今日の昼下がり、檀家総代さんのお宅に頼み事があって伺った際に、
「住職サン、これ読んだ??」
と苦笑いしながら、今日の新聞の朝刊を見せてくれた。
読者の投稿欄に「坊さんのお通夜での説教は不要」という内容の文章が載っていた。
実は、先月も1面のコラム欄に、新聞記者が書いた
「首をかしげたくなる坊さんの通夜での説教」というのが載っていた。
記者のコラムの内容は、
新聞に毎日、五木寛之さんの小説「親鸞」が連載されているけど、その中で、親鸞が「情感豊かに民衆に語りかけ、聴衆の心を掴んだ・・・・」とあるけれど、と前置きし、昨今のお通夜での坊さんの説教は、通りいっぺんで、型どおりで・・・もっと情感豊かな心に響く話ができないものか・・・・「釈迦に説法を承知で申し上げる」・・・・といった内容。
そして、
今日の読者の投稿は、「その記者のコラムの内容に全く同感!」
というもので、
「通夜は、布教の場ではなく、悼む場である」
「知人の通夜で、坊さんがエンエンと説教をし、遺族を参列者をしらけさせた」
「お経はBGMとして必要かと思ってたけど、今は、お経も説教も必要ないと心が変わった」
「お通夜を、故人を偲びながら、大切な想い出を語る時間にするために、坊さんはお通夜に不要」
「自分が亡くなった場合も、葬儀は坊さん不要に・・・、と今から夫婦で語り合っている」
(手元に新聞を見ながらこの投稿を書いていないので、以上は、おおよその趣意である。)
以上を、“50代の公務員”が書いていた。
僕は、このような内容を見ると、
「あ、この人とは会ったことないけど、こういう批判っていうのは、俺みたいな坊さんの事を指しているんだろうな・・・」
というふうに受け止めてしまうタイプなので、結構ヘコム・・・・。
実際、僕も、新米住職ながら、お通夜では、毎回とても緊張しながら、【お話】をさせていただく(「説教」という表現は使いたくない・・・) 「何、お前エラソウにしゃべってんだ?」みたいな空気や視線をバチバチ感じる場合もあり、
「もういや!!そんな目でみないで!!僕、お坊さんに向いてないのぉぉ~~~!!」
って逃げ出したい場合もある。実際にどんな話をどう表現すればいいのか、いつもコワイのである。
なので僕の場合、
高校などの体育館で生徒さんの前で「BOSANソングライターKONO」としてライブ(公演)をしたり、近隣のお寺に「布教」に行って「ご法話」をするよりも、実は、通夜での「お話」の方が、はるかに緊張するのだ。それくらい、その葬儀という「場」は僕にとって大きなテーマである。
常日頃から寺(ワタシ)とのお付き合いが親密にある檀家サンが亡くなった知らせを受けて、その葬儀でお経をあげながら泣いてしまうこともある。故人の顔を思い浮かべ、仏教の味わいと結びついて、「お話」に繋がっていけばいいのかもしれない。しかし、まったく知らない方の葬儀や、お寺の檀家であっても葬儀で初対面になる人もいる。そして、通り一遍の「お話」しかできなくて、冷や汗をかきながら「式場」を退場するのだ。。。
「もういや!!そんな目でみないで!!僕、お坊さんに向いてないのぉぉ~~~!!
だから、
記者の書いたコラムや、今日の50代公務員の投稿もよく分かるつもり・・。
でもなぁぁぁ~~~・・・・・・
もし、情感豊かに、故人をきちんと踏まえ、遺族や参列者をシラケさせない説教を坊さんがしたならば、OKなのですか?それじゃ、「坊さん」ではなく、自分の「好み」を見ているだけじゃないの??
まぁね、
こういう批判の文章を書く人が実際に会った「坊さん」はどんなヤツなのか、分からない。
でもね、こんな風にも考えられないかな?
コラムの記者が遭遇した坊さんの説教が「情感豊か」な語り口じゃなくても、もしかしたら他の参列者は、その話から何かを感じ、学んだかもしれない。
或いは、
50代公務員には「必要のない坊さん」であっても、もしかしたら、そのお寺の檀家の中には、坊さんと絶大な信頼関係があるお宅もあるかもしれない。
そもそも、お寺とは、仏教という「教え」に出逢う場である。そして、僧侶は、その「教え」を学び、伝える人である。(いや、僧侶が伝えるのではなく、遺族や参列者の皆さんが亡き人を偲びながら「教え」に会う、感じていただく、キッカケの一端を担う人かな?)
たとえ情感豊かに、遺族や参列者をシラケさせない説教を坊さんがしたとしても、そこに「仏法(おしえ)」が伝わっていかなければ、それは「仏教ごっこ」かもしれない。
やはり、以前もこのブログで書いたけど、
「はじめに教えありき」
という関係での「仏教徒」になっていないので、こういう「坊さん不信」が生まれるんだな。
2007年8月2日投稿「長谷川サン森サン。どっちがエライ?」http://minoyamakono.way-nifty.com/tomo/2007/08/post_a454.html
2007年10月2日投稿「永代経について思うこと。」http://minoyamakono.way-nifty.com/tomo/2007/10/post_2e5e.html
この50代公務員は、
「坊さん全般」が嫌いなのか?
それとも、
個人的にお通夜で遭遇したその「特定の坊さん」が嫌いなのか?
もし、
その人が今まで出会ってきた坊さんの「イメージ」が「好みに合わない」だけで、世の中の「坊さん全般」をすべて相手にして批判しているとすれば、
この僕・KONOも批判されていることになり、もし、話し合ったとしても、分かり合えることはないだろう。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」方式の考え方なら、仕方がない・・・。僕も、頑張りようがない。
どうぞ、今後も、坊さん批判をしながら、カッチョよく生きていってください、さようなら。お疲れさん。
結論
「始めに教えがない」のなら、
そして、
通常、お寺との関係が希薄で、「坊さん不信」が強くあるのなら、
ムリして、坊さんを呼ばなくていいのでは?
どんどん切り捨てちゃってください。
お坊さんも緊張して、精進するでしょうし。
ただ、
僕は、この50代公務員の投稿に
「通夜は、布教の場ではなく、悼む場である」
・・・・そうは考えていなくて、
「通夜(葬儀)は、亡き人を偲びつつ、仏法(教え)に出あう場」
だと考えているので、
今後も、教えに出あう為のキッカケ(ご縁)と願われ伝えられてきたお通夜での【お話】をやめるつもりはありませんし、やめません。
もちろん、
色んな方のご意見や批判を聴きながら、「どう表現するのか」「どう伝えるのか」を模索していきたいと思います。
そして、
目の前にいる大切な皆さんとの「つながり」を大事にしていきたいと思います。
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