変えられる、単なる生活習慣…程度のものとしか考えていないような学者先生がいるようです。文明、文化とは、そんな生易しいものではない筈です。それは、その存続をかけて「対立する存在」であり、機会あらば相手を駆逐しよう(飲み込もう)とする存在であると私は思います。だからこそ、古代の四大文明をはじめこれまでも繁栄と滅亡をみた文明が数え切れないほどあったのです。「異文化共生」が簡単なことならば今では世界中が一つの文化になっている筈です。困難さは現状世界の出来事を見ても容易に想像できます。コソボやガザ、あるいはチェチェンやチベットの悲劇を思えば、政府が「異文化共生推進プログラム」などと号令をかけて成功するようなシロモノではないことぐらい分る筈です。しかし、日本の学者先生はその点が非常に無神経、かつ、無責任です。自分の専門分野の理論補強の為には専門外の分野をいとも簡単に総括します。まさに異領域(文化)侵害も平気です。古来、「征服の論理」の西洋と「調和(共生)の論理」の東洋といえる程の相違が両者間にはあって、それが故に先の大戦前にはほとんどのアジア諸国が西欧帝国の植民地にされたのではなかったのでしょうか?容易く「共生」を唱える人は、歴史から何を学んだのでしょう。それとも、確信犯的に自己(他者?)利益に利用しようとしているのでしょうか?  

 

 私は、「異文化共生」を悪いことなどと言っているのではありません。我々自身にしっかりした意識が必要だと思うのです。それは「寛容と忍耐の共生」であって、自ずと「限界」を生ずるものだと言いたいのです。さらには、専ら相互の「善意を前提」にした「契約」であるとも思います。上記のような文明史を振り返らずとも、国際結婚を考えただけでも異文化共生の困難さは想像できる筈です。今、サミュエル・ハンチントンがひと昔も前に発表した「文明の衝突」が見直されています。原題は『The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order』(「文明の衝突と世界秩序の再構築」といい、東西冷戦構造が終結した後でもあり、大きな反響を呼びました。当然ながら、騒然たる賛否両論が沸き起こりましたが、当時は否定論者が優勢だったような気がします。文明とは成熟したものであり、互いが違いを認め合い共存できるのだ、というような性善説的な論調だったような気がします。しかし今、世界中でハンチントンの予言は正しかったと再評価されています。しかし、お人好し、というか、偽善者というべきか、「異文化共生」の夢物語を唱えることを止めぬ学者や評論家が日本には健在です。事例検証すれば分り易いでしょうか?戦前には日本の市中に「大麻」が蔓延するなどあり得なかったことです。十数年前、私がNYで知った事件がありました。日本の超有名私学K大の附属高校NY校で、寮内のみならず学校内で大麻事件が発覚し大騒動がありました。騒いだのは日系紙がほとんどで、米国では大麻など高校生間では日常茶飯事のことでした。そんな文化(?)が今、国内に蔓延しています。当該大学の大学生も最近逮捕されました。昔シンナー、今大麻…。国内の高校でも危ないと思います。覚醒剤絡みの摘発者は前年比8.1%減なのに、大麻絡みの摘発者は22.3%増なのです。よほどの緊張感と監視力をもっていないと「異文化共生」などお題目に過ぎないのです。

  

 文明の衝突を動物の生態系に例えるのはおかしいと言う方もいらっしゃるかもしれませんが、シミュレーションとしては分り易いと思います。宮崎県の博物館の専門家が我が目を疑うほどに驚いたことがあったという記事が目につきました。沖縄、台湾周辺にしか生息せず、本土には絶対いない筈のキノボリトカゲが日南市で発見され、その後の調査で海に突き出た岬周辺には、いるわいるわ…大変な数が捕獲されたという記事でした。また、従来、生態系を破壊すると賛否両論のある外来種ブラックバスも、「外来生物法」で一部の輸入、飼養、運搬、移殖を原則禁止としていますが、最早、その旺盛な繁殖は止めることはできません。その他にも、人間が安易にペットとして海外から持ち込み、飽きて捨てた動物が、日本の動物生態系に脅威をもたらしている例は数え切れません。結局、人間の文化も同じことです。異文化共生などと、高みからものを言って、気が付けば「軒先を貸して母屋を取られる」ことになる危険性が非常に高いのも現代日本の危うさと言えるでしょう。皆さんの近くの小学校を覗いてみてください。各教室に、クリスマスやハロウィーンの飾り付けが氾濫していても、七夕やお雛様の飾りは勿論、行事そのものも教えない学校が、あちらこちらに増えていることに気付かれることと思います。大人達がよほど注意深く、そして懸命に護る「意識改革」をしない限り、「異文化共生」という耳障りの良い「無責任さ」に妥協してしまうと、やがて、古来の日本文化は駆逐されていくのです。  

そして、いつか我が子が、一体「ナニ人?」という日が来る怖さを味わいたい方がいらっしゃるでしょうか?

 

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